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さすらいおじさんさんのトラベラーページ

さすらいおじさんさんのクチコミ(137ページ)全3,789件

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  • 日本三大大仏の1つとされた神戸市兵庫区の能福寺(のうふくじ)兵庫大仏

    投稿日 2010年11月10日

    能福寺 神戸

    総合評価:4.0

    神戸市兵庫区の能福寺(のうふくじ)は、平清盛(たいら の きよもり1118−1181年)ゆかりの寺で1180年に宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したとされる福原京遷都計画の際、平家一門の祈願寺に定められ、境内には平清盛廟がある。
    能福寺は1894年に建立され金属回収令で国に供出される1944年までの間、奈良・鎌倉に次ぐ、日本三大大仏の1つとされた兵庫大仏を1991年に再建したことで有名だ。現在は高岡大仏(富山県高岡市、大佛寺)や岐阜大仏(岐阜県岐阜市、正法寺)などが日本三大大仏を自称しているので兵庫大仏が日本三大大仏のひとつとはいえないが、像重量約60トン、像高11メートル、蓮台と台座を含めると高さ18メートルの立派な大仏だ。
    また1868年、神戸・三宮神社前で備前藩(岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らを射撃した神戸事件の責任を負い、永福寺で外国人検視者らの前で切腹した滝 善三郎(たき ぜんざぶろう1837−1868年)の墓があることでも知られている。
    1862年には横浜市で薩摩藩・島津久光の行列の前で下馬しなかった騎馬のイギリス人を殺傷した生麦事件(なまむぎじけん)、1863年には横浜市でフランス士官を殺傷した井土ヶ谷事件(いどがやじけん)、1868年には大阪の堺市で土佐藩士がフランス水兵を殺害して神戸事件と同様に外国人検視者らの前で切腹した堺事件(さかいじけん)など攘夷事件が続いていたが能福寺も幕末の歴史を伝えている。
    能福寺と兵庫大仏--http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/nofukuji.htm

    日本の旅 関西を歩く 兵庫、能福寺の兵庫大仏周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10403147/
    (写真は能福寺の兵庫大仏)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR兵庫駅から南へ徒歩10分
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 新長田駅前若松公園の「鉄人28号」実物大モニュメント

    投稿日 2010年11月10日

    鉄人28号 モニュメント 神戸

    総合評価:4.0

    新長田駅前の若松公園には阪神大震災復興のシンボルとして制作された全長18m、重量約50トンの「鉄人28号」実物大モニュメントが設置されている。
    鉄人28号モニュメントは、原作者の漫画家・横山光輝(よこやま みつてる1934−2004年)氏が神戸市出身であることから、地元商店主らでつくるNPO法人「KOBE鉄人プロジェクト」が震災復興のシンボルとして個人、企業からの寄付・協賛金や神戸市からの補助金などを集め、総工費1億3,500万円で建設したもので将来的には「横山光輝記念館」の建設も目指しているそうだ。
    11月6日には鉄人28号モニュメントの周囲にまだ工事中の柵が置いてあったが商店街周辺や地下鉄新長田駅には鉄人プロジェクトのポスターが貼ってあり、商店街では鉄人28号グッズを販売し街は活気づいていた。
    KOBET鉄人PROJECT---http://www.kobe-tetsujin.com/
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、新長田駅前の「鉄人28号モニュメント」:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10401969/

    (写真は鉄人28号のモニュメント)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行

  • 特殊な横口式石槨(せっかく)をもつ直径3m高さ1.5mの古墳「石の宝殿古墳」

    投稿日 2010年11月10日

    寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.5

    寝屋川市東端、生駒山に続く丘陵には多くの古墳が残り、打上神社(高良神社)古墳群の中で特殊な横口式石槨(せっかく)をもつ直径3m高さ1.5mの古墳が「石の宝殿古墳」として知られている。上面を平坦に加工した底石の上に、埋葬部分をくり抜いた蓋石が重ねられている。形式的に明日香村の鬼の厠(かわや)・鬼の俎(まないた)と同じで非常に特異なものだそうだ。日本に仏教文化が伝わった後に死者を火葬し骨を容器に入れて石の宝殿に納めたと推定されている。寝屋川市、枚方市など北摂地域に古墳は多く見られ、飛鳥時代の豪族は北摂地域にかなり住んでいたのだろう。
    石の宝殿古墳に近い高良神社(こおらじんじゃ)・打上神社(うちあげ神社)は高良大明神と脇神に八幡大神、八大龍王が祀られている。古墳石を使った役行者小祠(えんのぎょうしゃしょうし)のある海抜約100メートルの高台に登ると大阪平野を一望できる。
    高良神社から少し下ったところにある明光寺は山門横の雷神石、十三仏碑国史跡「石宝殿古墳」との繋がりが深かったとされている。雷神石は古墳で使われた石棺材を再利用しており、山号の天照山と経文が刻まれている。
    明光寺の首なし地蔵尊は『河州交野郡寝屋長者鉢記』で初瀬姫=鉢かづき姫の身代わりになったと伝えられている。キリスト教国ではマリアの出現など多く奇跡が報告されているが、鉢かづき姫は日本で奇跡を起こした女性だったのではないだろうか。
    奈良、京都の中間点に位置する北摂地域・寝屋川市、枚方市、交野市などには歴史遺産が多く、都の文化圏は古代から北摂地域まで及んでいたのではないか、解明されていない歴史が北摂地域にはまだたくさんあるのではないかと想像が広がってくる。

    石の宝殿古墳--http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage965.htm
    日本の旅 関西を歩く 大阪、寝屋川市の石の宝殿古墳周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10392968/
    (写真は石の宝殿古墳)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR学研都市線「東寝屋川」下車、明光寺より更に山手へ
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    1.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 四條畷の戦いで敗死した楠木正行(くすのき まさつら)を主祭神とする四條畷神社

    投稿日 2010年11月10日

    四條畷神社 大東・四条畷

    総合評価:4.0

    四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行(くすのき まさつら 生年不明−1346年)を主祭神とし、楠木正時、楠木正家、和田賢秀ら一族の将士24人を祀っている。
    正行の父・楠木正成(くすのき まさしげ 生年不明−1336年)が明治政府によって大楠公として神格化されたのに伴い、父の遺志を継いで南朝のために戦い、命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と崇められるようになり1890年に四條畷神社が創建されている。境内には「桜井の別れ」の像がある。正式には「桜井駅の別れ」といわれ、1336年の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(現在の大阪府島本町)で交わされたという、楠木正成・正行父子の今生の別れで「太平記」の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語や修身の教科書に必ず載っており日本中の人たちが学んだ逸話だった。
    足利尊氏(あしかが たかうじ1305−1358年)の十万以上の軍勢に対し、新田義貞(にった よしさだ1301−1338年)を総大将とするわずかな軍勢の朝廷方では勝てないと見ていた正成は尊氏と和睦するか、比叡山に上り都に足利軍を誘い込んだ後兵糧攻めにするべきだと後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)に進言したが説得することができず死を覚悟して湊川の戦場に赴かざるを得なかったとされる。
    正成は自分の死を予測して11歳の嫡子・正行に対し「生き残って、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け今生の別れを告げ故郷の河内へ帰したとされている。正行は成長して1348年の四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)で足利尊氏の腹心・高師直(こう の もろなお生年不明−1351年)と戦ったが楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決したとされている。「桜井の別れ」は史実として異論もあるが、皇国思想を国民に徹底教育した明治時代から第2次世界大戦に敗れるまで代表的な尊王教育の教材のひとつだった。
    四條畷神社には40年も訪れていなかったが、ずいぶん整備された美しい神社になっていた。

    四條畷神社--http://www.genbu.net/data/kawati/sijyounawate_title.htm
    日本の旅 関西を歩く 大阪、四条畷市の四条畷神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10393620/

    (写真は四條畷神社)


    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR四条畷駅から東へ約1Km、飯盛山の西麓
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 「野崎小唄」、「お染久松の心中」で知られる野崎観音

    投稿日 2010年11月10日

    野崎観音【慈眼寺】 大東・四条畷

    総合評価:4.5

    福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)は、大東市にある寺院で通称野崎観音(のざきかんのん)として知られている。
    すべてのものに感謝を捧げる参拝「野崎参り」で知られ、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん1653−1725年)の「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」、近松半二(ちかまつ はんじ1728−1786年)のお染久松の心中を扱った新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)の「野崎村の段」、落語「のざきまいり」、東海林太郎(しょうじ たろう1898−1972年)のヒット曲「野崎小唄」など人形浄瑠璃、落語、歌謡曲などいろいろな分野の作品にたくさん登場している。境内には南條神社や修験道の開祖とされ通称役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれる役小角(えんのおづぬ伝634−706年)の像もあり、野崎観音に神仏習合や修験道など多様な宗教の歴史があったことを示している。
    本堂の隣には中興の祖といわれる摂津国の遊女で長者・江口の君を祀り、婦人病と子授けに御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子・十六羅漢(じゅうろくらかん)を祀る羅漢堂、「野崎小唄」の歌碑、お染・久松の「供養塚」などがある。
    慈眼寺は天平年間(749−757年)にインドから来朝した婆羅門僧正(バラモンそうじょう704−760年)が行基(ぎょうき668−749年)に「野崎は釈迦が仏法を説いたサルナートに似ている」と語り行基が十一面観音を刻んで安置したのが始まりと伝えられる。
    かつては大坂からつながる深野池があり、大坂・天満橋の八軒家船着場(はちけんやふなつきば)から野崎参りの屋形船が行き来していたようすが名曲「野崎小唄」に描かれている。

    野崎小唄
    今中楓渓( いまなか ふうけい1883−1963年 ) 作詞
    大村能章(おおむら のうしょう1893−1962年) 作曲

    野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり 
    粋な日傘にゃ 蝶々もとまる 呼んで見ようか 土手の人
    野崎参りは 屋形船でまいろ お染久松 切ない恋に 残る紅梅 久作屋敷 今も降らす 春の雨   
    野崎参りは 屋形船でまいろ 音にきこえた 観音ござる お願かけよか うたりょか滝に 滝は白絹 法の水

    野崎観音の南條神社の境内からは屋形船はもう見えないが野崎周辺の街並みが良く見えた。

    野崎観音--http://www.nozakikannon.or.jp/about/index.html

    日本の旅 関西を歩く 大阪、大東市の野崎観音周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10393264/
    (写真は野崎観音)

    旅行時期
    2009年10月
    アクセス:
    2.5
    JR学研都市線:野崎駅より徒歩8分 、JR大阪駅から約50分、
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 全日本フィギュアスケート選手権も開催されている、なみはやドーム(大阪府立門真スポーツセンター)

    投稿日 2010年11月10日

    門真・守口

    総合評価:4.0

    なみはやドーム(大阪府立門真スポーツセンター)は、門真市にある総合多目的アリーナで正式名は大阪府立門真スポーツセンター。
    1997年に開催されたなみはや国体のメイン会場として建設され、最大収容人員1万人のメインアリーナ、最大収容人員2千人のサブアリーナなどがある。水泳プールやバレーボール、バスケットボール、テニス、ハンドボール、卓球、バドミントン等を行う競技フロアなどの設備があり、冬季はアイススケートリンクとしても利用されている。2010年2月12日から28日の間開催されるバンクーバー冬季オリンピックでメダルが有望と期待されている選手たちが出場した、全日本フィギュアスケート選手権も開催されている。
    大きな競技大会がないときは学校や企業の運動会の会場として利用されたり、水泳教室、バレーボール教室、バスケットボール教室なども開催され府民の健康促進の場になっている。
    なみはやドーム--http://www.namihayadome.gr.jp/
    日本の旅 関西を歩く 大阪、門真市市のなみはやドーム周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10392580/


    (写真はなみはやドームの光景)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行

  • 寝屋川市の寝屋神社

    投稿日 2010年11月10日

    寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.0

    寝屋川市の寝屋神社の創祀は不明とのことだが祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと:神功皇后)、比大神(ひめのおおかみ)の八幡3神を祀っているそうだ。  寝屋川市には寝屋神社以外に、秦の八幡神社、国守神社など「八幡宮」が多いが近くの京都府八幡市に石清水八幡宮があることによるものと考えられている。寝屋神社には自然が残され、境内にはカナメモチの林やアラカシ、コナラ等の木々が茂り、うっそうとした鎮守の森の様相を残している。
    寝屋神社近くには農村の光景が見られ、「観光いもほり」の畑でいもほりを楽しむ子供たちの姿も見られた。
    周辺には寝屋川公園や寝屋川市公園墓地があり、寝屋川市公園墓地は墓地と自然を生かした公園で寝屋川八景のひとつに選ばれている。
    寝屋神社--http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-1/newpage297.htm

    日本の旅 関西を歩く 大阪、寝屋川市の寝屋神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10391963/
    (写真は寝屋神社参道の光景)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR学研都市線「星田」下車、京阪バス「寝屋川市駅」方面行で「寝屋神社」下車、すぐ
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 「鉢かづき姫」伝説で鉢かづき姫が育ったとされる寝屋長者屋敷跡公園

    投稿日 2010年11月10日

    寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.0

    寝屋川市には「鉢かづき姫」の伝説があり、鉢かづき姫が育ったとされる寝屋長者屋敷跡がある。寝屋川市は「鉢がづき姫」をモチーフにした「はちかづきちゃん」をマスコットにした「案内碑」を寝屋川市内の寺社仏閣、史跡などを置いており、観光客の目を楽しませている。
     「寝屋長者はちかづき」の伝説は河内の国交野郡の寝屋長者といわれ1279年頃実在していたという寝屋備中守藤原実高が、大和の長谷寺の観音に祈願して女の子を得たことにはじまる。「鉢かづき姫」の主人公・初瀬姫が十三歳のとき、母が病気になって死ぬ直前に姫の頭に、物をのせ、その上に大きな“はち”を冠らせて、“さしも草深くぞたのむ観世音ちかひのままにいただかせぬる”と歌を詠んだら“はち”は姫の頭から取れなくなった。鉢かづき姫は父・藤原実高の後妻にいじめら屋敷から追い出され山陰三位中将(やまかげさんみちゅうじょう)という公家の湯殿番をすることになった。
    鉢かづき姫は山陰三位中将の四男の御曹子宰相(さいしょう)の君と恋仲になり二人の仲を許さない周辺の人たちは「嫁くらべ」を催そうとし二人は駆け落ちしようとすると、「はちかづき」の冠っていた“はち”が前に落ち、金、銀、豪華な衣装など宝物がざくざくと出てきた。“はち”のとれた姫は美しく「嫁くらべ」でも両親に喜ばれ結婚を許された。
    父寝屋実高は出家し宰相の君は相続者となり、宮中に出仕・出世し二人には三人の子どもができた。鉢かづき姫が幸福に感謝し長谷の観音にお礼に参ると父寝屋実高の修行僧姿に会い、喜びを分かち合ったというハッピーエンドだ。
    継母にいじめられるが辛抱してまじめに自分の役割に一生懸命に努めていると幸せになれるという「日本版シンデレラ」の伝説で日本中で知られている昔話だ。
     寝屋長者屋敷跡近くには鉢かづき姫と、その母の照見の方が、信仰していたといわれる千手観音立像が安置されている西蓮寺(さいれんじ)もあり、周辺は寝屋長者のように大きな旧家が並んでいる。

    寝屋長者屋敷跡--http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage966.htm

    日本の旅 関西を歩く 大阪、「鉢かづき姫」の寝屋長者屋敷跡周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10391715/
    (写真は寝屋長者屋敷跡公園の光景)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    最寄駅:JR学研都市線「星田」下車、駅前通りを西へ、松本ハイツの辻を入る、約300m、不二鉄工所の前。
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 穂谷のコスモス畑

    投稿日 2010年11月09日

    寝屋川・枚方・交野

    総合評価:4.0

    枚方市穂谷は縄文早期の遺跡が残る歴史的な集落で大阪府の北東部、生駒山脈の北端部に面する豊かな自然に囲まれる里山が残る地域で古くから自然を生かした酒造やそうめん造りなどが行われてきた。秋は休耕田を利用した100万本といわれるコスモス畑(9月下旬から10月下旬)、夏はひまわり畑が観光スポットになっている。
    穂谷周辺は歴史遺産も多く、尊延寺は731年に興福寺の僧・宣教大師(せんぎょうだいし)の勅願によって建立され、全盛期は12の僧彷を備える天平伽藍様式の荘大な寺院だったそうだ。現在は不動堂(本堂兼庫裏)と旧池之坊の諸党(開山堂、地蔵堂、大師堂)が残っている。
    三之宮神社はスサノヲ大神・ミケツ大神・オオクニヌシ大神・アマツカミ・住吉大神・仁徳天皇を祭神とする神社で尊延寺とは古くから密接な関係があったそうだ。
    341年に応神天皇の子で仁徳天皇の異母兄弟とされている額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が創建したと伝えられている。
    戦国時代には衰退していたそうだが、豊臣秀頼が大阪城の鬼門除けとして一の宮神社(片埜神社)・二の宮神社とともに三の宮神社として1599年から1615年の間に修復させている。
    穂谷地区は1837年に飢饉に苦しむ農民を救うために乱を起こした陽朋学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう1793−1837年)を信奉する人たちがいた。大塩平八郎の私塾・洗心洞(せんしんどう)の門下生ら村人総勢60人が「尊延寺村」と書かれた幟をたてて挙兵している。大塩平八郎の乱はすぐに鎮圧され成功しなかったが、民衆の苦難と幕府への不満が顕在化した事件で穂谷の人たちも大塩平八郎の乱に加わっていたことは興味深い。
    穂谷コスモス畑 (ほたにこすもすはたけ)--http://keihan.ensen.net/spot/s0072.html
    日本の旅 関西を歩く 大阪、枚方市穂谷周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10389545/

    (写真は穂谷のコスモス畑周辺の光景)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行

  • 100万石の居城だった大和 郡山城

    投稿日 2010年11月09日

    郡山城跡 大和郡山・田原本

    総合評価:3.5

    郡山城(こおりやまじょう)は、天王山の戦いで明智光秀の与力大名でありながら羽柴秀吉側に寝返って「洞ヶ峠の日和見」の故事となっている戦国大名筒井順慶(つつい じゅんけい1549−1584年)が1583年に天守閣を完成させている。
    豊臣政権では秀吉の弟秀長の居城となり、江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれ明治維新まで柳沢氏が城主だった。
    豊臣秀長(とよとみ ひでなが1540−1591年)の時代には100万石の居城にすべく七重の天守閣の建造もおこなったが石材に乏しかったので天守台の石垣に墓石や地蔵まで用いられた。天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。
    石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。お地蔵さまを石垣に使うとは豊臣秀長も乱暴なことをしたものだ。
    明治維新の廃城令により1873年に郡山城は破却されたが石垣や堀は往時の姿を留めている。
    城跡には遺構の他に、柳沢家初代郡山藩主吉里の父柳沢吉保(やなぎさわ よしやす1658−1714年)を祀る柳沢神社(本丸)、柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫(毘沙門曲輪)、郡山高校(二の丸屋形跡)などがある。柳沢吉保は5代将軍徳川 綱吉(とくがわ つなよし1646−1709年)の寵愛を受け大老格になり綱吉が度々訪れた東京の名所・六義園(りくぎえん)の造営を行ったことで知られている。

    郡山城跡は城跡公園として整備されており、1980年に築城400年記念事業で追手門(梅林門)、追手向櫓、東隅櫓、多聞櫓が復元されている。天守閣は復元されていないが追手門周辺を見ると郡山城が100万石の大きな城であったことを偲ぶことができる。


    大和 郡山城---http://www.asahi-net.or.jp/~QB2T-NKNS/yamatokoriyama.htm

    日本の旅 関西を歩く 奈良、郡山城天守跡、堀跡周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10388828/
    日本の旅 関西を歩く 奈良、郡山城の城跡公園周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10389070/

    (写真は郡山城跡の堀周辺の光景)

    旅行時期
    2009年10月
    アクセス:
    4.0
    奈良県大和郡山市城内町、近鉄橿原線近鉄郡山駅、JR関西本線郡山駅〜徒歩
    人混みの少なさ:
    4.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 世界の大切な宝物・法隆寺

    投稿日 2010年11月09日

    法隆寺 斑鳩・法隆寺周辺

    総合評価:4.5

    法隆寺は聖徳太子(しょうとくたいし574−622年)ゆかりの寺院で創建は大阪の四天王寺建造の約20年後の607年とされている。金堂、五重塔などがある西院伽藍と、夢殿などがある東院伽藍に分かれるが西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群だ。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産に登録されており日本だけでなく、世界の大切な宝物のひとつといえるだろう。
    法隆寺の建築様式は薬師寺・唐招提寺などが唐の建築の影響を受けているのに対し、朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けているといわれている。
    以前韓国慶州市にあるユネスコの世界遺産、仏国寺(ぶっこくじ)を訪問したときに伽藍の配置、回廊の造りなどが法隆寺に似ているなあ、と感じたことがある。仏国寺は751年創建とされているので法隆寺より約150年近くあとに建造されたことになるが飛鳥時代以前は大陸や朝鮮半島から文化、技術が伝来し、その後は日本と大陸、朝鮮半島との文化交流、技術交流が頻繁に行われ相互に高めあっていたのだろうと想像している。

    法隆寺の中門は金堂、五重塔などがある西院伽藍の出入り口だが現在は閉められている。入母屋造の二重門で左右に日本最古、8世紀初頭に造られた仁王像・塑造金剛力士立像を安置している。東大門、南大門などは現在も出入り口として利用されているがいずれも貴重な文化遺産だ。
    法隆寺といえば西院伽藍の金堂、五重塔、回廊などが代表的な建造物だが西院伽藍周辺にも奈良時代の建築で僧坊建築の遺構として貴重な東室(ひがしむろ)、聖徳太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)、西院伽藍の西北の丘の上に建つ八角円堂の西円堂などの文化遺産が並んでいる。
    法隆寺の東院伽藍の中心は夢殿だ。聖徳太子(しょうとくたいし574−622年)の住居といわれる斑鳩宮跡に行信僧都(ぎょうしんそうず)が聖徳太子の遺徳を偲んで739年に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といい、その中心の夢殿は八角円堂で中央の厨子には聖徳太子等身と伝わる秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をした道詮律師の塑像(平安時代)などが安置されている。夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)、舎利殿(鎌倉時代)、絵殿(鎌倉時代)などに囲まれ、観音の化身といわれる聖徳太子を静かに供養している。
    「今昔物語」や「三宝絵詞」などの仏教説話集の記載では、聖徳太子は斑鳩の宮の寝殿の側に家屋を造って夢を見るための聖所として夢殿と名づけたという。一日のうち三度も沐浴して夢殿に入り瞑想したり、多くの経典を写本したり、夢殿の円形の廊下を周回しながら国事を考えたりしたといわれる。だが聖徳太子が瞑想したといわれる夢殿は643年に蘇我入鹿(そが の いるか・生年不明−645年)によって焼かれてしまっているので初期の夢殿が739年に建てられた東院伽藍の夢殿と同じような形だったかは不明だ。それでも聖徳太子が円形の夢殿の廊下を歩きながら憲法十七条を考えたのだろうと想像するのは楽しい。
    10月1日は遠足で訪問した小中学生たちが熱心に夢殿を見学していた。

    法隆寺---http://www.horyuji.or.jp/

    日本の旅 関西を歩く 奈良、法隆寺の西院伽藍周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10387013/

    日本の旅 関西を歩く 奈良、法隆寺の中門周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10387940/
    日本の旅 関西を歩く 奈良、法隆寺の夢殿周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10388451/

    (写真は法隆寺の西院伽藍の金堂)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.0
    JR法隆寺駅より 徒歩約20分、バス「法隆寺門前」行き、法隆寺門前下車
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    5.0

  • 日本最古の三重塔がある法起寺(ほうきじ、ほっきじ)

    投稿日 2010年11月09日

    法起寺 斑鳩・法隆寺周辺

    総合評価:4.0

    法起寺(ほうきじ、ほっきじ)は、像高3.5m10世紀後半の作とされる木造十一面観音立像を本尊とする「法隆寺地域の仏教建造物」の世界遺産に登録されている寺院。
    法起寺は法隆寺東院の北東方の山裾にある。聖徳太子(しょうとくたいし574−622年)が法華経を講じた「岡本宮」の跡地に、聖徳太子の遺言で山背大兄王(やましろのおおえのおうー生年不詳 –643年)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられている。
    創建当時の建築で現存するものは国宝の三重塔で恵施僧正が684年に起工、706年完成したと伝えられている。高さ24mで、三重塔としては日本最古とのことで法隆寺の五重搭に劣らない貴重な文化遺産だ。講堂は1694年、聖天堂は1863年、表門は江戸時代初期にそれぞれ再建されている。
    法隆寺東院の北方に位置し法起寺からも近い法輪寺(ほうりんじ)の本尊は薬師如来坐像。
    7世紀中ごろには建立されていたとされ、創建は法起寺より古いと予想されるが残念ながら1944年に三重塔が落雷により焼失(避雷針は、太平洋戦争の金属供出命令により撤去されていたそうだ)、現存する三重塔は1975年再建のため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていないが斑鳩が法隆寺を中心に繁栄した時代をしのぶことができる。

    法起寺---http://www.horyuji.or.jp/hokiji.htm
    日本の旅 関西を歩く 奈良、法起寺と法輪寺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10386606/

    (写真は法起寺の日本最古の三重塔)

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.0
    奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本1873番地 JR法隆寺駅より北東2.5km
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.0

  • 氷河期からの生き残りとされる生物と温暖地に生息する生物が共存している深泥池(みどろがいけ)

    投稿日 2010年11月09日

    深泥池 今出川・北大路・北野

    総合評価:4.0

    深泥池(みどろがいけ)は、京都市北区の池で氷河期からの生き残りとされる生物と温暖地に生息する生物が共存している学術的に貴重な池。1927年に、植物群落が「深泥池水生植物群」として国の天然記念物に指定されている。京都の街中に氷河期からの生物が生きているとはすごいことだ。これからも環境を大切にしなければ、と思う。
    賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)は、京都市北区の神社で「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」の通称で呼ばれている。
    賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ・下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、賀茂神社(賀茂社)と総称され葵祭で有名だ。
    上賀茂神社横を流れる賀茂川の上流にも特別天然記念物のオオサンショウウオが棲み、 伊勢物語に登場する都鳥(ユリカモメ)も琵琶湖からやってくる。
    京都は都会と自然が共存できているのが嬉しい。

    深泥池--http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005655.html
    日本の旅 関西を歩く 京都 深泥池と上賀茂神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10374629/

    (写真は深泥池)


    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    市バス  :三条京阪から4系統,深泥池下車、京都バス:京都駅前から45系統,深泥池下車、地下鉄  :烏丸線北山駅下車
    景観:
    4.0
    氷河期以来の動植物が今も生き続けるとともに多くの水生植物,昆虫,魚類,野鳥等を観察できる
    人混みの少なさ:
    4.5
    バリアフリー:
    2.5

  • 宮本武蔵の決闘地・京都一乗寺下り松

    投稿日 2010年11月09日

    今出川・北大路・北野

    総合評価:3.0

    宮本 武蔵(みやもと むさし1584−1645年)は、江戸時代初期の剣豪で兵法家としても書画家としても逸材だった。
    武蔵は、生涯で60回以上真剣勝負して敗れなかったといわれる。21歳の武蔵は京都の名門吉岡道場で試合し門弟6人を倒し当主の清十郎、弟の伝七郎をも倒した。面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、幼い又七郎を名目人に立て、弓、鉄砲も携えた70人以上の門弟たちで遺恨試合に臨んだのが1604年の「京都一乗寺下り松(さがりまつ)の決闘」だ。
     武蔵は「一乗寺下り松」には背後の詩仙堂がある山腹から山道を駆け下り、一気に幼い名目人を斬り、混乱する吉岡一門を倒しながら逃げ去ったとされる。一乗寺の決闘は、武蔵の著述にはなく1776年に熊本藩の細川家の筆頭家老で八代城主、豊田景英が著した宮本武蔵の伝記・二天記(にてんき)に「京洛東北の地 一乗寺藪ノ郷下り松ニ会シテ闘フ」と記されている。
     吉川英治(よしかわ えいじ1892−1962年)の「宮本武蔵」では下り松にくだる途中、八代神社で神頼みを思い立つが「さむらいの味方は他力ではない。死こそ常常の味方である。さむらいの道には、たのむ神などない」と神仏に頼ろうとした自分の弱さを悟り、自戒して決闘に向かい見事に一人で多勢に勝った。吉川英治は二天記を原資料の一つとしており創作的な部分もかなりあるだろうが、武蔵が敵の裏をかいてでも勝負には決して負けない剣豪であったことは間違いない。
     神社の境内には決闘を見下ろしたであろう「下り松」が保存され決闘時の21歳の宮本武蔵像がある。
    旧白川道の四つ角の八大神社境内地・一乗寺下り松には「宮本 吉岡決闘之地」と刻まれた石碑と四代目の一乗寺下り松の木が立っている。
    一乗寺下り松は京都から比叡山、近江国へ至る交通の要衝であり1336年に楠木正成(くすのき まさしげ)が足利軍と対峙して、陣を構えたことを伝える石碑もある。
    また一乗寺下り松には逸話が多く残っており「敦盛遺児伝説」では一の谷で戦死した平 敦盛(たいら の あつもり)の遺児が松の下に捨てられているのを法然上人が拾い上げ、立派な僧に育てあげたという。16歳の若さで熊谷 直実(くまがい なおざね)に討たれた平敦盛を哀れに思う人たちが語り伝えたものだろう。一乗寺下り松にまつわる歴史は興味深い。
    一乗寺下り松--http://www.kyotoguide.info/spot/122/
    日本の旅 関西を歩く 京都 宮本武蔵の決闘地・京都一乗寺下り松周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10374367/

    (写真は現在の一乗寺下り松)



    旅行時期
    2009年08月
    アクセス:
    3.0
    叡山電鉄「一乗寺」駅で下車。駅から東へ向い白川通りの「狸谷不動院/八大神社は⇒」の看板の方向へ向い徒歩3分う
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本最古の橋で「鶴橋」の地名になったつるのはし跡公園

    投稿日 2010年11月08日

    ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.0

    古代・仁徳天皇の時代に、多くの百済からの渡来人が住む地を「百済郡」と呼んでいたが渡来人がブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになったとのこと。渡来人の優れた技術により、文献上日本最古の橋が「百済川」(現在の平野川)に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことが現在の「鶴橋」の地名になったそうだ。
    ツルがよく飛来したので「つるのはし」と呼んだそうで全長約36m、幅約2mの古代では大きな板橋だった。1940年に旧平野川が埋め立てられ道路になり、1997年に橋があった近くにつるのはし跡公園が作られている。公園には顕彰碑や「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」という小野小町(おの の こまち825年頃−900年頃)がつるのはしを渡ったとき詠んだと言われる歌碑などが建てられている。つるのはし跡は百済から多くの先進技術が伝来したことを証明するひとつだ。
    日本の旅 関西を歩く 大阪の生野の日本最古の橋・つるのはし跡公園:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10373356/

    (写真はつるのはし跡公園の光景)


    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    大阪環状線・桃谷駅を東へ徒歩5分.
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 生野コリアタウンと御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)

    投稿日 2010年11月08日

    ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:4.0

    生野コリアタウンは大阪市生野区の「御幸通商店街」とその周辺の通称で「大阪コリアタウン」「猪飼野(いかいの)コリアタウン」などとも呼ばれている。
    1993年頃「御幸通商店街」に「百済門」、「御幸通中央門」、街灯などを設け「コリアタウン」と称して町おこしをしており、2002年の日韓共催のワールドカップサッカーや「韓流ブーム」で全国的に知られるようになった。
    「猪飼野(いかいの)」は古代から百済(くだら)からの渡来人が多数住む地で、付近は百済野と呼ばれていた。1910年の日韓併合後は済州島から労働力としてたくさんの人が来日、現在では猪飼野周辺に約3万人が定住し生野区の総人口の20%以上を占める「コリアタウン」を築いている。
    御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、猪飼野にある神社で仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村の氏神。仁徳天皇は鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、森で休まれた事から御幸の森と呼ばれるようになり仁徳天皇崩御後の406年、天皇の神霊を奉祀する社が建立されたと伝えられている。御幸森天神宮は「コリアタウン」の中心部にあるが、いかにも日本的な神社だ。
    生野コリアタウン--http://www.ikuno-koreatown.com/
    日本の旅 関西を歩く 大阪の生野コリアタウン:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10372759/

    (写真は「御幸通商店街」)

    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行

  • 大阪国技館跡の碑

    投稿日 2010年11月08日

    ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.0

    新今宮駅北側は歓楽街である新世界だ。新今宮駅のそばには大型遊具や娯楽施設と商業施設を合体させた「都市型立体遊園地」として1997年に開業し2007年に営業を停止したフェスティバルゲートや同時期に開業した大型入浴施設「スパワールド」などがある。
    8階建ての建物での2階の中心部から吹き抜けとしてジェットコースターを走らせ、各階フロアには、ショップ群、レストラン、遊戯施設、映画館が4館集まったシネマ・コンプレックスなどがあった。開業初年には年間入場者数800万以上の賑わいだったが年々入場者数が減少し2004年に倒産してしまった。
    フェスティバルゲートに隣接する「スパワールド」の北には大阪国技館跡の碑がある。1919年に、大阪相撲を中心とした興行開催を目的にオープンした収容人員1万人という丸屋根の洋風建築だったそうだが1925年に大阪相撲は相撲興行を中断している。フェスティバルゲート同様に新世界には人気の推移で消えていった娯楽施設が多い。
    日本の旅 関西を歩く 大阪のカオサン・JR新今宮駅北側周辺 :http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10372446/
    (写真は大阪国技館跡の碑)

    旅行時期
    2009年08月
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 方演芸発祥之地、山王町「てんのじ村」記念碑

    投稿日 2010年11月08日

    ミナミ(難波・天王寺)

    総合評価:3.0

    JR大阪環状線新今宮駅南側周辺はあいりん地区(釜ヶ崎)と呼ばれる日本最大のドヤ街・寄せ場(日雇労働者の就労する場所)として知られている。
    あいりん地区には路上生活者が数多く居住し治安が悪く、これまで1961年から何度も暴動が起こっている。1990年には阪堺線南霞町駅が放火されて全焼し、近隣店舗が破壊されるという大規模な暴動があった。1992年以降バブル崩壊とともに大規模な暴動は起こっていないが小規模なものは時々起こっている。
    JR新今宮駅の北側は通天閣・新世界・でんでんタウン・フェスティバルゲート・スパワールドなどが並ぶ観光地となっており近年は日雇労働者向けの簡易宿所の一部が海外・国内から日本・関西を旅するバックパッカー向けの安宿に改造されている。確かに日本は海外と比べて安いホテルが少ないので1泊800円くらいから宿泊できる宿は若者には喜ばれ「大阪のカオサン」と呼ばれている。JR新今宮駅の南側は危険地区で北側は比較的安全地区といえるが中南米を歩くと街に危険地域と安全地域があったのと同様のようだ。
    黒岩重吾(くろいわ じゅうご1924−2003年)の1961年の直木賞受賞作品「背徳のメス」、はるき 悦巳(はるき えつみ1947年− )の漫画「じゃりン子チエ」、1960年公開の邦画「がめつい奴」などあいりん地区(釜ヶ崎)を舞台にした文学・映画作品も多い。
    あいりん地区に隣接する山王町「てんのじ村」は昔から芸能人が活躍した新世界に近く、劇場の出演者らが1950年代には300人以上住んでいたといわれる。
    難波利三(なんば としぞう1936− )は直木賞受賞作品「てんのじ村」で漫才師の半生を描いているが、ミヤコ蝶々、人生幸朗、平和ラッパ、海原お浜・小浜らも「てんのじ村」から人気者に育った。現在は往時の姿はなく漫才の父、秋田實(あきた みのる1905−1977年)筆の「てんのじ村記念碑」が阪神高速の阿倍野入口横にひっそりと立っている。
    あいりん地区周辺は問題視されることが多いが浪速文化を育ててきた大阪らしい場所であることは間違いない。
    日本の旅 関西を歩く 大阪のカオサン・JR新今宮駅南側周辺 :http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10372080/
    (写真は「てんのじ村記念碑」)


    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR新今宮駅から徒歩10分、阪神高速の阿倍野入口横
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    2.5

  • 岸和田旧港と「アクアヴェルデ岸和田」

    投稿日 2010年11月08日

    岸和田・貝塚

    総合評価:3.0

    岸和田旧港は泉州の湾岸部・岸和田港、貝塚港、忠岡港が1968年に統合されて阪南港(はんなんこう)の一部になっている。港の上には阪神高速湾岸線の岸和田大橋がかかり周辺は「アクアヴェルデ岸和田」と名付けられ再開発が進められている。岸和田カンカン・ベイサイドモールなどの商業施設、スポーツドーム岸和田や高層マンションなどを含む岸和田アクアパーク、岸和田ベイエリアのシンボル施設として、2002年にオープンしコンサート、コンベンションなどが行われている波切ホールなどがある。波切ホール周辺はだんじり祭りのときは大観衆でにぎわう。
    岸和田旧港近くには魚の棚川といわれた古城川の紀州街道筋に架けられた欄干橋がある。古くから繁華街の中心の橋で1739年に欄干付きの石橋になり、明治にはガス灯が付けられ岸和田の名所になっている。「石の欄干橋ドンドと踏めば、惜しや雪駄の緒が切れる」と歌われたそうだ。木の橋しか見たことが無かった大衆が欄干まで付いた頑丈で立派な石橋に驚いた様子がわかる。

    波切ホール--http://www.namikiri.jp/
    日本の旅 関西を歩く 大阪・岸和田旧港周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10371597/

    (写真は波切ホールの光景)

    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行

  • 「泉州春木港」で演歌ファンに知られる春木港

    投稿日 2010年11月08日

    岸和田・貝塚

    総合評価:3.0

    泉州春木港は春木川左岸の岸和田漁港区域で、あぐり網漁業(いわし巾着網)中心に大阪府下で1,2を争う水揚げ量を誇っている。
    鳥羽一郎の“御当地ソング” 「泉州春木港」で演歌ファンに知られるようになったが大阪府に漁港があることを知らない人のほうが多いだろう。
    春木漁業協同組合事務所前には「泉州春木港」の発売10周年を記念して2003年に建てられた歌碑がある。
    高さ約4m、幅3mの歌碑には「泉州春木港」の歌詞が刻まれ、岸和田を代表するだんじり祭りの様子や海・カモメなどの絵が彫られている。大阪にも都会、農村、漁村などいろんな顔があって歩いてみると楽しい。
    泉州春木港記念碑---http://www.city.kishiwada.osaka.jp/soshiki/36/senshuharukikou-kinenhi.html
    日本の旅 関西を歩く 大阪・泉州春木港周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10371795/

    (写真は「泉州春木港」の歌碑)

    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行

さすらいおじさんさん

さすらいおじさんさん 写真

113国・地域渡航

47都道府県訪問

さすらいおじさんさんにとって旅行とは

旅は人生そのもの。自分が生きている証明です。
今年も関西を中心にまだ知らない場所を歩いてみたいと思っています。

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