2018/12/07 - 2018/12/08
38位(同エリア253件中)
ツッチーさん
2018年晩秋、避寒を兼ねてラオス北部の周遊、その後ベトナムに入りマイチャウ村に滞在、ハノイから帰国した全35日間の旅です。
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【34日目~35日目】
旅の最後に、ベトナム陶器で有名なバチャンに行ってきました♪
翌未明の便で帰国、全35日間の旅を無事終えました。
【日程】
D34 12/07金 【バチャン観光】泊:(機内)
D35 12/08土 ハノイ0205~関空0815(Jetstar)
※レート:ベトナム 1VND=0.0054円。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
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【34日目】
朝は宿の向かいのフォー・ボー屋さん、絶品! -
バチャン行きバスの出るロンビエンBTへは宿から歩いても行けるが、雨だし楽して宿前の停留所から市バスで向かう。
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ロンビエンBT
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バチャンへ
大河ホン川を越えると、 -
バスは、信号のない堤防道路を走るのでスムーズ。
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バチャンに到着
・宿前~ロンビエンBS(市バス, 7,000VND)
・往:ロンビエンBS 1010~バチャン1047(市バス47A, 7,000VND) -
バス停から少し先を右折すると、バチャンの陶器街です。
先ずは高級品を扱う店が並び、少し行くと大まかに、一般品~量産品~卸し専門店と続く。
陶器市場は無数の商店があり、陶磁器なら何でも揃う所です。 -
バチャン
道の両側にズラリと陶器専門の商店ばかりが立ち並んでいて圧巻。 -
バチャン
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バチャン
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高級品・芸術品から日用品まで
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置物から食器類等々、
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欲しい物も色々ありました。
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陶器製なら何でもありって感じ。
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商店
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量産品の商店
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量産品の商店
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バチャンの工場を覗いてみよう
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バチャンの工場見学
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ここは量産品が多そう
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原型
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大型品の原型
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焼成工場も見てみよう
煙突があれば焼成してる所
と、そこら中に煙突が建っていた。 -
箱型の電気炉だ。大気型だな。
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素材が並ぶ
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大気型箱型電気炉
この大きさなら家内工業的にできそうです -
ここも奥に同様の電気炉
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大雨になったので雨宿り
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直径20cm近くの・・・貯金箱でした。
500円玉満杯なら重くて持ち上がらないだろうな。 -
商店を見ながら陶器市場に向かう
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バチャン Ceramic Market
陶器市場の入口 -
バチャン Ceramic Market
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バチャン Ceramic Market
ここ陶器市場もスゴイ店の数と内容だ。 -
奥の奥まで店屋が続いてる。
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陶器市場
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陶器市場
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うん? 日本向け専用か?
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居酒屋グッズも多数あった。
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陶器市場
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陶器市場はホントにスゴかった♪
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帰り道、釉薬の調合してる作業場があった。
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ハノイ行きバスがきた。
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ロンビエンBT 1つ手前で下車
・往:ロンビエンBS 1010~バチャン1047(市バス47A, 7,000VND)
・復:バチャン1445~ロンビエンBS 1520(市バス47A, 7,000VND) -
歩いて宿へ
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ビールタイム後、最後のフォー・ボー♪
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【35日目】
ハノイ・ノイバイ国際空港
※以上で今回のラオス北部~ベトナムの旅を終えました。
未明の便で関空へ戻りました。
どうもありがとうございました♪♪
・ハノイ0205~関空0815((Jetstar BL170便) -
今回の周遊ルートです。<再掲>
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全35日間の日程です(ラオス北部~ベトナム)。
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ラオス北部~ベトナム 全35日間の出費内訳です。
※追記:ベトナム ビザフリー期間は45日間に延長されました(2023.8.15施行)
---------- おわり ---------------
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この旅行記へのコメント (3)
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- arfaさん 2018/12/02 11:59:36
- 旧日本軍と旧ドイツ軍の戦い!
- ディエンビエンフーの戦いは、ベトミン勢力がラオスまで浸食して勢力を急拡大、それに対して敵陣のまん真ん中で飛行場のあるこの盆地にフランス軍主力部隊を集結させてベトミン勢力をおびき出し、撃滅するとの作戦でした(10年くらい前に日米のミッドウェイ海戦と同じような状況)。
ベトミン勢力はその意図を読み、1954年5月に全勢力を持ってフランス軍に立ち向かい、逆にフランス軍を壊滅させました(これまたミッドウェイ海戦と同じ結果)。
フランス軍の主力は外人部隊(第二次世界大戦に敗れ職がないドイツ人が中心)、ベトミン勢力の中には終戦後に日本軍を脱走した日本兵が多数いた(戦争を重ねてきた日本兵は戦闘のノウハウを知るプロ集団)とのことで、日本軍対ドイツ軍の戦いでもあったらしい。
- ツッチーさん からの返信 2018/12/02 22:24:35
- RE: 旧日本軍と旧ドイツ軍の戦い!
- 歩き方のラオス、ベトナム編にも歴史は割合詳しく書かれていました。
フランス軍は空爆で、ベトナム人民軍は飛行機が飛べない夜間に、ソ連や中国の軽火器で至る所から攻撃。
戦車の壊れ具合から迫撃砲や、A1の丘の大きな穴はベトナム人民軍の950kg爆弾に依るものだそうなので、そのような武器もあったみたい。
フランス軍は死者5,000人に及んだと。
A1の丘麓に広い墓地あり。総司令部の近くにはフランスの慰霊碑と横に小さなフランス国旗がありました。
ディエンビエンフーはそれ以外は、余り見処無さそうですが、機会あれば是非ご訪問を♪
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- arfaさん 2018/12/02 11:58:52
- ディエンビエンフー
- ツッチーさんも元気に旅されていて何よりです。
ディエンビエンフーは私も一度は行ってみたいところです。
数はともかく兵器の質や用兵では優勢なフランス軍がなぜ破れたのかまた言われるように旧日本軍の将校が指揮、下士官が実戦で兵を率いていたとかを実際の戦いの状況から見てみたいというのもあります
新ベトナム人たちの戦いAdd Starmihocomihomihocomiho
新ベトナム人と呼ばれたベトナム独立に命をかけた日本人たちの戦い。
f:id:jjtaro_maru:20120315215716j:image
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦終結後間もなく、ベトナムのサイゴンの街ではフランスの自警団とベトミン(ベトナム独立同盟)の小競り合いが続いていました。日本陸軍宣伝部に文官として従軍していた佐野裕二氏は軍籍を離れ、同和火災の事務所から友人と銃撃戦を見物していました。いろんな性能の銃で撃ち合うので銃声がバラエティに富んでいます。あるとき「どどっ、どどっ」と新たな銃声が響きました。
「日本軍の軽機関銃が出てきたよ」
日本軍の軽機関銃は断続して射撃し、射撃を中止するとき、弾丸の詰まりを防ぐための指の引き金離れは熟練を要します。日本兵がベトミンに参加していたのです。
80年もの間、ベトナムはフランスの植民地にされていましたが、植民地にされるときの戦い、されてからの抗戦で一度も勝てませんでした。それを日本軍は明号作戦で一夜にしてフランス軍を駆逐したのですから、ベトミンは日本軍の戦闘能力に目をつけました。ベトミンはベトナム全土で勧誘活動を行いました。妙齢のベトナム女性が毎晩のように日本軍将兵収容所に現れて勧誘したり、好条件(二階級特進、高給、結婚斡旋)など)で参加を求めるベトミンのビラがサイゴン市内にまで張り出したりしていました。中には拉致して強制的に参加させられた例もあります。
ベトミン参加日本人、松嶋春義元陸軍一等兵
「あれは大東亜戦争の続きだった。ベトナム人を見殺しにして、おめおめと帰国できるかと思った」
様々な思いを胸にベトミンに参加した日本兵は約600名と言われています。彼らは「新ベトナム人」と呼ばれ、現在でも現地へ行き、日本人の足どりを訪ねて日本名で尋ねると、「日本人じゃない、新ベトナム人だ!」と怒る人もいるそうです。
陸軍第34独立混成旅団の参謀井川省少佐(ベトナム名レ・チ・ゴー)は戦争終結前からベトミンと接触しており、終戦時にベトミンに武器を提供しました。ベトミンに参加後、ベトナム人兵士に軍事調練を施し、フランス軍とベトミン軍の戦力差を考慮し、遊撃・奇襲戦術を重視するよう進言ました。昭和21年(1946年)4月に自動車で移動中にフランス軍の待ち伏せに会い戦死しました。フランス軍は日本兵士がベトミン戦力の要であるとして、その捕殺ないし帰順(投降)工作に熱心でした。
昭和21年(1946年)6月1日、クァンガイにグエン・ソン将軍を校長とし、第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(のちにベトナム国防相)を事務長とする陸軍中学が設立されました。教官・助教官全員と医務官は日本軍人です。猪狩和正中尉、加茂徳治中尉、谷本喜久少尉、中原光信少尉、青山浩軍曹、峰岸貞意兵長・・・
日本軍の軍事調練は厳しいものでしたが、生徒達は日本人教官を畏敬し、好んで彼らの真似をしました。シャツのボタンをはずしておくというような少々崩れた服装まで真似をして「ニャット・コン」(日本人の弟子)スタイルを生徒たちは誇りにしていました。地域の住民は日本人教官を「オン・ニャット」(日本さん)と呼んで歓迎しました。
昭和21年(1946年)11月20日、ハイフォン港での密輸船取締りに端を発する銃撃事件をきっかけにフランスとの戦いの火蓋が切って落とされました。元日本兵は戦闘指揮、作戦立案への助言に大きな役割を果たしていきます。中原光信少尉はハノイ防衛軍がフランス軍の包囲作戦で窮地に陥ったとき、夜間の渡河脱出をボー・グエン・ザップ総司令官に提案して成功させました。同年のナムディン攻囲戦では、連隊司令部に野砲直射を進言し、みずからその作戦を指揮してフランス軍を苦しめています。こうした前線の直接戦闘だけでなく、武器・弾薬製造、橋梁架設、沈船引き揚げなどの後方支援でも工兵、砲兵が活躍したほか、元第21師団、高澤民也軍医中尉のように医療面でも大変な努力と活躍が認められています。各種の勲章および徽章を授与された日本人は30名を上回っています。気象観測で諸部隊の作戦を助けた槌谷勇は10種類の勲章、徽章、表彰状を授与されています。
昭和28年(1953年)11月、ディエンビエンフーの戦いにベトナム民主共和国軍が勝利し、第一次インドシナ戦争はベトナムの勝利が確定しました。この頃にはもう旧日本軍人の手助けは必要がないほどベトナム軍は充実してきました。
上級幹部グエン・テ・グエン大佐「飢えたときの(米飯の)一口は、満腹時の(食べ物の)一包みに勝る。我々の最も苦しかった時代の彼ら(日本人)の貢献は何よりも貴い」。
ベトミンに参加した旧日本兵は次々日本に帰国しましたが、祖国日本は彼らを冷たく迎えました。「共産主義国に奉仕した者たち」だからでした。
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