worldspanさんへのコメント一覧(28ページ)全731件
-
投票していただきまして有難うございます。
worldspanさん、初めまして。
4トラの会員になったばかりです。
初めての旅行記を作成しアップしたばかりです。
写真ばかりの旅行記ですが見ていただき有難うございます。
これからも今まで行きました旅行をアップしていきますので
よろしくお願いします。
worldspanさんの旅行記もこれからゆっくりと拝見させていただきます2014年11月12日10時48分返信する -
お久しぶりですね
worldspanさんは広島のご出身なんですよね。なにか今まで以上に親近感を感じます。砂布巾は現在西区に住んでいます。生まれは東区ですが、その後安佐北区、中区と住み、現在に至っています。
ところで今日は、ミュンヘン一揆、水晶の夜、そして何より壁崩壊の日ですね。改めて言うまでもないと思いますが。前二者は暗い意味で、ドイツ史には重要な日ですね。という感慨に耽っている砂布巾です。
2014年11月09日22時32分返信するRE: お久しぶりですね
砂布巾さん
こんばんは。
西区にお住まいですか!私の祖父や父は南区の宇品で育ち、私は安佐南区で生まれ育ったんですよー。西区だと、町まで出るのに便利がよくて良いですよね!安佐南区は今でこそアストラムラインが走っていますが、私が高校の頃はそんなものが走っていないのでバスしかないので、出るのも大変でした。
冬には広島に帰ろうかと思っています^^
worldspan2014年11月10日23時09分 返信するそれにしても
旅先では様々な経験をしておられるのですね。チェチェンへ行ったり、モスクワへの道中(でしたっけ?)にスリに遭われたり。砂布巾は「自称」国際ジャーナリストですが、worldspanさんにはかないません。返上します。今だったらクリミアへ行ってみたいのでは?
ところで書き忘れていましたが、砂布巾も安佐南区に住んでいたことがあります。旧国道(今となっては旧旧国道と言った方が正解かも)の安神社の近くです。小学校は祇園小学校卒業です。4年くらいしか住みませんでしたが。
さてここからが本題なのですが、クロアチア史におけるクロアチア独立国の位置づけはどうなっているのでしょうか? 特に興味を持っているのは、チトーの時代と連邦からの独立、ボスニア内戦当時の位置づけの変化についてです。
クロアチア史がご専門のworldspanさんに教えていただきたいのです。別に急ぎませんし、熱く書いてくださると思いますが、ご負担にならない程度で構いませんよ。もし適切なサイトがあれば、それを教えてくださっても結構です。
2014年11月13日23時03分 返信するRE: それにしても
クロアチア独立国というのは第二次世界大戦中にナチスの傀儡政権が樹立され、「第一のユーゴスラビア」、つまりユーゴスラビア王国から独立したときの(当時クロアチアを独立国として認めてたのは枢軸国ぐらいでしたが)「クロアア独立国」のことでしょうか?それとも1991年に「第二のユーゴスラビア」、つまりチトーが作り上げたユーゴスラビア社会主義共和国連邦から独立した現在の「クロアチア共和国」の事を仰られてるのでしょうか?
中欧圏を研究してたのは、かれこれ20年前になりますのでこれからお話するのは記憶頼りになります。
チトーという人物はクロアチア人とスロベニア人のハーフで、第二次世界大戦中ユーゴスラビア王国はドイツの攻勢にあっけなくベオグラードは陥落し占領されてしまいます。
共産主義者だったチトーはドイツに対してパルチザン活動を行い(今でいうテロのようなもの)、ドイツに抵抗していました。当時チトーはソ連に援軍を要請していましたがソ連は独ソ戦の佳境にありそれどころではありません。
ドイツは次第に力を失っていったこともあり、ソ連の力を借りることなくチトーは独力でユーゴスラビアを解放します。占領下の中、独力でドイツに勝利したのはユーゴスラビア以外にありません。それほどのカリスマ性を持つチトーにはソ連ですら簡単には圧力をかけることもできませんでした(ユーゴは他の旧東欧諸国と違い、ソ連と国境を接していなかったという地の利がありましたが)。
チトーはユーゴスラビア内で圧倒的な人気の中で元首となり「第二のユーゴ」をつくったわけです。ところがこれに面白くないのはユーゴスラビアの二大民族、セルビア人とクロアチア人の政府代表者たちです。クロアチアは民族自決を掲げ独立をしたにもかかわらず、再びユーゴスラビアに組み入れられることになりました。
とはいえチトーはクロアチアには一定の配慮をしています。クロアチアのクライナや東西スラヴォニアはセルビア人が多数居住していましたが自治州にするとクロアチアとセルビアのパワーバランスが崩れるので自治州にすることを認めませんでした。また1968年に発生したザグレブ大学で起こった民族運動+独立運動にはチトー自らザグレブ大学に赴き学生達を説得しました。
一方セルビアは元々ユーゴスラビア王国時代に政治の中心にいましたが、チトーはこれを抑制し、さらにセルビアの力を削ぐために、セルビアからマケドニアを独立させ、ヴォイヴォディナやコソボを自治州にしました。
第二次世界大戦、クロアチアとセルビアは別々の道を歩むべきでしたが、チトーによりユーゴスラビアの枠組みに入れられてしまったので、クロアチアもセルビアも面白いはずがありませんでした。チトーは民族運動や民族自決の恐ろしさを理解してましたので、民族主義者を徹底的に弾圧しました。その反動が1980年のチトー逝去後に激しい民族運動として現れます。
民族主義が台頭したのには経済的な側面があります。ユーゴスラビアは自主管理という特殊な社会主義を構築してましたが、1970年代後半から経済不振が特に強まりました。そんな中でユーゴスラビアの経済の中心を担うクロアチアやスロベニアの利益がコソボやマケドニア、ボスニアといった後進地域にお金が使われ、しかしこうした地域は発展するどころか、先進地域と経済格差が開くばかりで、クロアチアやスロベニアには何の見返りもありませんでした。こうした経済的背景も民族主義の台頭を許すことになりました。
そのため、独立時のクロアチアにおいて、チトーを評価するものはほどんどいませんでした。もちろんクロアチア内戦時もです。チトーの「非同盟」は世界的な広がりを見せ今では120カ国を超える国が非同盟会議に参加しています。もちろんユーゴスラビアが1980年代前半まで戦争もなく一国としてめていたことは凄い尽力であり、私自身もチトーの多くを尊敬しています。しかしユーゴとしての統治は結果として1991年から始まったボスニア内戦やクロアチア内戦、90年代後半のコソボ紛争を醸成してしまいました。
ちなみにボスニア内戦時ドイツやアメリカのプロパガンダで「セルビア悪」という風潮が強かったですが、クロアチアがボスニア内戦時に行っていたこともセルビア人たちと何ら変わっていません。ボスニアでは三つ巴で裏切り、略奪や虐殺の横行しました。クロアチアは戦勝国なので裁かれることはありませんでしたが、クライナや東西スラボニアのセルビア人に対する追放は許される行為ではありません。歴史は勝者によって作られていくので仕方ありませんが、私はクロアチアやボスニアに一方的に傾斜して報道するマスメディアも許せませんでした。この時国連の明石さんがボスニアでセルビア人やムスリム、クロアチア人の戦争を中断させようと奔走していました。しかしNATOはセルビアと敵対していたので、ボスニア内にいたNATOは明石さんの足を引っ張り言うことを聞きませんでした。この時明石さんは「無能」とされていましたが、実際には彼は分け隔てなく平等に交渉をしていたのです。そのため、私がセルビアに訪れた時でも明石さんのことは大変高く評価されていました。ただ、それがムスリム人やクロアチア人には「セルビア寄り」だと酷評を受けています。
ユーゴスラビアは第二次世界大戦の時の「宗主国」が付いた代理戦争の側面もありました。クロアチアにはドイツが、ムスリムには英米が、そしてセルビアにはロシアがついていました。ロシアはこの時エリツィンの時代、全く力がありませんでした。もしセルビアにプーチンがついていれば、ボスニアやクロアチア内戦は全く違った様相になっていたでしょうし、コソボも独立することはなかったかもしれません。
2014年11月15日12時36分 返信するworldspanさん、本当にありがとうございます
砂布巾のためにそこまで熱く書いていただいて、恐縮至極です。やはり午前門の方が言われるのは説得力がありますね。砂布巾が知らないことを数多く教えてくださって本当に有難うございます。
さて仰っておられるように、内戦時にはセルビア=悪、加害者という図式が確かにありましたね。新ユーゴに対して空爆や経済制裁が加えられたり、国連から追放されたり。それならクロアチアに対しても同じようにするべきだったと思います。ただ両民族の歴史的怨念を考えると、空爆や制裁で解決する問題ではありませんしね。先日たまたま「旧ユーゴ情報戦の内幕」というNHK特集のビデオ(内容はボスニア政府がアメリカのコンサルタント会社と契約して、ボスニアでの特にセルビアによる民族浄化を宣伝したという内容です)を見たのですが、民族問題というのは本当に難しいものですね。もしチトーが民族ごとの独立を認めていたら、どうなっていたのでしょうかね?
紛争は起きなかったでしょうか? それとももっともっと小規模な小競り合い程度で済んだのでしょうか?
あとボスニア紛争においては、クロアチア人にはクロアチア共和国からの支援が、またセルビア人にはセルビア共和国からの支援があったと思うのですが、同じように他民族を虐殺したと思われるムスリムは一体どこが支援していたのでしょうか? イスラム教徒のよしみでアラブ諸国でしょうか、それとも英米なのでしょうか?
そんなこんなを考えると、我々には実感がない民族問題というものの複雑さに嘆息してしまいます。
PS 年末を海外で過ごさないなんて、珍しいのではないですか?2014年11月16日22時28分 返信するRE: worldspanさん、本当にありがとうございます
ただ当時のチトーには各国が独立する概念はなかったと思います。彼が中心になってユーゴスラビア全土を解放し、チトーしかユーゴスラビアをまとめあげることしかできません。もしチトーが戦死していたならば、可能性はあったかもしれません。分割されるとすれば、クロアチア、スロベニアは西側として、セルビア、ツルナゴーラ(モンテネグロ)は東側として4か国で分割されていたか、セルビアとツルナゴーラはユーゴスラビアを継承してかと思います。コソボとヴォイヴォディナの自治州化はあり得なかったでしょうし、マケドニアはそもそも存在しない国ですしボスニアもセルビアとクロアチアに分割されていたでしょう。なぜなら「ムスリム人」というのも戦後に作られたもので、セルビア人もしくはクロアチア人に分類されていました(因みにモンテネグロ人はセルビア人です)。
少なくともコソボがセルビアであればアルバニア人の流入を未然に防いでいたでしょうし、コソボでセルビア人とアルバニア人の人口比率がおかしくなることはなかったとおもいます。
さてボスニア内戦時にムスリム達を支援した国の件ですが、中東のイスラム諸国が支援し、義勇軍が流入していました。しかし一番支援をしていたのはアメリカです。当時湾岸戦争でイスラム諸国から強い非難を浴びていたアメリカは、少しでもイスラム諸国からの非難を避けるために、クリントンがボスニアのムスリムやアルバニアについたと言われています。
確かにセルビア人、クロアチア人側には圧倒的な火力があったので、ムスリム勢力は防戦の一方だったのは間違いありません。しかしクロアチア内戦にしてもボスニア内戦にしても、いずれも民族主義の台頭に因ることが大きな原因でした。特にクロアチアのセルビア人には自治や、セルビア語の教育も認めずクロアチア化を進めました。
当時の大統領クロアチアのトゥジマン、ボスニアのイゼトベーコビッチ、セルビアのミロシェビチが民族主義者でなく、チェコのハベル大統領のような考え方であれば、もう少し違った結果になっていたかもしれません。ちなみに当時のスロバキアの大統領のコバーチと首相のメチアルは強い民族主義者でした。スロバキアが独立することに対してチェコにもメリットがあったとはいえハベルが戦争を回避し、分離をよくさせたと思います。
PS:
そうなんです。年末年始を日本で過ごすのは久しぶりです。今年は広島の祖父の具合があまりよくないので海外旅行を控えたんですが2月に少し行ければなー、とは思ってます。とはいえ2月から6月までは仕事が忙しいので、行けるかどうか。。。
2014年11月17日12時55分 返信する目から鱗が落ちました
そうなのですか。ムスリムは戦後造られたのですか〜。
砂布巾は昔からユーゴスラブのうち正教がセルビア人、カトリックがクロアチア人(両者の言葉は極めて似通っていると聞きました)、イスラームがムスリム人だと思い込んでいました。ところでムスリムは一体どのような基準でセルビアとクロアチアに分類していたのでしょうかね? もしご存知なら教えてください。
それから当然と言えば当然ですが、クリントンがボスニアを支持していた背景には、そういった国際的要因もあったのですね。さすが国際ジャーナリストさんです。感嘆!!
2014年11月19日08時45分 返信するRE: 目から鱗が落ちました
旧ユーゴスラビアのボスニアは元々南スラブ族のセルビア人が多数占めていました。セルビア王国がオスマントルコに滅ぼされ、ボスニアもオスマントルコに組み入れられたわけですが、オスマントルコはイスラム教以外の宗教の信仰も、課税を払えれば認めていました。ボスニアのセルビア人はこうした税を免れるためにイスラム教に改宗し、現在に至ったわけです。ですので、セルビア人からすれば、オスマントルコの占領によって簡単にセルビア正教を捨てた彼らに対して良い心証を持っていませんでした。
ちなみにクロアチア人はおっしゃるようにカトリックを信仰する人たちで、言語のクロアチア語はセルビア語とほとんど変わりません。セルビア語と大きな違いがあるとすればシュト方言が有名ですが、基本的にはカトリックであり、クロアチア王国、ハンガリー王国、そしてハプスブルク帝国の中で形成された人たちです。ですので、セルビア人とは言葉はほとんど同じですが、考え方や歴史は全く異なるんです。
19世紀に汎スラブ主義が台頭し、これによりユーゴスラブ(南スラブ人)の国家の形成が触発され、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人は南スラブ人による国家を形成する動きを見せ、第一次世界大戦が終了後にせるぶ・クロアート・スロベーン王国が形成されたました。
PS:昨日から土曜日まで所用で広島に戻っていますが、大阪と比べると寒いですね!!
2014年11月20日15時02分 返信する -
Re:投票ありがとうございます。
worldspanさん
お早うございます。お返事遅くなりました。
旅行記”サンデーマーケットに行ってきました。その? Nightcliff Market編 ”に投票して頂いて有難うございました。
このマーケットは観光客も多くてお土産物もかなり売っています。
でもヘビさんと写真を撮る人が、あんなに多くいるとは思いませんでした。
そして”Hand Pan"はとてもいい音でした。
しばらく聞いていました。CDも売っていたので買えば良かったと今になって後悔してます。
このマーケットからはビーチも近いので、今度はスナックを買って海を見に行ってみようかな?
今日も有難うございました。
ブルーパピー
2014年11月07日02時09分返信するRE: こめんとありがとうございます。
ブルーパピーさん
こめんとありがとうございます。
オーストラリアにはいつか行こうかと思ってはいますが、いつでもいけると思っていて、逆になかなか行く機会を失しているような感じです。続きを楽しみにしています。
worldspan2014年11月10日23時13分 返信する -
はじめまして。
worldspanさん はじめまして。
昨日は私の旅行記へのご訪問・ご投票をいただき、ありがとうございました。
worldspanさんの旅(旅行記)の多さに圧倒されました。
また色々と拝見させていただければと思います。
もしよろしければ今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
ありがとうございました!2014年11月04日22時00分返信するRE: はじめまして。
しんしんさん
こんばんは。ご丁寧なコメントありがとうございます。
スリランカは2012〜2013年の年末年始に家族旅行で訪れ、連れて行った0歳の娘が病に掛かり大変だった思い出があり、懐かしさに浸りながら旅行記を拝見させていただきました。
続きを楽しみにしています。
worldspan2014年11月05日00時03分 返信する -
投票、ありがとうございます。
worldspanさん
こんばんは♪
いつも、投票ありがとうございます。
今では、ウユニに空港が出来たからラパス〜ウユニ間も空路が主流ですが、
ウチ等の頃は出来て無かったので、陸路オンリー。
でも、あの川越えのアクシデントが有ったからこそ、空路に負けない旅が出来たと思ってます。
次回は、いよいよウユニ塩湖との対面。いろいろな写真と、ウチのポエムなコメントが
出て来ますが、今後ともヨロシクお願いします。
ジョージ・ジョン・ポール2014年10月30日23時51分返信するRE: 投票、ありがとうございます。
ジョージ・ジョン・ポールさん
コメントありがとうございます。
ウユニからリマ経由でクスコに向かう飛行機もあるそうですね!今度訪れる時には娘と二人と思いますので飛行機を利用しようと思います。でも陸路移動は魅力ですよね!
worldspan
2014年11月02日18時54分 返信する -
はじめまして 砂布巾です
色々な所に行っておられるのですね。娘さんも4歳ならworldspanさんもお若いはず。うらやましい限りです。ところで、ストックホルム空港の有名人の一番手前の人物。私が興味を持ってやまないワレンバーグが発見できてうれしかったです。
もしご存じなかったら、マイページ、第4部 その8 「最も多くの人命を救った人」をご覧ください。でもハンガリーに強いこだわりがおありなら、きっとご存知ですね。2014年10月28日00時58分返信するRE: はじめまして 砂布巾です
砂布巾さん
コメントありがとうございます。
実はワレンバーグの件、初めて知りました。ハンガリー史の中ではユダヤ人を救ったことはあまりピックアップされてないので、砂布巾さんのコメントを見て一体どんな人なのだろうかと調べて初めて知りました。ハンガリーでも昔はユダヤ人やロマ族にたいしてあまり好感を持っていなかった現状があります。例えば第二次世界大戦後に生まれ、日本に住む有名な数学者ピーター・フランクルはユダヤ系ハンガリー人ですが、戦後においてもハンガリーでのユダヤ人に対する差別や偏見はとても強かったことを回想しています。だからかどうかわかりませんが、ハンガリー史の中で第二次世界大戦の中でユダヤ人を救ったワレンバーグをピックアップされた記憶が全くないんです。。でも私にとってはハンガリーにユダヤ人を救おうと赴き多くの命を救ったその精神は、杉原千畝を思い出させられ、もう少し勉強をしておけばよかったと思いました。
シンドラーにせよ、ワレンバーグにせよ、そして杉原千畝にせよ、命をかけてユダヤ人を救った人たちのその後の人生を考えるととても切なくなります。
worldspan2014年10月29日00時12分 返信するご丁寧な返信ありがとうございます
ワレンバーグを紹介した「知ってるつもり!?」は凄かったですよ。「シンドラーのリスト」も迫力がありましたが。2人は人間性も方法も全く違っていますが、あのような異常な状況の中で、あれだけのことをする一種独特のオーラがありますね。
その彼が残念ながらハンガリーがご専門のworldspanさんがそうであった(別にそのことをどうのと言っているわけではありません 念のため)ように、日本では知られていないのが残念です。文献もほとんどありません(の筈です)。
私は自分の目で様々な場所を訪れ、見聞するのを趣味としています。もしworldspanさんが今後、旅をしていく中で、彼ゆかりの地に関する情報が得られたなら(わざわざ調べていただく必要はありませんが)、また教えてください。
ところで話は変わりますが、worldspanさんは、トラベラー名を変えられましたか? 以前何回か訪問させていただいた時には違うトラベラー名だったと記憶しています。(写真は同じだったような…)マチャーシュ教会での結婚式の様子が特に印象に残っています。
ご参考までにワレンバーグのページです
http://4travel.jp/travelogue/109210062014年10月29日09時04分 返信する改めてありがとうございます
恥ずかしながら、今日初めて「いいね」を投票してくださった人を知る術を身に着けました。worldspanさんは、過去5票入れてくださっていたのですね。ありがとうございます。2014年10月29日20時05分 返信するRE: ご丁寧な返信ありがとうございます
そうなんです。名前をだいぶ前に変えました(笑)。以前はshijo(しよ)という、ハンガリーやポーランドでの自分のあだ名をそのままつかっていましたが、中東欧圏だけでなく、ほかの地域にも出ることにしたので今のハンドルネームにしました(笑)。
ワレンバーグの件、もう少し自分も勉強をしないといけないと思い、猛省です。ハンガリーは、ユダヤ人のことよりもむしろハンガリー人がドイツとロシアという列強の狭間で翻弄されてきたという思いが有り、ハンガリー人自体がユダヤ人を迫害していたので、ユダヤ人に対して多くを語りません。そう言う意味ではまだまだ自分も勉強不足を感じました。
次回訪れるまでにもっと勉強しなければいけませんね””
worldspan2014年10月29日22時30分 返信するポーランドもきっとそうなのでしょうね
いまだにユダヤ人差別がなくなっていないことを感じました。これまではナチスドイツへの過度の被害者意識から、被害者としての立場をとるあまり、大戦中の加害責任に触れるのはタブーだったのでしょうね。
すでにご訪問頂いているとは思いますが、「ワルシャワ・ゲットー蜂起」や「ワルシャワ蜂起」の項目にはこの辺りに触れています。
今日はさっきまでお礼の掲示を書きまくっていました。やるべき時にやっておかないと、手痛いしっぺ返しを食らう好例です。2014年10月29日22時49分 返信するRE: ポーランドもきっとそうなのでしょうね
こんばんは。
ポーランドにもよく学生時代に訪れており、当時付き合っていたポーランド人の彼女の実家に泊まりに行っていましたが、歴史の話でもユダヤ人の話はあまり出てこなかったです。むしろポーランド人自身がドイツとソ連の狭間で激戦地になり、国民の6人に1人が犠牲になるという大きな被害を受けていたことやワルシャワ蜂起といった話は出てきてはいました。
ドイツによって後塵と化したポーランドですが、現在ポーランドとドイツの経済的なつながりは強く、ドイツに多くのポーランド人が住んでいますし、私が知っているポーランド人はドイツに対する憎しみとか、そういったものは感じませんでした。特にポーランド西部や南西部では第一外国語としてドイツ語を教えられていた(当時ですが)こともあり、多くのポーランド人がドイツ語流暢に話していました。ワルシャワに行くとまた感情は異なるのかもしれませんが、少なくとも私がよく訪れたポーランド南西部ではそんな感じでした。。
worldspan2014年10月30日22時41分 返信する



