さすらいおじさんさんのクチコミ(55ページ)全3,789件
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「日本におけるDOCOMOMO100選」にも選ばれている大阪瓦斯ビルヂング
投稿日 2013年07月22日
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投稿日 2013年07月22日
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投稿日 2013年07月21日
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蔵屋敷のあった中之島と船場の行き来のために架けられた栴檀木橋(せんだんのきばし)
投稿日 2013年07月21日
総合評価:3.5
栴檀木橋(せんだんのきばし)は土佐堀川に架かる北区中之島と中央区北浜を結ぶ浪速の名橋50選選定橋で橋長86.4m、1985年に完成している。江戸時代の初期、蔵屋敷のあった中之島と船場の行き来のために架けられたとされている。
- 旅行時期
- 2013年04月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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谷崎潤一郎の『春琴抄』、菊田一夫の『がしんたれ』の舞台となった薬の神様・少名彦神社
投稿日 2013年07月21日
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国の登録有形文化財に指定されている大阪・北浜の生駒ビルディング
投稿日 2013年07月20日
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投稿日 2013年07月20日
総合評価:3.5
大阪・北浜の旧小西邸は大阪船場道修町堺筋沿い旧三越百貨店南側にある。船場豪商の面影を残すコニシ株式会社の旧本社屋は1903年建造当時は「鳥御殿」と呼ばれた商家造りで2001年には重要文化財に指定されている。
- 旅行時期
- 2013年04月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2013年07月20日
総合評価:3.5
大阪市中央区高麗橋・北浜周辺では2005年5月に三越大阪店が閉店になり、現在は三越の跡地に地上209m・54階建ての商業複合・超高層タワー「The Kitahama」が建設され商業ゾーンに「ザ・北浜プラザ」が開設されている。北浜界隈も様変わりしたが、レトロな建物も残っている。
高麗橋野村ビル は野村財閥の持株会社である野村合名の地所部が建てた最初の貸ビルで大阪瓦斯ビルディングなどの設計で知られる建築家安井武雄の設計で1927年に建てられた。外壁形状はエーリヒ・メンデルゾーンが当時のドイツの建築でとった手法とのことで縁はオリエンタル調の装飾を施し玄関左右に配置された三日月型ライトが目を引く。- 旅行時期
- 2013年04月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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日本の「三市場」の一つ大阪証券取引所(おおさかしょうけんとりひきじょ.)
投稿日 2013年07月19日
総合評価:3.5
株式会社大阪証券取引所(おおさかしょうけんとりひきじょ.)は、株式会社日本取引所グループの子会社で金融商品取引所。
東京証券取引所、名古屋証券取引所と共に、日本の「三市場」の一つ。略称は大証(だいしょう)。所在地の大阪府大阪市中央区北浜一丁目にちなんで北浜とも呼ばれている。
諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身。
東証との合併により2013年7月12日を以て現物株式の取引を終了している。- 旅行時期
- 2013年04月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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大阪証券取引所設立に貢献した五代 友厚(1836−1885年)像
投稿日 2013年07月19日
総合評価:3.5
北浜の大阪証券取引所は東京証券取引所、名古屋証券取引所と共に日本の「三証券市場」の一つで大阪証券取引所設立に貢献した五代 友厚(ごだい ともあつ1836−1885年)像が立っている。
五代 友厚は、日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれで関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」であった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。- 旅行時期
- 2013年04月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2013年07月19日
総合評価:4.0
大阪証券取引所に面した難波橋には天岡均一(あまおか きんいち)作のライオンの石像が橋の四隈の親柱の上に配されているので、「ライオン橋」と呼ばれて親しまれている。このライオン像は金剛力士(仁王)像と同じように口を開いた阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体が一対になっている。
- 旅行時期
- 2013年04月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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三島神社(みつしまじんじゃ)の薫蓋樟(くんがいしょう)と呼ばれる大きなクスノキ
投稿日 2013年07月18日
総合評価:4.0
三島神社(みつしまじんじゃ)は大阪府門真市にある神社。
古くは山王権現といい、明治3に現在の社名「三島(三ッ島/三嶋)神社」に改められている。
明治5年に郷社に列し明治41年には稗島の堤根神社を合祀したが昭和28年には稗島・桑才の住民の希望により堤根神社は元の地に復帰させたとのこと。
境内には数本大きなクスノキがあり中でも薫蓋樟(くんがいしょう)と呼ばれる大きなクスノキは大阪府下最大で、昭和13年に内務省により国の天然記念物に指定されている。
1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」(花博)で「新日本名木100選」、近年では「大阪みどりの100選」に選ばれており、樹高は25m、幹周は約12.5m、樹年齢は推定1000年以上の神木とのことだ。
「薫蓋樟」という名称は、この木の根元にある石製の千種有文 (ちぐさ-ありふみ 181−1969年)の歌碑に由来しており歌碑には「薫蓋樟 村雨の雨やどりせし唐土(もろこし)の 松におとらぬ樟ぞこの樟」と刻まれている。千種有文 (ちぐさ-ありふみ 181−1969年)は江戸時代後期の公卿で和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう1846−1877年)降嫁問題で久我建通(こが-たけみち),岩倉具視(いわくらともみ)らとともに尊攘派から排斥され,文久2年辞官落飾。王政復古で還俗し宮内大丞などをつとめている。薫蓋樟(くんがいしょう)は幕末の日本の混乱期も知っているようだ。- 旅行時期
- 2013年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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パナソニックの企業博物館、パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館
投稿日 2013年07月18日
総合評価:4.0
パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館(パナソニックミュージアム まつしたこうのすけれきしかん)は、大阪府門真市でパナソニックが運営している企業博物館で2008年までは松下電器歴史館という名称だったがパナソニックの社名変更にあわせて2008年10月から現在の名称に変更されている。
松下電器産業(現在のパナソニック)が創業50周年記念事業の一つとして1968年に開設した企業博物館で展示物はおよそ600点。建物は1933年建設の本社社屋を改装したもので1995年には松下幸之助生誕100周年を記念して館内を全面的に改装している。
館内はパナソニックが現在に至るまでの歴史や松下幸之助の生涯について展示されており松下電器創業時に作業場として使われていた借家を再現した「創業の家」の中では当時使用されていた釜や足踏み機、型押機を見ることができる。- 旅行時期
- 2013年03月
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 4.0
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パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館に近い西三荘駅(にしさんそうえき)
投稿日 2013年07月17日
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日本最初の大規模な土木事業だったとされている茨田堤(まむたのつつみ)跡
投稿日 2013年07月17日
総合評価:3.5
茨田堤(まむたのつつみ)は、仁徳天皇(オオササギ王)が淀川沿いに築かせたとされる堤防で『日本書紀』仁徳11年の記事に、「天皇は、洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた。」という内容の記述があり、茨田堤の成立を物語るものとされている。
長大な堤防を築くには高度な築造技術を要し困難も伴った。『日本書紀』には、「どうしても決壊してしまう場所が2か所あり工事の成功を期してそれぞれの箇所に1人ずつ河伯(川の神)への人柱が立てられた。犠牲に選ばれたのは、武蔵の住人の強頸(こわくび)と河内の住人の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)で強頸は泣きながら入水していき衫子はヒョウタンを使った頓知で死を免れた。結果として2か所とも工事は成功し強頸の断間(こわくびのたえま)・衫子の断間(ころものこのたえま)と呼ばれた。」という記述がある。強頸の断間は現在の大阪市旭区千林、衫子の断間は寝屋川市大間に当たるとされる。
茨田堤の築造と同時に堀江の開削という事業も実施されており日本最初の大規模な土木事業だったとされている。
堤根神社(つつみねじんじゃ)社殿の近くに茨田堤の一部が残りその上に樹齢500年以上の樟が生えている。昭和の初期までは茨田堤跡がもっと長く残っていたが宅地開発により削られているが昭和48年に大阪府史跡「伝茨田堤」に指定され一部が残されている。- 旅行時期
- 2013年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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茨田堤の鎮守として創建されている堤根神社(つつみねじんじゃ)
投稿日 2013年07月16日
総合評価:3.5
堤根神社(つつみねじんじゃ)は、大阪府門真市にある神社で茨田堤の鎮守として創建されている。門真市内には堤根神社が2社あるが門真市宮野町の堤根神社は淀川の支流・古川の南岸のかつての茨田堤の際に鎮座しており祭神は彦八井耳命・菅原道真。茨田堤築造に関係の深い茨田氏が堤の鎮守として祖神・彦八井耳命を祀ったものと伝えられている。
平安時代中期に編纂された延喜式神名帳には河内国茨田郡五座の第一位に列せられ門真で唯一の式内社だったそうで鳥居前には河内と大和を繋ぐ行基道があり古くから信仰を集めていた。
堤根神社(つつみねじんじゃ)社殿の近くに茨田堤の一部が残り、その上に樹齢500年以上の樟が生えている。昭和の初期までは茨田堤跡がもっと長く残っていたが宅地開発により削られているが昭和48年に大阪府史跡「伝茨田堤」に指定され一部が残されている。- 旅行時期
- 2013年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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武家屋敷として市指定有形文化財に指定されているもりぐち歴史館「旧中西家住宅」
投稿日 2013年07月16日
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佐太神宮の神宮寺として平安中期に創建された大阪府守口市の曹洞宗管相寺(かんそうじ)
投稿日 2013年07月15日
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投稿日 2013年07月15日
総合評価:3.5
来迎寺の南端の隅に石垣が残り、竹が植えられた中に「佐太陣屋(さたじんや)跡」の立札が立っている。陣屋(じんや)は江戸時代の幕藩体制における大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷、徳川幕府直轄領の代官の住居・役所が置かれた建物のことで一般的に3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持ったとされる。
佐太地区は京都・大阪間の交通・軍事上の要地であったことから美濃国加納藩(3万2千石)の永井氏が貞享年間(1684−1688年)に渚(枚方市御殿山)からこの地に陣屋を移し摂津・河内の1万2千石を領有支配し約5千?の敷地に屋敷・蔵・牢屋敷等を次々と整備した。この陣屋は加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし年貢米の納入、加納藩の特産物である提灯もここにいったん集積して大阪の町人に売りさばき金融・物資の調達など加納藩の台所の役割を担っていたとのこと。大阪冬の陣の初戦、東軍西軍の最初の戦いはこの辺りで起こったものとされており幕府はこの地を軍事・交通の要衝であった。- 旅行時期
- 2013年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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幽霊の足跡とされるものがありアニメ「まんが日本昔話」に登場した事がある来迎寺(らいこうじ)
投稿日 2013年07月14日
総合評価:3.5
来迎寺(らいこうじ)は大阪府守口市佐太中町の浄土宗の寺院。
1347年、大念仏寺7世法明上人の弟子、実尊誠阿上人西願が河内国茨田郡下仁和寺庄守口村(守口市来迎町)に天筆如来(てんぴつにょらい)を本尊として一宇を建立したのが始まりとされる。天筆如来は石清水八幡宮を創建した僧・行教が859年に感得したとされ南朝後村上天皇の勅願寺となり釈迦如来立像の寄進を受けている。
1743年、35世慈天の下に女の幽霊(江戸小網町の大工の妻、「お石」と言う)が現れ、慈天の回向を受けて成仏したとの伝説があり、その時に「お石」が残した幽霊の足跡とされるものが現在も伝わっておりアニメ「まんが日本昔話」になった事があるとのこと。
その話は江戸時代、お石という女性が亡くなったが嫉妬深いがゆえに冥土へ行けず迷って
来迎寺へやってきた。慈天上人がその幽霊に座具をすすめ回向したところたちまち得脱(苦
患を逃れ)し罪障消滅して御仏のもとに行くことができた。そのときにここに来た証拠を残す
と言って忽然と消えていったという。うっすらと残るお石の両足跡は今も女性の深い嫉妬を戒
めているとのこと。
来迎寺(らいこうじ)は大相撲大阪場所の際、佐渡ヶ嶽部屋(さどがたけべや)の大阪での宿舎になっていたこともあったが現在は境内に新しい建物が建造され様がわりしていた。- 旅行時期
- 2013年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5

































