kasekunさんのクチコミ(9ページ)全183件
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投稿日 2023年07月02日
総合評価:1.0
色塗り投稿です。
昨年夏の旅行は、当初の予定では、デンマーク→フェロー諸島→アイスランド旅行でした。
が、、、
7月の下旬の船でデンマークから行こうと思ってたのに、残念ながら満席。(この時期はお祭りがあるからか?)仕方がないので、次の便に予約(8月初旬)。となると、前半(7月下旬)はどうしようか?ということで候補となったのがグリーンランドでした。グリーンランドなんて物価が高くて行けない、航空券も高い!それを後押ししたのが実はコロナ。2年も行けなかった海外旅行。2年分の旅行代と考えれば、、、エイ!指は購入ボタンを押したわけです。
デンマーク→グリーンランド→フェロー諸島→アイスランド
でも、この時期のフェロー諸島は天候は悪い。3日滞在したのに、晴れの日は1日もなかった。
●到着日、、、夜22時、トースハウン港に到着。小雨の中、予約していたホテルへてくてく30分かけて、、、。
●2日目、、、朝から曇空、どんより、、、ホテルの朝食をガッツリ食べて、町を散策しようにも雨が、、、。それでも滞在が短いので小雨の中、近場のトレッキングを決行。ホテルへ戻って来ても体は冷えて布団にくるまっていた。夜はスーパーで買ってきたカップ麺、、。
●3日目、、、雨、、小雨がおさまった時を見計らい、歴史的建造物の残る南の村までトレッキング。吹きっさらしの山道は雨と風をもろに受けてもう嵐だった。行き交ったトレッカーは1組だけ。到着はできたものの、この雨のせいでデジカメは壊れてしまった。帰りは国道を通る。雨の中、途中車が止まってくれたが、せっかくここまで来たんだと、丁重に断る。
●最終日、、、アイスランドまでの船は夕方発。雨は降って無かったが、空はどんより。トースハウンの町を散策。
ということで、8月初旬のフェロー諸島の天気は良くない。レンタカーで回ったとしてもいい写真は期待できない。
でもこのお陰で、アイスランドで噴火した火山を見ることができた。不思議なものです、、、。- 旅行時期
- 2022年08月
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投稿日 2023年07月01日
総合評価:3.0
中国の色塗りは完了しましたが、自分自身の記録として。
35年前の中国。今じゃ考えられませんが、中国は本当に貧しかったのです。その中国を2ヶ月程かけて列車とバスで回ったメモです。
旅程
●釧路ー東京 フェリー
※当時はまだフェリーがあった。
●成田ー上海 中国国際航空
●上海ー蘇州 列車
●蘇州ー南京 列車
※当時、南京大虐殺を信じていた自分。この目で見ようと下車したが、なんだか人々の冷たい目線を感じ早々に南京を去った。
●南京ー泰安 列車
※始皇帝が封禅した泰山を登る、、。
●泰安ー洛陽 列車
●洛陽ー登封往復 バス
※当時、日本少林寺拳法部に所属していた自分。本場の少林寺を見に行った。まだ観光地化していなく、演舞などは見れなかった。
●洛陽ー西安 列車
※始皇帝陵等見に行けばいいのに、宿の外国人たちと話すことの方がおもしろく、ほぼ観光していない。
●西安ーウルムチ 列車
※このシルクロードの長距離に激安の硬座で3泊4日。今じゃ絶対できない。
●ウルムチーカシュガル バス
※新疆自治区、、当時はまだまだウイグル人たちに活気があった。ラグメンの美味しさを知る。
●カシュガルーウルムチ バス
●ウルムチー柳園 列車
●柳園ー敦煌 バス
※莫高窟を見に行ったと思うのだが、その記憶がない、、。行かなかったのかな?
●敦煌ーゴルムド バス
●ゴルムドー拉薩 中国旅行社で拉薩に行きたい外国人4人で車をチャーター。
★拉薩滞在
●拉薩ーシガツェ バス
●シガツェージャンムー国境 バス
→そしてネパールへ
→香港→マカオ→香港
※当時香港は7日間しかいられなかった。マカオに出国し再度香港へ。
→成田ーマニラー香港の1年オープンチケットを購入し帰国。
・当時中国は「メイヨウ!」の世界だった。上海で外国人用のデパートに行ったのだが、懐中時計が欲しくて、ショーケースにある物を指差して「見せて!」と頼んでも、店員さんは「没有!」。そこに有るじゃないか!全く働かない中国人民だった。働いても、働かなくても給料は同じ。社会主義体制をまざまざと感じた。
・当時、中国元は2種類あった。1つは人民元。もう1つは外貨兌換券。外国人は基本、外貨兌換券を使うことになっていたが、市場ではワイホイ1元は1.6人民元。ブラックマーケットが存在していた。列車も外国人料金が設定されていて、外国人は中国人民の3倍?程の高さ。、、、学生だった自分、中国人のふりをして人民元で1番安い硬座の票を手にいれていた。長蛇の列に並び、前の人に行きたい地名を読んでもらい、覚えた。そして窓口で「ダオ○○、イーガレン、インツォ」これでチケットゲット!顔がウイグル系なのできっと怪しまれずに切符を買えたのだと思う。
・今じゃ美味しい中華料理を食えるが、当時は、、本当に不味かった。油がギトギトで我慢しなきゃ食えない代物。「本場の美味しい中華が食える!」と思ってたのにがっかり。とりあえず麺料理を食い、しのいだ。
・列車旅はすごく楽しかった。硬座ばかりで乗車してたので、回りは本当に庶民ばかり。リーベンレンだと知ると、あれ食え、これ食え!と、、当時、喫煙も問題なくできたので車内は煙でもくもく状態。床は向日葵の種、カボチャの種でめちゃくちゃ汚いが、清掃員の車掌がぶっきらぼうに「足どけろ!」とカオス。それでも車両にあるお湯は飲み放題。マイカップとお茶っ葉(カップにお茶っ葉を入れお湯を注ぐ。そして上澄みをすする)で、雑談が盛り上がる。中国語は話せないが、漢字で筆談。いろんな中国語、ここで学んだ。一番覚えてるのが「十」。シュー?と発音しても、違う違う!「しゅー」難しい!
・ゴルムドで中国旅行社に行くと、4人集まればチベットまでの旅行許可証、車を手配できるとのことだった。宿で一緒だった自分を含め日本人3人、香港女性1人でこのツアー(現地解散)に参加?。途中泊まった宿では、高山病と寒さで頭痛、悪寒と毛布にくるまっっていたことだけは記憶に残っている。
★で、一番記憶にある拉薩での出来事。
当時拉薩はまだまだTibet人の地だった。今では漢族が占拠している状態となっているようだが、お寺に行けば五体投地のチベタンの姿が。川に行けば羊の皮で造られた船でチベット人の船頭が対岸まで渡してくれた。
ノルブリンカ、布達拉宮等見て回ったが、3月のチベットは見渡すかぎり青空で本当に「来てよかった!」、、、。で、行って見たいなと思ってた鳥葬の情報をゲット。どこでその情報をゲットしたのか、今では記憶にないが、ある場所で鳥葬が行われるとのことだった。これは見に行くしかない。宿で一緒だった方と2人でその場所に向かった。
遠くから見ていると確かにハゲワシ?ハゲ鷹?が空を旋回していた。徐々に近づいて行くと、、2、3名の方が、、、こちらに気づいたか?もうちょっと近づこう!、、、もう絶対気づいている。が、何の反応も無し。n、見に行っていいのか?で、さらに近づいて行くと、、、彼らが突然おこりだした!でっかい石をこっちに投げつけてくる!追いかけて石を投げつけてくる、、、もう、こっちも逃げる逃げる!幸い当たりませんでしたが、あんなでっかい石に当たったら、、、人生で一番逃げましたね。
遠くからなのではっきりとは見えませんでしたが、遺体を切り刻みハゲ鷹に与えていると思える仕草はわかりました。
若気のいたりで鳥葬を見に行きましたが、神聖な儀式に見ず知らずの外国人が望むなんて、今から思えば無礼千万でした。
メッカ訪問も、最近わかったのですが、逮捕ものの案件だったようです。自重しなければ、、、。- 旅行時期
- 1988年03月
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香港の思い出
投稿日 2023年06月02日
総合評価:3.0
4トラ色塗り投稿です。
香港に初めて訪れたのは今から35年も前。大学生の時。まだイギリス領だった頃。
中国旅行で予定を変更し、チベットからコダリ国境を通り、ネパールへ向かった。カトマンズから香港への航空券が安く、その時に寄ったのが初めて。当時は1週間しか香港滞在は許可されてなく、期限切れ間近にマカオへ出国、そして再度香港へ。
当時は若かった。日本では違法の無修正の◯◯本が堂々と売られてた。プレイボーイやペントハウス。これは!仲間にも見せてあげたいな!本当に若かった。こっそりリュックの奥底へ2冊程詰め込み、成田空港へ帰国。並んだ列の前の人は大きなトランク持ち込みでも全くスルー。大丈夫な気がしたが、やっぱり税関はプロフェッショナル。ドキドキの顔がバレてしまう。「これは何ですか?」 高々と掲げられてしまった。列の後ろにはうら若き女性達がいるのに。ウワー!わざわざ掲げなくてもいいのに。超恥ずかしかった。で、この後どうなるのか?、、別室に行って、その本の所有権を放棄する書類にサイン。それで済んだ。若かりし頃のはずかしい話でした。- 旅行時期
- 1995年04月
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投稿日 2023年05月31日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
グルジアへはアゼルバイジャン同様2度訪問。
1度目は中央アジア縦断の旅で、、、。20年ほど前、トルクメニスタンで盗難にあって資金がないなか、トルコ目指してアゼルバイジャン到着日にすぐに夜行列車でトビリシに向かった。VISAは持っておらず、、。何とかなるんでは、、。
トビリシ近くの国境に近づいた頃、役人が列車に乗り込んで来た。乗客のパスポートをチェックする。ビザ無しの自分、実はドキドキ。入国できなければこれからどうしよう?心配だった。「VISAは持っていない。何とかならないか?」正直に申告した。すると役人、「50ドル!」と。賄賂なのか正規料金なのかはわからないが、50ドル渡すと入国スタンプを押してくれた。フーッ!何日有効なのかもわからんちっちゃなスタンプ。でも、これでグルジアに無事入国。資金は残り少ないのでとにかく安いトルコへ急がねば、、、。
「トビリシまでは列車ならまだまだ時間がかかる。トルコなら、国境で降りてそこからまっすぐ乗り合いタクシーでトルコ国境まで行った方がいい。お金もそんなにかからない。」役人が教えてくれた。で、その通りに。ということで、1度目の訪問は本当に通り過ぎただけ。思い出されるのは、グルジアは水が美味しいということ。ドライバーが通り道で水を飲みに行く。いたる所に無料で冷たい美味しい水が出る公共井戸があった。「美味しい水だよ!」ドライバーは自慢げ。グルジアは水の国だということだけはわかった。もうひとつ、他の乗客にアルメニア人がいた。英語で親しげに話しかけてくれた。「アルメニアには行かないの?」「行きたいけど、VISAも持ってないし、、」「アルメニアは美しい所だよ。」彼はアルメニアへ通じる分かれ道で降りて行った。そしてバレ国境へ。
2度目は、コーカサス横断、そしてイラクまでの旅。詳細は、、、
●ドバイ→航空機→アゼルバイジャンバクー
●バクー→タクシー→世界遺産コブスタン往復
●バクー観光→夜行列車→トビリシ(ちょっとだけトビリシ観光)
●トビリシ→夜行列車→アルメニアエレバン
●エレバン→ミニバス→アルツァフ共和国ステパナケルト
●ステパナケルト→ミニバス→シューシ→トレッキング→アンブレラフォール→ミニバス→ステパナケルト
●ステパナケルト→ミニバス→アルメニアエレバン
●エレバン→バス→エチミアジン→バス→エレバン→ヒッチハイク→ガルニ神殿→タクシー→ゲガルド修道院→タクシーとバス→エレバン
●エレバン→ミニバス→アラベルディ
●アラベルディ→トレッキング→サナヒン修道院→トレッキング→ハグパット修道院→タクシー→アラベルディ
※2つの修道院はトレッキング可能
●アラベルディ→タクシー→アクタラ修道院→タクシー→ジョージアトビリシ
※トビリシまでのタクシーをホテルで依頼し、途中下車でアクタラ修道院へ。たしか40ドル程。
●トビリシ観光→夜行列車→ズグディディ→ミニバス→メスティア→ミニバス→世界遺産ウシュグリ観光→ミニバス→メスティア
●メスティア→ミニバス→クタイシ(世界遺産バグラティ大聖堂観光)
※バグラティ大聖堂はたいしたことはないかな。
●クタイシ→列車→バトゥーミ
●バトゥーミ→バス→トルコ国境へ
トビリシではアバノツバニの温泉に入浴。温泉ソムリエとしてはここははずせない。たしか、1時間程の貸し切りで3000円程だったかと。
本当はアブハジア共和国も訪れる予定だったが、この時は国境が閉ざされ訪問できず。が、いつかまた機会はあるでしょう。軍用道路も訪れていないし、、、観光資源豊富なうえに、水も飯もうまい。ジョージア、アルメニアはお薦めですね。- 旅行時期
- 2017年08月
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投稿日 2023年05月30日
総合評価:4.0
4トラ色塗り投稿です。
アゼルバイジャンは2度訪問。1度目は20年程前の中央アジア縦断の旅で、、、。トルクメニスタンのトルクメンバシからフェリーに乗り、カスピ海横断。バクーの港にたどり着いたが、、、当時はVISA無しでやって来たので、そこからがすんごく大変だった。
「◯◯の銀行に行って金を払い、そしてその証明書を持って◯◯の役所でVISAをゲットしなさい。」
船から降りると、すぐにその指示をもらった。なんだって!右も左もわからない旅行者にとってこれは難題だった。紙に書いてもらったものの、VISAゲットに四苦八苦。今ではどうやってこの難題をクリアしたのかすっかり忘れてしまったが、7日間のVISAをようやくゲット。観光はほとんどしていない。(乙女の塔と駅周辺のみ) 実は、トルクメニスタンで盗難にあってしまい、持ち金が1000ドルしかなかったからだ。しかもその1000ドルで日本へ帰国する航空券も買わなければならないという状況。食うものも我慢し、急いでイスタンブールまで、、、、。VISAをゲットしたらすぐにグルジアトビリシまでの夜行列車の切符を購入し、旅立った。グルジアVISAも持ってなかったんだが、、。
それから20年程、、2度目はコーカサス縦断リベンジ。ドバイからバクーへ飛んだ。空港でなんなくVISAゲット。しかも日本人は無料。なんという時代の変遷だろうか。20年も経つと全てが変わってしまう。20年前はくしゃくしゃの汚れたお札。駅も薄汚れた建物。線路へは勝手に自由に入れた。町並みも、、こんなにおしゃれな町だったっけ?
で、バクーではゆっくり観光。世界遺産のコブスタンも見に行った。この旅行でのアゼルバイジャンの一番の思い出は、、、。
拝火教寺院を見に行った。腹が減ったのでそのそばにあった飯屋?に入った。飯屋というか飲み屋というか、よくわからない店だったが、、、。この近くにはなんだかそこぐらいしか何か食べれるようなところはなかったので、そこに入った。
何か食える?英語で話かけるが、あまり通じていないみたい。が、酔っぱらいのお客さんが、、、。英語を話せた。どうやら常連客のようで、この店に入り浸っているような感じ。店員さんには何か邪魔者のような感じで対応されてたが、、。そのお兄さんが食べてた物を指差したら、店員さんに通訳?してくれた。俺は英語が話せるんだ!自慢気に。
そこからが面白かった。このお兄さん、酒も入ってたせいか、もう陽気、陽気!アゼルバイジャン人ってこんなに陽気なの?と思うくらい。昼間っから酒飲んでるってことはきっと仕事がないんだろうが、そんなことなんか気にしないっていう感じの人物。歌歌ったり、踊ったり、、、。ぶらっと入った店でこんなに楽しませてもらえるとは、、、。
バクーで退屈したなら、この拝火教寺院そばのお店お薦めです。きっとこの男性、今も入り浸ってると思います。- 旅行時期
- 2017年07月
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投稿日 2023年05月27日
総合評価:2.5
4トラ色塗り投稿です。
スイス訪問は1度だけ。東欧レイルパス2等で東欧各国を回り、次いでにスイスへ。ドイツ、スイス、ベネルクスの3ヶ国ユーレイルパスを購入し、スイスを回った。当時ユーレイルパスは年齢制限があり、高い1等しか購入できなかった。(今のグローバルパスは2等が購入できる)
旅程は
●オーストリアリンツ→列車→フェルトキルヒ→バス→リヒテンシュタインファドーツ(観光)→徒歩→シャーン駅→スイスブフス(ホテル宿泊)
●ブフス→列車→クール→列車→サンモリッツ→ベルニナエクスプレス→イタリアティラーノ→イタリア国鉄(別購入)→ミラノ→列車→コモ(ここからまたパスが使えた)→スイスインターラーケン
※ここの景色がすごくよかった。スイスが山と湖の国だということがよくわかる。
※夜中2時頃インターラーケンに到着。駅のベンチで3時間程仮眠。
●インターラーケン→列車→ブリーク→フィスプ→ツェルマット→ゴルナーグラート山岳鉄道→ゴルナーグラート(マッターホルンを眺める)→列車→ツェルマット→グレッシャーエクスプレスの路線→クール→チューリッヒ→夜行列車でオランダアムステルダムへ
列車のタイムスケジュールとにらめっこし、この2泊3日でスイスを列車で回った。
で、この旅で思い出されるのは、スイスの綺麗な景色ともう1つ、この列車の中での出来事。
1等車で回ってるともちろん乗客は少なく、ゆったりと素敵な車窓を見られる。ところが、有名処を通る時になると、2等車の方から素敵な風景を見ようと乗客たちがこの1等車に押し寄せてくる。おいおい、、、自分は気にしないが、周囲のヨーロッパの方々は渋い顔。押し寄せて来るのはアジアの方々。中国語を話してたんで中国の方かな?
おじいちゃんとそのお孫さん?が2等車から来たときだった。気になってたのか、1等車に座っていたヨーロッパの方がとうとう聞き出した。
Are you from China? Korea? Japan?
彼は答えた。I'm from Taiwan.
悪気もなく答えるおじいちゃん。ヨーロッパの方、文句言うのかな?と思ってたけど、何も言わなかった。
やっぱりアジア人をヨーロッパの方々は見分けつけられないんだと思った。そして、こういう姿はきっとヨーロッパの方に嫌悪感を抱かせるんだろうなと思ってしまった。- 旅行時期
- 2005年08月
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投稿日 2023年05月21日
総合評価:1.0
4トラ色塗り投稿です。
キルギス訪問は1度だけ。まだ独立して10年程の中央アジアの旅。VISAもよくわからない状態だった。ロシア旅行社でバウチャー(ホテルのみ)を頼んだものの、中央アジアのVISA関係は旅行社もわからない様子だった。(別紙のロシアVISAは取得)
中国烏魯木斉→国際列車→カザフスタンアルマトィ→バス→キルギスビシュケク→バス→カザフスタンシムケント→バス→ウズベキスタンタシケント→国際列車カザフスタン経由→ロシアモスクワへ。
航空機が北京経由だったので、北京のキルギス大使館を見つけ出しキルギスVISAを取得した。なんと100ドル。(現在は無料、、)カザフスタンVISAも取ろうと大使館を探し回ったが、見つけられなかった。まあいいか、何とかなるか?
あとから考えると、ロシアVISAを持ってた自分、中央アジア諸国のVISAはいらなかったのかも。カザフスタン入国では、キルギスVISAの上に入国スタンプは押され、ウズベキスタンでは入国スタンプは押されなかった。当時はロシアVISAがあればトランジットでの中央アジア諸国の入国はVISAなしでよかったのかもしれない。
さてビシュケクではやられた!地下道を歩いてると、簡単なギャンブル(カップにサイコロを入れて、ぐるぐる回し、さてどのカップに入ってる?という定番のギャンブル)をやっていた。どれどれ、と群衆に入って見てると、簡単簡単!あれだな!と指差してしまった。すると、このギャンブルを行う朝鮮系の若者(朝鮮語を話していた)が、正解!金をくれるという。遊びで当ててみただけだし、いらん、いらん、と言うが、いやこの金はお前のものだ!というではないか!ほー、じゃあもらおうかなと思ったのが間違いだった。
ただし、お前が掛け金を本当に持ってるのか、財布を確認する、、、と。若かった。素直に財布の中の金を見せてしまった。群衆もいることだし、、、。が、彼は財布の金を抜き取り、ダッシュで逃走、、、追いかけたものの逃げられてしまった。やられた!けっこう入れてた金が盗まれてしまった。
カザフスタンでは女性とデートでき、いいなあ中央アジアは、、と楽しんでいたのに、、クッソー!落胆していると、地元の男性が声をかけてきた。どうした?何があった?、、、金歯を入れたなんか悪そうな人相の男性。、、n、こいつもなんか悪そうだな。予感はあった。こんな時には酒でも飲もう!俺がおごってやるよ!彼は言う。もう、財布の金もないし、取られるものもないし、、。どこかからウォッカを買ってきて2人で飲んだ。けっこう酔ったが意識はあった。、、、自分のポケットをまさぐってくる男。やっぱり悪いやつだった。
独立して間もない中央アジア。当時は人々の生活も不安定だったのだろう。が、キルギスに本当にいい思い出はない、、。- 旅行時期
- 2002年07月
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ザパニーズは本当にいる!
投稿日 2023年05月19日
総合評価:1.0
4トラ色塗り投稿です。
ベルギーのホステルでの出来事。動画で、k国の人は、悪いことをすれば日本人のふりをする、、そんな映像を見たことがあった。まさかそんなことはいくら何でもしないだろうと思ってた。でも、、少しシチュエーションは違うが、そんな体験をした。
ベルギーブリュッセルでのあるホステル、、、。朝の簡単な朝食がついていた。食べに行くと、若者たちがいた。会話を聞いていると、どうも朝鮮語。k国の人もベルギーに旅行に来てるんだなと、何気に眺めていたら、、、。その若者たち、一口サイズの朝食によく出てくるバターやジャムをごっそりポケットにし舞い込んでいる。おいおい、それはダメだろ!と思ってたら、ホステルのスタッフがそれを見つけ激怒しだした!
HEY、JAP!!
、、、俺は日本人だが、コイツラは日本人じゃない!、、
言ってやりたかったが、若かったし、後でいざこざに巻き込まれるのも嫌なので、黙ってその様子を見ていた。
若者たちは怒られながら沈黙。
全くJAPは、、、。憤るスタッフに、このやろうとは思いつつも、ヨーロッパの人にとってはアジア人の区別なんかつかない。日本語か朝鮮語かなんかわからない。
結局、彼らは we are korean. とは言わなかった。
「悪いことをするときには日本人のふりをする」、、相手が間違えたわけで、ふりをしたわけではないが、日本人はそういうことを平気で行う人々だと思われてしまった。
悪いことをするときには、日本人のふりをする、、きっと本当のことなんではないかなと思ってしまった。- 旅行時期
- 2005年05月
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投稿日 2023年05月14日
総合評価:1.0
4トラ色塗り投稿です。
ガーナに派遣が決まり、派遣の前に中米を訪れようと、2009年冬に旅立った中米縦断の旅でのことです。
旅程は、、、
●千歳→アメリカン航空→成田→アメリカアトランタ
●アトランタ→航空機→メキシコカンクン
●カンクン→バス往復→チチェン・イッツァ観光
●カンクン→バス→世界遺産トゥルム遺跡観光
●トゥルム→バス→チェトマル
●チエトマル→バス→ベリーズベリーズシティ→フェリー→キーカーカー(現地マナティツアーに参加)
●キーカーカー→フェリー→ベリーズシティ→バス→グアテマラフローレス
●フローレス→ミニバス往復→世界遺産ティカル遺跡観光
●フローレス→バス→グアテマラシティ→アンティグア
●世界遺産アンティグア観光
●アンティグア→バス→グアテマラシティ→バスエルサルバドルサンサルバドル
●サンサルバドル→バス往復→世界遺産ホヤ・デ・セレン遺跡観光
●サンサルバドル→バス→ホンジュラス国境→バス→ホンジュラスコパン
●世界遺産コパン遺跡観光
●コパン→バス→テグシガルパ
●テグシガルパ→ミニバス→チョルテカ→ミニバス→ニカラグア国境→ミニバス→ニカラグアレオン
●レオン観光
●レオン→ミニバス→マナグア→ミニバス→グラナダ
●世界遺産グラナダ観光
★グラナダ→ミニバス→コスタリカ国境→バス→サンホセ
●サンホセ→国際バス→パナマパナマシティ
●パナマシティ観光
●パナマシティ→パナマ運河鉄道→コロン→バス→パナマシティ
●パナマシティ→航空機→メキシコシティ→アメリカアトランタ
●アトランタ→アメリカン航空→成田→千歳
★のニカラグアとコスタリカの国境、、今までたくさん国境を越えて来たが、ここの国境での滞在が一番長ーい長ーい1、本当にながーい1日だった。
昼12時頃この国境に到着。が、ずらーっと列をなしていた。後年、アメリカから陸路メキシコへ向かったが、反対側にはメキシコからアメリカへ向かう者たちがずらーっと列をなしていた。その時と同じ。きっと、パスポートを見せれば優先的に先に通してくれるのだろうが、その時にはそんな考えは持っていなかった。自分もその長い列に並ぶ。気温は、、もうあついあつい。小便もしたくなるが我慢我慢、、。少しもでも列を離れれば、、そんな熱気が、、。結局5時間程、、。コスタリカに入国できたのは夕方だった。
経済格差があれば、隣国から人は押し寄せてくる、、。この時本当に実感した。今までずっと日本は朝鮮人を強制的に日本に連れて来て働かせたと思い込んでいたが、きっと違うと思った。人々は少しでもよい暮らしをするために移動する、、、。半島よりずっと経済的に豊かだった日本。密航してでも日本に渡りたい、それが実情だったのだろう。- 旅行時期
- 2009年01月
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投稿日 2023年05月11日
総合評価:2.0
4トラ色塗り投稿です。
ガーナに青年海外協力隊として派遣されていた2年間。任期も残り3ヶ月となり、冬休み(地方の教育局派遣で小学校巡回のため)を利用し任国外旅行に旅立った。当時、ガーナに派遣された者の任国外旅行で行けるところは、イギリス、隣国ブルキナファソ、そしてマリの3ヶ国のみ。ただしマリは当分の間、危険情報が発出しており、行けない状態が続いていた。他の隊員はほぼイギリス旅行に行く。が自分は、、、。イギリスにならいつでも行けるはず。任国外旅行ではアフリカのブルキナファソ、マリに行ってみたい!常々そう思っていた。で、運良く、マリの危険情報も解除され、マリへの任国外旅行が認められることとなった。ただし、任国外旅行でバスでの出国は認められていない。陸路は危険との認識があり、航空機での出国しか認められていなかった。ガーナからブルキナファソまでの往復は600ドル程。マリまでなら往復900ドル程。イギリスなら往復1100ドル程。値段的にもみんなほぼイギリスを目指すのはこんな理由もあった。ブルキナファソなんかバスで行けば往復100ドルもかからず行けるのに。
ガーナのアクラでブルキナファソのVISAをとり、ブルキナファソ往復の航空券を購入し、JICAに旅行を申請し、旅立った。
その旅行での出来事だった。以前、ブルキナファソとの国境付近に派遣された仲間のところへ出掛け、国境までは既に訪れていた。ブルキナファソに入りたい!と、国境の役人にお願いすると、ちょっとだけならいいとのことで、仲間たちとブルキナファソのビールを飲みに行った。
今回の旅行では、ガーナ帰国時には、せっかくなのでブルキナファソの首都ワガドゥグからガーナ国境までミニバスで行って、またワガドゥグに戻り航空機でガーナに戻るという計画にした。
事件は、その時のガーナ国境からワガドゥグに向かう帰路のミニバスでのことだった。そのミニバス(ガーナではトロトロと呼ばれている)にはなんと牛2頭が屋根の上に縛り付けられ、同乗されることとなった。これがアフリカスタイル。窓側に座っていた自分。雨も降っていないのに、窓からはどしゃ降りの景色。、、、勿論それは牛のおしっこ。危なく引っかけられるところだった。
そこまではいい。が、大事件はここから、、。順調に走っていたはずのミニバス。でも、なんだか途中からふらふらのような走行。ん、なんかおかしい。と、思ってたらこのミニバスがワラの山の中へ突っ込んでいった。勿論ミニバスは横転。窓際に座っていた自分の側へ横転。ヤバい!すぐ脱出しなければ!以前、事故でバスが横転しガソリンが漏れ火災が発生し、数名が亡くなったというニュースがガーナで流れていた。脱出だ!と、思った時には遅かった。乗客たちが我先に我先にと、脱出を試みる。自分を踏み台にして、反対側の窓から脱出するのだ。結局、踏みつけられていた自分が一番最後に脱出。人間とは本当に恐ろしいものだ。命懸けの時には他人なんか関係ない。この時実感した。
幸い火災は起きず無事だったが、、、。
あとからドライバーが言うには、、上に載せた牛の重量でブレーキが全く効かなくなったんだとか。そこで車を止まらせるために、ワラの山に突っ込んで行ったんだと。
屋根の上に載せられていた牛2頭は死んでいた。危なく自分も死ぬところだった、、、。
その後、数時間後、代わりのミニバスがやって来て、無事ワガドゥグに戻れたが、その途中、ある牧場でミニバスは止まった。死んだ牛のことを話しに行ったのかは知らないが。そこで見た光景がすさまじかった。もう夜中。外は真っ暗。この真夜中に牛の屠殺が行われていた。男が刃物を片手に牧場にいる牛の頸動脈を切りつけていく。牛は泣きながら次から次へと倒れこんでいく。すごい光景だった。日本なら屠殺場で電気ショックで、人目にさらされることなく、、なんだろうけど、ここアフリカでは、真夜中に人目にさらされることなく、こうやって屠殺されているんだ、、、
一緒に見ていたガーナ人が自分に話しかけてきた。That's Africa!- 旅行時期
- 2010年01月
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投稿日 2023年05月08日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
中央アジアのカザフスタンには2度訪問。
当時は自由旅行は難しく、バウチャー旅行(ホテル、交通機関を全て予約しないとVISAが取得できない旅行)全盛の時代。ロシア旅行社で手配してもらった。
1度目。たしか1998年夏の旅行。
●千歳→航空機→中国北京経由(キルギス大使館でキルギスVISAを取得)→ウルムチ。
●ウルムチ→国際列車→カザフスタンアルマトゥイ
★アルマトゥイ観光
●アルマトゥイ→バス→キルギスビシュケク
●ビシュケク観光
●ビシュケク→バス→カザフスタンシムケント(タクシーで世界遺産ホッジャヤッサビー廟を訪問)
●シムケント→バス→ウズベキスタンタシケント
●タシケント→国際列車3泊4日→ロシアモスクワ
●モスクワ→航空機→成田→千歳
2度目。1999年夏の旅行。
●千歳→アシアナ航空→ソウル→カザフスタンアルマトゥイ
●アルマトゥイ→国際列車→ウズベキスタンタシケント
※その後、陸路、海路でトルコイスタンブールまで
カザフスタンで一番思い出に残ってる出来事は、1度目のアルマトゥイでの事。まだ若かりし頃、、、
アルマトゥイの町ををぶらぶら歩いて、疲れたので一休み。その時、立ちよったカフェでの出会いであった。
何気にジュースを飲みながら休んでいると、目があってしまった。自分と同じで1人ポツンと座っていた女性。ロシア系ではなくアジアカザフ系のかわいい女性。、、、すると、自分に話しかけてきた。が、もちろん言葉はわからず、、。英語で日本から来たことを話すが、通じてるのか通じていないのか?よくわからない。ヤポンスキーと、知ってるロシア語で話すと、何となくは通じたみたい。で、なんだか知らぬまにデートしようと誘ってるような、、、。あっちに池があるから2人でボートに乗ろうよ!(身振り手振りでのコミュニケーション)
なんだか知らないけど、推測するに、男にふられたみたいな様子で、少し寂しげな、、。渡りに船。こっちも1人旅で人恋しい、、。
で、ボートを借りて2人でデート。いやー、カザフスタンで女性とデートなんて、、ちょっと自分は照れぎみ。すると突然、彼女が服を脱ぎ出した!え、こんな真っ昼間に?なんと言う大胆な!胸はさらけ出され(さすがに下は脱がなかったが)、目の行き場に困ってしまう。何、いったい何?
、、、ドッボーン!!彼女は池に飛び込んだ。そして、、貴方も泳ごうよ!
さすがに泳がなかったが、、。失恋の気をまぎらわそうとしているのかも。
いやー、まさかカザフスタンに来て、こんなラッキーなことになるなんて。真っ青な晴天の下、池で素っ裸で泳いでいる女性は本当に絵になりますね。眩しくて、眩しくて、今でも忘れられない思い出です。
その後は、、、。- 旅行時期
- 1998年07月
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投稿日 2023年04月27日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
パキスタンには1度だけ訪問。たしか2016の夏の旅行で。
航空券は千歳発ニューデリーinウルムチoutの中国東方航空。8万円程。
旅行日程は
●インドのニューデリー入国。(アライバルVISAがとれたので楽チン!デリーの世界遺産をタクシーで観光)
●ニューデリー→夜行列車→アーグラー(世界遺産タージマハールと、もう一つ近くにある世界遺産をタクシーで観光)
●アーグラー→列車→ジャイプール(世界遺産)
●ジャイプール→夜行列車→ニューデリー→アムリッツァル(黄金寺院)
●アムリッツァル→バス→ダラムシャーラー→タクシー→マクロードガンジ
●マクロードガンジ(チベット亡命政府)観光
●マクロードガンジ→タクシー→ダラムシャーラー→バス→アムリッツァル
●アムリッツァル→バス→ワガー国境(セレモニー見学)→乗り合いタクシー→パキスタンラホール
●ラホール(世界遺産)
●ラホール→列車→ラワルピンディ→メトロ?(専用道路のバス)→イスラマバード
※イスラマバードにはユースホステルがあるので。
●イスラマバード→メトロ→ラワルピンディ→ミニバス→ディナ→ミニバス→ロータスフォート(世界遺産)→ディナ→イスラマバード
●イスラマバード→メトロ→ラワルピンディ→ミニバス→タキシラ(世界遺産)→列車→ラワルピンディ→イスラマバード
●イスラマバード→夜行バス→ギルギット
●ギルギット→ミニバス→カリマバード
●カリマバード(フンザ)観光
●カリマバード→ミニバス→アーリアバード→ミニバス→ススト
●ススト滞在
※タクシュクルガン行きバスが出発せず、数日ススト滞在。
●ススト→バス→中国タクシュクルガン
※外国人(日本人3名とアイルランド人1名)のみ4名だけ乗車可
●タクシュクルガン→割り勘タクシー→カシュガル
※700元を4名で割り勘。途中、車の乗り換えあり。
●カシュガル→夜行列車→トルファン駅→バス→トルファン
●現地ツアーのトルファン1日旅遊に参加
●トルファン→バス→ウルムチ
●ウルムチ→航空機→上海(空港乗り換え)→千歳へ
若かりし頃、中国旅行でカシュガルには訪れていた。そこでよく見かけたパキスタン人。いつかはパキスタンに行ってみたいな、クンジュラフ峠を越えてみたいなとの思いを、この旅でやっと果たせました。(クンジュラフ峠越えは、夏のみ可能。この時は2月、3月に中国を旅していたので、行きたくても行けなかったのです。)
さて、計画段階で悩んだのは、中国INにするかインドINにするか、、、で、結局、アライバルVISAが取れる航空券の安いインドIN中国outにしたものの、あとで大変なことになるとは思っていなかった。
パキスタンでの思い出は、、、
●国境セレモニー。あれはおもしろかった。簡単に言えば両国民の応援合戦。パキスタン側にいたので、ついついパキスタンを応援してしまう。コカ・コーラをおごってもらった。
●ラホールの町をてくてく歩き回ってたら、若者3名の車が止まってくれた。どこに行くんだい?ラホール近郊の駅に!(駅の様子を見たかったので)すると、送ってあげるという。ついでに、ラホールの町も案内してくれると。ラッキー!有名どころはもちろん、動物園なんかもつれてってもらい、さらにご自宅まで。大家族の家に。ただ、お父さんには、Facebookでの知り合いだということにしたらしい。親戚の子供がダンスが上手いというので、見せてとお願いしたら披露してくれた。今時の子供はやるなあ!
お礼に夕食をおごることにした。美味しいお店に連れてって!と頼んだら、名物チキンカライのお店へ連れてってくれた。ここはチキンカライ通り?と思うぐらい、鶏を飼っているレストランがひしめき合っていた。
フレッシュが美味しいらしい。その場で絞め、調理するという。確かに、うまかった。あれ以上のカレーは今だ食っていない。ラホールのフレッシュチキンカライ、お薦めです。「今度来たときには泊めてあげるよ!」ラホールでの滞在先も確保できました。
●世界遺産ロータスフォートに行ってみた。するとお土産を売るおじさんがすんごく嘆いていた。以前は日本人の団体さんがバスで乗り入れ、言い値でお土産をたくさん買ってくれていたんだとか。今じゃ、日本人が来なくなり、困ってると。たしかに、、今じゃ日本人はテロの影響でパキスタンは危険な国と認識されてるからな、、、。
●ギルギットで泊ったホステル。チェックインしようと入っていったら、従業員らしい人が昼飯を食べようとしているところだった。そしたらいきなり「飯くってけー」、、、。え、そんなサービスがあるの?と不思議に思ったが、あとから聞いたら、自分を地元の人と思ったらしい。というのは、この人、びっくり仰天、日本語ペラペラ。日本に行ったことがあるの?と尋ねてみたら、ないとのこと。日本語を独学で勉強したらしい。「変な言い方だったら、遠慮なく教えてください。」と、実に謙虚な方。夜にはこの方と日本語でおしゃべり。韓国人ツーリストが多い中、パキスタンの安ホステルで日本語でお話できるなんて! 是非、ギルギット滞在にはこのホステルで。ホテル名は忘れたけど、古い歩き方に載ってる一番安いホステルです。
●で、一番の忘れられない出来事は、帰れないかも、仕事に間に合わないかも、、、。スストでの中国行き国際バス。朝たどり着いてチケットを買いに行ったものの、、、なんと、ストライキ?かなんかで行けないとのこと。明日はあるの?と尋ねても、、、。自分と同じようにこのバスに乗る日本人旅行者に後で出会うのだが、2人とも困り果ててしまった。帰国便に間に合わない。最悪、またイスラマバードまで戻り、航空券を買い直すことになるかもしれない、
、。よくよく聞いてみると、中国からは入って来られるようだが、パキスタンから中国へはダメだとのこと。中国当局がテロを警戒しているのかも?よくわからず。確かに中国からはバスが来ている。で、明日に期待し待てどもやっぱりダメ。らちが開かない。そこで2人してバス会社に直談判。ボスもどうしたものか困っているようだったが、中国当局に交渉してみるとのこと。で、結局、、、。「地元の人には内緒にしてくれ!」とのことで、外国人だけが中国への帰りのバスに乗れることに、、、。なんだかモンゴル旅行の時と同じ展開。中国人ドライバーと日本人3名、アイルランド人1名だけのクンジュラフ峠国境越え。中国に行けることにはなり何よりだったが、、。寒い!標高4000m?しかも途中なんだか頭も痛くなり毛布にくるまっての国境越え。峠で一服しようにも、ライターの日は着かなく断念。
思い出に残るパキスタン旅行となりました。※mbiraさんがパキスタン旅行記にあげています。- 旅行時期
- 2016年08月
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投稿日 2023年04月26日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
サモアでパパさん、ママさんと別れ、次の訪問地トンガへ。当時は日付変更線がトンガとサモアの間で引かれており、サモアからトンガに来ると1日戻るという不思議な現象。(たしか、そんな記憶が、、違ったかも?)
で、もしかしたらまたタクシードライバーの家に居候できるかな?と淡い期待があったものの残念!
でも、ここでも不思議な出逢いが2つも!
①トンガタプの港に行って見ると、、、!あれ!あれは、、、。オロロン丸ではないか!
北海道に人が住んでいる離島は5つあります。(北方領土を除いて)その2つに焼尻島と天売島という小さな島があるのです。自分は実はその小さな島で生まれ育った訳なのですが、その島と本土羽幌町を結んでいたのがこの目の前にある定期船オロロン丸だったのです。近くまで寄ってみると、確かに日本語で羽幌→焼尻→天売との案内が船に書かれていました。昔、羽幌まで行くために何度も乗船したあの船だったのです。驚きました!きっと老朽化して売られ(あるいは日本の支援で)、はるばる海を渡り、トンガまでやって来たのでしょう。現役でトンガの離島航路として使われていたとは、、、。不思議な出逢いでした。
②トンガの見所はほぼタクシーで回り見納めると、、さて他に何する?またまたサモアのような状況。まだフィジーに行くまで2日ある、、。そこで、近場の離島エウア島に船で渡ってみました。てくてくてくてく島を散策。この日はトンガの民宿みたいな宿に一泊。ここで妊婦のおかみさんが作った夕飯を食べて(すごい量の晩飯でした。これでもか、これでもか!という感じで炭水化物たっぷりの夕飯。トンガの人の体が大きいのはきっと、、、)満腹となり、部屋で休んでいると、、、お客さんが来たよ!とのおかみさんの呼び声!え、俺にお客さん?いったい誰?出てみると、島の散策で昼頃に出会った地元の新婚さんだった。その時にはちょっとだけ話し、記念に写真をとっただけだった。(まだその時の英語力ではこれが精一杯)
いや~びっくり仰天!わざわざ訪ねて来てくれるとは、、、。どんな話をしたのか、今ではスッカリ忘れてしまったが、2人がこれからエウア島で暮らしていくんだという話をしてくれたことだけは覚えている。外で3人、トンガの綺麗な星空を見ながら日本のこと、トンガのことを語ってたんじゃないかな、と、、、。
今でもエウア島に住んでるのかな?オロロン丸もトンガで活躍してるのかな?
若かりし頃のトンガでの思い出でした。
トンガ観光局の話題ではないので、きっと削除されるかな?削除されてもどうやら色塗りは保持されるようなので、投稿します!- 旅行時期
- 1997年01月
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投稿日 2023年04月22日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
訪問した国をまとめて旅行記にすると、1ヶ所しか色塗りしないようなので、再びアイスランドの投稿です。
ホテル代が高いのでほぼ車中泊したアイスランド旅行。せっかくなので温泉に入ろうとやってきたのが Drangsnes Hot Pots。マップスミーで調べたら、この温泉を発見!ここは是非訪れようとはるばるやって来たのです。(一応、温泉ソムリエですので)
夜到着しましたが、誰もいないので、すっぽんぽんで入浴。いい湯加減でした。これで、暖まって車中泊。朝にも入浴。日の出と海を見ながら贅沢な朝風呂でした。ドネーションで入浴のようですが、まあ、それはレンタカー代に含めて、、、。
ただし、ここからレイキャビクまでの間にガソリンスタンドがなかなか見つけられず焦りました。ガス欠でもしたら大変でした。幸い、見つけられましたが、、(無人、クレカでガスを入れます。)
いい温泉です。是非アイスランドに行った際は訪れる価値アリです!- 旅行時期
- 2022年08月
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20年程前の北朝鮮旅行
投稿日 2023年04月13日
総合評価:2.0
4トラ色塗り投稿です。
今日は朝から大変だった、、本土へのミサイル到達?空襲警報を久しぶりに聞いた、、、。
当時は北朝鮮がミサイル開発、核開発なんてしているとは誰も思ってなかったはず。この4泊5日の旅行費用(15万程だったかなあ?)が軍資金になっているなんて、、、。
当時取れた夏の最大年休は10日程。どこか行けるところは?とネットで探した所、列車で行く北朝鮮旅行(中外旅行社)が目に止まった。北朝鮮に行けるの?問い合わせてみると、行けるとのこと。航空機で中国瀋陽まで行き観光、ツアーバスで丹東まで。そしてそこから列車で平壌まで。平壌、開城を観光し、高麗航空でまた中国瀋陽まで、、そんな日程だった。これで22万程。
自分の場合、もう少し日程があったので、これにまだ行っていない中国東北部(旧満州)の旅行を加え、
●千歳→大韓航空でソウル→北京→列車で長春。(旧満州国の遺構を散策)
●長春→列車で瀋陽。
●瀋陽の空港でツアーに途中参加。
帰りも
●瀋陽→大韓航空でソウル→千歳。
※瀋陽までの航空券は別で購入。
こんな旅行日程に変更し、ツアーに参加した。
この北朝鮮旅行に参加した者は全部で13名。どんな人が北朝鮮に来るのか話を聞いてみると、けっこうリピーターが多かった。アリランを見に来てるんだとか。個人旅行者はもちろん、年配のご夫婦もいた。会社社長も、、。
さて、この北朝鮮ツアーで印象に残ったことは、、、。
●案内人という北朝鮮のガイド2人は日本語ペラペラ。が、日本には来たことがないという。いったい誰に習ったんだろう?拉致された方々が関わってるんだろうか?
●最初に気を付けることを言われた。写真は自由に撮ってよい。が、自由な行動だけは気を付けてください。と。もし、従わなければあなたを拉致します、、、。冗談混じりに笑顔で話していたが、誰も笑わなかった、、。
●ケータイは空港入国時で取り上げられた。出国時に返却しますとのこと。確かに出国時にラップで巻かれた自分のケータイは戻された。
●平壌初日、偉大なる?将軍様の銅像に献花に行った。まさか、旅行者にまで強いるとは知らなかった。
●ホテルにあるお土産屋の値段表記はユーロだった。日本円でもいいとのこと。1円玉でもいいとのこと。外貨がよっぽど欲しかったのだろう。
●北朝鮮ウォンが欲しく、ホテルのフロントに尋ねたら、中国元からなら両替してあげるとのこと。10元を両替してもらい、人民が使ってる北朝鮮ウォンをゲット。(結局どこでも使わなかったが)
●夜、ガイドさんが気を利かせ、飲み屋(カラオケ?)に数名希望者を連れてってくれた。帰って来てからこっそり夜の町へ行ってみようかと思ったが、ホテルの外になにやら見張りがいる気配を感じ、あきらめた。
●平壌観光で意外におもしろかったのはサーカス。さすが共産圏。
●ホテルの食事には果物は出ない。きっと北朝鮮には果物よりトウモロコシの方が重要なのだろう。
●板門店ツアーにバスで行く途中、トイレタイムで初めて北朝鮮の人と会話した。トウモロコシを売ってたので、オルマエヨ?と聞いてみた。すると、小さな声でオーシプと答えてくれた。50ウォン、、北朝鮮ウォンは持ってるので買おうかなと思ってたら、案内人が50円と口をはさんできた。この様子から、どうやら人々は外国人と話をしては行けないのかも?そんな風に思ってしまった。(結局買わなかった)
※海外のトウモロコシは日本の美味しいトウモロコシとは違う。
●別のクチコミに書いたが、自由な板門店ツアーに案内人は誇りを持ってるようだった。「韓国のツアーの人をみてください。南では厳しい規制があるのです。」北で生まれ育った人々はきっと他の国がどういう状態なのか知らない。(これは日本でも言えるかも。日本から一度も出たことがない人たちはきっと世界の現状をあまり理解していない。日本がどんなに平和でいい国なのか、わかってない、、どうかな?)
●会社社長が帰りの航空機に乗ってなかった。どうしたんだろう?と聞いてみたら、帰りは国際列車で瀋陽に変更したんだとか。瀋陽で社長と再度合流。列車のスケジュールを調べこうしたんだとか。そうか、そんな手があったか!自分も乗っみたかった。(行きの列車はツアー客の専用車両だった)
●北朝鮮出国スタンプはパスポートではなく航空券の上に押された。みんなその航空券のスタンプをパスポートに押さえつけ写し取っていた。
今は政府の規制も入り、堂々とは北に観光旅行はできない。が、規制後でも調べたら北朝鮮系旅行社で参加者を募っていた。コロナ関連で鎖国状態は続いていたが、これからまた北ツアーは復活するかも、、、。自分は絶対もう行くつもりはないが、、、。- 旅行時期
- 2002年08月
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投稿日 2023年04月11日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
タイにはトランジットも含めるとたしか7回ほど、訪れています。
①25年ほど前の中国からのラオス旅行の後、そのまま兄貴とノーンカーイへ渡り、列車でバンコクへ。(これが初のタイ訪問でした。)
②翌年、タイから再度ラオスに渡り(アユタヤ、チェンマイ、メーソート(ミャンマーのタチレクに密入国)、チェーンコーン訪問)、カンボジアへ抜けようとしたのですが、カンボジア国境は高い賄賂を払うしか方法がなく断念。バンコクまで戻って航空機でプノンペン、そしてバスとバイタクでベトナムホーチミンへ。
③バンコクから列車でスンガイコーロック。そしてジャングル鉄道に乗るため、マレーシアのワカバルへ。
④バングラデシュに渡るため、バンコクでトランジット。
⑤ブータンに渡るため、バンコクでトランジット。
⑥ミャンマーに渡るため、バンコクでトランジット。
⑦東南アジア縦断旅行で、バンコクからアラヤンプラレートまで列車で。
この中で一番覚えてるのが②。カンボジア国境からバンコクに戻る途中、、、。
ウボンラチャターニーでの出来事。本当はここに来る予定もなく、カンボジアに行けなくなったためここに来ただけ。ラオスから国境を通ってここまで来たが、日も暮れはじめここに一泊するしかなかった。さてどうする?ホテルに泊まると金がかかる。(当時はそんなに余裕もなかった)よし、野宿だ!と決め、町中のお寺の近くのベンチで寝袋野宿をしていたら、お坊さんが、、、。うちのお寺に泊まりなさい!、、言葉はわからないが、なにかそんな風に言ってた気がした。ご厚意に甘え、お寺の中へ、、。すると、仕事が待っていた。といってもそんなたいした仕事ではないが、、、判子を押す、、若いお坊さんが仕事のやり方を教えてくれる。まさか、タイに来てお務めをすることになるなんて、、。でも、仕事を終えると食事が待っていた。お寺に住んでいる小間使い?の方たちと一緒に食事をした。豪勢では決してないが、なんだかおいしく感じた。布団を与えられ、無事就寝。朝ご飯もご馳走になり、お礼を言って寺を出た。
これがタイでの一番の思い出。写真(この時はまだデジタル写真の時代ではない)を見るたび思い出す。タイもまた仏教の国でした。- 旅行時期
- 2001年01月
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投稿日 2023年04月11日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。ラオスに色塗りしようとラオス旅行記を書いて投稿したら中国が色塗りされてしまいました。
再度、思い出せる出来事を、、、。
ラオスの人っておくゆかしいなあ、そんな印象があります。ルアンナムターからビエンチャンまで助けてくれ一緒だった人もそうだし、ビエンチャンで出会った方も、、、。
初のラオス旅行で、ちょっとだけラオス語を覚えました。①ヌーン、②ソーン、③サーム、④スィー、⑤ハー、⑥ホッ、⑦チェッ、⑧ペー、⑨カオ、⑩スィッp。それから100がローイ。それから、タオライ?ビエンチャンで毎日通っていたお店のおばさんが教えてくれたんです。これ、今でもとっても役立ってます。何てったって、タイ語とほぼ同じなんで、タイ料理のお店でも使えるので。グリーンランドに行った時はまあまあ安いタイ料理の店に通いました。覚えていたタイ語でいくらですか?と聞いてみると、驚くおばちゃん!どこから来たの?不思議と親近感が覚えるようで、次の日もその店に行ったら、メニューにない物も作ってくれました。
ビエンチャンで出会ったおばさんに感謝です。そのおばさんから教えてもらった言葉でもうひとつ覚えてるのが、カフェノム。すんごく覚えやすいですよね。ラオスのミルク入りコーヒーです。おばさんには気に入られ、昔のラオスのお札をいただきました。記念に!と。
タイ人も仏教徒が多いですが、ラオスの仏教の方がすんごく親近感を覚えてしまいます。今までの旅行から、、、。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 1999年01月
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インドの中の特別な地域
投稿日 2023年04月10日
総合評価:3.0
4トラ色塗り投稿です。
インドを訪れたのは3回。
①冬のブータン手配旅行をし、どうせならバングラデシュから陸路で行こうと計画。が、ダッカでのインドVISA取得は1週間かかった。で、プンツォリンからの入国は予定日に間に合わず失敗。仕方がないので、ちょっぴりブータンに密入国し、その後、シッキム州ガントクとダージリン、そしてダージリンヒマラヤ鉄道を利用してコルカタへ。
②リベンジ冬のブータン旅行は空路パロ入国で成功し、プンツォリン出国。そしてインドをちょびっと通過して東ネパールへ。帰りのカトマンズからもバスと列車でコルカタへ。
③インドVISAがアライバルで取れるようになり、ニューデリー入国。列車でアーグラーとジャイプールの世界遺産を見に行き、その後アムリッツァルの黄金寺院へ。そして、バスでチベット亡命政府のあるマクロードガンジへ。戻って来て、パキスタンへ。
行った中でのおすすめは、
①シッキム州。ここを訪れるには特別なパーミットが必要(今は知らないが)。1975年まではシッキム王国だった所。入境の際にチェックポストがあり、パーミットを調べられる。そしてパスポートにスタンプが押される。が、冬は寒い。※シッキム州ではないが、近くのダージリンは特に寒い。
②チベット亡命政府のあるダラムシャーラー(マクロードガンジ)。ここは法王ダライ・ラマが住んでいる本当のチベット世界。夏には避暑地として、そしてチベットの雰囲気を存分に味わえる。チベット料理も気軽に食べられる。泊まった宿のご主人に、30年前に拉薩を訪れた話をしてきたが、彼らが祖国に帰れる日はいつか来るのだろうか?- 旅行時期
- 2017年07月
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投稿日 2023年03月12日
総合評価:1.5
4トラ色塗り投稿です。(地球の歩き方口コミには既に投稿していた内容だが、閉鎖されてしまったので再度投稿)
当時、自分の住んでた所から稚内はすぐそこだった。そして当時は定期フェリーがサハリン、コルサコフまで運航していた。(往復4万円。今はないけど)これは行くしかない!休みも当時は10日間ぐらいしか取れなかった。
8月、コルサコフからユジノサハリンスク、そしてバスでホルムスク、ユジノサハリンスクに列車で戻りノグリキ、そしてバスで最北の地オハまで。
旧日本領見学、列車乗車が目的。そして人生発のチャリダーとなって折り畳みマウンテンバイクを携帯。
今は行けない?ロシア旅行はこれで4度目。
①新潟からハバロフスクに飛んで、そこから列車でモンゴルへ。
②中国から列車でカザフスタン、バスでキルギスタン、ウズベキスタンのタシケントまで行き、そこから列車でカザフを通りロシアモスクワまで。
③ラトビアのリガでロシアVISA70ドルを取得し、列車でサンクトペテルブルク、モスクワへ。
そして今回。(その後、韓国の東海からフェリーでウラジオストクに行ってますので、通算ロシア旅行は5回)
●初の自転車旅行はきつかった。ユジノサハリンスクまでアップダウンの50キロを自転車で、、。北海道ではチャリダーを良く見かけるが、これ程辛いものとは思ってなかった。(けつが痛くならないパンツを履いているなんて知らなかった)
で、途中、もうダメということでバス停野宿。携行自転車用バッグに潜り込み寒さをしのいだ。
●ホルムスクでは食堂で日本人?と思ってしまった英語を話す女子大生と話ができた。聞けば朝鮮系だという。ロシアが攻めこんで来た時、日本人は北海道へ逃げたが、朝鮮人は取り残されたと聞く。その子孫か?ここの市場ではキムチが売られていた。
●ホルムスクからは列車でユジノサハリンスクまで戻った。バスならあっという間に着くが、この日本人が作った遠回りの列車に乗りたかったのだ。朝4時出発、夕方ユジノサハリンスクに到着した。
●ノグリキ行きの列車にはそこそこ日本人観光客もいた。北緯50度、旧ロシアと日本の国境線を越えた。ノグリキからはオハ行きのミニバスに自転車を積み込み、一路のサハリン最北の町オハを目指した。オハは何もない寒い寒い町だった。(もう少し北に行けば油田がある)空は曇り、人々は夏にも関わらずコートをまとっていた。以前住んでいた釧路を思い出す。半袖着れるのは1週間、、、。
●オハからは航空機でユジノサハリンスクへ戻った。空港へ行けば乗れるはず、、ルーブルキャッシュでのみ航空券は買えた。たくさん両替しておいてよかった。
●樺太で美味しかったのはエビ。たまたまホテルで一緒になった会社社長と一緒に飲んだ。その時に社長が頼んだのがむきエビ。ただエビを塩ゆでしたものだが、酒のつまみには最高だった!その後、社長はロシア美人と、、、。旅行社にあらかじめ手配してたんだとか、、、。
樺太、、いつかまたと思ってたけど、ウクライナ情勢でこれからどうなるかな?北海道からは目と鼻の先。また平和になって、船で行けるようになることを願ってます。- 旅行時期
- 2005年08月
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投稿日 2023年03月12日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿ですね。
政府の規制が入る前、北朝鮮旅行に行きました。それから数年後、、、大韓航空で嫁とスリランカ旅行を楽しんだ後の帰国の途、朝4時ソウル着、夕方千歳発の大韓航空。このトランジットの時間がもったいなく、何か面白い所は?と探してみたら、板門店ツアーが、、。
以前の北朝鮮旅行で板門店は訪れていた。北朝鮮の案内人は「ほら、南側では服装まで指定されてるけど、こっちは自由だ!」と遠くに見える板門店ツアー参加者を指差しながら自慢げに話していた。確かに、韓国の板門店ツアー参加には色々注意書きがあるが、、、
。
ソウル到着後、すぐに、ベルトラで予約した板門店ツアー集合場所へ行き、このツアーに参加した。北側からは訪れたが、韓国側からはどうなってるのか?
で、やってしまった。南北会議をする一室がある。こっちは韓国、あっちは北朝鮮、その部屋だった。警備の軍人が立っている。その人と記念写真を撮ろうとした時だった。北の方では大変フレンドリーで密着した撮影に応じてくれた。その記憶があり、韓国側の方でも、、と思ってたが違った。そんなに近づくな!なんだか怒られてしまった。
これが逆なら納得できるが、??不思議だった。
帰るバスの中で日本語を話す女性ガイドが、日本に植民地にされ、それが南北分断に繋がったというような反日的な話をやんわりと語っていたが、、、
「これで北からも南からも板門店を訪れることができました」そんな話をするとガイドは驚いていた。韓国人は北朝鮮に行くこと自体が犯罪。それは驚くよな。
無事、帰国便にも間合い、板門店ツアーを終えました。- 旅行時期
- 2014年01月




