旅好者さんのクチコミ(23ページ)全6,282件
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:3.5
石見空港の東隣といった場所に、島根県立万葉公園がありました。小高い丘陵地を、万葉集の歌碑や歌に詠まれた植物を植えて、万葉の時代にちょっと触れましょうと整備した公園です。島根県では出雲・簸川平野にある浜山公園、浜田市にある石見海浜公園に続いて、3番目の設置された県立都市公園とのことです。石見地方は多く万葉集に詠まれていまが、その大半は、8世紀の初めに石見地方に住み、また、亡くなったとされる柿本人麻呂の作品です。人麻呂に因み、この万葉公園が整備されたとのことです。
- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:3.5
高津川の河口近く、白上川との合流点辺りに、高津柿本神社がありました。歌聖と呼ばれる柿本人麻呂を祀っている神社です。柿本人麻呂は724年(神亀元年)に亡くなったとされています。終焉の地は益田の沖合にあった(とされる)鴨島とされ、聖武天皇の勅命によりそこに人麻呂を祀る小社が建立されたといわれています。鴨島は1026年(万寿3年)に起こった大地震で海中に没してしまい、ご神体の漂着した高津松崎に地元の人々によって人丸社が建てられ、信仰されたそうです。お社の傷みが激しくなってしまった1681年(天和元年)に、津和野藩主亀井茲親によって、現在地の高角山に遷宮造営されたとのことです。
- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2022年12月26日
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投稿日 2022年12月26日
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:4.0
益田川の畔にある益田市立歴史民俗資料館を訪れました。1983年(昭和58年)に開館したということでしたが、建物の補強工事中ということで、臨時休館していました。(工事はほぼ終わっている感じでしたが・・・)この建物は、1921年(大正10年)に建てられた美濃郡役所だったそうですね。1見すると2階建ての様に見えますが、平屋建てで、建築面積は約100坪あるそうなので、見応えのある建物でした。
また、道路の反対側、益田小学校の体育館の裏手には「徳川夢声生誕地」の案内板が立っていました。もっとも1年くらいで津和野に移ったそうですが・・・。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:2.0
萬福寺の東方向、直線で500mくらいのところに、益田で雪舟の作と伝わる2つの庭園のうちの1つがある医光寺がありました。医光寺は、1363年(貞治2年)に創建された大伽藍の崇観寺の塔頭でしたが、後に、崇観寺は衰退し、その後を継ぐ形で現在まで続いています。
まずは道路近くに建つ大きな山門が目を惹きました。見上げるほどの風格のある門ですが、七尾城の大手門だったものだそうです。関ヶ原の戦い後、益田氏が須佐への転封時に下げ渡されたそうです。なお、屋根の形は後年、手が加わっているそうです。肝心の庭園ですが、15代城主の益田兼堯(かねたか)の招きにより、雪舟は1479年(文明11年)に益田にやって来ます。そして、益田滞在中に崇観寺の第5世の住職となり、塔頭に庭園を造ったとされています。現在のお庭は、1729年(享保14年)に医光寺を襲った大火後に再興されたものだそうですから、元の姿がどの程度残されているかとなりますね。それはともかくとして、本堂の裏手に廻ると、あちこちに養生シートが拡がり、梯子も放置されていました。せめて、受付で一言欲しかったなとブツブツです。ここは訪れたことに満足しておきましょう。続いて、本堂に廻り、ご本尊の薬師如来像をお参りしました。境内には雪舟灰塚がありました。東光寺でなくなった雪舟は、以前に住職を務めた崇観寺で荼毘に付されたと伝わっていて、その場所がこの灰塚だということです。なお、山号は瀧蔵山で、臨済宗東福寺派のお寺さんです。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 2.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:4.0
萬福寺の北東方向、直線で200mくらいのところに、染羽天石勝(そめばあめのいわかつ)神社がありました。創建は725年(神亀2年)と伝わり、大和の摂津からやって来てこの地方を開拓した春日族の始祖天石勝命(あめのいわかつ)を祀った神社とのことです。染羽(そめば)はここの地名です。この地の氏神として益田氏の手厚い庇護を受けたとのことです。
神門の横にいくつかの石碑が放置?されていました。3つ並んでいる真ん中が九日塚と呼ばれる芭蕉句碑だと思われます。「春立ちてまた九日の野山かな」。1688年(貞亨5年)初春に伊賀上野盆地を詠んだものです。この石碑は1783年(天明3年)に建立されたものだそうです。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年12月26日
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:5.0
三宅御土居跡から益田川の土手道を少し東方向に進んだところに萬福寺がありました。こちらは雪舟庭園と伝えられているお庭が有名です。平安時代に天台宗の寺院・安福寺として創建されたお寺さんです。津波で流出した後、時宗の道場として再興されます。1374年(応安7年)に11代城主・益田兼見(かねはる)が現在地に移し、寺号を萬福寺と改め、益田家の菩提寺とします。1479年(文明11年)に15代城主の益田兼堯(かねたか)が雪舟を益田に招きます。これがこのお寺の庭園が雪舟の作とされる所以です。
さて、趣のある山門を潜ります。境内は広く開いていて、正面には約650年前の築造となる大きな本堂の優美な姿があります。まずは、本堂横の入口で手続きをして本堂裏の庭園に向かいます。夢に見たいと思う理想的なお庭の様に感じました。後ほど、地上からの目線で見てみましたが、やはり、本堂の濡れ縁の高さから見る様に考えられていると思いました。ど素人は大きさのある石の集まったところに目が行きますが、左端にある三尊石がこのお庭のキーなのだそうですね。本堂も拝観できます。お宝の様な仏像、仏画、竜虎の衝立などがたくさん見られます。、特に、龍の欄間は見応えがありました。なお、萬福寺の山号は清瀧山で、時宗のお寺さんです。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:3.0
雪舟の郷記念館から益田川方面へ南に進み、県道171号線沿いに三宅御土居跡がありました。ここは益田氏の城館跡と見られているところです。なお、県道171号線は七尾城通りとの愛称が付いているそうです。七尾城跡は益田川を越えた先の小山の上ですから、平常時は平地のここに館を構えていたとなります。城館の敷地はかなりゆがんでいますが、広さはおおよそ190m×110mほどの広大さで周囲を土塁(御土居)で囲んでいました。その周りには濠を築いてありましたが、益田川はその濠の一部を担っていました。道路横に「おどい広場」と名付けて整備されていました。屋敷跡からは約1、000個の掘立柱跡が見つかっているそうです。掘立柱とは建物の柱を直接地面に立てる建築方法だそうです。繰り返し、何度も建て替えられていたそうで、こんなに多くの跡が残っているのですね。種類の違う金属板で、年代別の建物跡が示されていました。
- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:3.5
雪舟山水郷の一画に、雪舟の郷記念館がありました。場所は、雪舟の墓の後ろの低い丘の先といったところです。雪舟や益田家に関する資料を展示しているこの記念館ですが、1990年(平成2年)に開館しています。「雪舟の益田」の切り札?として、前年にふるさと資金を使って、雪舟の「益田兼堯像」を購入したことがきっかけだそうです。(現在は年2回公開されるそうです)建物は中世寺院をモデルにしたもので、茶色の瓦葺きは雪舟縁の、中国寧波天童寺を模したのだそうです。作庭の名手でもあった雪舟を偲んでか、お庭「八景園」が造られていました。
- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 展示内容:
- 3.5
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:5.0
益田の大喜庵に雪舟の墓がありました。雪舟のお墓とされるところは何ヶ所かありますが、ここは1番有力とされるところです。大喜庵の歴代の住職のお墓が並ぶ一画にありました。2段の墓石の上に扉の付いた小さな祠が乗っていました。雪舟はここにあった、当時の益田氏の菩提寺・東光寺で1506年(永正3年)に亡くなったとされています。当時としてはたいへん長寿で86歳だったとのことです。医光寺で火葬され、遺骨は東光寺に埋葬され宝篋印塔が建てられたとのことです。東光寺は焼失してしまい、益田氏も須佐に移ってしまって衰退し、その地に大喜庵という庵が結ばれたのは、雪舟200回忌を契機として、1702年(元禄15年)のことです。そして、1754年(宝暦4年)には、宝篋印塔の痛みが激しくなったので、地元の人々の手で現在のお墓に直されたそうです。小さな祠の中には宝篋印塔の1番上の相輪が収められているそうです。
お墓の真後ろに隠れる様に「雪舟禅師追褒塔」がありました。雪舟顕彰会が500回忌を記念して2005年(平成17年)に建立したもので、元のお墓の場所を保存することを目的にしたものだそうです。
墓所への入口に「画聖雪舟禅師終焉地碑」と刻まれた石碑がありました。これも没後500年記念事業として、2005年(平成17年)に建立されたものだそうです。良く見ると、中国寧波天童禅寺方丈誠信書と刻まれていました。雪舟が中国の明に渡った時に、禅の修行をした天童寺の163世住職の誠信さんの揮毫なのですね。益田市と中国寧波市とは雪舟の縁で姉妹都市だそうです。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:5.0
益田には、雪舟に関連する大喜庵、伝雪舟の墓、雪舟の郷記念館が集まっているところを雪舟山水郷という呼び方があるそうです。その雪舟山水郷は国道9号線の交差点・乙𠮷東辺りで南東に見える低い丘陵でした。元々、大喜庵の場所には、16世紀初めには益田氏の菩提寺だった東光寺があった(益田氏はたびたび菩提寺を変えています)とされていて、雪舟は晩年となる1502年(文亀2年)からそのお寺を生活の拠点とし、1506年(永正3年)に亡くなったそうです。
雪舟が東光寺を気に入ったのは、ここからの眺めが禅を学んだ中国の洞庭・瀟湘の景を彷彿とされたからだそうですね。今の眺めは景勝地の趣はまったく感じられませんでしたが・・・。なお、東光寺は16世紀後半に全焼し、さらに、毛利家に付いた増田氏は関ヶ原の合戦後、須佐に移ってしまい、衰退してしまったそうです。江戸時代の1690年(元禄3年)に、ここに地元益田の僧・大喜松祝が草庵を結び、現在の大喜庵として続いているとのことです。なお、山号はなく、曹洞宗のお寺さんです。- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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投稿日 2022年12月26日
総合評価:4.0
益田は雪舟の足跡とお墓もあるということで訪れました。とは云っても、ほかの益田の観光スポットはほとんど情報もなしに訪れました。JR益田駅を出て、見回すと左手のビルの1階に「益田市観光案内所 たびのサロン」の看板がありました。観光的にはポピュラーではない益田ですが、キチンと駅前に案内所があることをうれしく思いました。
- 旅行時期
- 2022年11月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年12月26日
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投稿日 2022年12月26日
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投稿日 2022年12月21日
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投稿日 2022年12月21日
総合評価:4.0
長湯温泉の中のきもと温泉は、竹田からの県道47号線が、長湯温泉を東西に走る「ぐるっとくじゅう周遊道路(県道30号線)」に突き当たった角地にありました。長湯温泉の中では西部地域となります。横にはきもと商店があり、随分と横長に感じます。ここも長湯温泉なので炭酸水素塩泉です。コロナウィルスの心配がありましたので、今回は家族風呂を利用しましたが、一般用には黒岳と大船山という2つがありました。料金がちょっと違いましたが、利用者が多いということか、黒岳の方が古く、大船山の方は新しく追加されたとのことです。温泉の入口前にはチェーンソー彫刻?がたくさん並べられていました。新しいのはミッキーですが、十二支でも揃えたらどうでしょうかね。浴室は家庭のお風呂よりちょっと広めといったところでした。窓から覗くと田舎の風景が拡がっていました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 泉質:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
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投稿日 2022年12月10日
総合評価:4.0
トキハインダストリーあけのアクロスタウンは明野団地の中央にあるということですが、余所の者が訪れて見ると、ここが明野団地ですという様な境目は分かりませんでした。境目を意識させないほど市街地が拡がっているということだと思います。明野団地は、大分臨海工業地帯に誘致された企業の社宅などが建設されたのだそうですね。その生活を維持するために造られたのがあけのアクロスタウンで、1971年(昭和46年)に開業したそうです。日本経済の成長期とともに歩んできたといえるでしょうね。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- お買い得度:
- 3.0
- サービス:
- 3.0
- 品揃え:
- 4.0
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投稿日 2022年12月10日
総合評価:4.0
アミュプラザおおいたの屋内最上階となる4階に、TOHOシネマズ アミュプラザおおいたがありました。鉄道駅直結のシネコンということになります。大型ショッピングモールには必ずというくらいシネコンがありますが、ここ大分駅の様に駅舎を含めた再開発をしても必須のテナントということでしょうか。ここは10スクリーンで、座席数は1、700強ですから、シネコンの標準的なサイズだと思います。2015年(平成27年)にオープンし、やっと、お客さんが定着してきたところで、コロナですから辛いところでしょうね。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- サービス:
- 3.0
- 雰囲気:
- 3.0
- 観光客向け度:
- 3.0


















































