大塩平八郎の私塾、洗心洞跡の碑
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- 旅行時期:2012/02(約14年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
キタ(大阪駅・梅田) クチコミ:257件
大塩平八郎(おおしお へいはちろう、1793−1837年)は、江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所与力だった。1837年に大塩平八郎の乱を起こしたことで知られている。
奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴き西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めたが腐敗した奉行所内では大塩に反発するものも多かったが、上司の東町奉行高井実徳の支持を得て正義を貫いたそうだが役人の腐敗は国、時代を問わない課題だ。1830年の支持者高井実徳の転勤で与力を辞し、陽明学を学び自宅で洗心洞という私塾を経営し頼山陽などとも交際を持った。
大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、旗本が出兵した戦としては島原の乱(1637−1638年)以来、200年ぶりの合戦だったが前年の1836年までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。
大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し得た資金を持って救済に当たっていたが奉行所は「売名行為」とみなし大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。
利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。
天満橋(現大阪市北区)の大塩邸を発った大塩一党は、難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となった。彼らは「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、いたずらに火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。
大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文が幕府に届くことを期待したが告発文は箱根の関で発見され、押収されてしまう。
失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(現西区靱油掛町付近)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代土井利位(古河藩主)に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。
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- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
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- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2013/03/15
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