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さすらいおじさんさんのクチコミ(4ページ)全621件

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  • フランス、パリのノートルダム大聖堂(2006年10月6日)

    投稿日 2007年09月24日

    ノートルダム大聖堂 パリ

    総合評価:4.0

    フランス、パリのノートルダム大聖堂(2006年10月6日)

    フランス、パリのノートルダム大聖堂は中世のゴシック建築の最高傑作と言われる大伽藍と精巧な彫刻、魔除けの悪魔像・ガーゴイルもいろんな表情があり、何度見ても素晴しい。塔に登って、ヴィクトル・ユーゴの小説「ノートルダムのせむし男」が守っていた鐘楼にも登ることができる。鐘楼からはセーヌ川沿いのパリの街並みやモンマルトルのサクレ・クールなどパリ全体が良く見えるのでお勧め。自由に美術館めぐりができるカルト・ミュゼ2日券(30ユーロ・4500円)で入場できる。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112930/
    (写真はパリのノートルダム大聖堂)

    旅行時期
    2006年10月
    観光の所要時間
    半日

  • フランスのフォンテーヌブロー宮殿(2006年10月5日)

    投稿日 2007年09月24日

    フォンテーヌブロー

    総合評価:4.0

    フランスのフォンテーヌブロー宮殿(2006年10月5日)
    フォンテーヌブロー宮殿は12世紀から歴代のフランス国王が狩猟のために滞在していたところで16世紀にフランソワ1世がイタリアの芸術家達を招いて拡張し、以後も19世紀まで増築し、豪華なルネッサンス風の現在の宮殿となった。ナポレオン・ボナパルトはベルサイユ宮殿よりフォンテンブロー宮殿の方が気に入っていたそうで1814年にエルバ島に追放された際もフォンテンブローを居城とし、ここから旅立っている。
    フォンテーヌブロー宮殿はベルサイユ宮殿ほどのきらびやかさは無いのだが落ち着いた優美さがある。カルト・ミュゼで入館できる。パリ・リヨン駅から鉄道で約40分、フォンテーヌブロー・アヴォン駅からバスに乗り換え20分、バスはパリの交通パス、カルト・オランジュが使えるので便利。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112664/
    (写真は池に映えるフォンテーヌブロー宮殿)

    旅行時期
    2006年10月
    観光の所要時間
    半日

  • フランス、オルレアンのジャンヌ・ダルクの家(2006年10月4日)

    投稿日 2007年09月24日

    ヴァンヌ

    総合評価:4.0

    フランス、オルレアンのジャンヌ・ダルクの家(2006年10月4日)

    フランス、オルレアンにはジャンヌ・ダルクの家がある。百年戦争において、1429年に17歳の少女ながらフランス軍を奇跡的な勝利に導きオルレアンを解放した「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルク(1412−1431)が滞在したジャンヌ・ダルクの家は入場料2ユーロ・300円だった。オルレアン鉄道駅から徒歩約10分。ジャンヌ・ダルクの家の前にジャンヌ・ダルク像があるので解りやすかった。小さな博物館だが、中世の武具などの展示品は興味深かった。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112430/
    (写真はジャンヌ・ダルクの家)

    旅行時期
    2006年10月
    観光の所要時間
    1-2時間

  • フランス、オルレアンのサント・クロワ大聖堂(2006年10月4日)

    投稿日 2007年09月24日

    オルレアン

    総合評価:4.0

    フランス、オルレアンのサント・クロワ大聖堂(2006年10月4日)

    フランス、オルレアンのサント・クロワ大聖堂はジャンヌ・ダルクの家から徒歩約5分、オルレアン鉄道駅から徒歩約10分。聖人ジャンヌ・ダルクの功績を讃え、生涯を描いたステンドグラスが解りやすくて良い。ジャンヌが奇跡の乙女として脚光を浴びた期間は短く、1430年にはブルゴーニュ軍の捕虜になってしまい、宗教裁判で司教らからは異端者と断罪され火あぶりの刑で19歳の短い生涯を閉じた。 1456年に宗教裁判は誤りだったとしてジャンヌは復権したが、イングランドはジャンヌに長い期間、魔女のレッテルを貼っていた。長い期間を経て、ジャンヌは1920年には聖人になっている。聖人というより「戦乱の時代に翻弄された少女」ではなかったのか、と思う。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112430/
    (写真はサント・クロワ大聖堂のステンドグラス)

    旅行時期
    2006年10月
    観光の所要時間
    1-2時間

  • フランス、ロワールのシュノンソー城(2006年10月4日)

    投稿日 2007年09月24日

    ロワールの古城周辺

    総合評価:4.0

    フランス、ロワールのシュノンソー城(2006年10月4日)
    フランス、ロワールのシュノンソー城はトゥールからバスで約1時間。バス停前は小さなインフォーメーションセンターで親切に教えてくれた。バス停からフランスらしいポプラの並木道を城門まで歩く。入場料は9ユーロ・1350円だった。シュノンソー城は歴代の城主の多くが女性だったため、「6人の女性の城」とも呼ばれ、シェール川に浮かぶように建造された城は優美だ。この城にも血を血で洗う権力争いの歴史があり、たくさんの人達の怨念が残っているのだろう。美しい城とは裏腹に多くの城で幽霊が出るとの伝説があるのもうなずける。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112430/
    (写真はシュノンソー城)

    旅行時期
    2006年10月
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ダイアナ妃事故の疑惑(2006年10月3日)

    投稿日 2007年09月23日

    パリ

    総合評価:4.0

    ダイアナ妃事故の疑惑(2006年10月3日)
    ダイアナ妃(1961−1997年)は、イギリス女王エリザベス2世の長男・チャールズ王太子の元妃で第2位のイギリス王位継承者であるウィリアム王子、第3位のヘンリー王子の実母。1981年の結婚するが1996年に離婚し1997年、パリでの交通事故で死亡した。ダイアナは、オルソープ子爵エドワード・スペンサーと夫人フランセスの3女としてイングランドのノーフォークで生まれた。スペンサー家は15世紀に羊商として成功し、チャールズ1世からスペンサー伯爵の地位を受けた貴族。
    だがオルソープ子爵夫妻は妻フランセスの不倫が原因とのことで1969年に離婚して幼いダイアナは寂しい思いをしている。
    ダイアナは長姉のセーラが1977−1978年チャールズ王太子と交際していたことで、1978年11月、バッキンガム宮殿でのチャールズ王太子の誕生日パーティーで面会し交際が始まる。
    チャールズには既に恋人のカミラ・パーカー・ボウルズがいたがカミラがチャールズにダイアナとの結婚を薦めたとの奇妙な話しで1981年7月、チャールズ王太子とダイアナはロンドンのセントポール大聖堂で結婚。だが結婚後もチャールズはカミラとの交際を続けたため悩んだダイアナは過食症になり精神的な病が続いた。
    二人は1992年別居、1996年8月離婚しダイアナはプリンセス・オヴ・ウェールズ名乗ることと、ケンジントン宮殿の居住を認められた。
    離婚1年後の1997年8月31日、パリでパパラッチに追跡され、パリのリッツ・ホテルのメルセデスベンツがセーヌ川のアルマ橋沿いのトンネル内の柱の激突しダイアナは死亡、遺体はノーサンプトン州オルソープにあるスペンサー家領地内の池に設けられた墓所に埋葬された。
    ダイアナ妃の恋人は武器商人で百貨店ハロッズ、パリのリッツ・ホテルのエジプト人オーナーの息子ドディ・アルファイドで事故でダイアナとともに死亡したが、アラブ世界ではイギリス情報局秘密情報部による暗殺説が流布されている。ダイアナ妃はアルファイドの子どもを妊娠しており、出生後アルファイド一族によって将来のイギリス国王の異父兄弟としての地位を利用される事を恐れてダイアナを暗殺した、などの説が流れた。
    事故の際、ダイアナの運転手は抗うつ薬を飲んで飲酒もしていたとされていたが直前の映像では、酩酊の様子がないので、なぜ運転を誤ったか不明だがトンネル直前で合流路から進入してきた「白い乗用車との接触」がトンネルの柱に激突した原因ではないか、との説もある。しかし白い車の持ち主、運転手は不明で白い車による暗殺疑惑は払拭されていない。
    ダイアナ謀殺説は根強く、チャールズとの不仲の際にダイアナと交際していた英国王室職員が事故死とされたがダイアナ自身が「英国王室職員は殺された」と語ったテープが公表されチャールズ王太子にも事情聴取が行われている。ロンドン警視庁は約3年の調査の結果、運転手の飲酒運転が事故の原因で、殺害の陰謀はなくダイアナが妊娠していたとする説も公式に否定しているが謀殺説は収まらなかった。
    2007年1月に再開されたダイアナの死因究明の審問ではイギリス警察はダイアナの妊娠説とアルファイドとの婚約説を再度否定したがアルファイドがダイアナへの婚約指輪をオーダーしていたことを高級宝石店が認め、イギリス警察への疑惑が再燃した。
    ダイアナが妊娠していなかったとしてもエジプト人アルファイドとの結婚話が進んでいたことは英国王室にとっては不快だろうし、ダイアナの車に接触した白い車が故意であった可能性も否定できない。ダイアナ妃事故の疑惑は米国ケネディ大統領暗殺事件などと同様にこれからもさまざまな推測がなされるだろうと予想している。
    また、ダイアナが幼い頃両親の離婚で悲しい思いをしたのに同じ思いをウィリアム王子、ヘンリー王子にさせなければならなかったことはダイアナも王子もつらかっただろう。ダイアナの事故はダイアナだけでなく、イギリス王室家族の悲しい歴史も世界に知らしめる結果になってしまった。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112528/
    (事故があったトンネルの上に設けられたダイアナ妃の慰霊碑「自由の炎」)


    旅行時期
    2006年10月

  • フランスのロンシャン競馬場(2006年10月1日)

    投稿日 2007年09月22日

    パリ

    総合評価:4.0

    フランスのロンシャン競馬場(2006年10月1日)
    フランスのロンシャン競馬場は、フランス、パリ西のブローニュの森の中にある世界一美しいと言われる競馬場で1920年の建造。2006年10月1日にディープ・インパクトが出馬した凱旋門賞など、フランス競馬のビッグレースが開催されることで知られる。

    凱旋門賞は1920年に第一次世界大戦で衰退したフランス競馬再興のためにパリ大賞典に代わる大レースを目指して創設されたレース。世界一の馬を決める国際競走で、毎年世界中の優秀なサラブレッドが世界一を目指して集まって来る。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10112007/
    (写真はロンシャン競馬場)

    旅行時期
    2006年10月

  • フランスのモン・サン・ミッシェル(2006年9月30日)

    投稿日 2007年09月22日

    モンサンミッシェルとその湾 モンサンミッシェル

    総合評価:4.0

    フランスのモン・サン・ミッシェル(2006年9月30日)
    フランスのモン・サン・ミッシェルはフランス西海岸、サン・マロ湾上の小島に築かれた修道院。カトリックの巡礼地のひとつで「西洋の驚異」と称され、1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。
    サン・マロ湾は潮の干満の差が15mもあり、修道院が築かれた小島は、満潮時には海に浮かび、引き潮時には陸と繋がっていた。最も大きい潮が押し寄せるのは、満月と新月の前後で、引き潮で沖約20kmまで引いた潮が、津波のように押し寄せるそうだ。かつては多くの巡礼者が激しい潮で命を落としたそうだ。
    1877年に地続きの道路が作られ、いつでも島へと渡れるようになったが潮流をせき止めることとなり、島が陸地とつながりつつあるので2009年に地続きの道路から橋に変える計画があるそうだ。
    修道院はゴシック様式中心で内部はノルマン様式、ロマネスク様式ゴシック様式、ネオゴシック様式など、中世の建築方式が混合している。
    モン・サン・ミッシェルは墓の山と呼ばれる先住ケルト人の聖地だったが、708年に司教オベールが大天使ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けて礼拝堂を作ったのが始まりである。その後改築して13世紀に現在の形になり、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。フランスでは訪問が欠かせない観光地だ。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111845/
    (写真は崖の上に建てられたモン・サン・ミッシェルの修道院)

    旅行時期
    2006年09月

  • フランスのベルサイユ宮殿(2006年9月28日)

    投稿日 2007年09月22日

    ヴェルサイユ

    総合評価:4.0

    フランスのベルサイユ宮殿(2006年9月28日)
    フランスのベルサイユ宮殿は、1682年にフランス王ルイ14世(1638−1715年)によって建造された宮殿でパリの南西約20キロのイヴリーヌ県ベルサイユにある。フランスのバロック建築の代表で、豪華な建物と広大な美しい庭園が有名。
    ルイ14世は政情不安のパリからベルサイユに遷都し、王族と、臣下をベルサイユ宮殿1ヶ所に住まわせた。絶対王政実現のためのルール・エチケット・マナー、食事の席次・テーブルマナーし、フランス料理もベルサイユで確立されたといわれている。 日本では、池田理代子の劇画、ベルサイユのばらの舞台として有名だ。鏡の回廊など宮殿の内装と庭園の豪華さには驚く。美術館、博物館のパス(カルト・ミュゼ=2日間30ユーロ・4500円)が使えるので美術愛好家には便利だ。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111683/
    (写真はベルサイユ宮殿の庭園)

    旅行時期
    2006年09月

  • アイルランド、ダブリン出身の小泉 八雲(こいずみ やくも)(2006年9月26日)

    投稿日 2007年09月21日

    ダブリン

    総合評価:4.0

    アイルランド、ダブリン出身の小泉 八雲(こいずみ やくも)(2006年9月26日)
    小泉 八雲(こいずみ やくも1850−1904年)は、日本に帰化したイギリス統治時代のアイルランド人で小説家、日本研究家。
    旧名は、パトリック・ラフカディオ・ハーンで1890年、ハーバー・マガジンの通信員時代に来日し、1884年にニューオーリンズ万国博覧会で知り合った服部一三の紹介で島根県松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と松江師範学校(現・島根大学)の英語教師となった。 1891年、小泉節子(1868−1932年と結婚し3男1女に恵まれた。1896−1903年の間は夏目漱石の前任として東京帝国大学文科の英文学講師を勤め、帰化し「小泉八雲」と名乗った。英語の先生としてよりも、怪談、耳なし芳一、むじな、雪女などの短編怪奇小説作家として良く知られる。ダブリンのグローブトロッターズ・ツーリスト・ホステルは小泉八雲が住んでいたところを改造したホステルでお願いすれば八雲の写真などが張られた部屋も見せてくれる。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111555/
    (写真はダブリンのグローブトロッターズ・ツーリスト・ホステルの小泉八雲関連写真の展示)


    旅行時期
    2006年09月

  • アイルランドのタラの丘(2006年9月26日)

    投稿日 2007年09月21日

    その他の観光地

    総合評価:4.0

    アイルランドのタラの丘(2006年9月26日)
    アイルランドのタラの丘へはダブリンからのニューグレンジ、ボイン渓谷とタラの丘バスツアー(30ユーロ・4500円)で行ったが、アイルランドでは鉄道、バスの便が少なくバスツアーは便利が良かった。
    タラの丘は古代からの聖地で鉄器時代の要塞跡もある。要塞は王の砦と名付けられ王座の中心部には王が儀式を行ったとされる立石や新石器時代の古墳もある。タラの丘はケルト族がアイルランドに居住した12世紀頃まで聖地であったと考えられ、18,19世紀にはアイルランド人がイギリスからの自治をアピールする集会では多くのアイルランド人が「タラに行こう」を合言葉に集まったそうだ。1939年の大作映画「風と共に去りぬ」で主人公のアイルランド系移民のスカーレット・オハラが絶望のどん底で希望を捨てない思いを吐露するときに「彼を連れ戻す方法は タラに帰って考えよう 明日に望みを託して」と叫んだシーンが印象に残っている。スカーレット・オハラの故郷は作者マーガレット・ミッチェルが小説上で設定した米国ジョージア州の「タラ」で実存しないのだが、「タラ」がアイルランド系の人達の聖地であり、心の故郷であったことがこの丘に来ると実感できる。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111395/
    (写真はタラの丘の古墳)


    旅行時期
    2006年09月

  • アイルランド、アラン諸島のイニシュモア島(2006年9月24日)

    投稿日 2007年09月21日

    アラン諸島

    総合評価:5.0

    アイルランド、アラン諸島のイニシュモア島(2006年9月24日)
    アイルランドのアラン諸島はゴールウェイ湾にあり、イニシュモア島、イニシュマーン、イニシュィア島などがある。
    アラン諸島は氷河時代に隆起した石灰岩質の岩盤で成り立っており、石灰石の遺跡が島の各所にある。 紀元前から古代ケルト人が島に住み、石灰岩で住居を造っている。紀元6世紀頃にはカトリック修道士が石灰石の教会を建て、カトリック文化とケルト石文化が融合した文化が残っており、イニシュモア島では2000年以上前から続くケルト独特の石の文化を見ることができる。
    ドン・エンガスの断崖の前には約2000年前に造られた半円形の石の要塞があり、要塞の周囲は海面から90メートルの断崖でこの断崖から攻め込むことは至難の業だろう。 ドン・エンガスの断崖は迫力満点でケルト文化もすばらしく、アイルランドでは是非訪問したい島だ。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111223/
    (写真はイニシュモア島の光景)

    旅行時期
    2006年09月

  • 北アイルランドのジャイアンツ・コーズウエイ(2006年9月20日)

    投稿日 2007年09月20日

    その他の観光地

    総合評価:5.0

    北アイルランドのジャイアンツ・コーズウエイ(2006年9月20日)
    北アイルランドのジャイアンツ・コーズウエイは1986年に世界自然遺産に登録された大西洋に面する切り立った海食崖にある。ジャイアンツ・コーズウエイが世界的に有名になったのは、直径約50cmの6角形の断面をもつ、約4万本の石柱群の光景が珍しいからだ。石柱は30センチ足らずの短いものから10m以上の長いものまである。.この石柱は地球の内部から流れ出たマグマが固まるときに6角形にひび割れたもので柱状節理と言うそうだ。
    北アイルランドを訪問するときには是非お勧めしたい場所だ。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10110843/
    (写真はジャイアンツ・コーズウエイの石柱群)

    旅行時期
    2006年09月

  • アイルランドのダブリン(2006年9月25日)

    投稿日 2007年09月20日

    ダブリン

    総合評価:4.0

    アイルランドのダブリン(2006年9月25日)
    アイルランドのダブリンは、アイルランド島東部の都市で、アイルランド共和国の首都で人口約50万。
    9世紀にノルマン人ヴァイキングが、ケルト人の町を破壊して城砦を築き、ドゥヴ・リン「黒い水溜り」と呼んだのがダブリンの街名の由来とのこと。
    アイルランドの政治・経済・交通・文化の中心地でトリニティ・カレッジは、歴史と伝統を誇り旧図書館には、ケルト美術を代表する作品ケルズの書など、貴重な収蔵文献があり、国立博物館には「タラのブローチ」など、ケルト美術が展示され、スコットランドと同様に反骨精神に満ちており、アイルランドの民族の独自の歴史と伝統をアピールしている。
    フェルメールの名画などを展示しているアイルランド国立美術館、トリニティ・カレッジ、ダブリン城、アイルランド銀行、市庁舎、中央郵便局、税関、テンプル・バーの街並み、クラフトン・ストリート、クライスト・チャーチ大聖堂、裁判所のフォー・コーツ、市民の公園セント・スティーブンス・グリーン、国立自然史博物館、考古学博物館、チェスター・ビーティー・ライブラリーなど見所は多い。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111555/
    (写真はダブリンのリフィ川に面する税関)

    旅行時期
    2006年09月

  • アイルランド共和国(2006年9月22日)

    投稿日 2007年09月20日

    アイルランド

    総合評価:4.0

    アイルランド共和国(2006年9月22日)
    アイルランド共和国は北大西洋のアイルランド島ににある立憲共和制国家で首都はダブリン。
    北アイルランド6州は現在もイギリスの統治下にあるが、アイルランドは全島の領有権を主張している。正式名称はアイルランド語でエーラ(エール)。
    紀元前300年頃からケルト人が渡来し8世紀にはノルマン人(ヴァイキング)が侵入。
    1171年には、イングランド王ヘンリー2世の支配下になり1541年イングランド王ヘンリー8世がアイルランド王を自称。
    1652年、クロムウェルがアイルランド平定し植民地とする。
    1801年、グレートブリテン王国(イギリス)とアイルランド王国が合併。
    1840年代にはジャガイモの不作による大飢饉で多数のアイルランド人がアメリカ大陸へと移住した。
    1922年、アイルランド自由国が成立し、イギリスの自治領となる。北アイルランドはイギリス領のまま。
    1938年、イギリスが独立を承認し、イギリス連邦の共和国となるが、1949年にイギリス連邦を脱退して共和制に移行した。 アイルランドの歴史はケルト系のアイルランド人が従属を強要する侵入者から独立しようとする闘争の歴史と言えるだろう。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111555/
    http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111023/
    (写真はイニシュモア島)

    旅行時期
    2006年09月

  • アイルランドの ゴールウェイ(2006年9月22日)

    投稿日 2007年09月20日

    ゴールウェイ

    総合評価:4.0

    アイルランドの ゴールウェイ(2006年9月22日)

    アイルランドのゴールウェイは、アイルランド共和国西部の都市で、ゴールウェイ州の州都。
    ゴールウェイの名前は、アイルランド語で「外国人の町」とのこと。
    1124年、ガリヴ川に砦を築いた頃が街の始まりと言われる。1230年代にアングロ・ノルマン軍に侵略され1484年には自治権を獲得したが、イギリスの支配下にあった。アイルランドの歴史はケルト系のアイルランド人が従属を強要するイングランド人から独立しようとする闘争の歴史と言われるが、ゴールウェイも実質的に自治権を確立したのは1949年にアイルランドがイギリス連邦を脱退してからだ。ケネディ・パーク、リンチ家の城などが見所。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10111023/
    (写真はゴールウェイ近郊の光景)

    旅行時期
    2006年09月

  • 北アイルランドのベルファスト(2006年9月20日)

    投稿日 2007年09月20日

    ベルファスト

    総合評価:4.0

    北アイルランドのベルファスト(2006年9月20日)
    ベルファストは、イギリスに属する北アイルランドの首府で人口は約30万人。
    ベルファストとはアイルランド語で「ファーセットの口」という意味で、ファーセット川沿いにあることを示しているとのこと。
    市庁舎(シティ・ホール1903年建築)やクイーンズ大学(1849年建設)などヴィクトリア朝、エドワード朝の建物が街の見所。また、かつて造船業で栄えた街でオリンピック号、タイタニック号、ブリタニック号の姉妹船はベルファストで建造された。タイタニック号の犠牲者の慰霊碑は市庁舎の中庭にある。ベルファストはIRAのアイルランド独立闘争の無差別テロで恐れられた街だが、現在は安定しているとのこと。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10110843/
    (写真は市庁舎のタイタニック号の犠牲者の慰霊碑)

    旅行時期
    2006年09月

  • イギリスのグラスゴーのサッカーチーム・セルティックFC(2006年9月18日)

    投稿日 2007年09月19日

    グラスゴー

    総合評価:4.0

    イギリスのグラスゴーのサッカーチーム・セルティックFC(2006年9月18日)
    イギリスのグラスゴーは1872年にスコットランド代表対イングランド代表というサッカー史上初の国際試合が行われたサッカーの街で5万人規模のスタジアムが3つもある。
    2005年から中村俊輔が所属し大活躍しているセルティックFCは、スコットランド・グラスゴーを本拠地とするサッカークラブチームでセルティックとは、ケルト人、ケルトに属するという意味。1888年に創立されたスコティッシュ・プレミアリーグの名門で同じグラスゴーを本拠地とするアングロ=サクソン系のレンジャーズとライバル関係にある。サッカーチームは民族、宗教の代表となっており、試合は民族の代理戦争と言えるだろう。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10110678/
    (写真はグラスゴーの光景)

    旅行時期
    2006年09月

  • イギリスのグラスゴー(2006年9月18日)

    投稿日 2007年09月19日

    グラスゴー

    総合評価:4.0

    イギリスのグラスゴー(2006年9月18日)
    イギリスのグラスゴーはスコットランド南西部にあるスコットランド最大の都市で人口約60万人。イギリス国内ではロンドン、エディンバラについで3番目の観光都市で観光客は年間約300万人。
    紀元前からクライド川沿いに集落があり、ローマ帝国はアントニヌスの長城を建設、グラスゴーはスコットランドの中心として発展し、12世紀にはグラスゴー大聖堂建設され、16世紀にクライド川の水運を利用した貿易で栄えた。産業革命時には綿工業などの中心地となり大英帝国第二の都市と呼ばれたが1960年以降は衰退している。
    1990年以降は金融、商業、観光の街になっている。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10110678/
    (写真はグラスゴーの光景)

    旅行時期
    2006年09月

  • イギリスのヨーク(2006年9月16日)

    投稿日 2007年09月19日

    ヨーク

    総合評価:4.0

    イギリスのヨーク(2006年9月16日)

    イギリスのヨークはイングランド北部のノース・ヨークシャー州にあり、人口は約20万人。
    「ヨーク」の名前の由来は「イチイの木」(yew trees)ととのこと。
    北ヨーロッパで最大のゴシック建築寺院・ヨーク大聖堂が市の中央にあり、ヨークの鉄道駅の近くにはイギリス国立鉄道博物館があり、日本の新幹線を含む100以上の機関車が展示されており鉄道ファンには必見だ。
    旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10110281/
    (写真はヨークのイギリス国立鉄道博物館)

    旅行時期
    2006年09月

さすらいおじさんさん

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