ツッチーさんへのコメント一覧(7ページ)全494件
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教えてください。
ツッチー様
初めまして。こんにちは、トトロンパと申します。
ツッチー様の東アフリカ旅行記、楽しく拝見させていただきました。私は、ツッチー様が旅をされたごく一部ですが、ウガンダからルワンダまでサイクリングする予定です。もしよろしければ、以下のサイトで私の質問にお答えいただけませんでしょうか。
http://4travel.jp/os_qa_each-68497.html
ツッチー様の御経験の範囲で、可能な限りで結構ですので、よろしくお願いいたします。
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ムアンシンでお会いした
夫婦のヨメです。
先週帰国しました。
郊外には楽しそうな村があったんですねぇ。
素敵な写真を拝見して嬉しかったです。
国境越えに苦労されたようでお疲れさまでした。ノーンキャウからムアンクアまでボートで行く白人が結構いて、そのまま国境越えるルートなのかな??と思って見てました。
またどこかでお会い出来るといいですね。 -
ラオス
ラオスも南部(シーパンドン)観光は多数ですが北部もツッチーさんの日記を読むとのんびりして良さそうですね^^
ほぼ日本人観光客はいません??
Re: ラオス
のどかというコメントを前に送信していますね>< 重複してすみません>< ラオス北部行ってみたくなりました^^
台湾、期待どおりの良い国でしたね~~~
治安もいいし人もいいしで嫌なところが見つかりませんでした!
南部の情報も教えて頂いたのですが、結局台北周辺のみになりました
ツッチーさん、Facebookもされているんですよね
よろしければ友達になって頂けると嬉しいです^^
私は Kayoko Nkc で、検索して頂けると出ますので。。。2018年12月07日09時21分 返信する -
旧日本軍と旧ドイツ軍の戦い!
ディエンビエンフーの戦いは、ベトミン勢力がラオスまで浸食して勢力を急拡大、それに対して敵陣のまん真ん中で飛行場のあるこの盆地にフランス軍主力部隊を集結させてベトミン勢力をおびき出し、撃滅するとの作戦でした(10年くらい前に日米のミッドウェイ海戦と同じような状況)。
ベトミン勢力はその意図を読み、1954年5月に全勢力を持ってフランス軍に立ち向かい、逆にフランス軍を壊滅させました(これまたミッドウェイ海戦と同じ結果)。
フランス軍の主力は外人部隊(第二次世界大戦に敗れ職がないドイツ人が中心)、ベトミン勢力の中には終戦後に日本軍を脱走した日本兵が多数いた(戦争を重ねてきた日本兵は戦闘のノウハウを知るプロ集団)とのことで、日本軍対ドイツ軍の戦いでもあったらしい。RE: 旧日本軍と旧ドイツ軍の戦い!
歩き方のラオス、ベトナム編にも歴史は割合詳しく書かれていました。
フランス軍は空爆で、ベトナム人民軍は飛行機が飛べない夜間に、ソ連や中国の軽火器で至る所から攻撃。
戦車の壊れ具合から迫撃砲や、A1の丘の大きな穴はベトナム人民軍の950kg爆弾に依るものだそうなので、そのような武器もあったみたい。
フランス軍は死者5,000人に及んだと。
A1の丘麓に広い墓地あり。総司令部の近くにはフランスの慰霊碑と横に小さなフランス国旗がありました。
ディエンビエンフーはそれ以外は、余り見処無さそうですが、機会あれば是非ご訪問を♪2018年12月02日22時24分 返信する -
ディエンビエンフー
ツッチーさんも元気に旅されていて何よりです。
ディエンビエンフーは私も一度は行ってみたいところです。
数はともかく兵器の質や用兵では優勢なフランス軍がなぜ破れたのかまた言われるように旧日本軍の将校が指揮、下士官が実戦で兵を率いていたとかを実際の戦いの状況から見てみたいというのもあります
新ベトナム人たちの戦いAdd Starmihocomihomihocomiho
新ベトナム人と呼ばれたベトナム独立に命をかけた日本人たちの戦い。
f:id:jjtaro_maru:20120315215716j:image
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結後間もなく、ベトナムのサイゴンの街ではフランスの自警団とベトミン(ベトナム独立同盟)の小競り合いが続いていました。日本陸軍宣伝部に文官として従軍していた佐野裕二氏は軍籍を離れ、同和火災の事務所から友人と銃撃戦を見物していました。いろんな性能の銃で撃ち合うので銃声がバラエティに富んでいます。あるとき「どどっ、どどっ」と新たな銃声が響きました。
「日本軍の軽機関銃が出てきたよ」
日本軍の軽機関銃は断続して射撃し、射撃を中止するとき、弾丸の詰まりを防ぐための指の引き金離れは熟練を要します。日本兵がベトミンに参加していたのです。
80年もの間、ベトナムはフランスの植民地にされていましたが、植民地にされるときの戦い、されてからの抗戦で一度も勝てませんでした。それを日本軍は明号作戦で一夜にしてフランス軍を駆逐したのですから、ベトミンは日本軍の戦闘能力に目をつけました。ベトミンはベトナム全土で勧誘活動を行いました。妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れて勧誘したり、好条件(二階級特進、高給、結婚斡旋)など)で参加を求めるベトミンのビラがサイゴン市内にまで張り出したりしていました。中には拉致して強制的に参加させられた例もあります。
ベトミン参加日本人、松嶋春義元陸軍一等兵
「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」
様々な思いを胸にベトミンに参加した日本兵は約600名と言われています。彼らは「新ベトナム人」と呼ばれ、現在でも現地へ行き、日本人の足どりを訪ねて日本名で尋ねると、「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」と怒る人もいるそうです。
陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐(ベトナム名レ・チ・ゴー)は戦争終結前からベトミンと接触しており、終戦時にベトミンに武器を提供しました。ベトミンに参加後、ベトナム人兵士に軍事調練を施し、フランス軍とベトミン軍の戦力差を考慮し、遊撃・奇襲戦術を重視するよう進言ました。昭和21年(1946年)4月に自動車で移動中にフランス軍の待ち伏せに会い戦死しました。フランス軍は日本兵士がベトミン戦力の要であるとして、その捕殺ないし帰順(投降)工作に熱心でした。
昭和21年(1946年)6月1日、クァンガイにグエン・ソン将軍を校長とし、第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(のちにベトナム国防相)を事務長とする陸軍中学が設立されました。教官・助教官全員と医務官は日本軍人です。猪狩和正中尉、加茂徳治中尉、谷本喜久少尉、中原光信少尉、青山浩軍曹、峰岸貞意兵長・・・
日本軍の軍事調練は厳しいものでしたが、生徒達は日本人教官を畏敬し、好んで彼らの真似をしました。シャツのボタンをはずしておくというような少々崩れた服装まで真似をして「ニャット・コン」(日本人の弟子)スタイルを生徒たちは誇りにしていました。地域の住民は日本人教官を「オン・ニャット」(日本さん)と呼んで歓迎しました。
昭和21年(1946年)11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する銃撃事件をきっかけにフランスとの戦いの火蓋が切って落とされました。元日本兵は戦闘指揮、作戦立案への助言に大きな役割を果たしていきます。中原光信少尉はハノイ防衛軍がフランス軍の包囲作戦で窮地に陥ったとき、夜間の渡河脱出をボー・グエン・ザップ総司令官に提案して成功させました。同年のナムディン攻囲戦では、連隊司令部に野砲直射を進言し、みずからその作戦を指揮してフランス軍を苦しめています。こうした前線の直接戦闘だけでなく、武器・弾薬製造、橋梁架設、沈船引き揚げなどの後方支援でも工兵、砲兵が活躍したほか、元第21師団、高澤民也軍医中尉のように医療面でも大変な努力と活躍が認められています。各種の勲章および徽章を授与された日本人は30名を上回っています。気象観測で諸部隊の作戦を助けた槌谷勇は10種類の勲章、徽章、表彰状を授与されています。
昭和28年(1953年)11月、ディエンビエンフーの戦いにベトナム民主共和国軍が勝利し、第一次インドシナ戦争はベトナムの勝利が確定しました。この頃にはもう旧日本軍人の手助けは必要がないほどベトナム軍は充実してきました。
上級幹部グエン・テ・グエン大佐「飢えたときの(米飯の)一口は、満腹時の(食べ物の)一包みに勝る。我々の最も苦しかった時代の彼ら(日本人)の貢献は何よりも貴い」。
ベトミンに参加した旧日本兵は次々日本に帰国しましたが、祖国日本は彼らを冷たく迎えました。「共産主義国に奉仕した者たち」だからでした。 -
北部ラオス!
ツッチー 様
大変ご無沙汰しております
7年ぶりでしょうか、アルデバランです。
北部ラオスを巡られているんですね、今はどのあたりでしょうか。
ルアンナムターやさらに足を伸ばしてムアンシンまで…
とても懐かしく思わずポチッしました。
特にムアンシンは時間が止まったようなのんびりした町と周辺の山麓に点在する村々が魅力的なエリアですね。
泊まられた宿、ちょっと歩く不便な場所でしたが、自転車をレンタルした所かも…
私も来年の1月にタイのチェンライから入ってボーデンから中国雲南省へとぬけるルートで、ポン友を案内しようと計画したのですが事情により中止になってしまいました。
ムアンシンは観光客はほとんどおらず、また中国国境に接しているためか中国経済の影響が強く中国の商人が町を闊歩している様子が印象的でしたが、今はどうでしょう…
ナムター郊外のレンテン族のナムディー村の滝、バイクの駐車料金が2000kipと言われケチって村の中だけ散策だけしました(^^;
Re: 北部ラオス!
アルベバランさん、こちらこそご無沙汰です~♪
変わらぬ魅力的な旅のご様子、時々拝見しています。
今、明日ポンサーリーへ向かうため、ウドムサイに着きました。
ムアンシンの宿はプーイウⅡ バンガロウズです。
フランス人など、外人は殆どここでした。いい宿ですね。
ちなみに現在の宿代は80,000kip(1,060円)です。
※道路沿いの昔の安宿2軒は廃業してました。
現在のムアンシンは「中国商人」は殆ど見なかったですが、中国の大型トラックやダンプカーがひっきりなしに通っています。
ボーテンから鉄道建設の真っ最中、ムアンシン手前ではダムも造っています。
私は、久し振りの東南アジアで、先ずは長閑さを求めてラオスにやって来ました♪
年明け2月にはタナ・トラジャへ行く予定です♪
今後ともよろしくお願いいたします♪ ツッチー2018年11月25日15時36分 返信する -
こんにちは
ラオス北部、なんとものどかで良さそうですね(^^♪
RE: こんにちは
> ラオス北部、なんとものどかで良さそうですね(^^♪
>
そう、久し振りにラオスの長閑さを求めてやって来ました。
どこにもあの中国人が居なくて静か! ラオス人は元々静か。
町中でもクラクションの音はあまり無くて日本並み。
ラオスは世界で一番静かな国かも。
ラオスじゃ、どこでも無ちゃんこいるニワトリが実は大変。
夜半、シーンとしてる時に大きな声で鳴く、と何羽かが続く。
夜明け前の白み出した頃には、町中のニワトリの大合唱。
少し離れた所ならまだマシも、泊まった竹製ロッジの奥の壁の後ろがニワトリ小屋だったことが一度。たまらず翌日に部屋を変えてもらった(^_^;)
って、のどかに過ごしています(^-^)/
ツッチー、 ラオス・ムアンシンにて2018年11月21日14時55分 返信する -
渡し舟
おはようございます、arfaです。
ルアンプラバンで対岸に渡る舟、ボラれませんでしたか?以前行った時に若い旅行者がビエンチャンから夜行バスで着いてすぐ渡し舟で7ドル取られたと言ってました(笑)
当時メコン川クルーズで正規には上流下流で約1時間4ドルだと教えてまともな船頭さんがいる乗り場に連れて行ってやりました。RE: 渡し舟
おはようございます♪
片道5,000kip(65円)でした。
地図アプリのmaps_meでは、船着き場をクリックすると値段が標示されました。どこでもこんな標示がされる訳ではありませんが便利になったもんです。
対岸には、ラオス人3,000kip 外国人5,000kipの看板がありました。
ちなみに、ラオスはkip化政策で宿代も殆どkip払い。
ATMは小さな町にもあり、ちょこちょこ1,000,000kipをキャッシングしてます。
今は夜中からの強い雨が続いています。
船で1時間のムアン・ゴイまで数時間後に出発、どうしようかチト思案中です。2018年11月14日10時00分 返信するRE: 渡し舟
渡し船の船着き場は2ヶ所あり。
利用したのは、ナイトマーケットからすぐ近く。
もうひとつは300m北(上流)にあり。ここには車4台が乗るフェリーがあります。自転車もバイクもここから乗ります。
ここには人専用の渡し船もあるので、本拠地みたい。
2ヶ所の渡し船は共に10分程で頻発していて、ほぼ待たずに乗れます。
利用する外国人はチラホラ程度。ウォーキングや自転車やバイクの外国人がいました。
バイクで廻ろうと思い付いたんですが、地図見ても遠くに村・集落が少なそう。膝の調子は激不調で怪我の心配、ラオスのバイクは高め。
で、大人しく徒歩にしました。
半日コースだとまあまあです。特別お勧めまではなく。
(グーグルアースを見てなかった。村は多分有るかも。)
※船が出るちょっと前に晴れに変わりました!
いい宿も見つかり最高♪2018年11月14日17時29分 返信する -
おお! ラオス!
こんにちは、ツッチーさん!
ラオスですか!
リアルタイムですか!
羨ましい!!
ラープ食べたい!
暖かいとこ羨ましい!(長沙は12度で雨)
楽しみです!楽しみです!
この先、凄く楽しみです。
ちょこちょこリアルタイム入れてもらえると凄く楽しみです。
ラオス行きたい!
スイカ -
何が正しい情報なのかわからない
来年の5-6月に10日間ぐらいで東アフリカ渡航を考えていて、いろいろ情報収集させていただいています。
南部エチオピアの少数民族は興味ありますが、その時期は雨季のようなので、ウガンダ・ルワンダ・(時間があれば)ケニアかなと思っています。
エチオピア→ケニアのモヤレルートは、歩き方の16-17版でも「武装強盗団による事件が多発しており、非常に危険」となってますね。これもやはり歩き方の記載がオーバーなんでしょうか。。
どうしてもそれに引っ張られてしまうところがありますが。。
ナイロビ情報も、歩き方はそもそも行くこと自体を推奨しないような書き方ですが、実際に訪れたパッカーの方の情報を読んでいるとそうでもなさそうですし、何を信用したら良いのやら、という感じですね。RE: 何が正しい情報なのかわからない
エチオピア→ケニアルートは、陸路国境でのビザ取りが出来なくなったと、1-2年前にどこかでチラッと見たように思います。
一度調べられた方がいいと思います。
歩き方でのケニア治安情報は余りにもひどく、よくもこんな誤報記事の掲載を許しているもんだが感想です。
海外の情報も含め相当調べましたが、やはり歩き方は酷かった。
ただ、ナイロビの一部地区の注意情報はありました。
5-6月のジンカ周辺が雨季かどうかは覚えていません。
8月は、ナイロビ雨季で、ジンカは乾季でした。
ジンカは乾燥地域なので雨季ってあるのかな?
簡単ですがご報告まで。
また何かあれば何なりとご連絡下さいませ。
ツッチー (岩手にて)
> 来年の5-6月に10日間ぐらいで東アフリカ渡航を考えていて、いろいろ情報収集させていただいています。
> 南部エチオピアの少数民族は興味ありますが、その時期は雨季のようなので、ウガンダ・ルワンダ・(時間があれば)ケニアかなと思っています。
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> エチオピア→ケニアのモヤレルートは、歩き方の16-17版でも「武装強盗団による事件が多発しており、非常に危険」となってますね。これもやはり歩き方の記載がオーバーなんでしょうか。。
> どうしてもそれに引っ張られてしまうところがありますが。。
> ナイロビ情報も、歩き方はそもそも行くこと自体を推奨しないような書き方ですが、実際に訪れたパッカーの方の情報を読んでいるとそうでもなさそうですし、何を信用したら良いのやら、という感じですね。2018年09月10日04時36分 返信する



