itaruさんへのコメント一覧全44件
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仏ヶ浦(^^;)
itaruさん ご無沙汰しています。
わが家も昨夏、このあたりを歩きました。マイカーだとダイナミックな旅程になるんですね(゚-゚) わが家は函館からフェリーで大間に渡り、佐井村で1泊しました。
最初は恐山がメインでしたが、プラニングしているうちに、仏ヶ浦が一番と感じて、悪天候に備えて近くで1泊した次第😅(下風呂温泉にもう1泊)
恐山境内のお風呂に入られたとは、さすが旅人👍
私もちょっと興味あったのですが、暑かったのと子どもたちが誰も同調せず、眺めるだけに(>_<) -
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■ こんにちは、はじめまして
itaruさん
こんにちは、はじめて私の旅行記にお越しいただきありがとうございます。
旅行記やクチコミなど、どこの地域にご興味を持たれたのでしょうか。
これからもお気軽にお立ち寄り下さいね。
武漢ウイルスの蔓延で、今もまだ感染予防のため外出の自粛が呼びかけられています。
更に、過度に危険を煽るマスコミのテレビウイルスの感染にも注意が必要です。
海外旅行は暫くお預けですね、当面は国内の近場に目を向けたいと思います。
国内にも知らないところ良いところいっぱいありますからね。
我々人類は必ずこの新型ウイルスを克服するでしょう。
その時はもうすぐ、
旅先の風景や大自然は変わることなく待っていてくれているはずです。
マイポリシー
「 行ってみることそれが旅 どんなに遠くても どんなに近くても 」
人・自然・歴史・文化との出会いを求めて旅を続けます。
どうぞご安全にお過ごしください。
今後ともよろしくお願いします。
bigwell
2021年03月01日20時24分返信する -
パルミラ遺跡
itaruさま、初めまして。
ダマスカスでは大使のお宅でお世話になり、とても貴重な体験をなさいましたね。
私は、2008年の春に、ヨルダンとシリアを旅しました。
本当はレバノンにも行きたかったのですが、内戦後間もなくで旅行は出来ませんでした。
2014年にはヨルダンとイスタンブールにも行きました。
「アラビアのロレンス」は、合計7.8回は見ました。
ロレンスたちは、無謀とも思える灼熱の砂漠を越え、途中で列車を爆破する迫力あるシーンは印象的でした。
2008年当時もパルミラは観光客も少なく、私達の独占状態でした。
残念なことに、どこかの遺跡でカメラを石にぶつけて壊してしまい写真はありません。遺跡の売店でインスタントカメラを買いましたが、大陸メイドの偽コニカで、出来上がった写真は100年前の写真のようでした。(悲)
平山郁夫の絵画のような、パルミラの遺跡が印象に残っています。
ダマスカスではフォーシーズンズに2泊しましたが、そのホテルはISとの戦いの時、指令本部になったそうですし、アレッポは空爆で壊滅状態・・・
今、シリアはどうなっているのでしょうか。
hot chocolate
Re: パルミラ遺跡
hot chocolateさん、返信遅れすいません。コメントありがとうございます。
大使宅に泊めていただいたのは本当にラッキーでした。こういった国に赴任する大使は様々で評判の良い人もいる一方で、いろいろと問題ありとの噂を聞くこともあります。私たちが学生だったこともあり、より親切にしていただいたのかもしれませんが、貴重な体験となり助かりました。
当時のシリアも独裁国家でしたが、国は安定していました。現状を考えると、まだ以前の方がまし、とも思うのですが、モスクで出会った大学教授のように独裁に息苦しさを感じている人々が多い。大国に翻弄され、混乱が続くシリアが少しでも早く平和を取り戻し、人々が暮らしやすい国になってくれたら、と願うばかりです。2021年03月13日10時25分 返信する -
すごい!
itaruさん、こんにちは
凄い旅行記を拝読いたしました。
私もチャリ好きで、よく多摩川沿いを走ってますが、一応ロードモデルです。
それでも30~40km走ればよい方で、それを50~60km、しかもママチャリというのは驚異的です。
正月の都心は通行量も少なく、走りやすかったのではないでしょうか?
でも、自転車で走るとよくわかりますが、日本の道路は本当に自転車に不向きですね。
車道を走ることがまだまだ根付いていないことに加え、路面がとても悪い。
なので私は多摩川沿いのサイクリングロードに逃げてるんですが・・・
ハードルが高い行程を走破した体力と脚力に脱帽です。
---------琉球熱--------
Re: すごい!
琉球熱さん、こんにちは
コメントありがとうございます。
実家との往復は以前からやってみようかと思っていました。
たまたま、今年の正月が晴天続きの予報ということもあって実行しました。
ご指摘の通り、全体的に正月は交通量が少なく(鎌倉と江ノ島に向かう一部区間をのぞく)走りやすかったです。
確かに日本の道路って自転車を走ることを前提としていないですよね。
気をつけないと、事故に遭いかねない。
ただ、路面の悪い日本の道路はスピードは出るけれど繊細なロードタイプより、頑丈なママチャリが走り易い面もあるような気がします。
距離に関しては、昨年9月にママチャリを借りてしまなみ海道を走ったので、だいたいこれくらいの疲れだろうというのは把握した上で実行しました。
今後ともよろしくお願いします。
itaru
2021年02月01日12時15分 返信する -
はじめまして
itaruさん、こんにちは。
1991年のザンジバル、モンバサの旅行記を拝見しました。
もう30年近く前のことを、まるで最近行ってきたかのようにこまかく書いていらっしゃるのはすごいですね!
今は人気の観光地となっているみたいですが、観光地化する前の原風景があるときに訪れたというのは貴重な体験だと思います。
子供たちと一緒に撮られた記念写真、純粋な子供の笑顔に魅かれます。
itaruさんが旅行された数年後に、私も同じようなところを旅したことがあるので、とても懐かしくて。
その頃はストーンタウンの中にお土産物を売る屋台があったり、外国人向けのカフェがあったりと、観光客向けの商売も少しは始まっていたように記憶しています。
他の旅行記も読んでみたいものがいろいろありますので、また訪問させていただきますね。
のこちゃん
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旅人魂
itaruさん ご投票ありがとうございます。
今なら私のような海外旅行初級者でも、アフリカでサファリと気軽に考えますが、もう30年近く前。ネットもなかったし、日本人の海外旅行といえば、ほぼハワイかグアムかという時代だったと思います。
きっと今とは違う人々とのふれあいなどがあったのでは?と推測します。カバをはじめ動物たちの画像も楽しいですが、そんなことを感じました。Re: 旅人魂
ねもさん、コメントありがとうございます。
地球の歩き方も今のように万人受けするガイドブックではなかった時代。個人旅行をする人も今とはだいぶ趣が違っていました。特にアフリカまで旅する人はかなり個性的な人々が多く、圧倒されました。日本で旅の資金を貯めて年単位の旅をする人、お金が稼げそうな国でアルバイトをしながら長い旅を続ける人、様々でした。そうそう、ケニアでもアルバイトを探そうとしていた旅人もいました。「肉体労働でいいから、何かないですか」と現地でスワヒリ語を学んでいる人に尋ねていましたが、さすがに十分に稼げるような仕事はなかったようですが2020年06月08日22時40分 返信する -
お久しぶりです
itaruさん
旭岳スキーの画像、懐かしかったです。私も10年以上前に一度だけ、滑りました。
滑り応えは正直微妙ですが(笑)、非日本的かつ非日常的景色という点では抜群と思います。
詳細な画像で記憶が蘇りました。ありがとうございます。
カムイのゴンドラ運休理由が笑ってしまいます。カムイのゴンドラが感染心配なほど混むことってあるの!?
散々な2020シーズンでしたね。3月23日に安比高原で滑ったら、あの広いスキー場にウン百人という閑散ぶり、まあおかげでストレスなく滑り放題でしたが(苦笑) -
楽しく読ませていただきました。
itaru様
突然、コメントさせていただきまして申し訳ありません。
旅行記を拝見し、本当に楽しく読ませていただきましたので、思わず書かせていただきました。
社会主義時代のソ連やチェコを旅されたとのこと、羨ましく思いながらも楽しく読ませていただきました。
私は20代半ばころ、なんとなく旧社会主義の国に興味を持ち、2004年の夏にロシア、2004年の冬と2013年の夏にチェコを旅行していますが、社会主義時代はこんな感じだったのか、と興味深く読ませていただきました。
2004年当時でも、ロシアはまだ社会主義時代の制度や習慣の名残が色濃い時代で、モスクワの空港の建物を一歩出たカオスっぷりや、タクシーの値段のよくわからなさ、ホテルの各階に一人いる管理人のおばちゃんなど、1989年と似た状況もまだあったんだなあ、と読ませていただきました。(同時に行ったアゼルバイジャン、グルジアも同じような状況でした)
逆に、チェコは2004年時点ですでにほぼ完全に”西側”といった雰囲気で、ある意味少しがっかりした記憶もあり、1989年から2004年で大分変わったのかなとも思いました。
以上、単なる感想で申し訳ありませんでした。
これからも楽しみに読ませていただきたいと思います。Re: 楽しく読ませていただきました。
shushutanyさん
コメントありがとうございます。
1989年はソ連末期でしたが、まだまだ社会主義的なものが色濃く残っていた時代でした。その一方で物不足からドルの需要が高まっていった時期だと思います。白タクが言い値ながらも15ドルと格安だったのも、人々がドルを求めたからだと思います。当時は「ベリョースカ」という外貨ショップがあり、物不足のソ連でも外貨があれば、庶民も並ばずに商品を手に入れることができました。翌年にモスクワにマクドナルド1号店がオープン、ルーブルで購入できることもあり長蛇の列ができたとニュースでやっていたのも覚えています。
チェコは出入国の管理は厳しく、強制両替などもありましたが、ソ連に比べれば物資も揃っていて、西側からの観光客もそれなりにいて、ある程度は洗練されていた印象があります。ビザの不要なユーゴスラビア、複数政党制に踏み出したハンガリー、鎖国のアルバニア、チャウチェスク独裁のルーマニアと東欧の国々は各国それぞれ、置かれている状況は異なり、雰囲気もだいぶ違いました。
これからもよろしくお願いします。
2020年04月28日00時50分 返信する -
良き想い出ですね~
☆1989年!平成元年ですか~30年ちょっと前も数百年前の建造物は同じ位置に平然と同じ顔で存在して。。。中欧の姿が変わらないことが新鮮です。
☆コロナが来ようと第三次大戦(此は困るけど)が起ころうと変わらぬ佇まいで人類を見続ける石の建物を感謝の意で見上げました。私も!
☆地球は一つだから、突然変異が起こると一蓮托生の時代~Take care of yourself !



