さすらいおじさんさんのクチコミ(69ページ)全3,789件
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投稿日 2013年03月30日
総合評価:3.5
京都府京都市伏見区淀周辺は1886年鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)の戦跡が多く残っている。京都市伏見区の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)周辺で勃発した鳥羽伏見戦は幕府軍の敗走により次第に主戦場を淀方面に移し幕府軍は淀城で官軍を防ごうとしたが淀城は門を閉ざしたため官軍との市街戦となり淀の町に火を放ち八幡方面に敗走したが幕府軍の戦死者が多く出た。
大専寺、文相寺、長円寺、光明寺、東運寺など東軍(幕府軍)戦死者埋骨地も多く、文相寺、大専寺には戊辰役東軍戦死者碑がある。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2013年03月30日
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天照大神を祀る京都府京都市伏見区淀の伊勢向神社(いせむこうじんじゃ)
投稿日 2013年03月30日
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淀君が鶴松を出産した淀城(淀古城)本丸跡の妙教寺(みょうきょうじ)
投稿日 2013年03月28日
総合評価:4.0
桂川と旧京阪国道の間、鳥羽街道沿いの納所(のうそ)にある妙教寺(みょうきょうじ)の境内には淀城(淀古城)本丸が築かれていた。幕末1868年、鳥羽伏見の戦いの際には、付近で戦闘が行われ本堂が被弾している。
妙教寺は1626年、法華又左衛門貞清(生没年不詳)が初代淀城主・松平定綱(1592−1652年)により淀古城の地を拝領し南西の新淀城の守護として建立したもの。
納所にあったという室町時代に築城された平城の淀古城は、藤岡城、淀城とも呼ばれ江戸時代の1623年、新たに築城された淀城と区別するために淀古城とも呼ばれている。城の遺構は全く残されておらず詳細は不明。妙教寺境内には本丸があったとされ天守閣も存在したとみられている。
1589年、秀吉により側室・ちゃちゃの鶴松出産に際し、弟・秀長に城を修築させ淀城と呼ばれた。1589年5月、ちゃちゃは城内で鶴松を生み「淀の方」「淀之上様」などと呼ばれ9月に鶴松は大坂城に移る。1590年、鶴松は大坂城より淀城に戻ったとされ1591年、鶴松は淀城内で数え年3歳で亡くなる不幸があったとされ1594年には廃城となっている。
近代の学徒兵・木村久夫(1921−1946年)は大阪に生まれ旧制高知高校を経て京都帝大入学後応召、陸軍上等兵となる。インド洋カーニコバル島で、スパイ容疑のインド人夫婦の処刑事件で通訳をつとめた。イギリス軍の軍事裁判により戦犯として、シンガポール・チャンギー刑務所で絞首刑となる。『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』に手記が採録されている。享年28歳で境内に学徒兵・木村久夫の歌碑が立っている。
1886年の鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)の戦跡として本堂内に砲弾の跡が3か所残され、砲弾も保管されており境内には、幕臣・榎本武揚(1836−1908年)揮毫の「戊辰之役東軍戦死者之碑」が設けられている。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2013年03月28日
総合評価:3.5
淀城(よどじょう)は、京都府京都市伏見区淀本町にあった城で江戸時代には、松平氏、戸田氏、稲葉氏など譜代大名が居城したが現在は、本丸の石垣と堀の一部が残っているのみだ。
淀城は京阪電車淀駅に面しており、安土桃山時代豊臣秀吉が側室・淀殿(ちゃちゃ、生年不明―1615年)の産所とした城は淀古城とも呼ばれ妙教寺境内に本丸があったとされるが現在の位置より北へ約500mの位置にあった。
淀駅そばの城は鶴松死後に拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村重茲の連座とともに廃城とされた。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月28日
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投稿日 2013年03月28日
総合評価:3.5
與杼(よど)神社は京都市伏見区淀の神社で淀神社と表記されることもある。
與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しており祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱。
僧の千観(せんかん、918−984年)が応和年間(961−963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとされるがさらに古く勧請されたとの説もある。
千観(せんかん)は、平安時代中期の天台宗の僧で橘公頼(たちばな の きみより、877−941年)の子・相模守橘敏貞を父とするとされる。園城寺で出家、受戒。行誉に師事して天台教学を学び後に空也の影響を受けて浄土教へ傾倒し、民衆教化のための和讃としてはじめての阿弥陀和讃をつくった。962年に摂津国箕面山に隠遁して浄土行の生活を送ったとされる。
與杼(よど)神社は京都市伏見区淀の神社で淀神社と表記されることもある。
與杼(よど)神社は、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しており祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱。
僧の千観(せんかん、918−984年)が応和年間(961−963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとされるがさらに古く勧請されたとの説もある。
千観(せんかん)は、平安時代中期の天台宗の僧で橘公頼(たちばな の きみより、877−941年)の子・相模守橘敏貞を父とするとされる。園城寺で出家、受戒。行誉に師事して天台教学を学び後に空也の影響を受けて浄土教へ傾倒し、民衆教化のための和讃としてはじめての阿弥陀和讃をつくった。962年に摂津国箕面山に隠遁して浄土行の生活を送ったとされる。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
徳川御三家尾張藩初代藩主 徳川義直の生誕地、清涼院(せいりょういん)
投稿日 2013年03月28日
総合評価:3.5
清涼院(せいりょういん)は、京都市伏見区深草大亀谷五郎太町の浄土宗知恩院派の尼寺で徳川御三家尾張藩初代藩主 徳川義直 (とくがわ よしなお、1600−1650年)の生誕地としてしられ、所在地の「五郎太町」は尾張大納言の幼名に由来しているとのこと。
清涼院は伏見城のお花畑山荘とよばれる御殿の一部で豊臣秀吉の死後、伏見城に入った徳川家康は側室 お亀の方(石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家である京都正法寺・志水宗清の娘で竹腰正時の未亡人)を寵愛し、この地にあった御殿に住まわせ1600年、家康の第九子五郎太丸をお亀の方が出産し後の尾張徳川初代藩主・徳川義直となった。
庭園には京都市指定保存樹・百日紅の木(サルスベリのき)があり、庭一面の苔が美しい。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月27日
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小堀遠州(こぼり えんしゅう)の墓がある仏国寺(ぶっこくじ)
投稿日 2013年03月27日
総合評価:3.5
仏国寺(ぶっこくじ)は黄檗宗万福寺(おうばくしゅうまんぷくじ)に属し1678年に高泉性敦(こうせんしょうとん、1633−1695年)がこの場所にあった永光寺を復興して仏国寺と名づけたのがはじまりとのこと。高泉和尚は中国福清から1661年に隠元禅師の招きで来日し万福寺5世となった。往時に講堂を完備していたが明治維新の後荒廃し、現在本堂と庫裏をとどめるのみ。境内には開山高泉碑(重要文化財)があり、1711年鋳造の中国風の銅碑がある。江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州(こぼり えんしゅう=遠江守政一1579−1647年)の墓などがある。小堀遠州は現在の滋賀県長浜市小堀町で生まれ江戸時代初期の近江小室藩主であり、徳川幕府の作事奉行、大名茶人、造園など多種にわたり活躍した。
全国に小堀遠州作と伝えられる庭園が多数あるが代表的な庭園は南禅寺方丈庭園、金地院庭園、狐蓬庵庭園など。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2013年03月27日
総合評価:3.5
仏国寺(ぶっこくじ)に近い古御香宮(ふるごこうのみや)は、深草大亀谷敦賀町を中心とする「峠」一帯の氏神。1594年、豊臣秀吉は伏見築城にあたり、城内鬼門除けの神として伏見九郷の石井村にあった「御香宮」をこの地に遷し、本殿等を造営して社領300石を寄進した。秀吉の没後、天下人となった徳川家康は1605年、この神社を再び元の地に戻した。こうした経緯から地元の人々より「古御香宮(ふるごこうのみや)」と呼ばれ、十月御香宮神幸祭には神輿の御旅所として神輿渡御があるとのこと。
- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
源氏物語第三十三帖・「藤浦葉(ふじうら よう)」の帖ゆかりの宝塔寺(ほうとうじ)
投稿日 2013年03月27日
総合評価:4.0
源氏物語第三十三帖・「藤浦葉(ふじうら よう)」の帖に宝塔寺(ほうとうじ)の前身の極楽寺(ごくらくじ)が登場する。
光源氏と最初の妻・葵の上の嫡男、夕霧の中将は葵の上の実の兄で内大臣の娘・雲居の雁(くもいのかり)と相思相愛の恋仲。いとこ同士の二人は祖母・大宮の手元で育てられていた幼なじみで成長するに連れて互いに恋心を抱くようになった。雲居の雁を入内させたかった父の内大臣は若いころ夕霧の中将の父・光源氏と親友の間柄であったがこの時期は政治的に対立していたこともあり二人の結婚に大反対する。だが雲居の雁の入内に失敗し、夕霧の中将の縁談の噂を聞いた内大臣は夕霧の中将に歩み寄る。雲居の雁、夕霧の祖母・大宮の命日3月20日、内大臣は「極楽寺」での母の法要が終わり日も暮れた頃、夕霧の中将に「雲居の雁との中を裂こうとしたことを許して欲しい」と話しかけた。桜の花吹雪が舞い散る夕暮れにたたずむ美しい貴公子・夕霧の中将という幻想的な場面の舞台となったのが極楽寺の境内で内大臣は翌4月に自邸の藤の花の宴に夕霧を招いて二人の結婚を許した。雲居の雁と夕霧はめでたく結婚して子どもたちにも恵まれている。極楽寺は悲恋の物語の多い源氏物語では珍しいハッピーエンドの舞台になっている。
四脚門(総門)前には雲居の雁と夕霧の中将と思しき二人がむつまじく向き合っている像が設けられている。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の本営となった御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)
投稿日 2013年03月27日
-
投稿日 2013年03月26日
総合評価:3.5
八幡市の高良神社(こうらじんじゃ)は石清水八幡宮の麓の頓宮横にあり、861年に行教が建立した神社で1868年、鳥羽伏見の戦いによって消失したが1882年に再建された。
高良神社の有名な逸話が吉田 兼好(よしだ けんこう、1283−1352年)の「徒然草」に登場している。「ある日、仁和寺の和尚が石清水八幡宮を詣でようと訪れ、極楽寺、高良神社を詣でた。参詣を済ませ、さて帰ろうとしたとき、人々は山頂をめざして階段を登っていく。何だろうと思ったが、私は今回の旅の目的である石清水八幡宮に参詣を済ませたのだからと帰ってしまった。後で石清水八幡宮が山頂にあることを知って、どんな小さなことでも、案内人は必要だと痛感した」というもので先入観で自分勝手な判断をすることを戒める現代にも通じる話だ。- 旅行時期
- 2012年04月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2013年03月26日
総合評価:4.0
八幡市のさくら公園はソメイヨシノ等約250本が池のまわりを中心に植栽されている。こども動物園もあり、4月には満開の桜を楽しむ人たちとともに動物園ではしゃぐ子供たち、家族連れでにぎわう。
京阪本線 樟葉駅、八幡市駅下車 徒歩約20分- 旅行時期
- 2012年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
八幡八景に登録され、「たいこ橋」として市民に親しまれている安居橋(あんごばし)
投稿日 2013年03月26日
総合評価:4.0
安居橋(あんごばし)は、京都府八幡市の放生川に架かる橋である。中央部が盛り上がった反橋(アーチ橋)で、歩行者・自転車専用の橋となっている。八幡八景に登録され、「たいこ橋」として市民に親しまれている。そのため、舞台が設置され、12個の欄干には装飾が施されるなどの工夫がされている。
橋が架けられた時期は不明であるが、1614年-1624年に架設されたという一説の記録が最古のものである。江戸時代の放生川には、今よりも多くの橋があったとされ、川上から「五位橋」「安居橋」「六位橋」「高橋」という順番に架かっていた。安居橋は当初、五位橋の後に架けられたため「相五位橋」と称され、後に訛って「安居橋」へと変化していったという説が有力である。
大正時代から昭和にかけては約20年に1回改修工事が行われ、1975年の改修工事では橋桁などの上部工が取り換えられて現在に至っている。
京阪本線 八幡市駅下車 南へ徒歩約5分- 旅行時期
- 2012年04月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2013年03月26日
総合評価:4.0
八幡平谷の買屋橋から京阪八幡市駅に近い全昌寺橋の200メートルの間、大谷川はその名を「放生川」と変える。この名は、石清水八幡宮の神事の放生会(ほうじょうえ)に由来する。
『縁事妙』には、「放生会の神事は、貞観5年(863年)、あるいは貞観18年(876年)、安宗和尚が初めて山路子持川(放生川の古名)で、宇佐本宮の例をならって行なった」とある。また、『空圓記』には、「承平6年(936年)、八幡宮別当定胤が初めて高良神社の前庭で放生会を行なったので、このときから放生川と呼んだ」とあり、放生川の名は承平6年に付されたようである。
放生川の源流は、甘南備丘陵に発し、市東部の集落を縫うように蛇行する防賀川と、美濃山丘陵から市内を東西に二分するように北進する大谷川である。この二つの河川が八幡舞台で合流して大谷川の名で八幡森排水機場へ流入。その一部が西に折れて放生川となる。
江戸時代には、放生川の川浚えが毎年1回行われ。住民の賦役が大きな負担となっていた。この川浚えは、石清水八幡宮社務家の監督下で森・山路などの各町ごとに割り当てて場所を区画し、数日にわたって行われた大規模なものであった。
「放生川を飛び交う蛍」は、八幡百景の一つ。今では蛍を見ることはできなくなったが、優美な反り橋「安居橋」から見る情景が新八幡百景に詠われている。- 旅行時期
- 2012年04月
- アクセス:
- 3.5
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
-
投稿日 2013年03月26日
-
投稿日 2013年03月24日
総合評価:3.5
高槻市冨田(とんだ)町には「大宅壮一顕彰碑」が生家近くの府道わきに建立されている。地元有志による「大宅壮一顕彰碑を建てる会」により、大宅壮一氏直筆の「美しいバラは野茨の根の上に咲く」という言葉が自然石(高さ1.4m、幅2.7m)の碑に彫りこまれ、生前の活躍を称えている。
大宅 壮一(おおや そういち、1900−1970年)は、ジャーナリストで毒舌の社会評論家として有名で三女はジャーナリストの大宅映子。大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋の三男として生まれ旧制富田尋常小学校、高等小学校から旧制茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)に進学した際には川端康成が三学年上に在籍していた。その後第三高等学校、東京帝国大学文学部に進学しジャーナリストになるが「一億総白痴化」「駅弁大学」「口コミ」「恐妻」など時代をとらえた造語を数多く生み出した毒舌の社会評論家として親しまれた。- 旅行時期
- 2012年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
亀の恩返しと観音の霊験という説話が伝えられる總持寺(そうじじ)
投稿日 2013年03月24日
総合評価:4.0
總持寺(そうじじ)は、大阪府茨木市にある高野山真言宗の寺院で西国三十三箇所第22番札所。
總持寺(そうじじ)の草創には助けた亀の恩返しと観音の霊験という説話があり、寺所蔵の縁起絵巻や『今昔物語集』などに描かれている。開基藤原山蔭(ふじわら の やまかげ、824−888年)の父・藤原高房(ふじわら の たかふさ、795−852年)は、漁師たちが大亀を捕らえているのを見、「今日18日は観音様の縁日だから」と言って、亀を買い取って逃がしてやった。その日の夜、高房の子・山蔭は、継母の計略で船から川に落とされてしまった。父の高房はこれを悲しみ、観音に祈ったところ、高房が助けた亀が、山蔭を甲羅に乗せて現れたという。高房の没後、山蔭が報恩のため観音像を造立し祀ったのが当寺の起源とのこと。
寺伝では879年頃藤原山蔭が創建し、山蔭の三回忌の890年に伽藍が完成したとされる。亀に助けられた創建者の藤原山蔭は光孝天皇の勅命により庖丁式(料理作法)の新式を定め四条流庖丁道(しじょうりゅうほうちょうどう)という平安時代から始まったと伝えられる日本料理の流派の祖で「日本料理中興の祖」とされている。- 旅行時期
- 2012年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0












































