旅好者さんのクチコミ(274ページ)全6,284件
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
旧山崎家住宅は、蔵造りの街並み一番街の仲町交差点を東へ100m少々進み、北への路地に左折します。60~70mくらい行くと右手にあります。この建物は老舗和菓子の亀屋の五代目山崎嘉七さんの隠居所として大正14年(1925年)に建てられたものです。設計は五代目山崎嘉七さんと親交のあった保岡勝也です。保岡勝也は三菱合資に入り、丸の内の赤煉瓦オフィス街などを手掛けますが、のち独立して設計事務所を始めます。埼玉りそな銀行川越支店の建物は代表的なものの1つですが、この様な和洋折衷の建物の設計は珍しいと思います。
お庭はどの程度手入れがされているのか、あるいは、手入れをしなくてもある程度の景観は保てる様に考えられているのか、なかなか素人にはその良さが分かりません。また、この家の変わっているところは、外からは分からないのですが、蔵が内部に取り込まれていることです。大火に対する備えだったのでしょうね。残念ながら立ち入り禁止エリヤで見ることは出来ません。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
蔵造りの街並み一番街の仲町交差点を、東へ60~70m進むと亀屋山崎茶店があります。和菓子の亀屋のご親類です。その先に、レンガ造りのアーチがあります。左の壁に「茶」そして小さく茶陶苑と書かれたプレートがあります。アーチをくぐると、右はレンガの塀が伸びていて、その奥に広場があり、左手に大きな白壁の蔵があります。明治の大火を凌いだという蔵で、陶器のギャラリーや大蔵Caféがある茶陶苑です。亀屋山崎茶店が併設している施設です。開館しているはずの日に訪れましたが、なぜか休館していました。別の日にも再訪しましたがやはり休館していました。なお、開館日は3月~7月、9月~11月の木~日となっています。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 3.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
山崎美術館は、蔵造りの街並み一番街の仲町交差点から少し東へ行ったところにあります。この美術館は和菓子の老舗亀屋の中興の祖といわれる四代目山崎嘉七(豊)さんの生誕150年を記念して、昭和57年(1982年)にオープンした美術館です。展示品は明治の日本画壇に多大な功績を残したといわれる橋本雅邦画伯の作品が中心です。四代目山崎嘉七さんとも交流があったそうなので、そのご縁で収集をしたのでしょう。明治を代表する画家といわれても、まず橋本雅邦画伯の絵を見ることはないので、よい体験となりました。川越市美術館でも現在の常設展示室では橋本雅邦画伯が展示されていました。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 展示内容:
- 3.0
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人通りが少なく、熱心に商売をしている様には見えませんが・・・。
投稿日 2017年07月14日
総合評価:2.0
醸ん楽座は、蔵造りの街並み一番街の仲町交差点を西に50~60m進み、そこから北に進む路地(寺町通り)に曲がります。その先左側に醸ん楽座があります。醸ん楽座と書かれた看板は見つかりませんが、ここは醤油、酒蔵、煎餅、団子、硝子といった小江戸川越の職人技が集まったところだということですが、実際に目に出来るのは醤油、硝子くらいです。前に団子やがあったところにはつけ麺と書かれていたりで良く分かりません。表通りの蔵造りの街並みから1筋ずれていますから、観光客の姿が見当たりません。日曜日など休日にはもう少し人通りもあるのではないかと思いますが・・・。ここは松本醤油商店の工場が施設の奥側にあるので、醤油の匂いがします。日本人はともかくとして、外国人観光客にはどうでしょうかね、ちょっと心配です。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 1.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:2.0
鴉山稲荷神社は、蔵造りの街並み一番街の仲町交差点を西に100m少々進むと、道路際に小さな鳥居があります。細い参道を進むと境内の広場に出ます。横並びで羅陵王の山車の蔵があります。人はまったく居ません。そもそも周辺で人を見掛けません。
境内にある由緒書きによると、長禄元年(1457年)に、扇谷上杉家の家臣太田道真(道灌の父)が、築城の折り、四方を眺めたところ、南西に森が遮り、富士山の眺望がよくない。これを伐採したところ、小さな石碑が見つかり、そこには「源家勝平、、怨敵退散、子孫繁栄、大願成就」と祈願文が彫られていた。道真は築城の吉兆として、ここに仮宮を建立したことがこの稲荷の始まりとのことです。何が吉兆なのか分かりません。まるで神話の様な世界です。また、鴉がたくさん集まっていたので鴉山稲荷神社と名付けたそうです。
境内片隅には「明治三十七八年戦捷記念碑」と書かれた石碑があります。日露戦争の勝利を記念したものでしょう。今は人も訪れない様なところに置かれていますが、少なくとも、明治時代にはそれなりに多くの人がお参りに来る様な場所だったのではないかと思います。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 2.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
雪塚稲荷神社は長喜院の北隣です。そして、とても狭い境内です。もともとは長喜院の境内だったのです。石造りの鳥居をくぐった正面には三峰神社があります。そして、雪塚稲荷神社はその前で90度右に曲がったところに祀られています。この神社の創建には白狐の祟りを鎮めるため、その霊を祭ったとの伝説があります。白狐の祟りがそのまま飛び出してこない様に、参道を直角に曲げているのです。なお、創建は江戸時代末期の文政六年(1823年)とはっきりしています。この白狐の祟りとどう結びつくのか分かりませんが、このお稲荷さんは商売繁盛のご利益があり、遠方より参拝にこられる方もいるそうです。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.5
芋菓子の亀屋栄泉の北側の路地を入ると正面に長喜院が見えます。山門手前からきれいに石畳となっています。表通りからほんのちょっと入っただけなのに、まったく人が居なくなってしまいます。川越はお寺さんの多いところですが、今は食べ歩きの様な観光が中心なのでしょうか。
室町時代終盤の戦国時代だった天文19年(1550年)に、喜多町にある広済寺の末寺として創建されました。一方、河越城主の大導寺駿河守政繁の甥にあたる大導寺権内長喜がこの地に住んでいて、永禄5年(1562年)になくなり、法名は冷月長喜居士となりました。文禄元年(1592年)に至り、広済寺の大翁和尚が末寺をこの場所に移し、法名(音読み)から名を貰い、長喜院として開山したものです。
ここには本堂の横に苦行の釈迦像があります。リアリズムなのか、なかなか難しく感じる像です。これはパキスタンのラホール美術館にある像の原寸大レプリカとのことです。この像は作者不明ですが、悟りを開く直前の釈迦を表したものといわれています。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2017年07月14日
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:4.0
埼玉りそな銀行の川越支店は、蔵造りの街並み一番街の時の鐘信号の南100mくらいですが、大きな建物なのですぐ分かります。川越は蔵造りが注目されますが、明治・大正期の洋風建築も残っています。その中でも代表的なものが埼玉りそな銀行の川越支店です。しかし、観光場所ではありませんから、立ち止まって見ている人はいません。もちろん主目的は蔵造りですから致し方ないですね。大正期に旧国立八十五銀行本店として建てられたものですが、設計は保岡勝也です。三菱合資に入り、丸の内の赤煉瓦オフィス街などを手掛けますが、のち独立して設計事務所を始めます。この旧国立八十五銀行本店は代表的なものの1つです。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:4.0
行傳寺は、蔵造りの街並み一番街のレトロな建物の埼玉りそな銀行川越支店を正面に見て、後ろ(西)に入る路地の突き当りにあります。参拝者以外は立ち入り禁止としていることもあってか、人影はまったくありません。境内は綺麗にされていて一見の価値はあると思うのですが、観光向けではないのですね。行傳寺の前身は徳治元年(1306年)に造られた法華道場の小庵です。創建は永和元年(1375年)で豪族・上田氏一門(扇谷上杉氏の家臣の家系だと思います)の開創によります。場所は河越城の一画とみられていますが、元和5年(1619年)に類焼で焼失し、現在地に移った様です。なお、堂々とした本堂は文化9年(1812年)に建てられてたもので、江戸時代の建築・彫刻の集大成といわれています。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:4.0
養寿院は札の辻の南100m少しで、蔵造り資料館のちょっと北にある、西に入っていく路地の奥にあります。山門の扉は閉められていますので、あれ?入れないのかなと思いますが、門の右側が車が通れるほどに大きく開いていました。観光には開放していないお寺さんとのことですので、お盆など檀家さんがたくさん訪れる時以外は門は開けないのかも知れません。なお、山門手前にある大きな石柱に「不許葷酒入山門」と書かれています。「酒」は酒気帯びと分かるのですが、「葷(くん)」は何かと思ったら、ニンニクなどのにおいの強い野菜、ショウガなどの辛みのある野菜なのですね。なかなか厳しい決まりです。
建立は鎌倉時代の寛元2年(1244年)で、川越の名の元となった豪族・河越氏直系の河越経重が開基しています。そのことから、ここには河越重頼の墓というのがあります。娘を義経に嫁がせたことから、頼朝・義経の兄弟喧嘩に巻き込まれて誅殺された人物ですが、経重の3代前ですから、結構微妙です。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:4.0
時の鐘は、蔵造りの一番街中程にある時の鐘入口の信号を右に入ったところです。時の鐘は川越のランドマークでしょう。幾度となく写真で見たものです。観光客の皆さんも1枚は写真を撮りにやってきている感じです。しかし、やはり事前に映像で見ているせいか、留まって見ている人はまずいません。鐘の撞かれる時だけは違うと思いますが・・・。
この時の鐘の歴史を追ってみると、最初の時の鐘は、江戸時代初期で第2代川越藩主の酒井忠勝によって建てられています。忠勝が城主だったのは寛永4年(1627年)から寛永11年(1634年)の間で、場所は城下多賀町だったそうです。多賀町は今の幸町に含まれますから、現在の場所からはそんなに遠くない場所だったと思われます。寛永16年(1639年)に第4代川越藩主となった松平信綱は、前年の大火で焼失した町を再町割し、時の鐘は現在の場所(当時の町割りのほぼ中心だった)に移し、再建されます。この時は2層の鐘楼でした。その後、享保18年(1733年)には火の見櫓も兼ねるとのことから、現在と同じ3層に改造されています。その後、安永3年(1774年)、安政3年(1856年)、明治26年(1893年)の大火でそれぞれ焼失していますから、現在の鐘楼は3層になってからは4代目となります。明治の再建では焼失前に近い形で再建されたとのことです。よって、川越で江戸の様子を残す数少ないものの1つです。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
蔵造り資料館は、蔵造りの一番街の、時の鐘入口の信号から30mくらい北に進んだ左側です。ここは明治の大火後、煙草卸商を営んでいた小山文造(屋号「万文」)さんが建てたものです。7月から耐震工事に入るということで、展示物などはほとんど片づけられていましたが、受付におられた方が町火消しの話などをしてくれました。(工事期間は2年弱の様です)奥に進むと、大きな鬼瓦が置かれていました。類焼防止効果は疑うほど無駄に大きい様に思いましたが、並びの商家に対する見栄だったのかも知れませんね。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 3.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:4.0
蔵づくりの街並みは、県道39号線の北は札の辻交差点、南は仲町交差点の間の500mくらいで、通称1番街と呼ばれています。自分が平日に出掛けてきているのも忘れて、平日なのにこの人出はなんだと思わずにはいられないほど、ぞろぞろと観光客がたくさん歩いています。着物姿で歩いている人からは日本語ではなく中国語の会話が聞こえてきます。
ところで、この蔵造りですが、明治26年(1893年)の川越大火以降に建設されたものなのですね。この大火の際、辛うじて焼け残った1つが、札ノ辻近くで寛政4年(1792年)に建てた店舗蔵・大沢家住宅だったのです。これが再建に当たって、石造りでも、レンガ造りでもなく、蔵造りとなったのです。これが今では観光の一大資源になるとは誰も思わなかったでしょうね。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:2.0
川越まつり会館は、蔵造りの一番街の、札の辻交差点の手前100mくらいの左側にあります。この川越まつり会館は、国指定無形民族文化財に指定されている「川越まつり」を知ってもらうことを目的にしている様です。館内では2台の山車が順繰りに展示しています。町内には29台の山車があるとのことです。細長い通路をどんどん進んでいくとメインの展示場になります。暗いので、川越まつりの様子を映し出すためだと思ったら、そのまま暗いままです。山車を傷めないためだそうです。(単に照明を代えれば良いだけだと思いますが・・・)絢爛な造りが自慢の山車だそうですが、ぼんやりとモノクロで見せられてもどうかと思います。2階へと順路は進んで行きますが、山車に近づきはしますが暗すぎてまったく見えず、無駄な部分だと思います。ちゃんと見えるのはミニチュアだけでした。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 1.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 1.0
- バリアフリー:
- 3.0
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投稿日 2017年07月14日
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
札ノ辻交差点から東へ200mくらいの交差点の一画に川越市役所があります。その建物の左前のところに太田道灌像があります。立ち止まる人が誰も居ないので写真を撮るのも恥ずかしい感じです。絵で見たことのある狩の時の装束をしています。なお、道灌は法名で、名前は資長(すけなが)です。河越城や江戸城を築いたことで有名な太田道灌(1432-1486)ですが、関東管領を務めた扇谷上杉家の筆頭重臣だった人です。なんとなく、関東に力を持っていた武家のトップの様に思いますが違うのですね。そんな道灌の地位を思うと、余談ですが、川越の名の元となった平安末期から南北朝時代にかけてのこの地の豪族・河越氏とか、お寺を4つも作った河越城主大道寺駿河守政繁の銅像とかはまったくないのですかね。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:4.0
広済寺は札ノ辻交差点から県道12号線を北へ200mくらいです。質素な石柱の立つ入口がとても地味ですが、山門(楼門といった方が正しいか?)は立派なものが建っています。そして、本殿もお城の中の建物みたいに唐破風となっています。寺伝によると、河越城主大道寺駿河守政繁が天文17年(1548年)に代々の菩提寺として建立したとなっています。戦国時代ですから、1ヶ所のお城に生涯留まっていることはないですから、菩提寺とはなっていません。それはともかくとして、大道寺政繁母子が河越に建てたお寺の中では1番最初のものです。ここのお寺の変わっているところは、境内に金比羅さんが祀られていることです。しかも、たいそう立派なお社です。明治時代の神仏分離令で、どこも切り離されたり、廃されたりしたはずですが、ここには堂々と同居しています。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
昔は高札場があったところです。今も昔も人が交差する場所です。ちょっとした休憩にと交差点の北東角にはポケットパークと名付けた、パークとは呼べない様な狭い一画もあります。川越観光の1番の目玉・蔵造りの街並みを歩いてきて、この札に辻交差点の達すると、あぁ終わっちゃったと思う場所です。特に、途中で寄る場所を予定していると、あれ?xx屋はどこにあった?と見つけ損なったお店などを再確認する場所でもあります。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 2.0
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投稿日 2017年07月14日
総合評価:3.0
大蓮寺は、六塚稲荷神社から県道39号線(通称:高沢通り)を70mくらい東に進んだところを左折して路地を進むとあります。札の辻からだと150mくらい西に進んで右折です。70mくらい奥にあります。大蓮寺は、河越城城主大導寺駿河守政繁が母・蓮馨尼の菩提を弔うため、永禄10年(1567年)に建立したものです。なお、現在の本堂は万延元年(1860年)に再建されたものです。
このお寺は川越の伝説「だいれんじ火」の舞台です。今日は晴れていますから大丈夫だと思いますが、小雨が降る夜になると、この寺から不思議な火の玉が飛び出してきます。騒ぐと纏わりつき、無視すると何もしません。この火の玉をだいれんじ火と呼ぶのです。今は木立もない明るい感じの墓地ですが、それでも、小雨の降る時は近づかない方が良さそうです。
境内右手に赤いのぼり旗が並び、子育延命地蔵堂があります。子育延命地蔵は、大蓮寺二十三世玄譽上人が富士山頂での三年間の行を終えた時、大正2年(1913年)に増上寺より賜ったものだそうですが、東京から隅田川を遡り、新河岸川を船で運ばれて来たそうです。船旅を楽しんだ地蔵さんも珍しいのではないでしょうか。
- 旅行時期
- 2017年06月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0












































