さすらいおじさんさんのクチコミ(104ページ)全3,789件
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投稿日 2012年03月08日
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投稿日 2012年03月08日
総合評価:3.5
加太は古代から潟見の浦(かたみのうら=加太の浦)と呼ばれ、万葉集にも「藻刈舟 沖こぎ来らし妹が島(いもがしま=友が島)潟見の浦に鶴駆ける見ゆ」と詠まれた和歌山市郊外の紀淡海峡に面して海岸線が続く景勝地だ。だが現在は景勝地としてよりも鯛の一本釣りなど関西で屈指の漁場として知られ、加太港にはたくさんの漁船が停泊し釣り好きの人たちのためのホテルや民宿が並んでいる。
加太港の沖合に見える友ヶ島(ともがしま)は、紀淡海峡(友ヶ島水道)に浮かぶ無人島群で地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の4島から成っている。南海電鉄和歌山市駅から加太線終点加太駅徒歩約20分- 旅行時期
- 2010年03月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年03月08日
総合評価:3.5
和歌浦には江戸幕府の御三家・紀州徳川家の城下町として賑わった1620年頃に紀州の日光と呼ばれている紀州東照宮を遷宮している。
初代紀州藩主の徳川頼宣(とくがわ よりのぶ1602−1671年)が実父で東照大権現に祀られた徳川家康(とくがわ いえやす1543−1616年)を勧請したもので、急勾配の108段の石段の上に楼門がある。南海和歌山市駅からバスで 権現前、バス停から徒歩で20分、急な108段の石段「侍坂」を登る
東照宮の近くには菅原道真(すがわら の みちざね845−903年)が901年に左遷されたとき、風避けのために和歌浦に寄港した縁で和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)が美しい「御手洗池公園」に面した和歌浦天神山(標高約93m)に設けられている。- 旅行時期
- 2010年03月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年03月07日
総合評価:3.5
玉津島神社の東隣にある県内最古の三断橋を渡ると、小さな島・妹背山(いもせやま)があり中腹には徳川頼宣(とくがわ よりのぶ1602−1671年)が1653年に母の養珠院((ようじゅいん1580−1653年=お万の方)の菩提を弔うために建てた総ケヤキ造りの海禅院(かいぜんいん)多宝塔、水辺には紀三井寺の拝殿として建てられたという観海閣(かんかいかく)がある。
妹背山は、周囲250mの小島だがかつては相模の江ノ島、近江の竹生島、安芸の厳島と並ぶ水辺の名勝だったそうだ。
三断橋の欄干、板石、橋桁、橋脚などは白居易(はく きょい772−846年=白楽天)らの詩に詠われ、艶麗な美女や神仙にみたてられてきた中国有数の景勝地・西湖を模したものといわれている。
古代の人たちがいかに和歌浦の美しさにあこがれ、誇りにしてきたかが良くわかる。観海閣(かんかいかく)へは JR和歌山駅から和歌山バス新和歌浦行きで25分、バス停玉津島神社前下車徒歩3分。- 旅行時期
- 2010年03月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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京阪樟葉駅から徒歩約10分の有形文化財・石製露盤がある安養寺
投稿日 2012年03月07日
総合評価:4.0
枚方市南楠葉の安養寺には1970年に府の有形文化財に指定された石製露盤がある。露盤は塔の九輪の最下部にある方形の台で、雨仕舞(劣化防止)の役割を果たす建築部材。屋根頂部に置くので上に宝珠を載せ装飾も兼ねている。露盤は通常青銅・鉄・瓦製で石製の露盤は極めて珍しいとのこと。安養寺の露盤は凝灰岩製で風化して四角の一角が欠けているが原型をとどめている。底面は一辺が110センチメートルの正方形で、高さは38.5センチメートル、中央のほぞ穴は直径38.5センチメートル、深さ11.7センチメートル、穴の周囲には八葉複蓮華文が刻まれている。大阪府枚方市南楠葉2丁目38−17 TEL: 072-857-6244 京阪樟葉駅から徒歩約10分。
- 旅行時期
- 2012年01月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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JR長尾駅よりバス「穂谷外大行」で行ける大塩平八郎の乱で挙兵した「尊延寺村」
投稿日 2012年03月07日
総合評価:3.5
枚方市穂谷周辺は歴史遺産も多く、尊延寺は731年に興福寺の僧・宣教大師(せんぎょうだいし)の勅願によって建立され、全盛期は12の僧彷を備える天平伽藍様式の荘大な寺院だったそうだ。現在は不動堂(本堂兼庫裏)と旧池之坊の諸党(開山堂、地蔵堂、大師堂)が残っている。
三之宮神社はスサノヲ大神・ミケツ大神・オオクニヌシ大神・アマツカミ・住吉大神・仁徳天皇を祭神とする神社で尊延寺とは古くから密接な関係があったそうだ。
341年に応神天皇の子で仁徳天皇の異母兄弟とされている額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が創建したと伝えられている。
戦国時代には衰退していたそうだが、豊臣秀頼が大阪城の鬼門除けとして一の宮神社(片埜神社)・二の宮神社とともに三の宮神社として1599年から1615年の間に修復させている。
穂谷地区は1837年に飢饉に苦しむ農民を救うために乱を起こした陽朋学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう1793−1837年)を信奉する人たちがいた。大塩平八郎の私塾・洗心洞(せんしんどう)の門下生ら村人総勢60人が「尊延寺村」と書かれた幟をたてて挙兵している。大塩平八郎の乱はすぐに鎮圧され成功しなかったが、民衆の苦難と幕府への不満が顕在化した事件で穂谷の人たちも大塩平八郎の乱に加わっていたことは興味深い。rJR長尾駅よりバス「保谷外大行」穂谷外大下車徒歩5分- 旅行時期
- 2012年02月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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枚方公園駅から徒歩約5分の 枚方宿・鍵屋資料館と淀川河川公園
投稿日 2012年03月06日
総合評価:3.5
淀川河川公園(よどがわかせんこうえん)は、淀川の河川敷にある公園で 枚方地区には淀川スタジアム(野球場・サッカー場兼用)、淀川アクアシアター、多自然池などがあり京阪枚方市駅下車徒歩10分、京阪枚方公園駅下車徒歩5分の場所にある市民の憩いの場所。
淀川河川公園に面して枚方宿・鍵屋資料館がある。
河内国枚方は近世二大都市、京と大阪の中間に位置したことから、徳川家康によって東海道屈指の宿場町として整備され、紀州徳川家は将軍家の権威を示すために参勤交代時に枚方に宿泊することを常とするなど繁栄したがその代表格が鍵屋。天正年間(1573−1593年)から1997年まで枚方屈指の料亭旅館として知られていたが廃業し現在は市立資料館として公開されている。- 旅行時期
- 2011年12月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年03月06日
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枚方市駅北口から京阪バスで行ける牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)
投稿日 2012年03月06日
総合評価:4.0
牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん)は、大阪府枚方市の前方後円墳で「小倉車塚古墳(おぐらくるまづかこふん)」ともいわれる4世紀後半に作られたものと考えられており、淀川水運を仕切る北河内地域の首長の墓と見られている。1922年に国の史跡に指定されている。
淀川の北岸域には大小500余基の一大古墳群があり大阪府下では古市・百舌鳥古墳群に次ぐもの。枚方市では万年山古墳から三角縁神獣鏡が発見されており、淀川水運を握る豪族が大和朝廷と結びつきおおいに栄えていた地域であると考えられている。
牧野車塚古墳の近くにある枚方市立中央図書館は北河内地区最大の図書館で蔵書冊数は約50万冊。
建物は1994年から関西外国語大学片鉾学舎図書館棟として活用されていたが片鉾学舎が中宮学舎へ移転したことに伴い、2002年に枚方市へ寄贈されたもの。 枚方市駅北口から京阪バス「北片鉾」行き(12系統)、または「小倉町」行き(13系統)に乗車し、「片鉾・中央図書館」バス停下車すぐ。- 旅行時期
- 2011年12月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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JR学研都市線「藤阪」から700m山田池公園(やまだいけこうえん)
投稿日 2012年03月05日
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JR大和路線 加茂駅から徒歩約30分の恭仁京(くにきょう、くにのみや)
投稿日 2012年03月05日
総合評価:3.5
恭仁京(くにきょう、くにのみや)は、奈良時代の一時期都が置かれた山背国相楽郡の地で現在の京都府木津川市加茂町にある。JR大和路線 加茂駅から徒歩約30分。
1957年に「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定され2007年に史跡指定範囲が拡大され指定名称も「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。藤原広嗣の乱の後740年の聖武天皇の勅命により平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として左大臣・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年に左京右京が定められ大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され大宮垣が築かれ宮殿が造られた。条坊地割りが行われ木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年の末にはこの京の造営は中止され聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年に難波京に遷都、745年に、都は平城京に戻された。748年には恭仁宮大極殿が山城国分寺に施入された。
宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750m、東西560mの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。
遷都後、宮城跡地は山城国分寺として再利用されることになった。大極殿は金堂に転用されたという。
現在は広大な平原となっており、金堂(大極殿)礎石と七重塔礎石が地表にのこされている。
笠置町(かさぎちょう)は、京都府相楽郡にある町で週末には笠置橋下西の木津川河川敷で水遊びのレジャーに訪れる観光客で賑わう。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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太平記元弘の乱笠置合戦を再現したという人形がある笠置駅(かさぎえき)
投稿日 2012年03月05日
総合評価:3.5
笠置山(かさぎやま)は、笠置町にある標高290mの山で府立笠置山自然公園に指定されている。
1331年に鎌倉幕府の倒幕計画が発覚した後醍醐天皇は三種の神器を保持して笠置山にて挙兵、篭城して元弘の乱の発端となった。笠置山の信仰の対象としての歴史は弥生時代にまで遡るとされ、山中にはかつて修験道の行場であり1300年の歴史をもつ笠置寺がある。 桜、紅葉の名所としても有名。
笠置寺(かさぎでら)は、真言宗智山派の仏教寺院で開基は大友皇子または天武天皇と伝えられている。南都(奈良)の東大寺や興福寺などと関係が深く、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)などの著名な僧が住したことで知られる。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる。
元弘元年(1331年)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り、挙兵した(元弘の乱)。笠置山は1331年9月に落城、後醍醐は逃亡するが捕えられ隠岐国へ流罪になった。この戦乱時の兵火で笠置寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離してしまった。
笠置駅(かさぎえき)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)関西本線の駅で駅出入口には駅名看板と 太平記元弘の乱笠置合戦を再現したという人形がある。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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JR「上狛(かみこま)駅」から西へ約400mの上狛環濠(かみこまかんごう)
投稿日 2012年03月04日
総合評価:3.5
JR「上狛(かみこま)駅」から西へ約400m、国道24号「上狛(かみこま)」信号を北へと県道70号に入ると上狛環濠(かみこまかんごう)がある。
上狛(かみこま)は渡来人狛氏の居住地で居住地を含む東西430m、南北420mの環濠集落を城としたもので、狛城といわれ文明年間(1460−87年)狛日向守の築城とされている。
狛氏は興福寺領狛野荘の下司・公文職として大きな勢力を持ち、北の椿井氏と対立した国人(土着武士)で、応仁の乱(1467−87年)では狛山城守秀盛は東軍に属し畠山政長・義就の対抗では狛氏は政長派、椿井氏は義就派で大和へも出陣したが文明15年(1483年)狛山城守は義就派の夜襲を受けて没落し椿井氏の勢力下となった。
戦国の混乱期、上狛の地では有名な国人一揆を経て織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代へと変遷し安定した時代になっていった。
街を歩くと、環濠集落跡の堀が南東から南西を通り北西へ抜ける部分が残っている。
かっては堀幅がおよそ3間(約5.4m)もあったそうだが、今は幅が狭くなっている。環濠集落は環濠で囲まれた中に田畑と村があり堀の内側に土塁を築き、竹薮や雑木林を連ねていたそうだ。人々は郷とか垣内と呼ばれる単位で共同生活を営んでいたが、角垣内・城垣内・御堂垣内・磯垣内・殿前・小仲小路・野目代という七つの郷名が通称名となって残っている。
町中は現在も江戸時代の町割そのままに、人がやっと通れる道幅の小路で構成されている。
家屋も長屋門を設けた豪農の屋敷風の民家が目立ち、かっての繁栄の跡が偲ばれる。上狛環濠(かみこまかんごう)も数百年間街並みを残している歴史遺産だ。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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JR 奈良線「棚倉」より徒歩15分の京都府木津川市山城町・蟹満寺(かにまんじ)
投稿日 2012年03月04日
総合評価:3.5
蟹満寺(かにまんじ)は、京都府木津川市山城町にある真言宗智山派の寺院で国宝の釈迦如来が本尊となっている。JR 奈良線「棚倉」より徒歩15分、 「玉水」より徒歩15分
蟹満寺の創建年代は周辺の発掘調査から飛鳥時代と推定され、江戸時代の1711年に智積院の僧亮範が入寺し再興されている。今昔物語集等に記載がある「蟹の恩返し」の伝承で有名。
「蟹の恩返し」の伝承は山城国(現山城町綺田)の観音様を信じる心優しい農家の父娘が蟹を助けたことで蟹に助けられた話。
娘は村人がとる蟹を哀れみ逃がしてやった。一方父は田で蛇にのまれそうな蛙を助けるのに「娘を嫁にやるから蛙を助けて欲しい」とうっかり言ってしまった。さっそく約束を喜んだ男性の姿をした蛇が娘を貰いに来たが、「三日待ってくれ」と懇願。三日目、板を打ち付けた部屋の中で父娘は懸命に観音経普門品を唱え祈っているとやってきた蛇は約束が違うと怒りだし、家の周囲で暴れたが突然音がやんだ。夜が明けて見てみると、家の周囲には蟹の鋏で切り裂かれた蛇と蟹の死体が転がっていた。父娘は死んだ蟹と蛇の屍を葬り塚を作ってその上に観音堂を建てたのが、蟹満寺といわれている。現在、毎年4月に蟹供養がおこなわれている。 いい話だが蛇よりも蛇に嘘をついた父親が悪いと思うし、蛇もいっしょに供養すればいいのにと思った。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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JR玉水駅より徒歩で約25分の京都府井手町(いでちょう)小野小町塚
投稿日 2012年03月04日
総合評価:3.5
井手には小野小町塚がある。土壇上に四角の石が四個積み上げられ小町塚と称している。小町の歌に、「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」なる句があり、「冷泉家記」に「小町69歳井手寺において死す」、「百人一首抄」にも「小野小町のおはりける所は山城の井手の里なりとなん」とある。
小野小町終焉の地は京都市内(小町寺など)、福知山市、秋田県、山口県など諸説あるが山城の井手で亡くなった説の信憑性は高いものと考えられている。
小野小町は平安時代前期の歌人・六歌仙の1人で絶世の美女であったとされるが生涯は謎に包まれ、仁明天皇(在位833〜850)の時代に宮廷に使えていたこと以外は不明だが晩年は落ちぶれて寂しい最期だったとされる。いずれにしても神秘的な小町が現代まで美人の代名詞にされ生き続け、歴史に名を残したことは幸せなことだろう。 京奈和自動車道田辺西ICより東に約6.7?、 JR玉水駅より徒歩で約25分- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年03月03日
総合評価:3.5
城陽市の久世神社は旧久世村の産土神で、祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。華霊天神若王社と称したが明治初年、久世神社に改めている。JR奈良線 城陽駅下車 北へ約600m、
近鉄京都線 久津川駅下車 南東へ約800m
伝えによると祭神の日本武尊は死後西に白鷺となって飛び去り、その鷺が留まった地を鷺坂山と言い、この地にまつったのが始まりとされる。万葉集で詠われている白鳥の鷺坂山はこの地とのこと。
久世神社境内前には万葉歌碑が建っている。
山城(やましろ)の 久世(くせ)の鷺坂(さぎさか) 神代より 春は張(は)りつつ 秋は散りけり と刻まれている。
山背の久世の鷺坂は、神代の昔から、春は草木が芽を吹き、秋は黄葉(もみじ)して散るのである、の意。
この地鷺坂(さぎさか)には柿本人麻呂(かきのもと の ひとまろ、660頃−720年頃)もたびたび訪問しており柿本人麻呂の歌とされている。
現在の本殿は室町末期の建立で一間社流造、桧皮葺き。小建築であるが木割は比較的大きい。
「遺跡の宝庫」と呼ばれる城陽市では、約150基の古墳が確認されている。
南北に流れる木津川は大和に通じており、城陽の古墳群は大和の権力とつながりを持った有力な支配者のものと考えられている。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年03月03日
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JR学研都市線同志社前駅から徒歩約3分、同志社大学構内の筒城宮(つつきのみや)址の碑
投稿日 2012年03月03日
総合評価:3.5
同志社大学構内には筒城宮(つつきのみや)址の碑がある。JR学研都市線同志社前駅出口を出て横断歩道を渡り、正門まで坂道を約3分。
日本書紀によると、継体天皇は河内の507年樟葉(くずは)宮で即位し、山背の筒城宮(つつきのみや)に遷り518年に弟国(おとくに)の宮に遷ると記述があり筒城宮の地は仁徳天皇の皇后・磐之媛の故郷とも伝えられている。 筒城宮址の位置は不明で諸説があるが1960年に筒城宮址会が筒城宮址の碑を現在の同志社国際高校の敷地内に建立し、あわせて継体天皇皇居故址の碑も隣接地点に移設され1986年に同志社大学構内の不動尊遺址碑の脇に移設されている。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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近鉄京都線三山木駅から奈良交通バスで7分の京田辺市大御堂観音寺(おおみどうかんのんじ)
投稿日 2012年03月02日
総合評価:3.5
大御堂観音寺(おおみどうかんのんじ)は、普賢寺大御堂(ふげんじおおみどう)とも呼ばれる 京都府京田辺市普賢寺下にある真言宗智山派の寺院。近鉄京都線三山木駅から奈良交通バスで7分。
奈良時代、法相宗の僧義淵(ぎえん・ぎいん、643−728年)により創建された観心山親山寺が始まりと伝えられ、天平年間(729−748年)に東大寺創建の中心人物・良弁(ろうべん、689−774年)が中興したといわれている。「興福寺官務」に記載のある筒城寺が現在の普賢寺大御堂を中心とする観音寺で普賢寺址に関係するとされ、筒城宮の所在地を現在の普賢寺大御堂の近接地とする説もある。
観音寺も時代の荒波に翻弄された寺のようだが筒城宮(つつきのみや)跡となれば歴史上貴重な遺産となる。現在は田園の間に静かにたたずむ庭園が美しい寺院だ。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年03月02日
総合評価:3.5
一休寺(いっきゅうじ)と親しまれている酬恩庵(しゅうおんあん)は京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院で枯山水の石庭、一休和尚の木像、「一休寺納豆」などで知られる。JR「京田辺」駅から1km、、近鉄「新田辺」駅から1.5km、京阪バス「一休寺道」下車徒歩5分。
兵火で衰退していた寺を1456年に一休宗純(いっきゅうそうじゅん、1394−1481年)が草庵を結んで中興し宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号したとされる。一休は1481年に88歳で亡くなるまで一休寺で過ごしたそうで落ち着ける場所だったのだろう。
室町時代の能役者で能作者の金春禅竹(こんぱる ぜんちく、1405−1470年頃)が総門のまえで一休のために能を演じたとも言われている。久しぶりに参拝したがいつもは扉に閉ざされている一休宗純の墓所がたまたま修復中だったので墓所の全貌を見ることができた。- 旅行時期
- 2011年10月
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5























