さすらいおじさんさんのクチコミ(13ページ)全3,789件
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投稿日 2014年06月30日
総合評価:3.5
円覚寺の塔頭帰源院は、夏目漱石とのゆかりで知られる。漱石は明治27年12月の末から1月にかけて、円覚寺管長釋宗演の下で参禅、帰源院に止宿し、後にこの参禅体験をもとにして『門』を書いた。
帰源院本堂の前庭に「佛性は白き桔梗にこそあらめ」がある。この句は、漱石が参禅の後、明治30年の夏、鎌倉材木座の海岸に滞在した折り、帰源院を訪れて詠んだもの。句碑は昭和30年12月9日、漱石の命日に「鎌倉漱石の会」よって建立され「鎌倉漱石の会」は、句碑建立後も漱石忌の講演会など活動を続け、『夏目漱石と帰源院』を刊行、版を重ねている。鎌倉には東慶寺(とうけいじ)など夏目漱石とゆかりがある寺院があり、漱石が鎌倉を愛したことがよくわかる。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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大相撲の力士や有名人などによる豆撒きが行われる鎌倉長谷寺の節分会
投稿日 2014年06月29日
総合評価:3.5
「節分」は季節の分かれ目(節目)のことで本来、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことだが今日では立春の前日を主に「節分の日」と呼んでいる。「節分祭」は邪気(鬼)を追い払うための行事として古くより行われており「節分」には、炒った大豆を撒き鬼に豆をぶつけ、邪気を追い払い、無病息災を願うという意味があり鎌倉ではたくさんの寺が節分会を行っている。
鎌倉の長谷寺では大相撲の力士や有名人などによる豆撒きが行われることで人気がある。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 催し物の規模:
- 4.0
- 雰囲気:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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厳しい夏を乗り越え無事に過ごせるよう祈る神事、鶴岡八幡宮大祓式
投稿日 2014年06月29日
総合評価:3.5
鶴岡八幡宮では、半年の節目にあたる6月30日と大晦日の12月31日に鶴岡八幡宮大祓式を行っている。特に旧暦6月は「水無月(みなづき)」と称され梅雨が明け夏の暑さが厳しくなり、心身の疲れや気力が衰えるなどして病気が流行したり、風水害などの災いが起こりやすい時期で6月30日の「水無月大祓」は「夏越大祓(なごしのおおはらえ)」とも云われ、日々の暮らしの中で知らず知らず人を傷つけたり罪を犯したり穢れに触れるなどして、身についてしまった諸々の罪穢(つみけがれ)を祓い去ることで健やかな心身に立ち返り、厳しい夏を乗り越え無事に過ごせるよう祈る神事とのこと。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 2.5
- 催し物の規模:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2014年06月29日
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投稿日 2014年06月28日
総合評価:3.5
鶴岡八幡宮は中世以来の武家社会で最重要の神宮寺であったため貴重な文化財が多数あり重宝を江戸で出開帳したり神宝を参詣者に公開することを江戸時代から行っていた。1872(明治5)年に現在の宝物殿と同じ本殿周囲の廻廊(1828年・文政11年造営)に「廻廊霊宝場」が設け1902(明治35)年には廻廊北半分が常設の「宝物陳列場」に改造され戦争激化に伴い1944(昭和19)年に一時閉館し宝物類の疎開が行われたが戦後の1947(昭和22)年から再開されている。
鎌倉時代の沃懸地杏葉螺鈿太刀(国宝)、沃懸地杏葉螺鈿平胡籙(国宝)、白小葵地鳳凰文二重織などの袿5領(国宝)、籬菊螺鈿蒔絵硯箱(国宝)、木造弁才天坐像(国重要文化財)、舞楽面(国重要文化財)、戦国時代の北条氏綱奉納太刀(国重要文化財)、鎌倉時代の鶴岡社務記録(国重要文化財)、鶴岡八幡宮文書(国重要文化財)などの多数の国宝・国指定重要文化財を所蔵するが、保存と防犯対策などの理由で、展示資料のほとんどは複製資料が中心とのこと。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
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夏目漱石の『門』にも描かれたことで知られる円覚寺の山門(三門)
投稿日 2014年06月28日
総合評価:4.0
円覚寺の山門(三門)は、夏目漱石の『門』にも描かれたことで知られ楼上には十一面観音、十二神将、十六羅漢像が安置されている。現在の山門は、天明年間(1781~89年)、第189世誠拙周樗によって再建されたもの。山門は「三門」とも呼ばれ、三解脱門の略。涅槃に至るまでに通過しなければならない三つの関門、空・無相・無願を表すとのこと。1894年(明治27年)に参禅(塔頭帰源院)した夏目漱石は、のちに小説『門』でそのときの様子を次のように表現している。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の寒気を催した」
漱石のいう門は、山門ではなく総門ではないかという説もあるが円覚寺の荘厳な雰囲気がよくわかる。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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「白鷺池(びゃくろち)」が美しい円覚寺庭園(えんがくじていえん)
投稿日 2014年06月28日
総合評価:4.0
円覚寺庭園(えんがくじていえん)は、神奈川県鎌倉市山ノ内に所在し、鎌倉五山にも列せられる臨済宗円覚寺派の大本山円覚寺の境内に設けられた庭園で国の史跡および名勝に指定されており前庭は横須賀線や県道21号が通って旧形を損じ、方形の広場は痕跡をとどめないが、円覚寺総門の手前の線路を隔てた踏切の向かい側には「白鷺池(びゃくろち)」と称する左右相対の方形の池が広がり、両池にかかる石橋「降魔橋」が現存して、総門に通じている。白鷺池はその半分近くが埋められてしまったが、春にはサクラ、秋には紅葉など四季折々の自然の情景が池の周囲を飾っている。なお、「白鷺池」の名前は、円覚寺開山無学祖元が宋より鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神使がシラサギに身を変えて案内したという伝承に由来するとのこと。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2014年06月27日
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ハナショウブなど1年中花が順次咲き参拝者の目を楽しませている東慶寺
投稿日 2014年06月27日
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映画『稲村ジェーン』の舞台の海岸前の稲村ヶ崎駅(いなむらがさきえき)
投稿日 2014年06月27日
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投稿日 2014年06月26日
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投稿日 2014年06月26日
総合評価:4.0
東慶寺(とうけいじ)は神奈川県鎌倉市山ノ内の臨済宗円覚寺派の寺院で開基は北条貞時、開山は覚山尼(かくさんに)と伝えられ現在は円覚寺末の男僧の寺だが開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られていた。
1903年に後に円覚寺管長となる古川堯道(ぎょうどう)が男僧としての第一世住職となった後は夏目漱石も訪れ漱石来訪を記念した石碑も残されている。東慶寺(とうけいじ)は文化人の墓が多いことでも有名で鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、真杉静枝、高見順、谷川徹三、野上弥生子、前田青邨らの墓がある。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.5
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投稿日 2014年06月26日
総合評価:4.0
円覚寺(えんがくじ)は神奈川県鎌倉市山ノ内の寺院で正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)で臨済宗円覚寺派の大本山。開基は北条時宗、開山は無学祖元で鎌倉時代の1282年に鎌倉幕府執権北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した寺で鎌倉時代を通じて北条氏に保護された寺。
JR北鎌倉駅の駅前に円覚寺の総門があり境内には現在も禅僧が修行をしている道場がありかつて夏目漱石や島崎藤村、三木清も参禅したことで知られており元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が分け隔てなく供養されているそうだ。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2014年06月25日
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投稿日 2014年06月25日
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「下拝殿」と呼ばれる鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)の舞殿
投稿日 2014年06月25日
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映画「麦秋」(1951年・松竹)の舞台となった北鎌倉駅(きたかまくらえき)
投稿日 2014年06月24日
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投稿日 2014年06月24日
総合評価:4.0
長谷寺(はせでら)は神奈川県鎌倉市にある浄土宗系統の単立寺院で長谷観音と通称され開山は僧侶の徳道とされ坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所。
寺伝によれば736年に大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し十一面観音像を本尊として開山したとされ十一面観音像は観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたとのこと。
観音堂等の主要な堂宇は海を見晴らす山腹に建てられており長谷寺は文人とゆかりが深く境内には高浜虚子の句碑、久米正雄の胸像などがあり高山樗牛は1901年にここに住んだことがあり記念碑もある。長谷寺(はせでら)の境内の花も美しい。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
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武家源氏、鎌倉武士の守護神鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)
投稿日 2014年06月24日
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投稿日 2014年06月23日
総合評価:4.0
鎌倉大仏で知られる高徳院(こうとくいん)は神奈川県鎌倉市長谷(はせ)にある浄土宗の寺院で本尊は「鎌倉大仏」「長谷の大仏」として知られる阿弥陀如来像(国宝)。2004年に境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されている。高徳院は大仏を本尊とする寺院だが開山、開基は不明で大仏の造像の経緯についての史料が乏しく不明な点が多い寺。初期は真言宗で鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていたがのち臨済宗に属し建長寺の末寺となり江戸時代に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。『吾妻鏡』に1238年に深沢の地(現・大仏の所在地)に僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ5年後の1243年に開眼供養が行われたという記述があり大仏は銅造ではなく木造であったそうだが『吾妻鏡』には1252年から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記術もありこれが現存する鎌倉大仏であるとするのが定説で木造の大仏と銅造の大仏との関係については木造大仏が何らかの理由で失われ代わりに銅造大仏が造られたとする説が定説とのこと。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0