大長寺(だいちょうじ)は大阪市都島区にある浄土宗の寺で浄瑠璃「心中天の網島」で知られる小春と紙屋治兵衛の比翼塚がある。
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続きを読む心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃で1721年、大坂竹本座で初演された全三段の世話物。
実際に起きた紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。
紙屋の治兵衛は二人の子供と女房がありながら、曽根崎新地の遊女・紀伊国屋小春のおよそ三年に亘る馴染み客になっており、見かねた店の者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策するが小春と治兵衛は二度と会えなくなるなら共に死のうと心中の誓いを交わした。小春は侍の客と新地の河庄で「馴染み客の治兵衛と心中する約束をしているのだが、本当は死にたくない。治兵衛を諦めさせて欲しい」と頼む。突如格子の隙間から治兵衛の脇差が差し込まれた。侍は治兵衛の手首を格子に括り付け治兵衛の恋敵・伊丹の太兵衛が治兵衛と小春を争う姿を嘲笑する。侍の客は侍に扮した兄の粉屋孫右衛門だった。小春に入れ揚げている治兵衛に堪忍袋の緒が切れ、曽根崎通いをやめさせようと小春に会いに来たのだった。治兵衛は小春と別れる事を決めて小春から起請を取り戻した。しかしその中には治兵衛の妻・おさんの手紙も入っており、真相を悟った孫右衛門は密かに小春の義理堅さを有難く思った。
それから10日後、治兵衛の叔母と孫右衛門が小春の身請けの噂を聞いて治兵衛に尋問しに紙屋へやって来たが身請けしたのは恋敵の太兵衛だという治兵衛とおさんの言葉を信じ、叔母は治兵衛に念の為と熊野権現の烏が刷り込まれた起請文を書かせると安心して帰っていった。しかし叔母と孫右衛門が帰った後、治兵衛は炬燵に潜って泣き伏してしまう。心の奥ではまだ小春を思い切れずにいたのだ。そんな夫の不甲斐無さを悲しむおさんだが、「もし他の客に落籍されるような事があればきっぱり己の命を絶つ」という小春の言葉を治兵衛から聞いたおさんは彼女との義理を考えて太兵衛に先んじた身請けを治兵衛に勧める。商売用の銀四百匁と子供や自分の着物を質に入れ、小春の支度金を準備しようとするおさん。しかし運悪くおさんの父・五左衛門が店に来てしまう。日頃から治兵衛の責任感の無さを知っていた五左衛門は直筆の起請があっても尚治兵衛を疑い、おさんを心配して紙屋に来たのだ。当然父として憤った五左衛門は無理やり嫌がるおさんを連れ帰り、親の権利で治兵衛と離縁させた。望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ赴く。小春に会いに来たのだ。別れた筈なのにと訝しがる小春に訳を話し、もう何にも縛られぬ世界へ二人で行こうと治兵衛は再び小春と心中する事を約束した。
小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かう。そして二人は俗世との縁を絶つ為に髪を切った後、治兵衛は小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、首を吊って心中した。心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)は治兵衛、小春の悲恋話だが不憫なのはぐうたら亭主をどこまでも支えようとする女房おさんだ。身勝手な亭主にここまで尽くす女性が果たしているのだろうか。女房おさんは近松門左衛門の理想とする女性像なのかも知れない。
心中天網島は1969年には、篠田正浩監督により映画化された。治兵衛には二代目中村吉右衛門、小春・おさん二役に岩下志麻を起用し、通常の劇映画と異なる実験的な演出で人形浄瑠璃や歌舞伎の雰囲気を色濃く漂わせる作風となっている。
大長寺はもとは現藤田美術館のところにあった。その土地は豪商藤田伝三郎の邸宅用地として買収されたため現在地に移った。大長寺の山門は、もとの位置に美術館正門として残っている。
大長寺の近松「心中天網島(てんのあみじま)」の小春・治兵衛の比翼塚は2人を哀れむ人たちによって建てられた。藤田伝三郎が1912年に大長寺の敷地を買収した際、大長寺は北に300mほどの現在地に移転した。このとき小春・治兵衛の比翼塚も現在地に移転している。
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投稿日:2013/03/16