さすらいおじさんさんのクチコミ(98ページ)全3,789件
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- 基本情報
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投稿日 2012年08月13日
総合評価:3.5
金峯山寺銅鳥居(きんぷせんじ かねのとりい)は高さ7.6mで、奈良の大仏の銅の残りで建立されたと伝えられている。
金峯山入峯の1番目の門で、「発心門(ほっしんもん)」と呼ばれ、この門が菩提の心を発する門でここから南を弥陀の浄土と見立てた修験者は、この門で俗界を離れて修行の意欲づけをする。
安芸宮島の朱塗りの木の鳥居、大阪四天王寺の石の鳥居と並んで、日本三鳥居の一つとされている。
近鉄吉野線吉野駅から吉野山ロープウェイで3分、吉野山駅下車、徒歩20分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2012年08月12日
総合評価:4.0
大峰山(おおみねさん)は奈良県の南部にある山で広義には大峰山脈を、狭義には山上ヶ岳(さんじょうがたけ)をさし、大峰山は大峰山脈のうち山上ヶ岳の南にある小篠(おざさ)から熊野までの峰々をさすそうだ。小篠から山上ヶ岳を含み尾根沿いに吉野川河岸までを金峰山という。「金峯山」とは、吉野山と大峯山系の大峯山寺(おおみねさんじ)がある1719mの山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称で吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地。平安時代以降霊場として多くの参詣者を集めている。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」。近世まで吉野山の金峯山寺は「山下(さんげ)の蔵王堂」、山上ヶ岳の大峯山寺は「山上の蔵王堂」と呼ばれ不可分のものだったそうだ。
- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0
-
投稿日 2012年08月12日
総合評価:3.5
勝手神社の光景。勝手神社は 吉野八社明神のひとつ。
672年、大友皇子に対抗して吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、神前で琴をかなでていると、天女が舞いながら現れ、吉兆を示したとの故事が五節の舞の起りだといわれ、芸ごとの神様とされて、かつては猿楽や能が盛んに奉納された。1185年、源義経と雪の吉野山で別れた静御前は、追手に捕えられ勝手神社社殿前で法楽の舞をまったといわれている。
2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。
近鉄吉野線吉野駅から吉野山ロープウェイで3分、吉野山駅下車、徒歩20分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2012年08月11日
総合評価:3.5
如意輪寺は平安時代の901−922年の間に日蔵上人(にちぞうしょうにん905−985年伝)により開かれたとされ南北朝時代には後醍醐天皇の勅願所とされた。
1346年、楠木正成(くすのき まさしげ1294頃−1336年)の長男・楠木正行(くすのき まさつら1323−1348年)が四条畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに如意輪寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠み本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされている。その扉とされるものが宝物殿に展示されている。
芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。
近鉄吉野駅からバス10分バス停如意輪寺口から徒歩10分。近鉄吉野駅から徒歩40分。- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 2.5
-
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を祭神とする吉野神宮(よしのじんぐう)
投稿日 2010年11月17日
総合評価:4.0
吉野神宮(よしのじんぐう)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)を祭神とする神社。南朝の後村上天皇(ごむらかみてんのう1328−1368年)は、父・後醍醐天皇崩御後後醍醐天皇像を吉水院に安置した。吉水院は神仏分離により1873年に神社となり吉水神社に改称された。1889年に後醍醐天皇を祀る吉野宮の創建が、明治天皇(めいじてんのう1852−1912年)の意向で決定し1892年に社殿が竣工、吉水神社から後醍醐天皇像が遷座されている。
本殿・拝殿・神門は後後醍醐天皇が帰還を熱望したが果たせなかった京都の方角・北向きに建てられた総檜造で近代神社建築の代表とされている。
吉野神宮の近くには村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 – 1333年)の墓がある。村上 義光は後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう1308−1335年)の忠臣として知られ、1333年に幕府方の二階堂貞藤(にかいどう さだふじ1267−1335年)が6万余騎を率いて吉野山に攻め入った際、護良親王の鎧を着て身代わりとなって自刃した(太平記)とされている。
吉野神宮周辺の桜は下千本として知られているが4月8日は散り始めだった。
吉野神宮---http://www.naranet.co.jp/yoshinojingu/
日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の下千本、吉野神宮周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10471302/
(写真は吉野神宮)- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 2.5
- 近鉄吉野神宮駅より駅前の大鳥居を通って坂道を約1km、徒歩約20分
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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源義経が追っ手から逃れた義経隠れ塔がある金峯神社(きんぷじんじゃ)
投稿日 2010年11月17日
総合評価:3.5
金峯神社(きんぷじんじゃ)は吉野山最奥の青根ヶ峰のそばにあり、吉野山の地主神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)を祀っており栄華物語(えいがものがたり)には藤原道長(ふじわら の みちなが966−1028年)が詣でたことが記されている。
義経隠れ塔は金峰神社脇の小径を下った場所に建つ宝形造・檜皮葺きの簡素な塔で追っ手に囲まれた源義経が屋根を蹴破って逃げたといわれ、「蹴抜の塔」とも呼ばれている。
吉野山奥千本には吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する、修験道の修行の道・大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)があり道の脇には大峰山研修記念碑が並んでいる。金峯神社から大峯奥駈道を進むと高城山(標高702m、ツツジが城)の高城山展望台に出る。
1333年吉野城で北条幕府方6万の大軍と戦闘していた大塔宮護良親王(だいとうのみやもりながしんのう1308−1335年)は、「ツツジが城」の間道の機密が北条方に漏れ落城、村上義光(むらかみ よしてる、生年不詳−1333年)を残し高野山へ落ち延びた。村上義光は大塔宮護良親王の鎧を着て身代わりとなって自刃した。
高城山展望台からは東に三重県境の高見山、西に金剛葛城の連山、近くは蔵王堂が見渡せ
神さぶる 磐根(いわね)こごしき み吉野の
水分山を見れば悲しも の万葉集歌碑がある。
高城山展望台を下ると閼伽(あか)井、「牛頭天王社跡」の石碑をとおって吉野水分(みくまり)神社に出る。
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、吉野山上千本にある水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とする神社で子授けの神として信仰を集めている。子守明神への両親の参拝祈願により本居宣長(もとおり のりなが、1730−1801年)が生まれ、豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし1536−1598年)もこの地を訪れ豊臣秀頼(とよとみのひでより1592−1615年)を授かったなどの逸話がある。現在の社殿は自らの誕生御礼なのか1605年に豊臣秀頼によって創建されたものとのこと。吉野山奥千本には多くの歴史上著名な人物とのかかわりがある。
奥千本桜は高城山休憩所から良く見えるといわれるが、4月8日はまだつぼみが多く、4月15日頃が見頃とのことだった。
金峯神社---http://www.naraliving.com/sneaker/yoshino_02.html
日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の奥千本、金峯神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10472757/
(写真は金峯神社の義経隠れ塔)- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 1.5
- 金峯神社までロープウエイ吉野山駅から徒歩約1時間40分。バスで約40分。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
後醍醐天皇、源義経、豊臣秀吉らにまつわる多くの文化遺産が所蔵展示される吉水神社
投稿日 2010年11月17日
総合評価:5.0
吉水神社(よしみずじんじゃ)は、金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)だったが明治維新の神仏分離の際に神社となった。後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)を主祭神とし、南朝方の忠臣であった楠木正成(くすのき まさしげ1294頃−1336年)、後醍醐天皇を護った吉水院宗信(きっすいいんそうしん)を合祀している。
吉水院は役行者により建立されたと伝えられ、後醍醐天皇の吉野潜幸の際、吉水院宗信(きっすいいんそうしん)の援護で吉水院に行宮を設けた。後醍醐天皇の死去後、息子の後村上天皇(ごむらかみてんのう1328−1368年)が父・後醍醐天皇の像を彫り吉水院に奉安している。南北朝時代は天皇が戦乱に巻き込まれ、逃避行で方々流浪するという大変な時代だった。
明治の神仏分離の際に僧坊・吉水院は廃され、1875年に後醍醐天皇を祀る神社として吉水神社に改称している。1185年には源義経(みなもと の よしつね1159−1189年)が兄・源 頼朝(みなもと の よりとも1147−1199年)の追手を逃れて静御前、弁慶等と共に吉野に潜人し吉水院に亡命したものの逃げきれず奥州へ逃避行をしている。吉水院は源義経にとっても隠れ家だった。
1594年には豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし1536−1598年)が吉水院を本陣として盛大な花見の宴を催し天下に権勢を示したのは逃避行で隠れ家にした後醍醐天皇や源義経とは正反対の立場だが、秀吉は後醍醐天皇や源義経と自分の力の差を世間にみせつけるために吉水院を利用したのかも知れない。
旧吉水院護摩堂の本殿に隣接する書院には後醍醐天皇、源義経、豊臣秀吉らにまつわる多くの文化遺産が所蔵展示され、後醍醐天皇の玉間や源義経が潜居したと伝えられる部屋も見学できる。吉水神社境内から見る中千本・一目千本桜も見事だったが、吉野の歴史を伝える120点以上の重要文化財や秘宝を展示する書院は見ごたえがあった。
吉水神社---http://www.yoshimizu-shrine.com/
日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の中千本、吉水神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10471582/
(写真は吉水神社)- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 3.0
- 近鉄吉野線:吉野駅・・・ロープウェイ吉野駅下車徒歩約15分
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 5.0
-
投稿日 2010年11月17日
総合評価:4.0
吉野は、奈良県南部の吉野山から大峰山の山岳地帯で大峰の山々は熊野まで連なり大峰への道は修験者によって、熊野から開かれている。
吉野の歴史は古く、応神天皇(おうじんてんのう、201−310年伝)の遊興の地だったとされ654年には離宮として吉野宮(宮滝遺跡)がおかれた。平安時代には、役 小角(えん の おづの634−706年伝)が開いたと伝えられる金峯山寺が建立され、吉野山は修験道の地となっている。
鎌倉時代後期には、後醍醐天皇の皇子・護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げた。後醍醐天皇は幕府滅亡後に京都で建武の新政を開くが、南北朝時代には吉野へ移り、皇居や行政機関を置いて吉野朝廷(南朝)が成立した。
如意輪寺(にょいりんじ)には足利尊氏(あしかが たかうじ1305−1358年)により京を追われ、吉野の地で死去した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)がある。
如意輪寺は平安時代の901−922年の間に日蔵上人(にちぞうしょうにん905−985年伝)により開かれたとされ南北朝時代には後醍醐天皇の勅願所とされた。
1346年、楠木正成(くすのき まさしげ1294頃−1336年)の長男・楠木正行(くすのき まさつら1323−1348年)が四条畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに如意輪寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠み本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされている。その扉とされるものが宝物殿に展示されている。
芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。
山門を入ると正面に寄棟造檜皮葺きの如意輪堂(本堂)があり、左方に庫裏、宝物殿、一段高いところに多宝塔がある。如意輪寺にも南北朝時代の文化遺産がたくさん残っている。
如意輪寺---http://www.nyoirinji.com/
日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の如意輪寺周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10472978/
(写真は如意輪寺多宝塔)- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 1.5
- 近鉄吉野駅からバス10分バス停如意輪寺口から徒歩10分。近鉄吉野駅から徒歩40分。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 1.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
源義経を落ち延びさせる為に、佐藤忠信が源義経の身代りとなって僧兵らを切り防いだ古戦場「花矢倉」
投稿日 2010年11月17日
総合評価:4.0
吉野山は日本史上でもたびたび有名な舞台になっている。1185年には源頼朝の追討を受けた義経・弁慶らは吉野山で静御前と別れて東国へ脱出し、1336年には後醍醐天皇は神器を持って京都を逃れ吉野山に南朝を置いたことは良く知られている。
だが飛鳥時代の672年には既に大海人皇子(おおあまのみこ631−686年後の天武天皇・てんむてんのう)が大津の都を離れて吉野山に出家して隠棲していた。兄の天智天皇(てんちてんのう626−672年)の死後美濃へ脱出し、天智天皇の子の大友皇子( おおとものみこ648−672年)を倒して政権を奪う壬申の乱を起こしているが飛鳥時代には既に吉野は高貴な人が身を隠す場所だった。
「花矢倉」は。佐藤 忠信(さとう ただのぶ1161−1186年)は、源義経の家臣で『源平盛衰記』では義経四天王の1人。屋島の戦いで討死した佐藤継信(さとう つぐのぶ1158−1185年)の弟で父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(さとう もとはる1113−1189年)。
1180年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)の命により兄・継信と共に義経に随行した。
1185年、壇ノ浦の合戦後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、忠信も兵衛尉に任官したことを頼朝から叱責されている。
義経と頼朝との対立が深まり、京都の義経の屋敷に頼朝の刺客・土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん、生年未詳−1185年)が向けられ義経は都を脱出し尼崎から九州へ向かう船が難破、命からがら吉野、京都、奥州と逃避行を続けた。
吉野花矢倉は義経記の演目として歌舞伎、人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」「源九郎狐」などで演じられている。忠信兄弟の妻たちは、息子2人を失い嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めようとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載されている。(関連旅行記―日本の旅 奥の細道を辿る【1】 芭蕉が訪ねた飯坂温泉と磐梯高原、猪苗代湖http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10034370/)
花矢倉を下ったところの勝手神社は 吉野八社明神のひとつ。
672年、大友皇子に対抗して吉野に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が神前で琴をかなでていると、天女が舞いながら現れ、吉兆を示したとの故事が五節の舞の起りだといわれ、芸ごとの神様とされ猿楽や能が盛んに奉納された。1185年、源義経と雪の吉野山で別れた静御前は、追手に捕えられ勝手神社社殿前で法楽の舞をまったといわれている。
残念ながら2001年に不審火により焼失し、御神体は吉水神社に仮遷座している。
桜本坊(さくらもとぼう)は大峯山の護持院で山伏文化の殿堂と呼ばれる役行者霊蹟札所。
兄・天智天皇から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮に身を隠していた。桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねると「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせ」との予言を受けた。予言のとおり壬申の乱に勝利し皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされている。
1594年の豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となっており「桜本坊」も歴史を刻んできた文化遺産だ。
4月8日は花矢倉周辺から見る上千本桜が美しかった。
花矢倉---http://local.goo.ne.jp/leisure/spotID_TO-29001079/
日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の上千本、花矢倉周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10472313/
(写真は花矢倉周辺から見る光景)- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 2.5
- 近鉄吉野線吉野駅から吉野山ロープウェイで3分、吉野山駅下車、吉野大峯ケーブルバスで25分、奥千本口下車、徒歩25分
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.5
-
投稿日 2010年11月17日
総合評価:4.5
吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)は、天台宗の寺院で、開基は役小角(えんのおづぬ伝634−706年)と伝えられている。
「金峯山」とは、吉野山と大峯山系の大峯山寺(おおみねさんじ)がある1719mの山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称で吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地。平安時代以降霊場として多くの参詣者を集めている。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」。近世まで吉野山の金峯山寺は「山下(さんげ)の蔵王堂」、山上ヶ岳の大峯山寺は「山上の蔵王堂」と呼ばれ不可分のものだったそうだが、現在も女人禁制の霊場・大峯山寺に比べ観光客で混雑する金峯山寺はずいぶん観光地化されたように見えるが一般人が訪問しやすくなったことは旅好きにはありがたい。
金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊(さくらもとぼう)、喜蔵院、吉野水分(みくまり)神社、金峯神社、東南院など多くの社寺がある。桜が満開の4月8日には金峯山寺の総門・黒門近くの旅館、飲食店、みやげ物店などが並ぶ参道から銅鳥居(かねのとりい)、仁王門、小高い本堂(蔵王堂)まで観光客があふれていた。
金峯山寺---http://www.kinpusen.or.jp/
日本の旅 関西を歩く 奈良県吉野山の金峯山寺周辺 :http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10471038/
(写真は金峯山寺蔵王堂と桜)- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 2.5
- 近鉄吉野駅からロープウェイ「吉野山」下車徒歩10分
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.5
-
投稿日 2012年08月10日
-
投稿日 2012年08月10日
総合評価:4.0
黒塚古墳(くろづかこふん)は、奈良県天理市にある3世紀末頃の前方後円墳で1978年の発掘調査で33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名だ。1575年に松永久秀(まつなが ひさひで1510頃−1577年)によって柳本城が古墳に築かれ、江戸時代には織田家が城跡に柳本陣屋を構築し柳本藩藩庁としていた。
現在古墳は天理市によって整備され柳本公園となっており、古墳に隣接して天理市立 黒塚古墳展示館(てんりしりつ くろづかこふんてんじかん)が設けられている。
黒塚古墳展示館の1階の吹き抜け下に黒塚古墳の石室が原寸大(長さ8.3m)模型で再現されている。1階には鉄製刀剣類、U字形の鉄製品など黒塚古墳出土品を展示し、古墳時代の黒塚古墳についてパネルで紹介している。2階には出土した三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面のレプリカを展示している。
黒塚古墳展示館は充実した展示内容で無料で見学できるのは嬉しい。- 旅行時期
- 2009年12月
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
-
投稿日 2012年08月10日
総合評価:3.5
「山の辺の道」沿いの都心部であったとされる金屋は政治経済の中心でかつ古代鉄鉱石の採鉱地で製鉄鍛冶も盛んな工業地域でもあったそうだ。金屋には、平安時代頃に彫られたとされる二体の石仏が残されている。右が釈迦如来、左が弥勒菩薩で、高さ2.14m、幅83.5cm、厚さ21.2cmの古墳石棺の蓋だった泥板岩に浮き彫りされている。
「金屋の石仏」前には喜多美術館がある。
創設者、喜多才治郎 が収集した西洋近・現代美術を自宅を美術館にして1988年に開館したものでルノワ−ル、ゴッホ、ピカソ、佐伯祐三、須田国太郎、藤田嗣治、ユトリロ、、ウォーホル等を展示している。現在はひなびた歴史古道「山の辺の道」沿いに立派な近代美術館があるのはちょっと驚きだ。
JR万葉まほろば線三輪駅から徒歩8分、近鉄大阪線桜井駅から徒歩15分- 旅行時期
- 2009年12月
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
-
投稿日 2012年08月10日
総合評価:4.0
三輪山は、縄文時代又は弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされており古墳時代に山麓地帯に大きな古墳が作られた。この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力・ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。200から300メートルの大きな古墳が並び、そのうちには第10代の崇神天皇(行灯山古墳)、第12代の景行天皇(渋谷向山古墳)の陵があるとされ、箸墓古墳(はしはかこふん)は『魏志』倭人伝に現れる邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかと推測されている。『記紀』には、三輪山伝説として、奈良県桜井市にある大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)の伝説が載せられている。よって、三輪山は神の鎮座する山、神奈備とされている。
JR三輪駅から登拝口まで徒歩15分。- 旅行時期
- 2009年12月
- アクセス:
- 3.5
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
-
投稿日 2012年08月08日
総合評価:4.0
大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、奈良の春日大社から勧請を受けたもので、京春日(きょうかすが)と呼ばれている。
784年に桓武天皇(かんむてんのう737−806年)が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后で嵯峨天皇(さがてんのう786−842年)の生母、藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ760−790年)が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、鷹狩の地・大原野に祀ったのが起源とされる。
藤原氏の家に女の子が生まれると、その子が皇后・中宮になれるようにと現在の大原野神社に祈願していた。876年、清和天皇(せいわてんのう850−881年)の女御となった藤原高子((ふじわら の たかいこ842−910年)が参詣した際、高子のかつての恋人であった在原業平(ありわら の なりひら825−880年)が行幸につき従い、「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と詠んだとされている。天皇の奥さんの元彼が天皇の従者であり続けるのは源氏物語の世界を連想させ、いかにも平安時代らしい。
源氏物語の「行幸(みゆき)」では、源氏36歳の12月に冷泉帝が鷹狩りの行幸で大原野へ行く。冷泉帝は源氏の父桐壺帝と藤壺の子という事に しているが実は源氏と藤壺の間の子で源氏は源氏とも関係があった夕顔と源氏の親友内大臣(頭の中将)の娘で養女にしている玉鬘(たまかずら)を冷泉帝に宮仕えさせようとしている。昔からの勢力争いは今も変わらないが、大原野は桓武天皇の時から鷹狩りに天皇家や藤原氏(源氏物語の内大臣の家系)が訪れる場所だった。
京都市西京区大原野南春日町1152.
アクセスーー 阪急京都線「東向日」駅下車、駅前のバス停から阪急バス[5系統]「南春日町」行きに乗車し、終点の「南春日町」で下車。- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年08月08日
総合評価:4.0
天王山(てんのうざん)は、京都府乙訓郡大山崎町の山。 西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境があり、山名は中腹に牛頭天王を祀る山崎天王社(現 自玉手祭来酒解神社)があることに由来している
南北朝や応仁の戦乱でも戦略上の要地で天正10年(1582年)6月に織田信長を討った明智光秀とその仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして「天下分け目の天王山」という言葉で表現された。秀吉は山崎城(宝積寺城、宝寺城とも)を改修して、翌年に大坂城に移るまで本拠とした。
宝積寺は現在も天王山中腹にある。
宝積寺はJR京都線「山崎駅」から徒歩15分- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
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投稿日 2012年08月08日
総合評価:3.5
山崎聖天(やまざきしょうてん)は、京都府大山崎町の真言宗・観音寺の通称で899年に宇多天皇(うだてんのう867−931年)が創建したとされている。
宇多天皇といえば、藤原時平(ふじわら の ときひら871−909年)と菅原道真(すがわら の みちざね845−903年) を重用し888年に仁和寺を創建した天皇。
897年に醍醐天皇(だいごてんのう885−930年)に譲位し、仁和寺に入って宇多法皇と称したが901年の昌泰の変(しょうたいのへん)では左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷した。このとき宇多法皇は菅原道真の左遷を止めようとしたが醍醐天皇・藤原時平派の政治的勝利に終わった。だが菅原道真の左遷後、道真の怨霊の仕業と考えられている清涼殿落雷事件などの天変地異が起こり時平が急死、醍醐天皇も病気がちとなり政治権力の中心は再度宇多法皇と藤原忠平(ふじわら の ただひら880−949年)に戻った。菅原道真は宇多法皇派と醍醐天皇派の政権争いの被害者といえるだろう。
したがって山崎聖天は宮廷の政権争いの最中に創建されたことになる。
山崎聖天は江戸時代に歓喜天(かんぎてん)を鎮守として祀り、特に商人から信仰された。残念ながら1864年の禁門の変(きんもんのへん)で建物は焼失し明治時代に再建されている。
桜の名所だが、山崎聖天に向かう石段周辺のうっそうとした森の紅葉もなかなかのものだった。
JR山崎駅「阪急大山崎駅」下車、徒歩約15分- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.5
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
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最盛期には七堂伽藍と子坊16坊を誇った長遠寺(じょうおんじ)
投稿日 2012年08月07日
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投稿日 2012年08月07日
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投稿日 2012年08月07日























