さすらいおじさんさんのクチコミ(96ページ)全3,789件
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投稿日 2012年09月14日
総合評価:3.5
徳川幕府は17世紀後半に、東海道の延長である京街道沿いの岡新町・岡・三矢・泥町村を枚方宿と指定したが枚方宿の町並は現在の天野川左岸から建設省淀川工事事務所まで約1.5kmありこの間に本陣(ほんじん)・馬継所(うまつぎしょ)・人足継所(にんそくつぎしょ)を備え、その他旅籠(はたご)・、船宿、茶屋、寺院、民家約400軒などが軒を連ねていた。本陣(ほんじん)は大名が参勤交代(さんきんこうたい)のときなどの休泊に利用する施設で、枚方宿本陣は池尻善兵衛(いけじりぜんべえ)が世襲(せしゅう)して経営し、間口19間余、総坪数477坪あったといわれ徳川御三家紀州侯宿泊の場合は大賑わいし紀州祭と称したほどだった。枚方宿本陣は明治初年取りこわされ、茨田(まんだ)・交野・讃良(さらら)郡役所(後の北河内郡役所)が建てられたそうだが現在は三矢公園になっている。
京阪枚方市駅北口から徒歩約10分- 旅行時期
- 2012年08月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年09月14日
総合評価:3.5
京阪枚方市駅近くの交差点に宗佐の辻(そうざのつじ)碑がある。枚方宿は、岡新町東端の東見付(ひがしみつけ=現在の新町1丁目)から西見付(にしみつけ=現在の堤町西端)まで約1.5キロに及び最盛期には本陣や旅籠(はたご)など家数341軒、人口1592人もの大きな宿場町だった。
枚方宿は遊郭も栄えたようで「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と詠われ遊郭から客が帰るときに遊女が宗佐の辻まで見送ったそうだ。宗左とは、江戸時代製油業を営んでいた角野宗左(かどのそうざ)のことで、宗左が住んでいた辻は、京街道と磐船街道の分岐点になっていた。
現在の宗佐の辻には京街道と磐船街道の追分を示す文政9年(1826年)建立の追分道標があり、正面に「右大坂みち」、側面に「願主大阪」とあり和泉屋、近江屋、錦屋、小豆嶋屋と、刻まれている。枚方の繁華街の中にも宿場町の名残がある。
京阪枚方市駅北口から徒歩1分- 旅行時期
- 2012年08月
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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「らくがき寺」として知られている京都八幡市の単伝庵(たんでんあん)
投稿日 2012年09月12日
総合評価:4.0
京都八幡市の単伝庵(たんでんあん)は別名「らくがき寺」として知られている。山門を入った正面には大黒堂という御堂があり、御堂の白い内壁が願いを託した落書きで真っ黒になっている。
単伝庵の開山は不明だが一時中絶の後、男山中腹にあった48坊のひとつ、法童坊に預かり置かれていたが江戸時代後期に禅宗となって、現在の場所に移された。本尊は阿弥陀仏で妙心寺知勝院の法類で、豊後国臼杵城主稲葉家の菩提寺であった月桂寺の僧瑞応が移り住んで、単伝庵中興の祖となったとのこと。
京阪電鉄 京阪本線「八幡市」から徒歩10分- 旅行時期
- 2012年07月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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蒙古襲来に際して元軍をやぶる一助だったとされる京都府八幡市の「航海記念塔」
投稿日 2012年09月12日
総合評価:3.5
神応寺総門の左にある五輪石塔が「航海記念塔」は重要文化財で高さは6.08m、幅2.44mの日本最大規模で、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪とのこと。石清水八幡宮の宮寺だった旧極楽寺の境内に建立されたもので廃寺となって、石塔だけが残った。石塔建立の起源や作者は不明だが、言い伝えが残されている。
八幡神を九州の宇佐八幡宮から勧請した大安寺の僧、行教の墓だといわれているが、平安時代の末期に摂津国、尼崎の豪商が入宋貿易帰途の海上で 大シケにあい、石清水八幡宮に祈り無事に帰国できたことを感謝し、1171−1174年の間に建立したものとも伝えられている。以後、船乗りたちが航 海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようになった。
鎌倉時代末期、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の蒙古襲来に際して西大寺の僧、叡尊が石清水八幡宮で祈ったところ、神風が吹いて 元軍が敗れ去り、叡尊は彼等の供養をするため建立したともいわれており、謎が多い搭だ。
京阪八幡市駅から南へ徒歩5分。- 旅行時期
- 2012年07月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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日本で最初に飛行原理を研究した二宮忠八が創建した京都府八幡市の飛行神社(ひこう じんじゃ)
投稿日 2012年09月10日
総合評価:4.0
飛行神社(ひこう じんじゃ)は京都府八幡市にある飛行機の神饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る神社でギリシャ風の拝殿を持っている。日本で最初に飛行原理を研究した二宮忠八が創建した。
二宮忠八は1891年(明治24年)に日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功したが人を乗せることができる飛行機をライト兄弟が実現したことを知り、飛行機開発から離れたが航空事故が多発するようになったことで事故犠牲者の慰霊が飛行機開発に携わった者としての責任だと感じ私財を投じて犠牲者の霊を祀る神社を1915年(大正4年)に創建した。
京阪電鉄「八幡市駅」 から徒歩4分- 旅行時期
- 2012年07月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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足利三代将軍義満ゆかりの京都府八幡市の善法律寺(ぜんぽうりつじ)
投稿日 2012年09月10日
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尾張徳川家の祖徳川義直ゆかりの京都府八幡市正法寺(しょうぼうじ)
投稿日 2012年09月08日
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投稿日 2012年09月08日
総合評価:3.5
石清水八幡宮一の鳥居右の谷川沿い右手に神應寺の山門がある。
貞観2年(860年)、石清水八幡宮を勧請した行教律師が応神天皇の霊を奉安して建立した寺で後に「神應寺」と改めた。はじめは四衆兼学の道場であったが、現在は曹洞宗に属している。文禄年間(1592-1596)、征韓の役にあって豊臣秀吉は、石清水八幡宮に詣で、軍の先鋒にと八幡宮の神官を望んだが、神社側は恐れて命に服さなかった。秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺の住僧の機転により、征韓の首途にはまず応神天皇の御寺に参詣すべきことを進言したので秀吉は機嫌を直し、寺領200石を寄進したという。
山門から急な階段を登ると正面に本堂が見える。堂内には本尊薬師如来、日光・月光像、秀吉の位冠束帯の像があり、さらに特異な風貌を現した木造行教律師座像 (重要文化財)が安置されている。書院は伏見城の遺構と伝えられ、上段の間に違い棚を設け、金具には菊花・太閤桐、襖戸杉戸には狩野山雪の筆による「竹に虎」「御所車(重要文化財)」が描かれている。 本堂西側の小高い墓地には、江戸時代の豪商、淀屋辰五郎が眠っている。
京阪八幡市駅から南へ徒歩3分に神應寺の山門がある- 旅行時期
- 2012年07月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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大阪府枚方市の百済王氏の祖霊を祭る百済王神社(くだらおうじんじゃ)
投稿日 2012年09月06日
総合評価:3.5
百済王神社(くだらおうじんじゃ)は大阪府枚方市の百済王氏の祖霊を祭る神社。現在の祭神は百済国王と進雄命(江戸時代までは牛頭天王)。百済滅亡後、日本に残留した百済王族・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、その曾孫である百済王敬福は陸奥守に任ぜられ、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見して朝廷に献じた功によって敬福は従三位宮内卿・河内守に任じられ、百済王氏の居館を難波から河内に移し氏寺として百済寺、氏神として百済王神社が造営された。
京阪交野線宮之阪駅下車、徒歩10分。京阪本線枚方市駅より京阪バス中宮病院前下車、西へ100メートル。- 旅行時期
- 2012年06月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年09月06日
総合評価:3.5
百済寺(くだらじ)は、大阪府枚方市にかつてあった寺。天平勝宝2(750)年頃に百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)によって建立されたと言われている。1941年1月27日に国の史跡に指定され、1952年3月29日に特別史跡に指定され1965-1967年に史跡公園としての整備が行われ1973年10月、「百済寺跡の松風」として枚方八景の一つに選ばれた。摂津国に「百済郡」が存在したことがあるが、この付近がその西端と考えられている。難波には百済から渡来してきた人々が多く住んでいた。百済王氏はもと摂津国百済郡を拠点としていたが、百済王敬福が749年、陸奥国で発見した黄金を平城京の聖武天皇へ献上することによって、従五位上陸奥守から従三位河内守へ異例の昇進を果たし、それを機会に河内国交野の地を次の拠点にしたものと考えられている。天平時代の百済との強い関係を示す、歴史上重要な寺院跡だ。
京阪交野線宮之阪駅下車徒歩10分。京阪本線枚方市駅より京阪バス中宮病院前下車、西へ100メートル。- 旅行時期
- 2012年06月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年09月05日
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投稿日 2012年09月05日
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投稿日 2012年09月04日
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投稿日 2012年09月04日
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投稿日 2012年09月04日
総合評価:3.5
笠置山の笠置寺には後醍醐天皇行在所跡(山頂、標高290m)がある。
元弘元年(1331)8月、政治改革に失敗し後醍醐天皇は京都御所からを脱出して笠置山に篭った。
元弘の乱で天皇方は2千5百だった。北条方7万5千という大軍を相手に攻防1ヶ月の末、北条方の奇襲を受け、大磨崖仏をはじめ笠置寺山内49ヶ寺すべてが焼失、笠置山は落城し後醍醐天皇は逃亡するが捕えられ隠岐国へ流罪になった。笠置寺には醍醐天皇行在所跡があり、戦乱の歴史を伝えている。
笠置寺までJR笠置駅から徒歩40分- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2012年09月04日
総合評価:3.5
京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里の浄瑠璃寺から岩船寺まで約1.5Kmの山郷の道には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残っている。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りといわれている。
不動明王磨崖仏も当尾石仏群のひとつ。 岩船寺境内にも不動明王磨崖仏がある。
JR関西本線加茂駅から木津川市コミュニティバス加茂山の家行きで15分、岩船寺下車、徒歩15分- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2012年09月03日
総合評価:4.0
岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院で開基は行基とされる。アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれ岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむとのこと。
岩船寺は京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里にあり付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残っている。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りといわれている。
岩船寺は729年に聖武天皇の発願により行基が建立したとされ813年には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して後の仁明天皇を授かったので嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、岩船寺と称するようになったとのこと。「岩船寺」の存在を示す最も古い記録は、寺の西方にある岩船不動明王磨崖仏(通称一願不動)の銘記で、1287年の年記と「於岩船寺僧」の文字が彫られている。
1221年の承久の乱の兵火により建物のほとんどを焼失するが、室町時代に三重塔などが再建されている。当尾(とうの)の里は京都府と奈良県との境の静かな地域だが、魅力的な歴史遺産が多い。
JR大和路線加茂駅より奈良交通バス「岩船寺」下車; JR奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス「岩船寺口」下車、徒歩25分- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年09月03日
総合評価:3.5
京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里の浄瑠璃寺から岩船寺まで約1.5Kmの山郷の道には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残っている。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りといわれている。
長尾の阿弥陀は鎌倉後期に刻まれたとされ浄瑠璃寺から西小墓地へ向う府道に面した場所にある。高さ220cmほどの自然石に定印の阿弥陀坐像を浮き彫りし上に笠石が置かれている。
長尾の阿弥陀は近畿日本鉄道近鉄奈良駅7番出口から奈良交通バス浄瑠璃寺前経由加茂駅行きで25分、バス停:浄瑠璃寺前の近く。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2012年09月03日
総合評価:4.0
浄瑠璃寺(じょうるりじ)は、京都府木津川市加茂町の真言律宗の寺院で開基(創立者)は義明上人。
本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、境内には池を中心とした浄土式庭園、平安末期の本堂、三重塔が残っており平安朝寺院の雰囲気を味わえる。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構とのこと。
中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ奈良・西大寺の末寺となっている。
浄土式庭園の中心にある池は興福寺の僧・恵信(えしん)が掘ったとされ中央には小島があり、弁才天を祀る祠がある。池の東岸には薬師如来を安置する和様の三重塔、西岸には阿弥陀如来を安置する本堂(九体阿弥陀堂)があり、平安期の極楽浄土の世界を体感できる貴重な寺院だ。
近畿日本鉄道近鉄奈良駅7番出口から奈良交通バス浄瑠璃寺前経由加茂駅行きで25分、バス停:浄瑠璃寺前。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年09月02日
総合評価:4.0
木津川(きづがわ)は、三重県、京都府を流れる淀川水系の支流で青山高原に源を発している。
八幡市西端、京都府・大阪府境付近で宇治川(淀川水系本流)、桂川と合流し、淀川となる。合流点の5kmほど上流には、増水すると踏み板が橋脚から外れる「流れ橋」として有名な上津屋橋が架かっている。
伊賀市には上野城、伊賀流忍術屋敷、松尾芭蕉ゆかりの俳聖殿など名所が多く相楽郡笠置町には元弘の乱(1331年)の際に後醍醐天皇の行在所となった笠置寺があり河川敷はキャンプ場になっている。京田辺市周辺の河川敷には茶畑が多い。- 旅行時期
- 2012年05月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.5























