100万石の居城だった大和 郡山城
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- 旅行時期:2009/10(約16年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
大和郡山・田原本 クチコミ:4件
郡山城(こおりやまじょう)は、天王山の戦いで明智光秀の与力大名でありながら羽柴秀吉側に寝返って「洞ヶ峠の日和見」の故事となっている戦国大名筒井順慶(つつい じゅんけい1549−1584年)が1583年に天守閣を完成させている。
豊臣政権では秀吉の弟秀長の居城となり、江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれ明治維新まで柳沢氏が城主だった。
豊臣秀長(とよとみ ひでなが1540−1591年)の時代には100万石の居城にすべく七重の天守閣の建造もおこなったが石材に乏しかったので天守台の石垣に墓石や地蔵まで用いられた。天守台の裏手、北側の石垣には、付近から徴用されて築城に使われた数多くの石地蔵が、石垣に組み込まれたまま城下の人々により祀られている。
石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、これは逆さ地蔵と呼ばれている。お地蔵さまを石垣に使うとは豊臣秀長も乱暴なことをしたものだ。
明治維新の廃城令により1873年に郡山城は破却されたが石垣や堀は往時の姿を留めている。
城跡には遺構の他に、柳沢家初代郡山藩主吉里の父柳沢吉保(やなぎさわ よしやす1658−1714年)を祀る柳沢神社(本丸)、柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫(毘沙門曲輪)、郡山高校(二の丸屋形跡)などがある。柳沢吉保は5代将軍徳川 綱吉(とくがわ つなよし1646−1709年)の寵愛を受け大老格になり綱吉が度々訪れた東京の名所・六義園(りくぎえん)の造営を行ったことで知られている。
郡山城跡は城跡公園として整備されており、1980年に築城400年記念事業で追手門(梅林門)、追手向櫓、東隅櫓、多聞櫓が復元されている。天守閣は復元されていないが追手門周辺を見ると郡山城が100万石の大きな城であったことを偲ぶことができる。
大和 郡山城---http://www.asahi-net.or.jp/~QB2T-NKNS/yamatokoriyama.htm
日本の旅 関西を歩く 奈良、郡山城天守跡、堀跡周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10388828/
日本の旅 関西を歩く 奈良、郡山城の城跡公園周辺:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10389070/
(写真は郡山城跡の堀周辺の光景)
- 施設の満足度
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3.5
- アクセス:
- 4.0
- 奈良県大和郡山市城内町、近鉄橿原線近鉄郡山駅、JR関西本線郡山駅〜徒歩
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2010/11/09
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