ツッチーさんへのコメント一覧(6ページ)全487件
-
とうもろこしはお粥に入っているやつです
お久しぶりです、ツッチーさん
ずいぶん昔の旅行記へのコメント。。届くでしょうか。
来月(8月)、パスポートの更新で長沙から北京大使館(領事部)まで行かなくてはならないので、せっかくだから、どこか見てこようかと、探していて、旅行社サイトの地名のマイナー感から、川底下村を選択⇒4tra旅行記検索でツッチーさんの旅行記に行きつきました。というかここ、ツッチーさんしか旅行記ありません(^_^;)
さすが、ツッチーさん、ずいぶんマイナーなところに行かれてますねえ。
北京は天安門・故宮・バーダレイ長城・動物園の王道だけ行ったことがあります。
長沙-北京は、なぜか飛行機が高いので、寝台で行きます。
中国は広すぎて、目的地がないと、どこに行くか考えるだけで頭が痛くなります。
漠然としすぎてますが、長沙-北京でどこか、おすすめあるでしょうか。
どういうところ?っていう考えもないので、困ります。
例えば、以前にツッチーさんから教えていただいた雲南の秘境バーメイなんかは今でも行ってみたいと思っているのです(もうだいぶ開発されてしまったかなあ)。
ところで、コメント欄にあったとうもろこしの写真。
あれは、お粥に入れるための備蓄です。
食堂で、お粥を頼むと、小さく砕いた黄色いトウモロコシが入っています。
私は、あのお粥が好きで、自分で作ろうと、市場で乾燥トウモロコシ(粒)を買って作ったことがあります。
ところが、2時間煮込んでも、トウモロコシが柔くならないのです。一晩水に浸けてもダメでした。
食堂で聞いたら、粒まんまではダメでもっと砕いたものか、乾燥してないものじゃないと柔らかくならないと言われたことがあります。
粒は、ポップコーンにするしかないのかな?
スイカ
RE: とうもろこしはお粥に入っているやつです
スイカさん、ご無沙汰です♪
こちらは梅雨の真っ最中、例の蒸し暑い日々が続いています。
今年の梅雨入りは、特に西日本では遅くてつい4-5日前に入ったばかりです。
北京は80年代に1年余り住んでいましたが・・・
ひと通り色んな所には行きましたが、当時は前門大街界隈が中国らしさがあって好んで行きました。
脇道や南の天橋辺りは、各地から上京してきたのか大きな袋を持った人々が多く、どこか闇市のような独特の混雑光景でした。
北京では、書画の瑠璃廠やラマ教寺院、頤和園近くの円明園、ほかも印象に残っていますが、お勧めに値するかは分かりません。
昔、中国映画をよく見ていて、古鎮(古い村)を巡っていたことがあり、その一環で川底下村へ行ってみたのを思い出しました。
「中国古鎮」の旅行本とかネットサイトで幾らでも情報があったので、夢中になった時代でした。
長沙〜北京間では、ルート上では武漢くらいしか観光しなかった思います。
ルートから外れた所では、江西の景徳鎮とか河南の少林寺とか、色々かなり行きました。
今行ってみたいのは三峡ダムですかね。Uチューブで崩落するかも?の画像がかなりでているので、元の形を一度見ておきたいと。
トウモロコシ入りお粥・・・昔あったような気がしますが、この10年は白粥ばかりでした。
私の定番の朝は、昔はお粥+油条が大好きでした。
近年では、油条を見かける機会が少なくなり、代わりにお粥+小籠包。上海ではお粥+焼き焼売が絶品♪
まもなくモンゴルへ出発です♪その後国境(二連浩特)超えて、久し振りの東チベットに向います。※ビザは楽山で取る予定です。
ツッチー2019年07月03日04時38分 返信するRE: RE: とうもろこしはお粥に入っているやつです
すみません、なんでもお任せ質問のお願いで。。お恥ずかしい。
「中国古鎮游」私も持っています。
(折り目すらついてませんが。。。)
景徳鎮に少林寺
これ、いいですねえ。
全くどこにあるのかわかりませんが、調べてみます。
三峡ダムも知りません。崩壊しそうなダムって、そういうところは、ホントに壊れそうなので、行きたくありませんが、どんな場所なのか調べてみたいです。
YouTubeは見れませんが、中国でも多分写真くらいあるでしょう。
写真じゃなくて動画(YouTube)に載っているというのは。。。
ダムだから、写真でも動画でも静止画で一緒のような気がしますが、まさか動画では振動したり、ダムが動いていたりするんでしょうか!?
そうだとすると、見に行くどころの騒ぎじゃありませんよね。
世界的なニュースになるでしょうけど。。。
とりあえず、ネットで調べてみます。
調べるきっかけの場所をいくつも教えていただきありがとうございました。
チベットに行くのですね。
楽山でビザ。
どうして楽山なのかとか、興味があるので、旅行記楽しみにしております。
お気をつけて。
スイカ
2019年07月03日18時01分 返信する -
停電
こんばんは、ツッチーさん
ラオスとてもよかったです。
魅力的ですよね、田舎のラオス。
読んでいて、情景が蘇って行きたくてたまらん状態です。
今日からベトナム編読みます。
楽しみです。
ところで、停電。
長沙は都会ですが、まだ年に1~2回はあります。
マンションですが断水は平均して3ヵ月に1回あります。
もう慣れました(^_^;)
スイカRe: 停電
スイカさん、ご無沙汰です。お元気でしょうか?
久し振りの盗難アジアだったので、のんびりできる処・・・ラオスにしました。
期待通りの感じでよかったです♪
停電の頻度は我慢できそうですが、断水は珍しいですね。
原因は水不足か停電か? 今の時代だと浄水水を売っているので
昔ほどは困らないんでしょうかね?
こちらは今週からやっと春の陽気になりました。
そちらはもう夏状態でしょうか、もう少ししたら国内車中泊旅に出かけます。
ではまた♪ ツッチー
2019年04月16日23時56分 返信するRE: Re: 停電
断水の原因は水不足ではなくて、マンション一画だけだから何か機械系のトラブルで水をマンションに引き揚げられないんだと思います。
マンションの水圧はとても弱くて、例えばトイレを流すとシャワーや他の水道の水量が減ります。
大きなマンションなんですが、夜8時頃の皆さんがシャワーを使い出す頃も水圧が減ります。
停電は大体すぐ復旧するんです。
ただ、電気は怖いです。200Vなのに、蛍光灯やコンセントの内部配線がちゃちいんです。
そして、中国人は一般家庭で日曜大工のように電気配線もいじるんです。
私は「絶対に素人がやってはダメだ」と言って、ちょっとした配線も電気屋を呼ぶんですが、その来た電気屋も頼りないんです。
日本では天井照明も器具ごと買って来れば、ソケットに繋げればオーケーですよね。
中国では配線コードを剥き出して繋げなければならないんです。
やれば私もできますけどやりません。
そんな状態の配線換えなんかを、一般家庭のど素人がやってるんだから、漏電やショートがとても怖いです。
高層マンションなので下から火が出れば絶対に黒焦げです。
高層マンションの構造自体も怖いし、各家庭は壁をぶち壊したりしてリフォームするんです。
私の部屋もエアコンの室外機用の配管のために厚さ15cm 位の壁に直径10cm 位の穴を開けました。
くり抜いたコンクリを見ると鉄筋が入っていました。
鉄筋ごとぶち抜いたんです。
何十戸の何部屋もでエアコン用の穴を開けて鉄筋を分断してるとして、マンションの強度は失われないんでしょうか。
日本が安全過ぎるのか、中国の方が世界標準なのか。。
私は欧州や米国など先進国に行ったことがないので、最近ホントに悩んでいます。
断水は昼間6時間とか一晩とか続くので困ります。
飲み水はミネラルウオーターがあるから問題ないんですが、問題は水洗トイレです。
今では、断水時のトイレ用に18リットルタンク2個常備しています。
トイレは日本と同じ洋式でトイレットペーパーも流せますけど。
ベトナム読みました。
マイチャウが気に入りました。なんともいい感じで、行ってみたいです。
スイカ2019年04月17日03時16分 返信するRE: RE: Re: 停電
>高層マンションなので下から火が出れば絶対に黒焦げです。
思わず吹き出してしまいました。座布団1枚!
>各家庭は壁をぶち壊したりしてリフォームするんです。
細い棒で床を支えていたり、高床式住居はセメント柱に家が乗ってるだけで固定ナシ、、
そんなラオスやベトナムを見ると、長沙も大陸の中だから地震なんてない。。。???
世界的には、多くの国で地震なんてなさそう。生まれて一度も経験したことないって人多いでしょうね。
そう言えば中国のマンションってスケルトンが普通でしたね。
日本でこうなら人々の生活はどんなになってたんだろう? ちょっと想像がつかない。。
やはり郷に入れば郷に従う?
ツッチー
2019年04月17日05時09分 返信するRE: RE: RE: Re: 停電
郷に入れば。。ってほんと難しいです。
中国でのタバコやゴミのポイ捨てやタン吐きはご存知ですよねえ。
上海なんかじゃ減ってきてるらしいですが、長沙じゃまだまだ普通にやってます。
歩きタバコでマンションに入って来て、1階ロビー床に火の付いたタバコ捨てるんですよ!
それも、住人ですよ。さらに女です!建物内禁煙表示あります!
もうホント「お前 頼むから、せめて自分の住むマンションでだけはやめてくれよ」って言いたいです。
絶対にケンカになるから言いませんけど(中国語出来ないし)。
奴らは自分の部屋の中でもタンを吐いたり、ゴミを床に捨ててるんでしょうか。。
先日、帰宅した時、入口すぐ横の2階の窓からおばさんが何か液体をジャーって捨てたんです。
下は木が生えた植え込みです。
すると、相方のMaさんが何か言っておばさんと口論になったんです。
後から、どんな口論してたのか?聞いてみると。
おばさんが捨てたのは油だったそうです。それを注意したところ「私は植え込みの木にエサをやってるんだ!」と答えたそうです。
窓から物を捨てるなって貼り紙はもちろんあります。
マンションの窓は縦長で上部に蝶番が付いて押し開けるタイプです。
この理由がよくわかります。
つまり、上から降ってくるゴミを開けた窓のガラスが防いでくれるからでしょう。
全く、とほほですよ。
中国も田舎は全体がのどかだからそれでもまだいいですが、長沙みたいな中途半端な都会は最もダメなのかもしれません。
すみません。関係ない愚痴を並べたててしまいました。ごめんなさい。
最後になりましたが、旅行記に感じのいい宿がたくさんありました。参考にさせていただきます。
ありがとうございました。
(中国人にほとほと嫌気がさしている) スイカ
2019年04月17日08時07分 返信するRE: RE: RE: RE: Re: 停電
長沙に地震は無いそうです。
地震が来れば、震度3でほとんど倒壊でしょうね。
多分、中国に「耐震」って言葉は無いんじゃないかと思っています。
スイカ
2019年04月17日08時13分 返信するRE: RE: RE: RE: RE: Re: 停電
郷に入れば・・・
人の行い以外(建物、設備、交通、等々)は慣れたり或いはあきらめがつき易いですが、人の行いは厄介ですね。
いい行いならいいですが、良くない場合はなかなか慣れれないもんでしょうね。
まあ、ストレスを貯めない程度でお気楽に♪ しか言いようがない(笑;
旅の宿は、
今時どこも部屋は禁煙なので、庭がある安宿をできる限り事前に探してます。
2階以上なら広めベランダ。
庭でビール飲みながらタバコをふかすのが極楽至極です!
殆どの処は庭でもwifi使えるので、庭で生活!が好き。
雨の日はバンザイですが。。
ツッチー
2019年04月17日13時43分 返信する -
-
教えてください。
ツッチー様
初めまして。こんにちは、トトロンパと申します。
ツッチー様の東アフリカ旅行記、楽しく拝見させていただきました。私は、ツッチー様が旅をされたごく一部ですが、ウガンダからルワンダまでサイクリングする予定です。もしよろしければ、以下のサイトで私の質問にお答えいただけませんでしょうか。
http://4travel.jp/os_qa_each-68497.html
ツッチー様の御経験の範囲で、可能な限りで結構ですので、よろしくお願いいたします。
-
ムアンシンでお会いした
夫婦のヨメです。
先週帰国しました。
郊外には楽しそうな村があったんですねぇ。
素敵な写真を拝見して嬉しかったです。
国境越えに苦労されたようでお疲れさまでした。ノーンキャウからムアンクアまでボートで行く白人が結構いて、そのまま国境越えるルートなのかな??と思って見てました。
またどこかでお会い出来るといいですね。 -
ラオス
ラオスも南部(シーパンドン)観光は多数ですが北部もツッチーさんの日記を読むとのんびりして良さそうですね^^
ほぼ日本人観光客はいません??
Re: ラオス
のどかというコメントを前に送信していますね>< 重複してすみません>< ラオス北部行ってみたくなりました^^
台湾、期待どおりの良い国でしたね~~~
治安もいいし人もいいしで嫌なところが見つかりませんでした!
南部の情報も教えて頂いたのですが、結局台北周辺のみになりました
ツッチーさん、Facebookもされているんですよね
よろしければ友達になって頂けると嬉しいです^^
私は Kayoko Nkc で、検索して頂けると出ますので。。。2018年12月07日09時21分 返信する -
旧日本軍と旧ドイツ軍の戦い!
ディエンビエンフーの戦いは、ベトミン勢力がラオスまで浸食して勢力を急拡大、それに対して敵陣のまん真ん中で飛行場のあるこの盆地にフランス軍主力部隊を集結させてベトミン勢力をおびき出し、撃滅するとの作戦でした(10年くらい前に日米のミッドウェイ海戦と同じような状況)。
ベトミン勢力はその意図を読み、1954年5月に全勢力を持ってフランス軍に立ち向かい、逆にフランス軍を壊滅させました(これまたミッドウェイ海戦と同じ結果)。
フランス軍の主力は外人部隊(第二次世界大戦に敗れ職がないドイツ人が中心)、ベトミン勢力の中には終戦後に日本軍を脱走した日本兵が多数いた(戦争を重ねてきた日本兵は戦闘のノウハウを知るプロ集団)とのことで、日本軍対ドイツ軍の戦いでもあったらしい。RE: 旧日本軍と旧ドイツ軍の戦い!
歩き方のラオス、ベトナム編にも歴史は割合詳しく書かれていました。
フランス軍は空爆で、ベトナム人民軍は飛行機が飛べない夜間に、ソ連や中国の軽火器で至る所から攻撃。
戦車の壊れ具合から迫撃砲や、A1の丘の大きな穴はベトナム人民軍の950kg爆弾に依るものだそうなので、そのような武器もあったみたい。
フランス軍は死者5,000人に及んだと。
A1の丘麓に広い墓地あり。総司令部の近くにはフランスの慰霊碑と横に小さなフランス国旗がありました。
ディエンビエンフーはそれ以外は、余り見処無さそうですが、機会あれば是非ご訪問を♪2018年12月02日22時24分 返信する -
ディエンビエンフー
ツッチーさんも元気に旅されていて何よりです。
ディエンビエンフーは私も一度は行ってみたいところです。
数はともかく兵器の質や用兵では優勢なフランス軍がなぜ破れたのかまた言われるように旧日本軍の将校が指揮、下士官が実戦で兵を率いていたとかを実際の戦いの状況から見てみたいというのもあります
新ベトナム人たちの戦いAdd Starmihocomihomihocomiho
新ベトナム人と呼ばれたベトナム独立に命をかけた日本人たちの戦い。
f:id:jjtaro_maru:20120315215716j:image
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結後間もなく、ベトナムのサイゴンの街ではフランスの自警団とベトミン(ベトナム独立同盟)の小競り合いが続いていました。日本陸軍宣伝部に文官として従軍していた佐野裕二氏は軍籍を離れ、同和火災の事務所から友人と銃撃戦を見物していました。いろんな性能の銃で撃ち合うので銃声がバラエティに富んでいます。あるとき「どどっ、どどっ」と新たな銃声が響きました。
「日本軍の軽機関銃が出てきたよ」
日本軍の軽機関銃は断続して射撃し、射撃を中止するとき、弾丸の詰まりを防ぐための指の引き金離れは熟練を要します。日本兵がベトミンに参加していたのです。
80年もの間、ベトナムはフランスの植民地にされていましたが、植民地にされるときの戦い、されてからの抗戦で一度も勝てませんでした。それを日本軍は明号作戦で一夜にしてフランス軍を駆逐したのですから、ベトミンは日本軍の戦闘能力に目をつけました。ベトミンはベトナム全土で勧誘活動を行いました。妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れて勧誘したり、好条件(二階級特進、高給、結婚斡旋)など)で参加を求めるベトミンのビラがサイゴン市内にまで張り出したりしていました。中には拉致して強制的に参加させられた例もあります。
ベトミン参加日本人、松嶋春義元陸軍一等兵
「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」
様々な思いを胸にベトミンに参加した日本兵は約600名と言われています。彼らは「新ベトナム人」と呼ばれ、現在でも現地へ行き、日本人の足どりを訪ねて日本名で尋ねると、「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」と怒る人もいるそうです。
陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐(ベトナム名レ・チ・ゴー)は戦争終結前からベトミンと接触しており、終戦時にベトミンに武器を提供しました。ベトミンに参加後、ベトナム人兵士に軍事調練を施し、フランス軍とベトミン軍の戦力差を考慮し、遊撃・奇襲戦術を重視するよう進言ました。昭和21年(1946年)4月に自動車で移動中にフランス軍の待ち伏せに会い戦死しました。フランス軍は日本兵士がベトミン戦力の要であるとして、その捕殺ないし帰順(投降)工作に熱心でした。
昭和21年(1946年)6月1日、クァンガイにグエン・ソン将軍を校長とし、第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(のちにベトナム国防相)を事務長とする陸軍中学が設立されました。教官・助教官全員と医務官は日本軍人です。猪狩和正中尉、加茂徳治中尉、谷本喜久少尉、中原光信少尉、青山浩軍曹、峰岸貞意兵長・・・
日本軍の軍事調練は厳しいものでしたが、生徒達は日本人教官を畏敬し、好んで彼らの真似をしました。シャツのボタンをはずしておくというような少々崩れた服装まで真似をして「ニャット・コン」(日本人の弟子)スタイルを生徒たちは誇りにしていました。地域の住民は日本人教官を「オン・ニャット」(日本さん)と呼んで歓迎しました。
昭和21年(1946年)11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する銃撃事件をきっかけにフランスとの戦いの火蓋が切って落とされました。元日本兵は戦闘指揮、作戦立案への助言に大きな役割を果たしていきます。中原光信少尉はハノイ防衛軍がフランス軍の包囲作戦で窮地に陥ったとき、夜間の渡河脱出をボー・グエン・ザップ総司令官に提案して成功させました。同年のナムディン攻囲戦では、連隊司令部に野砲直射を進言し、みずからその作戦を指揮してフランス軍を苦しめています。こうした前線の直接戦闘だけでなく、武器・弾薬製造、橋梁架設、沈船引き揚げなどの後方支援でも工兵、砲兵が活躍したほか、元第21師団、高澤民也軍医中尉のように医療面でも大変な努力と活躍が認められています。各種の勲章および徽章を授与された日本人は30名を上回っています。気象観測で諸部隊の作戦を助けた槌谷勇は10種類の勲章、徽章、表彰状を授与されています。
昭和28年(1953年)11月、ディエンビエンフーの戦いにベトナム民主共和国軍が勝利し、第一次インドシナ戦争はベトナムの勝利が確定しました。この頃にはもう旧日本軍人の手助けは必要がないほどベトナム軍は充実してきました。
上級幹部グエン・テ・グエン大佐「飢えたときの(米飯の)一口は、満腹時の(食べ物の)一包みに勝る。我々の最も苦しかった時代の彼ら(日本人)の貢献は何よりも貴い」。
ベトミンに参加した旧日本兵は次々日本に帰国しましたが、祖国日本は彼らを冷たく迎えました。「共産主義国に奉仕した者たち」だからでした。 -
北部ラオス!
ツッチー 様
大変ご無沙汰しております
7年ぶりでしょうか、アルデバランです。
北部ラオスを巡られているんですね、今はどのあたりでしょうか。
ルアンナムターやさらに足を伸ばしてムアンシンまで…
とても懐かしく思わずポチッしました。
特にムアンシンは時間が止まったようなのんびりした町と周辺の山麓に点在する村々が魅力的なエリアですね。
泊まられた宿、ちょっと歩く不便な場所でしたが、自転車をレンタルした所かも…
私も来年の1月にタイのチェンライから入ってボーデンから中国雲南省へとぬけるルートで、ポン友を案内しようと計画したのですが事情により中止になってしまいました。
ムアンシンは観光客はほとんどおらず、また中国国境に接しているためか中国経済の影響が強く中国の商人が町を闊歩している様子が印象的でしたが、今はどうでしょう…
ナムター郊外のレンテン族のナムディー村の滝、バイクの駐車料金が2000kipと言われケチって村の中だけ散策だけしました(^^;
Re: 北部ラオス!
アルベバランさん、こちらこそご無沙汰です~♪
変わらぬ魅力的な旅のご様子、時々拝見しています。
今、明日ポンサーリーへ向かうため、ウドムサイに着きました。
ムアンシンの宿はプーイウⅡ バンガロウズです。
フランス人など、外人は殆どここでした。いい宿ですね。
ちなみに現在の宿代は80,000kip(1,060円)です。
※道路沿いの昔の安宿2軒は廃業してました。
現在のムアンシンは「中国商人」は殆ど見なかったですが、中国の大型トラックやダンプカーがひっきりなしに通っています。
ボーテンから鉄道建設の真っ最中、ムアンシン手前ではダムも造っています。
私は、久し振りの東南アジアで、先ずは長閑さを求めてラオスにやって来ました♪
年明け2月にはタナ・トラジャへ行く予定です♪
今後ともよろしくお願いいたします♪ ツッチー2018年11月25日15時36分 返信する -
こんにちは
ラオス北部、なんとものどかで良さそうですね(^^♪
RE: こんにちは
> ラオス北部、なんとものどかで良さそうですね(^^♪
>
そう、久し振りにラオスの長閑さを求めてやって来ました。
どこにもあの中国人が居なくて静か! ラオス人は元々静か。
町中でもクラクションの音はあまり無くて日本並み。
ラオスは世界で一番静かな国かも。
ラオスじゃ、どこでも無ちゃんこいるニワトリが実は大変。
夜半、シーンとしてる時に大きな声で鳴く、と何羽かが続く。
夜明け前の白み出した頃には、町中のニワトリの大合唱。
少し離れた所ならまだマシも、泊まった竹製ロッジの奥の壁の後ろがニワトリ小屋だったことが一度。たまらず翌日に部屋を変えてもらった(^_^;)
って、のどかに過ごしています(^-^)/
ツッチー、 ラオス・ムアンシンにて2018年11月21日14時55分 返信する