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さすらいおじさんさんのトラベラーページ

さすらいおじさんさんのクチコミ(71ページ)全3,789件

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  • 基本情報
  • 京街道(きょうかいどう)沿いの大きな灌がい池だった阪今池公園

    投稿日 2013年03月20日

    阪今池公園 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.5

    阪今池公園は阪今池を埋め立てて造られた枚方市立公園でで公園には名残の小さな池が残っている。
    砂場、遊具、広い広場があり、子供たちや家族連れが大勢訪れ春には花見客が談笑する場でもある。
    阪今池は江戸時代から大坂(大阪市)と京(京都市)を結ぶ京街道(きょうかいどう)沿いの大きな灌がい池だった。
    伏見・大坂間は淀川を利用した下りの舟運が盛んだったが、大坂からの上り客は京街道(きょうかいどう)を利用する人が多かったそうで京阪電鉄が1910年(明治43年)4月に天満橋駅 - 五条駅間が開業するまでは京街道を歩く人で阪今池周辺も賑わったとのことだ。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 浄土真宗の師を招いて築いた寺内村、招提(しょうだい)村

    投稿日 2013年03月20日

    招提村 出屋敷 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.5

    招提(しょうだい)村は天文12年(1543年)河内国牧郷内の荒地に浄土真宗の道場が建てられ、寺内村として成立したもの。
    寺内村の領域は東西30町・南北20町に及ぶ広大なもので土塁を築いたり堤を作って水を貯めたり木戸を設けて通行の監視などを行っている。石山本願寺合戦の時には表面上織田信長に服従したように装い、実際は本願寺に通じて難を逃れたが天正10年(1582)本能寺の変後、明智光秀に味方したため寺内不入りの特権を剥奪され一般農村になった。
    江戸時代の領主の変遷は細分化された領地で領主も頻繁に代り複雑を極めた。
    文禄3年(1594年)と推定される検地帳によると家数62軒、寛永21年(1644年)地詰帳によると家数57、文政5年(1822年)の村明細帳によれば、村領は東西15町・南北13町で、集落は東西3町・南北3町半であり、家数104。文久3年(1863年)の村明細帳では家数119・人数443だった。
    農業を主体とした生活基盤は明和3年(1766年)の稲作は70町5反・綿作は8町2反・雑毛作が14町4反であり、酒造業・絞り油業・素麺業が行われておりいた酒造業・素麺業は現在も枚方・交野地域で受け継がれている。
    招提の町並は細い道路が不規則に通っていて、家屋も切妻造り、入り母屋造り、2階建て、中2階建てが入り混じった完全な農村集落であった。
    有名な奈良の唐招提寺の寺名の「招提(しょうだい)」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われており、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いであるとのことから推測すると、招提村の名の由来は浄土真宗の師を招いて築いた寺内村ということなのだろう。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 古墳時代から中世までの複合遺跡、日置山遺跡

    投稿日 2013年03月18日

    日置山遺跡 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.5

    日置天神社(ひおきてんじんじゃ)は菅原道眞を祭神とする大阪府枚方市招堤南町の神社だが神社由緒説明によると日置天神社(ひおきてんじんじゃ)の場所は日置山遺跡だったそうだ。日置山遺跡は日置天神社境内とその周辺でタニシの貝塚として知られていたが、昭和57年の発掘調査により、中世の貝層をはじめ、溝・土坑などが確認された。日置郷の開発のために破壊された古墳(方形墳)と考えられる遺構を検出した。日置山遺跡は古墳時代から中世までの複合遺跡で、周辺には日置千軒と伝えられる繁栄の跡が眠っているものと思われる。日置山遺跡の周辺には田園風景が残っている。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 惟喬親王(これたかしんのう)ゆかりの日置天神社(ひおきてんじんじゃ)

    投稿日 2013年03月18日

    日置天神社 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.5

    日置天神社(ひおきてんじんじゃ)は菅原道眞を祭神とする大阪府枚方市招堤南町の神社。
    神社由緒説明によると日置天神社(ひおきてんじんじゃ)の場所は日置山遺跡だったそうだ。
    日置天神社には、惟喬親王(これたかしんのう、844―897年)が交野ケ原で遊猟したとき、愛鷹の姿が見えなくなったので日没を惜しんで『日を止め置かせ給え』と天神に祈願したという伝承がある。中世この付近は東高野街道筋に発達した集落(日置郷)として賑わい、社寺が甍をきそっていたが南北朝期の動乱に際したびたび戦禍に見舞われ、十四世紀中頃には民家・堂塔ともに灰燼に帰したと伝えられる。その後十六世紀中頃、真宗八世蓮如の六男・蓮淳を招いて寺内村(招提寺内村)として再開発しており、寺内鎮守として再建したと伝える、とある。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 豊臣秀吉が乙御前(おとごぜん)を住まわせたとされる御茶屋御殿跡展望公園

    投稿日 2013年03月18日

    御茶屋御殿跡展望公園 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:4.0

    大阪・枚方市の意賀美神社(おかみじんじゃ)に隣接する御茶屋御殿跡は、豊臣秀吉が寵愛する枚方城主本多内膳正政康(ほんだないぜんのかみまさやす)の女「乙御前(おとごぜん)」を住まわせたと伝承される建物。江戸時代の御茶屋御殿は大名の休泊として使用されていたが、1679年の火災で全焼した。跡地は幕府の用材を調達する御林として残され、現在は淀川を望む御茶屋御殿跡展望公園として整備されている。
    御茶屋御殿あたりにあったとされる万年山古墳(まんねんやまこふん)は、前方後円墳であったと推定される古墳。1904年に銅鏡8面が出土して古墳の存在が明らかとなっている。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 古墳時代前期の万年寺山古墳がある意賀美神社(おかみじんじゃ)

    投稿日 2013年03月18日

    意賀美神社(おがみ神社 枚方市) 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:4.0

    意賀美神社(おかみじんじゃ)は、大阪府枚方市万年寺山(まんねんじやま)にある神社で万年寺山の緑陰(まんねんじやまのりょくいん)は枚方八景のひとつとされる見晴らしの良いところにある。境内には約100本の梅の木が植えられており、梅の名所となっている。意賀美神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土している。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 枚方八景のひとつ万年寺山の緑陰(まんねんじやまのりょくいん)

    投稿日 2013年03月18日

    万年寺山 寝屋川・枚方・交野

    総合評価:4.0

    淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを見おろしこんもりと突き出た丘が万年寺山で摂津・丹波の山、淀川を一望に見渡せる。
    京阪二都のちょうど中間にありこの丘の上にある意賀美(おかみ)神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土している。言い伝えによると、推古天皇(592~628)の時代、高麗(高句麗)の僧・恵灌(けいかん)が、この地の風景を愛で、眺めが唐の林岸江(りんがんこう)に似ているとして、草庵を営んだのが万年寺のはじまりとのこと。

    旅行時期
    2012年03月
    アクセス:
    3.5
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0

  • 無料貸室の利用もできる淀川河川公園の庭窪レストセンター

    投稿日 2013年03月17日

    淀川河川公園 庭窪レストセンター 門真・守口

    総合評価:3.5

    淀川河川公園にある庭窪レストセンターは河川環境管理財団大阪事務所が管理を受託している施設で、テニス・野球の運動施設の利用者や庭窪浄水場の見学に来た小学生が休憩する拠点にもなっている。無料貸室の利用もできる。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 大阪府下で最古の絵画土器が出土した森小路遺跡(もりしょうじいせき)

    投稿日 2013年03月17日

    森小路遺跡 大阪城・京橋

    総合評価:3.5

    森小路遺跡(もりしょうじいせき)は大阪市旭区新森の新森中央公園にある1930年にこの付近で発見された弥生時代の集落遺跡。新森中央公園の周辺300~400メートルの地下約1メートルに、住居跡や墓、土器や石器が大量に発掘され森小路遺跡と名づけられた。セタシジミを主とした貝類のほか、描かれた線画が大阪府下で最古の絵画とされる土器なとが出土している。
     最近の調査では、奈良時代から中世にかけてのものも発見される複合遺跡であることが判明した。ここは標高3m以下で、市内における最低平地遺跡として注目されているそうだ。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 紀貫之の土佐日記にも記述された場所にある高瀬神社(たかせじんじゃ)

    投稿日 2013年03月17日

    高瀬神社 門真・守口

    総合評価:3.5

    高瀬神社(たかせじんじゃ)は、大阪府守口市にある神社で社伝では聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座したものとされる。行基は高瀬付近で高瀬川(淀川旧流)に架けた高瀬大橋、橋を管理する高瀬橋院を建立したとされる。また高瀬神社の宮寺として高瀬寺が建立されている。高瀬とは浅瀬の意で、紀貫之の土佐日記にもこの近辺で淀川の水位が下がり、船待ちをした旨の記述があり古代から水運で栄えた場所だった。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 水火除難の守護神、野江水神社

    投稿日 2013年03月17日

    野江水神社 大阪城・京橋

    総合評価:3.5

    野江水神社は1533年、三好宗三(政長)がこの附近に榎並築城の際水害を被ったので、水波女大神を水火除難の守護神として城内に祀ったのが現在の社殿の位置と言われている。1583年、豊臣秀吉も大阪築城に際し水火除難の守護神として水波女大神を祀り国家泰平を祈願したをいわれている。1702年の大洪水では一面水海と化し住民が困窮していた時に快晴の祈願をしたところ雨がやみ洪水は減退したと伝えられている。1803年の大洪水にも当神社は無事であったと榎並八箇洪水記に絵で記録されている。現在の社殿は1883年の造営後修築を重ねたもの。三好 政長(みよし まさなが、1508−1549年)は三好勝時の次男で官位は越後守、後に出家し半隠軒宗三と称した。従甥にあたる惣領・三好元長とは仲が悪く、主君の細川晴元に讒言して一向一揆を起こさせて元長を討つ。以後木沢長政・茨木長隆らと共に晴元政権の重鎮となり、榎並城主として室町幕府料所河内十七箇所を元長に代わって代官として統治した。しかし1549年に元長の嫡男・長慶と河内十七箇所の代官職をめぐって対立、主君の晴元を味方に引き入れるのには成功したが六角義賢の援軍が到着する前に長慶と摂津中島の江口で合戦し討死した(江口の戦い)。これによって長年に渡って幕政を担ってきた細川政権は一挙に崩壊し消滅する。三好 政長は茶人としても著名で、天下三肩衝の1つ新田肩衝を所有し宗三と号した。後に今川義元や織田信長が所持した名刀左文字は、元来三好政長の所有物だったので宗三左文字とも呼ばれる。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 両国国技館よりも大きかった大阪関目国技館

    投稿日 2013年03月16日

    大阪国技館跡と元相撲茶屋 大阪城・京橋

    総合評価:3.5

    大阪国技館(おおさかこくぎかん)は、かつて大阪府大阪市に存在した相撲興行施設で1919年大阪市浪速区恵美須東のルナパーク南側に、大阪相撲を中心とした興行開催を目的にオープンしたが大阪相撲は衰退期を迎えて1925年の本場所を最後に大阪相撲は相撲興行は中断。跡地(フェスティバルゲートの北側に隣接する駐車場)に石碑が残るのみ。1937年3月、東西の相撲興行が統一、双葉山の登場により相撲人気が高まった背景を受け、現在の大阪市城東区古市に4階建ての洋風ドーム建築で収容人員25000人の当時の両国国技館よりも大きい施設が完成、大阪大国技館とも大阪関目国技館とも呼ばれ、大阪市浪速区の大阪国技館と区別されている。
    しかし、オープン間もない1941年には戦局の悪化から相撲興行が中断、結果的に4年で7回の準本場所を開催しただけで建物は軍需工場に転用された。戦後は進駐軍が接収、1953年に大阪場所として興行が再開された頃には既に建物は解体されていた。現在、大阪関目国技館があった場所は住宅地となっており、案内板を除いて往事を伺えるものは残されておらず付近にあった相撲茶屋の建物ももう取り壊されている。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 「心中天の網島」の小春と紙屋治兵衛の大長寺(だいちょうじ)比翼塚

    投稿日 2013年03月16日

    小春 治兵衛の比翼塚と鯉塚 大阪城・京橋

    総合評価:3.5

    大長寺(だいちょうじ)は大阪市都島区にある浄土宗の寺で浄瑠璃「心中天の網島」で知られる小春と紙屋治兵衛の比翼塚がある。
    心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃で1721年、大坂竹本座で初演された全三段の世話物。
    実際に起きた紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。
    紙屋の治兵衛は二人の子供と女房がありながら、曽根崎新地の遊女・紀伊国屋小春のおよそ三年に亘る馴染み客になっており、見かねた店の者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策するが小春と治兵衛は二度と会えなくなるなら共に死のうと心中の誓いを交わした。小春は侍の客と新地の河庄で「馴染み客の治兵衛と心中する約束をしているのだが、本当は死にたくない。治兵衛を諦めさせて欲しい」と頼む。突如格子の隙間から治兵衛の脇差が差し込まれた。侍は治兵衛の手首を格子に括り付け治兵衛の恋敵・伊丹の太兵衛が治兵衛と小春を争う姿を嘲笑する。侍の客は侍に扮した兄の粉屋孫右衛門だった。小春に入れ揚げている治兵衛に堪忍袋の緒が切れ、曽根崎通いをやめさせようと小春に会いに来たのだった。治兵衛は小春と別れる事を決めて小春から起請を取り戻した。しかしその中には治兵衛の妻・おさんの手紙も入っており、真相を悟った孫右衛門は密かに小春の義理堅さを有難く思った。
    それから10日後、治兵衛の叔母と孫右衛門が小春の身請けの噂を聞いて治兵衛に尋問しに紙屋へやって来たが身請けしたのは恋敵の太兵衛だという治兵衛とおさんの言葉を信じ、叔母は治兵衛に念の為と熊野権現の烏が刷り込まれた起請文を書かせると安心して帰っていった。しかし叔母と孫右衛門が帰った後、治兵衛は炬燵に潜って泣き伏してしまう。心の奥ではまだ小春を思い切れずにいたのだ。そんな夫の不甲斐無さを悲しむおさんだが、「もし他の客に落籍されるような事があればきっぱり己の命を絶つ」という小春の言葉を治兵衛から聞いたおさんは彼女との義理を考えて太兵衛に先んじた身請けを治兵衛に勧める。商売用の銀四百匁と子供や自分の着物を質に入れ、小春の支度金を準備しようとするおさん。しかし運悪くおさんの父・五左衛門が店に来てしまう。日頃から治兵衛の責任感の無さを知っていた五左衛門は直筆の起請があっても尚治兵衛を疑い、おさんを心配して紙屋に来たのだ。当然父として憤った五左衛門は無理やり嫌がるおさんを連れ帰り、親の権利で治兵衛と離縁させた。望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ赴く。小春に会いに来たのだ。別れた筈なのにと訝しがる小春に訳を話し、もう何にも縛られぬ世界へ二人で行こうと治兵衛は再び小春と心中する事を約束した。
    小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かう。そして二人は俗世との縁を絶つ為に髪を切った後、治兵衛は小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、首を吊って心中した。心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は治兵衛、小春の悲恋話だが不憫なのはぐうたら亭主をどこまでも支えようとする女房おさんだ。身勝手な亭主にここまで尽くす女性が果たしているのだろうか。女房おさんは近松門左衛門の理想とする女性像なのかも知れない。

    心中天網島は1969年には、篠田正浩監督により映画化された。治兵衛には二代目中村吉右衛門、小春・おさん二役に岩下志麻を起用し、通常の劇映画と異なる実験的な演出で人形浄瑠璃や歌舞伎の雰囲気を色濃く漂わせる作風となっている。
     大長寺はもとは現藤田美術館のところにあった。その土地は豪商藤田伝三郎の邸宅用地として買収されたため現在地に移った。大長寺の山門は、もとの位置に美術館正門として残っている。
     大長寺の近松「心中天網島(てんのあみじま)」の小春・治兵衛の比翼塚は2人を哀れむ人たちによって建てられた。藤田伝三郎が1912年に大長寺の敷地を買収した際、大長寺は北に300mほどの現在地に移転した。このとき小春・治兵衛の比翼塚も現在地に移転している。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 大阪経済の基礎を築いた藤田伝三郎邸宅跡、藤田邸跡公園

    投稿日 2013年03月16日

    旧藤田邸庭園 大阪城・京橋

    総合評価:4.0

    藤田邸跡公園はに遺されていた庭園遺溝を修復し、毛馬桜之宮公園の一部として再生されている。広大な敷地に現在の市長公館や藤田美術館、太閤園にあたる部分等に豪邸を構えていた。その本邸跡に築山や石積みなどの当時を忍ばせる庭園の一部が残っていた。
     藤田伝三郎は、明治初期より関西実業界の中心人物として活躍し、大阪経済の基礎を築いた人物で、造園趣味家でもあり武者小路千家の茶道を修め、邸内に茶室や花畑を設けて自ら花を生けるという、当代を代表する文化人でもあったといわれている。大阪の庭師、梅園梅叟(ばいそう)が作庭した庭園は、平坦な地形に起伏に富んだ地形を人工的に作り出し、築山、滝、流れ等で構成されていた。本邸跡は長年放置され植物に覆われていたが、豪快な石組みなどが遺されていた。これらを現在の造園技術によって復元している。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 世界の貨幣の歴史を紹介している造幣博物館(ぞうへいはくぶつかん)

    投稿日 2013年03月16日

    造幣博物館 キタ(大阪駅・梅田)

    総合評価:4.0

    造幣博物館(ぞうへいはくぶつかん)は、造幣局本局構内にある博物館で1969年に開館。
    煉瓦造の建物は1911年築の旧造幣局火力発電所の施設を再生利用したもので 大判・小判・丁銀・貿易銀・皇朝十二銭など日本の貨幣を中心に外国貨幣や勲章・メダル・工芸品など約4000点を展示し、貨幣の歴史を紹介している。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    展示内容:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5

  • 名古屋城の金鯱も製作した造幣局(ぞうへいきょく)

    投稿日 2013年03月16日

    造幣局(工場見学) キタ(大阪駅・梅田)

    総合評価:4.0

    独立行政法人造幣局(ぞうへいきょく)は、硬貨の製造、勲章・褒章、金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業を行う日本の機関。
    本局は大阪市北区天満にあり、構内に造幣博物館がある。創設された1871年から貨幣を鋳造するために発生させたガスの余剰分を利用し工場内、近隣周辺に日本で初めてガス灯を点灯している。この造幣局では、東京オリンピックや長野オリンピックの金・銀・銅の各メダル、名古屋城の金鯱なども製作された。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 造幣局の応接所だった泉布観(せんぷかん)

    投稿日 2013年03月15日

    泉布観 キタ(大阪駅・梅田)

    総合評価:4.0

    泉布観(せんぷかん)は、大阪市の大川沿いにある大阪府で現存する最古の洋風建築で国の重要文化財。1871年にトーマス・ウォートルスの設計で造幣寮(現在の造幣局)の応接所として建設され1872年に明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名されたとのこと。1917年に大阪市に移管され、1956年に国の重要文化財に指定された。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 大塩平八郎の私塾、洗心洞跡の碑

    投稿日 2013年03月15日

    洗心洞跡碑 キタ(大阪駅・梅田)

    総合評価:3.5

    大塩平八郎(おおしお へいはちろう、1793−1837年)は、江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所与力だった。1837年に大塩平八郎の乱を起こしたことで知られている。
    奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴き西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めたが腐敗した奉行所内では大塩に反発するものも多かったが、上司の東町奉行高井実徳の支持を得て正義を貫いたそうだが役人の腐敗は国、時代を問わない課題だ。1830年の支持者高井実徳の転勤で与力を辞し、陽明学を学び自宅で洗心洞という私塾を経営し頼山陽などとも交際を持った。
    大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、旗本が出兵した戦としては島原の乱(1637−1638年)以来、200年ぶりの合戦だったが前年の1836年までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。
    大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し得た資金を持って救済に当たっていたが奉行所は「売名行為」とみなし大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。
    利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。
    天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。
    大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文が幕府に届くことを期待したが告発文は箱根の関で発見され、押収されてしまう。
    失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(現西区靱油掛町付近)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代土井利位(古河藩主)に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。

    旅行時期
    2012年02月
    アクセス:
    3.5
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  • 日本最大最古の陸軍軍人墓地、真田山陸軍墓地

    投稿日 2013年03月15日

    真田山陸軍墓地 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    三光神社の近くにある真田山陸軍墓地は1871年に帝国陸軍によって設立された日本最大最古の陸軍軍人墓地。陸軍創始者大村益次郎は世襲制武士軍団ではない近代陸軍の創設を大阪から着手すべく、大阪城周辺に兵学寮、兵隊屯所、造兵寮、衞戍病院などを設立、1871年日本最初の徴兵制が実施され併せて設立されたのが真田山陸軍墓地。
    墓石の大きさ、素材、敷地の広さは階級ごとに異なる。将校の墓は遺族が建立した上質な花崗岩製で、墓というよりは巨大な記念碑のようで風化の兆候はほとんど無い。しかし多数を占める捕虜、軍役夫、兵卒、下士官の墓石は和泉砂岩製で風化が激しく崩壊したものもある。
    15077?の広大な敷地に5300基余りの墓石が整然と並んでいるがほとんどは日露戦争以前のもの。以降、日中戦争、太平洋戦争と時代を下るに従って戦死者数は増加の一途をたどり、もはや個別の墓では対応できなくなっていたそうだ。第二次世界大戦末期の1943年に建設された仮忠霊堂には4万3千柱もの遺骨が納骨されている。

    旅行時期
    2012年02月
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  • 真田幸村の抜け穴が残る三光神社(さんこうじんじゃ)

    投稿日 2013年03月15日

    三光神社 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:4.0

    三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にある天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀っている反正天皇の時代の創建と伝えられる神社だが真田幸村(さなだ ゆきむら=真田 信繁・さなだ のぶしげ)ゆかりの神社として知られている。
    創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目とのことだが、鎮座地の丘は宰相山とも真田山とも呼ばれかつては大坂城の出城・真田丸が置かれ、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から三光神社の場所まで抜け穴を掘った。その跡が社殿の下に残っており境内には真田幸村の像がある。真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の役のうち、1614年に発生した大坂冬の陣における戦いの一つ。江戸期以降、講談や小説などで、真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら=真田 信繁・さなだ のぶしげ)として取り上げられ、広く知られることになった。

    旅行時期
    2012年02月
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さすらいおじさんさん

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