さすらいおじさんさんのクチコミ(19ページ)全3,789件
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投稿日 2014年05月21日
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函館港とともに日本最初の開港となった下田港(しもだこう)めぐり
投稿日 2014年05月21日
総合評価:4.0
下田港(しもだこう)は静岡県下田市の港湾で江戸時代末期に函館港とともに日本最初の開港となった。下田港は江戸時代から江戸に向かう船舶の寄港地として繁栄し毎年3000隻の千石船の入港があった。1854年に締結された日米和親条約により下田港は函館港とともに開港され外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となったが1859年の日米修好通商条約により神奈川港などが開港したことに伴いに開港が解かれた。1933年に東京湾汽船(現・東海汽船)の客船が就航すると下田港は観光港として栄え第二次世界大戦中の1945年には海軍第6海龍隊が配備された。戦後は再び観光港として伊豆諸島航路、伊豆大島、下田 - 利島 - 新島 - 式根島 -神津島 - 下田 の循環航路、遊覧船などが発着している。下田は想像以上に活気のある街だ。現在は黒船を模した遊覧船「サスケハナ」が弁天島、下田港などを周回する約20分のコースを就航しており開国の舞台となった下田の街を海上から眺めることができる。
- 旅行時期
- 2014年03月
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 乗り場へのアクセス:
- 3.5
- 車窓:
- 4.0
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投稿日 2014年05月20日
総合評価:4.0
下田伊東園ホテルはな岬は伊豆の海を望める港の宿で下田の観光に便利。夕食は、アルコール・ソフトドリンク飲み放題付きで海を見下ろす落ちついた雰囲気の和室、開放感のある露天風呂。海の幸中心のバイキングが自慢のホテル。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 接客対応:
- 3.5
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日本一の大きさを誇る檜風呂であるといわれている下田温泉(しもだおんせん)
投稿日 2014年05月20日
総合評価:3.5
下田温泉(しもだおんせん)は静岡県下田市(旧国伊豆国)市内にある温泉の総称で蓮台寺温泉、河内温泉、白浜温泉、観音温泉、相玉温泉の総称。伊豆金山の一つである旧河津鉱山(蓮台寺金山)坑内から湧出する温泉もパイプラインによって下田市内のホテル・旅館・公衆浴場に給湯されている。河内温泉金谷旅館の千人風呂が有名で日本一の大きさを誇る檜風呂であるといわれている。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 4.0
- 泉質:
- 3.5
- 雰囲気:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
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投稿日 2014年05月20日
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坂本龍馬、唐人お吉ゆかりの寺下田市の八幡山宝福寺(ほうふくじ)
投稿日 2014年05月19日
総合評価:3.5
静岡県下田市の八幡山宝福寺(ほうふくじ)は坂本龍馬、唐人お吉ゆかりの寺として知られ「唐人お吉のお墓と記念館」「山内容堂・勝海舟謁見の間」などの展示館がある。
1559年に織田信長の圧迫をのがれ本願寺第11代顕如が真言宗を改宗して開基したと伝わっており1854年、日米和親交渉で日本全権の本陣の下田奉行所が置かれたことでも下田を代表する寺であったことがわかる。
1863年、宝福寺に滞在中の山内容堂に勝海舟が坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い許され坂本龍馬は町の旅館で朗報を聞いたとのことで謁見の間は当時のまま残されている。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2014年05月19日
総合評価:3.5
お吉まつり奉行所の命で米国総領事ハリスに17歳で仕え、その後流浪の人生を送ったお吉は、1891年(明治24年) 3月27日、我が身の苦悩に耐えかねお吉が淵に身を投じ数奇な一生を終えた。享年51歳。毎年3月27日、市内のお吉ヶ淵と宝福寺で、開国史の悲劇のヒロイン・お吉の供養祭が行われる。お吉ヶ淵では、下田芸妓衆や観光関係者による献花が行なわれお吉の命日にあたる祭り当日は毎年必ずのように雨が降とのことでお吉の無念の涙雨だと地元で伝えられている。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 催し物の規模:
- 3.5
- 雰囲気:
- 3.5
- バリアフリー:
- 4.0
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投稿日 2014年05月19日
総合評価:3.5
唐人お吉(とうじんおきち)は本名斎藤 きち(さいとう きち、1841−1890年)で幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者だった。尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ4歳まで内海で過ごし一家は下田へ移り7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習ったが14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗り下田一の人気芸者となった。1857年日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館に勤めていたとき3ヶ月間ハリスの世話をした。その後人々の差別偏見にさらされ物乞いなどした後1890年下田市の稲生沢(いのうざわ)川門栗ヶ淵(現在のお吉ヶ淵)に身投げをして自殺。稲生沢川から引き上げられたお吉を斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否し河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け下田を去る事となる。お吉の存在は1928年に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなり映画、小説、舞台上演化等がすすんだ。
唐人お吉の菩提寺で下田宝福寺のお吉記念館の説明によるとお吉は身寄りもなく宝福寺の第15代竹岡大乗住職が 法名「釈貞観尼(しゃくじょうかんに)」を贈り境内に葬ったとのことで現在は美談とされているが当時は住職も迫害を受けている。お吉の時代に翻弄された悲劇的な生涯は人間の差別偏見の恐ろしさを現代に伝えている。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2014年05月18日
総合評価:3.5
下田城(しもだじょう)は静岡県下田にあった海城で下田港の湾口周辺の岬全体が城地直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し曲輪が配置されていたそうで本丸は東西12m・南北30mの平場で本丸の北側に2段の天守曲輪があったとされる。
後北条氏は当城を小田原水軍の根拠地としていたが1590年に豊臣側の水軍が来襲し50日にわたる籠城の後に開城し北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が下田5000石を治めた後江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配し廃城となった。城址は下田公園となっている。下田公園は下田市街と下田港を一望でき6月1日から30日まであじさい祭が開催される。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2014年05月18日
総合評価:3.5
下田公園前にはペリー上陸碑がある。1854年に再来したペリーと幕府の間でもたれた日米和親条約の交渉過程で開港地として下田港が提示され条約締結により即時開港となペリー艦隊が次々と入港、ペリー艦隊の乗組員が上陸したのが下田公園下の鼻黒の地でここを上陸記念の地として、ペリー上陸の碑が建てられた。
記念碑のペリー像は故村田徳次郎氏の作品で記念碑の前の錨はアメリカ海軍から寄贈されたものとのこと。ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号は長さ75m2415トン3本マストで両舷に1つづつの外輪があり航海には蒸気と風力の双方を用いる木造の軍艦で大砲9門を積み乗組員300名だった。下田は箱館(函館)とともに日本最初の開港場となりペリー艦隊7隻が入港、黒船来航となった。下田は江戸時代1616年、海の関門(御番所)をはじめ開港にまつわる史跡も多く街のたたずまいには石造りの土台や、なまこ壁の建物、入り組んだ路地など海とともに生きた港町としての風情が残り毎年5月には黒船祭が開催される。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2014年05月18日
総合評価:4.0
ペリーロードは幕末、黒船により来航したペリー提督一行が了仙寺で日米和親条約付録下田条約締結のために行進した700mの道でかつて出船入船三千隻とうたわれた港町下田の花柳界の面影を残しており、平滑川(ひらなめがわ)沿いを石畳の道が続き、明治、大正時代に作られた石造りの洋館や古民家、伊豆石やなまこ壁の家並み、柳並木が独特の風情を醸し出している。了仙寺のほか日露和親条約締結場所である長楽寺、あじさい祭で有名な下田公園もこの地区にありみやげ店も多く観光客が集まる下田の代表的な観光スポット。ペリーロードは1994年に静岡県都市景観賞最優秀賞を受賞しておりテレビの番組でもよく登場している。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2014年05月17日
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投稿日 2014年05月17日
総合評価:4.0
伊豆急行(いずきゅうこう )は伊豆急と呼ばれ東急グループの企業。踊り子号、スーパービュー踊り子号、リゾート踊り子号、マリンエクスプレス踊り子号が人気で南伊東・川奈・城ヶ崎海岸・伊豆高原・伊豆熱川・河津・伊豆急下田など観光地の駅が多い。下田温泉ホテル伊豆急は白浜海岸の前に建つ海辺の温泉リゾートで白い建物が空と海の青色に対比して美しい。
- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 接客対応:
- 4.0
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南伊豆地域の情報センターになっている道の駅開国下田みなと(みちのえき かいこくしもだみなと)
投稿日 2014年05月17日
総合評価:4.0
道の駅開国下田みなと(みちのえき かいこくしもだみなと)は静岡県下田市にある道の駅で総合案内カウンタで館内の案内、イベント情報、宿泊情報など南伊豆地域の情報センターになっている。
伊豆半島全域の観光施設のパンフレットや割引券もある。ミュージアムでは毎年下田で開催されているカジキ釣り大会の歴史などを実物大のカジキのレプリカや映像などで紹介している。- 旅行時期
- 2014年03月
- バリアフリー:
- 3.5
- トイレの快適度:
- 4.0
- お土産の品数:
- 3.5
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たくさんの文学作品創作に貢献した旅館修善寺温泉の新井旅館(あらいりょかん)
投稿日 2014年05月16日
総合評価:4.0
新井旅館(あらいりょかん)は静岡県伊豆市修善寺温泉の老舗旅館で明治から昭和初期にかけて館主を務めた三代目・相原沐芳(あいはらもくほう)が日本画家の安田靫彦や横山大観をはじめとする文人墨客と親交が深くその縁で日本画や文学など数多くの作品が生まれる舞台となった。
芸術家の感性は建物や庭園にも生かされ、今では貴重な文化遺産となって客室棟や大浴場など15件の建物が国の登録有形文化財に登録された。旅館業の傍ら、文化財となった建物を案内する「文化財ガイドツアー」を行うなど、地域の文化振興にも力を注いでいる。
新井旅館(あらいりょかん)に宿泊した作家は岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』、随筆『春の修善寺』『秋の修善寺』、芥川龍之介の短編『温泉だより』『新曲修善寺』、尾崎紅葉の長編『金色夜叉』、泉鏡花の『斧琴菊』『奥の院にて』『半島一奇抄』、島崎藤村の『伊豆の旅』、田山花袋の『北伊豆』『南伊豆』、川端康成の『伊豆の踊子』『伊豆温泉記』、井伏鱒二の『修善寺の桂川』、島木健作の『赤蛙』などの作品を誕生させている。ほかにも新井旅館(あらいりょかん)には幸田露伴、川口松太郎、船橋聖一、正岡子規、高濱虚子、伊藤左千夫、岡本かの子、吉井 勇、らが宿泊しているそうでたくさんの文学作品創作に貢献した旅館といえる。- 旅行時期
- 2014年03月
- 利用目的
- 観光
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 客室:
- 4.0
- 接客対応:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2014年05月16日
総合評価:3.5
三保の松原(みほのまつばら)は静岡県静岡市清水区の三保半島にある景勝地で日本新三景、日本三大松原のひとつとされ国の名勝に指定されている。
三保の松原(みほのまつばら)の羽衣の松は御穂神社のご神体で、祭神の三穂津彦命(大国主命)・三穂津姫命が降臨する際の依り代とされ「羽衣伝説」が残っている。初代「羽衣の松」は1707年(宝永4年)の宝永大噴火の際に海に沈んだと伝えられ二代目「羽衣の松」は高さ約10m、外周5m、樹齢650年のクロマツで、立ち枯れが進んだため、2010年(平成22年)10月に近くにある別の松を三代目の「羽衣の松」に認定して世代交代し、2013年(平成25年)7月3日に先代「羽衣の松」は約3mの幹を残して伐採されている。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2014年05月16日
総合評価:4.0
天城連峰は静岡県の伊豆半島中央部の東西に広がる山で天城山を連峰を総称する場合や天城連山、天城山脈と称されることもある日本百名山の一つ。
最高峰の万三郎岳(ばんざぶろうだけ 1,406m)、万二郎岳(ばんじろうだけ 1,299m)、遠笠山(とおがさやま 1,197m)等の山々から構成され東西の山稜部は富士箱根伊豆国立公園に指定されている。天城山の主稜を東西に歩く天城縦走路が山頂へ至る主なルートで、東は天城トンネル付近から入る複数の登山口と、西は天城高原ゴルフ場の横から入る登山口が主に使われている。昭和天皇は1930年(昭和5年)6月に八丁池までの往復を歩かれこの際に使用した登山道を御幸歩道と呼ぶようになった。昭和天皇は1981年(昭和56年)6月にも登山され昭和天皇の孫である皇太子徳仁親王も1982年(昭和57年)7月に天城山の縦走をされており天皇家の好まれる連峰だ。- 旅行時期
- 2014年03月
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
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投稿日 2014年05月15日
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投稿日 2014年05月15日
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投稿日 2014年05月15日

























