jijidarumaさんのクチコミ(12ページ)全662件
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成田:義民佐倉宗吾を知るには「宗吾御一代記館」を訪れるのが良い。
投稿日 2022年10月06日
総合評価:4.0
コロナ禍や高校受験期にあたったこともあって、3年ぶりに世田谷から孫娘を連れて長女が来訪した。
昼食に娘が是非あそこの蕎麦を食べたいと言い出した。私共もこのところ、食べていなかったから、娘が希望した<成田・宗吾参道前の甚兵衛そば>を食べに行った。
食べた後は宗吾霊堂に御参りし、孫娘には分かりやすい「宗吾御一代記館」を訪れることにした。
<宗吾霊堂(そうごれいどう)>
〒286-0004 千葉県成田市宗吾1-558
Tel:0476-27-3131
最寄り駅:京成電鉄 宗吾参道駅から徒歩15分
一般駐車場:有
大本堂:真言宗の本尊は大日如来だが、ここは佐倉惣五郎の霊が祀られている。
仁王門: 1978年(昭和53年)完成。
薬師堂: 本尊は薬師瑠璃光如来。
聖天堂: 坂上田村麻呂の持仏と伝わる大聖歓喜天像が祀られている。
鐘楼堂:
宗吾霊宝殿:
宗吾御一代記館:
・・・・・
<宗吾御一代記館>
大本堂から左手奥に宗吾御一代記館(昭和42年開館)がある。
娘達が見に行きたいと言うので、何度目かの訪問になった。
此処では宗吾(佐倉惣五郎)の生涯を、66体の人形を使った立体パノラマで解説している。
宗吾御一代記館の定休日:月曜日(祝日の場合は翌日休館)
宗吾御一代記館の入場料:大人700円、子供400(霊宝殿と共通)尚、JAFメンバーの提示で半額になった。
宗吾御一代記館は少々時代を経て、古びた感もあるが、順路に沿って一巡りした。
宗吾御一代記館は宗吾霊堂境内にある資料館です。義民・佐倉宗吾の生涯を再現しており、佐倉騒動の発端から甚兵衛渡し、妻子の別れ、*直訴から処刑にいたるまでを等身大人形66体で13場面を表現しています。各場面に説明がついており楽しみながら歴史を学ぶことができます。
(参考:公益社団法人 千葉県観光物産協会HP)
*将軍家直訴の場面・・・・籠訴(かごそ)で訴えが認められず、最後の手段として、宗吾は承応元年(1652年)12月20日、上野寛永寺参拝の四代将軍家綱公に直訴を決行した。幸いにも名君であった将軍後見役の保科正之公(二代将軍徳川秀忠の庶子にあたる。三代将軍家光の異母弟で、家光と四代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした)が願書を御取り上げになり、これにより佐倉領民の苦しみは救われた。
私共は何度か見ているが、孫娘は初めてで、興味深く見聞きしていた。
近くの宗吾霊宝殿にも関連の展示があるので娘親子はそちらものぞいていた。
私共は暑い中、歩き疲れて、ここはスルーして涼しい所で待つことにした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2022年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
成田:義民・佐倉宗吾を助けた義侠の人・印旛沼の渡し守甚兵衛の言い伝えが残る甚兵衛公園
投稿日 2022年10月04日
総合評価:4.0
過日、成田・宗吾参道前の甚兵衛そばを食べ、宗吾霊堂に詣でた。
霊堂から数キロ離れた甚兵衛公園には遅ればせながら、先日訪れた。
というのも、コスモスが咲くと云う事を聞き及んだからだが、残念なことに
今年の酷暑と大雨で、コスモスは育たず、雑草ばかりの草原があっただけだ。
さて、甚兵衛公園には十数本の立派な松が立っている。日本名松100選に選ばれた
という記念碑も傍に見ることができる。
曼珠沙華(ヒガンバナ)の花も盛りを過ぎて咲いていた。
水神の森(甚兵衛の森)と呼ばれて親しまれている公園一帯には、かつての
渡しの河岸、水神社、甚兵衛の御堂が見られ、いまだに370年前の義侠の人、
甚兵衛翁を顕彰している。
・・・・・
印旛沼の渡し守であった甚兵衛は、佐倉藩の圧政について、徳川将軍家に
直訴する為、江戸へ向かう手配中(佐倉藩から)の宗吾を対岸に送り届けたのち、
自らは印旛沼に身を投じたと伝えられている。
宗吾御一代記館・甚兵衛渡しの場面は「義侠の鉈(ぎきょうのなた)」と
称されている場面である。佐倉藩により、夜間の渡し船の運行を禁じられ、
渡し船にはご禁制の鎖が付けられていた。甚兵衛は宗吾の江戸行きを
助けるために、鎖を鉈で断ち切る有名なシーンだ。
<歌舞伎で知られる「義民佐倉宗吾(本名は木内惣五郎)」>
今から350数年前の承応元年(1652年)に、佐倉藩圧政による凶作と重税に
苦しむ農民を救うため、公津村(現在の成田市)の名主の木内惣五郎は、
当時禁じられていた四代将軍徳川家綱への直訴を決行し、大勢の農民を救った。
しかし翌年8月に、その罪をとがめられて、木内惣五郎と4人の子供たちは
処刑された。
その刑場跡が、現在の東勝寺(宗吾霊堂)のある場所といわれている。
・・・・・・・- 旅行時期
- 2022年09月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
-
投稿日 2020年09月09日
総合評価:4.0
<英国王室の離宮:ウィンザー城と衛兵交代式を見る>
<1978年夏の休暇・イギリス旅行>
1978年8月5日(土)~19日(土)の15日間
8月5日、ドイツ・デュッセルドルフを出発し、この夏の休暇旅行は初めて、イギリス旅行をした。
その旅の第一の目的はScotlandスコットランドのエディンバラ城で行われるEdinburghエディンバラの祭り・「Military Tattooミリタリー・タトゥー」を見に行くことだった。
この時は駅観光案内所で紹介されたロンドン市内のホテルに3泊し、名前をあげれば、8月6日にLondonロンドンのウェストミンスター寺院、国会議事堂とビック・ベン、バッキンガム宮殿と衛兵交代式、テームズ川とタワーブリッジ、トラファルガー広場とライオン像、大英博物館、
8月7日は、ロンドン塔、Madame Tussaudsマダム・タッソー館(蝋人形館)、動物園(パンダ見物)、ギルドハウス、イングランド銀行、
8月8日には市内でショッピング(銀器、Burberryバーバリーコート)、ピカデリー・サーカス、
4泊5日のロンドン観光は初めてで、観光書に載っている主だった所を見て回った。5日目の8月9日にロンドンを出発、西34kmの近郊にあるWindsor Castleウィンザー城と衛兵交代式、ロンドンから90 kmのOxfordオックスフォード、文豪シェークスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラトフォード・アポン・エイヴォンを見物する。
<英国王室の離宮:ウィンザー城と衛兵交代式を見る>
8月6日にロンドンのバッキンガム宮殿に行き、大勢の観光客と共に衛兵交代式を見物したが、5日目の9日(水)には、もうロンドンを離れて北に向かう。
スコットランドに向かう途中あちこちを訪ねるのだが、その第一は英国王室の離宮であるウィンザー城を訪ねる事だ。
この日、女王様がお出でになっていたかは、記録に無いので不明だが、ウィンザー城内には入った写真が無いから、多分、外観を眺め、観光客と共に衛兵交代式を見たのだろう。ここではバッキンガム宮殿の時よりも見物人は少なく、身近に衛兵たちの交代式や行進が見えたから、娘たちも大いに喜んだものだ。
先頭には大きな犬(軍用犬)が真紅の上衣をまとい、兵と共に歩む。その後を少数の軍楽隊が指揮官の指揮で軍楽を奏でながら行進し、更に高々とした黒の熊毛の帽子をかぶり、鮮やかな真紅の上衣の制服を着て、整然と行進する衛兵たちの姿はとても格好良く、その事に満足したのだろう。
ウィンザー城は女王エリザベス2世が週末に過ごす場所である。テームズ川畔に立ち、凡そ45千㎡の床面積を持ち、住居者がいるものとしては世界最大の城と云われ、ヨーロッパでもっとも長く使われている王宮である。
築城の歴史はNorman dynastyノルマン王朝(1066年、フランスのノルマンディ公William Iウィリアムのイングランド征服によって成立した王朝)の初代イギリス王ウィリアム1世(1027年~1087年)が、この地に木造の砦を築いたのが始まりで、その砦は現在のウィンザー城のMiddle Wardミドル・ウォード、円形の塔の部分に建てられたものであったと云う。
因みにウィンザー城内はLowerロウァー、ミドル、Upperアッパーの3つのWardウォードと呼ばれる部分に分かれている。上の城郭アッパー・ウォードには、庭園を囲むように王室の建物が配置されており、賓客の間、儀式の間、国王・女王の居間や寝室がある。
公式諸間(State Apartmentsステート・アパートメント)は、1824年から1866年の間に、ドイツとの*同君連合・ハノーヴァー王朝のイギリス王ジョージ4世(ドイツ名はGeorg IVゲオルク4世:1820年~1830年)、ウィリアム4世(ドイツ名はWilhelm IVヴィルヘルム4世:1830年~1837年)と、Queen Victoria ヴィクトリア女王(1837年~1901年)の為に建てられたそうだ。
訪問当時は「同君連合・ハノーヴァー王朝」といったことの詳細を知らなかったが、以下の事を知っていれば、英国王室の見方も変わっていただろう。
≪英国ヴィクトリア女王はドイツ人だった!≫
https://4travel.jp/travelogue/10875676
・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1978年08月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
ベルヒテスガーデンの白い黄金:子供も大人もちょっとした冒険ができる岩塩工場(岩塩坑)は楽しい。
投稿日 2022年09月22日
Salzbergwerk Berchtesgaden ベルヒテスガーデン
総合評価:4.5
1979年7月29日、日本に帰国する前にドイツ最後の夏の休暇旅行(7月28日~8月2日:6日間)をした。
休暇旅行前の6月15日朝9時、デュッセルドルフ市内、Hofgartenホーフガルテン傍の信号でドイツ人の運転する大きなアウディ車に追突され、愛車のオペルが全損になってしまった。この為、デュッセルドルフ=>ミュンヘンを電車で行き、ミュンヘンからベルヒテスガーデン間をレンタカーで走った。
ベルヒテスガーデン市内の古城ホテル「Koenigliche Villa王のヴィラ」に4泊し、Koenigssee王の湖、聖バルトロメー僧院など見物した。
このホテルは1848年に建設され、1912年まで、バイエルン王の夏の宮殿として使用されたものである。記憶では紋章博物館が宮殿内にあった。
(尚、2008年4月26日に久しぶりにこのホテルを訪ねてみたが、イタリア料理のレストランになっていてガッカリした)
<Salzbergwerk Berchtesgadenベルヒテスガーデンの岩塩工場(岩塩坑)>
岩塩坑は1517年から開発されたもので、山腹から山の中に向かって採掘を行った。
現在はその岩塩坑(トンネル)を見学する観光事業になっている。
岩塩坑の発着所で、全員が見た目には奇妙な集団となる、昔の抗夫が使用した黒い帽子を被り、黒い上着と白のズボンを着て、身支度する。(写真参照)
其の後、乗車したトロッコ列車で地中700mを進む。
ちょっと怖いのは全長30mという地下坑道の木製滑り台を地下の広場まで滑り降りることだ。広場には坑道入口がある。
さらに、地底にある池を対岸まで、渡し船(写真参照)に乗るなど、子供たちも私共も珍しい、楽しい体験をした。
・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 1979年07月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 半日
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
-
旧五日市町・武門の崇敬も篤かった古社・阿伎留神社境内には岸 忠左衛門翁の胸像と顕彰碑が立つ。
投稿日 2022年09月06日
総合評価:4.5
2022年4月23日(土)青梅の釜の淵公園を散策してから、あきる野市三内・小机邸「隠れ家」カフェ・安居(あんご)を訪ね、その後久しぶりに旧五日市の町を走った。
旧五日市町には母の実家がまだ残り、懐かしい街なのだ。
この町では、寺では古刹・広徳寺(こうとくじ)、神社は古社・阿伎留神社(あきるじんじゃ)が双璧である。
いずれも我が家には縁がある。
【阿伎留神社(あきるじんじゃ)】
あきる野市五日市1081
JR五日市駅から歩くと、上り坂を歩くのがキツイが、およそ15分ぐらいの距離だ。
秋川沿いの丘の一角に立っている。
(歴史)
平安時代初期の延喜式神名帳に、武蔵国多摩郡八座の筆頭にあげられる武蔵国内著名の古社である。正式には「阿伎留」と書くが、かつては「畦切」「秋留」などとも書かれた。
鎮座地から松原大明神と称し、江戸時代には春日大明神と称したこともあったという。
創建年代は不詳ながら、すでに元慶8年(884年)武蔵国正五位下勲六等畦切神を従四位下に叙するという記事が『三代実録』に見える。
武門の崇敬も篤く、藤原秀郷(平安時代の武将、別名俵(田原)藤太、百足(ムカデ)退治伝説が有名)は平将門の征討にあたり、戦勝祈願をしたという。
源頼朝、足利尊氏、後北条氏も社領を寄進している。天正19年(1591年)には徳川家康より朱印地10石を献じられた。
天保元年(1830年)五日市の大火により、社殿等一切を焼失した。明治6年郷社となる。幕末維新の混乱の中で社殿の再建は進まず、明治21年(1888年)に至り、ようやく現在の社殿が完成した。
現在三日間の神幸祭は近郷一の大祭として毎年行う。
天保年中に制作された六角神輿は屋根・胴すべて珍しい六角形で貴重なものだ。
尚、五日市郷土の偉人・第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞、日本赤十字病院看護婦監督を長く務め、『聖女』とか、『看護婦の鑑』、『日本赤十字社の明星』などと讃えられた萩原タケ女史(私の祖母の従姉にあたる)は、ここの境内で旧会津藩士に柔術を習っていたと云われる。・・・「聖女の道標」・夢酔 藤山著・・・
また、母の一番下の叔父が岸 儀一五日市町町長の一人娘と結婚し婿入りしたが、ここに登場する岸 忠左衛門翁(1869~1935年・昭和10年)は祖父にあたり、当地の有力者であった小机家と一緒に地域の大事業を為した。
阿伎留神社の境内、鳥居の右手にそれを顕彰した翁の胸像と顕彰碑が立っている。
【阿伎留神社境内に立つ岸 忠左衛門翁の胸像と顕彰碑】
岸 忠左衛門翁は、明治大正の両世代にわたり、西多摩郡会議員、五日市町長、東京府会議員を歴任、当地方発展のために生涯を捧げられました。
その間よく郷党の総意を結集し、豪毅果断な実行力をもって、各種の開発事業を興し、郷土の近代化に貢献されました。
わが秋川の郷に初めて電燈を灯し(大正5年)、汽車を走らせ(大正14年)、水道をひき、文化の恵沢をもたらしたのは、ひとえに翁の功績であります。
ここに翁の生誕百年に際し、われ等遺徳をしのぶ者、胸像を建設して、永く後世にその偉業を讃えるものであります。
昭和四十三年(1968年)九月二十八日
岸 忠左衛門翁顕彰会 会長 小机 武 他 有志一同
・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
あきる野市三内(さんない):明治時代の洋館をカフェにした小机邸 喫茶室・安居(あんご)は興味深い。
投稿日 2022年08月23日
総合評価:4.0
あきる野市・旧五日市町三内(さんない)にある小机邸 喫茶室・安居(あんご)を訪ねた。
<小机邸(こづくえてい) 喫茶室 安居(あんご)>
〒190-0162 東京都あきる野市 三内490
Tel:042-596-4158
現当主は小机 篤 氏で第11代目である。
※駐車場… 有り(数台可)・・・入口際と、本館前に駐車する場所がある。
営業時間… 金・土・日・月・祝日(定休日:火・水・木)
営業日… 11:00~17:30
2022年4月23日(土)青梅の釜の淵公園を散策してから、偶々、「小机大尽(こづくえだいじん)」の事を調べていて知った、あきる野市三内・小机邸「隠れ家」カフェ・安居を訪ねた。
青梅・かんぽの宿から武蔵五日市駅に向かって、秋川街道を下って行くと、山の麓の右手に明治時代の洋館をカフェにした小机邸喫茶室・安居がひっそりと佇んでいる。
要注意なのは大きな看板もなく、入口も目立たないし、通り過ぎてしまうかもしれないことだ。
中の様子が分からないので、入口際のスペースに車を停めて、邸内に入った。
*小机家(こづくえけ)は江戸時代後期に山林業で財を成し、幕末頃から深川木場(ふかがわきば)との商取引も盛んに行っていた。
この建物の建築年代は明治8年(1875年)頃とされ、当時の第7代当主小机三左衛門が、商取引で訪れた明治の文明開化の「銀座煉瓦街(ぎんざれんががい」の洋風建築に大いに刺激され、自宅新築に当たって洋風列柱廊や2階バルコニーなどを模して建築したと伝えられている。
都指定・有形文化財に指定されている洋館、土蔵造りである。
(東京都文化財情報データベース)
洋館前に立っていると、左手にある小屋で作業していた、現当主の小机 篤 氏が出てこられて、邸内に招じて下さった。
「擬洋風建築」は幕末から明治前期のわずか10年ほどしか作られていない超レアの建築だそうで、日本の各地で建築されたと云う。明治初期における文明開化の和洋折衷様式の秀逸な事例の一つである。
これらの建物は日本人の大工、宮大工や左官職人らが、西洋人の建築家が設計した建物を参考に、見よう見まねで建てた西洋風の建築物であり、確かに珍しい建築物だ。
旧五日市町の「隠れ家」カフェとして、知る人ぞ知る古カフェなんだそうだ。
古カフェの雑誌特集に掲載され、NHKのEテレ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』でも2018年4月4日に放映された。(尚、私共は2022年5月22日にも再?放送されたのでみることができた)
庭の見える4人掛のテーブルに座って、お茶にした。
<主なメニュー>
珈琲… 500円(税込)紅茶(ポット)…600円(税込)
抹茶(和菓子付き)… 800円(税込)、ケーキ… 500円(税込)
尚、チーズケーキはご主人・篤氏のお手製だと言うから驚いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思った以上に多摩、旧五日市の文明開化の進んだ様子が見て取れて、実に感心した建物でした。
ご主人にお礼を言って、車に戻ろうとしたら、メルセデスベンツの大きなのに乗った常連客と思しき妙齢の女性が一人で邸内に入って来た。
慣れた様子で車を停め、ご主人に挨拶して、喫茶室に入って行った。- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人当たり予算
- 1,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 2.5
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- サービス:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 4.0
-
釜の淵公園の桜並木は、家内の祖父定吉翁が植えて、育てたものだ
投稿日 2022年08月18日
総合評価:5.0
【青梅市:釜の淵公園の桜並木は、家内の祖父定吉翁が植えて、育てたものだ。】
「釜の淵公園」は多摩川が大きく蛇行している地形をそのまま公園にしたもので、四季折々の自然美を楽しめる。
とりわけ桜や紅葉の名所として知られている。
公園周辺には○丸印を付けた地図に見るような「かんぽの宿青梅」、「青梅市郷土博物館」、「旧宮崎邸」があり、対岸に「青梅市立美術館」などがある。
多摩川沿いにある「釜の淵公園」は緑が多く、広々とした自然な景観がつくる、恵まれた環境にある。今は多摩川の流れも細く、川原の方が広い。
とりわけ、多摩川沿いに咲く桜並木は桜の名所として知られ、例年3月下旬から4月上旬にかけてピンクに色づいた桜が見頃を迎える。満開時期の10日間、桜のライトアップを行われて人気も高いと云う。
この桜並木の由縁は、家内の実家の祖父・定吉翁(明治21年生まれ)が、当時多摩川沿いにあった畑が多摩川の氾濫で流されるのを防ぐために、畑地の所有者たちであった地区民と共に堤を築き、凡そ50本の桜を多摩川沿いに植えたと伝えられている。
以来、年々桜の木は成長し、見事な桜並木を形作っている。
青梅を離れて数十年、知らぬ間に桜並木が育っていた。
釜の淵の傍に板垣退助先生の銅像が立つ。
釜の淵の名前の由来は上流の小河内ダム(1957年:昭和32年竣工)ができる以前、多摩川が急流であった頃、川の流れが岩盤にぶつかり、その流れの向きを変えるとき、渦巻く流れによって川底が深く抉られ、いわゆる「淵」を形作った。
現在のかんぽの宿青梅の急峻な岩壁下、ちょうど市営プールの対岸に当たる辺りに「淵」が生じ、この淵を昔から人々は「釜ヶ淵」と呼んだそうだ。
岩壁上から見ると文字通り、「釜」のように見え、丸い深い淵であったのだろう。
今の多摩川は昔ほどの水量はないものの、台風の季節には大雨が降ると、かつての急流のごとく、激しく水は岩壁に当たり、渦を巻く、昔から人々が「釜ヶ淵」と呼んだ様子を見せるのだと云う。
私共が小学生の頃、よく水遊びをした大柳(おおやな)から千ヶ瀬への多摩川の流れには、岩壁や大岩(軍艦岩といった名で呼んでいた)が見られる場所があり、そこではかつて渦を作り、泳ぐ子供たちを引き込むような怖い淵があった。
夏、私の子供の頃はこのあたりで泳ぐのが日課だった。
確か右手に大岩があり、年長者から言われて、恐々と岩上から水に飛び込み、大岩下の深い淵にはまって(おぼれそうになって)、度々水を飲んだものだ。
当時の子供たちの年長者はしっかりと、状況を見ていて、おぼれそうな子供を下で待ち受けて、引っ張り上げてくれた。
そんな風にして私は泳ぎを覚えていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2022年04月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
青梅の吹上菖蒲公園は、青梅生まれの私共が知らぬ間に、いつの間にか観光名所になっていた。
投稿日 2022年08月15日
総合評価:4.0
2014年6月21日:故郷青梅の名所【関東の古刹(こさつ)・塩船観音寺(しおぶねかんのんじ)・吹上菖蒲園(ふきあげしょうぶこうえん)】を訪れた。
昨年の7月に母が93歳で亡くなり、2014年の年は母が残した実家の遺品などの整理で時々、青梅を訪ねた。
この時も前日に一泊して、帰る前に二つの名所に立寄った。
どちらの名所も、私共には名所というものではなく、
塩船観音寺はかつてものすごく鄙びたお寺であったし、友人がこの寺の板碑(いたび)について興味をもって、本を出版していたから、それらの事を思い出すぐらいのものだった。
しかも、故郷の名所と言いながらも、香港駐在(1992年~95年)から東京(1995年~96年)に、そして大阪(1996年~2001年)へと、単身生活が続いた時期に出来た吹上菖蒲公園(1998年開園)は、今までも一度も来たことがなかったのだ。
だから私共には、どちらも今回初めてと言って良い場所なのだ。
【吹上菖蒲公園】
東京都青梅市吹上425番地
「吹上花しょうぶまつり」・・・6月1日~30日
青梅市北東部に広がる霞丘陵の*谷戸地(やとち:丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形)で、勝沼城跡歴史環境保全地域に位置する。
開園は1998年(平成10年)というから、まだ十数年経っただけだ。
それでも、全体面積 約2.100ヘクタールの広さになった。
花菖蒲が開花する5月から6月にかけて毎年「吹上花しょうぶまつり」が開催される。
開催時の入園料は有料だが、それ以外のときは入園無料。
土曜日、日曜日は休園だがまつり開催時は無休。
・・・・・
吹上菖蒲公園は貴重な谷戸地(やとち)を保全するためにつくられた公園で200種超、10万本の花菖蒲が見られる。
花菖蒲(5月下旬~6月下旬)の他に、ホタルブクロをはじめとしてさまざまな花々も咲き、フジバカマ(9月中旬~10月中旬)や、彼岸花(9月上旬から中旬)も見ることができるそうだ。
*谷戸地(やとち):
多摩丘陵・三浦丘陵・狭山丘陵・房総丘陵・武蔵野台地・下総台地といった関東の丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸(やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)などと呼ばれている。
これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)または「谷」(や)を、東北地方では「谷地」(やち)を使う場合が多いと云う。
この広い吹上菖蒲公園の花めぐりは楽しい。
・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2014年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
多古町の日本寺は、今はアジサイ寺で有名だが、かつて関東三大檀林(大学)の一つとしても知られた。
投稿日 2022年07月04日
総合評価:4.5
多古町(たこまち)は関東平野、千葉県の北東部に位置し、香取郡に属する。下総台地と九十九里平野に挟まれ、町の中央部を下総台地に源流を発する栗山川(全長39km)が流れ、横芝光町の九十九里で海に流れ出ている。
多古町は思った以上に歴史的にも面白い町のようだ。町の人口は14.5千人である。
そして町の花は「紫陽花(アジサイ)」である。
先月5月4日に、千葉県匝瑳市(そうさし)の龍頭寺(りゅうとうじ)の樹齢100年を超える大ふじを見た帰りの通り道で、隣町の多古町にある日蓮宗の大学「中村檀林(なかむらだんりん)」と称された「日本寺」にちょっと寄った。
ここが「紫陽花(アジサイ)寺」として近隣では知られていることに気付いた。それで、6月の紫陽花の季節に日本寺を訪れたのだ。
多古町にある「日本寺」は「にちほんじ」と読む。
「日本寺」というと、鋸山(のこぎりやま)にある「日本寺」だと思う方が多い。鋸山は「にほんじ」であるから、日本語は難しく、面倒だ。
【「日本寺(にちほんじ)」】
〒289-2257千葉県香取郡多古町南中1820-1
0479-76-3745
日蓮宗の本山(由緒寺院)であり、山号は正東山(しょうとうざん)と称した。
元来は元応元年(1319年)、千葉胤貞(ちば たねさだ:鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第九代当主千葉宗胤の長男)より土地の寄進を受けた、中山法華経寺(なかやまほけきょうじ:千葉県市川市にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。山号は正中山)の3代目住職であった日祐(にちゆう:胤貞の子)上人が「高祐山東福寺」として建立した。
そして建立された「高祐山東福寺」を日祐の師・日常(にちじょう)上人に譲り、日常上人が開基・一世とされたのである。
約270年後の天正十九年(1591年)に「高祐山東福寺」を「正東山日本寺」に改めて現在の日本寺となった。
日本寺の十世を継いだ広才博学の僧日円(にちえん)により、「中村檀林(なかむらだんりん)が開かれたのは慶長4年(1599年)のことである。
最盛期には36の学坊・・・「観月庵」、「寂光庵」、「鳳林庵」、「浄心庵」、「真如庵」、「精進庵」、「摂心庵」等・・・に千人近くの学僧が学ぶという全国有数の学問所となった。
僧たちは東西に分かれて勉学に励み、春と秋の2回、それぞれ3カ月にわたり「新説」(しんだんぎ)とよばれる論争を繰り広げたと云う。
討論のテーマは日蓮宗の教義はもちろん、世間での出来事、社会問題にまでおよび、席上活躍のめざましかった学僧は、番付表に名札があげられた。
論戦には土地の役人も招かれ、多くの村人が見学に押し寄せたと記録に残る。
開壇の慶長4年(1599年)から、学制発布によって廃檀となる明治8年(1875年)まで、僧侶の養成機関であった中村檀林では、270余年の間に延べ10万人もの僧侶を輩出したと云う。
中村檀林は小西檀林(現・大網白里市正法寺)、飯高檀林(現・匝瑳市飯高寺)と並んで関東三大壇林と称された。
参道や歴代僧侶たちの墓地の周囲には10000株の紫陽花が植えられており「アジサイ寺」として知られてきた。
2013年には境内の杉木立の中に「アジサイの道=アジサイの庭園」が開園し、50種類以上の珍しい品種のアジサイがアジサイの道(散策路)わきに植栽されている。
ツツジの季節に訪ねた山門と夫婦銀杏の木がある。
山門の右手に大きな駐車場があった。
・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2022年06月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.5
-
東庄町:神話時代に創建と伝わる東大社詣でと、雲井岬つつじ公園見物に。
投稿日 2022年07月03日
総合評価:4.0
≪東庄町:神話時代に創建と伝わる東大社(とうだいしゃ)詣でと、雲井岬(クモイガサキ)つつじ公園見物。≫
(2022.05.12.)
東庄町(とうのしょうまち)という町名は昔この地域が東氏(とうし)の荘園であったことが由来である。この町は利根川に沿って、東の香取市(小江戸と云われる佐原を含む)と西の銚子市の中間にある。だからあまり、訪ねる事も無く、通過してしまう事が多い。
だが、この小さい町は面白かった。
この日も思い立って、ツツジの名所に行ってみようと、見つけたのが東庄町(とうのしょうまち)の雲井岬(クモイガサキ)つつじ公園でした。ちょっと、花の盛んな時期を外してしまったようで、公園には私共の他に1組の同年輩のご夫婦だけが見て回っていた。
現在はつつじ公園として、「おおむらさき」「やまつつじ」「琉球」など2,000本を超えるつつじが植えられており、見頃は4月中旬~5月上旬で、品種によって開花の時期が多少違っている。
<東大社(とうだいしゃ)>
〒289-0614 千葉県香取郡東庄町宮本434 0478-86-4405
アクセスは東関東自動車道を佐原香取ICで降り、利根川沿いの国道356号線で銚子方面へ直進40分走り、下総橘より県道267号で5分ぐらいにある。
雲井岬(クモイガサキ)つつじ公園は東大社(とうだいしゃ)の神苑として開かれた自然公園である。
敷地4977坪の境内には本殿、幣殿、拝殿、社務所、神楽殿、文庫が建ち並ぶ。
神話時代(古墳時代)・第12代景行(けいこう)天皇は即位53年から54年にかけて、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)の御東征の事績を確認するため東国巡幸した。その折、当地に一社を営み、玉依姫命(たまよりひめ:神武天皇=初代天皇の母)を祀られたとされている。
源頼朝の合戦に力を発揮した*千葉常胤(ちば つねたね)の六男、胤頼(たねより)がこの地の領主となったことから、神官はそれまで名乗っていた東(とう)氏を差し出し、君主の飯田郷の飯田(いいだ)を名乗るようになった。
*千葉常胤は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖と云われる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東大社の大スギ
東大社のケヤキの大木
野見宿祢(のみのすくねのみこと)の石像と力石
東大社で珍しいものをいろいろと拝見した。
生憎、空模様がさらに怪しくなり、予報通り雨がぽつぽつ落ちてきたので、来春の再訪を思いつつ帰路についた。
(2022年5月25日東大社社伝、Wiki・HP参考、編集・追記)- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.0
-
投稿日 2017年12月10日
総合評価:4.0
日本の小旅行?:匝瑳・飯高檀林・松山庭園美術館、旭・刑部岬・防災資料館
(2017年11月26日?11月27日)
日の落ちるまで時間があると、旭市の防災資料館に向かった。国道126号線は少々混んでいたが、浜辺に立つ資料館に着いてみると、誰も見かけない。駐車場はいいおか潮騒ホテルと兼用している様子で、広いものの駐車中のものはホテル客の車ばかりだった。
資料館の窓から中を見ると、電気もついている。ドアを開けていると、責任者の方が招じ入れてくれた。
<旭市防災資料館>
旭市萩園1437(いいおか潮騒ホテル東側 隣接)・月曜休館
http://www.city.asahi.lg.jp/kanko/002_11.html
2011年3月11日に発生した東日本大震災(地震)と、それに伴って発生した津波は東日本各地に甚大な被害を与えた。
この日、千葉県九十九里の沿岸も地震発生の3時間後、三度にわたり津波が押し寄せて、旭市一帯に大きな被害を出していた。資料館の展示によれば、震度5強、死者14名、行方不明者2名、住宅被害3827世帯という甚大な被害である。
資料館の写真でも、海抜高さ7.6mの大津波が旭・飯岡地区に襲いかかり建物や車を次々と破壊してしまった様子が見られた。陸上への浸水が地上2.1mに達し、住宅・店舗・工場・役所などに大きな被害をもたらしたとある。
旭市防災資料館は旭市に甚大な被害をもたらした東日本大震災の記憶を後世へと伝えるべく、また、悲劇を繰り返さぬよう防災の知識を学習する為、2014年7月19日に開館したそうである。
ここの展示室の写真やDVD「被災地あさひ ―被災から復旧、そして復興へ 2011.3.11の記録(21分の上映時間)」も大いに参考となるものだった。他市の子供たちも校外学習に訪れると云うから、大事な役目を果たしているようだ。
資料館の屋上は津波緊急避難施設でもあり、緊急時には外階段から屋上に避難することができるとか。地上約11mの高さで、約600名を収容できる。
・・・・・
11月27日(月)はゆっくり12時まで「かんぽの宿 旭」で過ごした。
今日の予定は宿から遠望した刑部岬です。
<刑部岬(ぎょうぶみさき)>
刑部岬は千葉県旭市上永井にある岬で、眺望がすこぶる良いと聞く。
岬には飯岡灯台が設置されて、写真好きには絶好の場所のようだ。
この岬は銚子市の犬岩からずっと切り立った断崖を形成している屏風ヶ浦の南端になる。その断崖はさすがにここからは見られないが、ともあれ岬の高さは65ⅿ、ここから見える一帯は大津波の来襲で傷みつけられた飯岡漁港やその先に見える旭市防災資料館、かんぽの宿 旭、そして九十九里浜が弓状に連なり、太東崎まで66kmの砂浜が続いているのである。
岬の周辺は上永井公園と称する。飯岡灯台や「飯岡刑部岬展望館〜光と風〜(平成13年3月オープン)」があり、展望館に上がってみた。上々の天気ながら、風は強い。それでも寒さを感じるほどではなかった。
前述したごとく眺望がすこぶる良い。望遠鏡で覗いてみると、驚くほど近くに見え、丁度漁を終えて帰港する数隻の漁船が港内に入ってくるのが見えた。よく見ると魚釣りの客船のようだ。
展望館の傍に漁港を望んで「あしたのジョー」の石像があった。防災資料館の傍にも同じものがあったが、作者のちばてつやが飯岡に在住していた時期があったそうだ。その先の北総台地には風力発電の大きなプロペラが回っているのが見える。
・・・・・- 旅行時期
- 2017年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
-
大津波に襲われたかんぽの宿 旭:ベランダからの海の眺めは只々海が見える
投稿日 2017年12月08日
総合評価:3.5
日本の小旅行⑤:匝瑳・飯高檀林・松山庭園美術館、旭・刑部岬・防災資料館
(2017年11月26日~11月27日)
11月26日(日)は「かんぽの宿 旭」に一泊した。
<かんぽの宿 旭> 0479-63-2161
和室43+洋室18室=全51室がオーシャンビューという事でした。
6階和室8畳からの海の眺めは只々海が見え、左手遠くに刑部岬、右に九十九里の浜が長々と見える。Web直前予約であったが、行ってみると、満室というから驚きだ。
私共は別に風呂目当てではないが、10Fに展望風呂、1Fには大浴場があり、風呂好きの同年配の老人夫婦も多く、かんぽの宿らしい。
海風は強く、車のドアの開閉にも気を使ったものだ。
震災ではすごい写真を旭市防災資料館で見た。当時1階部分が被害にあったそうだが、そんな感じはもう残っていない。ただ、地震の所為か、部屋の一部の畳が凹む場所があった。部屋のフスマの汚れにも気付いてしまった。
しかも朝食後にチェックアウトをしてから、ホテルのショップでお土産を買おうとすると、チェックアウト後はクレジットカードの使用ができないと店員に言われた。このシステムが理解できないまま、買物はやめてしまった。宿泊客以外の買物も現金だけなのか、今時と思ったが・・・。
ともあれ、海のかんぽの宿だけあって、お魚料理は美味しかった。
・・・・・- 旅行時期
- 2017年11月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 1人1泊予算
- 12,500円未満
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 客室:
- 3.0
- 接客対応:
- 3.0
- 風呂:
- 3.0
- 食事・ドリンク:
- 3.5
-
「猫ですか?紅葉ですか?」と女館長さんに聞かれた松山庭園美術館
投稿日 2017年12月04日
総合評価:4.0
≪「猫ですか?紅葉ですか?」と女館長さんに聞かれた松山庭園美術館≫
〒289-2152 千葉県匝瑳市松山630
金・土・日・祝のみ開館:開館時間 10:00〜17:00、入場券大人800円
http://matuyamaartmuseum.web.fc2.com/
匝瑳市(そうさし)は千葉県北東部にある人口38千人の町だが、北部は里山が目立つ農村地帯であり、南部は九十九里海岸に接して、縦長の田園都市である。植木の町としても知られていると云う。
那須に「那須高原 私の美術館」と称した個性的な美術館があったから、匝瑳の山里にある美術館も以前から興味があった。
(〒325-0304 栃木県那須郡那須町高久甲6039-4)
http://watasi-museum.jimdo.com
2017年11月26日~27日、千葉県旭市の旭のかんぽの宿に泊まる日に、途中日蓮宗の檀林(飯高檀林)を見た後、紅葉でも知られる松山庭園美術館を訪れた。
少し早く道を曲がった所為か、細い道がクネクネと続き、対向車が来ることに心配した。案内の看板が各所に立っていましたが、ナビを使って、なんとか里山の小高い丘の上にある美術館に至った。
もう紅葉の季節には遅いか思ったが、遅い季節のせいではなく、今年は10月の2つの台風来襲で、モミジの葉が縮れてしまい紅葉も今一つの様子だった。
飯高檀林でも山門の石段傍のモミジも、境内の鼓楼前に家康の側室「お万の方」お手植えの楓(かえで)もその影響を感じさせました。
この庭園美術館は芸術家・此木三紅大(コノキミクオ)氏のアトリエを公開したものです。2千坪の敷地には本館(増設したと思われる住居に接続)を主に、企画展示館があり、庭園に入る際にくぐる長屋門、園内の見晴し亭、茶室などが点在し、苔と紅葉、芝生と松となかなか見栄えの良い庭になっている。
本館には此木氏御自身の作品、蒐集した名画コレクション(コンスタンブル、ドラクロア、浅井忠、長谷川利行、村山槐多など)、見事な茶道具など(本阿弥光悦、道入(のんこう)、仁清、志野、大井戸、織部などの名碗、乾山の掛け軸、唐物青貝香合ほか)が展示されている。
展示館には此木氏の鉄の彫刻(ガンダ彫刻:ちなみに、ガンダとは銚子付近の言葉で鉄くずのこと)などが見られた。
駐車場スペースや庭園内の各所にたいへん面白げな石の彫刻(朝鮮の文官の石像や鬼)や鉄の彫刻も展示されています。中には錆びついてしまった作品までも。
尚、玄関の左にある眺めの良い小部屋は写真集、美術雑誌、小物が置かれた休憩所で、奥様・紀子館長にコーヒーを飲ませて頂きました。
(クッキー付きで二人で1,000円だったか)
「那須高原 私の美術館」については奥様曰く、「来年には閉館してしまうかもしれない」との事でした。
本館で作品を眺めていると、中学時代のクラスメート・Tちゃんにばったり遭った。40代の娘さんご夫婦と銚子に一泊し、“猫で知られた”松山庭園美術館に立ち寄ったとか。
猫好きが訪れる美術館は本館や庭園内を何匹かの猫が歩き回り、Tちゃんたちも多くの来館者も猫の写真を撮ってじゃれ合って居た。
先ほど奥様に「猫ですか?紅葉ですか?」と聞かれたが、美術館もこの季節、来館の目的もいろいろあるようだ。
駐車場は美術館下の道路際、丘の上の美術館前に十分な駐車場がある。
・・・・・・・・・
(此木氏の経歴)
1937年東京生まれ。中学1年より油彩画を始める。
武蔵野美術大学、ローマ・アカデミア美術大学卒業。
1976年美術団体「青枢会」創立。
1995年「那須高原私の美術館」開館、常陳される。
1998年千葉県匝瑳市に「松山庭園美術館」設立。
絵画にとどまらずガンダ彫刻や石彫や庭園など多彩な才能を発揮。公共施設にも多数の作品を制作設置している。
近年は、中国上海でも注目され、二つの国立美術館で買上収蔵されている。
現在、青枢会代表顧問、日本扇面芸術協会代表顧問、日本ガラス絵作家協会会長。
・・・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2017年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 展示内容:
- 4.0
-
匝瑳(そうさ)の里山に残る全国一の格式を持った飯高檀林(いいだかだんりん:僧侶の学問所)
投稿日 2017年12月07日
総合評価:4.0
≪飯高寺(はんこうじ):飯高檀林(いいだかだんりん)≫
千葉県匝瑳市飯高1789
今年はドイツの旅に代り、5月から関東近辺の小旅行をしている。
今日は以前から気になっていた千葉の名所旧跡を訪ねることにした。
(2017年11月26日~11月27日)
匝瑳(そうさ)の飯高(いいだか)という里山地域(舌状台地:ぜつじょうだいちは舌を伸ばしたような細長く突き出た台地のこと)に名刹がある。
日蓮宗の寺院というか、かつての僧侶の学問所である(現在の大学の様な)飯高檀林(いいだかだんりん)=飯高寺(はんこうじ)が、それである。
広い駐車場(無料)で飯高寺の資料を頂いて裏手の道をたどり、正門である檀林山門の石段にいたる。もう紅葉の季節には遅いようで、山門の石段傍のモミジの葉が縮れていて紅葉も今一つの様子だった。
後でガイドの方に聞くと、今年は10月の2つの台風来襲で、石段傍のモミジや、境内の鼓楼前に家康の側室「お万の方」お手植えの楓(かえで)が大きな影響を受けたそうだ。
石段を登り、総門をくぐり、森閑とした参道を行く。
左右は杉木立も高々とし、苔むす様子が何とも言えない厳粛さがある。
天正8年(1580)に日生(にっしょう)により開基され、山号は妙雲山法輪寺だが、実際は檀家が存在しない珍しい寺で、お墓もあるが歴代の化主(けしゅ:檀林長のこと)たちの廟が寺域左手にあった。
飯高檀林は関東で初めて日蓮宗の檀林(僧侶の学問所)となり、その後、天正19年(1591)に徳川家より日蓮宗の根本檀林として寺領30石を寄進され、徳川家康、養珠院(ようじゅいん、お万の方と称した家康の側室。紀州徳川家の家祖頼宣、および水戸徳川家の家祖頼房の母)、頼房、光圀、頼宣などの信仰も厚く、その庇護を受け、格式の高い檀林へ発展した。
つまり関東8檀林、関西6檀林あわせて14檀林中、最高位の檀林であったと云う。
学僧は年2回(春・秋)それぞれ100日間学んだと云う。8段階の課程に分かれ、各課程の定められた講義を受け進級したそうです。入学してから、36年間の期間をかけて全課程を修了したと云うから、聞くだけで驚いてしまう。
元禄時代(1700年代)には450~650名の学僧がいたとパンフレットに書かれていた。
この日、寺の管理者のめったにないご親切で、講堂内の見学ができた。その東西の壁に(柔道の段位の如く)成績順に学僧の名前が架けられていたのが印象的で、面白いことに檀林には卒業という言葉は無く、その代わりに全国の寺院からの求めに応じ、上位者から随時寺院の住職に進んだそうだ。
世に知られる身延山久遠寺や池上本門寺といった、所謂「出世寺」から住職=指導者の求めがあるという、名実ともに格式があったようだ。講堂中央には天蓋があり、天蓋には三つ葉葵と菊の御紋が刺繍され、格式の背景を感じた。
飯高檀林は明治の学制発布により廃檀となり、294年間の歴史を閉じるが、その名跡を継いだ立正大学へと形を変えて発展する。
それを記念した、大きな立正大学発祥之地の碑が寺域右手に建てられている。
講堂・鐘楼・鼓楼・総門が国指定の重要文化財(昭和55年)、檀林跡としては境内全体(総面積67,667㎡)が千葉県指定の史跡になっている。歴史的建造物を保存するため、平成14年までに「平成の大修理」が行われた。
頂いた案内書によると、付近の社寺を巡るハイキングコースもあり、水戸光圀公の御手植えと伝えられる黄門桜も見事だとある。
尚、映画・TVの撮影に適した境内では最近も、映画『忍びの国』の撮影ロケが行われたそうだ。
地元の方々は皆さん親切で、駐車場管理兼観光案内所の方、ガイドさん、寺の管理者の皆様のおかげで、たいへん満足した見学ができた。
・・・・・- 旅行時期
- 2017年11月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- 見ごたえ:
- 4.5
-
下総・東庄町:天保水滸伝遺品館には天保水滸伝にちなんだ展示が豊富で驚いた。
投稿日 2022年05月21日
総合評価:4.5
今年(2017年)はドイツの旅に代り、5月から関東近辺の小旅行をしている。
今日は以前から気になっていた千葉の名所旧跡を訪ねることにした。
日本の小旅行⑤:匝瑳・飯高檀林・松山庭園美術館、旭市・刑部岬・防災資料館(2017年11月26日~11月27日)と称して1泊2日の小旅行をした。
27日、かんぽの宿旭を出て、旭市飯岡の侠客たちの墓や碑を巡った。
これに続いて、2017年12月1日に下総の侠客たちが争闘を繰り返したという利根川沿いの東庄町(とうのしょうまち)を訪れた。
<東庄町・天保水滸伝遺品館>
〒289-0601 千葉県 香取郡東庄町 笹川580-1
開館:9時~17時 休館日:月曜日 、入場券200円
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、土地を潤す利根川と共に、昔から語り伝えられてきた東庄(江戸末期の千葉県の東総地域)が舞台になり、地元の笹川の繁蔵と漁師町・飯岡の助五郎、二人の侠客の勢力争いの物語である。
天保水滸伝遺品館には天保水滸伝にちなんだ文化財50点が保存されている。
笹川の繁蔵の手配書である高札が最初に目に入った。
高札は天領・私領の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりにあたったほか、風俗取締なども行っていた関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、俗称で八州取締役)の手配人相書きである。
現代で言う、指名手配書であり、正式には「警察庁指定被疑者特別指名手配」と称する。
笹川繁蔵が愛用していたキセル、三度笠、平手造酒愛用の手鎗、徳利、勢力富五郎(せいりきのとみごろう)の短筒など当時の侠客の風俗を物語る遺品や重要文化財として保存されている古文書などが展示されているから面白い。
展示品は個人所有のもので何人もの人が関わっているそうだ。
下総の地は関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模一円)の地、博徒とか侠客といった人種が大手を振って活躍?!していた地域ですが、面白いことに天保水滸伝遺品館には「明治23年版と称する・・・近世侠客有名鏡」の展示がありました。
映画や小説で知っていた、錚々たる名前がそれに掲載されていました。
大関には関東一の大親分と称された武州・大前田英五郎、関脇に「赤城の山も今宵限りか」の名文句で知られた上州・国定忠治がすわり、勧進元には浅草・新門辰五郎、下谷・幡随院 長兵衛、会津・会津の小鉄、それに名前も知らなかった京橋・金看板甚九郎、浅草・花川戸の助六の名があります。
下総の笹川(岩瀬)の繁蔵、勢力富五郎と飯岡の助五郎は前頭に、「次郎長三国志」で有名な駿河・清水港の長治郎(清水の次郎長)、甲州・黒駒の勝蔵も前頭です。
関八州を中心に、東日本(奥州、信州など)の侠客を番付表にしたもので、この地が幕府の直轄領(天領)、直参旗本の領地、寺社領、大名領の飛び地が多く、「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく、俗称で八州取締役・・映画・TVにもなっている)」を必要とする、一種治外法権の地であった様子が伺われます。
それにしても天保水滸伝関連の映画作品の数々には一寸驚いた。
前館長で、現在は東庄郷土史研究会の顧問である海上 義治氏のご丁寧なご案内を受けた。
・・・・・・・・・・・・・- 旅行時期
- 2017年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
旭市・幕末の農村指導の先駆者、大原幽学は残念なことに失意のうちに、切腹して果てた。
投稿日 2022年05月23日
総合評価:4.5
<日本の小旅行⑥の3:旭市・世界最初の農業協同組合を組織した大原幽学(おおはらゆうがく)の記念館を訪ねた。>(2017年12月1日)
今年(2017年)はドイツの旅に代り、5月から関東近辺の小旅行をしている。
2017年12月1日は以前から気になっていた千葉の名所旧跡を訪ねることにした。
千葉県下総の侠客たちが争闘を繰り返したという利根川沿いの東庄町(とうのしょうまち)・天保水滸伝遺品館の展示や諏訪神社、境内の相撲の土俵などを拝見し、最後は幕末に旭市を中心に農村指導者として大きな事績を残した人物・大原幽学の記念館を訪れた。
<大原幽学記念館>
〒289-0502 千葉県旭市長部345-2 大原幽学遺跡史跡公園内
定休日:毎週月曜/12月28日~1月4日
幕末の農村指導の先駆者、大原幽学を中心に展示がある。
幽学の活動拠点であったこの地は史跡公園として整備され、園内の記念館では幽学の貴重な遺品や著作類が公開されている。
郷土展示室では、椿海干拓事業など旭のあゆみをたどることができる。
その他、東総地域を中心とした歴史・民俗をテーマに、展示・保存・調査などの活動が行われている。
1階郷土展示室:
旭市を中心とした古代から現代までのあゆみを、資料と映像で展示している。
江戸時代の新田開発として知られる椿海干拓については、マジックシアター「干潟八万石物語」でその歴史を知ることができる。
(椿海の干拓 - 干潟八万石物語、鉄牛和尚、辻内刑部左衛門)
http://nagarebosi39.maiougi.com/higata2..htm
2階幽学展示室:
幽学関係の歴史資料は、平成3年に国の重要文化財の指定を受けた。
著作、日記、書簡、書画や着物、刀など、幽学ゆかりの遺品類を公開し、その生涯と業績を紹介している。
大原幽学は、幕末に旭市を中心に農村指導者として大きな事績を残した人物で、道徳と経済の調和を基本とした独自の学問を説き、飢饉などで疲弊した村の復興に尽力した。
なかでも、世界最初の農業協同組合といわれる「先祖株組合」は、先駆的な手法として高く評価されている。 また、その多岐にわたる仕法は農業のみならず、生活や教育の分野にも及んだ。
<幽学の生涯と業績>
大原幽学は天保、嘉永、安政にかけての混乱した世相の中、長部村(ながべむら:現千葉県旭市)を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革運動を指導し大きな事績を残した人物です。
道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践指導しました。
前半生は各地を遍歴していたらしいのですが、その経歴は明らかではありません。天保13年(1842年)には香取郡長部村に定住しています。天保4年頃から独自の実践道徳である性学の教説活動を始め、弟子として入門する者が次第に増えていき、研修施設や教導所が作られ会合や講義が行われました。
門人達は道友(どうゆう)と呼ばれ、長部村に腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導し農村の復興を図り、「農業協同組合である先祖株組合(せんぞかぶくみあい)」をはじめとして農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法を行って成果をあげました。
しかし急激な性学運動の発展と農民が村を越えて労働と学習を共にしたことが幕府の怪しむところとなり、幽学は*幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858年)3月8日、自刃により62歳の生涯をとじたのです。
*幕府・勘定奉行配下の関東取締出役の取り調べにより、安政4年(1857年)に幽学の押込百日と教導所である改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。
5年に及ぶ取り調べの疲労と、性学を学び、教え導いてきた村の荒廃を嘆き、失意のうちに翌年、村内の共同墓地で切腹して果てた。
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東庄町・天保水滸伝遺品館の展示では「天保水滸伝」の映画も多い。
中でも大原幽学を主人公に、笹川繁蔵、平手造酒、飯岡助五郎など浪曲でお馴じみの「天保水滸伝」をからませて、その時代に生きた人間群像を描いた映画がある。
太刀を持った大原幽学が助五郎と繁蔵の開帳する賭場へ単身、なぐり込んだといった場面は興味深い。
天保水滸伝:
1976年11月13日公開、147分、大映・全国農村映画協会
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大原幽学という人物については、30代半ばから千葉県人になった所為か、今までほとんど知らないままできてしまった。- 旅行時期
- 2017年12月
- 利用した際の同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
-
青梅:珍しい名前である“井中居”(いちゅうきょ)は古屋敷・蔵を改造した趣あるレストランである。ここで球友と旧交を温めた。
投稿日 2015年11月19日
総合評価:4.5
【2010年5月1日 青梅の“井中居”(いちゅうきょ)にて】
11:30~14:30 会費5千円
この年はGWを機に一気に夏日の続く毎日になりました。
前日から墓参りを兼ねて、久し振りに故郷を訪れ、この日、旧友(=球友)と会って、お勧めのレストランで懐石料理を頂いた。
高校野球部時代の友人Tさんの御勧め、アレンジにて、当日は3夫婦が参集し、青梅の藤橋という近郊にある古屋敷・蔵を改造した、趣あるレストランで旧交を温めた。
Tさんがお勧めされただけに、大変美味しく、素晴らしい懐石料理を楽しむ事が出来ました。
さて、「井中居」は「いちゅうきょ」と読む。
明治時代の古民家を改装したもので、器や家具などを展示するギャラリー兼懐石料理店「井中居」は周囲を竹林に囲まれた良い雰囲気のレストランだ。
“井中居”(いちゅうきょ)のHPや冊子には説明書きがある。
・・・
井中覗星(せいちゅうけんせい)・・・井戸の中の蛙は大海を知らない。しかし、そこから見える小さな空の深さを、星々の輝きの美しさを知っている。
来てくださるお客様に、ときには世間という大海から離れた静かな井戸の中の様な空間で、旬の味を愉しみつつゆったりと過ごしていただきたい。
そんな願いから井中居は生まれました。
・・・
圏央道青梅ICから車で約5分。
JR青梅線・河辺駅北口より3.6km、小作駅東口より3.5kmあり、タクシー利用がよさそうだ・
東京都下青梅市の長閑な場所に井中居があり、明治時代初期に建てられた古民家を改装した、懐石料理とギャラリーのお店。
住所:東京都青梅市藤橋2-32
Tel:0428-30-1661
78席、半個室あり。駐車場有:25台 。
営業時間:
11:00~15:00
17:00~21:00(受付は19:00迄)
定休日:月曜日夜、火曜日(祝日の場合は営業)
※夜営業を行っていない日もあるので、HPで参照要。
カード可:(VISA、Master、JCB、AMEX、Diners)
XXX
故郷・青梅に“井中居”なる立派なお店がある事は今まで知らなかったのですが、
最近、各地に古民家再生でこの種のものができて、“井中居”は比較的早い時期のもののようだ。
また、是非、訪れたいものです。
尚、ここの姉妹店には同じように古屋敷を利用した
あきる野市の「燈燈庵(とうとうあん」、「黒茶屋(くろちゃや)」があります。
(2022年4月26日改定)- 旅行時期
- 2010年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- 一人当たり予算
- 5,000円未満
- 利用形態
- ランチ
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 4.0
- サービス:
- 4.5
- 雰囲気:
- 5.0
- 料理・味:
- 4.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 観光客向け度:
- 4.0
-
オランダの古都デルフトは、「デルフト焼Delfter Blau」の陶器で知られた観光地である。
投稿日 2022年04月07日
総合評価:5.0
*1978年5月26日(金)~28日(日)、
4ヶ月ぶりにロッテルダムのUさんを訪問した。
4月、5月は多忙を極めたから、久しぶりの休日なのだ。
27日(土)、今まで訪れていなかったDelftデルフトの町(人口10万人)を訪ねた。
デルフトはオランダの古都で、デルフト陶器で知られた観光地であり、
デルフト工科大学がある学生の町でもある。近年、有名画家となった
Johannes Vermeerヨハネス・フェルメールはデルフト出身だ。
デルフト焼きの工房をUさん夫妻と一緒に見学し、細かい柄を肉筆で
描く見事さに感心し、ついデルフト焼きの飾り皿を購入した。
テーブルマットや紙ナプキンの色合いも家内も気に入って、
どれにしようかと迷っていた。
いずれも良いお土産になって、今も我が家にある。
<Delfter Blauデルフト陶器(オランダ語はDelfts blauw)>
デルフト陶器はオランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器。白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる陶器で、日本では「デルフト焼」とよばれている。
現在の職人の手による青色の絵付けを基調としたデルフト陶器は、デルフトブルーと呼ばれるブランド名で、鑑定書つきで取引されるコレクターズアイテムとなっている。白地に青色の装飾絵付けなど、はるかに高額な製品となっている。
18世紀以前のデルフト陶器を模しているが、現在のデルフト陶器には当時使われていたスズ釉薬はほとんど使用されていない。
デルフトの街中を歩き、デルフト名物の尖塔の景観や、自転車と掘割
(運河で子供たちがカヌー遊びをしていた)の多いのに改めて感心した。
XXXXX- 旅行時期
- 1978年05月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 4.5
-
オランダの有名な締め切り大堤防(アフスリュイド堤防:高さ 海抜7.25m)を見に行く。
投稿日 2022年04月04日
総合評価:4.0
1975年11月28日(金)~30日(日)、
ロッテルダム支店のU駐在員(私の東京時代の後輩)の夫人にロッテルダム帯同の許可が出て、28日JAL403便で羽田を発ち、29日(土)午前7時50分アムステルダム空港に到着した。
私共家族も出迎えるべく、前夜はHotel Schipholホテル スキポールに泊まり、29日朝早い到着便に合わせた。
愛犬タン子ちゃんの引き取りに時間がかかり、その引き取り後、ホテル オークラ・アムステルダム(5星、Ferdinand Bolstraat 333)で昼食をとった。
午後2時、愛車のBMWに乗るUさん夫妻を見送った後、オランダの有名な大堤防つまりアフスリュイド堤防という締め切り堤防(高さ 海抜7.25m)を見に行く。
途中の美しい運河や両岸の可愛らしい家々が目を楽しませてくれる。
全長 32 km、幅 90mと長く広い大堤防上を車で走るのだが、往来する車が少ないのが意外だった。それでも締め切られて出来た内海(ワッデン海・・・ゾイデル海の外洋(北)側部分であったが、1932年に完成した*締め切り大堤防によって内陸(南)側のアイセル湖と分断、アイセル湖・・・広さは約1,250平方 kmで深さは5~6 mと浅く、水面の標高は海面下6 m)には驚いたものだ。
大堤防は途中の半分で疲れを感じて、Uターンした。
尚、二度目の駐在で、1983年5月1日、メーデーの休みを利用して、前日からオランダ小旅行をした。マルケン島、フォレンダム、ハーレム、コイケンコフそして締め切り大堤防見物に行き、この時はしっかり走った)
*オランダにおける堤防は、その国土の特性からたいへん重要なもので、陸地の多くが海面より低く、至るところに堤防が築かれている。
そのこともあって、世界でも知られた逸話が残る。
<オランダの堤防の決壊を防いだハンス・ブリンカー少年の逸話>
ある日、ハンス・ブリンカー少年(8歳)が堤防の傍を通りかかったとき、堤防から少しずつ水が漏れているのに気づきました。このまま放っておけば、水漏れの穴が大きくなり、水がどんどん流れ出てしまい、穴が拡大して堤防が切れると、見る間に村々や人々が濁流にのまれてしまうのだ。
少年は水が漏れている堤防の穴に自分の指、その後、穴が大きくなり出すと、思い切って自分の右腕を上着で包み、腕まで突っ込んで塞いだ。
一晩中、大声で助けを呼んでも誰も来ない。
あくる朝、空が明るみ始めたころ、村人が通りかかって、疲れて眠っているハンス少年を見つけました。かけよって抱き起こそうとした村人は、ハッとしました。堤防の穴に入れられたままのハンス少年の小さな腕に気づいたからです。
村人はすぐに人を呼びに全力で走り出しました・・・。
ハンス少年は堤防の水漏れ、堤防の決壊を防いだのだ。
この後、勇敢なハンス・ブリンカー少年を称える銅像がオランダ国内に建てられたそうだ。
・・・
この物語は、オランダ系アメリカ人の女流作家Mary Mapes Dodgeメアリー・メイプス ・ドッジ(1831 ~1905年)によって書かれた創作「銀のスケートぐつ」(1865年創刊)の中の「ハールレムの英雄」という挿話によるもので、実在の話ではないと云う。
・・・- 旅行時期
- 1975年11月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
-
アムステルダム:1975年当時の「アンネの家」はほとんど観光客がいない場所だった。
投稿日 2022年04月03日
総合評価:2.5
今日の新聞で、「アンネ・フランクの日記」が初版発行(1947年)
されてから、今年で75周年を迎えるとあった。
ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺(ホロコースト)の犠牲者となった
アンネの日記については、日本でもよく知られているが、それに因んだ
「ホロコースト記念館(広島県福山市)が平成7年に設立されている。
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1975年11月28日(金)~30日(日)、
ロッテルダム支店のU駐在員(私の東京時代の後輩)の夫人に
ロッテルダム帯同の許可が出て、28日JAL403便で羽田を発ち、
29日(土)午前7時50分アムステルダム空港に到着した。
私共家族も出迎えるべく、前夜はHotel Schipholホテル
スキポールに泊まり、29日朝早い到着便に合わせた。
愛犬タン子ちゃんの引き取りに時間がかかり、その引き取り後、
ホテル オークラ・アムステルダム(5星、Ferdinand Bolstraat 333)
で昼食をとった。
午後2時、愛車のBMWに乗るUさん夫妻を見送った。
この夜はホテル オークラに宿泊し、
翌日の30日(日)、アムステルダム市内観光に出かけた。
まずアンネの家に行く。
入館者がほとんどいないのには驚いた。
当時の一般的な認識度はこんなものだったようだ。
(現在の口コミに見る観光客の長蛇の列には驚く)
子供たちも興味もまだないだろうと、私共の見学中は、アンネの家の
前にあった駐車場に停めた車の中で二人はおしゃべりしていた。
・・・・・- 旅行時期
- 1975年11月
- 利用した際の同行者
- 家族旅行
- 観光の所要時間
- 1-2時間
- アクセス:
- 3.5
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 2.5





















































































































































































