kasekunさんのクチコミ(6ページ)全183件
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投稿日 2023年12月22日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
バヌアツには1度だけ訪問。でもたった1泊限り。本当は2泊3日の予定がニューカレドニアからの飛行機に乗り遅れ、次の日に。結局1泊だけになってしまった。
航空機で夕方到着。この同じ航空機でたまたま1人旅の日本人女性と出会った。話を聞くとフィジーに英語を学びに来てるんだとか。ついでにバヌアツの火山を見に行くんだとか。せっかく一緒になったので、町まで一緒に行こうということに。空港を出るとミニバスが停まってた。情報によれば乗り合いバスなら150円程度で行けるはず、、、。しかし彼女がドライバーに料金を聞くと、2千円程。???と思って乗っていったけど、タクシーとして使えばそのくらいの料金なのかもしれないが、乗り合いミニバスとして使うなら150円ほどのはずだ!と彼女に教えると、、、憤慨しだした彼女。降りる時に150円程払って降車。別にドライバーも文句を言ってこず。、、、バヌアツでは乗り合いタクシーとしてミニバスに乗り込むのがいいようです。150円ほどで空港から町まで行けます。
で、彼女と降りた場所はバヌアツで日本人スタッフのいる旅行社が入っているホテル。彼女は明日にでもタンナ島ツアーに参加するとのことなので。でも自分はブッキングコムで予約した安ホテル。旅行社の日本人に、送ってあげますよ!と言われたものの、近いはずだと思ってたので遠慮、、、。これがたいへんなことに、、、。でも1番のいい思い出に。、、、
きっと地元の方に聞けばわかるはず、、、と安易に考えていた。でも誰もそんな安ホテルをしらないのだ。でも親切な方はいるもんだ。そこにたまたまいた男性の方に尋ねると、ちょっと待ってて、一緒に探してあげるよ!と、、、。強面の彼と一緒に今夜のホテル探し、、、。いろんな方に彼は尋ねてくれるが見つけられない。しまいには大きなホテルに入って、ネットで捜索依頼。、、、で、やっと今夜の予約してた宿を見つけた。ここが宿?看板もないし、ただの普通の民家。これは絶対1人では見つけられない。チャイムを鳴らしても誰も出てこない。、、、彼が大声で呼び掛けてくれた。すると宿泊客が気づいて出てきてくれた。、、、
今夜の宿はこうして見つけた。彼がいなかったら絶対野宿してたと思う。強面の彼に最初はヤバイなあと疑心暗鬼だったが、反省。バヌアツの方に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。人は見かけで判断してはならない。教訓です。1時間以上宿探しに付き合ってくれた彼に感謝です。お礼を言って別れたものの、今度行くときには彼を探し、再度お礼を言いたいと思います。
で、朝からポートビラの町をてくてく散策し、市場や人々の様子を見ながら、お昼ごろには空港到着。航空機でソロモン諸島へ。
空港で両替したバヌアツバツはまだ大分残っている。いつかまた訪れるつもりでいます。せっかくならタンナ島火山見学に行ってみたいので。(エチオピア、アイスランドで火山は見に行ったけど、どうせならもう1つ、、、)
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2017年01月
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投稿日 2023年12月21日
総合評価:4.0
色塗り投稿です。
パラオには1度だけ訪問。ゴールデンウィークにはだいたい国内旅行に行くのだが、その年は連休が長かったので、韓国の東海という町からロシアウラジオストクストックへ週1便あったフェリーで渡り、久しぶりのロシアを観光。そして寒いのでソウルに飛び、そこから暖かいパラオへ3泊4日。
・パラオには朝到着。まずはすぐさまレンタカーを借りてバベルダオブ島観光。定番のガラスマオの滝や北部の観光地を、地球の歩き方を見て回った。ガラスマオの滝の他にもう1つ滝がある(ガスパンの滝?)と載っていたので探し回った。でも、既に廃れた?ようで案内看板はなかった。マップスミーを頼りに、この辺りかな?と見当をつけ降りてみたら、何やら水が流れる音が、、、。下りてみるとガイドブックにあった滝だった。誰もいない、案内表示もない、、、誰も行かなくなると観光地も変わってしまうようです。
ガラスマオの滝も、トロッコ?で行けるような記載があったのだが、既に錆び付き運行されてはいなかった。
・朝の観光はお得かも?入場料を取られるパラオ観光。でも朝だと誰もおらず無料?ちょっとだけお得かも?
・バベルダオブ島とコロール島は橋で繋がっている。最初は韓国企業が橋を建設したらしいが崩落。その時はパラオのインフラがストップされ大混乱に陥ったのだとか。で、日本の援助で再度建設。この橋を見たかった。車から降り、橋の側におかれたプレートをまじまじと眺める。日本の国旗とパラオの国旗。両国の親密さの象徴がこのジャパンパラオフレンドシップブリッジ。誇らしく思える。
・レンタカーがあるとすごく便利。海外レンタカーはサイパン島を皮切りに、グアム島、ニューカレドニア島、ニュージーランド南島、そしてアイスランドで海外デビュー。最初こそ左ハンドル、しかも久しぶりのマニュアル車でおっかなビックリだったが、慣れればやっぱり便利。ニューカレドニア、アイスランドでは車中泊も。
・パラオでは2ヶ所あった公共ビーチに行ってみた。1ヶ所は日本人?カップルが日向ぼっこで自分だけの独占。もう1箇所は地元の方もたくさん泳いでいた。観光客はホテルのプライベートビーチで泳ぐのか全く見かけなかった。
・パラオではホテルにおいてあるパンフレットで、ペリリュー島戦跡ツアーを予約。日本語の電話で簡単に予約できた。120ドル。ここは日本人にとってパラダイス。以前はサイパンがその地位だったけど、今サイパンは韓国人、中国人のパラダイスと化している。本当はもうひとつ世界遺産へのツアーにも参加してみたかったが、時間がなく、この戦跡ツアーのみ。それでも、自衛隊出身のガイドの案内は抜群だった。
ただ、あとで調べてみたら、ペリリュー島、アンガウル島には公共の船でも行けるらしい。次回はアンガウル島へも行ってみたい。
・宿泊は一番安かったホテルに。それでも1泊60ドルはした。朝食はついてないので、町を探し回ったら中華料理店が唯一開いていた。(朝食バイキング。)でも、ガソリンスタンドに入ったら弁当が売られていた。ナーンだ、ここで弁当朝食でよかったんだ。朝食を安く済ませたいならガソリンスタンドで売ってる弁当ですね。
で、一番の思い出は、、、。
・レンタカーを借りる時、スタンドは何時まで開いているのか確認した。そしたら夜も開いているよと。その情報を信じたのが間違いだった。帰国時の夜、ガソリンを入れようとスタンドを探すがどこも閉まっている。ヤバイ、ガソリンが残り少ない!空港まで絶対持たない。無理を承知で、灯りはついてるけど営業終了したスタンドへ駆け込んだ。そこのガードマン?に、日本人なんだけど、ガソリンがない。何とか入れさせてもらえないか!飛行機に間に合わない!と頼んでみた。すると、ガードマン?、ちょっと待ってて、、、と。数分待ってると、ガードマンさん、ポリタンクに入ってるガソリンを持ってきてくれた。家まで取りに行ってくれたんだとか。
、、、よかった!助かった!パラオの人たち、やっぱり親日なのかも?無事飛行機に間に合い、帰国。
という感じの旅行となりました。パラオ、良いところです。機会があればまた行きたい国です。
以上、色塗り投稿でした。
- 旅行時期
- 2017年05月
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投稿日 2023年12月20日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
カンボジアには2度ほど訪問。
1度目は下川さんの歩くアジアを読んで、カンボジアからラオスに渡れることを知り、自分も試みた。コースは逆で、ラオスからカンボジアへ。わざわざビエンチャンのカンボジア大使館でカンボジアビザを取って確実に、、、と思ってたのに。大使館の人が言うには、この国境は特別な国境。行けるかはわからないという。悪路の陸路でラオス国境にたどり着いたのだが、役人が言うには、カンボジア側が入国を許可するなら出国スタンプを押すとのことだった。で、行ってみると、、賄賂200ドルくれるなら通してあげる。町まで護衛つきだとのことだった。わざわざまたラオスに戻りタイからカンボジアに行くのもなんだし、200ドル払ってもよかったのだが、、前例をつくると賄賂が横行、、次の旅行者のためにもそこは断った。で、ラオス側の国境で一晩お世話に。この国境には若者の役人たちが、、、。誰もいないこの国境に行くのはやはり若者たち。珍しい客にもてなしてくれた。飯を頂いたり、シャワーに連れて行ってくれたり、、、(シャワーに行くぞとついていくと、そこはメコン川。初のメコン川での水浴びとなった。)で、タイ側に戻り、、、(あとはタイの思い出で)
結局バンコクで、プノンペンinホーチミンoutのオープンジョーチケットを購入しカンボジアへ。
カンボジアでは1泊3ドルのキャピトールホテルへ2泊し、プノンペン観光。3ドル?驚いてしまう世界だった。当時は1ドル100円を切る超円高の時代。物価の安さにびっくり仰天。映画キリング・フィールドで見たキリング・フィールドにバイクタクシーで行ったり、王宮を見に行ったり、即席で覚えたカンボジア語で買い物し冷やかしたり、列車が走っていない駅へ行ったり、、、で、バイクタクシーで、バベット国境を越え、ベトナムへ。これが1度目。
2度目はタイからの東南アジア縦断の旅で。バンコクから列車でアランヤプラテートまで。そこから国境を越えポイペトへ。この国境でカンボジアビザを取るのだが、旅行者を鴨にする輩が待ち構えていた。ポイペトからはバスでシェムリアップへ。前回訪れていなかった世界遺産アンコール・ワットを見るために。ここはさすが世界遺産。観光客がたくさん。でもホテルはやっぱりここでも安かった。寝られさえすればいいので。
アンコール・ワット、、、いいですね。カンボジアの宝ですね。シェムリアップからはバスでプノンペンへ。2度目は見るところもそうないので、早々にラオスへ向かう。バスターミナルに行くとなんとダイレクトにラオス行きの国際バスもあったが、自分はミニバスで途中にあるカンボジアの田舎町ストゥントレンに。何にもないけど、カンボジアの田舎はどんな感じなのかが見たかったのだ。で、ミニバスでラオス国境に。以前来た国境とは場所も違っていた。時代が変わると交通も変わっていた。立派な国境管理事務所が。以前来た時は未舗装の埃まみれになるトラックバスだったのに、、、。ちゃんと舗装されていた。で、ラオス南部にある世界遺産へ。
カンボジア、自分は好きですね。ラオス人も人の良さを感じますが、カンボジア人にも同様な感じを受けます。子供の頃はカンボジアなんてとても旅行なんてできない場所(地雷がいたるところに埋まってる危険な国)だったのに、今では平和な国。
イラクもアフガニスタンもイエメンも、いずれ時が経てばカンボジアのように復興する、、、そう期待しています。
カンボジア、次行く時は列車に乗りたいですね。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2015年12月
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投稿日 2023年12月20日
総合評価:1.0
色塗り投稿です。
オーストラリアにはたった1度だけ。それも1泊2日シドニー滞在だけ。サモア、トンガ、フィジーの南太平洋周遊のトランジットで。
物価も高いので1泊限り。日本が冬の時、オーストラリアは暑い夏、、これと、オーストラリアには固有の動物たちがいることだけは確かめられた。
シドニーでは定番の世界遺産オペラハウス、それからコアラを抱きに動物園へ。観光はこれだけ。
思い出は、、、。
・シドニーの町歩きで道に迷い、地球の歩き方の地図をだし、道を確認してたら、現地のおじさんが、キャナイヘルプユー?と、、、。初めて生の英語で言われたのでよく覚えてる、、、。ほー、オーストラリア人、けっこう親切なのかも?白豪主義って社会で習ったけど、もう昔のことなのかも?
・髪を切りたく、たまたま入ったバーバーに、なんと日本人理容師さんが!ワーキングホリデイで働いているんだとか。ここで働いたら英語はうまくなるよな。
・オーストラリアと言えば、自分が思い付くのは、現地民アボリジニ。是非会って見たいものだと思ってたら、シドニーの繁華街を訪れてみたら居た!1人で酒飲み酔っぱらっていた。回りは白人だらけ。アボリジニは現地ではそういう立場に立たされているんだろうか?ニュージーランドのマオイとはなんだか違う存在のように感じた。
という感じで特にこれというものはないが、、、。もっとじっくり訪れれば違った発見ができるんだろうが、、、なんだか旅をしたいとは思えないのだ。でも1泊2日では何も見えてこないだろうな、、ニュージーランドもそう思ってたけど、じっくりレンタカーで回ってたらその国のよさがなんとなくわかってきた。オーストラリアももっとじっくり旅をしてみないと、、、。いずれ、列車旅で、、、。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2002年12月
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投稿日 2023年12月20日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
ブータンは2度程訪問。といっても、1度目は陸路ブータン入国に失敗し、インドのジャイガオンから密入国を繰り返す。で、次の年、今度は安全策を取り、空路パロ入国、プンツォリン出国。この2回。
1度目はなぜ失敗したかというと、バングラデシュでインドのビザを取るのに時間がかかってしまったから。悔しいので、バングラデシュを旅行しインドにぬけ、ブータンとの国境にあるジャイガオンという町から、インド人のふりをして密入国。この町、ちょっと国境の門をくぐればもうそこはブータンなのだ。最初こそドキドキ!でも1度越えればナーンだ!チェックしている人もいるのだが、そんなに厳しいわけではないので、人混みに紛れればすんなり。(ただ、1度見破られ注意されたけど、、、。) 日本人ならブータン人ともそう変わらんし、たやすく行けるでしょう。自分はブータン人よりもインド人に近い?ので、インド人のふりで、、、。
ただ、このプンツォリンからティンプーまでは行けそうにない。途中パスポートチェックがあるらしいので。行けなかった綺麗な首都への道を恨めしく眺めるだけで1度目は終わった。1日200ドル×5日で、計1000ドル以上損したんだし、まあ大目に密入国許してよ!そんな気持ちでの密入国だった。(現地旅行社とメールでやり取りし、プンツォリンから陸路入国のブータン旅行を予約していた)
2度目は再度同じ旅行社で。今度はバンコクから安全策のパロへ空路入国。どうやら昨年、プンツォリンでずっと待っていた方が今回もガイドだったようで、、、。昨年、プンツォリンで5日間程あなたを待ってたんだ。とのこと。電話したんだけど、通信事情が悪く通じなかったことを話し、謝る、、、。バングラデシュでインドビザを取るのに1週間、、、。これが20万ものいタタタタの出費の理由、、、。日本でビザ取っとけばよかったと後悔してもあとの祭り。
ブータン個人旅行は当時冬の閑散期の時期で1日200ドル。これでガイドと専属ドライバーがつく。ホテル代、飯代、交通費全てコミコミで1日200ドル。大名旅行だった。日程はたしか、タクツァン僧院トレッキングに、ティンプー観光、そしてトンサという町のお祭り見学、そして、民泊をリクエスト。で、プンツォリンから出国。この日程で4泊5日のブータン旅行。
・民泊をリクエストしたのだが、泊まった家はドライバーさんの家だった。田舎に住んでるドライバーさん。奥さんにおばあちゃん、子供たちのいる家にお邪魔したわけだが、、お金を払って民泊、、あまり歓迎されてはいないような、、、ご飯は男性が先?お客さんを優先させるのかな?みんなでご飯を頂くものと思ってた自分。なんだか気分的に寂しい夕食だった。これがブータンの慣習なのかな?
・泊まった部屋には国王夫妻の写真が飾られていた。ブータン王国、、、王様の人気はあるのかな?
・世界1辛い食べ物を食べている人たちはブータン人だと悟った。インドのカレーなんて比じゃない。唐辛子にチーズがかかったエマダツィ?というおかずを食べ、その辛さをまぎらわすため?に、ご飯を掻き込む。ホテルのレストランで出されるエマダツィは外国人向けに辛さを押さえていたのだ。知らずに、地元のレストランで夕食を食べたいとリクエストして、行って食べたらもう涙目。凝んなに辛いものをブータン人は食べてるんだ、、、。これでも辛いもの大好きな自分。この地元のレストランのエマダツィだけはギブアップしました。世界で1番辛い物を食べてる人達、それはブータン人だと確信しました。
・ホテルに泊まってる外国人旅行者は家族連れ。個人で来ているという人はあまり見かけなかった。出会った日本人も団体さんが多かった。専属ドライバーにガイドがついている大名旅行。個人旅行ではあまり旅をした!という感覚はない。ちょっと物足りない旅でした。ここは仲間がいるツアー、または家族旅行で訪れた方が楽しいだろうなと思ってしまいました。
という感じのブータン旅行。ブータン、、経済よりも幸福度を大事にするという概念を打ち出した国。仲間と回る旅をした方がいいかもしれません。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2007年01月
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投稿日 2023年12月16日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
モルジブには1度だけ訪問。2014冬のスリランカ旅行の際に。
嫁とスリランカ旅行。仕事の関係で日程が合わず、一足先に行って嫁とスリランカで合流。待ってる間がもったいないので、モルジブまで行って2泊3日の旅行。大韓航空でモルジブマレまで行って、帰りはスリランカからのオープンジョーチケットを購入。モルジブースリランカ間はスリランカ航空で別購入1万2千円程。
リゾート滞在しかできないと思ってたモルジブもマレ滞在なら普通の旅行並みに訪れることができる。ブッキングコムで1泊4500円程のモーテルを2泊予約し、入国時に復路の航空券とホテル予約書を見せれば、入国が許可された。
1日目、、、
空港からはボートで首都マレまで。ここは小さな島。そんな中に所狭しと建物が林立する世界屈指の人口過密地域。ほー、ここがモルジブか!と少しばかり興奮。だってモルジブ何て絶対訪れることなんかないよな、そう当時は思ってたから。何はともあれ、この島をてくてく1周。海岸沿いにはテトラポットで津波対策がされていた。看板を見るとJAPAN国旗が。日本の支援でこの津波対策がなされてるらしい。さすが日本!誇らしくなる。ガーナでも、、、住んでた所の近くに橋がかかっていた。ずいぶん近代的な橋だなと思ってたら、やっぱりJAPAN国旗が。この橋は日本国民がガーナ国民のために作った、、とかという標示が。日本政府ではなく日本国民が、というところがにくい!
で、鰹がとれる港に行ったり、地元食堂に入ったり、公園にあるでかいテレビでモルジブの番組を見たり、、、。
2日目
せっかくなので泳ぎたい。隣の小さな島へ渡る船に乗り、泳ぎに、、、。リゾート地域に行けばもう1日じゅう海三昧なんだろうが、貧乏旅行者にはこの島の公共ビーチで十分。インド洋で海水浴。地元の方も。(こちらの女性、水着なんかは着ない。服のままで海に入る)
という感じの小旅行。嫁にモルジブ行ってきたことを話すと、スリランカよりモルジブの方に行きたかっただって!、、、
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2014年12月
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投稿日 2023年12月13日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
コスタリカには1度だけ訪問。2008冬の中米縦断旅行で。といっても、コスタリカは特に観光をしていない。ニカラグアから長い長ーい長時間の国境越えを終え、コスタリカに入国したのは夕方。ニカラグアとコスタリカには経済格差があり、ニカラグアからコスタリカへ渡る人々がこの国境に殺到していたのだ。
で、この国境を越えてやっと現実を理解した。自分、日本史を大学時代専攻していたのだが、近代史にはやはり誤解をしていた。というのは、朝鮮と日本の関係。日本は朝鮮人を強制的に連れてきて働かせた。と、自分もずっと思ってた。学校でもそう教えられてたから。いわゆる徴用工問題というやつだ。でも、この国境を越えて納得した。それは、強制連行なんかしなくても、人々は豊かな国を目指すという現実。メキシコからアメリカへ。アフリカからヨーロッパへ。人々は殺到する。そこに豊かな地があるのなら目指すのは当たり前なのだ。当時、朝鮮は貧しい国だった。日本に行けば仕事がある、高い給料ももらえる。密航しても日本に行きたい、そう考えるのが普通。それが、、、強制され日本で過酷な仕事に就かされた、、、賠償せよ!。優しい日本人は、そうかも知れんな、当時の状況は知らないけど、、、そう思ってしまう、、、。徴用工なんて嘘っぱち、、、経験上そう思う。
で、コスタリカに入国して首都サンホセへ向かうバスに乗車。もうニカラグアとは段違いの綺麗なバス。内戦で混乱したニカラグアとは全然違っていた。
残念ながら時間もなく、コスタリカはサンホセに1泊してほんの少しだけ見ただけ。ローカルバスでの入国に懲り、パナマへ向かう国際バスのチケットを入手したのみ。
思い出と言えば、この国際バスでのことだけかも。とにかく寒かった。冷房の効きすぎ。止めようにも、冷風が吹き込んでくる穴が壊れていて、何か突っ込んで止めようにも冷風が流れ込んでくる。長袖は持って来てなかったので、もう寒いっていったらありゃしない。見かねた近くの現地の家族が、バスタオルを貸してくれたのだが、とにかく寒かった。(外は暑いのです。これもニカラグアとの大きな違いですね。)
、、、と、こんな感じのコスタリカでした。でも、行って現実が見えてよかったです。これがなきゃ、日本は朝鮮人を強制的に日本に連れてきて過酷な労働を強いたというデマをずっと信じていたことでしょう。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2009年01月
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投稿日 2023年12月13日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
パナマへは1度だけ訪問。(コスタリカの思い出の続き)
コスタリカから国際バスで入国したのだが、ここは入国管理が厳しかった。航空機で入国ならそうでもないのかもしれないが、陸路入国では、まず帰りの航空券、そして所持金(現金)を見せなければ入国が許可されなかった。え、現金?クレカなら持ってるよ!と見せるものの、現金だ!と、取り合ってくれなかった。仕方なくリュックの底からもしもの時の現金300ドルを見せ、やっと入国許可が出た。ここ中米パナマではJAPANパスポートの効力はないらしい。
パナマではもちろんパナマ運河観光がメイン。運河を見たあと、運河鉄道に乗車し、危険な町と言われたコロンへ。どんなに危険な町かと身構えて行ったけど、そうでもないような感じだった。自分が日本人に見えないからか?よくわからず。帰りはバスでパナマシティまで。せっかくなので世界遺産パナマの旧市街も散策。
思い出は、、、
・安食堂を探したけど、見つからず、、、セットメニューのcombo○という飯がおいてるチェーン店がここでは安く食べられる唯一の店なのかも?それでもけっこういい御値段だった。
・パナマでは米ドルがそのまま使えるが、表記はバルボア、、、。パナマでしか使えないコインがある。
・パナマ運河は見所満載。ここは学校で必ず学習する所。見に来てホントに良かった!人間が汗水流して作った運河がどういうものかがわかる!
・治安はそんなに悪そうではないなと思ったが、こればっかしはよくわからない。訪れた中米諸国を治安がいい方から並べると、(あくまでも自分の印象)
1、コスタリカ
2、パナマ
3、グアテマラ
4、ニカラグア
5、ホンジュラス
6、ベリーズ
7、エルサルバドル
こんな感じかな?
別のサイトの旅行記を見ると、パナマから小島を伝って船でコロンビアへ抜けられるらしい。陸路では無理なので、海路で、、、。いつか北米大陸から南米大陸へ渡るこの縦断の旅に行ってみたい。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2009年01月
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投稿日 2023年12月09日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
ベリーズ訪問は1度だけ。メキシコカンクンからパナマまでの中米縦断旅行で。ベリーズはカリブ海で泳ぎたい、それだけが目的だった。当時、中米でVISAが必要な国はベリーズだけ(今は必要ない)。メキシコチェトマルからベリーズへ向かうバスに乗り込み国境へ。ここでVISAを取得。判子と何やら手書きで書き込まれる。早くしてくれ!バスがいっちまうんじゃないか!ただ1人、VISAが必要な乗客は自分だけ。取り残されるのではないかと心配だった。でも、バスはちゃんと待っててくれた。無事ベリーズ入国。
国境の町からバスを乗り換えベリーズシティへ。ここからキーカーカーという島に渡るためだ。ベリーズシティで、バスターミナルからフェリー乗り場までてくてく歩く、、、。 すると片足を引きずる若者が、、、。ガイドしてあげるよ!と。どうせガイド料を後でせびるんだろうと、必要ない!と断るもついてくる、、、。途中がたいのよい男に呼び止められた。どこから来たんだ?これからどこに行くんだ?メキシコか?グアテマラか?、、、正直に日本人で、これからグアテマラに向かうことを伝えると、そうかと、、、。片足を引きずる若者が後からこう言った。メキシコと答えてたら金をとられてたぞ!と。俺の足は拳銃で撃たれたんだと。、、、本当か嘘かはわからないが、ありうるかもしれないと思ってしまった。中米は治安が悪いとは聞いてたが、、、首都はできるだけ避けようと思った。
キーカーカーではマナティツアーに参加。ここはツーリストの島で、宿泊、ツアー参加と全く困らない場所だった。ドルのTCさえ使えた。
マナティツアーに参加し、驚いたのは自分以外に日本人ご夫婦がこのツアーに参加していたこと。まさかベリーズのキーカーカーで、日本人に会えるとは思っていなかった。1人参加の自分にとても気遣ってくれ、ツアーを楽しむことができた。現地ツアーに参加して困るのが1人という立場。インドネシアで、初めて参加し一番困ったのが、白人の中に1人アジア人。言葉もあまり通じないし、、、。そのときは全然楽しめなかったが、今回は楽しめた。ご夫婦に感謝!
という感じで、マナティは見られなかったが、カリブ海で泳いで、そのままグアテマラフローレスへ。世界遺産ティカル遺跡を見るため。
次もし訪れることがあるなら、もう1つの島かな?
以上色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2009年01月
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投稿日 2023年12月12日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
アイルランドには1度だけ(トランジットを含めると2度)訪問。
JICAでガーナ滞在中、仲間のみんなは任国外旅行としてたいていイギリスへ向かう。が、自分はマリ、ブルキナファソへと向かった。イギリスへならいつでも行けるんじゃないかと、、、。だが、みんなが戻ってきてイギリス旅行の話を聞けば聞くほど、羨ましくなってしまう。日本に戻ったら、絶対イギリス旅行へ行こう、、。
で、決行。どうせ行くなら、カントリーと呼ばれるイギリスの地域全てに行ってみようじゃないか!イングランド、ウェールズ、北アイルランド、スコットランド、さらにはマン島、オークニー諸島にシェトランド、、。で、計画したのが、、
●航空券が安かった大韓航空フランクフルトIN
●列車で、フランスパリに向かい、
●ユーロスターで、イングランドのロンドンへ
●すぐさま列車でウェールズへ。ウェールズのカナーヴォン城とコンウィ城を観光し、列車でホリーヘッドへ。
★ホリーヘッドからフェリーでアイルランドのダブリンへ、ダブリンを観光し、
★列車でドロヘダ、バスで世界遺産ニューグレンジへ。バスでドロヘダへ戻り、また列車で北アイルランドへ。
●北アイルランドにある世界遺産ジャイアンツ・コーズウェーを観光し、
★ダブリンに列車で戻り、
★フェリーでマン島へ、、、。
●マン島からはフェリーで、当時はまだ世界遺産だったビートルズの故郷リバプールへ。
、、、
という感じで、アイルランドは首都ダブリンと世界遺産ニューグレンジのみ訪問。
アイルランドの印象は、、、
・ダブリンではもちろんパブに。イギリスではフィッシュアンドポテトばかり(これが一番安くて手頃、しかもどこにでもある)、、決して美味しい物ではない。せっかくアイルランドに来たのだから、パブに入ってうまいものを食おうと、、。もちろんギネス(黒ビール)は忘れない。やっぱりうまかった!
なぜ、こんなにイギリスと近いのに食文化は違うんだろう?美味しいアイルランドの飯はなぜイギリスへ伝わらなかったのかがとても不思議?
※ガーナのアクラには1件アイリッシュパブがあったのです。首都に行ったときにはみんなでたまにですが、行ったものです。食い物がうまかった!それを覚えていまして、、、。
・世界遺産のニューグレンジ、、、パキスタン旅行で中国へ行くバスに同乗し、カシュガルまで一緒だった方はアイルランドの方だった。「アイルランドには1度行ったことがあります。大きな丸い遺跡を見に行きました。」と話したのだが、遺跡の名前がどうしても思え出せなかった。、、、すると彼も、、、「ストーンヘンジか?」と。ン、何か違うような、、、。でも思い出せず、「それかも!」
ニューグレンジ、ストーンヘンジ、、、なんか似ている響きなんで間違えてしまった。きっと彼は、「こいつ、イギリスとアイルランドを混同してるな」と思ったかもしれない。、、、どうでもいい話でした。
とにかく丸い大きな墳墓?ニューグレンジ遺跡を見に行きました。この遺跡はピラミッドよりも古い時代に作られたらしい。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2010年08月
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投稿日 2023年12月10日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
キプロスには1度だけ訪問。2011冬のアラブ諸国縦断の旅で。といっても北キプロストルコ共和国がメインで、キプロス本国にはニコシアから南側へ越境し数時間滞在しただけ。
トルコイスタンブールから列車を乗り継ぎ、メルシンまで。そこから北キプロスへ行くフェリーが出る町タシュジュまでバスで。
でも残念ながらフェリーは悪天候のため、午前便は欠航。午後便は出るようで、ずっと寒い中、待っていた。待合所にストーブはない。現地の方も毛布にくるまり寒さを凌いでいた。出港間際に電気ストーブが置かれたが、、、もっと早く置いてくれー!
北キプロストルコ共和国、日本は未承認。入国しても特に入国スタンプはないし、トルコ内での移動と変わらず。
で、ここでの1番の思い出はギルネで見つけたレストラン。雨の中、どこか食べれる所はないかなあと探し回ったら、この小さなレストランを見つけた。メニューを見たらステーキが15ドル。お、食べてみようとミディアムで注文したら、この旨いことといったらありゃしない!腹がへってるためなのかスターターのパンさえ、ウメー!次の日の夕食もここで食べてしまいました。こんな未承認国家で今までで一番旨いステーキを食べるなんて思ってもみませんでした。
ギルネからはバスで首都ニコシアへ。ここは国連の平和維持軍が駐屯している。南側へ行くには数ヶ所あるチェックポイントで出国手続きをする必要がある。小さなプリントされた紙が渡され、南側のキプロス共和国へ。特に変わりはないが通貨はユーロへ。散策していたらバス停があった。時刻表を見たら世界遺産の町パフォスまでのバスも、、、。バスで行けたらいいなあと思いつつも、当時はまだ制限があったので、引き返す。(今は北から入り南から出国も可能らしい) 境界線を写真に撮ろうとしたら、見張り塔の軍人さんに、撮るな!と注意されてしまった。ここは写真はダメなよう。
ニコシアからはもと来た道で戻るのもなんだし、もう1つトルコメルシンへ向かうフェリーが出る東側の町ガジマウサへ向かう。少し観光し、無事夜出港するフェリーに乗船。
2023ヨーロッパレイルタイムスケジュールを見たら、ギリシャからキプロスへ向かうフェリーが復活していた。もし機会があれば、次はこのルートで。キプロス本国の世界遺産も見てみたい。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2010年12月
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投稿日 2023年12月11日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
スウェーデンには2度程訪問。
1度目は、2002夏の東欧横断の旅から急遽変更した北欧縦断の旅。
デンマークのヘルシンキグーアから船でスウェーデンのヘルシンボリまで。そこから列車を乗り換えてノルウェーのオスロまで。(通り過ぎただけだが)
で、ノールカップまで向かうわけだが、ここノールカップから全く予定していなかったフィンランドのロバニエミまで行く夜行バスがあった。スカンレイルパスは使えないけど、夜中発のバスの中で寝ていて、朝にサンタクロースの町ロバニエミに到着できるバスは、時間短縮にもなるしとても便利だった。料金は120ユーロ。ちと値ははるが、またノルウェーに戻るよりは効率的だった。
で、ロバニエミを観光し、列車で南下し、スウェーデンとの国境の町まで。そのままヘルシンキに行くという選択もあったが、スウェーデンを全然見ていないのも気になるので、首都ストックホルムへと向かうことにした。
実はこのフィンランドとスウェーデンは鉄道の軌道幅が違う。この国境を通る国際列車は、国境で台車?の交換がされるというのだ。数時間待たされるらしいが。駅で列車の時刻を確認したが、残念。この列車に乗るとストックホルム行きの夜行列車には間に合わなかった。で、仕方なくバスにてスウェーデンルレオまで。そこから列車でストックホルムまで一気に。一般車両でなんとなく眠りにつき朝にストックホルム到着。けっこうしんどかった記憶がある。
ストックホルムではもちろん有名観光地ガムラスタン地区を観光。王宮、歴史的建造物、、ここは目白押し。
で、レイルパスで無料乗船できるヘルシンキ行きのフェリーに。ただし自分はムーミン村を訪れるため、フィンランドのトゥルクまで乗船。これが1度目のスウェーデン訪問。物価が高いのでホテルには宿泊せず、車中泊、船中泊で、切り抜けた。
2度目は昨年2022夏のグリーンランドへの旅行で。コペンハーゲン空港に降り立ったものの、せっかくならすぐそこのスウェーデンにも再度訪問したいもの。以前の旅では行けなかったマルメに行ってみた。コペンハーゲンの空港からは直通で行ける。ただ、列車の切符購入に困ってしまった。駅で購入できると踏んでたものの、もう無人。券売機での購入しかできなかった。悪戦苦闘し何とかクレカでチケットを手にし、マルメ行きの国際列車に乗車。マルメでは安いホステルに1泊し、散策。お城を見に行ったり、マップスミーに表示される観光スポットを見に行ったり、、、。一番衝撃的だったのは、無人スーパー。田舎者の自分。初めて無人スーパーという物に入った。きっとここでしか経験できないと思って。お菓子やらジュース等を持っていざ会計へと進んだものの、、、。やっぱりどうやるのかがわからない。前にいたおばあさんも同じように困ってる、、、。で、結局、1名だけいる若い店員さんにやってもらった、nー難しい!外国人には特に難しい!
帰りのコペンハーゲンに向かう列車のチケットも結局無人販売。駅員はいない?券売機でクレカを使って購入するしかなかった。
という感じで、コロナ禍でスウェーデンは無策?というか対策は免疫を獲得するためほったらかしだったと聞く、、無人化が特に進んだようです。いいのか悪いのかはわかりませんが。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2022年07月
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投稿日 2023年12月10日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
ネパールには2度程訪問。
1度目はまだ若かりし大学2年生の時、1988春の初海外旅行で。中国旅行でチベットに行って、成り行きでネパールへ。拉薩の領事館でVISAを取り、拉薩で一緒になった仲間たちとバスに乗り継ぎながらカトマンズに向かった。今となってはどういう経路で行ったのかすっかり忘れてしまったが、コダリ国境を通ったことだけはしっかり覚えている。中国の国境を通り、歩いて下ってネパールの村に。ここで1泊。見るからにチベットの方々とは全く違う身なり。食べ物も違った。そして次の日、トラックの荷台?(たしかそんな記憶があるのだが、、、)に乗って山を下って行った。季節は3月下旬。チベットではまだまだ寒かったのに、このトラックの荷台に乗って下って行くと、暑さが増していった。暑い!チベットとネパールはこんなに違うものなのか!
仲間たちから自分は「新疆(しんじゃん)くん」と呼ばれていた。ウイグル族の方に顔立ちが似ているからだとか。ネパールに入ると、「君にそっくりな人がいる!」と。たしかに、ネパール人はなんだか自分に風貌が似ているような気がしてならなかった。
で、とうとうカトマンズに到着。ガイドブックは持ってきていないので、仲間たちが頼り。宿も知らないので、ついていくしかなかった。
で、ネパールでの初体験は、、、。ガ○○にハ○○、若気の至り。、、、。日本では絶対やってはならないイリーガルなものがここでは簡単に手に入ったのだ。宿には長期滞在中の日本人がなんと部屋で育ててる、、、これが一番いいんだ!と自慢げに。
(地元のネパールカレーのお店で、そんな昔話をしてると、お母さんが、これでしょ!と。それは小鳥にあげる餌だった。袋を見たらたしかにこの中に、少しだけその成分が入っている記載があった。)
町にいけば、あ、この人目が真っ赤!やってるな!そう感じる人たちがそこらじゅうに。ネパール、、、衝撃的でした。
カトマンズに10日間程滞在し、ネパール航空香港行きの航空券(たしか5万円程)を購入し、香港へ。
2度目はブータン旅行の帰路にて訪問。ブータンのプンツォリンから出国しインドへ。そのままバスにてネパール国境まで。で、東側の国境を越え、カトマンズ行きのバスに乗車。まだ休みもあったし、久しぶりのネパールがどう変わったか見たかったのだ。VISAは国境で取得。3日しか滞在しないので、3日間トランジットVISAで。これなら無料。
ただ、この東側からカトマンズに向かうルートは検問だらけだった。ちょうどネパール王国が混乱している時期(マオイストたちがあちこちで反乱を起こしていた)で、あちこちに道路を封鎖する検問所が設置されていた。それでも久しぶりに食べたダルバート(ネパールの定食)に、オー、これこれ!ネパールでよく食べてた1番安い定食!、、、懐かしかった。で、カトマンズに到着。あのクマリの館があるダルバール広場へタクシーで向かい、モモを食べ、昔を懐かしんできた。そしてそのままインド国境へバスで向かった。カトマンズ滞在はわずか3時間程、それでも行きたかったのだ。
ネパール、、自分にとっては若かりし頃の思い出の地。もうあの当時のネパール王国ではなくネパール国に変貌はしましたが、、、。ネパールカレーのお店に行って、当時を思い出してるのです。「30年程前にも行きました。」お店の人はびっくりします。店員さんも生まれてない時のネパール。そりゃ驚きますよね。
といいながら、ネパールはカトマンズしかじっくり滞在はしていないんです。「今度はポカラに行って来ますね」と店の人に言うものの、タイ、ミャンマーからインド、ネパール仏教聖地横断の旅はまだまだ先かも。ミャンマーとインド国境は1度は開かれたのに、、、。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 1988年04月
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投稿日 2023年12月10日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
グアテマラには1度だけ訪問。2008冬の中米縦断旅行で。ベリーズからバスを乗り継ぎフローレスへ。ここは世界遺産ティカル遺跡の町。ティカル遺跡はいいところだったなあと今は思い出される。雰囲気はカンボジアのアンコール・ワット遺跡に近いかも。あちこちに遺跡は点在し、こんな森の中に1大文明が存在してたのかという気にさせてくれる。今は遺跡に登ることはできなくなったようだが、当時は自由に登れ、辺り1面が見渡せた。
ティカル遺跡観光後はキリグア遺跡を訪れる予定だったが、バスターミナルで尋ねると、キリグア行きのバスはなく、グアテマラシティ行きのバスに乗り、途中で降ろしてもらえとのこと。料金はグァテマラシティまでと一緒だという。半分くらいの道程で同じ料金とは、、、。けちってしまったが、今では後悔。行っておけばよかった。、、、若い時はけちってしまいがち。けちって失敗したことが何度この後あったことか、、、。
ということで、キリグア遺跡は見ずに素通り。グアテマラシティへ。ただし、ベリーズシティでの経験で首都はできるだけ避けておくことを学んだので、着いて即、世界遺産アンティグアへ向かう。
アンティグアは治安は問題なし。さすがツーリストやスペイン語学習者が訪れる町。ゆったりと観光できた。
という感じで、グアテマラには2ヶ所ほどしか訪れていない。メキシコやエルサルバドルとは違い、グアテマラはケツァル語を話す現地民の方が多い国。見所もたくさんあるし、もう一度ゆっくり見てみたい国ですね。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2008年01月
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投稿日 2023年12月10日
総合評価:1.0
色塗り投稿です。
リヒテンシュタインには1度だけ訪問。たしか2005夏の中欧横断旅行で。オーストリアを列車で駆け抜け、フェルトキルヒで降車。そこからファドーツまでバスにてリヒテンシュタイン入国。パスポートチェックがバスの中で行われた。全て終わると係員、無線で連絡。、、、ジャップが1人!、、、英語がわからないとでも思ってるのか、ジャップ。
、、、ジャップにはジャパニーズの略として普通に使われてる場合と、差別的な意味を含めて使われることもあるそうだ。、、、残念ながらあまりいい感じの入国ではなかった。
ファドーツでは切手博物館等巡り、公宮殿も見ようと思ってたのだが、遥か山の上に公宮殿はあった。見学できるのかわからない(どうなんでしょう?)ので、リヒテンシュタイン入国スタンプを購入し、そのままてくてく列車駅のあるシャーン駅まで。ホテルに泊まりゆっくり観光したいのだが、ここには安ホステルはないようなので、途中のホテルやペンションを横目にすたすた。で、シャーン駅からスイスブッフスへ。数時間の滞在でした。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2005年08月
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モンゴルでの思い出
投稿日 2023年04月14日
総合評価:5.0
4トラ色塗り投稿です。
モンゴルへは1度だけ。当時はロシアはもちろん、モンゴルもバウチャー旅行が主流だった。ロシアはバウチャー旅行でも、隣国モンゴルなら自由旅行ができるのでは?そうもくろみ、試してみたのだ。予想は的中。ウランウデの国営旅行社でモンゴルVISA50ドルが取得でき、そしてスフバートルまでの国際列車チケットも無事購入できた。
ウランウデでは地元の方の家に誘われ、ついついロシア出国予定より1日滞在が延びてしまった。ロシア出国時、係官にVISA(当時は別紙)を見せるものの、やはり見つかってしまう。VISAが切れてるじゃないか!あまりの大声にびびってしまった。警察行き?最悪な状況が頭の中を駆け巡る、、いったいどうなるの?
係官は静かに言った。じゃあ、罰金ね!、、、3000円程だったかな?忘れちゃったが、罰金ですんだ。ロシアの係官びびらせやがった!
モンゴル行き国際列車では、もう1人の日本人、そしてイタリア人カップルが同室だった。3人ともバウチャー旅行でウランバートルまで向かう。国境の町スフバートルで降りるのは自分だけ。こんな所で降りてどうするの?心配してくれるが、アルタンボラク国境が見たかったのだ。すぐに駅中のホテルをとると、なんと一泊2ドル。相部屋だったが破格のお値段。宿の値段をツタエルと3人とも驚いていた。じゃあ、ウランバートルでまたお会いしましょう!そういって別れたが、その後大変な事態となった。
ホテル相部屋となったもう一人の方はモンゴルの方。意志疎通は難しいが、2人で夜の蚊退治をすると意気投合した。(新聞紙を丸めて天井に止まっている蚊をやっつける。)次の日、アルタンボラク国境にバスで行き、戻ってくると、彼が大変な事態となったことを身振り手振りで教えてくれた。首を切る仕草を何度もしてくるが、??意味がさっぱりわからず。英語を話せる彼の親戚の女性が言うには、スフバートルとウランバートルとの間の町で疫病が発生し、通行止めとなったとのこと。列車もダメだとのこと。解除されるのもいつになるかわからないと!なんと!このままでは帰れない!仕事に間に合わない!どうする?
本当なのか、まず駅に確かめに行った。すると、国際列車は走ってるが、スフバートルからの乗車はダメだとのことだった、、、。ここから悪戦苦闘が始まる。1日たち、2日たち、3日たち、、、状況は変わらない。駅の周辺にはウランバートルへ行けない人々が大勢野宿を始めていた。このままじゃ帰国できない!何とかならないか!彼の親戚の女性に助けを求めた。、、、助けてくれる現地の方々が町の有力者へ陳情に向かう。あっちに行ったりこっちに行ったり、、いったい何件回っただろう?言葉はわからないので、ただただ様子を見るだけだが、、。結局、5日目で何とか外国人だけ、国際列車乗車が許可された。現地の方々はウランバートルへは行けない。夕方、大勢の現地の方々の見送りの元(5日もいると顔見知りとなる)、国際列車に乗車。自分ともう1人ロシアの方だけが乗車できた。バイルラー!バイルター!大勢の方々とさよならした。列車で大勢の方々に見送られたのはこの時限り。
ウランバートルでは全く観光できず、すぐに中国行きの列車に乗ることとなったが、良き思い出となりました。(後で調べてみると、この時の疫病はコレラではないかと、、、。)- 旅行時期
- 1997年08月
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投稿日 2023年12月09日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
オランダ訪問は1度(ガーナへのトランジットを含めると2度)だけ。
スイス鉄道旅行の後、ベネルクスのレイルパスを使ってスイスチューリッヒから夜行列車でオランダアムステルダムへ。オランダはヨーロッパの中では異質な世界。国土はオランダ人が作ったといってもいいほど、海を堤防でせき止め、低地を干拓して形成された。中学社会で習ったようだが、その記憶はなかった。が、大人になりその事実を知ったら興味がわいてきた。日本とも江戸時代からの交流がある。ポルトガル、スペイン、そしてオランダ、イギリス、フランス、、、一時期は世界を席巻さえした海洋国家。
オランダと聞いて自分が思い付いたのは、シーボルト、ゴッホ、チューリップ、風車、コーヒーショップ、飾り窓、、、。これらを見に行く。
・アムステルダムでは、宮殿、ゴッホミュージアム、飾り窓、そしてコーヒーショップを覗く。ここオランダではマリファナがコーヒーショップで売られている。実際、町には至る所にコーヒーショップがあった。日本で何か問題が起きるのがいやなので店には入らなかったが、マリファナは合法とされているのがオランダだ。昨今、この流れが世界に広まっているらしいということをエジプトで出会ったOさんから聞いた。日本人も昔は大麻の国だったのに、、、Oさんは語っていたが、、、。ちなみに自分、若かりし頃、ネパールで初めて経験した。宿で育ててる日本人もいた、、、。
・有名な飾り窓も見に行ってみた。遠目で見ていたが、、、そんなにすごい所ではないような、、、。韓国の588の方がすごかった!でも588も今では昔話。韓国に憧れをもって訪韓する日本人女性たち。588の現実を見たらどう思ったんだろうか?
・ライデンのシーボルト博物館に行ってみた。幕末ごろに長崎で活躍していたシーボルト。帰国時に日本のありとあらゆるものを持ち帰ったという。たしか今では絶滅したニホンオオカミの剥製をここで見た記憶が。違ったか?
・風車を見にキンデルダイクへ。オランダと言えば風車、チューリップ、、、絶対ここははずせない。帰りにもオランダを見た。たまたまここから出ているフェリーを見つけ、ロッテルダムまで乗船。乗り込んでくる方が、ヘルメットを被った自転車ツーリスト。ここでは普通のことだった。当時そんな人を日本で見かけたことはなかったので新鮮だった。フェリーから自転車で颯爽と降りる姿がかっこよかった。
・で、一番記憶にあるのがアムステルダムで、泊まったホステル。当時は地球の歩き方で宿を決めていた。寝れればいいだけなので、当然安ホステル。ベッドはありますか?従業員にまず尋ねたら、ない!とのことだった。仕方がないので、その場で歩き方を開き別のホステルをさがしてたら、、、。ベッドはある!とさっきの方が。???さっきはないと言ってたのに何で?
推測するに、、、自分の見た目かと。日本人には見られない自分。彼は中東かどこか貧しいの国の人と思ったのかもしれない。リュック1つのバックパッカーならなおさら。でも、ガイドブックを取り出し、地球の歩き方を見ている、、、日本人なのかと思ったのかもしれない。日本人にならベッドはある、、、。アジア人への人種差別?
オランダはインドネシアを植民地としていた。当時のオランダ植民地支配の実態は知らないが、現地民への差別は相当あったと思う。インドネシアの植民地支配を終わらせたのが日本だった。子供の時は、太平洋戦争は日本が侵略を目的に進めた戦争と習い、インドネシアにも攻めこんでいった事実を知ると、何て日本は悪い国なんだと思ったことさえあった。インドネシア人を殺害し、、、。
でも違った。事実はインドネシアを植民地にして支配していたオランダ人と戦っていたのだ。追い出されたオランダは日本が戦争に負けると再びインドネシアを植民地にしようと戻ってくる。そこで立ち上がったのがインドネシア独立戦争だった。旧日本兵も現地民の抵抗を支援したという。そして1949年、インドネシアは独立を達成。日本人のデビ夫人が何でスカルノ大統領夫人だったのかという疑問も納得がいく。
※当時、オランダは反日国家だった。天皇陛下がオランダを戦後初めて訪れたとき、事件が起こったという。唯一と言っていいほど広大な植民地を日本はオランダから奪ったのだ。そういった感情をオランダ国民は持たれたのかもしれない。
という感じで、ヨーロッパに行って初めて人種差別を考えさせられた旅行地となりました。植民地、人種差別はダメだという考えに世界がなってからまだ100年もたってないんですよね。今ならそんなこと当たり前じゃないかと思ってしまいますが、人間、そう簡単には変われないものですよね。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2003年08月
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投稿日 2023年12月09日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
ルクセンブルクには1度だけ訪問。ベルギーブリュッセルから列車に乗って到着。たいした思い出はないが、公宮殿を見学後、世界遺産の町を散策。ホテルは歩き方の載っていた一番安いホテルに。イタリア料理店の2階が宿泊できる場所。いい匂いが漂っていた。朝食つきだったのだが、翌日は早朝に出発しなければ帰国便に間に合わない。フランクフルトからの大韓航空で千歳まで。朝食は何時から?一応聞いてみたが、残念!そんな感じのルクセンブルク滞在だった。
ちなみになぜ早朝出発したかと言えば、フランクフルトへの通り道にドイツの世界遺産トリアーともうひとつケルンの大聖堂を見たかったので。途中下車しながらてくてく訪れた。昼に無事フランクフルト到着。帰国便に間に合った。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2003年08月
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投稿日 2023年12月04日
総合評価:1.5
色塗り投稿です。
ホンジュラスには1度だけ訪問。2008冬中米縦断の旅で。エルサルバドルからエル・ポイ国境を通りバスでコパンまで。ホンジュラスに入り、初めて驚いたことがオレンジ。バスが休憩した所ででオレンジが売られていた。このオレンジ、どうやって売られているかと言えば、手回しの皮剥き機でくるくるくるくる、、、。あらら、あっという間に固い皮はなくなった。そして、上部をカット!こうしてこちらでいうオレンジジュースの完成。あとは押して上部からオレンジの果汁を飲む。そして残りカスはその辺にポイ!これがこちら流のオレンジの飲み方らしい。
ガーナでは皮は剥かないけど上部をカットして、同じように果汁を飲む。どうやらこれが世界での一般的なオレンジの飲み方のようです。ちょっと驚いてしまった、、、。
コパンに到着すると、すぐさま客引きが、、、。ここコパンではプライベートルームを貸し出す家が多く、宿に困らない。ついて行くと、日本円で1泊900円程で1部屋借りることができた。英語は全く通じないが、綺麗な部屋で、この旅行の中では一番コストパフォーマンスが高かったと記憶している。
で、翌朝早速世界遺産コパン遺跡観光。グアテマラのティカル遺跡には負けるが、それでも見処多い遺跡だった。
コパンからはバスで首都テグシガルパへ。本当は中米諸国の首都はできるだけ避けようと思ってたけど、次のニカラグアへ行くために避けられなかった。仕方がなく、歩き方を頼りにある程度のホテルに宿泊(セキュリティが高いだろうと思って)。が、残念。なんだこれは!と思う程薄汚れたホテルだった。これで5000円も取るのか!というぐらい。町も薄汚い感じだった。中米諸国の首都の中ではたぶん一番活気のない首都に感じた。町歩きも早々にけりを付け、翌朝ニカラグアへと向かった。
ということで、ホンジュラスのおすすめはコパン遺跡。ここだけは見ておいてよかった。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2009年01月
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投稿日 2023年12月02日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
ケニアには1度だけ訪問。エチオピア旅行のあと、アジスアベバからバスで南下。アジスアベバで歯磨きスリに遇い、スマホをとられたので、地球の歩き方東アフリカ編がたよりだった。ただ、歩き方には、このルートは危険、とのことで情報はなし。
陸路は危険、、、本当にそうなのかな?といつも疑問に思ってしまう。
JICAでは何か出張があり地方都市に行く場合、隊員は航空機では行けない。(行ってもいいが旅費は出ないので自分持ち。)バスで行くことになる。但し、専門員、職員は航空機での出張となる。(安全上とのことで)
知っていた専門員が現地で強盗にあった。出張のおり、空港から町へ向かうタクシーに乗車したところ、ドライバーが強盗に豹変してしまったというのだ。ガーナでよく草刈りに使う大きななたを持ち出し、金銭を要求してきたという。、、、ガーナではトロトロという現地のミニバス、それから長距離の大型バスでしか交通手段がなかった自分。1度もそんな目にはあわなかった。当然、航空機に乗る人はお金持ちだと見られる。安いトロトロに乗る人は庶民だと思われる。航空機の移動は安全?だとは自分は思わない。
アジスアベバからケニア国境行きの直通バスはない。とりあえず地図を頼りに途中の町へ向かう早朝バスに乗車。そこで行けるところまでミニバスに乗り換え向かった。たしかヤベロという町まで。そこでホテルに1泊し、次の日、ミニバスで国境の町モヤレまで。この町、エチオピア側とケニア側に2分されていた。スマホがないので道がわからず歩くことはできなかったので、バイクタクシーでケニア側へ向かった。エチオピア出国スタンプも押さず、ケニア入国管理事務所へ。え、いいのか?エチオピアを出国しなくてもいいのか?運ちゃんは問題なしというが、、、。で、VISAを購入。3ヶ国VISAもあるけど、今回はケニアのみ。VISA代50ドル払ってケニア入国。確かにエチオピア出国せずとも問題なしだった。
モヤレからはナイロビ直通のバスがたくさん走っていた。昼2時30分発のバスで行くことに。バス代は2200円程。で、翌朝5時頃にナイロビ着。当時、あまりナイロビの治安は良くないとのことで、明るくなるまでバスで待機。他の乗客もバスの中で寝ていた。
アジスアベバからは2泊3日でナイロビ到着。陸路は危険、との歩き方情報。こんなもんですよね。昔はこのルート、悪路をトラックの荷台で走破という感じで、大変だったようですが、現在は道もそんなにひどくはなかったし、夜行バスが頻発している、そんなふうに変わっていました。
ケニアでの思い出は、、、。
・ナイロビの到着した所がスマホなしなので全くわからず。で、近くにあったホテルに駆け込み宿泊。3000円ぐらいだったかな?
・ケニアシリングを入手しなくてはならず(国境でエチオピアブルからケニアシリングに両替した分が底をついてしまったので)、銀行に行くと、窓口担当者、ここで替えないで近くの両替所に行きなさいと、紙に両替所の名前を、、。確かに銀行のレートより全然両替所の方がよかった。ケニアでもブラックマーケットが存在している。(エチオピアブルも闇両替の方が全然レートはいい)
・治安は良くないという情報で行動してたが、そんなんでもなかったかもしれない。どこにいるのかさえわからないが、町をぶらぶらしても危険な目には遇わなかった。
・ナイロビでの飯。どんなものが食えるのか、全くわからず入った地元のレストラン。一番高いメニューを頼んでみた。(1000円程)そしたら、ホイルに包まれたお肉がドーンと、、、。こんなに食えるか?と思ったが、うまかったので完食!
・モヤレの町では地元民の定食屋へ。プレートには豆が、、、。日本人はあまり豆そのものを食べないが、ここは豆の存在感が増している。で食べてたら、地元の小学生にハロー!と。西洋人に間違われたかな?
・ガーナとは同じイギリスの植民地だったが、食い物は違った。隣国エチオピアとも違う。まあ、2日程しか滞在してないのでよくわかりませんが、、、。
・帰りはホテルでタクシーを手配してもらい、空港まで。2000円程でした。
東アフリカへの足がかりとして、ケニアを訪問したわけですが、それほど危険ではないなという感じを受けました。次行くときは、ケニアでサファリ、ウガンダでゴリラ、ルワンダで「ホテルルワンダ」、ブルンジで???そしてタンザニアで再度サファリ、、、お金がけっこうかかりそうです、、、。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2019年01月



