藤原家隆の墓
名所・史跡
3.30
クチコミ・評判
1~12件(全12件中)
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台地側からのアクセス。愛染坂と口縄坂の中間点
- 3.5
- 旅行時期:2022/05(約4年前)
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このあたりが夕陽丘という地名になったのはこの鎌倉時代の歌人・藤原家隆がこの付近に「夕陽庵」をかまえたことから、とのこと。当... 続きを読む時は上町台地の崖の際から大阪湾に沈む夕陽がよく見えたことでしょう。天王寺七坂といいますが、坂の上と下が必ずしも直線で対応していなかったり、石段だったりなかなか攻略の難しいエリアです。その坂の先に何があるか、初見では到底読めません(笑)。確実な行きかたは勝鬘院の東側に沿って口縄坂上を目指すと、左手に宗教法人の敷地が現れるのでその突き当りといったところ。でも台地下の松屋町筋方面へは通り抜けられません。電動アシストつきのシェアサイクルを活用して(笑)途中を迂回しつつ数回チャレンジした結果、ちょうど口縄坂の上で、厚い雲間から夕陽が差して満足でした。あわよくば…と散策順を調整して夕方6時過ぎに訪れた甲斐がありました。 閉じる
投稿日:2022/05/28
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アクセスは悪いです
- 3.5
- 旅行時期:2020/06(約6年前)
- 0
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近くにはお寺や史跡がたくさんありました
- 3.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
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鎌倉時代の歌人塚
- 3.5
- 旅行時期:2019/05(約7年前)
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夕陽ヶ丘の名前の由来となった
- 2.0
- 旅行時期:2017/12(約8年前)
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夕陽丘の地名を名づけた
- 3.5
- 旅行時期:2017/05(約9年前)
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この辺りの地名「夕陽丘」を名付けた歌人
- 4.0
- 旅行時期:2017/03(約9年前)
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藤原家隆(ふじわら・いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿、歌人です。
『新古今和歌集』の撰者の一人であり、
小倉百人一首で... 続きを読むは、従二位家隆の表記で下記の短歌が選ばれています。
「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」
当時としては長生きで79歳で出家して、
摂津国(現在の大阪)に夕陽庵(せきようあん)を構えました。
夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、
その彼方にある極楽(西方浄土)へいくことを望みました。
それで、この辺りは「夕陽丘」という地名になり、
東側が高く、西側(大阪湾)が低い坂からは、美しい夕陽が今でも見えます。
ここを見学した後は、ぜひ夕陽を見てから帰ってください。
なお、聖徳太子が建てた四天王寺も近くにあるので、午後一番に参拝しましょう。
近くには「四天王寺夕陽丘」という地下鉄の駅もありますよ。
閉じる投稿日:2017/03/16
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寺町の奥まった場所にあります
- 3.5
- 旅行時期:2016/01(約10年前)
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新古今和歌集の撰者の一人
- 4.0
- 旅行時期:2014/12(約11年前)
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小さなかわいい庭のよう
- 1.5
- 旅行時期:2014/07(約11年前)
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大阪夕陽丘ライオンズクラブの手で復元整備されています
- 4.0
- 旅行時期:2014/06(約12年前)
- 0
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藤原定家と並び称される歌人、藤原 家隆の墓
- 3.5
- 旅行時期:2011/09(約14年前)
- 2
大阪市天王寺区夕陽丘町にある藤原 家隆(ふじわら の いえたか、1158−1237年)の墓と伝わる塚。藤原 家隆は、鎌倉時... 続きを読む代初期の歌人で『新古今和歌集』の撰者の一人。
1237年、79歳で出家し摂津国四天王寺に入り、夕陽丘より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽へいくことを望んだ。藤原家隆は和歌を藤原俊成に学び『六百番歌合』『正治百首』などに参加して同時代の藤原定家と並び称される歌人と評価された。
後鳥羽上皇の和歌の師であったといわれ、後鳥羽院が承久の乱で隠岐に流された後も遠所から和歌を送ったりしており、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われている。
閉じる投稿日:2013/03/01
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