kasekunさんのクチコミ(5ページ)全183件
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投稿日 2024年01月30日
総合評価:4.0
色塗り投稿です。
ニュージーランドには1度だけ訪問。南太平洋周遊の旅で。最初はそんなに期待していなかったが、なかなかの大自然に感服。北海道に負けずいいところですね。
日程は、、、、。
●千歳ー香港ーオークランド キャセイパシフィック航空
●オークランド観光
●オークランドから夜行虫を見にワイトモへ向かうが失敗。バスの降りる所を間違えてしまった。ハミルトンで降りてタクシーに乗り換えだったのに、、、。別の日本人がここで降りていくのを遠目に眺めていたのに、、、。せっかく乗継のタクシーも事前予約してたのに、、、。仕方なくそのバスに乗り続けまたオークランドに戻ってきました。バスドライバーが1名乗客が多いことに気づいていた、、、、。自分です。
●気を取り直して、ロトルアにバスで向かい、観光。ここロトルアに来た理由はマオリの文化にふれたかったから。北海道でも、アイヌ文化に触れることはできるが、ニュージーランドはそれ以上にマオリ文化を全面に出して観光に力を入れていた。
●ロトルアからは、またバスでオークランドに戻り、翌朝、メインのウエリントンまでの列車に乗車。この観光列車は高額だけど、列車好きには絶対はずせない。
●ウエリントンを観光し、フェリーで南島ピクトンへ。当初はクライストチャーチまでの観光列車が運休となってて、仕方なくバスを予約してたけど、来てみたら列車が復活していた。急遽バスをキャンセルし、列車でクライストチャーチへ。
●クライストチャーチ観光はそこそこに、翌朝すぐに予約していたバスでクイーンズタウンに向かう。ここでレンタカーを借りて、ミルフォード・サウンドに向かうためだ。事前に1日シーカヤックツアーを予約してたのだ。
●でも、集合時間に間に合わず、、、。遅れてしまったんですけど、、、受付に何とかならないか相談してみたところ、観光船乗船と半日シーカヤックツアーに振り替えてくれた。ラッキー!さすが観光立国ですね。船から雄大なフィヨルドを見て、ミニトレッキングして、シーカヤックで大自然を満喫できました。
●で、その後はせっかくなのでレンタカーでインバーカーギル、そしてニュージーランド最南端の町ブラフにあるスターリングポイントまで。自分はここが今まで訪れた中では地球最南端の場所。(車の中で車中泊)
●で、最終日はダニーデン、オタゴ半島までドライブして、アホウドリの群生地を見学。→クイーンズタウン空港で車を返却し、、→ウエリントン、オークランドと乗り継ぎ、ニューカレドニアへ。
慌ただしい中でのニュージーランド訪問でしたが、楽しめました。きっとまた再訪すると思います。
特に思い出に残っていることは、、、
○ロトルアでの観光。てくてく歩き回ってたら、偶然にもテプイア発見。で、せっかくなので食事付きのチケットを購入し入場。ここは後で調べたら有名な間欠泉だった。マオリの方が熱心にガイドしてくれ、ほー、北海道の観光とはちょっと違う一面を見ることができた。ただ食事は、、、。周りは英語圏からの観光客。最初こそ挨拶程度はしたものの、ネイティブ英会話にはついていけない。日本の団体さんも来ていて、そちらでは楽しげな日本語会話が聞こえてくる。せめて、配慮して、その近くに席を指定してくれたらよかったのに、、、。黙々と食べ続けた、、、。
○オークランドからウエリントン行きの観光列車。乗車駅を間違えてしまった。遅れないように早起きして来たのに、この駅ではなく、別の駅だった。あわてて走って乗車駅に向かうものの間に合わず。列車は既に出発していた。えー!高額料金払ったのに!でも旅の神様は見放してはいなかった、、駅員さんが助け船を出してくれた。車で次の停車駅まで乗っけてってくれるというじゃないですか!助かった!その駅員さんは若い韓国系ニュージーランド人。次の駅で自分も乗車するので、、、ということだった。ありがたいありがたい。(この列車に乗車する人は自分のように間違えないでくださいね。近郊へ行く列車駅ではありません)
○無事列車に乗り込み、、、。でも、お隣さんからは中国語が、、、。あー、中国の方と相席になったんだ。お向かえ合わせて4人がけのシートには3人の中国人と1人の日本人。アジア人だから一緒にしてくれたのかな?と思ってたら、隣の方が地球の歩く方ニュージーランド編を出して見ているではないですか!思わず聞いてしまいました。日本語読めるんですか?と。すると、相手もびっくり!なんと中国系の日本人でした。(日本人と結婚した奥様でした。)友達3人でニュージーランドに旅行しに来たんだとか。ビックリです。あちらも、途中駅で乗ってきたので自分を現地の方だとばかり思ってたようです。まあ、日本人には見られませんから、相手もびっくりですよね。そんなこんなで、日本語会話の始まり、、、。なんだか綺麗な車窓よりもこの中国系日本人奥様との会話の方が楽しくなってしまいました。
○ニュージーランドの安宿は不思議とデポジットを要求してくる。要は保証金だ。このデポジットにはやられた。朝早くにバスで出発したわけだが、デポジットを返金してもらおうにも、受付に人はいなかった。呼んでも誰も来ない。バスに遅れてしまうので仕方なくデポジットのお金は諦めるしかなかった。安宿なのにけっこういい金額となってしまった。このデポジット制度だけはやめてもらいたいものだ。
○北島から南島へ向かうフェリー。豪華客船のような催しもので、時間を忘れてしまうほど楽しく過ごせた。子供たちも本当に楽しそうだった。日本でいうなら、青函連絡船の中でイベントをしているような感じ。是非、日本でも行ってほしいですね。
○レンタカー。ニュージーランドの交通は日本とは違う。誰もいないような所では120キロぐらい出して飛ばしてもよいらしい。でも、町に近づくと厳しく50キロ規制。緩急をつけた交通ルール。是非日本でも導入してほしいですね。特に北海道では誰も住んでいなくても60キロ以上出せばスピード違反。警察車両が隠れて検挙している、、、。
で、やっちまいました。ちょっと町中で考え事をしてた自分。すると、後ろの方にパトカーがついてくる、、、。あれ!俺か?、、、停車したらやっぱり自分だった。国際免許証を見せたものの、許してはくれなかった。名刺みたいな紙を渡され、ここに書いてあるサイトにアクセスし、カードで罰金払ってねだって。日本に帰ってから罰金80ニュージーランドドルをカードで支払った。いタタタタ!(ゴールド免許に影響するのか心配だったけど、影響はしなかった。無事、再度ゴールド免許で更新できた)
、、、という感じのニュージーランド滞在となりました。そんなに初めは期待してなかったけど、ニュージーランドは楽しめますね。次の機会があれば、もうひとつの観光列車にも乗ってみたいですね。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2018年01月
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投稿日 2024年01月17日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
ラトビアには2度ほど訪問。
1度目は北欧周遊旅行で、エストニアタリンから国際バスにてリガへ入った。この旅での思い出は、、、。
・リガのバスターミナルに着くなり綺麗なお姉さんが安宿を売り込んでくる。ちょうど観光に力をいれ始めた時期のようで、ホステルがリガにもできはじめていたのだ。宿探しもせずにすむし、ホイホイついていった。できたばかりのドミトリーがあるホステルだった。
・ラトビアの通貨はまだユーロではなくラッツだった。この通貨、コインは異常に小さい。今まで見てきた色んな硬貨の中で最小サイズ。で、1ラッツ札の価値が高く、簡単な買い物ではお釣りは必ず小さな硬貨をもらってしまう。どれが0.5? 小数点の世界だった。(貴重なラッツ。取っといてよかった!)
・世界遺産の町リガはタリンやビルニュスと比べると、たいしたことはないかな?個人的にそう思う。なんだか広いし、見所もそんなになかった気がする。
・リガで見つけた旅行社で、ロシアVISAを取得。当時、日本でロシアVISAを取るのは大変だった。(バウチャー旅行でしか簡単には取れなかった)でも、バルト3国ではホテル予約も交通機関の予約もせずに普通のVISAが取れるというのだ。要1日、70ドルで簡単にロシアVISAが取得できた。で、国際列車に乗ってロシアサンクトペテルブルグへ、、、。
2度目は東欧周遊の旅で。北欧周遊の時には行けなかったバルト3国の1つリトアニアからリガへ。本当は列車で入国したかったが、諸事情でまたまた国際バスで入国。で、ポーランドにバルティック航空で戻った。
この時の思い出は、、、。
・ビルニュスからの列車に乗り遅れ、仕方なく急遽国際バスで。ただこのバス、タリン行きで、リガには途中下車の感じ。なので真夜中に到着。真夜中なので、安ホテルには泊まれない。仕方がなく、バス停のベンチで寝袋野宿、1晩を明かす。すると、ベンチで寝てるお仲間の男性(浮浪者?)が、、、。近寄ってきて話しかけてくるが言葉は通じない。悪意はなさそうで、こちらを不思議がっているような。立派なバスから降りてきていきなりベンチで寝る人に興味津々のような感じ。自分が脱いだ靴が欲しいようで、クレクレと指差す、、。ダメダメ!というまに靴を持ち上げ臭いをかぎだした、、、クッセー!、、、このやろう!とは思わずなんだか可笑しくて笑ってしまった、、、。
・で、無事リガの空港行きのバス停を運良く発見し空港へ。
こんな感じのラトビア滞在となりました。
以上、色塗り投稿でした。
(今、日本に帰る航空機の中、暇なんでネット作業です、、、。時代は変わるもんですね、飛行機の中でさえネットにつながっているとは、、、ハイチの人は驚くだろうな!)- 旅行時期
- 2003年08月
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投稿日 2024年01月17日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
エストニアには1度だけ訪問。まだ通貨がユーロではなくエストニアクローンの時代。(コイン、紙幣とも記念に取っといてよかった)
夏の北欧旅行で、フィンランドヘルシンキから高速船で世界遺産の町首都タリンに。タリンは綺麗な町という印象がある。この後、リガも訪れるのだけど、タリンの方がこじんまりとまとまっていて自分は気にいった。
エストニアでの思い出は、、、そんなにないが、、、
・列車好きの自分、本当はエストニアから隣国ラトビアへ列車で向かいたかったのだが、たしか、この頃は列車での越境はできなかったと記憶している。でもローカル列車に乗りたく、早起きして、1日1本しか走っていないラトビアとの国境の町ヴァルガ行きの列車に乗車。この列車、本当にローカルで、地元民の方々がちらほら乗車してくる廃線間際のローカル列車だった。ヴァルガも萎びた町で何もないが、ラトビアとの国境の鉄条網を見て1泊。(帰りの便は1泊しなければなかった。)1件しかないしなびたホテルに。
・次の日、また早起きして列車でタリンに戻る。で、国際バスで、ラトビアへ、、、。
今は国際列車ではないが、ローカル列車で国境まで行き、接続してリガへ向かう列車もあるようだ。次行く機会があれば、バルト3国、列車の旅を実現してみたい。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2003年08月
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投稿日 2024年01月01日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
インドネシアには2度程訪問。初めてはたしか2003年頃の冬。兄貴との2度目の旅行で。ラオス旅行でバンコク入り。その時成田往復1年オープンチケットを購入。当時はこの方法が1番安くチケットを購入できたのだ。で、1年後、兄貴とバンコクへ。でもタイは昨年訪れたし、、、。よし、シンガポールへ行こう!シンガポールならマレーシアにもインドネシアにも行ける!と。自分は列車でシンガポールに行きたかったが、休暇が短い兄貴に合わせ、航空機でシンガポールへ。で、マレーシアのジョホールバルへ行ったり、インドネシアのバタム島へ行ったり。(当時はVISAも要らなく無料)
兄貴とはバタム島で別れ、自分はそのままブルネイ目指し、インドネシア横断旅行。
・バタム島でスマトラ島行きのフェリーチケットを購入し、ペカンバルまで。初のバナナの葉っぱにくるまれたランチ。手食もネパール以来。かなり忘れてるが、これはおぼえてる。
・ペカンバルからはまっすぐバスでブキティンギまで。ブキティンギでは安宿はどこもフル。ちょうど大晦日だったので、仕方なくけっこう高いホテルへ。そんな愚痴を年越しを迎えようと公園で騒いでた若者に話すと、、野宿すればいいじゃん!、、そうだった。ここは南国、寒くなんか全然無い。きっと若者たちも夜通し、、、。海外で野宿、、きっとこれがきっかけとなったように思う。
そしてガイドブックにあった特徴的な王宮を見に。で、ブキティンギのホテルにて近郊を回るツアーに参加。初めて現地ツアーというものに参加した。ヨーロッパの旅行者に混じり、1人アジア人の自分。英語が話せんと辛い、、、この時悟った。
・ブキティンギからはまっすぐバスにてジャカルタまで。スマトラ島からジャワ島へ渡るわけだが、バスはそのままフェリーに乗船、、、ほー、これがインドネシアの交通なんだと感心した。
・一番覚えていることは、、、バスに荷物を置いているのに、下ろされ、そのバスがどこかに行っちまった、、、。え!現地バスで来てるので、他の外国人旅行者もいないし、言葉も通じず、、ただただ、あの荷物に全財産が入ってるのに、、、これからどうなっちまうんだろう?と不安でいっぱい。英語をすこしばかり話す現地の方が、そんな自分を見て話しかけてくれた。心配するな、バスは戻ってくる、、、。まだ若かりし自分でした。
・ジャカルタでは現地のミニバス(ベモ)を使って観光。(適当に行きたい方向に走ってるやつに乗車)すると、現地の英語を話す女性に声をかけられた。日本人です、と答えると驚いていた。ベモに乗る外国人を見たのはあなたが初めてだとか。何か困ったことがあったらここに電話して!と電話番号の紙をくれたが、、、ただでさえ英語が聞き取りにくいのに、電話だとなおさら、、、。
・ジャカルタからは航空機にてボルネオ島ポンティアナックへ。本当は船で行きたかったのだが、日程もなかったし、、、。ポンティアナックでは観光もせず、現地の旅行社でマレーシアクチン行きの国際バスチケットを購入。旅行社の方に、なにしにここに来たの?と言われてしまった。多くの旅行者はここでボートツアーに申し込むんだとか。で、陸路国境を越え、東マレーシアのサラワク州へ。
、、、という感じでのインドネシア旅行となりました。スマトラ島ブキティンギとジャカルタしか訪れてはいませんが、旅行しやすいと感じました。
※2度目は東南アジア縦断の帰路、シンガポールによった時、またフェリーでバタム島へ。
近々また行こうとも思っています。まだ未踏の東チモールからジャカルタまでのインドネシア横断旅行で。鉄道にも乗りたいし、世界遺産も見たい、、、。
以上、色塗り投稿でした。
ちなみに、日本からインドネシアジャカルタまでは陸路海路で到達。
○北海道→鹿児島 JR
○鹿児島→沖縄 フェリー
○沖縄→台湾基隆 フェリー(今は無き飛龍21)
○台湾基隆→馬祖島(南竿) フェリー
○馬祖島(南竿)→中国福州 フェリー
○福州→廈門 中国国鉄
○廈門→広州 中国国鉄
○広州→南寧 中国国鉄
○南寧→ベトナム ハノイ 国際列車
○ハノイ→フエ ベトナム国鉄
○フエ→ホーチミン バス乗り継ぎ
○ホーチミン→バベット国境 バイクタクシー
○バベット国境→カンボジア プノンペン バス
○プノンペン→シェムリアップ バス
○シェムリアップ→ポイペト バス
○ポイペト→タイ アランヤプラテート 徒歩
○アランヤプラテート→バンコク タイ国鉄
○バンコク→スンガイコーロク タイ国鉄
○スンガイコーロク→ワカバル バスとタクシー
○ワカバル→シンガポール マレーシア国鉄
○シンガポール→バタム島 フェリー
○バタム島→ペカンバル フェリー
○ペカンバル→ブキティンギ バス
○ブキティンギ→ジャカルタ バスとフェリー
※ジャカルタからフェリーでボルネオ島ポンティアナへ行けばブルネイのバンダルスリブガワンまでつながるが、まだこの区間の船には乗ってない。インドネシアの国営フェリー、、日程を合わせるのはなかなか難しい。- 旅行時期
- 2003年01月
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投稿日 2024年01月16日
総合評価:1.0
色塗り投稿です。
といっても、カナダは厳密には旅行はしていない。南米に向かう便のトランジットでトロントに立ちよっただけ。航空券購入時には結構な時間があり、ナイアガラの滝を見て来ようと計画してたけど、航空便の変更でそれもままならず。空港のコンビニでちょっとした物を購入したり、寒いなあとちょっとだけ外に出てみたのみ。
でも一応空港の外に出たので訪問とします。いずれ円安が終わり、1ドル120円ぐらいに戻った時に、アメリカロサンゼルスからアムトラックでカナダに入国し、バンクーバーから列車でトロントまで。で、ナイアガラの滝を見たいと思ってます。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2013年12月
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投稿日 2024年01月16日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
フィンランドには1度だけ訪問(その旅で2度入国)。
・1度目の入国はノールカップから夜行バスでサンタクロースの町ロバニエミへ。夜行バスで疲れたが、ここでは快適なユースホステルに宿泊。で、この北欧旅行で初めて日本人旅行者とホステルで出くわした。聞いてみたら、高校の教員の方で、夏休みを利用し長期でフィンランドを回ってるんだとか。日本人で、長期にわたり旅行できるのはきっと教員しかいない。
・サンタさんに会いに行った。ちゃんと白ひげにサンタクロースの衣装。イヤー感激!観光として扮してるただのお爺ちゃんだろうけど、これを子供たちに見せたらきっと感動するでしょうね。お金を払ってクリスマスカードを子供たちに送ってもらうようにした。(そんなサービスがある) 後から子供たちにちゃんと届いたか聞いたら、届いたって。
・ロバニエミからはパスを使って列車で、スウェーデンとの国境の町まで。列車でと考えてたけど、時間が合わず、バスでスウェーデンに入国。
・2度目の入国はストックホルムからトゥルクへのフェリーで。このフェリーにはスカンパス保持者は特典として無料乗船できた。途中、オーランドに寄港してトゥルクへと向かうのだが、オーランドというフィンランドの自治州の存在を全く知らなかった自分。旧5千円札の新渡戸稲造さんが国際連盟事務局長としてこのオーランド問題を解決したなんて全く知らなかった自分。下船して訪問すべきだったと今では後悔。下調べは重要なんですよね。
・トゥルクで下船したのは、ムーミン村に行くため。近くのナーンタリという町にバスで向かい、ムーミンに会ってきた。オー!懐かしのキャラクターがいっぱい!子供の頃によく見ていたアニメ。ねえムーミン、こっち向いて、はずかしがらーなぃで、、、。ついつい口ずさんでしまう。1人、どうしても名前が思い出せないキャラクターがいた。なんだったっけなあ?ずっと思い出そうと考えてたら、、、やっと思い出す。そうだ!スナフキンだ! 思い出すことができたことに感激!
・トゥルクからはパスを使ってヘルシンキまで。駅で予約すると、駅員さんがなんだか知らないが何度も謝ってくれる。予約料金を取ってごめんなさいと。パスはあるけど、追加で予約料金を徴収するのがユーレールパスのシステム。そういう代金も含めてパスにすればいいのに。確かに面倒なのだ。たぶん日本の鉄道パスは予約無しで乗れることをこの駅員さんは知ってるのかもしれない。謝られたのはこのフィンランド国鉄だけ。なんとも腰が低い国民なのかもと思ってしまった。
・ヘルシンキでは若者日本人がたくさん訪れていた。不思議に思い聞いてみると、お目当ては当時流行っていたヘビメタだとか。ここヘルシンキではライブがたくさんあるんだとか、、、。
これくらいでしょうか。フィンランドで思い出せることは、、、。
お金に余裕があれば北欧旅行も悪くないんですが、なんてったって、ヨーロッパの中でも物価が高過ぎるのが難点ですね。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2003年08月
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投稿日 2024年01月11日
総合評価:1.5
色塗り投稿です。
グアムには1度だけ訪問。サイパンからグアムへ飛んで1泊のみ。ここでもレンタカーを借りて、島1周。サイパンとは違い交通量が多い。町中に入ると緊張、、、。特に夜になると、、、。
想い出は、、、。
・ここではサイパンのダイビングショップでTCで購入したマスクを活用して、シュノーケリング。最北端のビーチで車を止め、海と戯れてきました。けっこう観光客も泳いでいました。見ると、アジア人の方も、、、。でも何人かすぐにわかりました。女性はもちろん、男性もスイミングスーツを着て泳いでいる、、、。お隣の韓国人ですよね。彼らは日に焼けることを極端にいやがりますよね。白い肌がステータスのよう、、、。でも日本人はどちらかというと日焼け好きかな?自分も漏れず、スッポンポン。
、、、でも後で後悔。日本の海とは紫外線の量が違いました。もう、数日ヒリヒリ。いたくていたくて、、、。
ということで、サイパン、グアムで泳ぐときは、男性も日焼け止めした方がいいことを学びました。
※ここのビーチは最高!浅瀬のシュノーケリングだけで、カラフルな魚たちがウヨウヨ!ダイビングせずとも楽しめました。
グアムはそんなものかな。1日しかいなかったし、、、。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2016年05月
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投稿日 2024年01月09日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
サイパン島には1度だけ訪問。2017年。ゴールデンウィークには国内旅行中心に旅行してるのだが、この年は無性に海外に行きたかった。短期で行ける渡航先はサイパンかなということで、行って見ることに。航空券は意外に高かった。サイパン往復で11万も。せっかくならすぐそこのグアムもと考え、サイパンinグアムoutのオープンジョーの航空券を購入し、サイパンーグアムは別購入。(1万円程)
サイパンの思い出は、、、。
・サイパンで初めての海外レンタカー3日間デビュー。そんなに交通量も少ないんじゃないかなと思ったので。安く済ませるために、左ハンドルにマニュアル車を選択。最初こそ、ウワー!という感じでおっかなびっくりだったけど、慣れるまで少し練習し、何とか久しぶりのマニュアル車の感覚を思い出すことができた。でも、ウインカーだけはどうしてもワイパーを動かしてしまう、、、。しょうがないですよね。
・初日は空きがやっと取れた久しぶりのスキューバダイビングに。海外でのダイビングはこの時が初めて。しかもこれまた久しぶり。大丈夫かな?と不安はあった。
空港からまっすぐ予約した集合場所へ向かうが、見つからず迷ってしまい集合時間に遅れてしまった。電話がかかって来て、直接ダイビングショップへ、、、何とか到着。レンタカー、ダイビング、、、今から思えば何と無謀なことか。しかも今到着したばかりなのに、すぐにダイビング、、、。
最初こそ、、、でしたが思い出してきました。一緒にもぐる方々はもう強者ばかり。ダイビングのためだけにサイパンに来ている方々ばかり。皆さん心配してくれましたが、何とか無事終えることができました。直近で潜った海は北海道の積丹半島。海の中は茶色の世界。でもここサイパンは南国のカラフルな世界でした。cカードは小笠原で取得したんですが、あの綺麗な海を思い出しました。
・ダイビングが終わり、自分だけ駐車場からレンタカーでお別れ。一緒に潜った方々、やっぱり驚いていました。で、この初日はホテルへ。1泊50ドルの中国人が経営しているホテルへ。
・2日目はレンタカーで島一周のドライブ観光。交通機関があまりないサイパンではレンタカーが機能を発揮する。もう、そこら中、マップスミーをナビ代わりにくまなく回りました。
・で、一番驚いたことが日本人観光客よりも韓国、中国人が闊歩していたこと。サイパンの町中は寂れていて、たまに町で見かける観光客は中国人か韓国人。日本人はダイビングだけは行くようですが、、、。するとどうなるかというと、万歳クリフ等の天皇陛下や日本人が訪れ、慰霊してきた場所が、中国人や韓国人のスポット観光地に。この地で多くの日本人が万歳と叫びながら海へ断崖へ飛び込んで行ったのか、、、感慨深く偲んでいる横で、キャッキャキャッキャと写真撮影に夢中の中国人、韓国人がいるわけです。なんだか、やりきれない思いを持ってしまいました。このまま、日本人はサイパンに行かなくなってしまうのでしょうか?
・サイパンでは何と、ドルのTCが現金と同じように使えました。びっくりです。もう、過去の遺物となってしまったトラベラーチェック。余ってたものを持って来てたのです。米領では今でも使えるという情報があったので。本当でした。ダイビングショップでも、スーパーマーケットでも、現金に替えることなくそのまま使えました。
・サイパンはやっぱりアメリカでした。夕食にレストランに入り、大好きなカルボナーラ、後2品程サイドメニューを注文したら、大失敗。量がものすごい!ヨーロッパでカルボナーラを頼むと物足りない量なのに、、、。大分残してしまいました、アメリカ人をなめてました。
という感じのサイパン旅行でした。あ、思い出しました。お昼はタイ料理の店でたべほうだいが10ドルだったことを。ここぞとばかりに食いまくりました。タイ飯はうまい!
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2017年05月
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投稿日 2024年01月08日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
オマーンへは2005年冬1度だけ訪問。カタールからコウクウキでマスカット入国。当時は空路ではVISAが簡単に取れたので、
(バーレーン→カタール→オマーン、そしてVISAなしとなったUAEにバスで入国。)
オマーンでの思い出は、、、。
・岩のアラビアと言われるオマーン。なんだか1番行ってみたかった国。①イエメン→オマーン→UAEにするか、②バーレーン→カタール→オマーン→UAEにするかで悩んだ末、②を選択。①のイエメンを選択しなかったことを今でも後悔。イエメンVISAが、、、。それでもオマーンだけは絶対行きたかった。あの独特の長い白の寸胴服で町を闊歩している人たちを見たかった。そして、オマーン王と結婚した日本人女性との間に生まれたブサイナ王女。この人の存在を知った時、日本とオマーンの奇妙なつながりを感じたのだ。
オマーンでの思い出は、、、。けっこう忘れてる、、、
・マスカットで泊まったホテルの近くにはレストランがあった。パキスタン人が働いているカレーが定番の夕食だったはず、、。ここでもパキスタン人が働いていた。
・たしかマスカットは2つの地域にわかれていたような、、、。泊まった方とは別の地域に商業施設やバスターミナルがあったはず。歩いててくてく何度もそちらの方に行ったような、、、。見える景色は岩、また岩。岩のアラビアと呼ばれるオマーンの意味がよくわかった。
・オマーンの男性は背が高くみえる。白いズンドウの服がさらに高く見えるのかも。他のアラブ諸国の人よりもかっこよく見えた。
・初めてアラブ諸国を回っていて、そういえば女性を見かけないことに気づいた。レストランでも男性ばかり。たまに女性らしき人を見かけるが顔は全く見えない。子供は顔を出しているけど、成人女性はどんな顔をしてるんだろう?そんなことを思ってた。オマーンではさらに、、、。男性社会だということを改めて知った。
・南にあるサラーラという町へバスで行ってみた。何もない砂漠(あの砂の砂漠とはちょっと違う砂漠)の中をバスはただただ超高速で走り抜ける。本当に何もなかった。(今は変わったかな?)
・サラーラからイエメン国境の町までバスで行ってみた。たしか3オマーンリアル。運転手はやっぱりパキスタン人だった。くねくねと山道を登ってたどり着いたものの、さすがパキスタン人、運転はうまい!で、1時間程滞在し、折り返しのバスでまた来た道に戻る。国境ではないが、一番イエメンに近いオマーンの村。小さな漁村だった。イエメンは山の国なんだということを少し実感した。
・たしか世界遺産の砦がある町にも行ったと思うんだが、その記憶がない。行かなかったのかも?
・ブライミという町にバスで向かう。ここから国境を越えUAEのアルアインに入国する予定だった。が、途中バスから下ろされた。ここで出国スタンプをもらえと。バスはそのままどこかへ行っちまった。??どこがイミグレーション?地元の方に英語で聞いても??取り合ってくれず。見渡してもそれらしき建物は見当たらず。さてどうするか?とぼとぼ暗闇の中、誰か車に乗っけてくれないかなと考えていると、1台の車が止まってくれた。どこに行くんだい?ホテルのある方に、、乗てっけ!、、、これが生まれて初めてのヒッチハイクとなった。日本でもしたことはない。まさかオマーンで初のヒッチハイクをすることとなるとは、、、。若いお兄さんはブライミのホテルまで届けてくれた。まだここはオマーン領。出国スタンプを押してもらえなかったけどいいのかなあ?もしかして、アルアインとの本当の国境にイミグレはあるのかも?
・次の日、てくてくUAEとの国境を越え、アルアインに。イミグレはなかった。オマーンを出国してもいないし、UAEに入国したわけでもない、密入国状態。人生初の密入国。
という感じのオマーン旅行となりました。今はきっとしっかり国境管理をしてると思いますが、当時はこんな感じだったのです。今思うに、途中で下ろされた所の警察署へ行けということだったのかなと、、、。ちなみに旅行記にも書きましたが、UAEの密入国はまずい!と思い、ドバイのイミグレオフィスを探し、行ったんですが、何と伝えたらいいかわからず、相手も取り合ってくれず、、、。
※結局、ドバイの空港でパスポートを何度も何度もめくる職員。入国スタンプを見つけられず(あるはずはない)。、、、ボーディングパスに出国スタンプを押してくれました。
人生初の経験を2つもしたオマーン。やっぱり日本人と縁がありました。きっとまた行けるはずだと思ってます。
以上、色塗り投稿でした。
- 旅行時期
- 2005年01月
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投稿日 2024年01月08日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
シリアに続いてレバノン。レバノンには1度だけ訪問。2011冬トルコから南下して、シリアダマスカスから乗り合いタクシーでベイルート到着。VISAがいるとか要らないとか、よくわからんかったけど、結果、無料でレバノンに入国。本当ならシリアのパルミラ遺跡に引き続きパールベック遺跡を訪問する予定だったのに、余裕ぶちかまし、レバノン観光、、、気づいたらこのままじゃカイロからの帰国便に間に合わない。結局再度シリアへ、そしてヨルダン→イスラエル→エジプトという当初の予定とは大幅に狂い、レバノンでエジプトカイロ行きの航空券200ドルを購入した。
レバノンでの思い出は、、、。
・レバノン人、ベイルートで泊まった安ホテルのご主人は、、、恐い顔だった。エー、部屋ありますか?今まで出会ってきた人の中でも一番恐い顔つき。恐る恐る尋ねるものの、話せばそうでもなかった。でも、偏見で悪いけど、レバノン人の男性の顔つきは恐いと思ってしまう自分がいる。レバノンに逃亡中のゴーンさんも恐い顔だと思うのは自分だけだろうか?
・ベイルートではとにかく海岸線をずっと歩いた。有名な岩なんかを見ながら、、、。自分の年代ではレバノンと言えば内戦。とても来れるなんてことは考えられなかった。それが2011年は平和だった。海岸線を歩けばジョギングしてる人もいる。道路もそれなりに綺麗だし、内戦からの復興が感じられた。
・当時、レバノンポンドとドルの関係がよくわからず、レバノンポンドに結構な金額を両替。でも、、、レバノンポンド払いよりドルで払った方がいいのだ。地域通貨の弱さを知る。(カンボジアでも、キューバでも、イラクでも、ハイチでも) 余ったレバノンポンド、ドルに再度替えるとなるととんでもなく損をする、、、。
・世界遺産ビブロスにも訪れた。調子に乗って世界遺産のレバノン杉を見にプシャーレにも訪問。ただ冬だったからか、森の中に入った記憶がない。ここでは、レバノン杉の木材に教え子たちの名前をいれてもらったお土産を大量に購入。お姉さん、上機嫌だった。でも帰りのバスがなくなってしまい、トリポリに戻れず。
、、、という感じで、なんだかわからないままにここでも滞在日数を費やし、帰国便に間に合わないことに。
これ以来、大まかな計画をたてて旅行するようになった。(今はホテルも簡単に予約できる時代ですから、便利になりました。当時は行き当たりばったりの時代ですから。)
今、レバノンは、、、工場の大爆発、そして経済の悪化、さらにイスラエルとの緊張でとても行けないような感じ。でも、2011年当時は本当に平和だったのです。と、考えると、ネットの発達で便利にはなったけど、世界は以前より不安定ですね。円安もしばらく続く?ようだし、、、。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2011年01月
-
投稿日 2024年01月08日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
シリア、、、今は行けるようになったようですが、ガイド、VISAが必要だとか、、、。訪れたのは忘れもしない2011年1月。内戦が始まるほんのの数ヶ月前。その時はトルコとの国境で20ドル払って日本人は入国可能でした。
トルコイスタンブールから夜行列車に乗り、そして北キプロスへ寄り道。まだまだ時間たっぷりだとの余裕をぶちかましていた。その後、トルコに戻って、イスケンデルンへ。ここから列車でシリアに行こうと試みたのだ。だが、駅で、もうシリア行きの列車は走っていないとのこと。時間が無いのですぐにアンタクヤへバスで行き、そこからシリアアレッポ行きの国際バスに乗車。だが、トルコ国境でコンピューターがダウンしたとかで、出国に6時間程待たされる。で、やっと復旧しシリア入国。
思い出に残っていることは、、、。
・シリア行きの国際バスには、ブルガリア人のおばさん、香港人男性2人組、そして日本人の自分が外国人では乗っていた。だが、シリアに入国できたのは、、、。香港人2人組は入国できず、別の国境で再度試してみるとバスを降りて行った。ブルガリアのおばさんが笑いとばす。ブルガリアok、ジャパンok、チャイナno! 彼らは香港から来たのだけど、、、。国籍によってシリアは入国を許可するようだった。中国人はどこでも嫌われてる、、そう思ってしまった。
・アレッポに到着するものの、今どこにいるのかさえわからない状況だった。(まだマップスミーもない、ケータイの時代だった)目印の鉄道駅に行きたく、バスの運転手に、英語で話しかけるものの全く伝わらず。身振り手振りや、シュポポシュポポと擬音で駅に行きたいことを伝え、やっと通じたようだった。駅にたどり着き、料金を払おうとしたら、いいよいいよと。お言葉に甘えさせてもらった。シリアの方々は旅人に優しいのかもと思った。
・早速駅で今夜の列車のチケットを購入。アレッポからまっすぐダマスカスへ行く列車に乗ればいいものの、シリアの列車に長く乗りたい、世界遺産のパルミラにもそんなに離れてない、という考えでカミシュリー行きの夜行列車のチケットを購入。列車を待つ間、世界遺産アレッポの町を散策。、、、もうあの時見たアレッポの町は既にない。
・カミシュリーに朝到着。駅を出るとタクシーが声をかけてきた。行きたいのはパルミラ遺跡。パルミラまでいくら?試しに聞いてみた。すると激安。え、そんなに安いの?シリアは産油国だから安いのかな?と思い、このタクシーに乗車。、、、だが、たどり着いた所はパルミラ遺跡ではなかった。パルミラと言えば超有名なはずなのでタクシー運ちゃんもわかってくれるはずと思い込んでたのが間違いだった。着いた場所はパルミラに似た発音(パルミュラ?)のカミシュリーからそんなに離れていない村だった。どおりで料金が安いわけだった。歩き方のパルミラ遺跡の写真を見せ確認すればよかった。まあ、通り道であちこちに石油を掘削している場所が見えたのでよしと思い込む。
・タクシー運ちゃんはパルミラ遺跡へ行くバスが出る町まで送ってくれた。このバスに乗ればパルミラ遺跡へ行けると。アラビア語も全く理解できない旅人に、何と親切なことか。
・パルミラ遺跡に到着。てくてく歩き方を持って遺跡を見て回ってると、観光バスが到着。、、、と、日本語でバスの窓にこのツアーの張り紙が。どんな日本の方々が団体で来てるのだろうかと眺めていると、、、バスから降りてきたおばさん、いきなり自分を見つけ「何であんたその本持ってんねん!」と関西弁の訛りでどついてきた。え、自分日本人ですけど、、、。え、、、。おばさん、きっと自分を現地人と思ったに違いない。日本人には見られない自分。きっと日本人から盗んだと思ったのかもしれません。それにしても関西のおばさんは度胸があるものです。
・パルミラでは自称スズキタカシと名乗る歩き方にも掲載されてる現地ドライバーさんに偶然にも出会った。せっかくなのでこの方に、他のパルミラ遺跡周辺のツアーをお願いした。リクエストとして現地の朝飯を食いたいことをお願いして。次の日、このスズキさんと回るわけだが、リクエストの朝食は、、、てっきりスズキさんの家でご馳走になるものだとばかり思ってた自分。が、違った。弁当?のように持参して来ていたのだ。地面に敷物を敷き、2人で外で朝食。これがナツメヤシだとか、、、。アラブの朝食、おやじ2人で仲良く堪能させていただきました。
・ダマスカスでは初のハンマームにチャレンジ。歩き方に載ってた所を探し回ってたのだが見つからず。そんな様子を察してか、現地の若者が英語で声をかけてきた。このハンマームに行きたいんだけど、、、。若者は自分に着いてきてと案内してくれた。お礼を言って別れたが、彼はもときた道を戻っていく。わざわざ連れて来てくれたのだった。日本人ばかりではない。アラブの方々に親近感を持った出来事だった。今じゃマップスミーで道に困ることはないが、昔は歩き方の地図だけが頼り。方向音痴の自分には本当にありがたかったのです。
※ダマスカスをあとにして、その後は乗り合いタクシーに乗ってレバノンへ。
、、、という感じのシリア旅行でした。まさか帰国してすぐに内戦が勃発するとは思ってもみませんでした。どんな復興を遂げているのか、いつかまた訪れたいと思っています。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2011年01月
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投稿日 2024年01月04日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
フィリピンにはたぶん5度程訪問。
初めての訪問は大学3年の時だから34年前。中国ネパール旅行時に香港で購入した1年オープン成田往復はフィリピン航空。3月、京都旅行の単位認定講座に参加する前に、フィリピン、香港に旅立った。(その後、香港から伊丹空港に直接帰国、そして講座参加)
初のフィリピン行き。飛行機の中で隣に座っていたご夫婦が心配してくれた。ホテルも取らず、空港からの交通も予約無し、マニラの危険さも全く知らない若者に、アドバイスをもらった。(もちろん、比較的安全な地域にあるホテルまで送ってもらった)
ホテルではライフル銃を肩に背負ったガードマンが、、、。マニラの怖さを初めて知った。当時のマニラ、まだまだ危険な所だったのだ。マニラでは5日間程滞在。初心者のフィリピン旅行は誘惑もあり、なかなか刺激的な場所だった。たしか、最終日にはタガログ語ペラペラの日本人から薦められ、タガイタイまで行ったっけ。この方、日本でフィリピンバーに通いつめ、タガログ語を覚えたんだとか。日本人とフィリピン人カップル。そういえば、飛行機の中はそんな方がたくさんいたなあ。
2度目は兄貴とのラオス旅行での帰国時に。バンコクで1年オープンチケットをまた購入するわけだが、飛行機の遅延でマニラ泊まり。予期していなかったフィリピンでの1日に兄貴は興奮。フィリピン航空が高級ホテル1泊を出してくれたのだ。はめを外して2人で豪遊に。
3度目は、、何の旅行の時だったか忘れてしまってるが、トランジットで入国。初めて空港から少し歩き、ジプニーに乗車。そして1番近いLRT駅まで。ほー、マニラにもこんなものがあったんだと。町ブラ、、、。
4度目は最近2019冬。エチオピアへ行く時にセブパシフィック航空を利用した。ドバイまでならこの格安航空会社が安い。乗継が少し悪いけど、せっかくなので、コレヒドール島観光、そして川下りをしようと2泊3日フィリピン滞在に。だが2つともおじゃん。コレヒドール島行きの船は悪天候のため欠航。せっかく早起きして港まで向かったのに。川下も台風の影響で水かさが増しできないとか。せっかくバスを乗り継いで行ったのに。変わりに世界遺産のサン・アグスチン教会に。冬のフィリピン観光は天候に恵まれないようです。
5度目はエチオピアからの帰り。フィリピンの火山の噴火の影響で遅延。マニラにやっと戻って来たものの、咳がひどい。これは?当時まだ未確認だった中国発の伝染病か?マスクも持って無いのであちこちで咳しまくり。日本に帰ってから職場に行ったら、すぐに病院に行けと!検査したらインフルエンザだった。コロナでなくてよかった。でも、フィリピンでインフルエンザのウィルスをばらまいてしまった。きっと自分と接触した人達、インフルエンザになったんだろうな。
というような感じのフィリピン訪問でした。いみじくも、30年程前からマニラを見てきましたが、変わりましたね。こんなに安全な国になるとは思ってもみませんでした。ドテルテ大統領、なかなかのものです。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 1989年03月
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投稿日 2024年01月07日
総合評価:2.5
色塗り投稿です。
フィジーには2度程訪問。
1度目は2005年冬のポリネシア周遊の旅行で。サモア、トンガと回り、最終地フィジーへ。でも、冬はあまり天気はよくないですね。サモアでは雨ばかり、フィジーも想像してた青い空と綺麗な海とは違ってました。冬はオフシーズンのようです。
フィジーには5日間ほどの滞在予定でしたが、仕事の関係、天候の関係で早めに切り上げようと、現地旅行社に掛け合って、大韓航空の帰国便を早めることはできるかと交渉。結果、フィジー発ソウル行きは早めることはできたが、ソウルではダメ!とのことで結局早めに帰国することはならず、、、。
1日のフィジー滞在は現地旅行社おすすめのプランに乗り、小さな小島へ船で渡り、あとはそこで自由に。との小旅行。覚えてるのは、酒を飲んで海に入ってはいけないこと。危うく足がつり、溺れかけてしまいました。そんなところか。
2度目は2016年冬のメラネシア周遊旅行で。フィジーには2泊滞在。再度のナンディ滞在なので、10年前を思いだそうと、空港からてくてく町のホテルまで。でも、全く思い出せない。こんな場所だったっけ?お金も以前の余ったフィジードルを持ってきたけど、使えず。新品の綺麗な紙幣に変わっていた。(諸外国では旧紙幣は使えない所が意外に多い) 海も、、あれ?こんなに綺麗じゃなかったっけ? キュラソーからフィジーに来ていた刺青女性が語っていたけど、以前はもっとキレイな海だったのに、、フィジーも変わってしまったと嘆いていた。
一番の記憶にあるのは、泊まった安宿(バンブーバックパッカーズ)で、南京虫にやられたこと。まさか欧米人が大勢訪れる宿でやられるとは思ってなかった。朝、起きると身体中発疹。最初は蚊に刺された?と思ってたけど、あとからいろんな箇所が痒くなる。トコジラミに殺られた!
という感じで、フィジーはあまりよい思い出はないですね。旅行シーズンが夏なら違うかもっていう感じですね。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2015年01月
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投稿日 2024年01月03日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
USAには2度訪問。
1度目は2008冬の中米縦断旅行の時、アトランタにトランジット。夜着いて、早朝出発。寒い中、ユースホステルを探し回っただけは覚えてる。
2度目は2014冬のアメリカ、メキシコ縦断の旅で。前回の中米縦断はメキシコカンクンから出発。で、その時はロサンゼルスからメキシコカンクンまでアムトラックとバスで縦断。そしてせっかくカンクンまで行ったので、すぐそこのキューバへ。
・初のちゃんとしたアメリカ滞在はロサンゼルス。当時は成田から往復8万5000円程で行けた。
・まずはアメリカの地下鉄に乗ろうと、ロサンゼルス空港からバスに乗り、そして地下鉄を使って町まで。地下鉄といえば混んでるという印象があったけど、ロサンゼルスの地下鉄はがらがら。乗客は黒人、ヒスパニック。白人はあまり見かけなかった。地下鉄は貧困層の乗り物なのか?日本と大きく違うことを感じた。
・ロサンゼルスで何をしようか?歩き方で調べても、これだ!というものは見つからない。とりあえず興味があったリトルTokyoの日本人移民博物館に行ってみた。日系人の女性?が受付にいたので、日本語で会話が出きるのかなと思ったけど、英語オンリーだった。明治の始め、貧しかった日本人は新天地を求め、アメリカ、中米、南米に渡った。その子孫たちが日本文化を忘れず今もその名残をかろうじて残している。たまたま、入った店のおじいさんは日本語を話せた。日本からきました。と話すと、どことなく懐かしがっていたような。コーバン、ラーメン店、、昔の日本のような感じがした。
・アメリカ人の英語、、やっぱり難しい。早口で何を言ってるのかわからず困ってしまう。安ホステルに2泊したものの、受付の女性もあきれ顔。(この時はまだまだ英語に慣れてなか。今もそんなに変わらんけど。)んー、シンプルな単語での説明でいいのに、、、。
・飯は、、、初めこそハンバーガー等パン系でもよかったけど、やっぱりお米が食いたくなる。中華にタイメシ、こっちに走ってしまう。
・ディズニーランドはちょっとためらってしまうが、せっかく来たんだと、ユニバーサルスタジオへ。予約だけで100ドル以上するけど、、。おじさんでも楽しめますね。
・ロサンゼルスはそのぐらいで(もちろん、ハリウッドは観光しました)、アムトラックに乗ってサンディエゴへ。ここで泊まったホステルの受付のお兄さん、日系人だった。ハーフのようで日本語は話せないが、ここサンディエゴは日系人が多いんだとか。
・サンディエゴでは空母ミッドウェーを見学。せっかくなので、全部見てやろうと一番最上階のツアー?に参加したら、英語ペラペラ案内。しかも全員にどこから来たのかと質問。JAPANからと答えたら、なんだか1人だけ敵艦にいるような感じ。んー、失敗したかも。
・で、サンディエゴから列車に乗ってメキシコ国境へ。
というような感じのアメリカ旅行でした。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2012年01月
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投稿日 2023年12月24日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
バーレーンには1度(トランジットの空港滞在を含めると2度)訪問。アラブ首長国連邦が日本人の観光ビザ不要60日を打ち出して、初めて中東のアラブ諸国に降り立った国がバーレーン(この時はまだ王国ではなかった)。
実はこの旅行を計画する時迷った。
①イエメン→オマーン→UAEのバス横断の旅にするか
②バーレーン→カタール→オマーン→バスでUAE にするか。
イエメンだけはアライバルビザが取得できなかった。大使館での取得しかなかった。で、結局、①に。今思えばイエメンにこの時行っておけば良かった、、、。(それでも国境近辺までは行ったんです、、、)
バーレーンでの思い出は、、、。
・歩き方に載っていた1番安いホテルに2泊。ホテル受付はパキスタン人だった。お土産用に中東のコインが大量に欲しかったので、彼に両替してもらったのでよく覚えている。お金持ち国家バーレーンは外国人労働者だらけ。自国民は少ないと聞く。
・たしかバーレーンで最初に食べた物はサモサだったと記憶している。腹が減り、何か食べようとした店に入って、他の人がどうやって買うのか、繁々と見てたら、おひとつどう?ってな感じで1つ頂いた。小柄なそのアラブ人は後で聞いたらイエメンの方だったよう。お金持ち国家に働きに来るのはパキスタン、イエメン等の貧しい国の方々。、、、そう、今の日本にも言えますね。ベトナム人にネパール人、インドネシア人、彼らがいなければもう日本は成り立っていかないぐらいまでになってしまった。
・2日目は町で流しのタクシーを捕まえ、観光地巡り。歩き方に載ってる観光地全て回る、、、。値段交渉時には、時間制で◯時までに戻ってくるという口契約のもと、たしか8000円ぐらいで。しかしここはアラブ世界だった。
まずは運ちゃん、自分の家に行き、子どもを車に乗せる。???回るところが滅多に行くところでないらしく、子どもにも見せたいと。(たしか砂漠にポツンと1本生えてる木)
別にいいけど、、、、。で、決まった時刻になると車を停めモスクへ礼拝。30分は待たされた。それが3回程。到底口契約した◯時までにマナーマ到着は間に合うわけがなく時間オーバー。すると、超過料金を要求。え?何で? まさかの超過料金請求。やっぱりアラブは契約の国でした。アッラーの神とも契約、、、。
という感じのバーレーン滞在となりました。
サウジアラビアのダンマンからバスでバーレーンへ。前回は日程とビザの関係でできませんでしたが、コーズウェイを越えて、、、という陸路の旅も可能となった。次回訪問するときは、このルートで行きたいです。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2005年12月
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投稿日 2024年01月02日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
カタールには1度だけ訪問。UAEのVISA無し訪問が可能となった時期に、バーレーン、カタール、オマーン、そしてアラブ首長国連邦を回った。この時、イエメンに行ったらよかったのに、後の祭り。イエメンだけは大使館でのVISAが必要だったので躊躇してしまったのだ。
・バーレーンから航空機でカタール入国。VISAは空港で取れた。ドルの手持ちが無く、円で可能か?と尋ねたら、計算してくれ円で支払い。たしか、3000円ぐらいだったかと?
・当時のカタールは何もなかった。歩き方にも何も無いと書かれてたはず。バスも無いとも書かれてたが、他の国から来た労働者たちはどうやって移動するのか不思議だったので調査したら、バスはあった。見るべきものは少ないので時間をもてあまし、カタール北部の町までバスで行ってみた。歩き方にはこの町からバーレーン行きの船が出てるとの記載があったが、行ってみてもそんな船は見当たらなかった。ほんとうにあるんだろうか?
んー、、、カタールの旅はこんなものかな。これぐらいしか思い出せない。
今はカタールも観光に力をいれ始めたようだが、当時はこんな感じ。
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2005年01月
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投稿日 2024年01月01日
総合評価:2.0
色塗り投稿です。
ブルネイには1度だけ訪問。2003冬の旅行で。ボルネオ島ポンティアナックでマレーシアクチン行きの国際バスに乗りクチンへ。ここは戦前に存在した白人王国サラワク王国の痕跡を見たかったので2泊滞在し、そしてバスでミリ、陸路国境を越えブルネイへ。
覚えていることはそんなに無いが、いくつか、、。
・日本人は14日間滞在可能だが、当時はまだ安宿は存在しなかった。歩き方にあった一番安いホテルに2泊したけど、1泊8000円はした。若かりし自分にとっては高い!2泊が限界だった。
・バンダルスリブガワンは乗車賃1ブルネイドルの青いミニバスで回った。巡回バスだったので、とにかく便利だった。
・水上生活している地域に行ってみた。初めて見る海上に住む人々。トイレは海にに、、、。熱い地域には海の上が過ごしやすいのかもしれない。ガーナでも水上生活している村を訪れてみたが、同じだった。お店、郵便局、何でもありだ。
・帰りは現地旅行社でブルネイ航空バンコク行きのチケットを購入。たしか20000円程だったかと。
・ブルネイドルはシンガポールでも使えるという。本当かどうか、余ったブルネイドルをシンガポールで使ってみたが、ちゃんと使えた。
ブルネイ王はたしか25代目だったかと。けっこう大きな領土を持ってたが、イギリスに侵食され、サラワク王国やサバ州に。現在は小さな国家。それでも石油で王は大富豪だとか。豪華な煌びやかな王宮。人々はその恩恵で税金、医療等々無料なんだとか。石油が枯渇した時、どうなるんだろうか?そんなことを感じた旅でした。
今度訪れる機会があれば、飛び地のテンブロンやサバ州、そこから船でフィリピンへ、、そんな旅行をしてみたい。サンダカンからフィリピン行きの船、今もあるのかなあ?
以上、色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2003年01月
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投稿日 2023年12月15日
総合評価:4.0
色塗り投稿です。
ベトナムには3度ほど訪問。思い出多き国です。というのは、社会人となりヒサーしぶりに海外旅行に行った国がベトナムだったのです。しかも、ホーチミンINハノイOUTの23日間というナガーい滞在。当時航空券を買った旅行会社の人からも、ずいぶん長い滞在ですね、と言われた。訪問した国の中では第3位。1位ガーナ、2位中国、そして3位ベトナム。
1度目は27歳の時だから1995年冬。社会人になって5年たった。そろそろ行ってもいいかな、と上司に旅行申請。当時は海外に行く時は申請が必要だった。旅程を添えて、、、。上司は驚いていた。ベトナム?そんな所、行けるの?という感じ。同僚も???
そう、ベトナムは最近ドイモイ政策とやらで外国人の受け入れを表明したばかりだったのだ。でも、地球の歩き方ベトナム編が出ていて、書店でこれを目にした時に、行ってみたい!そう思ったのだった。社会主義国家中国は大学生の時に訪れ、社会人初はベトナム、資本主義とは世界が違う共産主義がどんなものなのか見たかった。(次の年はラオスに)
ベトナム、ホーチミン、入国時に両替したのだが、大量の札束。なんだこれは!と一気に大金持ちになった気分。久しぶりと、お国柄がまだわからないので、とりあえず1泊目は高級ホテルに宿泊。ドアマンにポーター、ホントにお金持ちになった気分。
荷物をホテルに置いてさあ町歩き、、、と外へ出ると、後ろから誰かがついてる、、。
??「自分をガイドとして雇ってくれ!」と痩せた若者が声をかけてきた。最初は断ったものの、何度も町に幾度に何度も何度も、、。そんなに悪そうな人ではなさそうだし、話だけでも聞こうと、、、。名前はティーンさん。シクロ(自転車タクシー)ドライバー、、妻と1人娘がいるらしい。英語が話せる。わかった!自分、ハノイまで行くんだけどハノイまでガイドしてくれるか?残念ながらハノイまではいけないらしい(旅行ガイドできる制限があるらしい)。南部を一緒にガイドとして回ってくれることとなった。(5日間程で100ドル。)
で、さっそく、まずはクチトンネルとミトーへ。彼が借りた原付カブの後部シートにまたがり出発。クチトンネルでトンネル観光のあと、人生初のライフル射撃を経験。1発1ドル。肩への衝撃が強く思ったようには的に当たらない。(韓国で拳銃体験もしたが、自分にはセンスはないかも)
ミトーでは小舟に乗り2時間程密林を。交渉はティーンさんが全て行ってくれる。ベトナムはまだこの頃英語なんか通じなく、ベトナム語オンリー。ティーンさんがいなければ何もできない状況だった。
ホーチミンでは財布を落としてしまった。バイクの後部シートにまたがってた自分。ポケットに入れてた財布がないことに気がついても遅かった。ティーンさんと引き返しながら財布を探すが見つからず。「ベトナムでは絶対戻らない。」ティーンさんはいうが、警察に行ってみたら、なんと届いていた!あなたはラッキーだ!届けてくれた人に財布に入ってたお金を半分程とお礼を言って別れたが、、、その人が言うには、周りの人は頂いちゃえと言ってたけど、自分はちゃんと警察に届けたんだとか。ベトナムにもいい人はいるんだなあと感じた出来事だった。
で、この旅1番の思い出、ティーンさんお勧めのベトナム避暑地ダラットへ、ローカルバスで向かった。たまたま前の席に座っていた若い女性に声をかけたティーンさん。きっと日本人をガイドしてることなんかを話したのだろう。すると、「私の住んでる村に来ないか?」とのお誘いが、、、。面白そう!まだまだ若い時、ホイホイとついて行く。大家族の家だった。日本から来た若者を珍しそうに歓迎してくれた。田舎の村で辺りは何もないが、「川に遊びに行こう」ということになった。若者たちのバイクにまたがり川へ。いやー、楽しかった!この中にベトナム人のかわいい女の子がいたのでなおさら!言葉は全く通じないが、慎ましやかで笑顔がかわいい!アヒル口がまたいい!服着たまま川に入ったり、水掛あったり、、ティーンさんが耳元にささやく。あの子、かわいいよね。全く同感。一緒に写真を撮ったが、その写真は一番のベトナム記念写真。
その夜、その家に泊まるわけだが、何か寝付けず、、。あの子もこの1つ屋根で寝ている、と考えると、、期待は膨らむばかり、、。結局何も起こらず朝を迎えるわけだが、ティーンさんが言うには、夜這いしても良かったんだよ、、とか。ベトナムにはそんな慣習があるんだろうか?でも、そんな度胸もないしなあ、、、。
ダラットでもなんだか色々あったが、忘れてしまった。で、次のティーンさんお勧めのニャチャンへ。ここは覚えている。ベトナムのリゾート地ニャチャン、、。ここでは海に行った。せっかくなので豪華に食事。ビーチ沿いにあるレストランでシーフードに舌鼓。ティーンさんにもいっぱい食べてもらおうとたくさん注文。ドンがべらぼうに安く、こんだけ頼んでも3000円にも行かない。でもでも、、ティーンさんの箸はなかなか進まない。遠慮してるのかな?と思い、たくさん食べようよ!と誘っても食べない。???「もう食べないんですか?」満腹となった自分にティーンさんが聞いてきた。すると、余った料理をレストランで借りた鍋に入れ始めた。???持って帰るの?不思議だった。
「オーイ!」ティーンさんが呼び掛けると、集まって来る子どもたち。鍋に入ってた余った料理を美味しそうに食べる子どもたち、、、。「ここにはストリートchildrenがたくさんいるんです。」、、、ティーンさんが食べなかった理由はこれだったんです。なんだか、せつない思いを感じました。
まだまだ話は続く、、、
色塗り投稿でした。
- 旅行時期
- 1988年12月
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投稿日 2023年12月24日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
スリランカはトランジットの旅行記を挙げてましたが、削除されてしまいましたので、クチコミで再度。
スリランカは2度程訪問。
1度目は2015冬の旅で。なぜスリランカ旅行を計画したかと言えば、以前一緒に勤めてた方と、偶然にもソウルの空港?で再会したからなのです。その方に、どこに行ってきたんですか?と尋ねたら、スリランカだとか。スリランカ、とっても良かったよ!とのこと。それを思い出し、嫁に提案するも、いい返事はもらえなかった。じゃあ、俺だけ行って来るわ!ということになったのだが、出国が近づくにつれ、やっぱ行こうかな?いや、やめとく、、優柔不断。最終的には来るということに、、しかもエコノミーは既になかったとのことで、ビジネス?ファーストクラス?どっちで、、、。ハハハ。ゆっくり寝れて来れたとか、、、。
で、女性は強い。以前は韓国に一緒に行ったんだが、意見が噛み合わず、行き違いばかり、、せっかく来たのに、、、。ということで、今回はいい旅にしたいとの思いで大名旅行。現地旅行社にほぼお任せで、日程を組んでもらい、ドライバー付きのプライベートタクシーをチャーター。5泊6日?
自分はひとあしさきにモルジブからスリランカに着き、列車でコロンボへ。そこで1泊1000円の安ホテルに泊まり、次の日、また列車でコロンボ空港まで嫁を迎えに行く。そこでドライバーさんとおちあい、大名観光へ。一緒で来ないことに不思議がってたが、夫婦共働きではしょうがない。
1日目は世界遺産の町キャンディへ。途中、嫁が興味を示したガーデニングに立ちよったのだが、そこのガイドのおじちゃん、何やら気安く触ってきたとかで、ちょっと嫁は不機嫌。脱毛の塗り薬を自分は試しにすねに塗ってもらったんだが、これには驚いた。効くはずがないと思ってたけど、日本に帰ってからもその塗った部分だけは脛毛が生えない。摩訶不思議な薬もあるんですね。で、仏歯寺等観光。
2日目は紅茶生産の盛んなヌアラエリアへ。途中、観光列車に乗車しながら、高地の涼しい町に。工場直販の高価な紅茶も飲みに行った。
3日目はホエールウォッチとサファリへ。嫁が楽しんでくれるものと予約したオプションのホエールウォッチ。すっかり忘れてた。船に弱いことを、、、。クジラは尻尾だけちょこっと自分は見られたが、嫁はそんなものは観る余裕はなし。ゲロゲロ吐いていた。ごめん!サファリの方はアジア象の怖さがわかった。普段はおとなしい象さんも、1頭、車に向かって怒り狂って暴れ回ってた。
4日目は世界遺産の町をちょこっと見に行って、スリランカ南部をぐるっと回る観光の旅は終わり。最後の日は2人で列車で近郊の海へ。泳ごうと思ってたのに、海はそんなに綺麗じゃなかった。仕方なく、プール付きのホテルを探し、ここに急遽宿泊。プールに入って仲良く、、、。
でも最終日の帰りにやってしまった。空港まで列車で安く行けるよ!、、、観光列車だけでなく、地元の列車にもと勧めたのが行けなかった。空港行きの列車は迎えに行ったときはすんなり行けたのに、、、。乗る列車を間違えてしまった。あれ?こんな所通ったっけ?んー、何か違うな、と他のお客に聞いたら、この列車は空港行きではなかった。すぐに降りて、空港へ。幸い尋ねた方が心配してくれ、トライタクシーを手配してくれた。今乗れば帰国便に間に合うよと。
、、、嫁の顔は見れなかった。この便で嫁は帰国し仕事が待ってるのだ。仕事に間に合わなかったらどうすんのよ!バスで来れば良かったのに!きっと怒られると思ってた。恐る恐る横に座ってる嫁の顔を見たら、、、笑ってた!え?
無事帰国便にも間に合い、嫁は上機嫌で空港内でお土産等ショッピング。スリランカルピーの持ち合わせがなくなり、自分の小遣いのスリランカルピーも頂いて行く程上機嫌。あとで聞いたら、最後が一番楽しかったとか。焦ってる自分の顔が、、、。
そんな嫁とのスリランカ旅行となりました。口喧嘩せず楽しく行くにはどうすればいいか、学んだ旅でした。嫁は絶対、、、これなんですよね。これが夫婦円満の秘訣、、学んだはずなのに、、、。
ちなみに自分はまだ休みがあったので、嫁が帰ったあともスリランカを列車で旅行。アヌラーダプラ、シーギリヤ、ダンブッラ、ポロンナルワ、トリンコマリー、バドゥッラ、キャンディで象の孤児院等々、列車で行けるスリランカの見所はほぼ全て。唯一行けなかった路線は、サウジアラビア旅行時のスリランカトランジットで、、、。これがスリランカ2度目の訪問となりました。
以上、色塗り投稿でした。
- 旅行時期
- 2015年01月
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投稿日 2023年12月23日
総合評価:3.0
色塗り投稿です。
ソロモン諸島には1度だけ訪問。日本史を教える身としては避けられない地ガダルカナル。餓島と呼ばれた日本軍が全滅した地。
ツアーで行くとなるとかなり高額。ここは南太平洋ミクロネシア周遊と兼ねて訪れてみることにした。バヌアツから一番安かったニューギニア航空にてホニアラ到着。空港で町までのバスを聞いたら、親切に空港から少し歩いて通りに出たら3ソロモン諸島ドルの乗り合いバスで行けますよ!と。たいていタクシーで行け!と言われるのに、、、好印象!で、ホニアラ市街地へ。でも、予約した1番安かった宿はドルフィンビーチ、、、1泊40オーストラリアドル。町から20キロ程、、、かなり離れてる宿だった。どうしたものか、てくてくそちらの方に向かって歩いてると、幸運にも、どこに行くの?と声をかけてきた車が。ご厚意で荷台に乗せてくれた!これから家族とキャンプに行くんだとか。よかった
ラッキー!で、無事宿に到着。どうやってきたの?宿に着くなり不思議がる宿の人達。空港から宿までのトランスファーの案内がメールで来てたのだが、何とかなるんじゃないかと頼まなかったからだ。車に乗っけてもらってきたと話すと呆れ顔。
それでも、この宿から歩いて30分ほどの所に戦争ミュージアムがあるというので、宿の家族の若者が連れて行ってくれた。ミュージアムは既に開館時間が終了していたが、若者が頼むと開けてくれた。(入場料はもちろん取られるけど)朽ち果てた小さな戦車の残骸や砲弾、、、ソロモン諸島の重要な観光資源となっていた。帰り際、ソロモン諸島はどうだ?と若者が聞いてきた。来たばかりなのでよくはわからないが、雰囲気はアフリカに似てるね。と話すと、なんだか憤慨したみたい。ここは元英領だったので、家や建物、自然の風景さえなんだかガーナに似ていたのだ。人の素朴ささえ似ている、、そんないい意味で答えたんだけど、
、。
2日目は日本人経営のキタノメンダナホテルへ。宿の方から町へ行くミニバスの乗り方等聞いてたしか20ソロモン諸島ドルで町へ。1泊2万円程と高いけど、この日にショーがあるとかで宿を移った。そしてホニアラ市街地を散策。銀行に行ったり(宿の方が一番レートがいい銀行を教えてくれた)、博物館に行ったり、床屋に行ったり、、、。髪がボーボーだったので、ホニアラの床屋に行ってみた。町の人からどこにあるか聞き出し、行ってみたら、、、ガーナやインドとは違って、普通の小さなバーバーショップだった。ガーナではバリカンで丸坊主、インドでは路上の散髪、、どんな感じか期待したけど、普通の床屋でした。外国人のお客にちょっと最初は戸惑ってたけど、気持ちよく散髪できました。たしか100ソロモン諸島ドル。
お店は、、、中国系の商店がほとんど。中国人は世界のどこにでもいる、、、。
3日目の朝は、キタノメンダナホテルの日本語を話すスタッフに、戦跡巡りをアレンジしてもらい(あまりよく調べてこなかったので)、4WDの車で周ってもらった。ドライバーはスタッフがメモした紙を見て回ってくれる。場所もよく知っている慣れた人だった。で、7ヶ所?程東側の戦跡を周った。日本軍の上陸地や日本の祈念塔、戦争ミュージアム、、アメリカ軍の戦車と比べればなんと小さいことか、、、。不覚にも少しばかり当時の日本兵への想いで泣いてしまった。ここで食べ物もなく、マラリアで亡くなった方も多かったと思うと、、、。(マラリアには自分もガーナでやられた。急激な悪寒、40度以上の高熱、、) 料金はたしか8000円程だったかと記憶してるが違ったかも?
で、またドルフィンビーチへ。道の途中に船の残骸が残っている。名前は忘れたが、日本の商業船だったかと。途中で降り、そこに行ってみたら、お金を徴収するおじさんが、、、。ここの管理人だとか。え?こんなただの海辺なのにお金取るのか?納得できないので払わなかったが、これで家族を養ってるんだとか、、、。そんな話を聞くと少しばかり、、、。
宿に戻ると、子供たちが楽しそうに泳いでいた。ここで泳ぐつもりはなかったのだが、なんだか楽しそうな様子を見てると自分も、、、。シュノーケルやフィンを子供たちから借りて自分もひと泳ぎ。ソロモン諸島の海は思いの外、綺麗な海でカラフルな魚たちもたくさん泳いでいた。
という感じのソロモン諸島滞在でした。日本人なら訪れるべき地、そう思います。もう1つ、パプアニューギニアのラバウルにもいつか訪れたいと思っています。
色塗り投稿でした。- 旅行時期
- 2017年01月



