成田:義民・佐倉宗吾を助けた義侠の人・印旛沼の渡し守甚兵衛の言い伝えが残る甚兵衛公園
- 4.0
- 旅行時期:2022/09(約3年前)
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by jijidarumaさん(男性)
成田 クチコミ:7件
過日、成田・宗吾参道前の甚兵衛そばを食べ、宗吾霊堂に詣でた。
霊堂から数キロ離れた甚兵衛公園には遅ればせながら、先日訪れた。
というのも、コスモスが咲くと云う事を聞き及んだからだが、残念なことに
今年の酷暑と大雨で、コスモスは育たず、雑草ばかりの草原があっただけだ。
さて、甚兵衛公園には十数本の立派な松が立っている。日本名松100選に選ばれた
という記念碑も傍に見ることができる。
曼珠沙華(ヒガンバナ)の花も盛りを過ぎて咲いていた。
水神の森(甚兵衛の森)と呼ばれて親しまれている公園一帯には、かつての
渡しの河岸、水神社、甚兵衛の御堂が見られ、いまだに370年前の義侠の人、
甚兵衛翁を顕彰している。
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印旛沼の渡し守であった甚兵衛は、佐倉藩の圧政について、徳川将軍家に
直訴する為、江戸へ向かう手配中(佐倉藩から)の宗吾を対岸に送り届けたのち、
自らは印旛沼に身を投じたと伝えられている。
宗吾御一代記館・甚兵衛渡しの場面は「義侠の鉈(ぎきょうのなた)」と
称されている場面である。佐倉藩により、夜間の渡し船の運行を禁じられ、
渡し船にはご禁制の鎖が付けられていた。甚兵衛は宗吾の江戸行きを
助けるために、鎖を鉈で断ち切る有名なシーンだ。
<歌舞伎で知られる「義民佐倉宗吾(本名は木内惣五郎)」>
今から350数年前の承応元年(1652年)に、佐倉藩圧政による凶作と重税に
苦しむ農民を救うため、公津村(現在の成田市)の名主の木内惣五郎は、
当時禁じられていた四代将軍徳川家綱への直訴を決行し、大勢の農民を救った。
しかし翌年8月に、その罪をとがめられて、木内惣五郎と4人の子供たちは
処刑された。
その刑場跡が、現在の東勝寺(宗吾霊堂)のある場所といわれている。
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- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 2.5
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 2.5
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2022/10/04
いいね!:5票
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