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さすらいおじさんさんのトラベラーページ

さすらいおじさんさんのクチコミ(74ページ)全3,789件

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  • 基本情報
  • 日本最古級の古墳として全国的に注目された芝ケ原古墳

    投稿日 2013年03月03日

    芝ヶ原古墳 八幡・城陽

    総合評価:3.5

    「遺跡の宝庫」と呼ばれる城陽市では、約150基の古墳が確認されている。
    南北に流れる木津川は大和に通じており、城陽の古墳群は大和の権力とつながりを持った有力な支配者のものと考えられている。
    城陽の地で人が暮らしはじめたのは、約4000年前の縄文時代の後期。古墳は城陽市内と宇治市の一部にまたがる東部丘陵地に分布し、「久津川古墳群」と呼ばれている。
    「芝ケ原古墳群」もその一つで、久世芝ケ原から寺田大谷にかけて13基の古墳が点在し昭和61年に発掘され、日本最古級の古墳として全国的に注目された「芝ケ原12号墳」もその一つ。
    大きさは、長さ2.3m幅0.7mで、棺の内側は朱塗りだった。
    日本初の遺物である「車輪石形銅製品」(腕輪)をはじめ、ガラス小玉、管玉、勾玉など数多くの玉類、鉄製の工具類が出土している。

    旅行時期
    2011年10月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 狸を祀る「源九郎稲荷」があった源聖寺坂(げんしょうじざか)

    投稿日 2013年03月02日

    源聖寺坂 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    天王寺七坂(てんのうじななさか)は、上町台地の夕陽丘地区にある7つの坂の総称北から真言坂(しんごんざか) 、源聖寺坂(げんしょうじざか)、口縄坂(くちなわざか)、愛染坂(あいぜんざか)、清水坂(きよみずざか) 、天神坂(てんじんざか)、逢坂(おうさか)。
    源聖寺坂(げんしょうじざか)は坂の上り口北側に源聖寺があることに由来し、石段を上りきった場所に昭和末期までコンニャク好きの狸を祀る「源九郎稲荷」があったとのこと。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 古くから夕陽の名所、天王寺七坂(てんのうじななさか)

    投稿日 2013年03月02日

    天王寺七坂 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:4.0

    天王寺七坂(てんのうじななさか)は、上町台地の夕陽丘地区にある7つの坂の総称北から真言坂(しんごんざか) 、源聖寺坂(げんしょうじざか)、口縄坂(くちなわざか)、愛染坂(あいぜんざか)、清水坂(きよみずざか) 、天神坂(てんじんざか)、逢坂(おうさか)。 夕陽丘の名前のとおり、古くから夕陽の名所で現在も坂の上からは美しい夕陽を見ることができる。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 高津宮(こうづぐう)の縁切り坂と縁結びの坂

    投稿日 2013年03月02日

    高津宮(高津神社) ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    高津宮(こうづぐう)は、難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇、后の葦姫皇后、長子の履中天皇を祀っているが866年に難波高津宮の遺跡に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったことが始まりとのこと。1945年の大阪大空襲によって焼失したが1961年に再建されている。
    高津宮の西側に二つの坂があるが坂の一つが縁切り坂。この坂の形が三下り半になっていたので俗に縁切り坂と呼ばれるとのこと。                     もう一つ西にある坂が逆に縁結びの坂といわれる相合坂。明治期に奉納されたもので横から見ると二等辺三角形になっていて男と女が両側から同時に登り頂点ぴったりと出会うと縁が結ばれるといわれる坂だ。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 夕陽が美しくみえる口縄坂(くちなわざか)

    投稿日 2013年03月01日

    口縄坂 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:4.0

    口縄坂(くちなわざか)は、大阪市天王寺区にある坂。「天王寺七坂」のひとつ。「大阪みどりの百選」に選定されている。
    天王寺区下寺町2丁目から夕陽丘町にかけて東西にのびている坂で、東側(夕陽丘町)の標高が高くなっており、途中は石畳の階段になっている。前後の道はそのまま西側は松屋町筋、東側は谷町筋(地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘駅付近)につながっている。
    「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似ていることからそう呼ばれるようになったとされている。織田作之助「木の都」文学碑があり夕陽も美しくみえる。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 口繩坂の織田作之助「木の都」文学碑

    投稿日 2013年03月01日

    織田作之助文学碑 「木の都」 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:4.0

    織田 作之助(おだ さくのすけ、1913年(大正2年)10月26日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の小説家。口繩坂は織田 作之助の思い出の場所で「木の都」に情景が描かれており一部が口繩坂の織田作之助「木の都」文学碑に刻まれている。
    (「木の都」の一部)
    口繩(くちなは)とは大阪で蛇のことである。といへば、はや察せられるやうに、口繩坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といつてしまへば打ちこはしになるところを、くちなは坂とよんだところに情調もをかし味もうかがはれ、この名のゆゑに大阪では一番さきに頭に泛ぶ坂なのだが、しかし年少の頃の私は口繩坂といふ名称のもつ趣きには注意が向かず、むしろその坂を登り詰めた高台が夕陽丘とよばれ、その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想ひが傾いた。夕陽丘とは古くからある名であらう。昔この高台からはるかに西を望めば、浪華(なには)の海に夕陽の落ちるのが眺められたのであらう。藤原家隆卿であらうか「ちぎりあれば難波(なには)の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で歌つた頃には、もう夕陽丘の名は約束されてゐたかと思はれる。しかし、再び年少の頃の私は、そのやうな故事来歴は与(あづか)り知らず、ただ口繩坂の中腹に夕陽丘女学校があることに、年少多感の胸をひそかに燃やしてゐたのである。夕暮わけもなく坂の上に佇(たたず)んでゐた私の顔が、坂を上つて来る制服のひとをみて、夕陽を浴びたやうにぱつと赧(あか)くなつたことも、今はなつかしい想ひ出である。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 藤原定家と並び称される歌人、藤原 家隆の墓

    投稿日 2013年03月01日

    藤原家隆の墓 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    大阪市天王寺区夕陽丘町にある藤原 家隆(ふじわら の いえたか、1158−1237年)の墓と伝わる塚。藤原 家隆は、鎌倉時代初期の歌人で『新古今和歌集』の撰者の一人。
    1237年、79歳で出家し摂津国四天王寺に入り、夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へいくことを望んだ。藤原家隆は和歌を藤原俊成に学び『六百番歌合』『正治百首』などに参加して同時代の藤原定家と並び称される歌人と評価された。
    後鳥羽上皇の和歌の師であったといわれ、後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も遠所から和歌を送ったりしており、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われている。


    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 愛染堂勝鬘院から名づけられた愛染坂(あいぜんざか)

    投稿日 2013年03月01日

    愛染坂 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    天王寺七坂(てんのうじななさか)は、上町台地の夕陽丘地区にある7つの坂の総称北から真言坂(しんごんざか) 、源聖寺坂(げんしょうじざか)、口縄坂(くちなわざか)、愛染坂(あいぜんざか)、清水坂(きよみずざか) 、天神坂(てんじんざか)、逢坂(おうさか)。
    愛染坂(あいぜんざか)は坂のそばにある愛染堂勝鬘院から名づけられた坂で大江神社の横にある。大阪星光学園北側から松屋町筋に通じる急な坂道で愛染堂勝鬘院境内の多宝塔は豊臣秀吉が文禄三年(1594)に寄進した市内最古の建造物で重要文化財。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 四天王寺七宮のひとつ大江神社(おおえじんじゃ)

    投稿日 2013年03月01日

    大江神社 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    大江神社(おおえじんじゃ)は勝鬘院(愛染さん)の近くにある神社で聖徳太子によって建立された四天王寺七宮(上之宮・小儀・土塔・乾・河堀・堀越・久保)のひとつ。四天王寺の乾(いぬい=戌亥=西北)に位置しているから、江戸時代では「乾社」と呼ばれていた。また毘沙門天を祀っていたので、「毘沙門堂」ともいった。『摂津名所図会』には、乾社のお祭りを描いた「六月十六日勝曼阪毘沙門祭」の挿絵が描かれている。慶応3年(1867)には大江神社に改称。毘沙門天も明治維新後の神仏分離で大津坂本に移ったという。また、明治40年(1907)には、上之宮・小儀・土塔が大江神社へ合祀された。かつては夕陽の名所だったことから、境内には「夕陽岡」の碑があり、歌人・藤原家隆が晩年を過ごした「夕陽庵」もこの辺りにあったとされる。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 「花の公園」と呼ばれる高津公園

    投稿日 2013年02月28日

    高津公園 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    高津公園は高津神社に隣接する公園で花の公園という案内がある。
    昭和34年に開園しており高津公園は「花の公園」の名のとおり、梅や寒椿・桜など花木が多く植栽されている。
    梅は、約20種類・約200本が植栽されている。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 浪華仮病院(なにわかりびょういん)跡の碑がある大福寺

    投稿日 2013年02月28日

    大福寺 ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.5

    大福寺には浪華仮病院(なにわかりびょういん)跡の碑がある。 明治元年の布告で大阪に本格的な医学専門教育学校と病院建設を計画し、学校は舎密(せいみ)局が発足したが、病院は財政難で明治2年ようやく大福寺で仮病院として開業した。院長は緒方惟準(洪庵二男)、主席教授はオランダ人ボードウィンで、医学教育にもあたった。大福寺の場所にあったのは半年だったが、これが大阪大学医学部へと発展した。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 細川大名家の屋敷跡に建っている大阪カテドラル聖マリア大聖堂

    投稿日 2013年02月28日

    大阪カテドラル 聖マリア大聖堂 大阪城・京橋

    総合評価:4.0

    大阪カテドラル聖マリア大聖堂は、カトリック玉造教会の教会堂で「大阪カテドラル」と呼ばれ教会の記念する聖人は「無原罪の聖母(聖マリア)」。
    創立は1894年だが「聖アグネス聖堂」は1945年の大阪大空襲で焼失し現在の大聖堂は1963年に再建された。
    敷地は細川大名家の屋敷跡で大聖堂内内陣左側には細川ガラシャを描いた画「最後の日のガラシア夫人」があり、聖堂正面の壁画「栄光の聖母マリア」、右側の「高山右近」とともに堂本印象の作。ステンドグラスは羽淵紅州の作、十字架や聖像はオーストリアの彫刻家ルンガルチエの作と、一流の芸術家を集めて造られている。パイプ数2400の巨大なパイプオルガンでも知られる。
    大聖堂の外には聖母マリア像、高山右近像とともにガラシャ夫人像があり、庭園にはアリギーニ作とされるファチマの聖母と羊飼い像がある。聖マリア大聖堂全体が宗教芸術遺産といえる美しい教会だ。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 細川ガラシャの辞世の句が残る越中井

    投稿日 2013年02月28日

    越中井 大阪城・京橋

    総合評価:3.5

    越中井は細川越中守忠興邸内にあったものといわれている。1600年の関ケ原戦の直前に忠興が家康に従い上杉攻めに出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとしたが忠興夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて37歳の生涯を閉じた。
    現在、細川越中守忠興邸の遺構として越中井が残され、ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
    を刻んだ記念碑が、井戸の脇に建っている。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 飛鳥時代・奈良時代の宮殿跡、難波宮史跡公園

    投稿日 2013年02月28日

    難波宮跡公園(なにわのみやあと公園) 大阪城・京橋

    総合評価:3.5

    難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の宮殿跡。
    1953年に付近から鴟尾(しび)が発見されたことから発掘・調査が進み、奈良時代の宮の遺構が明らかになり1953年に回廊跡1958年には奈良時代より古いとみられる柱列跡などが見つかった。
    回廊と門で守られた北側の区画は東西185m南北200mの天皇の住む内裏で南には東西約36m南北約19mの前殿、やや小さな後殿が廊下で結ばれていたとされる。
    難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大坂城の南西に整備されている。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 八軒家浜船着場近くの熊野街道の出発点の碑

    投稿日 2013年02月27日

    熊野街道 心斎橋・淀屋橋

    総合評価:3.5

    熊野街道(くまのかいどう)は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称で紀伊路とも呼ばれた。
    八軒家浜船着場周辺は熊野街道の出発点として賑わった。
    八軒家浜船着場は京阪天満橋の南側土佐堀通沿い永田屋昆布本店前にありその西側の街道入り口に熊野街道の出発点の碑がある。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 「東海道中膝栗毛」で”やじきた”が上陸した八軒家船着場(はちけんやふなつきば)

    投稿日 2013年02月27日

    八軒家船着場跡 心斎橋・淀屋橋

    総合評価:3.5

    八軒家船着場(はちけんやふなつきば)は、旧淀川(大川)左岸に有る船着場。
    八軒家船着場が有る上町台地の北端には、平安時代には渡辺津と呼ばれる港があり、紀州熊野本宮への参詣路である熊野街道の出発点として賑わった。江戸時代には八軒の船宿などが軒を並べていた事から八軒家浜と呼ばれ、京洛から淀川を下ってきた三十石船が到着した。熊野参詣の起点、京都と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝として栄え十返舎一九「東海道中膝栗毛」では、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸している場面が登場する。
    2008年に往時の八軒家浜の賑わいを水都大阪の再生の拠点とするため3隻の船を同時に係留することができる水上交通ターミナルとして大坂八軒家浜船着場が開港している。
    水上バス・アクアライナーは、大阪城公園~中之島周辺の名所を約60分間ゆったりと循環遊覧するクルーズ船で大阪城、八軒家浜、淀屋橋、大阪ビジネスパークの4ヶ所に船着場があり、1時間毎に各乗り場から出航し大阪の水上観光を行っているが八軒家浜船着場も大阪観光の拠点のひとつになっている。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 川に落ちて流された敵を救った楠木正行を称える小楠公義戦之跡碑

    投稿日 2013年02月27日

    小楠公義戦之跡 心斎橋・淀屋橋

    総合評価:3.5

    天満橋、松坂屋の北西、川岸にこの碑がある。大阪市東区教育会が「紀元2600年記念」に建てた。
     楠正成(くすのき まさしげ=大楠公)の子、楠木正行(くすのき まさつら=小楠公)は正平2年、渡辺橋の戦いで川に落ちて流された敵を救い、衣食を与え薬を給し京へ帰らせた。
     これぞ忠孝、勇気と仁愛、 日本精神の化身であるというわけで、その渡辺橋が今の天満橋あたりということで碑をここに建てたようだ。
     楠正成(大楠公)は、天皇のために足利尊氏と闘って摂津の国・湊川で戦死。楠木正行(小楠公)はその後、四条畷で戦死。いずれも最後は兄弟差し違えて死んだという。天皇のために死んだ楠親子の話はくりかえし教材に使われていた。 

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 親鸞ゆかりの古跡、五智国分寺

    投稿日 2012年11月17日

    五智国分寺 上越・直江津

    総合評価:4.0

    国分寺は741年、聖武天皇(しょうむてんのう701−756年)の命で各国に建てられた官寺で、新潟県上越市の五智国分寺(ごちこくぶんじ)は居多神社(こたじんじゃ)とともに海岸近くにあったと推定されており、上杉謙信(うえすぎ けんしん1530−1578年)によって現在の地に1562年に再興されている。
    山門には1835年作の仁王像ががあり、境内には本堂、三重塔、1693年建立の経蔵、親鸞(しんらん1173−1262年)が流罪中、過ごしたといわれる竹之内草庵あとに建てたという親鸞堂などがある。
    親鸞は上陸後、一説には頸城郡郡司の荻原民部少輔年景の館近くの竹之内草庵で約1年間を過ごし、国分寺裏門近くの鏡ヶ池に自らの姿を写し描いた御真影(自画像)を浄信房に託したといわれる。越後国の国府での親鸞の住居の場所や行動については諸説あり真偽はわからないが、親鸞がこの地で7年間過ごし苦難の中で布教を行った重要な地であることは確かだ。
    五智国分寺には芭蕉句碑「薬欄に いずれの花を くさ枕」がある。芭蕉は1689年に奥の細道の旅で五智国分寺、居多神社などを訪ねており薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人・高田の医師細川春庵への挨拶・感謝の気持ちを詠んでいる。また、直江津では「文月や六日も常の夜には似ず」文月(ふみづき−7月)の六日は七夕の前夜で、常の夜とは違うようだと詠んでいる。
    芭蕉も親鸞ゆかりの古跡を訪問したかったのだろう。

    アクセス,―――JR直江津駅から頚城自動車バス春日山下経由高田中央病院行きで6分、バス停:五智国分寺裏門下車、徒歩すぐ
    新潟県上越市五智3丁目20−21
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%99%BA%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA

    旅行時期
    2009年04月
    アクセス:
    3.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 織田信長の偉勲を称える建勲神社(たけいさおじんじゃ)

    投稿日 2013年02月26日

    建勲神社 今出川・北大路・北野

    総合評価:3.5

    天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建。1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀した。建勲の神号は明治天皇が下賜。明治8年別格官幣社指定。なお船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点となり、また、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。応仁の乱の際は西方の陣地となる。国の史跡で眺望絶景。10月19日の大祭は「船岡祭」といい、祭神・織田信長が1568年(永禄11)、戦国の世を終わらすべく初めて入洛した日を記念した祭典。神殿祭のあと信長公ゆかりの敦盛の舞舞楽奉納があり、年により信長公ゆかりの宝物などの公開や火縄銃の実射等の奉納がある。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 京都を旅する外国人にも人気がある船岡温泉(ふなおかおんせん)

    投稿日 2013年02月26日

    船岡温泉 今出川・北大路・北野

    総合評価:4.0

    船岡温泉(ふなおかおんせん)は京都市北区の船岡山南麓、鞍馬口通の南側に面する銭湯で元は料理旅館「舟岡楼」。1923年に建築され1933年に特殊舟岡温泉と改称され電気風呂を設けたが戦中戦後に窮乏し、1947年、一般公衆浴場として営業を再開したが外観、内装は料理旅館当時の姿を保っており、京都を旅する外国人にも人気がある。

    旅行時期
    2011年09月
    アクセス:
    3.5
    泉質:
    3.0
    雰囲気:
    4.0
    バリアフリー:
    3.5

さすらいおじさんさん

さすらいおじさんさん 写真

113国・地域渡航

47都道府県訪問

さすらいおじさんさんにとって旅行とは

旅は人生そのもの。自分が生きている証明です。
今年も関西を中心にまだ知らない場所を歩いてみたいと思っています。

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