さすらいおじさんさんのクチコミ(90ページ)全3,789件
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投稿日 2012年11月28日
総合評価:4.0
天神泉源は京都の北野天満宮を分けて祭られた有馬天神社の境内にあり有馬温泉の数ある泉源の中でも代表格で訪れる人も多い。
天神泉源は地下185mから汲み上げられ、100度近い金泉がいつも勢いよく湯煙を上げている。泉質は含鉄強食塩泉で、神経痛、リウマチ、胃腸病に効能があるとされ、地中では無色透明で空気にふれて酸化すると赤さび色に変わるとのこと。
兵庫県神戸市北区有馬町、入場:無料、境内自由に見学可、神戸電鉄有馬温泉駅徒歩8分
駐車場なし- 旅行時期
- 2009年08月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年11月28日
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投稿日 2012年11月27日
総合評価:4.0
金の湯(きんのゆ)は、六甲山北麓の有馬温泉郷にある神戸市営の温泉入浴施設で古くからの公衆浴場「有馬温泉会館」を改築し、2002年に開館している。
浴用の温泉は有明泉源から引いている濃い金泉(きんせん)で、強塩泉のため鉄分が酸化して赤茶色に濁っている。玄関横のスペースには無料で利用できる足湯と飲泉場があり、太閤泉源(ナトリウム塩化物泉)から引いており姉妹施設には「銀の湯」がある。
兵庫県神戸市北区有馬町833番地 、神戸電鉄 有馬温泉駅 徒歩5分 、六甲有馬ロープウェー 有馬駅 徒歩10分 、阪急バス「有馬温泉」下車 徒歩1分- 旅行時期
- 2009年08月
- アクセス:
- 3.5
- 泉質:
- 4.0
- 雰囲気:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年11月27日
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蒸し風呂、岩風呂、庭園の遺構を展示している神戸市立太閤の湯殿館
投稿日 2012年11月27日
総合評価:4.0
神戸市立太閤の湯殿館(こうべしりつたいこうのゆどのかん)は、六甲山北麓の有馬温泉郷の極楽寺境内にある博物館施設で阪神・淡路大震災で倒壊した極楽寺庫裏の下から発見された安土桃山時代の遺跡、豊臣秀吉の「湯山御殿(ゆのやまごてん)」の「湯ぶね庭園」の保存と公開を目的に1999年開設された。館内には蒸し風呂、岩風呂、庭園の遺構を展示してあるほか、桃山時代をイメージした展示室には茶器や瓦などの出土品、秀吉と有馬温泉の歴史文化に関する資料が展示されている。
兵庫県神戸市北区有馬町1642、神戸電鉄 有馬温泉駅 徒歩8分、六甲有馬ロープウェー 有馬駅 徒歩10分- 旅行時期
- 2009年08月
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 3.5
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投稿日 2012年11月27日
総合評価:3.5
極楽寺(ごくらくじ)は兵庫県神戸市北区の有馬温泉郷にある浄土宗の寺院で院号は伝法院。
593年、聖徳太子の開基と伝えられ中世より念仏の道場として栄えたが数度の焼失を経て現在地に至るが最後の焼失は1773年で、現在の堂宇は1782年に再建されたもの。庫裏は1995年の阪神淡路大震災で半壊した際基礎の下から豊臣秀吉が築造した「湯山御殿」の遺構の一部が発見され遺構は茶器や瓦などの数多くの出土品とともに神戸市文化財史跡の指定(1997年)を受け、遺構の上に建設された「神戸市立太閤の湯殿館」で1999年より一般公開されている。
兵庫県神戸市北区有馬町1642、神戸電鉄有馬線 有馬温泉駅 徒歩10分 、六甲有馬ロープウェー 有馬温泉駅 徒歩10分- 旅行時期
- 2009年08月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年11月27日
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投稿日 2012年11月26日
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投稿日 2012年11月26日
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投稿日 2012年11月26日
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投稿日 2012年11月26日
総合評価:4.0
神戸・和田岬周辺には兵庫七福神や清盛七弁天など社寺、歴史文化遺産が多い。
JR、地下鉄の和田岬駅近くには和田神社(わだじんじゃ)と三石神社(みついしじんじゃ)がある。
西宮神社に祀られている通称「えべっさん」・蛭子大神(えびすおおかみ)は自凝島(おのころじまー淡路島などとの説ある)から最初に辿り着いたのが和田岬だといわれている。
1173年、平清盛(たいら の きよもり1118−1181年)は日宋貿易の拠点とするために、奈良時代に行基(ぎょうき668−749年)が開いたといわれる大輪田泊(おおわだのとまり)の改修整備を行った際、工事の無事を祈願して安芸国・宮島より市杵嶋姫大神(いちきしまひめのおおかみ=弁財天)を勧請し「清盛七弁天」と呼ばれる和田神社・氷室神社・真光寺・済鱗寺・恵林寺・兵庫厳島神社・花隈厳島神社の7か所の弁天社を建てたと伝えられている。
1658年、武庫郡小松村にあった岡田宮(おかだぐう)の神輿が和田岬の蛭子の森に漂着した折、領主・尼崎藩藩主の青山大膳亮幸利(あおやまだいぜんのすけよしとし)は蛭子大神と市杵嶋姫大神を合祀して和田神社は和田の明神と呼ばれるようになった。
1764年には朝鮮通信使が寄港し、和田神社で海上安全祈願を行い1766年、1778年には俳人・与謝蕪村(よさ ぶそん1716−1784年)が訪れている。
1863年には14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち1846−1866年)が勝海舟(かつかいしゅう1823−1899年)らを従えて来訪、この年に後に15代将軍になった徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ1837−1913年)も訪れている。- 旅行時期
- 2009年08月
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2012年11月26日
総合評価:4.0
六甲山牧場は、神戸市街地の背山六甲山上にひろがる高原牧場で、「人と動物と自然とのふれあいの場」をキャッチフレーズに北欧風のマンサード型の牛舎や赤煉瓦のサイロ、乳牛や羊の放牧などアルプスの雰囲気をアピールしている。
電話078−891−0280 FAX078−891−0592
六甲ケーブル山上駅、摩耶ビューライン星の駅よりスカイシャトルバスほか、4月〜11月の土日祝日と夏休み期間は阪急六甲駅より阪急直行バスあり。- 旅行時期
- 2009年08月
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- アトラクションの充実度:
- 3.0
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投稿日 2012年11月25日
総合評価:4.0
新長田駅前の若松公園には阪神大震災復興のシンボルとして制作された全長18m、重量約50トンの「鉄人28号」実物大モニュメントが設置されている。
鉄人28号モニュメントは、原作者の漫画家・横山光輝(よこやま みつてる1934−2004年)氏が神戸市出身であることから、地元商店主らでつくるNPO法人「KOBE鉄人プロジェクト」が震災復興のシンボルとして個人、企業からの寄付・協賛金や神戸市からの補助金などを集め、総工費1億3,500万円で建設したもの。- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年11月25日
総合評価:4.0
勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、南北朝時代から江戸時代初期の城で1339年、南朝方に対抗するため北朝方の細川頼春(ほそかわ よりはる1304−1352年)が築いた城と言われているが、1457年に山城国守護・畠山義就(はたけやま よしなり1437−1491年)が築城したとの説もあり真実は不明だ。
勝竜寺城は細川忠興(ほそかわ ただおき1563−1646年)・細川ガラシャ(1563−1646年)ゆかりの城として有名だ。1578年、細川 幽斎こと藤孝(ほそかわ ゆうさい・ふじたか1534−1610年)の息子・細川忠興と明智光秀(あけち みつひで1528−1582年)の娘・お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で新婚時代を過ごしたとされている。- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年11月25日
総合評価:4.0
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)は、菅原道真(すがわら の みちざね845−903年)が大宰府に左遷となった際、長岡京に立ち寄って「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだことから創立されたとされている。長岡京は菅原道真が在原業平(ありわら の なりひら825−880年)らと詩歌管弦を楽しんだ地でもあった。社殿(本殿、祝詞舎、透塀)は1941年に京都の平安神宮の社殿を移築したものとのことだ。1638年には八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう1579−1629年)によって「八条が池」が築造され池の中堤両側に植えられた「きりしまつつじ」が有名だが紅葉も美しい神社だ。
- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年11月25日
総合評価:4.0
善峯寺(よしみねでら)は、西国三十三箇所第20番札所で桜や紅葉の名所で1029年、源算(げんさん983−1099年).が創建したとされる。
11月には善峯寺にはもみじの名所でたくさんの人たちが訪れていた。11月末は善峯寺の紅葉はうやや見ごろを過ぎていたが参道の紅葉は見ごろだった。- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年11月25日
総合評価:4.0
宝積寺(ほうしゃくじ)は大山崎町の天王山中腹にある真言宗智山派の仏教寺院で724年、聖武天皇(しょうむ てんのう701−756年)の勅命を受けた行基(ぎょうき668−749年)による開基と伝えられている。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てたと伝えられるが725年、淀川に「山崎橋」(山崎−橋本間)を架け宝積寺と川向こうを結んだといわれる。豊臣秀吉(とよとみ ひでよし1536−1598年)が座して天下統一を考えたという「出世石」も残されている。1582年、天王山が豊臣秀吉と明智光秀(あけち みつひで1528−1582年)が戦った山崎の合戦の舞台となった際、宝積寺には秀吉の本陣が置かれ秀吉が勝利しその後天下を取った。秀吉は戦勝の礼に一夜で「三重の塔」を建立したと伝えられる。
- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2012年11月24日
総合評価:3.5
佃煮で有名な東京の佃島(つくだじま)は1590年に徳川家康(とくがわいえやす1542−1616年)が豊臣秀吉(1537−1598年)の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封され関東下降の折、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民34名を呼び寄せたことにさかのぼる歴史を持っている。漁民たちは1644年に江戸に移住、埋め立て地を故郷にちなんで佃島と名づけた。
摂津国の佃村民と家康の出会いは1586年、住吉大社(大阪市住吉区)参拝の後、多田神社(兵庫県川西市)へ向かう家康一行の神崎川船渡しを佃村、大和田村漁民が協力したことが最初だと言われる。その際家康は「漁業も大事だが、人はまず田で働け」と言ったことから、にんべんに田をつけた「佃」に村の名前をあらためたという言い伝えがあるそうだ。
1586年は豊臣秀吉が臣従を拒む家康に妹の朝日姫を正室として差し出し、さらに生母・大政所まで人質として岡崎城に差し出し、ようやく家康を大坂城に出仕させ無理やり臣従を誓わせた年で大坂を歩いたしたたかな家康は秀吉の支配下であったはずの漁民まで懐柔したようだ。
この縁で佃、大和田漁民は家康を信奉し、1590年に34名が江戸に移住して海・川での漁業権を与えられ江戸城に魚を納めた。秀吉の死後、家康が秀頼(1593−1615年)を攻め豊臣家を滅亡に追い込んだ大坂の役(おおざかのえき1614−1615年の大坂冬の陣と大坂夏の陣)では佃漁民は徳川方に味方し、武器運搬、船や食料の調達支援も行っている。大阪市西淀川区佃の田蓑神社の境内には徳川家康をまつった東照宮(とうしょうぐう)があり、「佃漁民ゆかりの地」の記念碑が建っており、家康と佃地域の深いむすびつきを伝えている。
また大阪と東京の佃小学校は姉妹校として、1965年から相互に訪問しあう交歓会を開催している。東京と大阪の不思議な縁が現在も小学校の交流で生き続けているのは嬉しいことだ。
大阪市西淀川区佃1-18-14
田蓑神社--http://kamnavi.jp/en/settu/tamino.htm
阪神本線千船駅 北800m- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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源義経が潜んだとされている大物主神社(おおものぬしじんじゃ)
投稿日 2012年11月24日
総合評価:4.0
阪神大物駅から南に200m行くと大物主神社(おおものぬしじんじゃ)がある。
神崎川と武庫川に挟まれた三角州尼崎は古来より海運の要衝だったが風が強く難所としても知られていた。『平家物語』などに源義経(みなもとのよしつね1159−1189年)、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい 生年不詳−1189年)ら主従が西国に落ち延びようと大物浦から船出したが大風で押し戻されたとある。大物主大神は難所・大物浦の守護神として祀られていた。
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした義経は兄・源頼朝(みなもと の よりとも1147−1199年)と対立し、朝敵として追われることになる。
義経は九州行きを図り摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻され大物主神社に潜んだとされている。義経の九州行きは頓挫しその後吉野、京都、藤原秀衡(ふじわら の ひでひら1122−1187年)を頼っての奥州行きと逃避行が続き1189年に平泉で戦死した。
大物主神社周辺は義経の逃避行の初期段階だったのだが、もし義経の九州行きが成功していれば歴史が変わっていたかも知れない。
大物主神社の境内には義経主従が身を寄せたとする「義経弁慶隠家跡」碑、謡曲「船弁慶」が誕生する舞台になったことを紹介する謡曲史蹟保存会の駒札、尼崎の伝統産業「汁醤油発祥の地」の記念碑などがある。
尼崎市大物町2丁目7−6 阪神大物駅南出口より50メートル
大物主神社---http://www.ama-jinja.org/oomononusi.html- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2012年11月24日
総合評価:3.5
残念さんは1865年頃にひろがった信仰で、幕末期非業の死をとげた人への同情が民衆の反幕思想に拍車をかけたといわれている。大和天誅組の変で憤死した吉村寅太郎(よしむら とらたろう1837−1863年)の墓に1864年頃から参詣する人が増えている時期に禁門の変で京都から敗走してきた長州藩の山本文之助が尼崎北の口門で逮捕され、尼崎藩の取調べ中「残念残念」といって自害した。1865年には民衆が尼崎の東墓(杭瀬字松ヶ下)に群参した。領主の禁制の中、大坂からも大勢の参詣人がつづき、残念さんのお墓はやがて「願かけ神様」として多くの人々に信仰されるようになった。林 芙美子(はやし ふみこ1903−1951年)が1951年に朝日新聞に連載したが林が急逝したことで未完の絶筆となった「めし」にも残念さんに願かけに参る場面が登場する。
残念さん信仰は、幕末政治に反発する民衆の動きを示すもので、長州藩尊攘派指導部による民心収攬策ともみられ民衆の「長州びいき」の生んだ流行だった。山本文之助の墓は、長州と取引のあった油屋喜平の世話で東墓に建てられ、現在は明徳寺支坊墓地に移転されている。
尼崎市杭瀬南新町4丁目9-13 杭瀬東墓地内,阪神「大物」北東約400m- 旅行時期
- 2009年11月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5































