1991/02/12 - 1991/02/17
44位(同エリア163件中)
itaruさん
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タンザニアのザンジバル島。ここはナイロビのIqbalに集まる日本人旅行者の間ではとても評判の良かったところ。殺伐とした大都会のナイロビと違い、長閑な南の島で海が青く、素朴な人たちが多い。古くからアラブとの交流があり、独特の文化が息づく。そんな島で少しのんびりしてみたい。サファリから戻ったら、ケニア航空の小型機(フォッカー)で飛び立ちます。Stone Townと呼ばれる旧市街を歩いたり、小さな無人島に渡って陸ガメに出会ったり。島での滞在を楽しんだら、ケニアの港町モンバサへ。ここでは思わぬピンチ?を経験することに。なかなか中身の濃いショートトリップとなりました
旅の日程
1月20日 SU582 成田→モスクワ(トランジット泊)
1月21日 SU333 モスクワ→シャノン バスでリムリックへ
1月22日 リムリック→ダブリン
1月23日 ダブリン→スライゴ
1月24日 スライゴ→ロンドンデリー→ベルファスト
1月25日 ベルファスト→グラスゴー
1月26日 グラスゴー→スターリング→エジンバラ
1月27日 エジンバラ(夜行バス)→
1月28~30日 ロンドン
1月31日 ロンドン→カーディフ
2月1~2日 カーディフ&スウォンジー
2月3日 MS778、759 ロンドン→カイロ→ナイロビ
2月4~7日 ナイロビ
2月8~10日 マサイマラ(サファリ)
2月11日 ナイロビ
2月12日 KQ490 ナイロビ→ザンジバル
2月13~14日 ザンジバル
2月15日 KQ491 ザンジバル→モンバサ
2月16日 モンバサ
2月17日 KQ625 モンバサ→ナイロビ
2月18日 MS760、779 ナイロビ→カイロ→ロンドン
2月19日 ロンドン→カーディフ
2月20日 カーディフ→ロンドン
2月21日 ロンドン(夜行バス)→
2月22日 アムステルダム
2月23日 アムルテルダム→デンハーグ→デルフト→ロッテルダム
2月24日 ロッテルダム→アントワープ→ブルージュ
2月25日 ブルージュ
2月26日 ブルージュ→ブリュッセル→ルクセンブルク
2月27日 ルクセンブルク→ストラスブール→バーゼル
2月28日 バーゼル→ローザンヌ→モントルー
3月1日 モントルー→ジュネーブ
3月2日 ジュネーブ(夜行列車)→
3月3日 バルセロナ
3月4日 バルセロナ(夜行列車)→
3月5~6日 マドリード&セゴビア
3月7日 マドリード→トレド
3月8日 トレド→マドリード
3月9日 SU300、581 マドリード→モスクワ→成田
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 船 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ケニア航空 エジプト航空 アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ザンジバルへのKQ490便はナイロビ10時30分発。いろいろ問題ありらしい空港への路線バスは避けて、ケニア航空のオフィス前からリムジンバス(マイクロバス)で空港へ向かいます。料金は60シリング(約330円)
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ケニアの沿岸都市モンバサを経由してザンジバルに到着。タンザニア本土とは別の出入国管理を行っているザンジバルでは、当時は空港での強制両替が必須でした。滞在日数に合わせて1日10ドルほど。ほどというのが、アバウトなアフリカらしく、係官によって微妙に金額が異なってくるらしい。私は3泊するので40ドル(7720タンザニアシリング)を両替。ただ本土と違って、ザンジバルのホテルはドル払いだったので、1日10ドルというのはなかなか厳しい金額でした
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強制両替でドルのキャッシュを使っているので、これまたドル払いとなるホテルは安いところで済ませたい。でも、残念ながら5、6ドルの安宿に空きがない。仕方ないので、少し高めの12ドルの宿にチェックイン。とはいえ、ザンジバルでは中級ホテルの宿ということもあり、部屋はそれなりに清潔でホットシャワーも利用できた。結果的には良かったのかも
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東西冷戦時代、東側に属していたタンザニア。ベルリンの壁が崩れ、この国にも変化が訪れてはきたものの、まだまだ観光客が大挙して訪れるようなことがなかったこの頃。港近くにあったザンジバル最高級とされるBwawani Hotelも垢抜けない感じ。当時の歩き方によると、宿泊代はダブルで49ドル。で、バルコニーからのインド洋の眺めが素晴らしいと書かれていたのがAfrica House Hotel
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夕暮れ時、インド洋を背にして飲むコーラ。南国の日差しに疲れた体に冷たい飲み物がしみる(腹の調子はまだ回復していなかったのですが)
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視線を外に向ければ子どもたちがサッカーに興じているようだ
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漁から戻ってきた漁船かな。ゆったりした時間が過ぎていくよう
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素朴な人々が暮らす島というのは、ある意味正しいのだけれども、ツーリストに近寄ってくる輩の中には一定数の碌でもない人間が混じってくるもの。ザンジバル到着日、プリズン島に行かないかと声をかけられた。前金で1500Tシリング(約1000円)を払ったものの、約束の場所に来ない。で、のこのこ昼ごろに現れて「明日いけばいいじゃない」などと適当なこと言いながら、残金をせしめようとしたりする。船代もどうやら相場よりも高かったみたいだし、やられました。と、出だしで躓いたザンジバル2日目、当時は単にZANZIBAR MUSEUMSと呼ばれていた博物館などに寄りつつ街歩き
ピース メモリアル ミュージアム 博物館・美術館・ギャラリー
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ザンジバルを訪れる旅行者の絶対数がまだまだ少なかったこの頃。東洋の島国からの訪問者はそれなりに目立つわけで、子どもたちから興味津々という感じで声をかけられ、一緒に記念写真を撮ったりしたものです
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冷戦時代、社会主義陣営に属してたタンザニア
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街を歩いていても土産物屋などがあるわけでもなく
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そこに素朴な現地の人々の暮らしがある
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ふと海上を眺めると、古代からアラビア海・インド洋で活躍した伝統的な木造帆船のダウ船が目に入ってくる。もともと東アフリカ沿岸は中東のイスラム勢力との交流が盛んだった場所。この島もかつてオマーンのスルタンが君臨していた
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この驚嘆の家はかつて1883年にスルタンの宮殿として建てられたもの。で、この頃は革命党(一党独裁の党)の事務所だったらしい(歩き方によると)
驚嘆の家 建造物
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市街の中心部はアラブ人たちが建てた石造りの街、ストーンタウン。アフリカとアラブが混じった独特の雰囲気が漂っている
ザンジバル島 ストーン タウン 旧市街・古い町並み
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やはりこの国でもサッカーが一番人気のスポーツ。公園でサッカーに興じると、仕事帰り?の人々が集まってくる
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この日は海外青年協力隊でザンジバルに赴任している人や大使館員でスワヒリ語を学ぶために現地の人の家にホームステイしている人に会ってしばし歓談。協力隊の方からはプリズン島への船の相場などを教えてもらう。あと、大使館員によるとアラビア語の影響が大きいスワヒリ語はザンジバルが一番きれいなんだそう。現在は語学学習がメーンの仕事だからか、ずいぶんとのんびりした感じの大使館員でしたが
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ザンジバル滞在3日目となった2月14日。Africa House Hotel周辺の浜辺を散策
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この辺を歩いているとプリズン島へ渡る船の客引きなど誘いがかかったりするのですが、この日は特にお誘いもなく
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それではマーケットでも覗きましょう
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子どもたちが集まっているのはジューススタンド? 確かサトウキビジュースもあったはず。衛生面? 確かに不安ではありますが、気にしすぎてはアフリカの旅を続けることはできません
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港近くの青空市場。翌1992年の年賀状に使った1枚です
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この辺りから路地をふらふら歩いていたら
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麺?を天日干しにしている! 滞在中は見かけなかったけれど、ザンジバルにも中華系の人がいるとのこと。ということは、これは中華麺?
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思いのほか、干満の差が激しいようで、船がご覧の通りの状況に
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さて、ザンジバルの歴史で忘れてはいけないのが奴隷貿易。Creek Road沿いに建つ大聖堂。この教会はかつて奴隷の売買が行われていた市場跡に建設されています
アングリカン大聖堂 寺院・教会
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東アフリカで集められた奴隷たちザンジバルに集められ、ここで品定めをされて奴隷船に積み込まれ、2度とアフリカに戻ることはなかった
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教会内部はシンプル。当時は拝観料はなかったかわりに奴隷貿易に関する展示もほとんどありませんでした
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さてさて、プリズン島はどうしようか。きれいだというパジェビーチにでも行ってみようか。と思っていたら、少年から声をかけられた。最初は3000と言っていたけれど、1500で商談成立。と思ったら、何やらに船主と交渉している。どうやら船主の取り分が1000で少年は500ということで、手を打ったらしい
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何はともあれ、プリズン島への足が確保できました。早速、ダウンタウンの北3kmほどに浮かぶ無人島に向かいます。入島料は1ドル。米ドルを宿に置いたままだったので、少年がひとまず払ってくれた。ホテル代がドル払いだから、当たり前だけど、思いのほか一般人もドルを持っている(欲しがっている?)
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無人島で出迎えてくれたのは大きな陸ガメ
プリズン島 サファリ・動物観察
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「重くないですか」
「いえいえ、余裕です」 -
管理人がいるだけの誰も住んでいない島。自分たちの他、聞こえるのは波と風の音だけ
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長閑な南の島でゆっくりした時の流れを感じます
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船主たちが採っているのは椰子の実。「どう?」って勧められた。いやあ、先ほどマーケットでココナツジュースを試したんだけど……。2杯目は遠慮します。この船主はいい人で、「小腹がすかないか」と軽食(サモサだったかな)もくれた
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ただ、今では長閑な島だけれども、かつては名前の通り牢獄が置かれていたこの島。反抗的な奴隷たちを留置するための監獄は当時は崩れかけながらも形を保っていた
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狭い部屋に十数人が閉じ込めれれていたというのだから……
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プリズン島を満喫し、宿に戻ってきたら前日に一緒に写真を撮った少年が友達を連れて訪ねてきた。観光客相手に商売しようという輩はいるものの、ザンジバルには基本的には素朴な人が多かった。ただ、この時は疲れていたので十分に接することができなかった。申し訳なかったなあ
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ザンジバル最終日の15日、モンバサ行きのKQ491便は13時30分発。なので午前中は最後の街歩き
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Stone Townを巡ります
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当時は観光開発はされておらず
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観光客も数えるくらいだったザンジバル
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アクセス手段は首都ダルエスサラームのほかは、ケニアのモンバサからの小型機が1日1便飛んでいるだけ。ケニア航空のリコンファームをした時なんて、座席表の印刷された紙にリコンファームした乗客の名前を1人1人書き込んでいくというアナログぶり
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ザンジバルの原風景を体験できたのかもしれません
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モンバサまでは45分ほどの短いフライト。リコンファームをせず、「乗れないよ」と脅されていたスペイン人のカップルも満席でなかったこともあって、無事乗り込むことができたようです。とりあえず、街をつかもうとさらっと散策。モンバサを象徴する象の牙をかたどった「タスクス」などを観ていたら、1人の現地の人に話しかけられる。ガイドをして金を巻き上げよう、という感じではなかったので普通に話していたら「ガールフレンドはいるか」との問いかけ。「いや、いないよ」と答えたら、手を握ったり急になれなれしくなってきた。「えっ」と思ったけれど、そっち系の人。「ガールフレンドがいない」、でその気になったらしい。その辺の感覚、全く分からなかったので焦ったあ。ホテルについてこようとしたし、やばかったあ
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翌日はモンバサ一日観光。といっても、それほど見所豊富ってわけでもないのでゆっくりスタート。昼飯を食べてからジーザス砦でも向かおうかな、と思っていたら自称学生がつきまとってくる。うっとうしい、と適当にあしらっていたんだけど諦めない
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で有料の砦に入ればついてこないかと思えば、外国人は100シリング(550円)といい値段に対して地元民は5シリング(27円)と破格の安さ。それなのに金を払わず入ってくるという、そして勝手に説明を始める。何とかガイド料が欲しいらしい。こっちは静かに観ていたいのに
モンバサのジーザス要塞 建造物
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勝手にガイドをする輩はほっておいて、砦からの眺めを満喫することにしよう
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この砦は大航海時代のポルトガルが建設したもの
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砦から市街を観るとこんな感じ
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一通り見学したら海岸へ。一時代を築いたポルトガルの繁栄を支えた砦は今では世界遺産の一つです
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と、ここから写真がモノクロに変わります。なぜか旅行の写真を白黒で撮るのも面白いかなと思ったので
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しかし、自称学生をなかなかまけません。仕方ないので海岸沿いをずんずん歩き、一部私有地のようなところを突っ切って何とかまきした
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ってことで、途中で土産物屋を覗き
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ムバラキの塔を目指します。一瞬、これかと思ったのですが、違いました
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市街地から1kmくらいしか離れていないとは思えないほど
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長閑な田舎道を歩いた先に
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で、これがムバラキの塔(Mbaraki Ancient Mosque Pillar)。高さ14.1mの塔は海岸地方によくみられる柱墓の一つらしいけれど、何のためにつくられたのかは分からない。隣接のモスクは1400年代から1500年代に建てられ、その後廃墟になって再建されたんだそうだけど、塔そのものは推定建設は1700年代なんだとか。何だか分からないもの、ってのも面白い
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この旅行記へのコメント (2)
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- のこちゃんさん 2020/06/13 12:14:23
- はじめまして
- itaruさん、こんにちは。
1991年のザンジバル、モンバサの旅行記を拝見しました。
もう30年近く前のことを、まるで最近行ってきたかのようにこまかく書いていらっしゃるのはすごいですね!
今は人気の観光地となっているみたいですが、観光地化する前の原風景があるときに訪れたというのは貴重な体験だと思います。
子供たちと一緒に撮られた記念写真、純粋な子供の笑顔に魅かれます。
itaruさんが旅行された数年後に、私も同じようなところを旅したことがあるので、とても懐かしくて。
その頃はストーンタウンの中にお土産物を売る屋台があったり、外国人向けのカフェがあったりと、観光客向けの商売も少しは始まっていたように記憶しています。
他の旅行記も読んでみたいものがいろいろありますので、また訪問させていただきますね。
のこちゃん
- itaruさん からの返信 2020/06/14 11:47:39
- Re: はじめまして
- のこちゃんさん、いいね&コメントありがとうございます。
あの頃のザンジバルはBPを中心に旅行者が増え始めた頃だったと思います。観光客向けの施設はほとんどなく、一部を除けば外国人で儲けてやろうという人もなく、のんびりしていたと思います。その分、効率的には動きにくい面もあり、3泊では短かったです。
旅行記は旅の間つけていた旅日記やガイドに書き込んだメモを見て思い出しながら書きました。旅の後半、欧州に戻ってからはさぼりがちで抜けている日も多いのですが(^_^;)
今後ともよろしくお願いします
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