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jijidarumaさんのクチコミ(15ページ)全659件

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  • ベルリン・プレッツェンゼー記念館:絞首刑にされた刑場跡は現在、その英雄行動を顕彰する記念碑になっている。

    投稿日 2021年08月06日

    プレッツェンゼー記念館 ベルリン

    総合評価:4.5

    2011年5月にザクセンの古城Burg Kriebsteinクリープシュタイン城訪れた。
    ≪古城伝説:Die Sage von der treuen Frau von Kriebsteinクリープシュタイン城の貞淑なる妻≫
    ≪1986年、クリープシュタイン城で城主が隠した宝物が発見された。≫

    第二次世界大戦の終わりに、ソ連軍にレーンドルフ家の貴重な財産を奪われないように、Heinrich Graf von Lehndorff-Steinortハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯は東プロイセンの居城シュタイノールト城から、彼の貴重な財産の一部を輸送し、ザクセンのクリープシュタイン城に保管した。
    その一部は暖炉の中で壁に囲まれていた。

    さらに前述の財宝にからんで【Schatz von Kriebsteinクリープシュタイン城の財宝】(Wiki)にて、クリープシュタイン城の城主が反ナチ運動メンバーの一人として刑死したとも書いた。

    ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵は1944年9月3日に人民法廷で死刑判決を受け、翌4日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処せられたことは先に述べたが、彼はAttentat vom 20. Juli 1944、1944年7月20日のドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件に関与したドイツ人将校の一人である。

    ベルリン・Gedenkstaette Ploetzensee プレッツェンゼー顕彰記念碑・・・ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵はじめクライザウ・サークルの*メンバーもその名を顕彰されている。
    絞首刑にされた刑場跡は、現在、その英雄行動を顕彰する記念碑になっている。


    *Helmuth James Graf von Moltkeヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵(1907年~1945年)は法律家(37歳)。
    *Adam Freiherr von Trott zu Solzアダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツ男爵(1909年~1944年)は法律家(35歳)。
    *Peter Graf Yorck von Wartenburgペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵(1904年~1944年)は弁護士(39歳)。
    *Berthold Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1905年~1944年)法律家(39歳)。・・・1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ヒトラー暗殺事件;その指揮を執ったクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐の兄である。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • テディベアーの故郷ギーンゲンにある博物館はシュタイフの国、不思議な国

    投稿日 2021年06月20日

    シュタイフミュージアム ギーンゲン

    総合評価:5.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>

    期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    5月23日(水); 晴、26℃、99km 

    <Giengen an der Brenzギーンゲン・アン・デアー・ブレンツ観光>
    12:35~14:15

    Teddy bearテディベアーの故郷であるGiengenギーンゲンはUlmウルムの北東約30kmにあり、ドナウの支流ブレンツ川沿いの人口2万人の町だ。 
    http://www.giengen.de/

    1902年にSteiffシュタイフ社*が作った熊の人形が爆発的な人気で、世界中に知られた。
    (観光地ローテンブルグの上鍛冶屋横町にもいつの間にか店が出来た。店頭に赤の帽子、チョッキ、靴を付け、大きなテディベアーがお客様を迎えていた)

    <昼食:Steiff ・Bistro Knopfビストロ・クノッフ で>
    Margarete-Steiff-Platz 1
    12:35~13:00 Euro10(1,070円)
    シュタイフ社に到着。博物館の見学前に軽食を取ったが、あまり期待できそうもないビストロで結局、子供用のナゲットとフライドポテト、パスタ、ジュース付きで済ませた。

    ≪Margarete Steiff Museumマルガレーテ・シュタイフ博物館見学≫  
    13:00~14:00 入場料Euro10+駐車料金Euro2
    見学:月~金 13~16時 、土 8時半~12時

    テディベアー博物館は自由見学でした。全てではないが、日本語の説明があって、それに従って順路を周ります。やはり夢を売るわけですから、子供たちを対象にした数々の場面が、つまり“シュタイフの国:不思議な国”が作られている。

    創設者マルガレーテ・シュタイフ女史の像が入口でまずお出迎え。100年を越える歴史は小さな貧しい部屋で始まった。わずか1才半で小児麻痺を患い、両足と右手が不自由の為、車椅子生活だった女史の車いす、ミシン、裁縫道具が並ぶ部屋で、道具たちが会話をしながら動いている。

    その後は、物語風にクマの"クノッフ君”と女の子の"フリーダちゃん”がシュタイフの世界の案内役と言う設定で、様々な国々を訪れる。世界の国々の子供たちの手元に届いて幸せに暮らしているというテディベアーたち。
    そこにはその国の衣装を着たテディベアーが迎えてくれるのです。

    他の階ではベアーだけなく、白クマ、キリン、ライオン、ヘビなどの玩具が並ぶ動物の世界=動物園もあり、幼稚園児たちが遊んでいた。
    製造工程を少し見せるコーナーもある。博物館には販売店が併設されていて、どれを選んだら良いのか迷うほどで、結局、ここでは買わなかったが。

    http://www.steiff.de/

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • ウルム大聖堂をウルムっ子が自慢するのもよく分かる。

    投稿日 2021年07月05日

    ウルム大聖堂 ウルム

    総合評価:4.5

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>
    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    5月22日(火); 晴、25℃、245km

    〖Ulmウルム観光〗
    15:45~16:30

    ウルムはドナウ川沿いに位置し、中世より交通・交易の要所として栄えた。
    12世紀には帝国都市となっている。

    第二次世界大戦で当時の国内の主要都市同様に、旧市街の80%程が破壊される打撃を被ったが、爆撃の目印になりそうな大聖堂は幸い無事であった。
    この点、ドレスデンとは大きく異なるといえる。
    案外に「20世紀最高の物理学者」とも評され、1921年のノーベル物理学賞を受賞したAlbert Einsteinアルベルト・アインシュタインの生まれた町として知られていたからかもしれない。彼は1940年、アメリカ国籍を取得。

    Muensterミュンスター(大聖堂):

    大聖堂の中心にある世界一高い(161.53m)塔は768段もある。
    例の如く、塔には登っていない。
    全体像を写真に撮るには結構後ろに下がらないと入らない。

    このゴシック様式の大聖堂は1377年より建設が開始され、1890年にようやく完成した。
    堂内の聖壇、聖席の木彫り、堂内のパイプオルガンはやはり美しい。

    ドナウ川沿いに立つ姿は実に美しく、ウルムっ子が自慢するのも分かる。

    ウルムはドイツでは早口言葉でも有名;
    ウルムっ子がしゃべる早口言葉はなかなか難しい。
    In Ulm, um Ulm, und um Ulm herum。
    Ulmer Lieder:https://www.youtube.com/watch?v=KukAhqhUVAI

    ご参考に:一度祭りの季節に訪れたかったのだが。

    Ulmer Schwoerhaus ウルム宣誓所、シュヴェーレンの祭り:
    1613年に建設された。1785年にバロック風に改築され、1944年第二次大戦で罹災し、1954年に現在のように再建された。
    かつて、帝国自由都市の時代にウルムのPatrizierパトリツィア(ローマ時代はPatriciusパトリキ・都市貴族=大商人)の代表である市長とZuenftツンフト手工業者ギルドとが町の権力争いをして、その結果、町の議会で町の憲法(制度)を取り決め、宣誓した。

    ここでの出来事を記念したシュヴェーレンの祭りは1933年が始まり、町最大の祭りになっている。Schwoermontagシュヴェーレンの月曜日祭りは4年毎に、7月の最後から2番目の月曜日に催される。

    14世紀、中世の衣装を身にまとった人たちが街中を踊りながら、練り歩く。特に中世伝統のFischerstechenフィッシャーシュテヒエンは人気のあるもので、それはドナウ川で小舟に乗った人たちがお互いに竿で突き落としあう競技をする。

    ・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.5

  • ウルムの市庁舎は良く目立つが、フレスコ画の彩色が独特に見える。

    投稿日 2021年07月03日

    市庁舎(ウルム) ウルム

    総合評価:4.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>
    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    5月22日(火); 晴、25℃、245km
    シュタウフェンベルク伯爵がイェッティンゲン・シェップパッハのイェッティンゲン城で生まれていることを知って訪ねた後、行路は西に走る。
    48kmでウルムに到着だ。

    〖Ulmウルム観光〗
    15:45~16:30

    ウルムはバーデン・ヴュルテンベルク州南部にある人口12万人の都市だが、訪れた回数は意外に少ない。近隣の都市に約70km東にアウクスブルク、55km西にロイトリンゲン、70km北西にシュトゥットガルトなどの観光地がある所為だろう。

    ドナウ川沿いに位置し、中世より交通・交易の要所として栄えた。
    12世紀には帝国都市となっている。
    1805年10月17日、20万を超えるナポレオンのフランス軍がバイエルン公国領であったウルム郊外で半分の兵力のオーストリア軍を撃破した。
    “Schlacht von Ulmウルムの戦い”である。
    この2ヶ月後、ナポレオンはSchlacht von Austerlitzアウステルリッツの戦いで、オーストリア・ロシア連合軍に大勝したと云う事でよく知られている。

    Rathaus市庁舎:
    この町の市庁舎は良く目立つが、フレスコ画の彩色が独特で私には
    ちょっと変わった印象がある。

    1370年に最初に建てられ、以降度々改装されている。
    南側の壁面には各地の紋章がフレスコ画で描かれ、
    東面には1520年製の天文時計が今も正確に時を刻む。

    (Zunftkaempfeツンフト闘争)
    中世後期の西欧(特にドイツ)において、大商人によって独占されていた市政運営への参加を求め、手工業者が手工業ギルド(同職ギルド)を組織して起こした闘争である。
    13世紀末よりドイツやネーデルラントの各都市において、ツンフト闘争が展開された。
    ウルム(1327年)、シュパイヤー(1330年)、アウクスブルク(1368年)などの都市においてはツンフト闘争を成功させ、手工業ギルドの親方が市政への参加を果たした。

    ・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ウルム:漁師と皮革工の一角は絵画的な美しさがあって、食事をして、ゆっくりしたい場所だ。

    投稿日 2021年07月04日

    漁師の一角 ウルム

    総合評価:4.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>
    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    5月22日(火); 晴、25℃、245km

    〖Ulmウルム観光〗
    15:45~16:30

    <観光名所>
    今回も町をそっと撫ぜた様な観光になった。
    大聖堂、市庁舎、漁師の一角を見ただけだ。
    事前によく調べておいたパン文化博物館やウルム宣誓所などは、結局、何も見ないままに終わった。

    ここは次回もなさそうなのだが・・・。

    Fischer und GerberViertel
    漁師と皮革工の一角:

    Schiefes Haus傾いた家、Alten Bruecke、ドナウ川岸沿いの市城壁、一帯は絵画的な美しさをもった場所は水車や水辺もあり、涼し気で、食事をして、ゆっくりしたい場所だ。

    漁師の一角に近い、中州上にあるレストランGerber-HausとかDrei Kannen - historisches Brauhausなどで食事を考えていたが、結局、ハールブルク城見学が響いて、先を急ぐことになってしまった。  
    http://gerberhaus-ulm.de/ 、
    http://www.dreikannen.de/

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 皇妃エリザベートのお気に入り:シュタルンベルガー湖畔のホテル・カイザリン・エリザベート

    投稿日 2021年06月17日

    ゴルフホテル カイザリン エリザベス ミュンヘン

    総合評価:4.5

    南ドイツとオーストリア周遊の旅:
    ( 2004年4月21日-5月4日 :2週間 )
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世  と 
     オーストリア皇妃 エリザベート ----愛称 “シシー” を 巡る旅* 

    4/30(金)~5/03(月):3泊

    Starnbergersee:Golfhotel Kaiserin Elisabeth
    シュタルンベルガー湖畔:ゴルフホテル・カイザリン・エリザベート
    4星、全51室・4星、  120x3 Euro=360
    D-82340 Feldafing  、Am Starnberger See、 
    TEL:49(0)―8157―93090、FAX:49(0)―8157―9309133     
    http://www.kaiserin-elisabeth.de 

    ドイツアルプスの高い山々・・・3000m弱級・・・は暖かな陽気に少しずつ雪を融かしてきていますが、南バイエルンの野から見上げる山々は雪で白々と見えます。このホテルの庭からも、ドイツアルプスが湖の先に白く遠望できます。
    ホテルの庭にはオーストリア・ハンガリー帝国のエリザベート皇妃の座像があり、ホテルの正面テラスレストランから良く見える小高くなった場所に置かれています。ここで皇妃は座りながら、物思いにふけっていたそうです。

    ホテルの2階には、オリジナル“Sisi-Suiteシシーのスイート”という部屋があるそうですが、残念ながらのぞいていません。
    ホテルの本館と別館には65の部屋と1スイートがあり、正式なレストランも、テラス、室内と幾つもあり、また、バイエルン風なレストランやビールバー等もあって、様々な客の要望に対応出来るようにしている。

    この近くには“エリザベートの散歩道”が標識で示されており、なだらかな道が湖畔まで、続いています。あの独特の急ぎ足で、お供がついて行くのが難しいあの速さでこの道を散歩したのでしょうか?!! 

    子供時代をこの近くのPossenhofenポッセンホーフェンの城で過ごしたエリザベートはこの地を愛して、オーストリア皇妃になってからも、しばしばこの地を多数の随行員と愛馬と共に訪れた由です。このホテルで24回の夏を過ごし、それは都度、数週間も滞在したそうです。

    皇妃のまた従兄弟に当たるバイエルン王国のルードヴィヒ2世ともこの地でよくお会いになり、1886年6月13日、王のBergベルクでの不慮の死には、この地から皇妃は駆けつけたとの話も残っています。

    皇妃が最後の夏を過ごされたのは1894年ですが、ホテルのその長い歴史の中で、もっとも著名なお客様と言えましょう。

    この地はミュンヘンから30kmの近さで、古くからシュタルンベルガー湖畔のリゾート地として栄えてきたようです。1508年に当地に教会が建てられ、このホテルの原型とも言うべき宿屋がその隣に見られました。
    その後は19世紀頃、帝国議員がホテルのオーナーになり、更に1856年にはミュンヘンの資本家が買い取り、大きなテラスを持つホテルに改造されました。
    新しく鉄道が敷かれるとスイス風のスタイルに拡大され、1898年、皇妃が暗殺された後の1905年にはウイーンの王宮の勅許により、ホテル名をホテル・カイザリン・エリザベートとすることが許され、今日に至っている。

    XXX
    次は以下に訪れた。
    ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊  
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:

    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間
    4.19(土) 小雨後晴 13.5℃、 95km

    Starnbergersee湖周辺巡り:
    近くのGolfhotel Kaiserin Elisabeth 、 Feldafingでお茶14:00~15:00、
    ”Golfhotel Kaiserin Elisabeth ”で4年ぶりの夕食・庭園の散策18:00~19:30

    旅行時期
    2004年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    4.5
    ロケーション:
    4.5
    客室:
    4.5

  • ロマンチック街道:難攻不落の名城Die Harburgディー・ハールブルク城に2泊した。

    投稿日 2014年11月07日

    ハールブルク城 ロマンチック街道周辺

    総合評価:4.5

    (2021年6月8日文章・写真を変更・追加した)

    2012年のドイツの旅:Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

    期間 :2012年05月15日(火)?05月29日(火)15日間の旅

    5月20日(日); 晴、30℃、130km

    15:45にエッティンゲンを出て、B466・L? ヴェルニッツ川沿いに南東に下る。
    Harburgハールブルク城は24km先にあり、レストランの関係で17時必着だったが、幸い16:15に到着できた。

    丘の上への道をたどり、城門前に至る。ここに車の進入を阻止する横木が下りている。
    家内が閂をあげて、横木を動かし、車を入れ、また横木を元に戻す。その作業をしてから、坂道を上り、昔ながらの落とし格子を恐々と頭上に見つつ、城門をくぐる。
    城門を過ぎると、この城砦の広い中庭になる。

    久しぶりのハールブルク城である。今日から2泊3日の予定だ。
    (尚、22日(火)の朝10時から1時間ガイド付きで城内見学をした)

    持参のトランクの重さは20kg・2個ですが、段々、自分達の手に負えなくなり、ホテルの従業員の方にお願いする。
    男手はシェフしかいなかった様子で、彼が二つ軽々と2階の部屋で運んでくれた。ここでもエレベーターがないから仕方がない。

    ≪難攻不落の名城Die Harburgディー・ハールブルク城≫ 
    Woernitzヴェルニッツ川を臨む丘の上、海抜480mに立つハールブルク城は難攻不落の城として知られる名城である。18世紀以来、Oettingen-Wallersteinエッティンゲン・ヴァラーシュタイン侯爵家の居城の一つになった。

    南ドイツにおける、最も大きく、古く、12世紀からの中世の城郭がよく保存されている。長さ220m、幅120mの平面上の台地に建てられたシュタウフェン朝の皇帝の王城で、ネッカーの古城街道沿いにあるPfalz von Wimpfenヴィンプフェンの王城を凌ぐものと云われている。ヴェルニッツ川畔からの古城の眺めは実に絵画的で、素晴しい。

    現在、城内は城内教会、天守閣、泉、城壁、祝典用広間等が見られる。博物館には宝物やリーメンシュナイダー作品などが展示されている。騎士文化の一端に触れることができる。博物館見学は日程の都合で、22日(火)の朝にした。
    http://www.burg-harburg.de/

    ハールブルク城博物館見学    10:00~11:00  入場料Euro8
    城内見学;火~日、10時~17時。ガイド60分。

    城の歴史;
    11世紀の半ばに最初の城が築城されたと云われている。1150年、この城の確かな記述、即ち、若きシュタウフェン王家のHeinrichハインリヒ(Konrads III コンラット3世の息子)が書いた手紙の中にハールブルク城について、“castrum nostrum”と称し、“unsere Burg”われらの城と書いている。ハールブルク城は帝國城の一つとして支配されていた事を物語るものである。

    スウェーデン王Gustav II Adolfグスタフ2世アドルフ(1594~1632年)は新教徒保護を名目にフランスと同盟し、ドイツに侵攻し、連戦連勝し、1632年にはハールブルク城に守備隊を置いている。ハールブルク城は30年戦争の間、しばしば包囲攻城で罹災した。

    1731年、Albrecht Ernst IIアルブレヒト・エルンスト2世の死去により、新教派のエッティンゲン家が消滅し、代わってハールブルク城は旧教派のエッティンゲン・ヴァラーシュタインのものとなった。
    1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって、ナポレオン戦争における第二次対仏大同盟が結成されると、2. Koalitionskrieg第二次対仏大同盟戦役(1799?1802年)が始まり、1800年にはオーストリア軍の守るハールブルク城は仏軍の猛攻を受ける。

    現在は毎年6月に城門前で催されるBockfestボックフェスト(町のお祭り)で、当時の包囲攻城の様子を見る事が出来る。
    2000年3月、エッティンゲン・ヴァラーシュタイン家はハールブルク城を“Gemeinnuetzige Fuerst zu Oettingen - Wallerstein Kulturstiftung”に譲渡した。

    XXX

    Hotel-Restaurant Fuerstliche Burgschenke Harburg古城ホテル ハールブルク城
    D-86655 Harburg  、Burgstrasse 1    
    3号室(2階)、Euro79x2=158
    Tel:+49 (0) 9080 1504 、Fax:1581
    http://www.burgschenke-harburg.de/index.htm

    全7室、DZ Nr.3・ Blick auf das Woernitztalヴェルニッツ川の眺めの部屋であったが、十分な眺めとはいえず。Euro79x2=158の宿泊料は今回の旅では一番安い。
    Burgschenkeブルクシェンケ(酒場)と呼ぶだけに、本来の古城に付属した建物で、城門に連なる施設の一つをホテル・レストラン棟にしたものである。
    部屋は十分に広く、まだこざっぱりした、新しい感じだった。テラスで咲くRotdorn西洋サンザシの花が目立った。

    注;日曜日のレストランは18時まで。月曜日は休み。
    Burghof城内中庭での駐車がOKだが、城門坂下には前述した横木がある。

    ・・・・・


    参考:
    ドイツ2012年・麗しの5月:難攻不落の名城Die Harburgディー・ハールブルク城に泊まる。
    https://4travel.jp/travelogue/11686811

    30年戦争にまつわる伝説:その3”ハールブルクに残る「悪魔と取引した羊飼い」のお話”
    https://4travel.jp/travelogue/10942268

    ドイツ2012年・麗しの5月:シシーの城を訪問する前に、難攻不落の名城ハールブルク城を見学する。
    https://4travel.jp/travelogue/11694162

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    2日以上
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • アウクスブルク:中世の趣を残すマクシミリアン通りは三度その名を変えた。

    投稿日 2021年06月06日

    マキシミリアン通り アウクスブルク

    総合評価:4.5

    Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅
    5月21日(月); 曇りのち晴、26℃、215km (ここまで850km;計画では824km)

    Augsburgアウクスブルク観光: 15:20~17:40
    Augsburgアウクスブルク は2000年以上前にローマ皇帝アウグストゥスにより建設された都市であり、モーゼルのTrierトリアー 、アルゴイのKemptenケンプテンと共に、ドイツでも最も古い3つの町に数えられる。現在のオーバーハウゼン地区にローマの軍団基地が設けられた紀元前15年が町の始まりとされている。
    15、6世紀にFuggerフッガー家とヴェルザー家が営んだ交易、銀行業務が富を生み、町は大きく発展した。この事から「フッガーシュタット」(フッガー都市)とも称された。
    アウクスブルクはミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン州第3の都市であるから、ロマンチック街道上、最大の都市と言える。といっても人口は26万人だ。

    観光の見所の一つでもある、トラムの走る広い通りでもあるMaximilianstrasseマクシミリアン通りはアウクスブルクを南北に貫く中心街であり、
    通りの左右にゴシック、ルネサンス、ロココ、バロック、ネオクラシック様式の建物が中世の趣を残している。
    ヘラクレスの噴水、マーキュリーの噴水、Fuggerhausフッガー家の邸宅(1512~15年に建設。戦争で罹災したが、再建された)、Schaezler Palaisシェッツラー宮殿(州立絵画館・ドイツバロック博物館:1770年、当地の銀行家Liebertリーベルト男爵アダムが建てた後期ロココ様式のもの。大きなFestsaal祝典の広間が有名)などが並ぶ。

    マクシミリアン通りはRathausplatz市庁舎広場と、St.Ulrich&Afra聖ウルリヒ&アラフ教会(1555年のアウクスブルクの宗教和議(ルター派の信仰を認めたもの)を記念して建てられた)傍のUlrichsplatzウルリヒ広場とを結ぶ通りだが、元来はローマ時代からの道であった。

    マクシミリアン通りは昔はWeinmarktワインマルクトと称していたが、
    19世紀に初代バイエルン王(選帝侯)Maximilian I.,マクシミリアン1世(1756~1825年)に敬意を示してマクシミリアン通りに名前を変えている。
    第二次大戦後、20世紀の1957年、Maximilian der Grosseマクシミリアン大帝Maximilian I.(1459~1519年)の名に最終的なものとして、変えている。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.5

  • アウクスブルク市庁舎の「黄金の間」は見所!

    投稿日 2021年06月05日

    アグスブルク市庁舎 アウクスブルク

    総合評価:5.0

    《Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅》

    期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅 

    5月21日(月); 曇りのち晴、26℃、215km (ここまで850km;計画では824km)

    この日の午後の行程はDonauwoerthドナウヴェルトを12:10に発ち、Dillingenディリンゲンを訪ね、最終地はAugsburgアウクスブルクで15:20到着した。

    久し振りのアウクスブルクは
    マクシミリアン通りを歩くこと、
    市庁舎の黄金の間(改装なったと聞く)を見る事、
    Fuggereiフッゲライを訪ねる事に絞った。

    <Rathaus市庁舎と黄金の間>
    15:50~16:15 入場券Euro4。


    市庁舎広場に立つ、アウクスブルクで最も重要な建築(1615~20年)。
    ドイツルネサンスの傑作と云われている。

    3階の黄金の広間は今日のハイライトだ。
    昔の市庁舎、職人の仕事の歴史などを天井や周囲の壁に描いて、それは見事なものだ。

    尚、市庁舎広場にアウグストゥスの噴水(1594年)、市庁舎の左手に隣接した塔Perlachturmペルラッハ塔(1182年完工。高さ70m)が見える。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • アウクスブルクでは、市庁舎の次に興味深いのはフッゲライ(世界で最も古い福祉施設)であろう。

    投稿日 2021年06月04日

    フッゲライ アウクスブルク

    総合評価:5.0

    Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅 

    5月21日(月); 曇りのち晴、26℃、215km (ここまで850km;計画では824km)

    <Augsburgアウクスブルク観光>
    15:20~17:40
    Augsburgアウクスブルク は2000年以上前にローマ皇帝アウグストゥスにより建設された都市であり、モーゼルのTrierトリアー 、アルゴイのKemptenケンプテンと共に、ドイツでも最も古い3つの町に数えられる。現在のオーバーハウゼン地区にローマの軍団基地が設けられた紀元前15年が町の始まりとされている。
    Lechレヒ川とWertachヴェルタッハ川に面したアウクスブルクは4世紀から5世紀頃にはすでに司教座が設けられていた。15、6世紀にFuggerフッガー家とヴェルザー家が営んだ交易、銀行業務が富を生み、町は大きく発展した。この事から「フッガーシュタット」(フッガー都市)とも称された。

    Maximilianstrasseマクシミリアン通りにあるFuggerhausフッガー家の邸宅(1512~15年に建設。戦争で罹災したが、再建された)よりも、フッガー家の素晴らしさを教えてくれるFuggereiフッゲライが興味深い。

    <Fuggereiフッゲライ>(日本語のパンフレットにはフッガーライとあった)
    16:25~17:20 入場券Euro8。

    フッガー長屋とでもいうべきか、世界で最も古い2階建ての福祉施設が並ぶ地域。1519年、財閥フッガー兄弟により貧しいアウクスブルク市民の救済の為につくられたもので、当初250の家があった。家賃は昔のままで、Euro0.88という信じがたい家賃だそうである。但し、寄進者とフッガー一族の為に、一日3通りの祈りを捧げる事も家賃の一部とみなされていると云う。
    現在は67軒に区分された長屋には140のアパートがあり、150人が入居しているとパンフレットにある。

    市役所から歩くと、10分かかる。Jakoberstrasseヤコブ通りから、フッガー家長老会の館の門をくぐり、中に入ると、チケット売り場がある。売り場にはさすがに日本人観光客も多いようで、日本語のパンフレットがある。唯今日は市内でも、ここでも日本人を見ていない。フッゲライの中央をヘレン横丁がまっすぐ伸びている。
    なにかこの中に入ると、急に辺りと隔絶したように静かな佇まいになる。まだ実際に使用されて、住民もいるはずだが、静かなもので、観光客の歩く姿しか見る事が無い。

    かつて、この敷地を囲むように城壁があり、8つの通り、7つの門、教会、学校、病院まである小さな町を形成していたと云う。その教会横から、ヤコブ・フッガーの胸像(2007年)が立つ中庭に出た。その近くにかつての防空壕を利用して、新しい施設が2008年にできた。

    防空壕を下りて行くと下は広い資料室になっていて、“第二次大戦のフッゲライ破壊と再建”と題した展示が常設されている。展示された写真や映画・音声で、第二次大戦中に英国空軍の爆撃でフッゲライが壊滅したこと、死者も出た事も知った。大戦後のフッゲライや、アウクスブルクの再建の道などが分かるようになっている。

    中庭から出ると、Ochsengasse雄牛横丁がある。この通りの52番地の2階にドロテア・ブラウンという病棟で働く看護婦が住んでいました。彼女はアウクスブルク最初の魔女狩りの犠牲者になったそうです。11歳の娘に魔女として訴えられたそうで、痛ましい事です。
    1625年9月25日に有罪となり、即日処刑されて、遺体は焼かれたと云う。

    雄牛横丁から噴水を挟んだ反対側はMittlere Gasseミッテレレ横丁と言うが、その13・14番地にフッゲライ博物館がある。
    昔のままの住居を残していて、暖炉のある居間・台所・寝室などを見学する事が出来た。それは予想以上に広く、立派であった。
    博物館の入口は14番だが、ここに神童モーツアルトの曽祖父一家が1681年から1694年に死去するまで住んでいたそうだ。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    5.0

  • ゴスラー:皇帝居城で一番の目玉はドイツの歴史を描いた巨大な壁画52枚だ。

    投稿日 2014年12月20日

    皇帝居城 ゴスラー

    総合評価:4.5

    “北ドイツ周遊の旅”         
    期間 : 2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間
    1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。

    5/01 (日) 快晴、日差しの強い一日

    Goslarゴスラーはハルツ山地の西端にあり、4万6千人の世界遺産の町です。
    私はこの町の中世の雰囲気が好きで、1976年の5月1日~2日(1泊)、1983年4月4日(日帰り)の二回、Duesseldorfから凡そ片道350kmのゴスラーに遊びに来ました。

    Marktplatzマルクト広場では魔女の仮装をした女性達が中世風の屋台をやっていて、大勢の観光客や市民がビールを飲みながら、テューリンガー風ソーセージを美味そうに食べ、市庁舎前に作られたステージを見ている。
    パン屋、肉屋、矢場もあり、人物像を描く絵描さんが子供の顔を上手に画いている。金銀細工品、皮細工や手芸品も魔女が売っている。日本の縁日のように、いろいろと見て廻るのは楽しい。

    町の看板にあるポスターを見ると、なんと嬉しい事に28日から5月1日の4日間“Walpurgisヴァルプルギスの祭り”をやっているようだ。

    広場の人ごみを抜けて、市庁舎横のHohe Weg通りをまず皇帝の居城Kaiserpfalzに向かう。日差しも強くなり、汗をかきながら、Kaiserbleek通りに入ると、緑の斜面を前にして、威厳を見せて、皇帝の居城が立っている。ドイツに現存する宮殿様式の建物の中では最も大きな規模(19世紀に再建)だとのこと。

    カイザーファルツの前には、ドイツ人に最も人気の高い、Friedrich I Barbarossaバルバロッサ赤髭王【12世紀】、Wilhelm der Grosseドイツ皇帝ヴィルヘルム一世【1871年帝国の成立】の二つの騎馬像が立って、ゴスラーの町を見下ろしている。

    10時からのガイド付きの20名ほどのグループに入って、説明を受けながら、見て廻る。

    二階の“帝国の間”には、一番の見物と言えるドイツの歴史を描いた巨大な壁画52枚がある。フランク王国のカール大帝から、ドイツ統一の皇帝ヴィルヘルム一世までの歴史を描き、其のテーマは“ドイツの復活”だそうです。

    先日、ゲルマンの聖地エクステルシュタイネで、“イルミンの柱”
    (旅行記参照---『8世紀中頃、キリスト教を信仰するカール大帝に、超自然現象や大木を、土着の神として信仰するゲルマンの一部族のザクセン族が、キリスト教への改宗に反抗しました。長い抵抗の後、803年にザクセン族は大帝の治下に入りますが、この時、カール大帝はザクセン族の信仰のシンボルであるイルミンの柱を切り倒したと伝えられている。』)
    を見ましたが、この居城の巨大な壁画の一場面に、“柱の先端が、二本の角をもつ人間の顔をしたイルミンの柱”が描かれています。
    カール大帝が、そのイルミンの柱を切り倒した図になっている。
    まさに、古代神の滅亡です。

    100年の眠りから覚める“いばら姫”の絵もある。テーマがテーマだけに、ガイドさんも丁寧だが、力が入る説明をするはずです。

    XXX
    真っ青の空のもと、町の名前の基になったGoseゴーセ川の流れでLohmuehle水車が廻り、川沿いの石畳の道や木組みの家々の家並み、それらが木々の緑と一体となって、1000年の古都ゴスラーの魅力となっている。
    ハルツにも、ようやく春が到来です。


     

    旅行時期
    2005年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.5

  • セピア色の思い出:英雄ジャンヌ・ダルクが王太子シャルルの居城ロシュ城で謁見し、仏王即位を決意させたと云う。

    投稿日 2021年05月15日

    ロシュ城 ロワールの古城周辺

    総合評価:4.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でデュッセルドルフからフランスに小旅行をした。
    (総走行距離1,781km)

    ②1984年4月21日(土) 晴、678km
    ショーモンテル城を出発。=>(パリ)=>A10・ A11 132 km Chartresシャルトル=>N154 77 km (Orleansオルレアン)=>A10 104 km (Amboiseアンボワーズ城)=>D58・D943 41 km Lochesロシュ城=>D80 37 km Chenonceauシュノンソー城=>D764 52 km Bloisブロア=>(Orleansオルレアン)=>(パリ)=>A10 235 km古城ホテル ショーモンテル城

    シャルトルから凡そ220kmを走る。

    <Lochesロシュ城>
    ロシュ城は岩山のせり出した先端に築城された中世(12世紀)の城である。
    フランス的というか、優雅なロワールの古城群に比べ、無骨な印象を与える城であるが、中世を通じて常に戦略的に重要な地位を占めた。

    シャルル7世(フランス・ヴァロワ朝の第5代国王(在位:1422年~1461年)の即位前の居城であったことで知られている。

    1429年、オルレアンを解放したJeanne d'Arcジャンヌ・ダルクは王太子シャルルが居城としていたロシュ城に駆けつけ、王位継承を戸惑っていた王太子シャルルに即位を決意させたという有名な歴史上の出来事がある。
    この謁見の行われた間が今も城内に残っている。

    城のテラスや砦からの眺めはかなり良さそうだったが、今日はロシュ城に城門前に佇んだだけで、本日の目玉、シュノンソー城に向かった。

    尚、1977年4月8日~11日のイースター休みで、フランス・モンサンミッシェル(1000km)やロワールの古城群、パリのジャンヌ・ダルク像も訪れた記憶がある。

    また、1978年3月24日~27日にも.フランス・イースター旅行でパリや近郊を訪ねているから、2年続けてフランスを訪れたことになる。

    ・・・・・

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0

  • セピア色の思い出:シャルトル大聖堂のバラ窓など、「シャルトルの青」の美しさは何度も訪れる魅力がある。

    投稿日 2021年05月16日

    シャルトル大聖堂 シャルトル

    総合評価:5.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でデュッセルドルフからフランスに小旅行をした。(総走行距離1,781km)

    ②1984年4月21日(土) 晴、678km
    ショーモンテル城を出発。=>(パリ)=>A10・ A11 132 km Chartresシャルトル=>N154 77 km (Orleansオルレアン)=>A10 104 km (Amboiseアンボワーズ城)=>D58・D943 41 km Lochesロシュ城=>D80 37 km Chenonceauシュノンソー城=>D764 52 km Bloisブロア=>(Orleansオルレアン)=>(パリ)=>A10 235 km古城ホテル ショーモンテル城

    ショーモンテル城を出発し、この城に戻る行程だ。アウトバーン有料計116フラン。

    <シャルトル大聖堂の「シャルトルの青」>
    1979年、大聖堂はユネスコの世界遺産に登録されたから、ちょうど5年前になる。。

    ボース大平野の町ChartresシャルトルのCathedrale Notre Dame de Chartresシャルトル大聖堂(1220年完工)は左右の塔で建築様式が異なる。
    ファサードのバラ窓や、キリストの家系図を表した側廊のステンドグラス「エッサイの根」は、「シャルトルの青」といわれる青みのあるステンドグラスで、13世紀のステンドグラスの極みとして知られる。
    この旅の目的の一つはここの「シャルトルの青」を再見することだった。

    全長: 113m
    幅: 南北32m、東西46m
    身廊: 高さ37m、幅16.4m
    176ステンドグラス窓、十字架上のキリスト像: 41の場面・200像

    ・・・・・

    1984年4月の復活祭の旅で訪れたが、ざっとアルバムを見てみたら、
    以下の年にも訪れていた。

    1975.12.24.~28.クリスマス休暇でフランス旅行、

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0

  • セピア色の思い出:フランスの「ロワール渓谷」に含まれる古城の中でも、特に人気が高いシュノンソー城は美しい。

    投稿日 2021年05月05日

    シュノンソー城 ロワールの古城周辺

    総合評価:5.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    「ドイツ語ではOsternオースターン、英語で Easter(イースター)」は「復活祭」の事だ。

    デュッセルドルフに駐在していた頃は、「復活祭」の休みを利用して3泊4日の小旅行に出かけた。国内旅行もあったが、時には国外に車を走らせた。

    さて、1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でフランスに小旅行をした。
    (総走行距離1,781km)

    パリの北、約25kmの近距離にある、人口2300人と云う小さな村に古城ホテルがあり、以前から泊まってみたい気持ちがあった。古城ホテルは全20室と小規模なもので、4ヘクタールの広い、美しい庭園があった。
    【Chateau de Chaumontelショーモンテル城】
    1984年4月20日(金)~22日(日)2泊朝・夕食込み、
    (宿泊料などはFRF仏フラン1,435@2.88=DM498、凡そ5万円でした)
    ショーモンテル城(別名Herrenhaus von Preslayプレスレイの館とも呼ぶ)。
    城を囲む水堀や池、橋、ロマンチックな庭園に囲まれた古城は現在、ホテルとレストランとなっている。

    この古城ホテルを起点にして、パリ市内やロワールの古城巡りをした。

    ②1984年4月21日(土) 晴、678km
    ショーモンテル城を出発。=>(パリ)=>A10・ A11 132 km Chartresシャルトル=>N154 77 km (Orleansオルレアン)=>A10 104 km (Amboiseアンボワーズ城)=>D58・D943 41 km Lochesロッシュ城=>D80 37 km Chenonceauシュノンソー城=>D764 52 km Bloisブロア=>(Orleansオルレアン)=>(パリ)=>A10 235 kmショーモンテル城

    <シュノンソー城と美しい庭園>入場券48フラン、蝋人形館16フラン。

    今回の旅行の目玉はロワール渓谷にあるChateau de Chenonceauシュノンソー城である。
    長いニレの並木道が続き、アイスクリームを食べながら歩いて行くと、見覚えのある美しい城と庭園が見えてきた。白壁の汚れを目下改装中のようだ。

    Chateau de Chenonceauシュノンソー城の縄張り図から見ると、

    ①オランジェリー、
    ②管理棟(蝋人形館15体のみ)、
    ③16世紀に建てられた入り口の管財人の家、その下にディアーヌの庭、
    ④マルクの塔、左手にカトリーヌの庭、
    ⑤シュノンソー城:衛兵室、礼拝堂、ディアーヌ・ド・ポワチエの寝室、王妃の緑の書斎、王妃の図書室、
    ⑥ギャラリー:長さ60m、幅6m、採光窓18、床にはスレートと石灰岩タイルが張られ、天井は横梁が剥き出しになっている。演舞場、台所、
    その他、フランソワ1世の寝室、ルイ14世の居室、5人の王妃の寝室、カトリーヌ・ド・メディシスの寝室などがある。

    シュノンソー城はシェール川の古い製粉所跡に建てられたもので、歴史の文献に最初に登場したのは11世紀のことである。城館としては13世紀頃から記録がある。
    周辺の豊かな緑に囲まれ、美しい城は世界遺産「シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌ間のVal de Loireロワール渓谷」に含まれる古城の中でも特に人気が高い。

    シェール川が流れる川上に築城されたシュノンソー城はフランスの中でも独特の城館であり、また、付随したディアーヌの庭(Henri IIアンリ2世・ヴァロワ朝第10代のフランス王、在位:1547年~1559年)が愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエにシュノンソー城を贈った事に因む・・・ドイツのザクセンの強王が愛妾コーゼル伯爵夫人にドレスデンのタッシェンベルク宮殿やピルニッツ城を贈った事とも通ずるものだが・・・)と、

    カトリーヌの庭(アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスが、馬上槍試合の事故で王が死すと、愛妾ディアーヌを追い出して、自ら所有した事に因む)という二つのエピソード付きの異なる庭が見られる。

    愛妾のディアーヌはシュノンソーの地を好み、アーチ型の橋を作ってシェール川の対岸までを結んだと云われ、「ディアーヌの橋」として今でも人々を魅了している。
    この橋の上に1576年に建設されたものが、現在ギャラリーと呼ばれるもので、長さは60m、床は白と黒の独特の色使いが素晴らしい、演舞場にも利用されたと云う。

    ・・・・・

    尚、1977年4月8日~11日のイースター休みで、フランス・モンサンミッシェル(1000km)やロワールの古城群、パリのジャンヌ・ダルク像も訪れた記憶がある。

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • セピア色の思い出:コンデ公代々の居城、シャンティイ宮殿は水城である。

    投稿日 2021年05月12日

    シャンティイ城 シャンティイ

    総合評価:4.5

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でデュッセルドルフからフランスに小旅行をした。(総走行距離1,781km)

    ③1984年4月22(日) 晴、568km (尚、2泊3日で帰宅した)

    古城ホテル ショーモンテル城 =>D1016 9km Chantillyシャンティイ宮殿=>A1・A2 331 km  Grottes de Hanベルギーのアンの洞窟=>(アーヘン経由)=>E40・A44 228 kmデュッセルドルフに戻った。

    <シャンティイ宮殿>
    パリから北に約40kmの郊外にあるシャンティイ市(人口1万人)に見事なChateau de Chantillyシャンティイ宮殿が立っている。
    ショーモンテル城を出発、シャンティイ宮殿を訪れた。シャンティイ宮殿はショーモンテル城から9kmと近いから、ドイツに戻る日に立寄ることにしていた。ただ外観のみだったが・・・。

    元々は中世の14世紀に要塞として建てられ、ルネサンス時代に大規模な改築がなされた。400年の歴史を持ち、ルイ13世やブルボン公が代々城主でもあった。
    32万坪の敷地を持つ宮殿は大きく分けて「グラン・シャトー」と「プチ・シャトー」の2つから成る。
    「グラン・シャトー」はフランス革命期に最初の建物が破壊された後、1870年代に国王ルイ・フィリップの5男オマール公アンリ・ドルレアンにより再建された。
    「プチ・シャトー」は1560年頃、Anne de Montmorencyアンヌ・ド・モンモランシー(ヴァロワ朝時代のフランスの元帥)のために建てられたものである。

    1772年から1774年にかけて、第8代コンデ公ルイ5世ジョゼフ(1736年~1818年、ルイ4世アンリの子。また、付け加えれば、ショーモンテル城を再建したのは第7代コンデ公である)が城内に造らせた「Le hameau de Chantillyル・アモー・ドゥ・シャンティイ」はイギリス式庭園である。

    城内にはコンデ美術館、そして世界的に知られたシャンティイ競馬場がある。

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • セピア色の思い出:パリはやっぱりカオスだ。その中心にコンコルド広場がある。

    投稿日 2021年05月09日

    コンコルド広場 パリ

    総合評価:4.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でデュッセルドルフからフランスに小旅行をした。(総走行距離1,781km)

    パリの北、約25kmの近距離にある、人口2300人と云う小さな村に古城ホテルがあり、以前から泊まってみたい気持ちがあった。
    【Chateau de Chaumontelショーモンテル城】
    1984年4月20日(金)~22日(日)2泊朝・夕食込み、全20室。
    (宿泊料などはFRF仏フラン1,435@2.88=DM498、凡そ5万円でした)
    ショーモンテル城(別名Herrenhaus von Preslayプレスレイの館とも呼ぶ)。
    城を囲む水堀や池、橋、4ヘクタールの広い、ロマンチックな美しい庭園に囲まれた古城は現在もホテルとレストランとなっている。

    この古城ホテルを起点にして、パリ市内やロワールの古城巡りをした。

    ①1984年4月20日(金) 晴、475km+(30kmX2=60km)=535km

    <パリ見物>
    ショーモンテル城で小休止の後、ショーモンテルからパリに向かう。
    30km弱の距離である。
    N16の道を走り、パリを訪れると、パリ北東のPortede la Chapelleラシャペルの門から入る。久しぶりにパリ市内を走った。
    だがパリはやっぱり*カオスだった!

    (*ヨーロッパ各国を車で凡そ20万km走った経験では、やはりドイツ系の国・ドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタインが一番安心して走る事ができる。つまり運転技術やマナーがベストと言える。次にドイツ語をしゃべる地域をもったオランダ、ルクセンブルグ、ベルギーで、ドイツ系の人たちの影響があるのだろうか。3番手にイギリス。4番手はイタリアで、最後はフランスがくる。
    私もパリには数回訪れているが、パリ市内などはドイツ人に言わせると“Chaosカオス(混乱、無秩序)”だそうだ。ドイツ人の表現に私も同意・納得する)

    最初は何度も訪れたパリの中心・Concordeコンコルド(調和の意味)広場だ。東西南北の市内の主要な通りを広場で十字に交わらせるパリの要がこの広場、周辺には相変わらず各国の観光バスが待機中だ。訪れる日本人観光客もさすがに多い。
    オベリクス(エジプトのルクソール神殿のものを王から贈られた)の立つコンコルド広場をバックに、この旅最初のパリに写真を撮った。

    コンコルド広場(1755年にルイ15世の命によって造られました)の中央に「川の噴水」・「海の噴水」というふたつの大きな噴水が高々と水を噴き上げ、大きくなった娘たちを迎えてくれている。
    コンコルド広場から見るエトワール凱旋門が、シャンゼリゼ通りの遠くに見え、その姿と家族達を写真におさめたが、かすかに凱旋門を認識出来る程度だった。

    1984年当時の写真は、1970年代の写真に比べ、セピア色になっていない。

    パリ見物の目玉のPalais du Louvreルーブル宮・ルーブル美術館、それから順不同なのだが、コンコルド広場からシャンゼリゼ通りを歩き、ナポレオンが建てたエトワール凱旋門(1836年)まで行く。
    次はローマ・カトリック教会の大聖堂であるCathedrale Notre-Dameノートルダム寺院、シャイヨ宮の中央テラスから望んだLa tour Eiffelエッフェル塔など。

    何度目かのパリ見物はこんなもので終了して、ショーモンテル城に戻った。

    ・・・・・・・

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    3.0

  • 青梅宿・甘味処の代表は道味(どうみ)である。

    投稿日 2021年04月29日

    道味 青梅

    総合評価:5.0

    2019.09.13.~14.
    母7回忌の法事で、かんぽの宿青梅に1泊して、法事の後、土産を買いに立寄った。

    26歳の結婚まで、私共夫婦が育った町であるから、友人も、思い出も多い。

    青梅駅のロータリーの先の大通りを左手に行くと、丘の上に祀られた住吉神社がある。徒歩約4分と近いが、その住吉神社前に創業160年以上という青梅でも老舗の道味和菓子店がある。
    ここには私共のお気に入りの御菓子がある。

    ≪道味和菓子店(どうみわがしてん)≫

    住所:東京都青梅市住江町68
    電話:0428-22-3201
    最寄り駅:青梅駅から徒歩約4分、住吉神社前
    月曜定休。和菓子専門店:最中、青梅せんべいなど。9―18時営業。
    尚、河辺店は河辺駅北口徒歩3分にある。

    創業弘化3年(1846年)頃、当初は薬種商を営んでいたが、いつからか菓子を造って売るようになり、現在に至っている。
    「道味」と書いて「どうみ」と読ませるが、この店名の由来はご先祖様の俳号だそうだ。

    道味(どうみ)の名物は店の看板と同じ梅の花をかたどった手焼せんべいである「青梅せんべい」で、材料は小麦粉、卵、砂糖、胡麻油を練って焼き、さく、さくとした歯応えとさっぱりした甘みが好ましい。

    「最中(もなか)」も名物である。
    青梅せんべいとならんで創業当初から変わらない味を伝えている。
    道味の名前を入れた皮に甘さを抑え小豆の旨味を出したつぶし餡を入れた香ばしい最中である。
    (最中の賞味期限は7日~10日。夏季は冷凍しても美味しい)
    私共は、どっしりとした餡が詰まった最中が格別に美味しく、青梅を訪れると必ず購入する。亡くなった両親も良く好んで食べて、ひいきにしていた。

    江戸後期から、ここでお店を開いていて、 当時は目薬も製造していた。
    その証のように<一子相伝(いっしそうでん:学問や技芸などの師が、その奥義、秘法、本質を自分の子どもの中のひとりにだけ伝えて、他の者には秘密にすること)>を謳った「目薬」の古い看板が置いてある。

    戦後も薬事法改定後、菓子専門店となった。

    店の中: 店舗と奥の部屋とのしきりの戸板も漢字。
    蔵の整理をした時に出てきた板を戸に嵌めこんでいると云う。


    XXX

    旅行時期
    2019年09月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    利用形態
    その他
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    5.0
    雰囲気:
    4.5
    料理・味:
    5.0

  • ネルトリンゲン旧市街:14世紀の市城壁が、5つの市門、11の塔と共に、今もほぼ完全に保存され、この城塞都市をぐるりと囲んでいる。

    投稿日 2021年04月03日

    ネルトリンゲン旧市街 ネルトリンゲン

    総合評価:5.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    Noerdlingenネルトリンゲン観光:  12:20~14:25 
    Oettingen-Wallersteinエッティンゲン・ヴァラーシュタイン侯爵家のヴァラーシュタインの町から南に6kmにあるネルトリンゲンの町は“生きている完全な中世都市”と称される、かつての新教派の帝国都市ネルトリンゲンは見事なほどに、中世の景観を残した町である。人口は21千人。

    <ネルトリンゲン旧市街>
    中世城塞都市の環状のStadtmauer市城壁が14世紀に建てられ、5つの市門、11の塔と共に、今もほぼ完全に保存され、この町をぐるりと囲んでいる。

    5つの市門の内、一番大きな楼門は南の①Berger Torベルガー門である。ここから時計回りに西の②Baldinger Torバルディンガー門、市壁博物館としても使われている北の③Loepsinger Torレプジンガー門、北東のDeininger Torダイニンガー門、東のReimlinger Torライムリンガー門が連なる。

    11の市塔は、北西から時計回りに①Feilturmファイル塔、②Loewenturmレーヴェン塔、③Oberer Wasserturmオベーラー・ヴァッサー塔、④⑤⑥⑦⑧Backofentuerme (5)バックオーフェン塔(5基)、⑨Spitzturmシュピッツ塔、⑩Unterer Wasserturmウンテラー・ヴァッサー塔、⑪Reissturmライス塔がある。

    この町でもいまだに城壁を夜警が見回るのだと云う。しかも城壁の回廊を歩いて一周できる町は広いドイツでもネルトリンゲンだけなのだ。

    ネルトリンゲンの旧市街には、5つの市門の一つBaldinger Torバルディンガー門から入り、Egerエーガー川を渡ると、左手にStadtmuseum町の郷土博物館があり、その傍にあったパークハウスに車を入れて、徒歩でヘレン横丁から右回りに歩み始めた。
    市城壁のある外周の中に、それを少し小さくしたぐるりと回る内周がある。木組み建築の家並みが続く、ヘレン横丁、ワインマルクト、ノイバウ横丁、ドレーハー横丁だ。ノイバウ横丁から左折し、更にマルクト広場に繋がるライムリンガー通りを行く。
    そこは町の中心でホテル、店舗、カフェ、広場の戦争の噴水、町庁舎、聖ゲオルク教会、穀物市場などがある。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ネルトリンゲン:「パン屋とタンツハウス(舞踏館)」という名の美しい、大きな木組みの館がある。

    投稿日 2021年04月02日

    タンツハウス ネルトリンゲン

    総合評価:4.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    Noerdlingenネルトリンゲン観光:  12:20~14:25 

    “生きている完全な中世都市”と称される、かつての新教派の帝国都市ネルトリンゲンは見事なほどに、中世の景観を残した町である。人口は21千人。

    この町のマルクト広場には二つの名がくっついた、珍しい名の建物Brot- und Tanzhausブロート&タンツハウス、白い壁に赤い彩色も美しい、大きな木組みの館がある。

    Brot- und Tanzhausパン屋とタンツハウス(舞踏館);
    町が繁栄していた1442~1444年に現在のような建物が建築された。
    当時、一階に小さなパン屋が入っていて、人々の集会場、ダンス場、商館や倉庫も兼ねたものだったと云う。
    1829~30年、 大きな改築が行われ、1830年から学校の校舎として使用された。
    1920年代以来、町庁舎の傍ということで、庁舎の行政の一部に貸与されている。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • マルクト広場に立つ、この町の庁舎は”ネルトリンゲンの石の家"と称される。

    投稿日 2021年04月01日

    市庁舎 (ラートハウス) ネルトリンゲン

    総合評価:4.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    Noerdlingenネルトリンゲン観光:  12:20~14:25 
    ヴァラーシュタインから南に6kmにあるネルトリンゲンの町も1500万年前に直径1000mの隕石が落下・衝突によって形成されたと云われる、25kmのリース盆地にある。
    “生きている完全な中世都市”と称される、かつての新教派の帝国都市ネルトリンゲンは見事なほどに、中世の景観を残した町である。

    <Rathaus町庁舎>

    ロマンチック街道でも知られたローテンブルクにはがっちりした立派な市庁舎が建ち、
    ディンケルスビュールの庁舎はなんと1733年に建てられたものだが、「新町庁舎」と呼ばれる、町に相応しいこぢんまりした庁舎がある。

    マルクト広場に立つ、この町の庁舎は"Steinhaus zu Noerdlingenネルトリンゲンの石の家"と称され、其々の町の特徴を見せている。
    Grafen von Oettingenエッティンゲン伯の領地の中心に“石の家”が出来たのは1307年のことである。
    1618年に庁舎の横に、取って付けた様な大変珍しい「屋根付きのFreitreppe戸外階段】が作られ、美しい彫刻で飾られている。

    この日、町庁舎周辺は“蚤の市”のような、手工業品を並べた店が軒を連ね、近在の人などで賑わっていた。ぐるりと回ってみたが、木工作品が目に付いた程度だった。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

jijidarumaさん

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2025.06.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2025年を迎えている。

(2025.06.11.)

行ってみたい場所

ドイツ

現在33の国と地域に訪問しています

拡大ボタンを押すと地図が
動かせます。

現在12都道府県に訪問しています