唐人お吉(とうじんおきち)をしのぶ下田宝福寺のお吉記念館
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- 旅行時期:2014/03(約12年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
下田 クチコミ:18件
唐人お吉(とうじんおきち)は本名斎藤 きち(さいとう きち、1841−1890年)で幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者だった。尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に船大工・斎藤市兵衛と妻きわの二女として生まれ4歳まで内海で過ごし一家は下田へ移り7歳の時河津城主向井将監の愛妾村山せんの養子となり琴や三味線を習ったが14歳で村山家から離縁され芸者となりお吉と名乗り下田一の人気芸者となった。1857年日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館に勤めていたとき3ヶ月間ハリスの世話をした。その後人々の差別偏見にさらされ物乞いなどした後1890年下田市の稲生沢(いのうざわ)川門栗ヶ淵(現在のお吉ヶ淵)に身投げをして自殺。稲生沢川から引き上げられたお吉を斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否し河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け下田を去る事となる。お吉の存在は1928年に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなり映画、小説、舞台上演化等がすすんだ。
唐人お吉の菩提寺で下田宝福寺のお吉記念館の説明によるとお吉は身寄りもなく宝福寺の第15代竹岡大乗住職が 法名「釈貞観尼(しゃくじょうかんに)」を贈り境内に葬ったとのことで現在は美談とされているが当時は住職も迫害を受けている。お吉の時代に翻弄された悲劇的な生涯は人間の差別偏見の恐ろしさを現代に伝えている。
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3.5
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.0
クチコミ投稿日:2014/05/19
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