四條畷の戦いで敗死した楠木正行(くすのき まさつら)を主祭神とする四條畷神社
- 4.0
- 旅行時期:2009/10(約15年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
大東・四条畷 クチコミ:6件
四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)は、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行(くすのき まさつら 生年不明−1346年)を主祭神とし、楠木正時、楠木正家、和田賢秀ら一族の将士24人を祀っている。
正行の父・楠木正成(くすのき まさしげ 生年不明−1336年)が明治政府によって大楠公として神格化されたのに伴い、父の遺志を継いで南朝のために戦い、命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と崇められるようになり1890年に四條畷神社が創建されている。境内には「桜井の別れ」の像がある。正式には「桜井駅の別れ」といわれ、1336年の湊川の戦い直前に、西国街道の桜井の駅(現在の大阪府島本町)で交わされたという、楠木正成・正行父子の今生の別れで「太平記」の名場面のひとつ。天皇への忠誠を伝える美談として、戦前までは国語や修身の教科書に必ず載っており日本中の人たちが学んだ逸話だった。
足利尊氏(あしかが たかうじ1305−1358年)の十万以上の軍勢に対し、新田義貞(にった よしさだ1301−1338年)を総大将とするわずかな軍勢の朝廷方では勝てないと見ていた正成は尊氏と和睦するか、比叡山に上り都に足利軍を誘い込んだ後兵糧攻めにするべきだと後醍醐天皇(ごだいごてんのう1288−1339年)に進言したが説得することができず死を覚悟して湊川の戦場に赴かざるを得なかったとされる。
正成は自分の死を予測して11歳の嫡子・正行に対し「生き残って、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、後醍醐天皇から下賜された菊水の紋が入った短刀を授け今生の別れを告げ故郷の河内へ帰したとされている。正行は成長して1348年の四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)で足利尊氏の腹心・高師直(こう の もろなお生年不明−1351年)と戦ったが楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決したとされている。「桜井の別れ」は史実として異論もあるが、皇国思想を国民に徹底教育した明治時代から第2次世界大戦に敗れるまで代表的な尊王教育の教材のひとつだった。
四條畷神社には40年も訪れていなかったが、ずいぶん整備された美しい神社になっていた。
四條畷神社--http://www.genbu.net/data/kawati/sijyounawate_title.htm
日本の旅 関西を歩く 大阪、四条畷市の四条畷神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10393620/
(写真は四條畷神社)
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 家族旅行
- アクセス:
- 3.0
- JR四条畷駅から東へ約1Km、飯盛山の西麓
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2010/11/10
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