さすらいおじさんさんのクチコミ(172ページ)全3,789件
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投稿日 2007年06月20日
総合評価:4.0
京都の二寧坂(二年坂)(2007年5月23日)
二寧坂(二年坂)の名の由来には、三年坂に比べて小さな坂という事から来ているという説、大同2年(807年)に出来たからとする説などがある。
地元では、三年坂で転ぶと三年で、二年坂で転ぶと二年で死ぬと言われ、坂を走って下りる人は見かけない。二年坂の中ほどには画家・詩人である竹久夢二が、1917年数ヶ月をここで過ごした家の跡がある。市バス清水坂から徒歩10分弱。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157993/
(写真は二寧坂の光景)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
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投稿日 2007年06月20日
総合評価:4.0
京都の一念坂(一年坂)(2007年5月23日)
高台寺から二年坂に向かう途中に一念坂(一年坂)の碑がある。石畳の道で坂らしさは無い。 この道が整備されたのは1992年で一念坂(一年坂)の名前もその時ついたもので新しい命名だ。一念坂(一年坂)という名は三年坂、二年坂に続くことで名づけたのだろう。周囲にはみやげ物店が並ぶ。市バス清水坂から徒歩約10分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157993/
(写真は一念坂周辺の光景)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都の「ねねの道」(2007年5月23日)
「ねねの道」は、まっすぐで平坦な石畳の道で正式名は高台寺道。秀吉の正室北政所、「ねね」ゆかりの寺、高台寺と圓徳院があることから「ねねの道」と呼ばれるようになった。
高台寺に続く「ねねの道 」は知恩院に続く「知恵の道」、八坂神社に続く「神幸道」と合わせて東山参道(三つの道)と言われる。市バス「東山安井」下車、東へ徒歩約5分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157785/
(写真は「ねねの道」)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都の建仁寺(2007年5月23日)
建仁寺 (けんにんじ)は、臨済宗建仁寺派大本山の寺院で1202年に鎌倉幕府2代将軍源頼家(1182−1204年)の援助で栄西(えいさい・ようさい1141−1215年)が開山した。日本で最初の禅寺で俵屋宗達(-1643年)の「風神雷神図」の襖絵で知られる。豊臣秀吉(1537−1598年)を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺。市バス「東山安井」下車、西へ徒歩約5分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157785/
(写真は建仁寺)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月19日
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:3.0
京都の圓徳院(2007年5月23日)
北政所(1542頃―1624年)は1605年から1624年に没するまで高台寺に近い圓徳院に住んだ。1598年秀吉の死後徳川家康(1543−1616年)によって豊臣家は次第に勢力をそがれ、大坂の役(おおざかのえき1614-1615年の大坂冬の陣と大坂夏の陣)で滅亡の憂き目を見た。北政所は豊臣家の誕生、天下取り、滅亡まで浮き沈みの歴史をすべて見ているのだが、晩年はどんな思いで過ごしたのだろうか。市バス「東山安井」下車、東へ徒歩約5分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157785/
(写真は圓徳院跡の碑)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都の三面大黒天(2007年5月23日)
三面大黒天は圓徳院の北側に祀られている。秀吉が念持仏とした三面大黒天は北政所が祀ったもので、大黒天、毘沙門天、弁財天、の三面を併せ持つ。富と福と呼び込む神「大黒天」、権力を握りすべてを意のままにする神「毘沙門天」、人生を切り抜ける機知と美女を呼ぶ神「弁財天」、三尊のご利益を得ることができるそうだ。確かに秀吉の最盛期には三尊のご利益があったようだ。市バス「東山安井」下車、東へ徒歩約5分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157785/
(写真は三面大黒天)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:3.0
京都の大雲院(2007年5月23日)
大雲院は、1587年、織田信長、信忠父子の菩提を弔うため、御池御所(烏丸二条南)に貞安(じょうあん)上人が開山。織田信忠公の法名から大雲院を寺号とした。1973年に「ねねの道」の北端の現在地に移転した。信長父子供養塔や石川五右衛門のお墓もあるが拝観は事前申込み制。電話;075−531−5018 市バス「東山安井」下車、東へ徒歩約5分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157785/
(写真は大雲院)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都の方広寺(2007年5月23日)
方広寺で有名なものは東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる重要文化財に指定されている梵鐘。
この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文は京都南禅寺の禅僧文英清韓(ぶんえいせいかん1568-1621年)が書いたものだが、家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康(1543−1616年)の怒りにふれ、大坂の役(おおざかのえき1614-1615年の大坂冬の陣と大坂夏の陣)の口実となり、豊臣家滅亡のきっかけになったとされる。一般には豊臣を滅ぼすための家康のいいがかりだと言われる。この鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の銘文は現在もはっきり見ることができる。
方広寺へは京阪七条駅から徒歩約10分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157733/
(写真は方広寺の鐘)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都の豊国神社(2007年5月23日)
方広寺の隣に豊臣秀吉を祀る豊国神社(とよくにじんじゃ)がある。豊臣秀吉の死去の翌年の1599年、方広寺の鎮守社として廟所が建立され後陽成天皇から豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られたが1615年豊臣家が滅亡すると、徳川幕府により社領は没収された。1868年、明治天皇が豊臣秀吉は尊皇の功臣であるとされたことで、豊国神社の再興を開始、1880年、方広寺大仏殿跡地に社殿が完成した。京阪七条駅から徒歩約10分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157733/
(写真は豊国神社)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都、豊国神社の耳塚(鼻塚)(2007年5月23日)
耳塚は、豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した文禄慶長の役(朝鮮では、壬辰・丁酉の倭乱、1592−1598年)の遺跡。武将たちは、戦功のしるしとして朝鮮の人達の鼻や耳をそぎ塩漬にして日本に持ち帰った。秀吉は「耳塚」を造り供養することを命じた。秀吉が起こした文禄慶長の役は、朝鮮半島の人々の強い抵抗で敗退に追い込まれたが、「耳塚」は、豊臣秀吉軍の残虐さと朝鮮半島の人々の受難を、永遠に伝えている。京阪七条駅から徒歩約10分。豊国神社から100m。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157733/
(写真は耳塚)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
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投稿日 2007年06月19日
総合評価:4.0
京都の三十三間堂(2007年5月23日)
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。後白河上皇が自身の離宮内に1165年に創建した仏堂で、本尊は千手観音。「三十三間堂」の名称は、本堂の内陣の柱間が33あることによる。江戸時代から本堂の軒下(長さ約120m)で矢を射る「通し矢」の舞台になり、現在は新成人が振袖に袴を着け、本堂西側の射程60mの射場で矢を射る「大的全国大会」が行われている。京阪七条駅から徒歩約10分弱。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157733/
(写真は三十三間堂)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月19日
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投稿日 2007年06月18日
総合評価:4.0
京都の鴨川(2007年5月11日)
鴨川は京都市北区雲ヶ畑の出合橋付近が源流とされ京都の都心を流れて伏見区下鳥羽で桂川と合流するまで約31キロ。都会を流れる川だが、雲ヶ畑では特別天然記念物のオオサンショウウオを見ることができるし、伊勢物語で描かれた、都鳥(ユリカモメ)の見ることができる。京都は都心から少し北に行くと大自然を味わえる不思議な都会だ。上賀茂神社、下鴨神社など川沿いの文化遺産も多い。賀茂大橋から四条大橋までは古くから河道が作られており、現代でも老若男女の散歩、デートコースになっている。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157386/
(写真は鴨川)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 5.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月18日
総合評価:4.0
京都の三条大橋(2007年5月11日)
三条大橋(さんじょうおおはし)は京都市、三条通の鴨川にかかる橋。東海道と中山道の終点として東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)などに登場している。橋の創建は不明だが、豊臣秀吉の時代に改修されており、古くから京都の人たちに親しまれている。欄干には当時の擬宝珠(ぎぼし)が一部残っている。京阪三条駅からすぐ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157386/
(写真は三条大橋のぎぼし)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月18日
総合評価:4.0
京都の本能寺(2007年5月11日)
織田 信長(おだ のぶなが1534−1582年6月21日)は、家臣の明智光秀(1528頃−1582年7月2日)の謀反(本能寺の変・1582年6月21日)により本能寺で自害した。本能寺(ほんのうじ)は、法華宗の寺院で当初は本応寺という寺号で、1415年現在の仏光寺周辺に日隆によって創建されたが本能寺の変で焼失後、1587年豊臣秀吉の命で現在の地点に移転された。伽藍の再建は1592年で現在の御池通りと京都市役所を含む広大な敷地であった。現在は京都では目立たない静かな寺だ。地下鉄京都市役所前から徒歩2分。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157386/
(写真は本能寺)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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投稿日 2007年06月18日
総合評価:4.0
京都・三条大橋の弥次喜多の像(2007年5月11日)
十返舎一九(じっぺんしゃ いっく1765−1831年)が1802年から1822年にかけて出版した滑稽本・東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)に登場する江戸神田八丁堀に住む栃面屋弥次郎兵衛(やじさん)と食客喜多八(きたさん)。東海道を江戸から京都、大坂へと上っていく様子を、コミカルに描いた滑稽話「やじきた」は現代も人気がある。
弥次喜多の像は京阪三条駅から三条大橋を渡って南側にある。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157386/
(写真は弥次喜多の像)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
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京都の檀王法林寺(だんのうほうりんじ)(2007年5月11日)
投稿日 2007年06月18日
総合評価:3.0
京都の檀王法林寺(だんのうほうりんじ)(2007年5月11日)
京阪三条駅の北側、三条通りに面して「浄土宗だん王」の石柱が目につく檀王法林寺。
1272年、「悟真寺」として創建。応仁の乱などで廃寺となったが、1611年「檀王法林寺」として復興、正式寺名は「朝陽山栴檀王院無上法林寺」というが、地元では「だんのうさん」と呼ばれる。 場所は三条大橋東詰京阪三条駅からすぐ。
旅行記;http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10157386/
(写真は檀王法林寺)- 旅行時期
- 2007年05月
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0





















