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jijidarumaさんのクチコミ全659件

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  • レーゲンスブルク:ベストセラー作家ジンメルの名はドイツの人なら、殆どの人が知っているらしい!

    投稿日 2016年05月11日

    ダンプフヌーデル ウーリ レーゲンスブルク

    総合評価:5.0

    2008年ドイツバイエルン州:バイエルン王国、アルペン街道
    04.29 (火) 小雨 時に激しく 9℃、 163km

    レーゲンスブルクの旧市庁舎には観光案内所があり、帝国議会のガイド見学の切符も売っていた。次のガイドまで一時間もあり、”Dampfnudel-Uli ”でRegensburgの名物を食べることにしました。

    ≪お茶:”Dampfnudel-Uli・ ダンプヌーデルン-ウリ“で。≫

    薄くなった朱色の塔Baumburger Turmバンブルク塔の一階にある、小さなお店だが、中に入るとちょっと、びっくりだ。アーチ形の天井の下はバイエルンの旗や新白鳥城の絵、古い写真の数々、ビールのジョッキなどが脈絡なく、飾ってあった。

    私どもが座った席の後の壁に、こげ茶色の板に白抜きの文字が張ってあった。 “Es muss nicht immer Kaviar sein。(いつもキャヴィアが要るとは限らない。)” 声に出して読むと、隣の席にいた50代前半の女性がこれを聞いて、笑いながら、“そーそー!!”と言って相槌をうった。
    ドイツの人なら、殆どの人が知っているのでしょう!

    この言葉は作家Jimmelジンメルの最初のベストセラーの本の題名である。作家ジンメルがこの店を訪れたことがあるのか、その本にこの料理や、店が登場するのか?店のマスターに聞きそびれてしまった---。

    店の名物はDampfnudelダンプヌーデルン(ミルクと油で蒸し焼きにした酵母入りフワットしたパン。元来はシュヴァーベン地方のお菓子)に温かいバニラソースをかけたもの。
    Apfelkucherlリンゴ入りのお菓子パンにシャンパンソースかけ。
    もちろん、二人とも紅茶を頼んだ。いずれも甘く、三時のお茶にはもってこいのものだ。確かにいつもキャヴィアを食べるわけでもなく、食べたいものではない。 
    (14:45~15:20 Euro 17)

    Johannes Mario Jimmelヨハネス・マリオ・ジンメルは1924年4月27日、ウイーンに生まれた。スイスのルツェルンで死去。享年84歳。
    作者名は本名である。両親はハンブルグ出身のドイツ人でしたが、彼自身はオーストリア国籍を取得し、少年時代をオーストリアとイギリスで過ごした。やがて、化学を学んだことで、ウイーンの化学研究所で化学技師として働く。第二次大戦後は米駐留軍司令部で英語を生かして、通訳となる。1950年、西ドイツに移住し、ジャーナリストの道に転身し、取材の為に世界の各地を訪れる。
    1950年から1960年にかけて、ジャーナリストの仕事をしながら、映画のシナリオや戯曲をたくさん発表し始める。中には童話作品もある。
    1960年に“Es muss nicht immer Kaviar sein。(いつもキャヴィアが要るとは限らない。)”
    (あるいは“人間はキャヴィアばかりを食べて生きているばかりではない” とも訳す;邦題『白い国籍のスパイ』;が大ベストセラーになり、作家としての地位を確固たるものにした。以後、作家活動に専念し、数々のベストセラーを生んでいる。
    その時代の政治や社会の出来事をテーマにしている。2、3年毎に発売される作品は必ずその年のベストセラーの1位になるという人気で、殆どの作品は映画化、TV化されていると云う。作品の原題は皆、含蓄のある、洒落たものだ。
    ドイツ語圏の国々で最も多く読まれる作家であり、その著作は様々な国で翻訳されている。 
    2005年Bundesverdienstkreuz 1 Klasse・ドイツ連邦功労十字勲章を授与される。
    死去するまでスイス山中の湖畔にある小さな町の小さな家に隠棲していると云われた。
    2009年1月1日、スイスのルツェルンにて死去。84歳だった。

    XXX

    <我が家の本箱にあるのは、以下の7冊(2番目を除き、全て上下巻)である>

    Es muss nicht immer Kaviar sein:いつもキャヴィアが要るとは限らない(1960年)
    Lieb Vaterland , magst ruhig sein :祖国よ、安らかなれ (1965年)
    Wir heissen euch hoffen  :我ら汝が手に希望を与えん (1980年)
    Bitte , lasst die Blumen leben :花を生かしておいて   (1983年)
    Doch mit den Clowns kamen die Traenen :涙が道化師たちとやってきた(1987年)
    Die im Dunkeln sieht man nicht :暗がりの奴らは見えっこないさ (1985年)
    Im Fruehling singt zum letztenmal die Lerche :ひばりの歌はこの春かぎり(1990年)
                       (2009.01.01.作成) 】

    尚、邦題が前述とは異なる2冊が以下である。
    Es muss nicht immer Kaviar sein・邦題『白い国籍のスパイ』中西和夫氏解説 及び
    Wir heissen euch hoffen・邦題『白い影の脅迫者』大崎隆彦氏あとがき

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     2025.12.04.追加更新した。

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    2,000円未満
    利用形態
    その他
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5

  • 雨のレーゲンスブルクに、歴史を語る帝国議会博物館がある。

    投稿日 2025年12月03日

    帝国議会博物館 レーゲンスブルク

    総合評価:5.0

    <ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊>  
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間 : 2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間

    04.29 (火) 小雨 時に激しく 9℃、 163km

    Straubingシュトラウビング=>B20・A3 54km Regensburgレーゲンスブルクに12:50到着。

    レーゲンスブルクは人口151千人のOberpfalzオーバーファルツ地方の首都であり、世界遺産の町である。(2006年、その旧市街が世界遺産に登録された。ドイツの世界遺産の総数・32件中、32番目の登録である)

    ミュンヘンの北140kmにあり、ドナウ川は西南のIngolstadtインゴルシュタット方面から北に流れ下り、この町の北部で急激に曲がり、そのまま東のパッサウに流れていく。
    ドナウ川の要衝として発展した古都は179年ローマ軍団の拠点の設立からの歴史を誇り、739年に聖ボニファティウスにより、司教座が敷かれ、788年カール大帝の命で、Tassiloタッシロ三世バイエルン公の支配下となる。
    12~13世紀にはヴェネチア、パリ、キエフ等との交易により、町は経済的繁栄を謳歌する。その頃にロマネスク、ゴシック様式の建物が建てられて、旧市街に現在でもその名残が見られる。

    1180年Heinrich der Loeweバイエルン公は皇帝Barbarossa(赤髭王)の命で、帝国議会を開設する。この事でWittelsbachヴィッテルスバッハ家のバイエルン支配が固まる。
    1245年、帝国自由都市Freistadt(地方領主からは自立し、皇帝・国王に直属する都市)となり、ナポレオンが台頭する1803年まで続いた。

    旧市街には凡そ1200軒もの歴史的建造物が残り、繁栄の歴史を物語っている。
    旧市庁舎には観光案内所があり、帝国議会のガイド見学の切符も売っていた。

    <旧市庁舎の見学>
    (15:30~16:30 Euro 15+Tips Euro 2)

    Reichstagsmuseum帝国議会博物館(帝国議会は1663年から1806年の神聖ローマ帝国の消滅時まで常設された)の見学はガイド付きであったが、写真はフラッシュなしでOK。 

    神聖ローマ帝国の皇帝たちが領主、司教、教皇使節たちを招集し、この場で会議を開いたのだと云う。

    諸侯の控室があり、カール大帝の人物画(デューラー作)や善政の表意(宗教画)の絵、1624年製の壁時計などは美しい色合いだ。

    帝国議会の議会室には学校の教室のような長い椅子が当時のように置かれていた。シャンデリアがさがり、双頭の鷲の紋章が掲げられていたが、権力者たちの集まる場にしては、思っていた以上に質素なものであった。

    地下には牢屋があり、拷問室や責め道具が展示されていた。
    大砲や塩の計量に使用した馬鹿でかい天秤もあった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • リグヴィル村の郊外、ユスランの高台(海抜390m)にある城址から見たアルザスの景観は爽快で、天気に恵まれて素晴らしかった。

    投稿日 2025年11月25日

    リクヴィール旧市街 リクヴィール

    総合評価:5.0

    【1983年12月~1984年1月:かつてのフランス・アルザス旅】

    かつてドイツ駐在中に訪れたパリから、それまで走ったことが無かったナンシーを経由し、アルザスに抜けた事もあります。

    また、一番記憶に残るのは1983年12月30日早朝に駐在していたデュッセルドルフをスタートし、アルザス地方を巡った旅でしょう。
    アルザスはドイツ領であったこともあり、ボーヌ山地のこちら側はドイツの香りがいっぱいです。
    Colmarコルマールでもドイツ語が通じ、フライブルクからライン川を渡れば、すぐの距離(40kmほど)ですから、行きやすい場所なのです。

    1月1日はコルマール見物や、ここを起点にアルザスワイン街道巡りをしました。
    この日はワイン街道のブドウ畑にもうっすらと霜が降りていました。

    写真の中の車は2度目の駐在で購入したメルセデス230(2300㏄)オートマチックです。
    三番手の中古車を地元紙のドイツ人個人の“車売りたしの欄”で見つけて、現金を持参して、個人宅に車に詳しい同僚と伺い、購入しました。
    メルセデスは67,000kmを走ったもので、売り手の言い値はDM12,000でした。持参した現金で支払いをすることにしたので、結果はDM1,000を値引きしてくれて、DM11,000(約110万円)で購入できました。
    この車は113,000kmまで走り、帰国時に日本人倶楽部で某社の駐在員にDM8,500で売れました。3年2ヶ月で46,000km走った計算ですが、メルセデスはさすがに中古価格が落ちないと、とてもは感心したものです。

    当時のメルセデスは今のコンパクトなタイプでなかったので、存在感はありました。その分、車体も重く、ドアを閉める音はしっかりとした重い音をさせ、日本車の高級車にない感じでした。特に高速走行には安定性がありました。・・・が、燃費はかかりました。

    さて、この日、アルザスワイン街道の町や村は新年早々という事なのでしょう、観光客も住民も少なく、ひっそりとした町村が続きました。
    年末から元旦は素晴らしい快晴に恵まれ、気分はとても良いものでした。

    コルマールから近い、美しい木組みの家並みのRiquerwihrリグヴィルの村を訪ね、回遊した後、郊外にある3つの古城の城址が並んで建つ高台を目指した。

    Husserenユスラン(Husseren-les-Châteaux)の高台(海抜390m)に3つの古城の城址(12世紀:写真参照)がある。そこはコルマールから凡そ7kmの距離にあり、車でふもとまで行き、そこから城址まで2kmの道を歩いて登った。

    家内などは着ていたオーバーが邪魔になるほど、熱くなり久しぶりの運動になったようだ。私は革靴だったので歩くのに疲れたが、家族一緒に城址から見たアルザスの景観は爽快で、天気に恵まれて素晴らしかった。

    下山は上ってきた道を脚力自慢の家内と長女が競争で走り下り、7分で下ったとか。
    亀の私と次女はゆっくり下りましたけど。

    その後はKaysersbergカイゼルスベルグ、Turckheimテュルクアイムと見て回った。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    1984年01月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    3.5
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ライン川を越えて、仏・シュトラースブルク観光:アルザスの伝統家屋が密集したプチット・フランスは美しく、楽しい。

    投稿日 2025年11月21日

    プティット フランス ストラスブール

    総合評価:5.0

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” 
    オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。

    期間 :2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間

    <ライン川を越えて、フランス・シュトラースブルク観光へ>

    第五日:7月18日(土)  晴 25.5℃~31℃  69km
    Oberkirchオーベルキルヒ =>B28 (Appenweierアッペンバイヤー)・E52 39km フランス・Strassburgシュトラースブルク=>E52(Appenweierアッペンバイヤー)・B28 30km Oberkirchオーバーキルヒ・Romatik Hotel Zur Oberen Lindeロマンチックホテル オーベレ・リンデ

    *昨日の大雨の名残があり、B28の道路は少々濡れたままだ。土曜日の為か、車もまだ少なく、予想より早く、シュトラースブルクの町に入った。

    ≪Strassburgシュトラースブルク(仏語・Strasbourgストラスブール)≫
    10:20~15:45

    フランス北東部、アルザス地方第一の都市であり、ドイツ語で「街道の町」の意味があり、ライン川左岸に河川港を抱える交通の要衝として栄えてきた。(シュトラースブルク港は年に1000万トンもの商品が行き来する、フランス第2の河川輸送港だと云う。)

    そのライン川の支流がIll (Elsass)イル川で、全長217kmのイル川はアルザス平野を流れているが、このイル川の名はアルザスの語源となっていると云う。
    即ち、ドイツ語のElsassエルザスとは『イル川の流れる土地』(Pays de l’Ill)を意味しているとのことだ。

    かつてはドイツの神聖ローマ帝国に属したが、近世初頭に30年戦争でのドイツの混乱に乗じてフランスが侵略して併合する。
    以降、ドイツとフランスが領有権を争った土地として有名である。言語や文化の上ではドイツ系であるといえるが、1944年以降、政治的にはフランスに属する。

    第二次大戦後は「ヨーロッパの歴史を象徴する都市」として、欧州評議会や欧州人権裁判所、またEUの欧州議会の本会議場を擁し、ベルギーのブリュッセルと共にEUの象徴的な都市の一つとなっている。人口272千人。

    この町の観光は第一にカテドラル(大聖堂)、第二にプチット・フランス、第三にメゾン・カメルゼル邸が目玉だ。
    カメルゼル邸での昼食後は有名なPetite_France小フランスと称する旧市街の地区を歩いた。

    【アルザスの伝統家屋が密集したPetite_Franceプチット・フランス】
    13:40~15:30

    Petite_France小フランス地区はライン川の支流イル川が細かく4本に分岐して入り組んでいる中洲にある旧市街で、木組み建築(ドイツ語でFachwerkhausファッハヴェルクハウス、フランス語でColombagesコロンバージュ)の家並みが密集した地帯になっている。
    この運河の左右の地域が有名らしく、混雑していた。
    小さな旧市街にもRue du Bain-aux-Plantes通りの名とか、Pont du Faisan橋の名とか、勿論あるのだが、結局覚えられないもので、歩いた通りの美しい木組みの家の姿に、只々感激するばかりだった。

    大きな都市の一角にこうした旧市街が残っているのは実に興味深いものだ。
    シュトラースブルクの古い町並みが最もよく保存されている地区として、1988年に世界遺産に登録された。

    ・・・・・

    尚、1984年1月2日、Strassburgシュトラースブルク(仏語・Strasbourgストラスブール)の旧市街のプティット・フランス(Petite France 小フランス)を訪ねたことがある。
    その時に写真を一枚追加した。
    世界遺産に登録は1988年ですから、当時の様子はこの程度でした。

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.5

  • シュトラースブルク:歴史を感じさせる、町一番のメゾン・カメルゼル邸の名物ザワークラウト料理を食す。

    投稿日 2015年12月27日

    メゾン カメルツェル ストラスブール

    総合評価:5.0

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”
    <ライン川を越えて、フランス・シュトラースブルク観光へ>
    第五日:7月18日(土)  晴 25.5℃?31℃  69km

    ラ・メゾン・カメルゼル邸はシュトラースブルク大聖堂の前に、煤で黒ずんだかのような独特の姿を見せている。
    1571年に建てられたルネサンス様式の古い木造建築で町一番の家として有名である。75枚の窓と豪華な装飾を持つ4階建て(屋根裏部屋を加えると6階か!)の家で、レストランのフレスコ画と木彫装飾が美しい。
    木彫装飾は中世時代、ギリシャ・ローマ時代、聖書の一部などのシーンを掘り込んだものと云う。

    ≪昼食:Restaurant・Haus Kammerzell(Maison Kammerzell
    ラ・メゾン・カメルゼル邸)≫
    Strasbourg 、 Münsterplatz  
    12:00?13:30 Euro72.3+チップ2.7=75(10,314円)
    http://www.maison-kammerzell.com/

    12時にカメルゼル邸に戻り、レセプションで名前を告げると、さっきは生意気そうな予約係だったがちゃんと予約されていた。2階という事で古めかしい階段を上がる。

    飲み物:
    ビール(アルコール無し)0.3Lx2=Euro9、水Vittel0.5L=Euro3.8の合計12.8

    料理:
    ご当地名物の3品料理Menu Hallebardierメニュー・ハルベルト(鉾槍とか仏海軍の艦艇名にあるのだが、なぜメニューの名前なのか分からない。)にしました。
    アルザス料理は昼食にしては量が多かったが、美味でした。

    前菜:
    私はEntenpastete mit Pistazien、Mirabellenmarmelade mit Zimt
    カモのピスタチオ入りテリーヌに、シナモン付きミラベルプラム(西洋スモモ)のジャム添え。
    家内はLauchsalat “Adeline”、(Rezept von Frau Baumann)
    ネギのサラダ「アデリーン風(レシピはバウマン夫人」、トマト添え。

    メイン:
    Lachsruecken gebraten “a la Plancha”Ratatouille、Reistoertchen mit Kraeutern
    私はサーモンのムニエル「ラ・プランチャー(鉄板焼き)」パスタ載せ、ラタトゥイユ(野菜煮込み)、ハーブ入りのライスタルトレット、カリカリに焼いたベーコン、トマト添え。
    Strassburger Sauerkraut(8 Sorten Fleisch und Wurstwaren)
    家内は名物のシュトラースブルクのザワークラウト料理(8種のハムやソーセージ)。
    見るからに量が多く、味は美味しかったが、ちょっと残すことになった。

    いつもは魚料理を家内が注文し、肉料理は私が注文するのが普通だが、今日は反対になったから、適当に名物と交換して食べた。

    デザート:
    Obstkuchen der Saison gereicht mit Eis
    季節の果物にアイスクリーム添え。

    XXX

    カメルゼル邸は1904年からは田舎風高級レストランとして営業しており、今日ではシュトラースブルクでも最もシックなレストランの代表格になっている。
    1階はワイン酒場と称したレストランで、15世紀、典型的な中世の円天井や尖りアーチの窓、素晴らしいフレスコ画が見られる。
    2階は昼・夕食用のメインレストラン、今日の予約席はこちらで、大聖堂がよく見えました。
    3階は3つの小広間と、家族のプライベートな催しに利用できる10?60席の広間がある。
    4階は“アーチストの広間”と付属した食前酒を楽しむ小間がある。レストランの厨房。
    5階はその昔のパンフレットの絵に依ると屋根裏部屋で、食料品の倉庫になっているようだ。
    6階はこちらも屋根裏部屋で、洗濯・干し場になっている様子だ。


    ・・・・・・・・・


    かつてラ・メゾン・カメルゼル邸の夕食を楽しんだことがある。


    【1983年12月~1984年1月:かつてのフランス・アルザス旅行】

    かつてドイツ駐在中に訪れたパリから、それまで走ったことが無かったNancyナンシーを経由し、アルザスに抜けた事もあります。

    また、一番記憶に残るのは1983年12月30日早朝に駐在していたDüsseldorfデュッセルドルフをスタートし、アルザス地方を巡った旅でしょう。

    途中、Karlsruheカールスルーエ近郊の古城ホテルに一泊した。

    1)Schloss Augustenburgアウグステンブルク城

    2&3)Hotel Mercure Colmar Centre ・Champ de Mars
    ホテル デュ シャン ドゥ マルスに2泊して、近郊を廻った。

    1月2日はアルザスワイン街道を北上し、Dombachダンバック、Molsheimモルスアイム、Barrバールを巡り、そしてStrasbourgシュトラースブルク(ストラスブール)を訪れた。

    4)Inter-Hotel Le Bristol インターホテル ル ブリストル
    F- 67000 Strasbourg、 FRANCE 、4-5 Place de la Gare
    http://www.inter-hotel.com/hotel/alsace/strasbourg/le-bristol

    4泊目は3星・全39室のホテル ル ブリストルに泊まり、シュトラースブルク市内を観光した。ファミリー向けホテルで、シュトラースブルクの中心部に位置する。Ponts Couverts カヴァード橋から 0.7 km。かつてHotel Mapotel-Bristolと称した。

    シュトラースブルクの町で食べた焼き栗はアツアツで美味しかった。

    この日の夕食は町一番の木組みのレストランLa Maison Kammerzellラ・メゾン・カメルゼル邸で頂きました。素敵な個室で、頂いた夕食は正月の特別料理だったのか、名物料理を食べたのか、記憶に残っていませんが、前者でしょう。
    当時(39歳)のアルバムを見たのですが、メニューも残っておらず、写真も料理を写したものが無いので、残念ながら分かりませんでした。

    3日の朝にシュトラースブルクを発ち、シュパーゲル(白アスパラガス)で知られるSchloss Schwetzingenシュベッツインゲン城に寄ってから、デュッセルドルフに帰った。

    XXXXX

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    7,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    雰囲気:
    5.0
    料理・味:
    4.5

  • アルザスワイン街道を走り、Bergheimベルクハイムの町で面白い「浅浮き彫り」を見つけた。

    投稿日 2025年11月06日

    アルザス ワイン街道 アルザス地方

    総合評価:5.0

    【仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)】

    <Die Elsaesser Weinstrasse (franzoesisch Route des Vins d’Alsace)アルザスワイン街道>

    <“ Route des Vins d'Alsace ”(アルザスワイン街道)を走る。>
    7月20日(月) 曇りのち晴れ 25~30.5℃ 129km;前半899km(予定より172km増)
    Colmarコルマール =>アルザスワイン街道 (Turckheimテュルクアイム)32km (Katzenthalカッツェンタール) =>49km Koenigsbourgオー・クニグスブール城=>11km Bergheimベルクハイム =>(Riquerwihrリクヴィル) 21km Kaisersbergカイゼルスベルク=>16km Colmarコルマール・Romatik Hotel Le Mare’chalロマンチックホテル ル・マレシャル

    かつてColmarコルマール見物やここを起点にアルザスワイン街道巡りをしました。Husserenユスランの古城の城址、Kaysersbergカイゼルスベルクの古城、Turckheimテュルクアイム、Riquerwihrリクヴィル、年末から元旦は素晴らしい快晴に恵まれたものです。2日はDombachダンバック、Molsheimモルスアイム、Barrバール、そしてStrasbourgストラスブールに。もうそれらの記憶も薄れている。

    ヴォージュ山脈の東斜面に連なるアルザスのブドウ畑。その間を縫って、北はマルレンアイムから南はタンまで、およそ 170 km に渡ってアルザスワイン街道が続く。

    春夏には深い緑に、秋には黄金色に色づく大地。石畳の路地に、窓辺を花々で彩った木組みの家々。街道沿いには 100 余りの村が点々とし、車を走らせると次から次へと可愛らしい町並みが目を楽しませてくれる。こうした田舎町では、気さくな居酒屋やこぢんまりした宿屋、試飲も楽しめるワインセラーが旅人を迎えてくれる。

    通り沿いに点在する“ Route des Vins d'Alsace ”(アルザスワイン街道)の標識がワイン街道の目印。村と村の間の公共交通は発達していないので、できることならレンタカーやタクシーを利用したい。
    また、鉄道が通っている町(オベルネ、バール、セレスタ、リボーヴィレ、コルマールなど)からタクシーで近郊を回り、コルマール発の観光バスを利用する方法もある。

    ・・・・・

    さて、この街道沿いのBergheimベルクハイムで面白いものを見つけた。

    <Bergheimベルクハイム>
    12:40~13:10

    アルザスワイン街道に沿った美しい村(人口1,941人)で、村全体を防壁で囲んだ姿が今も見ることが出来る。いつ頃に砦があったか歴史的には不明だが、ローマ軍団が当地に砦を築いたことは知られている。
    14世紀の初めにFamilie Rappoltstein (Ribeaupierre)ラッポルトシュタイン家が所有し、この頃に城壁が築かれたと云う。この村は二重の城壁が村を囲み、今も城壁、空堀、塔、家がかつての姿をよく残しているので、俯瞰図を見るときれいな楕円形を描いている。1313年に村はハプスブルグ家に譲渡され、その後も様々な所有者の手に渡っていった。 

    アルザスワイン街道を走ってくると、丁度、14世紀に造られ、村に唯一残ったObertor (La porte城門)の前に出る。城門の右手に無料駐車場があり、そこに停めて、しばし持参のお煎餅などを食べ、水を飲む。今日は朝食無しで出てきたので、クニグスブール城で食べればと思ったが、機会もなく、結局、お煎餅などでごまかした感じだ。
    城門を抜け、木組みの家並みが好ましいメイン通りを行くと、直ぐに庁舎(1767年)前のマルクト広場に至る。そこには砂岩で造られた美しい泉が花々に飾られてある。周辺には木組みの家並みが魅力的だ。
    村の教会は14世紀に建設され、新教の教会らしく、内部は実にシンプルだ。

    特筆するべきは第二次世界大戦で戦死したドイツ人兵士、5,308人の墓地が近くに作られていることだろう。かつてアルザスはドイツであった。

    ・・・・・

    【「LACK'MI」と称する浅浮き彫り】

    ベルクハイムで面白いものを見つけたというのは、この事である。

    城門の壁に妙な格好した男がいた。兜を被り、剣を帯刀しているから兵士なのだろう、鼻に左手を当て、尻にも右手を当てている。砂岩でできた「LACK'MI」と称する浅浮き彫りである。1852年にはオリジナルは無くなってしまった。

    この彫り物の説明版が側にあり、見てみると上部にフランス語、下部にドイツ語の説明文があった。村当局が掲示したもののようだ。

    その説明は
    「1534年から1852年まで、「LACK'MI」(彼のお尻を丸出しにして、追いかける敵をあざける男を表現した)の浅浮き彫りが掲げられていた。当時、浅浮き彫りはベルクハイム村の西の入口にあったそうです。
    この地方ではこの“Spottfigurあざけった姿”はたいへん知られた存在になっていました。これは1361年、既に村が政治亡命の権利を認めていたことを示すものです。
    またベルクハイムは744人の政治亡命者を受け入れた」と・・・書かれています。

    ドイツ人兵士の墓地といい、政治亡命者の権利といい、ベルクハイムは優しい。

    余談になるが、英語で“Kiss my ass!”と言われる言葉がある。直訳は「オレのケツにキスしろ」つまり相手を侮辱する言葉であり、「馬鹿やろう!」「ふざけんな!」といった意味があるから、上述の話と同じだ。

    ・・・・・

    尚、ベルクハイムの話に似て、以下の話がドイツにもある


    <Goetz-Gedenkstein鉄腕ゲッツ記念碑>
    Krautheimクラウトハイム近くのAltkrautheim をJagsttalstrasse (L1025)に沿って東の端まで行くと有名な記念碑があり、そこには"Goetz-Zitat"(ゲッツの格言・引用句)がある。

    ゲーテの処女戯曲の作中では主人公ゲッツが「Leck mich am Arsch! くそくらえ!」(俺の尻を舐めろ!)と叫ぶシーンは有名になり、ドイツ語ではGoetz(ゲッツ)という言葉が “侮辱語:でくの坊、のろま、消えうせろ!”として通用するほどになったと云う。


    <宗教改革者マルティン・ルターの日記>

    彼の日記に「悪魔に罵られて“俺の尻をなめろ”と言い返した」と記されているという。

    <モーツァルト作曲のLeck mich im Arsch俺の尻をなめろ>

    『俺の尻をなめろ』はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが作曲したカノン形式の声楽曲。1782年にウィーンで作曲された。歌詞はドイツ語である。
    作曲の経緯を示す資料は残されていないが、親しい友人たちとの内輪の集まりで、大勢で歌って盛り上がるために作られたものであろう。(Wiki)

    Leck mich im Arsch!
    Lasst uns froh sein!
    Murren ist vergebens!
    Knurren, Brummen ist vergebens,
    ist das wahre Kreuz des Lebens.
    Drum lasst uns froh und fröhlich sein!
    Leck mich im Arsch!
    俺の尻をなめろ
    陽気にいこう
    文句をいってもしかたがない
    ブツブツ不平を言ってもしかたがない
    本当に悩みの種だよ
    だから陽気に楽しく行こう
    俺の尻をなめろ

    XXXXX


    XXXXX

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • アルザス伝統のケーキ・クッキーのお店ビスキュイテリエ ラ ターブル アルザスで土産を買う。

    投稿日 2025年11月12日

    ケゼルスベール旧市街 ケゼルスベール

    総合評価:5.0

    【アルザス伝統のケーキ・クッキーのお店ビスキュイテリエ ラ ターブル アルザスで土産を買う。】


    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” 
    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間

    <“ Route des Vins d'Alsace ”(アルザスワイン街道)を走る。>
    7月20日(月) 曇りのち晴れ 25~30.5℃ 129km;前半合計899km

    <Kaisersbergカイゼルスベルク(フランス語はケゼルスベール)>
    http://www.kaysersberg.com/

    13:55~14:40 30℃

    シュヴァイツァー博士の生誕地として知られるカイゼルスベルクは戦火を免れた村でコルマールから約 11kmにある。人口2705人。
    空堀傍の駐車場から歩きだし、路地から大通りに入ると、そこはもう古めかしい木組みの家が続き、洒落たブドウの図柄の看板が有り、花をきれいに飾る窓辺が目に入ってきた。
    カイゼルスベルク城址の見えてくると、ヴァイス川にかかる石橋に至り、中央には小さな礼拝堂がある。

    中世の雰囲気を伝える木組みの家々の中に、目立つのはアルザス伝統のケーキ・クッキーのお店「ビスキュイテリエ ラ ターブル アルザス」だ。

    【Biscuiterie  La Table Alsacienneビスキュイテリエ ラ ターブル アルザス】
    F-68240  Kaisersberg 、70 Rue du Général de Gaulle

    ビスキュイテリエ ラ ターブル アルザスの景観も良く、店内も土産品のケーキ・クッキーが並ぶ。

    アルザス伝統のケーキ・クッキー、Bredalaアアルザス語でビスケット(特にクリスマス期間用に焼くお菓子)、Brezelプレッツェル、Kougelhofクーゲルホフ*、フルーツゼリー菓子、アイスクリームなどの製作販売をしている。

    *Kougelhofクーゲルホフはクグロフ型(外側に斜めの溝のある蛇の目型)で焼いたアルザス地方の菓子。王冠の形をした菓子パン・クグロフの起源には諸説あり、「オーストリアから嫁入りした王妃マリー・アントワネットがフランスへ持ち込んだものだ」とも、
    それよりはるか「昔、キリストの誕生を祝う東方の三博士が家に泊めてもらったお礼に焼いた」ものだとも云われている。
    アルザスでクグロフと言えば、もてなしと友情の証しとされ、クリスマス、イースター、ブドウ収穫祭、結婚式、子供の誕生などのお祝い事があると、クグロフが焼かれる。
    クグロフを焼く特別な型は模様もお土産にも最適である。(仏観光局)

    この店ではお土産にフルーツゼリー菓子とSandkuchenザントクーヘン*などEuro35.8(4,914円)、及び店頭で食べたバニラアイス代Euro3(418円)。

    *ザントクーヘンは“従来のパウンドケーキとは違い、砂のように口の中でほろほろとほどける食感のドイツ伝来の菓子です。レモンの風味もとってもさわやかケーキ”ですが、美味しそうだったのでつい店頭で食べてしまった。

    ・・・・・・・

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 画家たちが愛した光景を見たければ、アルザス地方のカイゼルスベルク(フランス語はケゼルスベール)に行こう。

    投稿日 2016年01月09日

    ケゼルスベール旧市街 ケゼルスベール

    総合評価:5.0

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” 
    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間

    <“ Route des Vins d'Alsace ”(アルザスワイン街道)を走る。>
    7月20日(月) 曇りのち晴れ 25~30.5℃ 129km;前半合計899km

    <Kaisersbergカイゼルスベルク(フランス語はケゼルスベール)>
    http://www.kaysersberg.com/

    13:55~14:40 30℃
    シュヴァイツァー博士の生誕地として知られるカイゼルスベルクは戦火を免れた村でコルマールから約 11kmにある。人口2705人。

    <カイゼルスベルクの歴史>
    中世の頃、ヴァイス川流域沿いの道はライン川方面とロレーヌ地方を結ぶ交易の道として利用された。

    この村のカイゼルスベルク城砦について記述されたのは1227年が最初の事で、Stauferkaiser Friedrich II.シュタウフェン王朝のフリードリヒ2世が交易の道を守る城砦を建てた(あるいは改築した)ものとみられる。
    1293年、神聖ローマ帝国により、カイゼルスベルクは帝国都市として認められ、栄えた。
    1353年には“アルザスZehnstaedtebund 10自由都市同盟”の一員として、さまざまな特権を与えられ、コルマールの項で書いた神聖ローマ帝国の将軍、Lazare de Schwendiラザール・ド・シュヴァンディ男爵(1522 から1583年)がもたらしたブドウのPinot Grisピノ・グリ種から育てたワインの交易で一層の繁栄を得たと云う。

    1848年、ヴェストファーレン条約により三十年戦争も終結し、村はフランスに帰属した。
    1871年、普仏戦争の結果、逆にフランスは東部のドイツ系住民居住地域であるアルザス・ロレーヌ地方3県を失い、1919年までドイツ帝国直轄領エルザス・ロートリンゲン州となった。

    <カイゼルスベルクの見どころ>
    空堀傍の駐車場から歩きだし、路地から大通りに入ると、そこはもう古めかしい木組みの家が続き、洒落たブドウの図柄の看板が有り、花をきれいに飾る窓辺が目に入ってきた。
    カイゼルスベルク城址の見えてくると、ヴァイス川にかかる石橋に至り、中央には小さな礼拝堂がある。
    橋の左右を見れば、ヴァイス川が流れる領域に木組みの家が並ぶ。これぞ画家たちが愛した光景だと、納得したものだ。

    1)中世の雰囲気を伝える木組みの家々とLa Weissヴァイス川
    15から17世紀に建てられた古い木組み建築の家々が今も残り、赤、紫、ピンク、白の花々が窓辺に置かれている。村の中心には小川ラ・ヴァイス川(全長24km、ラインの支流)のせせらぎが見られ、画家たちが愛した素晴らしい景色になっている。

    2)Kirche Sainte-Croix (Heilig Kreuz)サン・クロワ教会とFontaine Constantinコンスタンティヌスの泉
    1230年に建築が始まったロマネスク様式の教会。中央入口部は13世紀、側廊は15から16世紀建築のもの。中にはHans Bongartジャン・ボンガルト作の見事なイエス・キリストの祭壇画(16 世紀)が掲げられている。教会正面にはコンスタンティヌスの噴水がある。

    3)カイゼルスベルク城址
    ぶどう畑の小高い丘の中腹に残る13世紀建築の城址、見晴らしの利く見張り塔には登れる。

    4)Chapelle de l’Oberhofロベロフ礼拝堂
    14世紀末に建築された。18から19世紀の多彩な像を内蔵します。

    5)村の庁舎
    1604年に建築されたルネサンス様式の庁舎で、現在は観光案内所としても使われている。

    6)Musee d'Histoire Locale歴史郷土博物館
    14から18 世紀の宗教芸術を集めた博物館。

    7)クリスマスマーケット
    小ぢんまりした村のクリスマスも人気が高い。

    8)Centre Culturel Albert Schweizerシュヴァイツァー文化センター
    シュヴァイツァー博士の生まれ故郷として、生家は博士の活動を紹介する。

    ZZZZZ

    (2025年11月10日改定)

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • コルマール:小ヴェニスと呼ばれる美しい地区に立つ木組みのホテル ル・マレシャルとグルメレストラン アレシェバン

    投稿日 2016年01月08日

    ホテル ル マレシャル コルマール

    総合評価:4.5

    7月19日(日)&7月20日(月)
    (2泊)Romatik Hotel Le Mare’chalロマンチックホテル ル・マレシャル
    F-68000 Colmar, France 、6 place des six Montagnes Noires,
    Tele:+33 (0)3‐89416032 、Fax:+33 (0)3‐89245940 
    http://www.hotel-le-marechal.com/

    4星・全30室。2階Classic DZ No.15(Bizetビゼー)=Euro119X2=238+1回分朝食17x2+市税1.1X4=合計276.4(38,031円)。ガレージNo.11代はEuro15x2=30(4,140円:事前予約要)。総計Euro306.4(42,171円)。
    水0.33L1本、ベッドにチョコレート、スリッパ、浴用ガウン有。

    シュトラースブルクから約80km。駐車場は少し離れた場所にあり、プライベートの狭い道を入るので運転が難しく見つけにくいが、シャッター付で鍵をくれるので安心との事。
    旧市街壁沿いにある、1565年築のアルザス様式の木組みの家(4階建て)はエレガントな4星ホテルで、「Kleinen Venedig小ヴェニス」と呼ばれる美しい地区に位置している。
    運河に面したグルメレストラン“A l’Echevinアレシェバン”がある。地元食材を使用したフレンチ料理を提供している。夏季はカワウソ親子が住む運河沿いのテラスでの食事も楽しめる。

    オーナー一家が大の音楽好きということで、各部屋にそれぞれ作曲家の名前が付けられている。私共の部屋はClassic DZクラシックのダブルルーム と言うだけに、No.15(Bizet)・・つまりGeorges Bizetジョルジュ・ビゼー(1838~1875年)の名が付いたものでした。
    ビゼーの代表作は『カルメン』、『アルルの女』、『真珠採り』、『小さな木の実』などで、誰もがその名を知っているフランスの作曲家である。
    この部屋には小さなベランダもあったが、そこからはホテルの前庭が見える程度でした。ビゼー風なものか分かりませんけど、フレンチ風の装いは色鮮やか、きれいなもので女性好みの部屋作りと言えましょう。
    元フランス共和国大統領、シラク氏が宿泊した部屋は「ワーグナー」であったそうな。
    ロマンチックで運河沿いからのホテルの景観を誰もが足を止め、写真を撮りたくなる、そんな素敵なホテルだ。

    XXX
     
    追記:7月20日(月)

    ≪夕食:ロマンチックホテル ル・マレシャルレストラン“A l’Echevinアレシェバン”で≫

    19:00~21:30  Euro178+チップ5=183(25,260円)

    当ホテルのグルメレストラン“A l’Echevinアレシェバン”は地元食材を使用したフレンチ料理を提供している。

    予約席は夏の暑さしのぎもあり、川辺に臨むレストランであった。さすがに熱のこもる、素晴らしいメインレストランには誰もいない。

    飲み物:
    シェリー酒のTio PepeEuro7X2=14、アルザスのRiquerwihrリクヴィルにあるワイン醸造家HugelフーゲルのRieslingリースリング辛口0.75L=Euro41、水1L=Euro8、最後のコーヒーは私だけが飲む。Euro5.  合計Euro68(9,384円)

    4品料理:
    二人ともメニュー料理“Menu Gourmand de l’Echevinレシェバンのグルメメニュー”の5品の内、チーズを外した4品を選んだ。
    Euro55X2=110+チップ5(15,876円)

    シェフのご挨拶:
    エビ入りのシュウマイのような小品が出てきて、食べやすかったがちょっと意外だった。

    前菜:
    メカジキのカルパッチョにトマト、モッツァーレ添え、バルサミコソース。

    メイン:
    ①魚料理
    好きなリソットにイワナが載ったもの、ソースはトマトソース、バジリコ添え。

    ②肉料理
    Dombesドンブ産(東フランス・ローヌ・アルプ地方)のカモの胸肉、ソースはカモの肉汁ソース。それに小さな人参、野菜入りのバスティラ添え。

    (Pastillaバスティラは伝統的なモロッコ料理を言い、アンダルス(スペインのアンダルシアが中心)から持ち込まれた料理だとされる。伝統的な作り方では若い鳩肉を用いたミートパイ)

    デザート:
    チョコレートエクレア。

    コーヒーを頼むと、ゼリーやクッキーがついてきた。

    食事もワインも美味しく、かつリーズナブルなもので、二人とも完食した。

    レストランのスタッフはとてもフレンドリーで、独・英語も通じた。

    ・・・・・


    ル・マレシャルはコルマール観光の中心に位置したホテルであり、ホテルそのものが絵になる。また、川岸(運河)にホテルが立っているので、川をボートが行くのを眺め、斜め左のレストランからは少々羨望の眼差しで見られている。

    珍しいことに川にカワウソの親子が住んでいて、時々巣穴から出てきては泳いでいる。
    カワウソの泳ぐのを見ながら、食事をしたのも初めての体験です。


    XXXXX


    旅行時期
    2015年07月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    12,500円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    3.5
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    4.0

  • 中世の趣むきをもったロマンチックな騎士の城Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城

    投稿日 2015年06月29日

    その他の観光地

    総合評価:4.5

    <シュヴァーベン地方の城巡り>

    レンタカーで周遊した名城は以下の三つ(口コミ済み)。
    Schloss Sigmaringenジクマリンゲン城、
    Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城、
    Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)。

    シュヴァーベン地方の素晴らしい名城群巡りでSchloss Sigmaringenジクマリンゲン城、Burg Hohenzollernホーエンツォレルン城(プロイセン王家)と共に、Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城を訪れた。


    “ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”

    :黒い森・バーデンワイン街道・高及び上ライン川とボーデン湖・
    シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:

    期間 : 2007年4月19日(木)=>5月3日(木)15日間の旅

    4.28(土) 快晴  27℃  、 182km

    ホーエンツォレルン城はノイシュバンシュタイン、ハイデルベルクと並ぶドイツ3大名城の一つと称されているそうだが、何をもって名城というのかは、意見が分かれるところだろう。因みに「ヨーロッパ100名城」(日本城郭協会の選定)にはハイデルベルク城(城址が正しい)が選ばれているが、上記の2城の名はない。

    (今年2015年もリヒテンシュタイン城から15kmの近距離に滞在予定であり、立ち寄ってみたい。尚、「ジクマリンゲン城」はボイロン僧院見物の帰途、時間のないまま、ジクマリンゲンの町を通過予定。「ホーエンツォレルン城」は今回の旅でも近くを走るが2度訪れたこともあり、今回は見送った。)

    山中を走ると、リヒテンシュタイン城の駐車場に至る。

    <Schloss Lichtensteinリヒテンシュタイン城>
    D-72805 Lichtenstein
    http://www.schloss-lichtenstein.de/
    https://www.youtube.com/watch?v=2zhxj06jo-4

    開館;4月=>10月毎日、9時=>17時半

    リヒテンシュタイン城は817m高さの崖上に1840-42年にかけて築城された。
    相当な山奥にこんな小さな、かわいい城をもつ意味はあまり無かったと思われる。趣味的とも言え、南ドイツのバイエルンにある新白鳥城のイメージに近いと言える城である。

    第一の門をくぐると、円筒の白い塔が左手に付随した、深い堀で隔てた城郭が見える。木造の短い橋を渡ると、そこには小さな城門がある。小さな飾りの塔も幾つか見え、緑の谷から垂直な、自然の岩山にかわいい城が建っている。岩の平場の広さは凡そ10m四方程度の狭い場所で、その上に建った城はとても絵になる立ち姿である。
    ここもガイド付きの見学30分、カメラ不可です。

    ガイドの案内で、城との短い橋を渡って小さな中庭に至る。1階にはまず、武器の間があり、中世の甲冑、銃などの武器類が陳列されている。規模は勿論小さいけれども。城の礼拝堂には15?6世紀のステンドグラスが目を引く。聖母マリアの死、聖母マリアのお告げ、キリスト誕生が描かれている。Trinkstubeトリンクシュツーベは食事や宴会が行われた場。狩りの絵が壁に描かれ、飲酒についての格言が書かれている。

    2階に上がると、王の間、紋章の間(様々な絵画が掛けられて)、突出した部屋(張り出し窓のように)には中世の家具、そして、城一番に美しい大きな騎士の間は木の壁、天井、窓枠のアーチと美しく描かれている。当時の有名肖像画家Stirnbrandシュツルンブランドの作品・築城者Wilhelmヴィルヘルム公の等身大の絵がかかっていた。
    部屋の窓からの眺めは、遠くの町、遥か下のEchazエシャッツ川(ネッカーの支流で全長23km)や道路も見える。ここで案内は終了となった。
    城には塔の部屋、3、4階の部屋もあるが、観光客の総重量に問題ある為か、事前の許可が必要だと言う。

    リヒテンシュタイン城の歴史:
    リヒテンシュタイン城は1100年頃に騎士領主により、最初の城が現在の城の建つ場所に建てられたと云う。途中をはしょると、1687年オスマントルコ軍との戦いで落城し、その後の長い間はほったらかしになってしまう。
    1837年、肖像画家に描かれたWilhelmヴィルヘルム・ヴュルテンベルグ伯は父王から譲られたこの地に、簡単な狩りの為の、且つ森林監督官の館を建てた。
    その後、夭逝した作家Wilhelm Hauffヴィルヘルム・ハウフの長編小説『Lichtensteinリヒテンシュタイン』(1826年)に憧れを抱き、1840?42年にかけて、中世の趣むきをもったロマンチックなドイツの騎士の城を築城した。
    戦災から免れたリヒテンシュタイン城はヴィルヘルム公の家系に繋がるUrachウラッハ公爵が現在も私有している。

    リヒテンシュタイン城にハウフの記念碑がある。

    この城を好んで、似たような建物を建てた人がいる。(写真参照)
    一つはバルト海に浮かぶドイツ最大の島・Ruegenリューゲン島のLietzowリーツツオウという村(人口246人)に立つSchloesschen Lichtensteinリヒテンシュタイン小城である。1892=>93年にかけて建て替えた3階建ての小城には切妻屋根と階段破風が見られ、6階建て円形の塔が付いている。
    もう一つはラインラント・プファルツ州Alzey-Wormsアルツァイ・ヴォルムス郡のOsthofenオストホーフェン村(人口8700人)にあるWeinbergshausヴァインベルクスハウス(もしくはMiniaturburgミニアチュアブルク)で、Leckzapfen レックザップフェンのブドウ畑の高台に立っている。

    XXX

    旅行時期
    2007年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0

  • アルザス・コルマールの町ではウンターリンデン美術館の「イーゼンハイムの祭壇画」は見逃せない。

    投稿日 2025年10月17日

    ウンターリンデン美術館 コルマール

    総合評価:5.0

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”           
    オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。

    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅

    7月19日(日)  朝方は小雨、昼頃から晴 21.5~28℃  123km

    Oberkirchオーバーキルヒ =>B28(Appenweierアッペンバイヤー)=>B3 (Offenburgオッフェンブルク)=>A5 65km Kaiserstuhlカイザーシュトゥール・Endingenエンディンゲン =>L? 10km Vogtsburg-Oberbergenフォーグツブルク・オーバーベルゲン =>L? 6km  V-Burgheimブルクハイム =>L?(Breisachブライザッハ)=>B31・415 42km フランス・Colmarコルマール・Romatik Hotel Le Mare’chalロマンチックホテル ル・マレシャル

    <Elsassアルザス地方・コルマール市内見物へ>

    Colmarコルマール:
    シュトラースブルクから南に70km、スイスのバーゼルとも程近いコルマールは「アルザスワイン街道」のほぼ中間に位置し、「アルザスワインの首都」と称されている。
    町の歴史はイタリアとフランドルを結ぶ街道上にあったので、ワインの交易で栄えたと云う。その富の象徴が今に残り、豪商たちが建てた中世からルネッサンスに至る建物、館が旧市街に見ることが出来る。


    【Unterlinden-Museumウンターリンデン美術館】

    16:15~45 65歳以上はEuro6X2=12(1,671円)

    フランスで最も訪れる人が多い美術館のひとつにウンターリンデン美術館がある。
    ゴシック建築様式の美しい回廊と中庭を持ち、美術館には中世末期からルネサンス期の絵画や彫刻を中心とした展示がある。

    1232年に創設されたライン神秘主義(14世紀からキリスト教内で顕著に見られるようになった観想と神秘体験に特徴をもつ宗教思想。またそれを著した説教や神学書をもいう。ライン川流域で大きな影響をもったが、ゲルマン言語圏全体に広く影響を与えた。Wiki)の本拠地であり、アルザス地方で最も大きな修道院であったドミニコ派修道院を19世紀に改修して美術館とした。

    数あるコレクションのなかでも中でも、後期ゴシックの巨匠と称される16世紀の代表的なドイツ人画家Matthias Gruenewaldマティアス・グリューネヴァルトの傑作「Isenheimer Altarイーゼンハイムの祭壇画」は見逃せない。

    「イーゼンハイムの祭壇画」は元々コルマールの南にあるIsenheimイーゼンハイムの修道院にあったもので、衝立や開閉式の翼などに描かれた10枚から構成されている。
    とりわけ第1面のキリストの磔の場面が見事で、迫力のある印象が残る。

    また、美術館にはルネサンス期のドイツ人画家の絵画、Martin Schongauerマルティン・ショーンガウアー(1448~1491年:コルマール生まれ)の作品「Orlier Altarオルリアック祭壇画(1470年代後半)」、同作品「Altar von Martin Schongauer Maria im Rosenhag マルティン・ショーンガウアーの聖壇・バラの生垣の聖母子(1473年:この美術館で最後に見た絵画だった)や、Lucas Cranach der Aeltereルーカス・クラナッハ(父)(1472~1553年)の作品「Die Melancholieメランコリー (1532年)」が見られる(この美術館で最初に見た絵画だった)。

    陶器や錫製品、鉄細工、家具、金銀細工などの装飾工芸品、印象派から20世紀に至る前衛的な潮流の作品も展示されていると云うが、「イーゼンハイムの祭壇画」だけで十分な気分になった。

    “イーゼンハイム祭壇画”を見たのは若い頃の1984年で、更に古い時期に1回見ている。今回は3度目になるが、もう若い頃の感興は覚えていない。多分当時は観光に来て子供たちと一緒に見た宗教画に独特の暗さを感じただけでしょう。
    今回の旅にあたり、検索してみた“イーゼンハイム祭壇画”があまりに美しく撮れていたので、こんな感じだったかなー?と思ってしまうほどでした。

    ・・・・・

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • 駐在1年目、先輩に誘われて、遠い遠い古代ギリシャ「アポロン神の御神託」の地を訪ねた。

    投稿日 2016年02月02日

    アポロン神殿 デルフィ

    総合評価:5.0

    1974年12月28日?1975年1月6日 
    ≪年末年始:ギリシャ(アテネとその近郊)・トルコ(イスタンブ?ル)の旅≫

    会社(大学も)の先輩家族と初めての海外旅行でしたが、帰国の内示も出ていた先輩から誘われて、思い切った旅に行きました。
    当時の私は駐在一年に満たない新米(一番若い)でしたので、他の駐在員の方々(その家族)から、あとでいろいろとやっかみや反発がありました。何しろ当時の駐在員も家族旅行でこの地まで来るのは稀なことでしたから。
    以来、訪れたことが無い国々です。写真を見るともう黄ばんでいます。

    1974年12月30日
    アテネ北西約160kmにありますが、大きなアメ車のタクシーを調達し、大人4人、子供4人が乗って、デルフィの地に向かったのです。
    オシオス・ルカス寺院、デルフィの遺跡(アポロンの神殿・・大きく険しい岩山を背にしたアポロン神殿跡は御神託の地に相応しい場所でした。野外劇場)、コリントのアポロンの神殿、エピダブロスの野外劇場、ペロポネソス半島東部に位置し、かつてドイツの考古学者のシュリーマンが発掘したミケーネ文明の古代遺跡群(ライオンの門、アガメヌオン王の墓)、ダフニ修道院などを一日で巡ったのです。

    旅行時期
    1974年12月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1日
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.5

  • 皇帝ナポレオンの屈辱の地ワーテルローの古戦場を訪ねたら、ライオン像の丘に登るべし。

    投稿日 2025年09月13日

    ライオン像の丘/パノラマ館 ワーテルロー

    総合評価:5.0

    【皇帝ナポレオンが、英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地Schlacht bei Waterlooワーテルローの古戦場を訪ねたら、ライオンの丘に登るべし。】

    1983年の春を迎え、1983年5月21日~23日、Pfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の休みにベルギーとオランダに小旅行した。
    ベルギー・フランドル地方を中心にオランダの南部を一寸かすめて走る旅である。

    この旅で最初の目的地、英雄・フランスの皇帝ナポレオンが、英国・和蘭陀王国・普魯西(プロシア=プロイセン王国)王国の連合軍、つまり英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地ワーテルローの古戦場である。意外にも、駐在二度目に漸く訪れたことになる。

    ヨーロッパの歴史に欠かせないナポレオン時代の最後を飾る「(独語)Schlacht bei Waterlooワーテルローの戦い」と呼ばれている古戦場だ。

    【La Butte du Lionライオンの丘】
    Ronte du Lion 1815, 1420 Braine-l'Alleud

    Walloon Brabantブラバン・ワロン州、ワーテルロー(現人口3万人)南南東5kmのMont Saint Jeanモン・サン・ジャンには、戦いの記念碑、通称「ワーテルロー・ライオン」があり、このライオン像は敵であったフランスを向いている。

    記念碑のある人工の丘は1823~1826年の3年をかけて完工した。
    「Butte du Lionライオンの丘」と呼ばれ、階段で登ることができ、ベルギーの観光名所となっている。


    ライオンの像は、28トンもの重さがあり、メッヘレンの彫刻家ヴァン・ヘールが製作し、リエージュのコックリルが鋳造した砲身を鋳つぶして作られたライオンの像で、丘の高さは45mくらい、急傾斜の226段の階段を上がった頂上に、*オラニエ王子の名誉の負傷を記念して作られた。
    これは敗走したナポレオン軍が遺棄した野砲を鋳つぶして作ったものだ。

    *オラニエ公ウィレム(Willem Frederik George Lodewijkウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク)は、後に第2代オランダ国王(在位:1840年~1849年)、及びルクセンブルク大公)に即位した。
    イギリス軍に加わり第1軍団を指揮し、Bataille des Quatre Brasカトル・ブラの戦い、ワーテルローの戦いに参戦し、負傷した。

    ライオン像は
    長さ4.5m、
    高さ4.45m、
    重さ28トン、
    基礎の土台の高さは6mだそうだ。
    ライオンの像の足で野砲の球を抑えているのだとか。

    この像は急傾斜の226段の階段を上った頂上(高さは45mくらい)に在って、因縁の敵国フランス(首都パリ)をにらんでいる。

    ・・・・・

    ワーテルローの戦いは1815年6月18日の1日で決着したが、如何に大きな戦いであったかが分かるのは以下の数値だ。

    <両軍の兵力対比>

    フランス帝国軍:
    総兵力73,000人(歩兵50,000人、騎兵15,000人 銃・砲兵8,000人、野砲252門)

    英蘭普連合軍:
    総兵力120,000人(歩兵91,000人、騎兵21,000人 銃・砲兵8,000人、野砲282門:英蘭連合156門、プロイセン126門)
    (ウェリントン公爵旗下の連合軍:英、蘭、ハノーファー王国など68,000人と、ブリュッヘル元帥旗下のプロイセン軍50,000人:後のドイツ帝国軍)

    <戦後の両軍死傷者等の数対比>

    フランス帝国軍:
    死傷者25,000人、捕虜8,000人、脱走者15,000人、遺棄された野砲220門、

    英蘭普連合軍:
    死傷者24,000人(ウェリントン公爵旗下の連合軍死者3,500人、傷者10,200人、行方不明者3,300人 合計17,000人。ブリュッヘル元帥旗下のプロイセン軍死者1,200人、傷者4,400人、行方不明者1,400人 合計7,000人)

    尚、両軍の乗馬7,000頭が死んでいる。

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    旅行時期
    1983年05月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • 銚子:【稲むらの火:TSUNAMI(つなみ)】で知られた 濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の紀徳碑を見つけた。

    投稿日 2025年09月04日

    濱口梧陵君紀徳碑 銚子

    総合評価:5.0

    濱口梧陵君紀徳碑
    〒288-0811 千葉県銚子市妙見町461-8

    妙見宮・妙福寺を出て来ると、道路を挟んで右手にヤマサ醤油の本社工場がある。

    銚子駅方面から来て、道路を右折し妙福寺に向かって真っすぐ行くと、左手にちょっとした森(ヤマサ醤油の敷地内であろう)があり、その木々の中にこの大きく、立派な紀徳碑(顕彰碑)が立っている。

    意外に気付かずに通り過ぎてしまうのだが、偶々帰り道に道路を横切り、森側の歩道を歩いた。それで濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の碑に気付いて、こうした写真も撮れたのだが、翁は実業家・社会事業家・政治家といった人物像よりも*<稲むらの火>のエピソードで世界に知られた人だ。

    【濱口 梧陵(はまぐち ごりょう)翁の紀徳碑(顕彰碑)】

    勝海舟(伯爵 勝安芳 かつ やすよし)が題額を書いている紀徳碑(顕彰碑)の説明版がある。

    紀徳碑(顕彰碑)の説明版の最後に簡単に書かれていたのが、*<稲むらの火>であり、ここであらためてWikiから引用・抜粋した。
    また、情けないことだが、この事を*小泉八雲が小説化した事も初めて知った。

    *小泉八雲「A Living God」
    1896年(明治29年)、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、英語によって "A Living God " を著した。西洋と日本との「神」の考え方の違いについて触れた文章であり、この中で人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の物語を紹介した。(Wiki)

    *稲むらの火 とは:
    「稲むら」(稲叢)とは積み重ねられた稲の束のこと。稲は刈り取りのあと天日で干してから脱穀するが、上のように稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。 ただし脱穀後の藁の山も「稲むら」と言うことがあり、史実で燃やされたのは脱穀後の藁である。(Wiki)

    安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が紀州有田郡広村(現・広川町)に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。
    津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている。

    この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を約4年かけて修造した。この大土木工事は、荒廃した被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を浜口五兵衛の名で小説化し、「生ける神(A Living God)」と賞賛している。

    当時としては巨大な堤防の建設の際に「住民百世の安堵を図る」との言葉を残している。堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができた。
    また、梧陵の活躍をたたえ、広村堤防には感恩碑(1933年建立)が建てられている。広川町では毎年11月に「津浪祭」を行い、梧陵の遺徳をしのぶとともに災害の記憶と災害への備えを伝えている。

    大規模な津波被害が出た2004年12月のスマトラ島沖地震によって、『稲むらの火』の物語が想起されるとともに、そのモデルとなった史実の濱口梧陵の事績が注目された。
    歴史情報番組『その時歴史が動いた』(NHK総合、2005年1月12日)では、「百世の安堵をはかれ 安政大地震・奇跡の復興劇」を放送し、広村堤防築造を中心に梧陵の生涯を紹介した。番組中で解説のゲストとして出演した河田惠昭(京都大学防災研究所教授)は、現代のように災害対策に関心が払われていない時代背景において、災害対策としての目的で、公共事業ではなく一民間人の発案と私財をもって広村堤防建設が実施されたことを、非常に画期的と評価している。

    2005年のスマトラ沖地震津波後に開かれたASEAN緊急会議に出席した当時の【首相小泉純一郎は、シンガポール代表から濱口梧陵の功績を尋ねられたが、知識がなく答えることができなかった。】
    2015年12月4日、国連総会第2委員会は日本を含む142か国の提案により、この逸話のもととなった11月5日を「世界津波の日」に制定することを全会一致で決めた。


    ・・・・・

    濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日)~ - 1885年(明治18年)4月21日)は、日本の実業家・社会事業家・政治家。
    紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身。
    広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て彼の私財で賄われた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。駅逓頭や初代和歌山県会議長を務めた。
    醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語*『稲むらの火』のモデルとしても知られる。

    生い立ち:
    紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移る。
    その後、若くして見聞を広め、開国論者となった。海外留学を志願するが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行った。嘉永5年(1852年)、同業の濱口吉右衛門(東江)・岩崎重次郎(明岳)とともに広村に稽古場「耐久舎(たいきゅうしゃ)」(現在の和歌山県立耐久高等学校)を開設して後進の育成を図った。
    嘉永7年(1854年)頃、七代目濱口儀兵衛を相続する。


    ・・・・・

    【ヤマサ醤油株式会社(ヤマサしょうゆ)】

    ヤマサ醤油株式会社は、千葉県銚子市に本社を置き、醤油・各種調味料の製造・販売を行う企業である。
    七代目当主濱口梧陵が医学をはじめ社会貢献事業に尽力し、現在でも医薬品原体(原薬)・医薬中間品・医薬化成品・診断薬などの製造・販売を行っている。

    沿革:
    1645年(正保2年) 初代当主濱口儀兵衛が醤油発祥の地、紀州由良の隣町である紀州有田郡広村(現・広川町)から銚子に移住し、本場の醤油造りで創業した。


    ・・・・・・・・・・・・

    今日は香取市の府馬の大クス、妙見宮・海上山妙福寺の「臥龍(がりゅう)の藤」を見に来た一日だったが、
    思いもよらない「なんじゃもんじゃ(一つ葉タゴ)」の木や花の事や、ヤマサ醤油と濱口 梧陵翁の事績を知ったことで、大いに満足した小旅行となった。

    (2025年5月3日Wiki・HP参考、編集追記)

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    尚、住所は記載された妙見町461-8の通りだが、
    4Traの場所の表示が間違っている。
    銚子市妙見町に印があるが、ここではない。

    旅行時期
    2025年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    5.0

  • ポツダムの森の中、バイエルン王家の出身・プロイセン王妃エリザベートの愛したバイエルンハウス(5星ホテル)がある。

    投稿日 2021年06月24日

    ROMANTIK Hotel Bayrisches Haus Potsdam ポツダム

    総合評価:5.0

    2021年6月18日改訂した:

    ≪Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Haus古城ホテル バイエルンハウス≫
    現在は名前が変更されて「ROMANTIK Hotel Bayrisches Haus Potsdam」と称する。

    D-14471 Potsdam 、Im Wildpark 1 / Elisenweg 2
    Tel:+49 (0)331 5505 0 ・ Fax: +49 (0)331 5505 560

    5星・全41室。Comfortzimmer im Garten- oder Waldhaus
    私共の部屋は本棟の左奥にある別棟のWaldhausバルトハウス252室(1階)でした。
    Euro80X3=240 朝食代は別・Euro25X3X2=150 合計Euro390 (46,265円)

    このホテルは5星で、朝食代は一人Euro25もしていました。
    予約したBooking comのホテルへのコメントを読むと、朝食代が高い、高いとのコメントが多かった。
    http://www.bayrisches-haus.de/

    グルメレストランRestaurant Friedrich Wilhelmはミシュラン1星 ・
    Gault Millau 16点 、全独ランク138位。

    Berlinベルリンから三十数kmの近郊、世界遺産の町・Potsdamポツダムの森の中に、珍しい歴史的なホテルがある。
    歴史的な王侯の館(バイエルン地方に見られる独特の民族的な建物)であったので、古城ホテルの範疇に入れたが、普段、私共が思い浮かべる古城ホテルのような、城郭の名残は全くない。
    今まで滞在してきた古城風のスタイルとは勿論違っている。

    ポツダムの西部に位置するホテルは、Sanssouci Parkサンスーシ公園にあるNeues Palaisノイエスパレス新宮殿から車で10分の距離にある。

    Relais und Chateaux Hotel Bayrisches Hausルレ・シャトーホテル(加盟)・バイエルンハウスのエレガントで広々とした客室には上品な布地が用いられ、木製家具とイタリア産大理石のバスルームが備わっている。
    ホテルは本棟のWildparkresidenz(ビルトパークレジデンツ・動物園のレジデンツ)、Gartenhaus(ガルテンハウス・庭園小屋)、Jagthaus(ヤーグトハウス・狩猟小屋)、そして私共部屋があるWaldhaus(バルトハウス・森の小屋)とあり、呼び名も森の中のホテルらしい名前が付いている。多分、私共のバルトハウスの部屋が一番安い。

    グルメレストラン Friedrich Wilhelmフリードリヒ・ヴィルヘルム(ミシュラン1星、火曜から土曜まで営業なので、私共の日程では17日(火)のみがチャンス)で、夕食を予約した。

    また、公園の端、ホテルへの入口に立っているレストランは郷土料理のAlte Foersterei古いフォレステライ(山番小屋)"である。最初の夕食はここで食べた。

    館内のL’Oasis Beauty&Spa(ビューティー&スパ)では、スイミングプール、サウナ、スチームバスを併設しており、美容トリートメントとマッサージもできる。

    (注)
    かの美貌で有名なオーストリア皇妃エリザベート、つまり愛称シシーの母ルドヴィカ妃の伯母プロイセン王妃エリザベート・ルドヴィカが愛したバイエルンハウス・・・皇妃シシーの名は伯母のプロイセン王妃エリザベートの名を付けたと云う。
    (エリザベート・ルドヴィカはバイエルン王妃カロリーネ・フォン・バーデンの娘で双子の姉にあたる)

    関連旅行記;
    プロイセン王の一目ぼれ (Die Liebe auf den ersten Blick)
    http://4travel.jp/travelogue/10862303

    バウムクーヘン発祥の地Salzwedeler Baumkuchen ザルツヴェーデルとプロイセン王ヴィルヘルム4世
    http://4travel.jp/travelogue/10862303

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    旅行時期
    2011年05月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    Booking comで予約したが、グルメレストランや朝食代は別にして宿泊代は早い予約で安かった。
    サービス:
    5.0
    サービスは申し分ないものでした。
    バスルーム:
    5.0
    広く、清潔で申し分ないものでした。
    ロケーション:
    4.5
    Berlinベルリンから三十数kmの近郊、世界遺産の町・Potsdamポツダムの森の中に、珍しい歴史的なホテルがある。
    客室:
    4.5
    別棟のWaldhausバルトハウス252室(1階)・・・一番安いタイプでしたが、部屋は金額以上の感じでした。

  • ルツェルンのロイス川に架かる、屋根付きの木造橋・カペル橋は実に絵になりました。

    投稿日 2025年08月16日

    カペル橋 ルツェルン

    総合評価:5.0

    【1975年8月9日~8月19日 10泊11日 夏の休暇Urlaub旅行
    ロマンチック街道から南独、オーストリア、スイス巡り】


    もう50年昔の事だ。
    Zuerichチューリッヒから、=>A4 Zugツークを経由し、=>A4・2 ルツェルン傍のBrunnenブルンネンを訪れた。この町は宿が取りやすかっただけで、泊まったのだが・・・。

    <Brunnen泊;Hotel Eden au Lacホテル・エデン・オ・ラック>  
    4星・39室
    CH-6440 Brunnen am Vierwaldstaettersee 、Axenstrasse 15
    ルツェルンの東に広がるフィーアヴァルトシュテッテ湖(通称ルツェルン湖)は湖の東側が大きく南へ曲がり、その曲がり角の湖畔に位置するのがブルンネンの町である。ホテル・エデンは風光明媚な湖畔沿いに立つ。
    http://www.hoteledenbrunnen.ch/4517.html

    ⑧1975年8月16日(土) 晴れ ;210km

    ブルンネン=>A2 Luzernルツェルン

    <ルツェルン観光>
    (9:30~14:00)

    スイスの中央に位置するルツェルンは美しい湖畔に中世からの建物が並ぶ古都、昔も今もスイスを代表する水の都・観光地である。人口は75千人。

    見るべきものは中世の市城壁Museggmauerムーゼック城壁、
    1792年のフランス革命の時に、ルイ16世を守って果てたスイス傭兵の記念碑“瀕死のライオン像”、
    屋根付きの木橋・カペル橋(1333年)と17世紀という110枚の歴史画、旧市街に残る見事な「フレスコ画」・壁画の建物、
    初めて見たGletschergarten氷河公園・氷河臼など。

    とりわけ、魅力的なのはReuss (Fluss)ロイス川に架かるKapellbrückeカペル橋(全長204.70 Meterで、欧州最古の木造橋と云われ、実に絵になりました。
    ゼラニウムの花などが橋の欄干、旧市街の噴水、フレスコ画に彩られた建物を飾り、夏のルツェルンは美しかったです。
    橋に隣接して、8角形をした、レンガ造りの高さ43mのWasserturm水の塔がある。この塔はかつて監獄や拷問部屋として使用されていたそうだ。

    その後、屋根付きの木橋・カペル橋が1993年に、*火事で焼けおちた事がありました。
    あの時、110枚の歴史画も失ったかと思うと残念なことです。

    (*Wikiによれば、橋の大部分と、ほとんどの絵は焼失してしまったが、すぐに再建された。)

    ・・・・・

    旅行時期
    1975年08月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    4.0

  • バーデン・バーデンの保養施設トリンクハーレの壁に14の壁画があり、エーベルシュタイン城のヴォルフ伯爵の伝説・運命の跳躍の絵がある。

    投稿日 2025年08月05日

    トリンクハレ バーデン・バーデン

    総合評価:4.5

    【バーデン・バーデンの保養施設トリンクハーレと壁画のこと】

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅” 
    オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。
    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅

    第三日:7月16日(木)  晴 23.5~30.5℃ 138km
    Rastattラシュタット=>L?・B462 19km  Gernsbachゲルンズバッハ =>L? 4km Schloss Eberstein古城ホテル エーベルシュタイン城

    ラシュタットからクッペンハイム経由、B462のTaelerstrasse峡谷街道を走ると、19km でGernsbachゲルンズバッハの町に14時に着く。ゲルンズバッハの町は1219年に初めて歴史書に現れたが、エーベルシュタインの騎士領主によりムルグ川の両岸に発展した町で、黒い森の北端に位置する。人口14千人の町は歴史ある旧市街を持つ保養地である。

    15時、ゲルンズバッハを出て、ムルグ川から130mの高さにある古城ホテルを目指す。Obertsroterstrasseオーベルスロット通りを走り、城の裏手にあたる山中をぐるりと4km回って、山頂のSchloss Eberstein古城ホテル エーベルシュタイン城には10分で着いた。

    ゲルンズバッハの町やムルグ川、古城周辺のブドウ畑の眺望が良いのと、Schloss-SchaenkeシュロスシェンケにあるPlatanenterrasseプラタナスのテラスレストランでの昼食を楽しみにお客が来ているようで、周辺の駐車場もいっぱいである。

    ③7月16日(木)(1泊)Restaurant & Hotel Schloss Eberstein
    古城ホテル エーベルシュタイン城   
    D-76593 Gernsbach 、Schloss Eberstein 1(レストランはWerderstrasse 1)
    Tel:+49 (0) 7224 995950 、Fax:+49 (0) 7224 9959550
    http://hotel-schloss-eberstein.de/

    4星・全14室(うち4室がスイート)。選んだカテゴリーの部屋はStandard DZ=Euro158(朝食+Kurtax込み、21,730円)で、Dachgeschoss 屋根裏部屋の3階・25号室だった。
    ここでは安い部屋なので、裏の山側の眺望となり私共のレンタカーが見えた。

    バーデン・バーデンから車で東に20分の距離にある。
    Gernsbachゲルンズバッハを流れるMurgムルグ川から130mの高さに、ムルグ渓谷のシンボルであるエーベルシュタイン城は堂々とした姿を見せている。
    Felsnase鼻のように突き出た岩山に立つ古城の周辺はブドウ畑が囲み、それは美しい景観の中にある。

    ・・・・・

    Baden・Badenバーデン・バーデンの保養施設Trinkhalleトリンクハーレという建物に、Die Sagen der Trinkhalleトリンクハーレの伝説集(14の壁画の説明)というものがあり、エーベルシュタイン城での攻城戦を描いた絵画が掲げられている。
    また、以下の伝説の場面が出て来るのだが、口コミにこの事が紹介されていないので、ツイ少々長い紹介を書いた。

    ≪黒い森のエーベルシュタイン城:ヴォルフ伯爵の伝説・運命の跳躍≫
    Schloss Eberstein :die Sage vom ”Grafensprung ”

    https://4travel.jp/travelogue/11030462

    ・・・・・・・

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • 木組み建築街道を走り、黒い森民族衣装博物館の町ハスラッハを訪ねた。

    投稿日 2025年05月07日

    黒い森 (シュヴァルツヴァルト) その他の都市

    総合評価:5.0

    “ドイツ 黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”           
    オーデンの森・黒い森・バーデンワイン街道(カイザーシュトゥール)・仏アルザス地方(コルマール・シュトラースブルク・アルザスワイン街道)・シュヴァーベン地方の古城群・フランクフルト近郊のタウヌス・懐かしのデュッセルドルフ。

    期間 : 2015年7月14日(火)~7月28日(火)15日間の旅
    <使用レンタカー>
    VW Skoda Rapid フォルクスワーゲン・シュコーダ(スコーダ)・ラピッド
    1600ccディーゼル車 黒 5T オートマチック・エアコン(ナビなし)。

    <黒い森・Taelerstrasse峡谷街道を走る>
    第四日:7月17日(金)  晴  34~38℃  188km

    Gernsbachゲルンズバッハ=>B462 11km (Forbachフォルバッハ)=>B462 32km Baierbronnバイヤーブロン=>B462 30km Freudenstadtフロイデンシュッタット =>B294 27km Schiltachシルタッハ=>B294 10km Wolfachヴォルファッハ=>B33・294 13km *Haslachハスラッハ=>B33 18km Gengenbachゲンゲンバッハ =>B33・(Zellツェル)L?・B28 47km  Oberkirchオーバーキルヒ・Romatik Hotel Zur Oberen Lindeロマンチックホテル オーベレ・リンデ

    *黒い森も広いので、Haslachハスラッハだけを書く。
    この日はB294をさらに西へ走る。順にHausachハウスァッハ、Haslachハスラッハとなる。二つは似たような名で間違いやすい名前だが、距離13kmで黒い森民族衣装博物館の町・ハスラッハに到着した。

    【Haslach im Kinzigtalハスラッハ(キンツィヒ川)】
    14:35~15:15

    キンツィヒ川に沿ったローマ時代からの古い町は人口7千人の小さな町。この町も木組み建築街道に属し、フライブルクの町から南に38kmの距離にある。
    1278年に帝国都市権を与えられ、特に銀鉱山の採掘で町はうるおい、17世紀にはさらに商業が発展し、地域の中心になっていった。当時のマルクト通りの住居・手工業横丁などの様子は今も残り、バロック風の木組み建築の家並みが美しい、絵画的な旧市街である。
    特徴的なボレン帽子を付けた黒い森の民族衣装を展示した博物館が今日一番の目的だ。
    http://www.haslach.de/

    Kapuzinerkloster Haslachハスラッハ・カプチン修道院:
    D-77716 Haslach 、Klosterstrasse1
    Graf Christoph II. von Fuerstenbergクリストフ2世・フュルステンベルク伯の建設指示により1630~32年に完成した。
    http://www.kloester-bw.de/kloster1.php?nr=396

    <Schwarzwaelder Trachtenmuseum黒い森民族衣装博物館(ハスラッハ修道院内)>
    D-77716 Haslach 、Im Alten Kapuzinerkloster
    1980年開館。火~土10時~12時半、13時半~17時、入場料Euro3(418円)
    http://www.trachtenmuseum-haslach.de.vu/
    http://www.zum.de/Faecher/G/BW/Landeskunde/rhein/volkskunde/trachten/haslachfr.htm

    この博物館は1630~32年に建設されたハスラッハ・カプチン修道院を改装した建物を利用して、1980年に開館したものである。

    博物館には黒い森と上ライン川地域から集められたもので、最も貴重な民族衣装の100以上が地域別に個室(かつての修道士の部屋と思われる小さな部屋)に展示されていた。
    また、Brautkronen婚礼の冠、Haubenボンネット(夫人・子供の帽子)とHueten帽子(男性用)の貴重なオリジナルコレクションもすごい。
    民族衣装は独特のもので、鮮やかな赤い玉(未婚の女性は赤・既婚者は黒)を十数個帽子上に飾り(独語でBollenhutボレン帽子と言う。英語ではPompon Hat玉房で飾った帽子)、真っ白のブラウスに、小花模様のビロードのベスト、黒の前掛けを付けたスカートの民族衣装は素晴らしいもので、とりわけ若い娘さんたちはチャーミングである。

    今もって、結婚式や、毎年秋口の収穫祭に行われる祭りで、この民族衣装で着飾った老若男女たちを見られるようだ。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2015年07月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ニンフェンブルグ宮殿の美人画ギャラリー、お気に入りは“美しいミュンヘンッ娘”

    投稿日 2020年03月25日

    ニンフェンブルク城 ミュンヘン

    総合評価:4.5

    <南ドイツとオーストリア周遊の旅>
    (2004年4月21日-5月4日:2週間)

    5月01日(土)85km、 曇り時にシャワー

    シュタルンベルガーゼー・Golfhotel Kaiserin Elisabethゴルフホテル
     エリザベート皇妃 (4星:3泊) を9:20スタート=>BST?/ATB952・95・
    E533 =>ミュンヘン10:00= 30km、市内観光:フラウエン教会、
    市庁舎---仕掛け時計11:00、レジデンス(宝物館)、昼食“Spatenhaus”
    13:30-15:00、ニンフェンブルグ宮殿見学:美人画ギャラリーなど 
    15:30-16:40 城内庭園カフェ 17:00-17:40、 Hofbraeuhaus
    夕食”ホーフブロイハウス”18:10~ 、ホテルに戻る 21:00。

    *今日から、ドイツの詩人達が好んで詠う「ドイツの春」のスタートです。
    麗し、美わし、ウルワシの5月です。1日はメーデーで町のお店はお休みです。
    700年余り、バイエルンを支配したヴィッテルスバッハ家の家紋からとった、
    バイエルン州の旗---白と水色の市松模様----はどこの町、村でも、庁舎に
    掲げられている。面白いのは街道沿いのレストラン、飲み屋でも、この旗が、
    ビールメーカーの旗と共に、店先に高々とあるのが良い。

    昼食の後、少し離れたニンフェンブルグ宮殿へ、美人画ギャラリーを見に
    行く事となる。1758年完成のバロック様式の宮殿で、1918年まで、
    バイエルン王の夏の離宮として、利用されたものです。

    中でもルードヴィヒ1世が描かせた美人画のギャラリーは素晴らしい。
    ヘレーネ・ゼドルマイヤーという画はその際立った美しさを
    “美しいミュンヘンッ娘”と言う呼び名でミュンヘン市民に愛されて
    いるそうです。

    宮殿前のライラックの群落がとてもきれいです。宮殿の裏側には
    広大な庭園が広がり、そこかしこに植物園、狩猟のロッジ、屋内プール
    等が点在している。              

    カフェ・レストランもあり、家内の友人母子Iさん達はアイスカフェー、
    我々はチーズ・ケーキ、アップルパイと紅茶・コーヒーで休憩にする。

    夜はHofbraeuhausホーフブロイハウスで乾杯だ。
    “Ein Prosit、Ein Prosit、der Gemuetlichkeit・・アイン・プロジット、
    アイン・プロジット、デア・ゲミュートリヒカイト・・さあ乾杯、さあ乾杯、
    みんなで愉快に乾杯だ!!“

    ・・・・・

    旅行時期
    2004年05月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.5

  • ホーエントヴィール大要塞跡への狭い道の勾配18%!標識にビビって登頂を諦め、早々と世界遺産ライヒェナウ島の僧院群に向かった。

    投稿日 2025年04月29日

    聖ゲオルグ教会 (ライヒェナウ島) その他の都市

    総合評価:5.0

    2007年4月26日 (木)  快晴 25.5℃爽やか  、 184km

    Stein am Rhein シュタイン-アムライン(1000年記念年):旧市街・市庁舎、独特の家々=>L? 16km Singenジンゲン・“Hohentwiel”ホーエントヴィール大要塞跡
    =>B33/34 37km世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録・St.Georg、St.Maria&Markus、St.Peter&Paulの3教会) 島内10kmを走る 14:00~16:20 お茶:Insel Reichenau のパン屋さん 15:00~15:30 
    =>B33/34/31 42km  (Überlingen)=>L?12km Salemザレム・Schlosshotel Schwanen古城ホテル・白鳥17:30着 

    *スイス領Stein am Rhein シュタイン-アム ライン(ラインの石)から、ドイツに戻り、L?を16kmでSingenジンゲンの町(人口47千人)の郊外に「Festungsruine Hohentwiel ホーエントヴィール大要塞跡」が見えてきた。
    この要塞はドイツ最大の要塞と云われる。今は要塞跡が山上(海抜686m)にあるだけで、そこからの眺望は素晴らしいそうだ。
    此処は氷河時代から形成された260mの山容(死火山)を利用し、914年にBurkhards ブルクハルトⅢ世伯が居城として築城したものだ。
    9.92haの広大な要塞は30年戦争などでは大きな役割を果たしたが、18世紀に国家の重要な囚人を収容する監獄に変わり、1801年フランス革命軍(ナポレオン時代)によって爆破されたまま、現在に至っている。
    見学には凡そ2時間。この辺り一帯は独特の風土を持ったHegauヘーガウ地方と呼び、点々と岩山が大きな山容をなしている。
    グリム童話よりも古い民話が伝承されてきたと云う。
    尚、1797年に地学にも精通した文豪ゲーテがヘーガウ地方を旅した時、彼の旅日記にホーエントヴィール大要塞の印象を書き留めたと云う。

    麓近くまで行ってみたが、狭い道の勾配が18%!との表示があり、ビビってしまって、登るのを諦めた。飛び出たような山容にある大要塞跡の遠景を写真に撮るだけとなった。 (13:20)

    ボーデン湖=>SingenジンゲンからB33/34で37km、 Insel Reichenauライヒェナウ島に入る。英語で言うとRich Land・豊かな島と言う意味である。昔から、ボーデン湖の魚に恵まれた漁業と、気候が温暖なお陰で野菜や果実、ブドウ畑を営む農業が盛んで、今はこれら新鮮な生産物を提供する人気の保養地である。
    ボーデン湖最大の島であったが、堤が1838年に築かれて陸続きとなり、今は堤の上を車も行き来する。
    堤の上のPirminピルミン通りはポプラの高い木々が整然と続く道で、気持ちの良い通りだ。
    西ローマ皇帝のカール大帝は、緑豊かな、すがすがしい自然の中にあるこの島を好み、島全体を帝国修道院とし、780年に多くの特権を与えた。
    これに依って島の修道院文化は発展し、ヨーロッパの宗教史、文化史に欠かすことの出来ない存在になったと云う。
    また、芦の茂る一帯は鳥類にとっての自然保護区になっている。 島内は車で一周しても凡そ10~15kmである。

    世界遺産 Kloster Insel Reichenauライヒェナウ島の僧院群(2000年登録)はSt.Georg聖ゲオルグ教会、St.Maria&Markus聖マリア・マルクス教会、St.Peter&Paul聖ペーター・パウル教会の3教会を一括した遺産として評価したものである。

    OberzellオーバーツエルにあるSt.Georg聖ゲオルグ教会が最初に道の右手に見え、駐車場は左手にあった。50セント硬貨が無くなり、駐車料金自動支払機が使えない。ここでもまた、親切な小母さんグループに会い、大量に50¢硬貨を替えて貰えた。
    聖ゲオルグ教会は888年に建造されて、今も殆ど外観が変わらないままである。内部には10世紀のオットー朝時代の壁画が色も薄くなってはいるが残っている。駐車場側には壁画を説明している小さな資料館もあって、拡大された写真などを見ることができる。

    島の中心であるマルクト広場には樹齢700年の菩提樹の大木が緑の葉を広げ、涼しげな木陰を作っている。
    その周りに庁舎や郷土博物館、ホテル等もある地区、Mittelzellミッテルツエルには旧修道院教会のSt.Maria&Markus聖マリア・マルクス教会がある。
    聖マリア・マルクス教会は広場の右手にある塀に囲まれた中にあった。最古の部分は816年にあたり、後ゴシック、ロマネスク様式が見られる。特に13世紀の天井の骨組みは船底によく似たつくりになっていて、素朴だが強靭さを感じさせる。

    お茶:Insel Reichenauのパン屋さんで。
    遅くなった昼食は諦めて、必ずこの小さな村内にもあると思い、パン屋さんを探す。郷土博物館の後ろの小道にパン屋さんがあった。リンゴのタルトとオレンジジュースを買い、駐車場の木陰で頂く。タルトがとても美味しく思えた。 
    (15:00~15:30 Euro4)

    島の北の先端になるNiederzellニーダーツエルには、Gnadenseeグナーデン湖(ボーデン湖の一部)に面して、St.Peter&Paul聖ペーター・パウル教会が建っている。駐車場からは遠く、野菜畑の先に二つの塔をもった赤い屋根の教会が見えてくる。
    聖ペーター・パウル教会は11~2世紀に建設されたもので、東の後陣には万能の神キリストの大きな壁画(1110年作成)がある。バロック、ロマネスク、ロココ様式と時代の変遷とともに、其々の特徴をみせている。
    教会裏手の墓地からの眺めも良く、グナーデン湖に帆走するヨットも見え、対岸の村々の家が遠望できる。  (14:00~16:20)

    ライヒェナウ島からKonstanzコンスタンツ(古くはローマ軍の駐屯地であった。1414の宗教会議で有名。ドイツ領の商業と大学の町。)は7kmと近く、此処からは対岸のMeersburgメーアスブルクにフェリー便がある。
    花の島Mainauマイナウ島もあって見所も多いが、以前に立ち寄ったので、今回は省略して、Salemザレムに向かう。
    B33/34/31 42kmのÜberlingenユーバーリンゲンで、ボーデン湖畔から山間に入り、ザレム谷を走る。L?狭い、上下する道を12kmでザレムとなる。道標に沿っていくと、Schlosshotel Schwanen古城ホテル白鳥が出てきた。Schloss Salemザレム城の美しい姿も見え、その昔は城の建物の一部であった、今は警察署がホテルの隣地にある。17:30到着です。 

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2007年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日

jijidarumaさん

jijidarumaさん 写真

33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

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