さすらいおじさんさんのクチコミ(73ページ)全3,789件
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投稿日 2013年03月08日
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淀川水運を仕切る北河内地域の首長の墓と見られている牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)
投稿日 2013年03月08日
総合評価:3.5
牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)は、大阪府枚方市の前方後円墳で「小倉車塚古墳(おぐらくるまづかこふん)」ともいわれる4世紀後半に作られたものと考えられており、淀川水運を仕切る北河内地域の首長の墓と見られている。1922年に国の史跡に指定されている。
淀川の北岸域には大小500余基の一大古墳群があり大阪府下では古市・百舌鳥古墳群に次ぐもの。枚方市では万年山古墳から三角縁神獣鏡が発見されており、淀川水運を握る豪族が大和朝廷と結びつきおおいに栄えていた地域であると考えられている。- 旅行時期
- 2012年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月08日
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投稿日 2013年03月07日
総合評価:3.5
家造祖(やづくりみおや)神社は、生國魂神社(いくたまじんじゃ)の境内にある8つの末社のうちのひとつ。
家造祖(やづくりみおや)神社は家造りの祖神を祀り、建築関連の仕事をする人たちから崇敬されており多くの参拝者がある。- 旅行時期
- 2011年09月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月07日
総合評価:3.5
鞴神社(ふいごじんじゃ)は、生國魂神社(いくたまじんじゃ)の境内にある8つの末社のうちのひとつ。祭神は天目一箇神(あまのめひとつのかみ)、香具土(かぐつち)神など。鞴(ふいご)は火をおこす道具で、鍛冶の神、カマドの神として信仰を集めている。毎年11月8日には、鍛冶(かじ)や鋳物業の繁盛を祈願する伝統行事「鞴(ふいご)祭り」が行われる。日本美術刀剣保存協会ら大勢の参拝客を前に、5人の刀匠が鞴を使っておこした火で玉鋼を真っ赤に焼き、大鎚(づち)を振り下ろして鍛錬、奉納する。
- 旅行時期
- 2011年09月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月07日
総合評価:3.5
生国魂神社の表参道の脇に石碑が2基建っている。『島 男也旧居』碑で1944年(昭和19年)の建立と『川崎孫四郎自刃の所』碑は1969年(昭和44年)の建立。「関西茨城県先賢士顕彰会」の立て札によると1860年(安政7年)3月3日の水戸浪士による大老井伊直弼殺害事件「桜田門外の変」と同時に大阪でも挙兵を図ろうとして未遂に終わった事件があったそうだ。
高橋多一郎は水戸の藩士で「桜田門外の変」で首謀者の金子孫二郎とともに指導的な役割をつとめたが、高橋多一郎は大坂での決起を担当し、息子の荘左衛門や川崎孫四郎ら同志と共に3月6日に来坂、挙兵の準備にかかったが頼みの薩摩が大久保利通らの統制で慎重論に変わり立ち上がる様子がなく、そのうちに「桜田門外の変」の下手人狩りが始まり身動きが取れなくなった。江戸の事件の首謀者金子孫二郎は上方まで逃げて来ていたが伏見で捕まった。
川崎孫四郎は大坂で自刃し島男也は捕われた後江戸送りとなり伝馬町の獄舎で死亡している。
両人とも事件当時は犯罪者で後に「正5位」を贈位されているが時代が変われば評価が変わる事例のひとつだ。- 旅行時期
- 2011年09月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月07日
総合評価:3.5
生国魂神社に、「好色一代男」などの小説で知られる井原西鶴の銅像がある。西鶴(1642−1693年)は1680年5月、「生國魂神社南坊」で一昼夜独吟四千句という超人的な句会を興行した。西鶴の才能と超人的な気力、体力を証明する歴史的なイベントだ。井原西鶴像の横には句会を行った「南坊」跡の石碑がある。さらに四年後住吉大社で二万三千五百句を詠み記録更新。これは3、7秒に一句という凄いスピードだ。井原西鶴の天才ぶりを証明する句会だ。
- 旅行時期
- 2011年09月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月06日
総合評価:3.5
海禅院(かいぜんいん)は、和歌山県和歌山市和歌浦中にある日蓮宗の寺院で1649年(慶安2年)、徳川家康の三十三回忌の際、養珠院(お万の方)が、妹背山に法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てたのが創始。養珠院に賛同した後水尾上皇や庶民など、身分を問わず全国から経石を集めて総数は20万個になったとされ養珠院の没後、1653年(承応2年)に紀州藩主徳川頼宣は、小堂を二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立した。その後、養珠寺の末寺になり、紀州徳川家の庇護を受けていたが明治維新で江戸幕府が滅亡すると禄を失い荒廃していき、檀家のない海禅院は多宝塔を残すのみとなったそうだが、多宝塔が美しい。
- 旅行時期
- 2010年03月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月06日
総合評価:4.0
玉津島神社(たまつしまじんじゃ、玉津嶋神社とも書く)は、和歌山県和歌山市和歌浦に鎮座する神社。国史見在社。稚日女尊、息長足姫尊、衣通姫尊の3柱に明光浦霊(あかのうらのみたま)を配祀する。
古来玉津島明神と称され、和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌3神の1柱として尊崇を受けることになる(近世以降は北野社に代わって柿本人麿)。「万葉集」に歌われた玉津島は歌枕の地として知られ玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになり小野小町(おの の こまち)も参拝しているそうだ。- 旅行時期
- 2010年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月06日
総合評価:3.5
緒方(尾形) 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) - 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家。工芸家。
尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。
緒方(尾形)光琳宅跡の碑は昭和4年建てられており、以前は瓢亭と言う料亭があった。- 旅行時期
- 2010年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月06日
総合評価:3.5
井手には小野小町塚がある。土壇上に四角の石が四個積み上げられ小町塚と称している。小町の歌に、「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」なる句があり、「冷泉家記」に「小町69歳井手寺において死す」、「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」とある。
小野小町終焉の地は京都市内(小町寺など)、福知山市、秋田県、山口県など諸説あるが山城の井手で亡くなった説の信憑性は高いものと考えられている。
小野小町は平安時代前期の歌人・六歌仙の1人で絶世の美女であったとされるが生涯は謎に包まれ、仁明天皇(在位833~850)の時代に宮廷に使えていたこと以外は不明だが晩年は落ちぶれて寂しい最期だったとされる。- 旅行時期
- 2011年10月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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数百年間街並みを残している歴史遺産上狛環濠集落跡(かみこまかんごうしゅうらくあと)
投稿日 2013年03月05日
総合評価:3.5
JR「上狛(かみこま)駅」から西へ約400m、国道24号「上狛(かみこま)」信号を北へと県道70号に入ると上狛環濠(かみこまかんごう)がある。
上狛(かみこま)は渡来人狛氏の居住地で居住地を含む東西430m、南北420mの環濠集落を城としたもので、狛城といわれ文明年間(1460−87年)狛日向守の築城とされている。
狛氏は興福寺領狛野荘の下司・公文職として大きな勢力を持ち、北の椿井氏と対立した国人(土着武士)で、応仁の乱(1467−87年)では狛山城守秀盛は東軍に属し畠山政長・義就の対抗では狛氏は政長派、椿井氏は義就派で大和へも出陣したが文明15年(1483年)狛山城守は義就派の夜襲を受けて没落し椿井氏の勢力下となった。
戦国の混乱期、上狛の地では有名な国人一揆を経て織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代へと変遷し安定した時代になっていった。
街を歩くと、環濠集落跡の堀が南東から南西を通り北西へ抜ける部分が残っている。
かっては堀幅がおよそ3間(約5.4m)もあったそうだが、今は幅が狭くなっている。環濠集落は環濠で囲まれた中に田畑と村があり堀の内側に土塁を築き、竹薮や雑木林を連ねていたそうだ。人々は郷とか垣内と呼ばれる単位で共同生活を営んでいたが、角垣内・城垣内・御堂垣内・磯垣内・殿前・小仲小路・野目代という七つの郷名が通称名となって残っている。
町中は現在も江戸時代の町割そのままに、人がやっと通れる道幅の小路で構成されている。
家屋も長屋門を設けた豪農の屋敷風の民家が目立ち、かっての繁栄の跡が偲ばれる。上狛環濠(かみこまかんごう)も数百年間街並みを残している歴史遺産だ。- 旅行時期
- 2011年10月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月05日
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投稿日 2013年03月05日
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養蚕技術者を祀った社綺原座健伊那太比賣神社(きはらにますたていなだひめじんじゃ)
投稿日 2013年03月05日
総合評価:3.5
京都府相楽郡山城町綺田山の綺原座健伊那太比賣神社(きはらにますたていなだひめじんじゃ)通称、綺原神社(かんばらじんじゃ)の 祭神は「タテイナダヒメ」。神に献ずる衣服を織る技術者及び養蚕技術者を祀った社とも言われており、綺氏一族(秦氏一族)の創起だと言われている。 「蟹の恩返し」の蟹満寺(かにまんじ)の近くにある。
- 旅行時期
- 2011年10月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年03月05日
総合評価:3.5
綴喜郡井手町文化財展示室は2008年11月開設している。山背古道脇にあり1階が町内遺跡出土遺物(陶棺、施釉線刻垂木先瓦、井手寺跡石橋瓦窯跡出土遺物など)と企画展示、2階が古文書と民俗資料を展示している。約100?の展示室。
住所―京都府綴喜郡井手町井手二本松2−1
TEL―0774-82-5700
最寄り駅―JR奈良線玉水駅より徒歩20分
開館時間―10時00分〜16時30分 (入館は16時00分まで)
入場料―無料
休館日―土日祝日- 旅行時期
- 2011年10月
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2013年03月03日
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投稿日 2013年03月03日
総合評価:3.5
井手町(いでちょう)は、京都府南部の町で木津川の支流・玉川が町を東西に縦断しており橘諸兄の旧跡はじめ歴史遺産が多く見られる。
橘諸兄(たちばな の もろえ、684−757年)は、敏達天皇(びだつてんのう、538−585年)の後裔で美努王(みぬおう・みのおう)の子。元の名前は葛城王(かつらぎのおおきみ)だったが母・橘三千代の姓氏である橘宿禰を継ぎ橘諸兄と名乗った。
聖武天皇を補佐したが孝謙天皇の時代には藤原仲麻呂が権力を握り引退。大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人とする説もある。『栄華物語』月の宴の巻に、「むかし高野の女帝の御代、天平勝宝5年には左大臣橘卿諸兄諸卿大夫等集りて万葉集をえらび給」との記述があり、信憑性をもつものとされている。
玉川を渡り古道を進むと橘諸兄旧跡の案内石柱が立っており竹林の中に石垣が見え、石段を上ると橘諸兄公旧跡の石碑が立っている。 ここは橘諸兄が平城京の北部山背国綴喜(現在の綴喜郡井手町)に造営した別荘(玉井頓宮)跡と考えられており別荘内に母三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺として井出寺(井堤寺・廃寺)を建立している。- 旅行時期
- 2011年10月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2013年03月03日
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投稿日 2013年03月03日

















































