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さすらいおじさんさんのトラベラーページ

さすらいおじさんさんのクチコミ(136ページ)全3,789件

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  • 近松門左衛門の墓がある廣濟寺と近松の遺品約60点を展示する近松記念館

    投稿日 2010年11月11日

    広済寺 尼崎

    総合評価:4.0

    近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん1653−1725年)は江戸時代・元禄期に活躍した人形浄瑠璃と歌舞伎の作者で中国明代に中国人の父と日本人の母の間に生まれた英雄・鄭 成功(てい せいこう1624−1662年)を描いた国性爺合戦(こくせんやかっせん)などの時代物と大阪堂島新地天満屋の女郎・はつと内本町醤油商平野屋の手代徳兵衛が梅田・曽根崎の露天神(お初天神)の森で情死した事件を描いた曽根崎心中(そねざきしんじゅう)、飛脚問屋の亀屋の養子忠兵衛と新町の廓の遊女梅川との悲恋物語・冥土の飛脚(めいどの ひきゃく)、紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春の心中事件を脚色した心中天網島(しんじゅう てんの あみしま)などの世話物をあわせて100作品以上を残している。
    尼崎の近松公園にある廣濟寺(こうさいじ)の境内、本堂脇の墓地には高さ50cmほどの緑泥片岩の自然石の近松 門左衛門の墓があり『阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)』と生前、近松が自分でつけた戒名が彫られている。近松門左衛門の墓前にはボタンを押すと自動的に説明が始まる音声ガイドがあり、近松の生涯の説明がとても詳しく解りやすかった。
    近松公園には近松門左衛門の墓がある廣濟寺と近松の遺品約60点を展示する近松記念館を中心に小川、池、あずまやが配置される回遊式の日本庭園があり、市民の憩いの場になっている。
    近松公園は現代も多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演上映され多くの人びとに親しまれている日本が誇る劇作家・近松 門左衛門をしのぶことができる場だ。
    近松公園・近松門左衛門の里 近松記念館---http://kobe-mari.maxs.jp/amagasaki/chikamatsu.htm
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、尼崎の近松公園周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10409404/

    (写真は近松 門左衛門の墓)


    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR塚口駅から徒歩20分
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 京都を思わせるたくさんの寺が軒を連ねる尼崎の寺町

    投稿日 2010年11月11日

    尼崎

    総合評価:4.0

    尼崎の寺町は京都を思わせるたくさんの寺が軒を連ねている。
    尼信博物館から一番近い広徳寺(こうとくじ)は、臨済宗大徳寺派の寺院。1390年に京都から尼崎の大物(だいもつ)に移された。京都紫野大徳寺の第七世である言外宗忠和尚が開基で1531年には、大物崩れの戦いで敗れた細川高国(ほそかわ たかくに1484−1531年)が三好一秀(みよし かずひで 生年不明−1532年) に捕らえられ広徳寺で切腹させられている。
     甘露寺(かんろじ)は浄土宗の寺院で円誉一実源永(生年不明−1490年)が室町時代に開基したと伝えられている。本堂は1687年再建され、1991年に改築されている。元は大物町にあり、尼崎城築城にともない寺町へ移転している。
     法園寺(ほうおんじ)は浄土宗鎮西派の寺院で佐々成政(さっさ なりまさ1536−1588年)が肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉(とよとみ の ひでよし1537−1598年)に幽閉され、1588年に切腹させられた寺。本堂内には墓石の五輪塔がある。
     大覚寺(だいかくじ)は、律宗の寺院。摂津国八十八箇所第65番札所で、現存する尼崎最古の古刹とのこと。
    寺伝によると、百済の僧・日羅(にちら)が聖徳太子(しょうとくたいし574−622年)の命で剣尾山(大阪府豊能郡能勢町)に月峰寺を創建、605年に現尼崎市に剣尾山を遥拝(ようはい)する灯炉堂を建立したのが始まりと伝えられている。
     長遠寺(じょうおんじ)は日蓮宗の寺院。
    『大堯山縁起(だいぎょうざんえんぎ)』によると1350年に創建され、最盛期には七堂伽藍と子坊16坊を誇り1617年、尼崎城築城にともなって寺町に移転したそうだ。
     如来院(にょらいいん)は、浄土宗の寺院で法然上人二十五霊跡。
    天平年間、聖武天皇(しょうむ てんのう701−756年)の厄除けを祈願し、行基(ぎょうき668−749年)が神崎に釈迦の土像を祀り、徧照寺と号したのが起源と伝えられている。1207年、法然(ほうねん1133−1212年)が讃岐配流の際に神崎に立ち寄り、5人の遊女を帰依させたが遊女は罪を悔いて入水したと伝わっている。如来院には法然の遺物や神崎五人遊女の遺髪、塚が残されている。
    尼崎の寺町には尼崎城築城の際、多くの宗派の寺が集まっている。それぞれの寺に様々な歴史があり、寺の歴史を追ってみるのも楽しい。

    尼崎・寺町---http://www.mediacom-21.net/teramachi/
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、尼崎の寺町:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10408821/

    (写真は尼崎・寺町の光景)


    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.5
    阪神電車尼崎駅より南へ徒歩5分
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    4.5

  • 尼崎の京都の本能寺と並ぶ法華宗大本山、本興寺(ほんこうじ)

    投稿日 2010年11月11日

    本興寺 尼崎

    総合評価:4.0

    本興寺(ほんこうじ)は、1420年日隆(にちりゅう1385−1468年)開基の京都の本能寺と並ぶ法華宗本門流の大本山で塔頭が6院もある。本興寺の開山堂は1558年に建立され大物(だいもつ)から移築されたもので1469年製の木造日隆聖人坐像を祀っている。御霊水井戸は1420年に日隆聖人により掘られて以来水が枯れることがないそうだ。1827年に再建された本堂、三間社流造銅板葺で室町時代後期の建築である三光堂、1617年に建立された方丈、1852年再建の祖師堂、1633年建立の鐘楼など大本山にふさわしい立派な建物が並んでいる。
    尼崎に京都の本能寺と並ぶ法華宗大本山があるのは意外だが、尼崎の寺町を歩いてみると、京都と同じようにたくさんの寺が軒を並べる寺内町だということがわかる。
    本興寺に近い尼信博物館(あましんはくぶつかん)は、2001年オープンした。
    尼崎信用金庫の2001年にオープンした企業博物館で常設展示室では、旧尼崎城に関する資料や復元模型、世界の貨幣などが展示されており無料で見学できる。
    本興寺---http://homepage2.nifty.com/honkoujipriv/
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、尼崎の本興寺周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10408528/


    (写真は本興寺の光景)


    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    阪神電車尼崎駅より南へ徒歩5分
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    4.5

  • 尼崎城の石垣が復興された尼崎城跡公園

    投稿日 2010年11月11日

    尼崎

    総合評価:3.5

    阪神尼崎駅近くには尼崎城の石垣が復興された尼崎城跡公園がある。
    尼崎城は1617年に三河国(現・愛知県豊橋市)生まれで徳川家康の近習だった戸田氏鉄(とだ うじかね1576−1655年)が5万石で入封し、3重の堀と4重の天守を持つ立派な城郭を築いたとされている。
    尼崎藩は戸田氏、青山氏、桜井松平氏らが藩主になり1873年の廃城令でほとんどの城郭が取り壊されたそうだ。
    城跡に石垣や土塀が模擬復元された尼崎城址公園は市民の憩いの場になっている。
    尼崎城址公園---http://www.moriwaki.net/gis/mapdisp.cgi?no=75
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、尼崎の尼崎城址公園周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10408208/
    (写真は尼崎城址公園周辺の光景)





    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    阪神尼崎駅ホームから見える。徒歩3分
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 尼崎中島川の違忌三百年を記念する契沖顕彰の碑

    投稿日 2010年11月11日

    尼崎

    総合評価:3.0

    大物主神社(おおものぬしじんじゃ)から南に尼崎港方面に下ると1900年に尼崎紡績会社(現在のユニチカ)の本社事務所として建設された建物を保存したユニチカ記念館、1716年に創始されたとされる初島稲荷神社(出世稲荷神社)などがある。
     出世稲荷神社の境内には「歌枕 浦の初島」との石碑が建っており

     「いかにせん浦の初島はるかなるうつつの中は夢をだに見ず」 藤原定家(『新拾遺集』)

    の和歌が刻まれている。
    中島川に出ると震災後護岸工事で復旧された際、建てられた契沖(けいちゅう1640−1701年)の歌碑があった。
    契沖が「春水」の題で,

    「春風の吹きて渡れる川の瀬に,雪解の水を泳ぐ白波」

    と玄冬から新しい生命の甦る春を迎え躍動する喜びを,優しい春風の下きらめく白波に託して詠んだ歌が刻まれている。
    碑には1995年の兵庫県南部地震で破壊された中島川の堤も大改修で,躍動・憩・自然の三つのゾーンを持つ「緑の防潮ライン」として新しく生れ変わったことを記念して,1640年尼崎藩の武家屋敷に生れ,11歳で今里の妙法寺に出家するまで尼崎で育ち,名著『万葉代匠記』を著し,”古学の祖”と仰がれた郷土の偉人契沖の歌で祝福し、違忌三百年を記念する契沖顕彰の碑とするとの注釈が刻まれていた。
    中島川の堤も兵庫県南部地震で被害を受けていたこと、たくさんの方が被害に遭われたことを思い出させる歌碑だった。
    違忌三百年を記念する契沖顕彰の碑--http://www.kasen.net/@6/yodo/nakajima/index.htm

    日本の旅 関西を歩く 兵庫、大物の中島川周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10407815/
    (写真はユニチカ記念館の光景)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    阪神大物から南に尼崎港方面に徒歩20分下ると中島川に出る。中島川に震災後護岸工事で復旧された際、建てられた契沖の歌碑がある
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 「大物」杭瀬東墓地内にある残念さんの墓

    投稿日 2010年11月11日

    尼崎

    総合評価:3.0

    残念さんは1865年頃にひろがった信仰で、幕末期非業の死をとげた人への同情が民衆の反幕思想に拍車をかけたといわれている。大和天誅組の変で憤死した吉村寅太郎(よしむら とらたろう1837−1863年)の墓に1864年頃から参詣する人が増えている時期に禁門の変で京都から敗走してきた長州藩の山本文之助が尼崎北の口門で逮捕され、尼崎藩の取調べ中「残念残念」といって自害した。1865年には民衆が尼崎の東墓(杭瀬字松ヶ下)に群参した。領主の禁制の中、大坂からも大勢の参詣人がつづき、残念さんのお墓はやがて「願かけ神様」として多くの人々に信仰されるようになった。林 芙美子(はやし ふみこ1903−1951年)が1951年に朝日新聞に連載したが林が急逝したことで未完の絶筆となった「めし」にも残念さんに願かけに参る場面が登場する。
    残念さん信仰は、幕末政治に反発する民衆の動きを示すもので、長州藩尊攘派指導部による民心収攬策ともみられ民衆の「長州びいき」の生んだ流行だった。山本文之助の墓は、長州と取引のあった油屋喜平の世話で東墓に建てられ、現在は明徳寺支坊墓地に移転されている。
    残念さんの近くには「大物くずれの戦い跡」の碑がある。室町幕府の実権を握った細川氏は内部対立で細川政元(ほそかわ まさもと1466−1507年)の養子高国と養子澄元・晴元父子が対立し尼崎の地で戦火を交えた。1531年の決戦で高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込むが高国は大物の広徳寺で自刃した。この戦いを「大物くずれの戦い」とよんでいる。大物には史跡が多い。


    杭瀬東墓地内にある残念さんの墓--http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/zannen/zannen.html

    日本の旅 関西を歩く 兵庫、大物の「残念さん」の周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10408044/
    (写真は残念さんのお墓)


    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    尼崎市杭瀬南新町4丁目9-13杭瀬東墓地内,阪神「大物」北東約400m
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 源義経が逃避行に失敗して潜んだとされている大物主神社(おおものぬしじんじゃ)

    投稿日 2010年11月11日

    尼崎

    総合評価:4.0

    阪神大物駅から南に200m行くと大物主神社(おおものぬしじんじゃ)がある。
    神崎川と武庫川に挟まれた三角州尼崎は古来より海運の要衝だったが風が強く難所としても知られていた。『平家物語』などに源義経(みなもとのよしつね1159−1189年)、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい 生年不詳−1189年)ら主従が西国に落ち延びようと大物浦から船出したが大風で押し戻されたとある。大物主大神は難所・大物浦の守護神として祀られていた。
    1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした義経は兄・源頼朝(みなもと の よりとも1147−1199年)と対立し、朝敵として追われることになる。
    義経は九州行きを図り摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻され大物主神社に潜んだとされている。義経の九州行きは頓挫しその後吉野、京都、藤原秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)を頼っての奥州行きと逃避行が続き1189年に平泉で戦死した。
    大物主神社周辺は義経の逃避行の初期段階だったのだが、もし義経の九州行きが成功していれば歴史が変わっていたかも知れない。
    大物主神社の境内には義経主従が身を寄せたとする「義経弁慶隠家跡」碑、謡曲「船弁慶」が誕生する舞台になったことを紹介する謡曲史蹟保存会の駒札、尼崎の伝統産業「汁醤油発祥の地」の記念碑などがある。
      
    大物主神社---http://www.ama-jinja.org/oomononusi.html
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、大物主神社周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10407529/
    (写真は大物主神社「義経弁慶隠家跡」碑)


    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    5.0
    阪神大物駅南出口より50メートル
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 北河内最古の古代寺院・九頭神廃寺(くずがみはいじ)跡の「九頭神廃寺史跡公園」

    投稿日 2010年11月07日

    寝屋川・枚方・交野

    総合評価:3.0

    枚方市指定史跡 九頭神廃寺(くずがみはいじ)は「九頭神廃寺史跡公園」として整備されており現在も発掘が続いている。
    九頭神廃寺は飛鳥時代後期から奈良時代にかけて建立された古代寺院で、平安時代中期に廃絶したものと考えられ7世紀中ごろから9世紀中ごろまで栄えた北河内最古の古代寺院とされている。
    九頭神廃寺史跡からは銅造誕生釈迦仏立像(どうづくりたんじょうしゃかぶつりゅうぞう)が発見されたほか、焼けた土壇とともに鉄釘や聖堂製品などが出土している。
    跡地一帯は宅地化され幻の古代寺院などと呼ばれていたが、1983年以降発掘調査され、寺院地は約140メートル四方、塔跡・瓦積基壇(かわらづみきだん)、建立氏族の居館とされる大型堀立柱建物群、延喜式内社久須々美神社(くすすみじんじゃ)が寺院地の南西角部に隣接して造営されていた事などが判明している。
    外郭施設としては、西面大垣・西門・宝幢遺構(ほうどういこう)などあったことが判明している。内部施設としては、築地(ついじ)によって区画された二つの付属院地(ふぞくいんち)である倉垣院(そうえんいん)と北西院と寺内地内道路などが判明している。
    九頭神廃寺については解明されていないことも多いそうだが、発掘が続けられれば新発見も期待できる。現在は大阪・京都・奈良の中間に位置する中堅の衛星都市である枚方市一帯が遷都が繰り返された飛鳥時代、奈良時代、平安時代頃には、奈良、京都、大阪を結ぶ重要なエリアとして想像以上に繁栄していたことがわかる。
    大阪府枚方市遺跡情報---http://www.city.hirakata.osaka.jp/freepage/gyousei/bunkazai/serch/bunkazai/pre01.htm?tuNo=28
    日本の旅 関西を歩く 大阪, 枚方市「九頭神廃寺史跡東公園」:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10518158
    (写真は九頭神廃寺史跡東公園)

    旅行時期
    2010年05月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    枚方市牧野本町、京阪牧野駅から徒歩15分
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    5.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 日本近世城郭を代表する遺構、姫路城本丸天守

    投稿日 2010年11月10日

    姫路城 (姫路公園) 姫路

    総合評価:5.0

    姫路城(ひめじじょう)は江戸時代初期に建てられた主要建築物が残り、大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、櫓・渡櫓、門、塀など74棟が重要文化財に指定され1993年にユネスコの世界遺産に登録された文字通り日本近世城郭を代表する遺構だ。
    江戸時代以前に建造された天守が現存する城は松本城・彦根城・犬山城など日本国内12箇所しか残っていないのは1873年の廃城令で城の多くが破却されたからだ。姫路城が残ったのも偶然と幸運によるものだ。
    姫路城は競売され金物商の神戸清一郎(かんべ せいいちろう)が23.5円(現在の価値でもわずか約10万円)で落札し古鉄と瓦を売ろうとしたが解体費用がかかりすぎることや瓦が一般民家とサイズが違っていたことなどで大きなお荷物になっていたところ、1874年に陸軍省が買い上げている。
    陸軍省は姫路城三の丸を中心に歩兵連隊を設置し三の丸の建物、武蔵野御殿、向屋敷などを取り壊したが1877年頃には、日本の城郭を保存しようという動きが起こり陸軍の建築・修繕担当中村重遠(なかむらしげとお1840−1884年)工兵大佐が、1878年に陸軍卿山縣有朋(やまがた ありとも1838−1922年)に名古屋城、姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て姫路城の修復が承認されている。中村大佐の姫路城の保存申請が無ければ他の多くの城と同じように破壊されていた訳で、功労者・中村大佐の顕彰碑が菱の門近くに建っている。
    1945年7月の姫路大空襲で姫路城下は火の海になり姫路城にも大天守、西の丸が被弾したがいずれも不発で城郭の消失は免れている。名古屋城も保存申請が承認されていたが1945年5月の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし残念ながら焼失してしまった。姫路城はいくつもの幸運が重なって多くの建物が残った日本を代表する世界遺産だ。世界中の人たちが開城当時の勇姿と城のさまざまな機能を見ることができるのは嬉しい。

    姫路城公式ホームページ---http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle.html
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城本丸天守内部と特別公開の乾小天守:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10405375/
    (写真は姫路城本丸天守の光景)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR姫路駅から徒歩15分
    人混みの少なさ:
    2.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    5.0

  • 大阪市西淀川区佃の田蓑神社の境内にある「佃漁民ゆかりの地」記念碑

    投稿日 2010年11月11日

    新大阪駅周辺・十三

    総合評価:3.5

    佃煮で有名な東京の佃島(つくだじま)は1590年に徳川家康(とくがわいえやす1542−1616年)が豊臣秀吉(1537−1598年)の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封され関東下降の折、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民34名を呼び寄せたことにさかのぼる歴史を持っている。漁民たちは1644年に江戸に移住、埋め立て地を故郷にちなんで佃島と名づけた。
    摂津国の佃村民と家康の出会いは1586年、住吉大社(大阪市住吉区)参拝の後、多田神社(兵庫県川西市)へ向かう家康一行の神崎川船渡しを佃村、大和田村漁民が協力したことが最初だと言われる。その際家康は「漁業も大事だが、人はまず田で働け」と言ったことから、にんべんに田をつけた「佃」に村の名前をあらためたという言い伝えがあるそうだ。
    1586年は豊臣秀吉が臣従を拒む家康に妹の朝日姫を正室として差し出し、さらに生母・大政所まで人質として岡崎城に差し出し、ようやく家康を大坂城に出仕させ無理やり臣従を誓わせた年で大坂を歩いたしたたかな家康は秀吉の支配下であったはずの漁民まで懐柔したようだ。
    この縁で佃、大和田漁民は家康を信奉し、1590年に34名が江戸に移住して海・川での漁業権を与えられ江戸城に魚を納めた。秀吉の死後、家康が秀頼(1593−1615年)を攻め豊臣家を滅亡に追い込んだ大坂の役(おおざかのえき1614−1615年の大坂冬の陣と大坂夏の陣)では佃漁民は徳川方に味方し、武器運搬、船や食料の調達支援も行っている。大阪市西淀川区佃の田蓑神社の境内には徳川家康をまつった東照宮(とうしょうぐう)があり、「佃漁民ゆかりの地」の記念碑が建っており、家康と佃地域の深いむすびつきを伝えている。
     また大阪と東京の佃小学校は姉妹校として、1965年から相互に訪問しあう交歓会を開催している。東京と大阪の不思議な縁が現在も小学校の交流で生き続けているのは嬉しいことだ。

    田蓑神社--http://kamnavi.jp/en/settu/tamino.htm
    佃漁民ゆかりの地」碑---http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/oosaka/oosakasi/nishiyodogawaku/tamino/tamino.html

    日本の旅 関西を歩く 大阪市西淀川区佃の「佃漁民ゆかりの地」:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10407264/

    関連旅行記−日本の旅 東京を歩く 大坂からの移住漁民が築いた街・佃島:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10202938/
    (写真は「佃漁民ゆかりの地」の記念碑)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    阪神本線千船駅 北800m
    人混みの少なさ:
    3.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 神戸・和田岬の和田神社(わだじんじゃ)と三石神社(みついしじんじゃ)

    投稿日 2010年11月06日

    神戸

    総合評価:3.5

    神戸・和田岬周辺には兵庫七福神や清盛七弁天など社寺が多い。
    JR、地下鉄の和田岬駅近くには和田神社(わだじんじゃ)と三石神社(みついしじんじゃ)がある。
     西宮神社に祀られている通称「えべっさん」・蛭子大神(えびすおおかみ)は自凝島(おのころじまー淡路島などとの説ある)から最初に辿り着いたのが和田岬だといわれている。
    1173年、平清盛(たいら の きよもり1118−1181年)は日宋貿易の拠点とするために、奈良時代に行基(ぎょうき668−749年)が開いたといわれる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修整備を行った際、工事の無事を祈願して安芸国・宮島より市杵嶋姫大神(いちきしまひめのおおかみ=弁財天)を勧請し「清盛七弁天」と呼ばれる和田神社・氷室神社・真光寺・済鱗寺・恵林寺・兵庫厳島神社・花隈厳島神社の7か所の弁天社を建てたと伝えられている。
    1658年、武庫郡小松村にあった岡田宮(おかだぐう)の神輿が和田岬の蛭子の森に漂着した折、領主・尼崎藩藩主の青山大膳亮幸利(あおやまだいぜんのすけよしとし)は蛭子大神と市杵嶋姫大神を合祀して和田神社は和田の明神と呼ばれるようになった。
    1764年には朝鮮通信使が寄港し、和田神社で海上安全祈願を行い1766年、1778年には俳人・与謝蕪村(よさ ぶそん1716−1784年)が訪れている。
    1863年には14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち1846−1866年)が勝海舟(かつかいしゅう1823−1899年)らを従えて来訪、この年に後に15代将軍になった徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ1837−1913年)も訪れている。
     和田神社は隣接する三石神社とともに三菱造船所の設立の際1902年に現在の地へ移転している。三石神社の祭神は神功皇后、天照皇大神、素盞嗚大神で602年、推古天皇が禊(みそぎ)をしたところを祓殿塚(はらいどののつか)といい玉座にした石を三石というそうだ。行基が大輪田泊を興した時、神功皇后の神霊が現れたので祓殿塚の旧跡に祠を立て往来神・雪気神(ゆきけのかみ)としたといわれている。
    和田岬周辺には著名人が訪れた歴史文化遺産がたくさんある。
    関連旅行記---日本の旅 関西を歩く 神戸・三宮フラワーロードと和田岬周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10365645/

    (写真は和田神社)

    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    4.0
    JR、地下鉄の和田岬駅近く
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.0

  • 神戸市風見鶏の館(かざみどりのやかた−旧トーマス住宅)

    投稿日 2010年11月07日

    風見鶏の館 神戸

    総合評価:4.0

    神戸市風見鶏の館(かざみどりのやかた−旧トーマス住宅)は神戸市北野町の異人館を代表する西洋建築で屋根の風見鶏が特徴。1977年のNHK連続テレビ小説「風見鶏」で全国的に知られるようになった。
    1900年代初期にドイツ人貿易商ゴットフリート・トーマスの個人住宅として、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデ(1872−1914年)が設計したと言われている。風見鶏は、風向きを知る役目のほかに魔除けやキリスト教の発展を願うシンボルだったともいわれている。
    旧トーマス住宅は、1階に玄関ホール・応接間・居間・食堂・書斎があり、2階には夫婦の寝室・子供部屋・客用寝室・朝食の間などがあり1階扉の把手金具、応接間のシャンデリア、書斎の風刺画などはアール・ヌーヴォー風の装飾とのこと。神戸開港後居留した西洋人の豪華な生活が想像できるがアール・ヌーヴォーは1800年代後半にヨーロッパ全域で大ブームになった装飾美術なのでゴットフリート・トーマスは流行の最先端の住宅、家具の中で生活し、祖国を懐かしんでいたのだろうか。
    風見鶏の館は「行こう! 神戸キャンペーン」で2009年7月17日から8月16日まで1か月間無料開放されていたので見学者が大勢訪れていた。
    風見鶏の館・ラインの館のオフィシャルサイト--http://www.kobe-kazamidori.com/
    日本の旅 関西を歩く 神戸市北野町の風見鶏の館周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10369664/
    (写真は風見鶏の館)

    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR・阪急・阪神・地下鉄三宮駅下車北へ徒歩15分。
    コストパフォーマンス:
    3.0
    人混みの少なさ:
    2.5
    展示内容:
    3.0
    旧トーマス住宅は、1階に玄関ホール・応接間・居間・食堂・書斎があり、2階には夫婦の寝室・子供部屋・客用寝室・朝食の間などがあり1階扉の把手金
    バリアフリー:
    2.0

  • 須磨の浦で名高い白砂青松の景勝地の在原 行平歌碑

    投稿日 2010年11月06日

    須磨

    総合評価:3.5

    神戸の須磨は瀬戸内海に面する須磨の浦で名高い白砂青松の景勝地だが、源氏物語の舞台でもある。須磨海岸には小倉百人一首で知られる平安歌人・在原 行平(ありわら の ゆきひら818−893年)の歌碑がある。在原 行平は在原業平(ありわら の なりひら825−880年)の異母兄で文徳天皇(もんとくてんのう827−858年)のときに須磨に蟄居させられているが理由はわかっていない。文徳天皇は惟喬親王(これたかしんのう844−897年)と後継争いをし後に清和天皇(せいわてんのう850−881年)になった惟仁親王(これひとしんのう)兄弟の父親だった。在原業平は後継争いに敗れた惟喬親王の従者であり、在原 行平も藤原 良房(ふじわら の よしふさ804−872年)が権勢を誇っていた時代に政争に巻き込まれて須磨に流されたのかも知れない。
    歌碑には2首彫られている。
    1首は小倉百人一首で知られる「立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかば今かへりこむ」――「お別れして、因幡(いなば)の国へと去(い)なば、任地の稲羽(いなば)山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。故郷(くに)からの便りでそうと聞いたなら、すぐ帰って来よう」というもの。 

    もう1首の「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶとこたへよ」は
    「たまたまでも私のことを尋ねる人があれば須磨の浦で海藻を刈っては塩水を垂らしながら袖を涙に濡らして侘びしく暮らしていると答えて下さい」と須磨のわびしい蟄居生活を詠んだもの。源氏物語須磨の巻にも登場する名歌で在原 行平は須磨に左遷された光源氏のモデルだともいわれている。
    須磨海岸は海水浴を楽しむ人たちで賑わっていたが、平安時代には在原 行平がこの海をわびしく見つめていたのだろう。
    関連旅行記−http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10362217/
    (写真は須磨海岸の光景)


    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR「須磨海浜公園駅」 → 南へ徒歩<約5分>
    人混みの少なさ:
    3.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    2.5

  • 神戸市立須磨海浜水族園

    投稿日 2010年11月06日

    須磨

    総合評価:4.0

    神戸市立須磨海浜水族園(こうべしりつすまかいひんすいぞくえん)は、1957年に大型水族館のさきがけとして神戸市立須磨水族館名で開園した水族館。
    世界初の波の大水槽、アマゾン館の日本初のチューブ型水中トンネル、イルカライブ館、ラッコ館、遊園地などがあるレジャー施設で家族連れが1日楽しめる。須磨水族館には小学校の遠足以来50年以上行っていなかったが大規模レジャー施設に生まれ変わっていた。神戸市は新型インフルエンザによる風評被害回復のため、「行こう! 神戸キャンペーン」と銘打ち市内の観光施設10か所を2009年7月17日から8月16日まで1か月間無料開放したが、須磨海浜水族園もそのひとつだった。
    ホームページ- http://sumasui.jp/
    日本の旅 関西を歩く 神戸須磨の海浜水族園---http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10362426/

    (写真は須磨海浜水族園)

    旅行時期
    2009年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR「須磨海浜公園駅」 → 南へ徒歩<約5分>
    コストパフォーマンス:
    2.5
    人混みの少なさ:
    2.5
    施設の快適度:
    3.5
    バリアフリー:
    4.0
    アトラクションの充実度:
    3.5

  • 姫路城の怪談話『播州皿屋敷』の「お菊井戸」伝説

    投稿日 2010年11月10日

    姫路城 (姫路公園) 姫路

    総合評価:3.5

    姫路城にはいろいろな伝説があるが、お菊という女性の亡霊が「いちま~い、にま~い」と皿を数える、1741年に大坂豊竹座で初演された浄瑠璃の怪談話『播州皿屋敷』に登場する「お菊井戸」が有名だ。
    『播州皿屋敷』の元になったといわれる話はいろいろある。『播州皿屋敷実録』はお菊は姫路城第9代城主小寺則職(こてらのりもと)の家臣青山鉄山(あおやまてつざん)が主家をのっとろうとした事件をとりあげている。スパイとして青山家に送りこまれたお菊は疑われてお菊が管理を任されていた10枚揃えの家宝の毒消しの皿の一枚を隠してお菊に因縁を付け、責め殺して古井戸に死体を捨てたが、それ以来井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。
    『竹叟夜話(ちくそうやわ)」』(1577年)では播磨国青山の館代・小田垣主馬助(おだがきしゅめのすけ)という山名家の家老の脇妾・花野に恋をした若い郷士・笠寺新右衛門(かさでらしんえもん)が花野にふられ、うらんだ笠寺が鮑貝の五つ杯の一つを隠し花野のせいにして松の木にくくり殺してしまったとしている。その後、花野の怨念が毎夜あらわれたという。
    他にも同様の話がたくさんあるが、善良な女性を陥れるようなことをすれば自分が地獄の責苦を負うことになるという戒めだろう。
    姫路城にまつわる伝説は数多く、伝説の原点を調べてみるのも楽しい。
    播州皿屋敷お菊井戸---http://www.tabian.com/tiikibetu/kinki/hyogo/himejijyo/himejijyo3.html
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城の「お菊井戸」伝説:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10406024/
    (写真は姫路城の「お菊井戸」)


    旅行時期
    2009年11月
    アクセス:
    3.5
    JR姫路駅から徒歩15分
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    2.0
    見ごたえ:
    3.5

  • 薪神社の薪能発祥の碑

    投稿日 2010年11月09日

    京田辺

    総合評価:3.0

    一休寺総門前の一休坂を西へ100mほど歩くと薪神社(たきぎじんじゃ)がある。能役者金春禅竹(こんぱるぜんちく1405−1570年)が一休禅師のために猿楽を演じたと伝えられる場所で、「薪能(たきぎのう)」の名称はこの地で野外能を演じたことから起こったと云われている。
    境内社殿前には薪能発祥の碑があり、「能楽は薪能即ち金春流に初まり、次に宝生能観世能は大住に、金剛能は大和に発祥」 と彫られている。
    一休寺山門前の「薪能金春芝旧跡」という碑文はやはりこの付近で金春禅竹が一休禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したことを伝えている。金春禅竹(1405−1570年)は室町時代の能役者・能作者で, 大和四座のひとつ円満井座(えんまいざ=金春座)の太夫金春弥三郎の子。能楽の大成者世阿弥(ぜあみ1363−1443年)の娘婿となり, 世阿弥の能を発展させ, 金春流隆盛の基礎を固めたとされる。応仁の乱(1467−1477年)の際, 一休が酬恩庵に難を避けていた間禅竹も薪の多福庵に移り 二人の間に交流があったとされる。一休も禅竹の影響で能に関心を示し, 謡曲の「山姥(やまうば)」」「江口(えぐち)」は一休の作との説もある。一休禅師は応仁の乱で荒れる世の中で薪能という日本の大切な文化を育成した功労者でもあるのだろう。

    日本の旅 関西を歩く 京都、薪神社、一休寺周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10390879/

    (写真は薪神社の薪能発祥の碑)


    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    近鉄「新田辺」駅から1.5km、JR「京田辺」駅から1km、京阪バス「一休寺道」下車徒歩5分
    人混みの少なさ:
    4.0
    バリアフリー:
    3.0
    見ごたえ:
    3.0

  • 姫路城三の丸広場周辺と特別公開・折廻櫓

    投稿日 2010年11月10日

    姫路城 (姫路公園) 姫路

    総合評価:4.0

    姫路城では2009年の秋季は11月1日(日)〜7日(土)の間 折廻り櫓、化粧櫓、大天守地階厠、乾小天守など普段は非公開部分を特別公開していたので久しぶりに訪問し、城内をゆっくり見学した。
    市民の憩いの場になっている三の丸広場では姫路城菊花展を開催しており総合花壇や大菊、盆栽菊など約900点の美しい菊を鑑賞することもできた。

    姫路城本丸天守周りでは折廻櫓(おれまわりやぐら)を特別公開しておりたくさんの見学者で賑わっていた。天守閣下の備前丸から見上げると天守閣が正面に見えて美しい。備前丸は姫路城を築いた池田輝政(いけだ てるまさ1564−1613年)の居館があったところ。備前丸と呼ばれるのは、輝政の次男池田忠継(いけだ ただつぐ1599−1615年)が備前国を与えられたが幼少であったので、ここに住んでいたためと言われている。備前丸にあった建物の多くは、1882年の失火で残念ながら焼失している。
    姫路城公式ホームページ---http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle.html
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城三の丸広場周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10403977/
    日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城特別公開・折廻櫓の周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10405131/

    (写真は三の丸広場から見た天守閣)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.5
    JR姫路駅から徒歩15分
    人混みの少なさ:
    2.5
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 千姫(せんひめ)の化粧料10万石で建てられた姫路城西の丸の化粧櫓

    投稿日 2010年11月10日

    姫路城 (姫路公園) 姫路

    総合評価:4.0

    西の丸では天守間を結ぶ渡櫓(わたりやぐら)、侍女達の部屋があった長局(ながつぼね)と今回特別公開していた化粧櫓(けしょうやぐら)が築城当時の姿をとどめている。
    化粧櫓は桑名藩主であった本多忠政(ほんだ ただまさ1575−1631年)が関ヶ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げ1617年に姫路城主15万石を拝領した際、千姫(せんひめ1597−1666年)の化粧料10万石で1618年に建てられたものといわれている。
    千姫は西の丸内に設けられた中書丸(ちゅうしょまる)別名天樹院丸(てんじゅいんまる)と三の丸脇の戸襖(とぶすま) に武蔵野をしのばせる薄(すすき)を描いた「武蔵野御殿」を居住の屋敷にしていたが現在は建物は残っておらず庭園になっている。
    千姫は、2代将軍徳川 秀忠(とくがわ ひでただ1579−1632年)と淀殿の妹・お江の方の長女で7歳で豊臣秀頼(とよとみひでより1592−1615年)と結婚し夫婦仲は良かったそうだ。だが1615年の大坂夏の陣では、秀頼もおばの淀殿も徳川の攻撃で自刃に追い込まれ祖父・徳川家康の命で落城する大坂城から千姫だけが救出されたとされる。
    千姫は秀頼を失った翌年1616年には本多忠政の嫡男・本多忠刻(ほんだ ただとき1596−1626年)と結婚させられている。
    夫・忠刻との間に長女・勝姫、長男・幸千代が生まれるが、幸千代が3歳で没し1626年には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が亡くなり本多家を娘・勝姫と共に出て出家して天樹院と号した。千姫(天樹院)は江戸城大奥で権勢を振るったと伝えられるが、戦乱の時代に翻弄され続けた被害者のひとりだったのだろう。
    姫路城公式ホームページ---http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle.html

    日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城西の丸周辺の光景:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10406290/
    (写真は西の丸の化粧櫓)


    旅行時期
    2009年11月
    アクセス:
    3.0
    JR姫路駅から徒歩15分
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    3.5

  • 戦国時代の城の防御の工夫を現代でも体験できる姫路城の迷路

    投稿日 2010年11月10日

    姫路城 (姫路公園) 姫路

    総合評価:4.0

    姫路城には進入してきた敵を迷わせて分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がいろんなところで見られる。「菱の門」を入るとたくさんの門があり、通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったりしており天守へまっすぐ進めないようになっている。「菱の門」からは真っ直ぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるし観光順路も「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順になっているが、実際は菱の門から右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近いそうだ。るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門(うずみもん)でもあった。「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めないので攻撃を受けやくなっている。「ほの門」は狭い鉄扉でたくさんの敵が通過するのに時間がかかるように作られている。
    門と門の間には「トリック塀」もあり、敵兵が「はの門」を突破して天守閣を目指して進軍すると塀が右側に曲がっており塀添いに進むと塀の先は崖になって敵が崖から落ちる仕掛けになっている。
    姫路城は観光客も迷路につかまって迷子になってしまいそうな城だが、戦国時代の城の防御の工夫を現代でも体験できるのは魅力のひとつだ。
    姫路城公式ホームページ---http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle.html

    日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城の迷路:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10404661/

    (写真は迷路のような姫路城の坂道の光景)

    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    3.0
    JR姫路駅から徒歩15分
    人混みの少なさ:
    2.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 兵庫、住吉神社前の清盛塚十三重石搭

    投稿日 2010年11月10日

    清盛塚 ・ 琵琶塚 神戸

    総合評価:3.0

    平 清盛(たいら の きよもり1118−1180)は1168年に神戸・福原の現神戸市立湊山小学校付近に別荘雪見御所(ゆきみごしょ)を造営して日宋貿易の拡大に努めた。1180年には平氏の拠点で国際貿易港の大輪田泊(おおわだのとまり)の一角に福原遷都を強行した。
    だが、源頼朝(みなもと の よりとも1147−1199年)、源義仲(みなもと の よしなか1147−1199年)ら源氏一族の勢力拡大への対策に追われ、わずか半年で京都に都を戻したがまもなく清盛は病死した。
    清盛なき平氏は勢力が衰える一方で清盛の死後わずか5年の1185年、壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。
    平清盛が修築した大輪田泊(おおわだのとまり)は神戸市兵庫区の現在の神戸港西側の一部にあったが平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて日宋貿易で栄えた。平清盛が神戸港の基礎を築いたことは現代に繋がる大きな功績だろう。
    住吉神社は1877年に兵庫津に新川運河が完成した際、海の守護神である 住吉大神を大阪の住吉大社 より勧請して創建されている。
    兵庫運河に架かる清盛橋の袂、住吉神社前にある高さ約8.5mの清盛塚十三重の塔は1286年に建てられた供養塔。清盛塚・十三重の塔に隣接する琵琶塚は、もとは前方後方式の古墳石だそうで一ノ谷の戦いで17歳で討たれた悲劇の少年・平敦盛(たいら の あつもり1169−1184年)の兄で平家物語に琵琶の名手として登場している平経正(たいら の つねまさ、生年未詳−1184年)に結びつけて琵琶塚(経正塚)と呼ばれるようになったそうだ。
    琵琶塚の横に建つ平清盛像は1968年に建てられている。清盛像の建造は平清盛が神戸港の基礎を築いたことへの神戸の人たちの感謝の気持ちなのだろう。

    清盛塚と琵琶塚---http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/kiyomorizuka.htm

    日本の旅 関西を歩く 兵庫、住吉神社前の清盛塚十三重石搭周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10403673/
    (写真は兵庫、住吉神社前の清盛塚十三重石搭周辺)


    旅行時期
    2009年11月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    アクセス:
    2.5
    JR兵庫駅から南へ徒歩15分
    人混みの少なさ:
    5.0
    バリアフリー:
    2.5
    見ごたえ:
    2.5

さすらいおじさんさん

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