さすらいおじさんさんのクチコミ(3ページ)全621件
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イタリアのリミニ出身の映画監督・フェデリコ・フェリーニ(2006年10月18日)
投稿日 2007年10月04日
総合評価:4.0
イタリアのリミニ出身の映画監督・フェデリコ・フェリーニ(2006年10月18日)
フェデリコ・フェリーニ(1920−1993年)はイタリア・リミニ生まれの映画監督、脚本家。映像の魔術師とも言われ、日本でもファンが多い。特に、
「道」1954年ヴェネチア国際映画祭 サン・マルコ銀獅子賞、アカデミー賞外国語映画賞など。
「カビリアの夜」1957年アカデミー賞外国語映画賞、カンヌ国際映画祭女優賞など。
「甘い生活」1959年カンヌ国際映画祭パルム・ドール、ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞など。
「8 1/2(はっかにぶんのいち)」1963年アカデミー賞外国語映画賞、ニュ−ヨーク批評家協会賞外国映画賞など。
などは世界的に評価が高い。
妻のジュリエッタ・マシーナ(1921−1994年)は1943年にフェデリコ・フェリーニと結婚。
「道」の知的障害を抱えた女性大道芸人ジェルソミーナ役では弱い立場の女性の内面を見事に演じ、世界中の人たちの感動を呼んだ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114815/
(写真はリミニ近郊の光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年10月04日
総合評価:4.0
サン・マリノ(2006年10月18日)
サン・マリノは世界で5番目の小国。国の歴史は古く301年にローマ帝国からの迫害から逃れるためにチタン山(現在はティターノ山)にキリスト教信者達が潜伏したことに遡り、共和国としては世界最古の国。キリスト教迫害から逃れて潜伏したという点ではモスリムの迫害から逃れて地下都市を築いたトルコのカッパドキアのケースと似ている。サン・マリノは1700年に渡って、他国からの侵略を受けているが、ティターノ山に築いた難攻不落の要塞が占領を許さず現在に至っている。確かに山上にあるこの国自身が自然の要塞のようだ。バスターミナルからロッカ・グアイタ要塞とチェスタの塔(ロッカ・デッラ・フラッタ要塞)まで歩くと要塞からの眺めはすばらしく、第3の要塞、ロッカ・モンターレが良く見える。この美しさが観光客を呼ぶのだろう、人口3万人の小国に年間400万人近い観光客が訪れるそうだ。ユニークな国のひとつといえるだろう。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114815/
(写真はサン・マリノの光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年10月04日
総合評価:4.0
イタリアのヴェネツィア国際映画祭(2006年10月16日)
イタリアのヴェネツィア国際映画祭 は、イタリアのヴェネツィアで、毎年8月末から9月初旬に開催される国際映画祭で最高賞は金獅子賞。カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭と並ぶ世界三大映画祭の1つ。最も歴史の古い国際美術展であるヴェネツィア・ビエンナーレの映画部門として1932年に開始された。主な日本映画受賞は次の通り。
『土と兵隊』1939年 田坂具隆監督、日本映画総合賞。
『羅生門』1951年 黒澤明監督、金獅子賞、イタリア批評家賞。
『西鶴一代女』1952年 溝口健二監督、監督賞。
『雨月物語』1953年 溝口健二監督、銀獅子賞、イタリア批評家賞。
『山椒大夫』1954年 溝口健二監督、銀獅子賞。3年連続受賞は日本人唯一。
『七人の侍』1954年同時に黒澤明監督、銀獅子賞。
『ビルマの竪琴』1956年 市川崑監督、サン・ジョルジオ賞。
『無法松の一生』1958年 稲垣浩監督、金獅子賞。
『用心棒』1961年 黒澤明監督、三船敏郎が主演男優賞。
『人間の条件』1962年 小林正樹監督、サン・ジョルジオ賞、イタリア批評家賞。
『赤ひげ』1965年 黒澤明監督、三船敏郎の主演男優賞の他、サン・ジョルジオ賞、イタリア産業賞、国際カトリック事務局賞。
『ジャングル大帝』1967年手塚治虫原作アニメ、サンマルコ銀獅子賞。
『上意討ち 拝領妻始末』1967年小林正樹監督、国際映画批評家連盟賞。
『千利休・本覚坊遺文』1989年 熊井啓監督、監督賞(銀獅子賞)。
『無能の人』 1991年竹中直人監督、国際映画批評家連盟賞。
『HANA-BI』1997年 北野武監督、金獅子賞。キタノブルーと呼ばれる青を多用した映像イメージ、独特な暴力表現などは世界的な評価を得ており、フランスの専門的な映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌では北野武が表紙を飾った特集が組まれた。フランス、イタリアはじめヨーロッパには『キタニスト』と呼ばれる熱狂的なファンがいる。
『六月の蛇』2002年 塚本晋也監督、コントロ・コレンテ部門 審査員特別賞。
『座頭市』2003年 北野武監督、監督賞(銀獅子賞)、観客賞、オープン2003年賞、デジタルアワード。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114651/
(写真はヴェネチアの光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月29日
総合評価:4.0
スイスのツェルマット(2006年10月15日)
スイスのツェルマットは、スイス、ヴァレー州のマッターホルン山麓にある町。スイス屈指の山岳リゾートで、アルプス観光の中心地のひとつ。
氷河急行が走るマッターホルン・ゴッタルド鉄道の終点で、ツェルマットからスネガ、ゴルナーグラート、クライン・マッターホルン等の絶景地にケーブルカーや登山鉄道で行け、展望台からは、マッターホルン、モンテ・ローザ等を臨むことができる。
環境保護のために、ツェルマットへのガソリン車の乗り入れは規制されており、電気自動車や馬車が使用されている。展望台まで行けない場合は早朝にマッターフィスパ川沿いを歩けば、朝日を受けて輝くマッターホルンを見ることができるし充分堪能できる。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114417/
(写真は朝日に映えるマッターホルン)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月29日
総合評価:4.0
フランスのリヨン(2006年10月13日)
フランスのリヨンは、フランス南東部、ローヌ=アルプ地域圏の都市圏人口約170万人で、都市圏としてフランス第二の規模の地域。
フランスの金融の中心地でフランスの銀行の本店が多く『濹東綺譚・ぼくとうきたん』などの著作で知られる永井荷風(1879−1959年)がサラリーマン時代、横浜正金銀行の行員として滞在したことがある。ローマ帝国のガリア属州の植民市として古代から栄えた物資の集散地で、中世にはヨーロッパ有数の交易地、絹織物の産地として栄え旧市街はユネスコの世界遺産に登録されている。現代では「食通の街リヨン」として知られている。
ローヌ川と、ソーヌ川がリヨンの南部で合流し、ソーヌ川の西側は石畳の街並みの残る旧市街で、リヨンの象徴ノートルダム大聖堂の建つフルヴィエールの丘がある。旧市街の中でもソーヌ川沿いの光景が美しく、ケーブルカーで登ったフルヴィエールの丘からは旧市街の全貌が良く見える。地下鉄1日券4.3ユーロ650円が市内観光には便利だ。
http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114265/
(写真はフルヴィエールの丘から見る旧市街の眺め)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月29日
総合評価:4.0
フランスのグルノーブル(2006年10月13日)
フランスのグルノーブルは1968年2月6日―18日に行われた第10回冬季オリンピックの記録映画「白い恋人たち」(監督クロード・ルルーシュ、フランソワ・レシャンバック)で有名。
男子アルペンスキーでは地元フランスのジャン=クロード・キリーが滑降、大回転、回転の三冠を達成、大会のヒーローとなった。「白い恋人たち」は、キリーたちの白銀の世界での活躍を美しい映像にしてフランシス・レイ作曲のテーマ音楽が世界の人たちを魅了した。
グルノーブルの名物と言われる球形のロープウエイ(往復5.8ユーロ・870円)で登ったバスチーユ要塞から見るグルノーブルの街並みやイゼール川沿いの光景は「寄り添う恋人たち」が似合うロマンチックなものだ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114265/
(写真はグルノーブルの光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月28日
総合評価:4.0
フランスのトゥールーズ(2006年10月12日)
フランスのトゥールーズにはミディ運河やフランスで最も美しい教会の一つと言われるサン・セルナンバジリカ聖堂などがある。世界遺産のミディ運河はトゥールーズでガロンヌ川から分岐し、地中海に面したトー湖にいたる総延長360kmの大運河。19世紀まで商工業拠点と地中海との間を船で結ぶ、輸送ルートであった。トゥールーズは古代ローマ時代から軍事、商工業の拠点として栄え、中世にはロートレックの祖先にあたるトゥールーズ伯爵の宮廷があり、フランスの文化の中心地として繁栄。ピレネー山脈を超えてスペインへ至るサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路でもあった。現在も人口約100万のフランス第4の都市圏でヨーロッパ航空産業の拠点のひとつでもあり、エアバスの生産もしている。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114076/
(ミディ運河の光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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ロートレックの生家があるフランスのアルビ(2006年10月12日)
投稿日 2007年09月28日
総合評価:4.0
ロートレックの生家があるフランスのアルビ(2006年10月12日)
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(1864−1901年)は、南仏のアルビで生まれた。ロートレックの生家は、フランスの名家で伯爵家。トゥールーズの街の名前は中世にロートレックの祖先にあたるトゥールーズ伯爵の宮廷があったことに由来している。
ロートレックは、幼少期には家中から可愛がられて育ったが、13歳の時に左の大腿骨、14歳の時に右の大腿骨を骨折し脚が発育せず身長は140cmだった。
1882年、18歳でパリ・モンマルトルで画家となり晩年までモンマルトルに住んだ。
ロートレックが身体障害者で差別されていたため、娼婦、踊り子など近い境遇の人たちを多く描いた。1901年、母に看取られながら36歳で死去。ロートレックを優しく受け入れてくれた娼婦や踊り子達を、社会の底辺に生きる仲間の視線で自然体で描いているのが素晴らしい。彼はムーラン・ルージュはじめ、モンマルトルを世界に知らしめた功労者の一人でもあるだろう。
ロートレックを生み出したアルビもタルン川沿いの光景が美しい。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10114076/
(写真はアルビのロートレックの生家)- 旅行時期
- 2006年10月
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フランス、アルルのヴァン・ゴッホ橋(2006年10月11日)
投稿日 2007年09月28日
総合評価:4.0
フランス、アルルのヴァン・ゴッホ橋(2006年10月11日)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853−1890年)はオランダ、ズンデルトで生まれ、フランスで画家として生涯を終えた。
1869−1876年には美術商に勤め、牧師を目指し伝道師の仮免許を持っていた時代もあったが長続きしていない。
1880年に画家を目指しブリュッセルでデッサンの勉強をし、1881年に実家に画室を作り、27歳で画家となる。
ポール・ゴーギャン(1848−1903年)と南フランスのアルルで共同生活をするがゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、自分で左耳を切り取り、女友達に送り付けるなどの奇行でサン=レミ=ド=プロヴァンスの精神病院に入院。
1890年7月にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃自殺、37歳だった。
アルルのヴァン・ゴッホ橋は晩年アルルに住み精神の病をかかえながらもゴッホが描いた「跳ね橋」。ゴッホの「跳ね橋」は黒澤明監督(1910−1998年)の「夢」(1990年)に登場し、跳ね橋を渡って寺尾聰がゴッホと出会うシーンが印象に残っている。黒澤明監督もゴッホが好きで会ってみたいと思っていたのだろう。アルルではゴッホが描いた「跳ね橋」を見ることができる。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113932/
(写真はアルルの「跳ね橋」ヴァン・ゴッホ橋)- 旅行時期
- 2006年10月
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フランス民謡「アビニョンの橋の上で」(2006年10月10日)
投稿日 2007年09月28日
総合評価:4.0
フランス民謡「アビニョンの橋の上で」(2006年10月10日)
フランス、アビニョンのサン・ベネゼ橋はアヴィニョンの橋と呼ばれるローヌ川に架かっていた石造アーチ橋。アヴィニオン橋(入場料4ユーロ・600円)は「ローヌ川に橋をかけよ」との天の声を聞いたベネゼが、天の声など信用しない人達の前で橋桁にする大石を持ち上げるという奇蹟を起こしたことがきっかけで1177年に着工され、1185年に全長900mの大橋が完成している。だが、戦乱やローヌ川の氾濫で何度も橋が流され、17世紀の後半からは修復もされずローヌ川の中ほどで倒壊したまま現在に至っている。かなり堅牢と思われる石の橋なのだが中央でポッキリ折れている様子を見るとローヌ川の流れの激しさが想像できる。
橋そのものよりもフランス民謡「アビニョンの橋の上で」の歌が世界中で親しまれているが幅4mほどの橋で輪になって踊るには少し狭い。
「アビニョンの橋の上で」
門馬直衛作詞・フランス民謡
橋の上で おどるよおどるよ
橋の上で 輪になっておどる
紳士も来る奥さんも来る
橋の上で おどるよおどるよ
橋の上で 輪になっておどる
坊主も来る
軍人も来る
橋の上で おどるよおどるよ
橋の上で 輪になっておどる
のんべも来る
おてんばも来る
橋の上で おどるよおどるよ
橋の上で 輪になっておどる
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113932/
(写真はアヴィニヨン橋)- 旅行時期
- 2006年10月
- 観光の所要時間
- 1-2時間
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サッカー界のスーパースター、ジダンが育ったマルセーユ(2006年10月10日)
投稿日 2007年09月27日
総合評価:4.0
サッカー界のスーパースター、ジダンが育ったマルセーユ(2006年10月10日)
ジネディーヌ・ジダン(1972年−)は、フランス国籍の元サッカー界のスーパースターで、頭突き事件で知られる2006年7月9日のドイツワールドカップ決勝(対イタリア戦)が現役最後の試合になった。現役最後の試合となったイタリアとの決勝戦でマテラッツィの胸元に頭突きして一発退場となったが、マテラッツィが人種差別発言「母と姉を傷つけるひどい言葉を繰り返した」ことに対して激怒したという。
ベルベル人系アルジェリア移民の二世で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困な家庭で育った。
ベルベル人は、北アフリカの広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする先住民族でイスラム教徒が多いコーカソイド。
エジプト西部の砂漠地帯からモロッコ全域、ニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域に住んでおり、総人口は約1500万人でモロッコでは全人口の50%、アルジェリアでは人口の20%、その他、リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどで人口の数%を占めている。ヨーロッパのベルベル人移民人口は約300万人で大半はフランスとオランダに居住している。ジダン一家も移民の一員で、他のアルジェリア移民の人の話では民族的な差別は幼い頃から体験しているそうだ。ジダンの頭突き事件はアフリカ移民に対する人種差別というヨーロッパのかかえる暗い側面を浮き彫りにしたのかも知れない。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113812/
(写真はマルセイユの港)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月27日
総合評価:4.0
岩窟王の舞台、フランス・イフ島(2006年10月10日)
『モンテ・クリスト伯』(岩窟王)は、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説で主人公エドモン・ダンテスが無実の罪でフランス・イフ島の監獄に送られたが脱獄して巨万の富を手にし、モンテ・クリスト伯爵と名乗って自分を陥れた者に復讐する物語。
1815年、マルセイユの一等航海士、エドモン・ダンテスは、航海中に死んだ船長の遺言で、ナポレオン・ボナパルトの流刑先であるエルバ島に立ち寄りナポレオン側近からパリのノワルティエにあてた密書を託され、報酬として船長への昇格を約束されるが、ダンテスは出世をねたまれ密告され逮捕される。
密書の内容はナポレオン軍の再上陸に備えて準備をせよとの命令書だったが、公になることを恐れた取調べ官ヴィルフォールは政治犯収容のマルセイユ沖・イフ城に投獄。
イフ城の隣の独房に収監されていたファリア神父はモンテ・クリスト島に隠された財宝のありかをダンテスに伝えて死ぬ。
ファリア神父の遺体と入れ替わりイフ城からの脱獄に成功にたのは投獄から14年目だった。
モンテ・クリスト島の財宝を手に入れたダンテスは、イタリアの貴族モンテ・クリスト伯爵と名乗り自分を陥れたダングラール、フェルナン、ヴィルフォールに復讐するというストーリー。イフ島のイフ城は入場料5ユーロ・750円だった。城内の監獄として使用されていた部屋ではビデオを流し、「巌窟王」のあらすじを紹介していたのが良かった。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113812/
(写真はイフ島)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月27日
総合評価:4.0
フランスのカンヌ国際映画祭(2006年10月9日)
カンヌ国際映画祭はフランス政府が1946年から開催し、毎年5月にフランス南部のカンヌで開かれているヴェネチア国際映画祭、ベルリン国際映画祭と並ぶ、世界三大映画祭の一つ。日本の映画人もこれまで数多くの作品を出品し、受賞もしている。主な受賞には次のような作品がある。
『殯(もがり)の森』 日仏合作 2007年河瀬直美監督 。第60回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。
『うなぎ』1999年今村昌平監督。カンヌ映画祭グランプリ。今村監督はカンヌでパルムドールを2回受賞、2回受賞は世界でも5人の監督のみ。
『楢山節考』1983年今村昌平監督。カンヌ映画祭グランプリ。
『影武者』1980年黒澤明監督。カンヌ映画祭グランプリ。
『誰も知らない』2004年是枝裕和監督。主演の柳楽優弥がカンヌ映画祭最優秀男優賞を史上最年少(14歳)で受賞、日本人としても初受賞。
『回路』2001年黒沢清監督。カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。ハリウッドでリメイクされ『Pulse』となった。
『Mother』 1999年カンヌ映画祭国際批評家連盟賞。
『EUREKA(ユリイカ)』 2000年青山真治監督。カンヌ映画祭国際批評家連盟賞。
『MISHIMA』1985年カンヌ映画祭芸術効果賞。
『萌の朱雀』1997年河瀬(仙頭)直美監督。カンヌ映画祭カメラドール(新人映画監督賞)
『黒い雨』1989年今村昌平監督。カンヌ映画祭高等技術委員会賞。
『愛の亡霊』 1978年大島渚監督。カンヌ映画祭監督賞。
『鍵』1960年市川崑監督。カンヌ映画祭審査員特別賞。
『源氏物語』 1952年カンヌ映画祭撮影賞。
『砂の女』1964年勅使河原宏監督。カンヌ映画祭審査員特別賞。
『怪談』1965年小林正樹監督。カンヌ映画祭審査員特別賞。
『切腹』1963年小林正樹監督。カンヌ映画祭審査員特別賞。
カンヌ映画祭の会場となっているパレの前の石畳ではスターの手形とサインを見ることができるのが楽しい。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113507/
(写真はカンヌ映画祭会場の手形)- 旅行時期
- 2006年10月
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モナコ公妃になった女優、グレース・ケリー(2006年10月9日)
投稿日 2007年09月27日
総合評価:4.0
モナコ公妃になった女優、グレース・ケリー(2006年10月9日)
グレース・パトリシア・ケリー(1929-1982年)は米国のハリウッドスターからモナコ公国レーニエ大公妃に転身した現代版シンデレラ。米国ペンシルヴァニア州フィラデルフィアのアイルランド系カトリックの家庭の3人姉妹の次女に生まれ、父は資産家でオリンピック、ボート競技の金メダリスト。母はドイツ人で元モデル。
ハイスクール卒業後女優を志し、1949年20歳でブロードウェイデビュー。1951年からはハリウッド映画に出演し、スタンリー・クレイマー監督の『真昼の決闘』でゲイリー・クーパーと共演して脚光を浴び、アルフレッド・ヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ!』『裏窓』『泥棒成金』などの作品で主演女優をつとめ、1955年には『喝采』でアカデミー主演女優賞を受賞。
カンヌ国際映画祭で知り合ったモナコ大公レーニエ3世(1923−2005年)と1956年に結婚し女優業を引退した。
モナコ公妃として長女カロリーヌ、現在モナコ公国の大公である長男アルベール、次女ステファニーらの子供に恵まれたが1982年、52歳の時に次女ステファニー王女と同乗の車がモナコの高速道路脇の崖から転落して死亡、世界に衝撃を与えた。グレース・ケリーのハリウッド映画での気品ある演技は輝いており、モナコ公妃になってから女優を引退したのは残念だった。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113507/
(モナコの光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月26日
総合評価:4.0
フランスのバスク人の街、バイヨンヌ(2006年10月8日)
バスク地方は、ピレネー山脈西部のフランスとスペインにまたがり、ビスケー湾に面する。
バスク地方には、後期旧石器時代からバスク人住みローマ帝国期には大きな領域を構成し中央ピレネー山脈からアンドラに及ぶ地域までを含んでいた。
19世紀にはバスク国民国家としてバスク政府による自治権を一時もち、19世紀後半には近代的なバスク民族主義思想を唱えるバスク人が出てきた。
バスク民族主義は、自己統治を目指し共和制スペインのもとで活動するがフランコ政権下では抑圧を受けた。 ベネズエラとパリにバスク亡命政府が置かれ、民族主義青年団は過激な都市ゲリラ組織になった。
40年間のフランコ政権の後、スペインで勃興した自由民主主義が、バスク国にも自治をもたらすことになる。バスク民族主義は38年間テロリズムで800人以上のスペイン人死者を出したが2006年3月に休戦宣言をしている。フランスのバスク人の街、バイヨンヌでは独立運動はほとんど無いそうだがスペイン側のバスク地方では現在も独立を望む運動があるそうだ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113339/
(写真はフランスのバスク人の街、バイヨンヌ)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月26日
総合評価:4.0
フランスの世界3大奇跡の街ルールド(2006年10月7日)
フランスのル−ルド は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部の人口2万人弱の街。「ル−ルドの泉」で知られ、カトリック教会の世界3大奇跡のひとつと言われる街で年間170以上の国から数百万人が訪れるカトリック最大の巡礼地の一つになっている。なお、世界3大奇跡はメキシコのグアダルーペ(1531年12月9日聖母マリア出現)、ポルトガルのファティマ(1917年5月13日聖母マリア出現)、とフランスのルールド(1858年2月11日聖母マリア出現)とのこと。
1858年2月11日、14歳の貧しい粉屋の娘マリー・ベルナデットは薪拾いに行ったポー川のほとりのマッサビエル洞窟にあらわれた聖母マリアと対面する。ベルナデットはその後17回も同じ洞窟で聖母マリアに逢っているそうだ。聖母マリアは2月25日の対面でベルナデットに「泉の水を飲み、その水で顔を洗えば奇跡が起きる」と告げた。ベルナデットの奇跡を聞いた人達はマッサビエル洞窟に連日大勢集まり、ベルナデットが聖母マリアと対面する真剣な姿を見て信用しなかった人も奇跡を信じるようになる。3月1日、右手の指が動かないカトリーヌ・ラタピ・シュアという39歳の女性が泉に手を入れると瞬時に指が動くようになった。これがルールドの医務局の奇跡発生名簿に第1号として記録されているそうだ。3月3日には54歳の石工の男性、ルイ・プリエットの右目が黒内章でほとんど失明状態だったのが泉の水で洗うと瞬時に見えるようになり、医師の確認のもとに奇跡第2号として登録されているとのこと。
それ以後、たくさんの病人が「聖なる水」を求めてルールドに訪れるようになった。「聖なる水」を飲んだり「聖水浴」をすると病気が治ったという奇跡は以後何度も起こっているそうで、病気を持っている人達の参拝は絶えない。聖域の中には病の治癒を願う信者のための「聖母病院」もある。この日も大勢の人達が「聖なる水」を汲み、洞窟を参拝し、「聖水浴」を受けていた。多くの重病人の奇跡的治癒が実際に起きているという現象はカトリック信者と医者、科学者との間やローマカトリック教会とフランス政府との間で、論争を起こしてたそうだ。論争の中で科学者がこの泉の水を調査・分析したが、特別な成分は含まれず普通の湧き水だとの報告をしている。奇跡をなかなか理解できない凡人の私の感想だが、「病は気から」の諺のように神を信じ、病が必ず治ると信じる前向きな強い気持ちが病気を追い払っているのではないだろうかと思った。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113339/
(写真は聖母マリアが出現した奇跡の洞窟に参拝する人達)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月26日
総合評価:4.0
フランスのカルカッソンヌ(2006年10月7日)
フランスのカルカッソンヌは、フランス南部の人口約4万人都市で、古代ローマ時代、「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と言われるほどのヨーロッパ最大の城塞都市が建設されたことで有名。
街の名前カルカッソンヌは、フランク国王カール大帝(742−814年)がこの都市の攻略を失敗し退散するときに、当時街を治めていた女性カルカスが勝利の鐘を鳴らしたことに由来するとのこと。
古代ローマ時代から発達した城塞都市であるシテと、オード川をはさんだ向かいの城下町である下街との二区画からなる都市。シテを覆う城塞は19世紀に修復され、シテは「歴史的城塞都市カルカッソンヌ」の名で1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。堅固な二重の城壁はスペインとの国境を定めるピレネー条約が締結された17世紀まで増強、補強を繰り返したとのこと。保存状態が良くて今でも外敵の危険があれば充分防壁として役に立ちそうだ。確かにこれほど堅牢で大規模な城砦都市は見たことが無い。城壁内のシテにはみやげ物店、レストランが並び1000人以上の人達が住む現在も生きている街だ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10113110/
(写真はカルカッソンヌの光景)- 旅行時期
- 2006年10月
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投稿日 2007年09月25日
総合評価:4.0
フランス、パリのサクレ・クール寺院
フランス、パリのサクレ・クール寺院はフランスのパリ市内モンマルトルの丘の頂にそびえる大聖堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。エッフェル塔、ノートルダム寺院と共にパリ市内を見渡せる観光名所。
1877年に、建設開始し完成は1914年という新しい寺院だがパリを代表する寺院のひとつになっている。夜はライトアップされ特に美しい。ただし、モンマルトルは治安があまり良くないので注意が必要だ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111845/
(写真はパリのサクレ・クール寺院の夜景)- 旅行時期
- 2006年10月
- 観光の所要時間
- 1-2時間
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ナポレオンの墓があるパリのアンヴァリッド(2006年10月3日)
投稿日 2007年09月25日
総合評価:4.0
ナポレオンの墓があるパリのアンヴァリッド(2006年10月3日)
ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)はフランス革命後フランスを帝政の皇帝となり、ナポレオン戦争で全ヨーロッパを侵略したが最終的に敗北した軍人・政治家で英雄と暴君の両面の評価がある。
1769年コルシカ島で生まれ、1784年に15歳でパリの陸軍士官学校に入学し、通常4年かかる課程を11ヶ月で修了しており早くから優秀だったようだ。
1789年にはフランス革命に参加するが頭角をあらわすのは1793年イギリス艦隊に対する砲兵家として作戦を採用された頃からで、1795年にはパリの王党派の蜂起を鎮圧したことで司令官としての才能を認められた。
フランス革命戦争ではオーストリア攻略に成功し英雄となり1804年に皇帝を名乗り1811年にはイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパを制圧し、イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となりナポレオンの絶頂期を迎えた。だが絶頂期は短く、1812年のロシア遠征失敗の後はヨーロッパ諸国は反旗を翻しついにはイギリス軍によって大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉され1821年に死亡した。
ナポレオンの偉大さは軍人としてよりも政治・行政面の先駆者だった点だろう。フランス国内の諸改革を行い、税制制度、行政制度の整備、産業の振興、教育改革で「公共教育法」の制定、近代的法典の基礎とされるナポレオン法典の制定、芸術の価値を高めたことなどだろう。フランス人の芸術を大切にする精神は現代にも生きている。
パリのアンヴァリッドにはナポレオンの墓があり、見学することができる。アンヴァリッド入場にはカルト・ミュゼ2日券(30ユーロ・4500円)が使用できた。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112528/
(写真はアンヴァリッドのナポレオンの墓)- 旅行時期
- 2006年10月
- 観光の所要時間
- 1-2時間
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マリー・アントワネットの独房が残るパリのコンシェルジュリー(2006年10月3日)
投稿日 2007年09月25日
総合評価:4.0
マリー・アントワネットの独房が残るパリのコンシェルジュリー(2006年10月3日)
マリー・アントワネット(1755-1793年)は、フランス国王ルイ16世の王妃。
オーストリア・ハプスブルク家、マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世の11女でウイーン生まれ。フランス革命中、ギロチンで斬首刑にされた。
1770年、14歳でルイとヴェルサイユ宮殿で挙式、1774年、ルイ16世の即位で18歳でフランス王妃となる。
1789年、王政に対する民衆の不満からフランス革命が勃発しヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、1791年にフランスを脱走してオーストリアの兄レオポルト2世のもとに脱出を試み失敗。1792年、フランス革命戦争が勃発テュイルリー宮殿からタンプル塔に移され幽閉される。
1793年1月、ルイ16世がギロチンで斬首刑にされ、マリー・アントワネットは8月にコンシェルジュリー牢獄に移され、10月16日、コンコルド広場でギロチンで斬首刑にされた。
マリー・アントワネットは無類の浪費家でフランス王室の財政を圧迫させたこと、ヴェルサイユ宮殿の品位を低下させたことなどが誇張流布され市民の反感を買っていたが、さらにフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流したことなどが反逆罪とされ死罪となった。贅沢三昧の宮廷生活から一転、牢獄に収監され最後に民衆の罵声を浴びながらギロチンの露と消えたマリー・アントワネットは時代の犠牲者とも言えるだろう。コンシェルジュリーでは2.5ヶ月監禁されていた独房にマリー・アントワネットの蝋人形が置かれており、牢獄での様子を見ることができる。コンシェルジュリーにはカルト・ミュゼ2日券(30ユーロ・4500円)が使用できた。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112528/
(写真はコンシェルジュリー牢獄のマリー・アントワネットの蝋人形)- 旅行時期
- 2006年10月
- 観光の所要時間
- 1-2時間