淀君が鶴松を出産した淀城(淀古城)本丸跡の妙教寺(みょうきょうじ)
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- 旅行時期:2012/05(約14年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
伏見 クチコミ:48件
桂川と旧京阪国道の間、鳥羽街道沿いの納所(のうそ)にある妙教寺(みょうきょうじ)の境内には淀城(淀古城)本丸が築かれていた。幕末1868年、鳥羽伏見の戦いの際には、付近で戦闘が行われ本堂が被弾している。
妙教寺は1626年、法華又左衛門貞清(生没年不詳)が初代淀城主・松平定綱(1592−1652年)により淀古城の地を拝領し南西の新淀城の守護として建立したもの。
納所にあったという室町時代に築城された平城の淀古城は、藤岡城、淀城とも呼ばれ江戸時代の1623年、新たに築城された淀城と区別するために淀古城とも呼ばれている。城の遺構は全く残されておらず詳細は不明。妙教寺境内には本丸があったとされ天守閣も存在したとみられている。
1589年、秀吉により側室・ちゃちゃの鶴松出産に際し、弟・秀長に城を修築させ淀城と呼ばれた。1589年5月、ちゃちゃは城内で鶴松を生み「淀の方」「淀之上様」などと呼ばれ9月に鶴松は大坂城に移る。1590年、鶴松は大坂城より淀城に戻ったとされ1591年、鶴松は淀城内で数え年3歳で亡くなる不幸があったとされ1594年には廃城となっている。
近代の学徒兵・木村久夫(1921−1946年)は大阪に生まれ旧制高知高校を経て京都帝大入学後応召、陸軍上等兵となる。インド洋カーニコバル島で、スパイ容疑のインド人夫婦の処刑事件で通訳をつとめた。イギリス軍の軍事裁判により戦犯として、シンガポール・チャンギー刑務所で絞首刑となる。『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』に手記が採録されている。享年28歳で境内に学徒兵・木村久夫の歌碑が立っている。
1886年の鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)の戦跡として本堂内に砲弾の跡が3か所残され、砲弾も保管されており境内には、幕臣・榎本武揚(1836−1908年)揮毫の「戊辰之役東軍戦死者之碑」が設けられている。
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4.0
- アクセス:
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- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2013/03/28
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