千姫(せんひめ)の化粧料10万石で建てられた姫路城西の丸の化粧櫓
- 4.0
- 旅行時期:2009/11(約16年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
姫路 クチコミ:9件
西の丸では天守間を結ぶ渡櫓(わたりやぐら)、侍女達の部屋があった長局(ながつぼね)と今回特別公開していた化粧櫓(けしょうやぐら)が築城当時の姿をとどめている。
化粧櫓は桑名藩主であった本多忠政(ほんだ ただまさ1575−1631年)が関ヶ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げ1617年に姫路城主15万石を拝領した際、千姫(せんひめ1597−1666年)の化粧料10万石で1618年に建てられたものといわれている。
千姫は西の丸内に設けられた中書丸(ちゅうしょまる)別名天樹院丸(てんじゅいんまる)と三の丸脇の戸襖(とぶすま) に武蔵野をしのばせる薄(すすき)を描いた「武蔵野御殿」を居住の屋敷にしていたが現在は建物は残っておらず庭園になっている。
千姫は、2代将軍徳川 秀忠(とくがわ ひでただ1579−1632年)と淀殿の妹・お江の方の長女で7歳で豊臣秀頼(とよとみひでより1592−1615年)と結婚し夫婦仲は良かったそうだ。だが1615年の大坂夏の陣では、秀頼もおばの淀殿も徳川の攻撃で自刃に追い込まれ祖父・徳川家康の命で落城する大坂城から千姫だけが救出されたとされる。
千姫は秀頼を失った翌年1616年には本多忠政の嫡男・本多忠刻(ほんだ ただとき1596−1626年)と結婚させられている。
夫・忠刻との間に長女・勝姫、長男・幸千代が生まれるが、幸千代が3歳で没し1626年には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が亡くなり本多家を娘・勝姫と共に出て出家して天樹院と号した。千姫(天樹院)は江戸城大奥で権勢を振るったと伝えられるが、戦乱の時代に翻弄され続けた被害者のひとりだったのだろう。
姫路城公式ホームページ---http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle.html
日本の旅 関西を歩く 兵庫、姫路城西の丸周辺の光景:http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10406290/
(写真は西の丸の化粧櫓)
- 施設の満足度
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4.0
- アクセス:
- 3.0
- JR姫路駅から徒歩15分
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2010/11/10
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