さすらいおじさんさんのクチコミ(97ページ)全3,789件
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投稿日 2012年09月02日
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投稿日 2012年09月02日
総合評価:4.0
笠置町(かさぎちょう)は、京都府相楽郡の「美しい自然と史跡に恵まれた心ふれあう町」を標語に掲げている町で標高288mの笠置山(かさぎやま)一帯が府立笠置山自然公園に指定されている。
笠置山は1331年に鎌倉幕府の倒幕計画が発覚した後醍醐天皇は三種の神器を保持して挙兵、篭城した場所で元弘の乱の発端となった。 信仰の対象としての歴史は弥生時代にまで遡るとされ、山中にはかつて修験道の行場であり1300年の歴史をもつ笠置寺がある。 桜、紅葉の名所としても有名で国の史跡・名勝に指定されている。京都府立笠置山自然公園の笠置山山麓には木津川が流れ川岸にはカヌー広場、児童広場、キャンプ場等があり、週末には大勢の人たちが集う場になっている。
JR笠置駅から登山口まで徒歩5分- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2012年08月19日
総合評価:3.5
「史跡元興寺」として指定されている地域は「元興寺極楽坊」、「元興寺(塔跡)」、「元興寺小塔院跡」の3か所で「元興寺極楽坊」には日本最古、飛鳥時代の瓦が極楽坊禅室・本堂に残っている。
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍で寺域は南北440m、東西220m、「奈良町(ならまち)」の大部分が元は元興寺の境内であったそうだ。東大寺、興福寺が勢力を増す一方、元興寺は平安時代後半あたりから徐々に衰退している。
室町時代の1451年、土一揆で元興寺は炎上し、金堂など主要堂宇は焼失、「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、「小塔院」の3つの寺院に分裂し極楽院は奈良西大寺の末寺となって民間信仰の寺院として栄えた。
「元興寺観音堂」は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の1859年に焼失し、以後は衰退している。
極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、1977年に「元興寺」と改称され2010年8月、禅室の一部に使用されている木材が世界最古のものであることが確認されている。
ならまちを歩くと元興寺の隆盛と衰退の歴史がよくわかる。
近鉄奈良駅、JR奈良駅から徒歩15分- 旅行時期
- 2010年10月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2012年08月19日
総合評価:4.0
元興寺(がんごうじ)は、ならまちにある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子(そが の うまこ551−626年頃)が飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である現在の法興寺(飛鳥寺)がその前身だ。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となったが飛鳥の法興寺も元の場所に残り、飛鳥寺となっている。奈良時代には東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降衰退して現在は2つの寺院に分かれている。
近鉄奈良駅、JR奈良駅から徒歩15分- 旅行時期
- 2010年10月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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奈良の名所が一望できる『奈良県庁屋上展望台(奈良県庁舎屋上広場)』
投稿日 2012年08月19日
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投稿日 2012年08月18日
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投稿日 2012年08月18日
総合評価:4.0
廬山寺(ろざんじ)は圓浄宗の本山で紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)の邸宅跡として知られている。
比叡山延暦寺の中興の祖である良源(りょうげん912−985年)により938年に京都の北山に創建された。1965年に考古・歴史学者角田文衞(つのだ ぶんえい1913−2008年)により紫式部邸跡とされた。このあたりを平安時代は「中川のわたり」と言って源氏物語では空蝉の紀伊の守邸があったと設定され『蜻蛉日記』の作者、道綱母も住んでいた。廬山寺の面している寺町通は平安時代の東京極大路で、隠れ家的な高級住宅街。空蝉、紫式部、道綱母のような身分は低いが裕福な受領階級貴族が大きな家を建てた地域だった。
大貴族は大内裏に近い、二条大路に面した場所に邸を構えていた。源氏物語では光源氏の二条院も右大臣の二条殿も、藤壺の三条の宮も二条大路の近くに住んでいたと設定されている。
このあたりで紫式部が生まれ、育ち、藤原宣孝(ふじわらのぶたか953−1001年)と結婚し999年に一女・藤原賢子(かたいこ・けんし)を儲けたとされている。源氏物語を描いた紫式部の故郷・実家での生活の様子が思い浮かぶ。
阪鴨東線出町柳駅・神宮丸太町駅 徒歩10分- 旅行時期
- 2010年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年08月18日
総合評価:4.0
六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、真言宗の寺院で開基は踊り念仏で知られる空也(くうや903−972年)。平安時代中期の951年に造立した十一面観音を本尊とする道場が寺のはじまりとされている。六波羅蜜寺は教科書などに良く掲載されている運慶(うんけい、生年不詳−1224年)の四男・康勝(こうしょう、生没年不詳)の作とされている木造空也上人立像で知られている。
空也上人立像は、わらじ履きで疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを表現している。空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。空也の口からは針金でつながった6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。仏像の坐像、直立像は珍しくないが、動的な木造空也上人立像は貴重な宗教遺産で苦しむ庶民のために祈る姿がリアルですばらしい。
六波羅蜜寺周辺は平安末には六波羅殿と呼ばれた平清盛(たいら の きよもり1118−1181年)ら平家一門の屋敷があり、鎌倉時代には幕府によって六波羅探題(ろくはらたんだい)が置かれたという歴史も持っている。
京阪の清水五条駅から徒歩7分程度- 旅行時期
- 2010年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年08月18日
総合評価:4.0
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は、臨済宗建仁寺派の寺院で小野篁(おの の たかむら802−853年)が冥界に通ったと伝わる井戸で知られる。
篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたと言い伝えられている。井戸は六道珍皇寺境内にあり,閻魔堂には篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
小野篁は愛欲を描いた咎で地獄に落とされた紫式部(むらさきしきぶ、970−1020年頃)を閻魔大王にとりなして地獄落ちから助けたという伝説もある。
六道珍皇寺は京都の心霊スポットのひとつでテレビにもしばしば登場している。
JR「京都駅」から100・206系統の市バス「清水道」〜徒歩3分、または奈良線「東福寺駅」から京阪「祇園四条駅」〜徒歩6分- 旅行時期
- 2010年05月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年08月16日
総合評価:3.5
竹林院(ちくりんいん)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある単立の寺院で本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師。宿坊竹林院群芳園で知られる。
竹林院群芳園には大和三庭園の一つとされる回遊式庭園がある。この庭園は千利休の作で細川幽斎の改修と伝わっている。
〒639-3115奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2142
TEL:0746-32-8081 FAX:0746-32-8088
吉野駅からケーブル乗車(約5分) 徒歩50分、 ケーブル乗車(約5分)後ケーブルバス 乗車(約15分) 徒歩3分- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 1人1泊予算
- 20,000円未満
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 接客対応:
- 3.5
- 風呂:
- 3.5
- 食事・ドリンク:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
-
投稿日 2012年08月16日
総合評価:3.5
喜蔵院(きぞういん)は、奈良県吉野郡吉野町にある大峰山の護持院。本山修験宗別格本山。役行者霊蹟札所。山号は吉野山。開山は智証大師円珍。桜の名所として知られる吉野山の中腹に位置する。平安時代に京都聖護院の一院として創建された。江戸時代には儒学者熊沢蕃山が滞在したとされ、境内にはその際の句碑が残されている。現在は宿坊も営み、本山修験宗の大峯奥駈修行の重要寺院としても知られている。
近鉄線「吉野駅」からロープウェイ「吉野山駅」下車、徒歩20分・近鉄線「吉野神宮駅」からバスで、上千本行「中千本」下車。徒歩5分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年08月16日
総合評価:3.5
天智天皇の弟、大海人皇子は吉野離宮日雄殿で修行していたとき冬にもかかわらず夢で見たとおり一本の桜が咲いていた姿を見た。その後大海人皇子は壬申の乱に勝利し天武天皇となった。天皇はその桜の下に一寺を建立し「櫻本坊」と名づけ角乗を住職に迎えたとされている。
現在が勅願所として修験道の根本道場となっており、大峰奥駈修行などの法要がされている。
奈良県吉野郡吉野町吉野山1269 吉野駅からケーブル乗車(約5分) 徒歩50分、 ケーブル乗車(約5分)後ケーブルバス 乗車(約15分) 徒歩3分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年08月16日
総合評価:4.0
吉野山の東南院の開基は役行者とされ、千三百年の歴史がある。
本堂・多宝塔・庫裡・客殿からなっており、多宝塔は明治初年まで紀州野上の八幡宮境内にあったものを昭和十二年に当院へ移築したもので,正面の鰐口には永禄七年(一五六四)の銘があり,鎌倉期の作と伝えられる大日如来・毘沙門天・不動明王などが祀られている。
〒 639-3115 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山2416 TEL: 07463-2-30
近鉄吉野線吉野駅より吉野ロープウェイ乗り換え「吉野山」下車、徒歩約10分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年08月15日
総合評価:3.5
竹林院(ちくりんいん)は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある単立の寺院で本尊は不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師。宿坊竹林院群芳園で知られる。
寺伝によれば、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810年~824年)空海が入り常泉寺と称したという。1385年(至徳2年/元中2年)に竹林院と改められた。戦国時代の院主尊祐は弓道に優れ一派をなした。明治初年の神仏分離に伴い1874年(明治7年)廃寺となったが、その後天台宗の寺院として復興、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)現在の修験道系統の単立寺院となった。役行者霊蹟札所。
吉野駅からケーブル乗車(約5分) 徒歩50分、 ケーブル乗車(約5分)後ケーブルバス 乗車(約15分) 徒歩3分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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奥千本(おくせんぼん)金峰神社から500mのところにある西行庵(さいぎょうあん)跡
投稿日 2012年08月15日
総合評価:3.5
西行(さいぎょう=1118年 -1190年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人で俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。北面の武士(皇居を守る武士)だったが23歳で出家し、月と花とをこよなく愛する放浪の歌人となった。吉野山でも多くの歌を詠んでおり、73歳で生涯を閉じるまで、2,000首を越える歌を残した。西行庵(さいぎょうあん)跡は苔蒸した杉皮葺で奥千本(おくせんぼん)金峰神社から500mほど登った山奥にある。
ロープウェイ吉野山駅から吉野大峯ケーブルバス奥千本口行きで25分、バス停:奥千本口下車、徒歩5分- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 2.5
-
投稿日 2012年08月14日
総合評価:4.0
吉野温泉元湯は吉野駅から如意輪寺方面に向かう途中、徒歩20分のところにあり、春は桜が美しい。吉野温泉元湯には島崎藤村が22歳の春、明治26年3月16日より4月22日まで逗留しており、「訪西行庵記」をはじめ文学作品を執筆した吉野は無名時代の藤村が失恋を癒した地ともいわれており、藤村が滞在していた部屋や調度品が当時のままで残されている。
〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山902−2 TEL 0746-32-3061 吉野駅から如意輪寺方面に向かう途中、徒歩20分- 旅行時期
- 2010年04月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 1人1泊予算
- 20,000円未満
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 客室:
- 3.5
- 接客対応:
- 3.5
- 風呂:
- 3.5
- 食事・ドリンク:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
-
投稿日 2012年08月14日
総合評価:3.5
吉野山温泉は約三百余年前に開湯されて吉野山は桜と史跡、大峯山修験の道場として有名であったため自然全国各地の文人墨客、修験信徒の入山来湯し「吉野の湯」として有馬、道後の湯とも竝び称せられる程だったとのこと。僧坊にたむろして肉食妻帯禁止の修験戒律を強いられていた多数の修験者(山法師)の中には湯治に名を偽り頻りに出入りして酒色に耽り戒律を乱す者が続出のため遂に吉野学頭職よりの闕所命令にて廃絶していたが、秘に仮設浴場を備えて湯治に供した処誰云うとなく「吉野の隠い湯」又は「内証風呂」と呼ばれるようになり加えて人里離れた環境の故もあって今だに秘湯の面影を残している。
- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 泉質:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
投稿日 2012年08月14日
総合評価:3.5
村上 義光(むらかみ よしてる、生年不詳 - 元弘3年/正慶2年閏2月1日(1333年4月15日))は、鎌倉時代末期の武将で大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)の忠臣として知られる。
村上義光の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約1.4kmの場所にある。案内板によると護良親王の身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が天明3年(1783年)に建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
-
投稿日 2012年08月13日
総合評価:4.5
吉野山には古来から桜が多く、山すそから下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ばれ約3万本の桜の原種とされる白山桜(シロヤマザクラ)が密集する名所だが吉野山が桜で知られるようになったのは、平安時代後期あたりで古代は「春の訪れが遅く雪深い」地とされ、坂上是則(さかのうえのこれのり、生年不詳−930年)の「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」に代表される雪景色が美しい地として知られていたそうだ。
- 旅行時期
- 2010年04月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0



























