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jijidarumaさんのクチコミ(15ページ)全662件

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  • ポツダムにも規模を小さくしたBrandenburger Torブランデンブルク門がある。

    投稿日 2021年09月21日

    ブランデンブルク門 ポツダム

    総合評価:4.0

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km

    突然の夕立の中、ベルリンから朝の道B5・B2を戻る。途中の町中は帰宅の車で渋滞し、ノロノロ運転になった。このまま続くのかと持っていると、左に曲がる道にB1の標識がでた。ポツダムに行く道なのだ。これは正解だったが、ポツダムに入り、ホテルが近くなったら、全く動かない渋滞に巻き込まれた。今日はついていないと、やむなく、Uターンして、ポツダムの旧市街に向かった。

    ここにも規模を小さくしたBrandenburger Torブランデンブルク門があり、その広場から先が洒落たブランデンブルク通りである。
    ポツダムのLuisenplatzルイゼン広場に立つブランデンブルク門は、1770~71年にFriedrich IIフリードリヒ2世によって建てられた。ポツダムの3つの保存された市門の一つである。ブランデンブルガー通りの西端に位置し、聖ペテロとパウロ教会まで直線道路となっている。

    門の傍にアジア料理(中華ベース)の店を見つけた。

    <夕食;Potsdamポツダム・Bistro Lottos(中華)> 
    D-14467 Potsdam 、Brandenburger Strasse 68
    19:10~20:10 Euro16 (1,888円)
    定番のビール、鶏肉のスープ、ワンタンスープ、春巻き、豚肉のチョプシー。

    ここの味は中華でも塩がきいた、しょっぱめだ。
    いつもそうだが、店の中国人は同胞が来たと思って、愛想が良い。
    日本人と分かってからも、アジア人同士の気持ちなのだろう、態度が変わらないのは嬉しい。

    夕食後のB1通りは正常に戻り、7km先のホテルには20:30に着いた。 

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ベルリン・ウンター・デン・リンデン通りにかつてのメルセデスの名車や現代の超高級車を展示したギャラリーがある。

    投稿日 2021年09月19日

    メルセデスベンツギャラリー ベルリン

    総合評価:4.5

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km

    Berlinベルリン観光①:
    10:45~17:00  人口343万人。
    ベルリンはドイツ連邦共和国の首都である。ベルリン州と称しているが、特別市なのだ。
    ベルリンという名前はスラブ語で池や湿地を意味する「Berljina」(ベルジーナ)からきていると云われている。

    ブランデンブルク門から豪華な?!ショッピング街、Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りが、フリードリヒ大王の騎馬像、シュロス橋まで続いている。

    〖Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通り〗
    中央部にLinde菩提樹の並木道が1.4kmほど続く。

    左右の道を行って帰ってきながら、Mercedes-Benz Galleryメルセデス・ベンツのギャラリー(2009年秋にオープンしたもので、かつての名車や現代の超高級車を展示していた)やマイセンの店をのぞいた。

    唯、菩提樹の並木道はイメージしていたほど美しくないし、立派な通りだとは思えなかった。世に謳われたウンター・デン・リンデン通りも期待外れであった。

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.5

  • ベルリン:ポツダム広場はベルリンの新名所らしいが、私共には取り立てて、魅力のある広場ではない。

    投稿日 2021年09月09日

    ポツダム広場 ベルリン

    総合評価:3.0

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間:2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間
    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km

    Berlinベルリン観光①:
    10:45~17:00
    Spree-Rundfahrtシュプレー川遊覧船で、景色はベルリンでの収穫の一つ、
    ベルリン唯一のお薦め!と言ってはベルリン好きに対しては失礼か?
    1時間程度のコースをともかくも楽しみ、パークハウスを出てから、
    また雨模様になったベルリンの町を彷徨った。

    フリードリヒ通り->ウンター・デン・リンデン通り(ベルリン国立歌劇場・フンボルト大学・Neue Wache・シュロス橋)->マリエン教会->TV塔->赤の市庁舎(赤レンガのベルリン市庁舎)と彷徨い、結局、ポツダム広場近くあるベルフィルの本拠地前の駐車場に車を停めた。そこから、ベルフィルやレゴの大きな展示ショップ、Sonyセンターに歩いて行った。

    <Potsdamerplatzポツダム広場>
    15:20~16:10

    ベルリンの中心地の一つ。時代の先端をいく建築が多く、歴史的建造物の
    多いベルリン・ミッテと対照的な地区だと云う。
    レゴの大きな展示ショップ、Sonyセンター、映画館、レストラン、ショッピング街、
    劇場などがあり、ポツダム広場はベルリンの新名所になっているらしい。
    まー、私共には取り立てて、魅力のある広場ではない。

    遅くなってきたので今日の最後の場所として、
    ベルリン・ドイツ抵抗運動記念館を選んだ。

    XXXXX

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    2.5
    景観:
    3.0
    人混みの少なさ:
    2.5

  • ベルリン:シュプレー川遊覧船からみる景色はベルリンでの収穫の一つ。

    投稿日 2021年09月05日

    シュプレー川 ベルリン

    総合評価:4.5

    Die Spreeシュプレー川はハーフェル川の左岸支流である。
    ザクセン州、ブランデンブルク州、ベルリンを流れる。全長は400km。チェコとの国境に近いラウジッツ山地に源泉があり、北へ向かう。バウツェン、コトブスといった都市を流れ、西へ転じベルリンに入り、ベルリン郊外のベルリン・シュパンダウでハーフェル川に合流する。

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間:2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間
    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km

    Berlinベルリン観光①:
    10:45~17:00
    タクシーに田舎者は邪魔だとばかりに、警告音を鳴らされながら、Friedrichstrasseフリードリヒ通りをシュプレー川に向かった。
    幸い近くにパークハウス(Euro3.5)を見つけた。

    この日は月曜日であったので、博物館は休館中ですから、それと関係のない所を観光することにしていた。そこでシュプレー川遊覧を予定していた。
    遊覧船は各社が運航していて、30分の待ち時間でスタートした。
    その待ち時間を利用して、船内に乗り込み、昼食にした。

    <Spree-Rundfahrtシュプレー川遊覧船>
    13:15~14:15  Euro16.2(1,912円)
    ;Stern&Kreis Schiffahrt GMBH 、Friedrichstrasse、 Reichstagufer
    http://www.sternundkreis.de/

    シュプレー川沿いの洗練された建物、景色はベルリンでの収穫の一つ、ベルリン唯一のお薦め!と言ってはベルリン好きに対しては失礼か?
    1時間程度のコースはシュプレー川のWeidendammヴァイデンダム橋傍から乗船し、ドイツ連邦議会議事堂->首相官邸(首相府)->世界文化会館->ベルビュー宮殿(大統領官邸)->ボーデ博物館->旧国立美術館 (旧ナショナルギャラリー) ->ベルリン大聖堂->ニコライ地区->ニコライ教会を船上から、アナウンスを聞きながら、見ていくものです。

    4組!のお客を乗せただけで、大きな船は議事堂に向かい出発。
    甲板に上がって見たのですが、川風は寒く、雨もぱらぱら落ちてきました。ここにはフランス人カップルと私共だけ、やせ我慢している内に晴れてきました。
    手っ取り早い観光にはこれが一番です。

    *Reichstagドイツ連邦議会議事堂
    東西統一後、8年をかけて改装された。近代的なガラス張りのドームが上にのっていて、ドームには入ることができ、上から見るベルリンの街の眺めは素晴らしいそうだ。

    *Berliner Domベルリン大聖堂とMarienkircheマリエン教会
    大聖堂にはホーエンツォレルン王家の墓所がある。天井ドームは高さ114m。
    マリエン教会はベルリンで二番目に古い教会。

    *FernsehturmTV塔とAlexanderplatzアレクサンダー広場
    高層ビルが立っているアレクサンダー広場は昔も今も東ベルリンの中心街で、高さ365mのテレビ塔がそびえ立っているのがボーデ博物館の左に見えた。

    *Rotes Rathaus赤の市庁舎とNikolaiviertelニコライ地区
    ベルリンの市庁舎は赤レンガ色の建物で、赤の市庁舎と呼ばれている。ここからシュプレー川に広がる地域がニコライ地区で、元々はベルリンの発祥の地である。18世紀の街の魅力を残し、一帯が洒落たカフェ・レストランが並ぶ。
    ここにあるニコライ教会は1230年に建てられたベルリン最古の教会。

    XXXXX

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • ベルリン:世に謳われたウンター・デン・リンデン通りも期待外れであった。

    投稿日 2021年08月31日

    ウンター デン リンデン ベルリン

    総合評価:3.0

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km
    ブランデンブルグ門から豪華な?!ショッピング街、Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りを歩く。

    <Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通り>
    中央部にLinde菩提樹の並木道が1.4kmほど続く。フリードリヒ大王の騎馬像、シュロス橋まで続いている。
    左右の道を行って帰ってきながら、Mercedes-Benz Galleryメルセデスのギャラリー(2009年秋にオープンしたもので、かつての名車や現代の超高級車を展示していた)やマイセンの店をのぞいた。

    唯、菩提樹の並木道はイメージしていたほど美しくないし、立派な通りだとは思えなかった。世に謳われたウンター・デン・リンデン通りも期待外れであった。むしろ乱雑な、捉え所のない通りの印象が強い。
    中央の分離帯に育った木々の所為で一体感がない、工事中の場所が多く、気分を害した事に依るものか、自分でも定かではない。

    これなら、デュッセルドルフの洒落た並木道“Koenigsallee王様の小道”の方が、ずっと美しいのではないだろうか。“Koeケー”と愛称で呼ばれ、幅82m、真中のお堀を挟んで、左右に1kmのマロニエの並木道が続き、高級ブランド品の店、貴金属店、カフェ、ホテル、レストラン等が、町の顔として並んでいる。

    話は変わるが、Lindenリンデン菩提樹はドイツで最も好まれる木ですから、首都ベルリンにあるのは不思議ではない。
    菩提樹は15m~40mに大きくなって、葉を茂らせる様子が好ましいから、私も好きな木の一つです。樹齢も1000年になる木もあると云います。

    また2005年の旅を思いだした。フランツ・シューベルトの歌曲集『冬の旅』第5曲「菩提樹(Der Lindenbaum)」に歌われる“Brunnen vor dem Tore泉にそいて繁る菩提樹(1827年作曲)”を、Eisenachアイゼナハの北西に55kmにあるBad Sooden-Allendorfバート・ゾーデン・アレンドルフの町で見た事がある。
    そこには緑の色濃くなった菩提樹の大木が立ち、側には泉があり、菩提樹の曲を記した記念碑もありました。面白い事にわざわざ、これを見に来る人は我々ぐらいで、近くで庭仕事をしている人にも、菩提樹や泉の写真を撮っている我々が珍しいようでした。
    ≪番外編:バート・ゾーデン・アレンドルフに残るシューベルトの「泉に添いて、茂る菩提樹」≫
    https://4travel.jp/travelogue/11623103

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    景観:
    2.5
    人混みの少なさ:
    3.5

  • ベルリンが東西に分れていた頃、ブランデンブルク門は東側で、小さく遠くに見えた。それは東西の分離が永遠であるかのように・・・。

    投稿日 2021年08月29日

    ブランデンブルク門 ベルリン

    総合評価:4.0

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km

    Berlinベルリン観光①:
    10:45~17:00  人口343万人。

    勝利の女神像が高々と立つSiegessaeule戦勝記念塔を見たら、次はやはり
    Brandenburger Torブランデンブルグ門だろう。
    戦勝記念塔からBrandenburger Torブランデンブルグ門は近い。
    Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りに面した最高級ホテルAdlon Kempinski Berlinの駐車場(Euro6)に入れて(ここもかつては壁の向こうにあった)、Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りに出て、散策を開始し、まずは誰もが行くブランデンブルグ門に行った。(11:00~12:20)

    <Brandenburger Torブランデンブルク門>

    ブランデンブルグ門を境に東にシャルロッテンブルク宮殿、西にウンター・デン・リンデン通りがある。いずれもベルリンを代表するスポットだ。
    ベルリンが東西に分かれていた時はこの門は東ベルリン側にあった。私共が1983年4月家族旅行で訪れた時、はるか遠くに門の裏が見えたものだ。

    ブランデンブルク門のモデルはアテネの神殿アクロポリスで、1788~91年にプロイセン王国の凱旋門として造られた。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの、砂岩でできた古典主義様式の門である。

    門の上の勝利の女神と4頭立ての馬車カドリカは1806年、プロイセンを破ったナポレオン皇帝により、パリに持って行かれたが、ナポレオンの敗北・退位で1814年、再びベルリンに戻った。大国間の勝敗の歴史が背景にある。
    今は東西ドイツ統一のシンボルである。

    このベルリンで最も有名な建築物であろう。様々な国の観光客が門をバックに写真を撮る。私も門をバックに一枚。
    東西に分離していたベルリンの時期は、この門は壁の向こう側にあり、小さく遠くに見えた。それは東西の分離が永遠であるかのように・・・。

    これから訪ねるライプツィヒやマイニンゲンの町で、1989年のベルリンの壁崩壊、東西両ドイツの統一の端緒となった“平和的改革“のデモの発端となった所を知りました。
    現実的にそうした祈りがあり、機運が盛り上がったデモが行われたとしても、あれほど簡単に、血を見る事も少ないままに壁が崩壊したことは、私にとっても不思議なものです。

    この門から豪華な?!ショッピング街、Unter den Lindenウンター・デン・リンデン通りが、フリードリヒ大王の騎馬像、シュロス橋まで続いている。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    2.0
    展示内容:
    4.0

  • 28年ぶり、金色に輝く女神像をベルリン最初の写真として撮った。

    投稿日 2021年08月27日

    ジーゲスゾイレ (戦勝記念塔) ベルリン

    総合評価:4.0

    「かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅」
    期間 : 2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月16日(月);1日中小雨、午後には晴間もあった。15℃、107km

    B1に沿って、ポツダムからベルリンへ向かう。標識に釣られてA100・B2・B5とベルリンの北側から中心に入ったようだ。37kmでBerlin Mitteミッテ地区の勝利の女神像が高々と立つSiegessaeule戦勝記念塔に45分で着いた。

    Berlinベルリン観光①:
    10:45~17:00  人口343万人。
    ベルリンはドイツ連邦共和国の首都である。ベルリン州と称しているが、特別市なのだ。
    ベルリンという名前はスラブ語で池や湿地を意味する「Berljina」(ベルジーナ)からきていると云われている。

    ベルリンには12の地区がある。その一つ一つが都市のようなものなので、ある意味で特徴のない町・国際都市になっている。
    この点もあって、“ベルリンはドイツではない”と思えてくる。

    さて、1983年4月家族旅行で訪れて以来の町は、確かに発展し、巨大化し、町中はいまだに建築、補修の工事が続いていた。春特有の不安定な天気でベルリンに入ると曇り、小雨も降りだした。Siegessaeule戦勝記念塔は車の波に囲まれた中島に立っている。
    近くに停めて、金色に輝く女神像をベルリン最初の写真として撮った。

    <Siegessaeuleジーゲスゾイレ戦勝記念塔>
    1865~73年に建てられた高さ67mの塔。金色の勝利の女神が頂上に立つ。デンマーク、オーストリア、フランスに勝利した記念である。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • マグデブルクの大聖堂はゴシック様式のカイザー大聖堂と云われている。

    投稿日 2021年08月22日

    マクデブルク大聖堂 マクデブルク

    総合評価:4.5

    『かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅』
    期間:2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月15日(日); 晴、16℃。409km

    不思議なことに州都Magdeburgマグデブルクは観光本に載っていない。
    州都マグデブルクに入ると、エルベ川沿いの道を行き、標識に沿って走り、まずは市庁舎前の旧マルクト広場に停めた。

    ①Magdeburger Reiterマグデブルクの騎手

    旧マルクト広場にある市庁舎前にマグデブルクの騎手(1240年頃)が立っている。
    全体が金色に輝き、王冠と思われるものをかぶった騎士の騎馬像はなかなか見事だが、像はコピー。オリジナルは文化歴史博物館にある。
    この騎士像は神聖ローマ帝国初代皇帝のOttos Iオットー大帝の像と言われているそうだ。
    この町の成り立ちと、オットー大帝との繋がりからすれば、尤もな説だが・・・。

    市庁舎からエルベ川を経由して、カイザー大聖堂は徒歩でそこそこある。
    観光の目玉はこの大聖堂。さすがに観光バスも多く停まり、聖堂内も観光客が多かった。

    ②Kaiserdomゴシック様式カイザー大聖堂    
    撮影料Euro1

    ベルリンから西130kmに位置し、エルベ川沿いに立つ最古のゴシック様式の大聖堂はマクデブルク大司教区の教会である。
    オットー1世・大帝によって建てられたマグデブルクの大聖堂は“St. Mauritius & St.Katharina聖マウリチウス・カタリーナ”大聖堂とも云う。
    オットー大帝は973年に没し、その妻エドギタと共に、ここへ葬られた。
    質素な聖堂内は聖壇前の床に大帝の柩が置かれ、聖壇裏手に妻エドギタの柩がある。その白い柩の蓋には彼女の寝姿の像があった。
    回廊を出て、中庭から高々とした二つの塔を見上げた。

    “ロマネスク街道の真珠”と讃えられるマグデブルクはかつて東方のマジャール人やスラブ人に対する要衝であった。968年にOttos Iオットー大帝によって司教座が置かれたことにより、大司教の保護の下でこの町は大いに栄え、後にはハンザ同盟の一員となっている。
    1524年、宗教改革でルター派に転じ、ルター派の大学として、マクデブルク大学が初めて創設された。

    *三十年戦争(マクデブルクの戦い)で新教派であったマクデブルクは旧教派の攻撃・虐殺で壊滅的な打撃を受けた。
    当時の3万人の市民が戦争終結時(ヴェストファーレン条約締結の時)、人口が450人しかいなかったと云う。2005年に町の1200年祭が行われた。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • マグデブルク:フンデルトヴァッサーの最後の作品、やはり奇妙で面白い。

    投稿日 2021年08月21日

    緑の砦 マクデブルク

    総合評価:4.0

    【かつての東ドイツ:ルター諸都市・Berlin・Dresdenなどを巡る旅】
    期間:2011年05月13日(金)~05月27日(金)15日間

    5月15日(日); 晴、16℃。409km
    今日はブレーメン空港からレンタカーで、マグデブルク、ポツダムに向かい、400kmの距離を走る。
    晴れた朝9:30、少し涼しい空気の中、ザクセン・アンハルト州の州都Magdeburgマグデブルクに向かってアウトバーンを走りだした。
    ちょうどBraunschweigブラウンシュヴァイクを過ぎた所Lehreレーレで休憩をとった。今日は旅一番の距離を走る。ここまで139km(1時間半)は中間点なので、順調といえる。

    <Magdeburgマグデブルク観光>
    12:35~14:00  人口は約28万人。
    不思議なことに州都Magdeburgマグデブルクは観光本に載っていない。

    ザクセン・アンハルト州は1990年のドイツ再統一時にできた新連邦州の1つ。
    かつてのアンハルト公国とプロイセン王国ザクセン州の大部分、ブラウンシュヴァイク公国の一部が一緒になった地域であるので、こうした名前になったようだ。
    西はニーダーザクセン州、南はテューリンゲン州とザクセン州、東と北はブランデンブルク州に接している内陸州である。エルベ川とその支流のザーレ川間に平坦な土地が広がり、西にはハルツ山地がある。州の人口237万人。

    州都マグデブルクに入ると、エルベ川沿いの道を行き、標識に沿って走り、まずは市庁舎前の旧マルクト広場に停めた。

    大聖堂から市庁舎前に戻る時、ピンク色の珍しい建物をみた。
    ウィーンで見られる建物によく似ている。帰国して調べてみると、Wienの有名な建築家Friedensreich Hundertwasserフンデルトヴァッサー(1928 ~ 2000)による建物なのだと云う。
    『Die Gruene Zitadelle von Magdeburg、直訳するとマグデブルクの緑の城、もしくは天守閣)』と呼ばれていて、彼の生前における最後の作品とある。

    何故、緑なのか外観だけではよく分からない。2005年に最終的に完成したらしい。二つの建物の中は噴水のある中庭、住居、幼稚園、カフェ、レストラン、店舗があり、Hotel in der Gruenen Zitadelle von Magdeburgというホテルまであった。
    私共の好みではない。
    かつて東ドイツだった町にこんな建物が!といった感慨が残った。

    ウィーンのフンデルトヴァッサーハウスは有名ですが、私は見ていません。
    手元の観光本にあるフンデルトヴァッサーハウスも奇抜で、色彩鮮やかな建物群です。

    私はウィーンでも、どちらかというとJugendstilユーゲントシュティル青年様式と呼ばれる建築様式が好ましく、この様式はドイツ各地でお目にかかります。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • ベルリン・プレッツェンゼー記念館:絞首刑にされた刑場跡は現在、その英雄行動を顕彰する記念碑になっている。

    投稿日 2021年08月06日

    プレッツェンゼー記念館 ベルリン

    総合評価:4.5

    2011年5月にザクセンの古城Burg Kriebsteinクリープシュタイン城訪れた。
    ≪古城伝説:Die Sage von der treuen Frau von Kriebsteinクリープシュタイン城の貞淑なる妻≫
    ≪1986年、クリープシュタイン城で城主が隠した宝物が発見された。≫

    第二次世界大戦の終わりに、ソ連軍にレーンドルフ家の貴重な財産を奪われないように、Heinrich Graf von Lehndorff-Steinortハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯は東プロイセンの居城シュタイノールト城から、彼の貴重な財産の一部を輸送し、ザクセンのクリープシュタイン城に保管した。
    その一部は暖炉の中で壁に囲まれていた。

    さらに前述の財宝にからんで【Schatz von Kriebsteinクリープシュタイン城の財宝】(Wiki)にて、クリープシュタイン城の城主が反ナチ運動メンバーの一人として刑死したとも書いた。

    ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵は1944年9月3日に人民法廷で死刑判決を受け、翌4日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処せられたことは先に述べたが、彼はAttentat vom 20. Juli 1944、1944年7月20日のドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件に関与したドイツ人将校の一人である。

    ベルリン・Gedenkstaette Ploetzensee プレッツェンゼー顕彰記念碑・・・ハインリヒ・フォン・レーンドルフ・シュタイノールト伯爵はじめクライザウ・サークルの*メンバーもその名を顕彰されている。
    絞首刑にされた刑場跡は、現在、その英雄行動を顕彰する記念碑になっている。


    *Helmuth James Graf von Moltkeヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵(1907年~1945年)は法律家(37歳)。
    *Adam Freiherr von Trott zu Solzアダム・フォン・トロット・ツー・ゾルツ男爵(1909年~1944年)は法律家(35歳)。
    *Peter Graf Yorck von Wartenburgペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵(1904年~1944年)は弁護士(39歳)。
    *Berthold Schenk Graf von Stauffenbergベルトルト・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(1905年~1944年)法律家(39歳)。・・・1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校による、ヒトラー暗殺事件;その指揮を執ったクラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐の兄である。

    ・・・・・

    旅行時期
    2011年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • テディベアーの故郷ギーンゲンにある博物館はシュタイフの国、不思議な国

    投稿日 2021年06月20日

    シュタイフミュージアム ギーンゲン

    総合評価:5.0

    <Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅>

    期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間

    5月23日(水); 晴、26℃、99km 

    <Giengen an der Brenzギーンゲン・アン・デアー・ブレンツ観光>
    12:35~14:15

    Teddy bearテディベアーの故郷であるGiengenギーンゲンはUlmウルムの北東約30kmにあり、ドナウの支流ブレンツ川沿いの人口2万人の町だ。 
    http://www.giengen.de/

    1902年にSteiffシュタイフ社*が作った熊の人形が爆発的な人気で、世界中に知られた。
    (観光地ローテンブルグの上鍛冶屋横町にもいつの間にか店が出来た。店頭に赤の帽子、チョッキ、靴を付け、大きなテディベアーがお客様を迎えていた)

    <昼食:Steiff ・Bistro Knopfビストロ・クノッフ で>
    Margarete-Steiff-Platz 1
    12:35~13:00 Euro10(1,070円)
    シュタイフ社に到着。博物館の見学前に軽食を取ったが、あまり期待できそうもないビストロで結局、子供用のナゲットとフライドポテト、パスタ、ジュース付きで済ませた。

    ≪Margarete Steiff Museumマルガレーテ・シュタイフ博物館見学≫  
    13:00~14:00 入場料Euro10+駐車料金Euro2
    見学:月~金 13~16時 、土 8時半~12時

    テディベアー博物館は自由見学でした。全てではないが、日本語の説明があって、それに従って順路を周ります。やはり夢を売るわけですから、子供たちを対象にした数々の場面が、つまり“シュタイフの国:不思議な国”が作られている。

    創設者マルガレーテ・シュタイフ女史の像が入口でまずお出迎え。100年を越える歴史は小さな貧しい部屋で始まった。わずか1才半で小児麻痺を患い、両足と右手が不自由の為、車椅子生活だった女史の車いす、ミシン、裁縫道具が並ぶ部屋で、道具たちが会話をしながら動いている。

    その後は、物語風にクマの"クノッフ君”と女の子の"フリーダちゃん”がシュタイフの世界の案内役と言う設定で、様々な国々を訪れる。世界の国々の子供たちの手元に届いて幸せに暮らしているというテディベアーたち。
    そこにはその国の衣装を着たテディベアーが迎えてくれるのです。

    他の階ではベアーだけなく、白クマ、キリン、ライオン、ヘビなどの玩具が並ぶ動物の世界=動物園もあり、幼稚園児たちが遊んでいた。
    製造工程を少し見せるコーナーもある。博物館には販売店が併設されていて、どれを選んだら良いのか迷うほどで、結局、ここでは買わなかったが。

    http://www.steiff.de/

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • 皇妃エリザベートのお気に入り:シュタルンベルガー湖畔のホテル・カイザリン・エリザベート

    投稿日 2021年06月17日

    ゴルフホテル カイザリン エリザベス ミュンヘン

    総合評価:4.5

    南ドイツとオーストリア周遊の旅:
    ( 2004年4月21日-5月4日 :2週間 )
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世  と 
     オーストリア皇妃 エリザベート ----愛称 “シシー” を 巡る旅* 

    4/30(金)~5/03(月):3泊

    Starnbergersee:Golfhotel Kaiserin Elisabeth
    シュタルンベルガー湖畔:ゴルフホテル・カイザリン・エリザベート
    4星、全51室・4星、  120x3 Euro=360
    D-82340 Feldafing  、Am Starnberger See、 
    TEL:49(0)―8157―93090、FAX:49(0)―8157―9309133     
    http://www.kaiserin-elisabeth.de 

    ドイツアルプスの高い山々・・・3000m弱級・・・は暖かな陽気に少しずつ雪を融かしてきていますが、南バイエルンの野から見上げる山々は雪で白々と見えます。このホテルの庭からも、ドイツアルプスが湖の先に白く遠望できます。
    ホテルの庭にはオーストリア・ハンガリー帝国のエリザベート皇妃の座像があり、ホテルの正面テラスレストランから良く見える小高くなった場所に置かれています。ここで皇妃は座りながら、物思いにふけっていたそうです。

    ホテルの2階には、オリジナル“Sisi-Suiteシシーのスイート”という部屋があるそうですが、残念ながらのぞいていません。
    ホテルの本館と別館には65の部屋と1スイートがあり、正式なレストランも、テラス、室内と幾つもあり、また、バイエルン風なレストランやビールバー等もあって、様々な客の要望に対応出来るようにしている。

    この近くには“エリザベートの散歩道”が標識で示されており、なだらかな道が湖畔まで、続いています。あの独特の急ぎ足で、お供がついて行くのが難しいあの速さでこの道を散歩したのでしょうか?!! 

    子供時代をこの近くのPossenhofenポッセンホーフェンの城で過ごしたエリザベートはこの地を愛して、オーストリア皇妃になってからも、しばしばこの地を多数の随行員と愛馬と共に訪れた由です。このホテルで24回の夏を過ごし、それは都度、数週間も滞在したそうです。

    皇妃のまた従兄弟に当たるバイエルン王国のルードヴィヒ2世ともこの地でよくお会いになり、1886年6月13日、王のBergベルクでの不慮の死には、この地から皇妃は駆けつけたとの話も残っています。

    皇妃が最後の夏を過ごされたのは1894年ですが、ホテルのその長い歴史の中で、もっとも著名なお客様と言えましょう。

    この地はミュンヘンから30kmの近さで、古くからシュタルンベルガー湖畔のリゾート地として栄えてきたようです。1508年に当地に教会が建てられ、このホテルの原型とも言うべき宿屋がその隣に見られました。
    その後は19世紀頃、帝国議員がホテルのオーナーになり、更に1856年にはミュンヘンの資本家が買い取り、大きなテラスを持つホテルに改造されました。
    新しく鉄道が敷かれるとスイス風のスタイルに拡大され、1898年、皇妃が暗殺された後の1905年にはウイーンの王宮の勅許により、ホテル名をホテル・カイザリン・エリザベートとすることが許され、今日に至っている。

    XXX
    次は以下に訪れた。
    ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊  
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:

    期間:2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間
    4.19(土) 小雨後晴 13.5℃、 95km

    Starnbergersee湖周辺巡り:
    近くのGolfhotel Kaiserin Elisabeth 、 Feldafingでお茶14:00~15:00、
    ”Golfhotel Kaiserin Elisabeth ”で4年ぶりの夕食・庭園の散策18:00~19:30

    旅行時期
    2004年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    4.5
    ロケーション:
    4.5
    客室:
    4.5

  • ロマンチック街道:難攻不落の名城Die Harburgディー・ハールブルク城に2泊した。

    投稿日 2014年11月07日

    ハールブルク城 ロマンチック街道周辺

    総合評価:4.5

    (2021年6月8日文章・写真を変更・追加した)

    2012年のドイツの旅:Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

    期間 :2012年05月15日(火)?05月29日(火)15日間の旅

    5月20日(日); 晴、30℃、130km

    15:45にエッティンゲンを出て、B466・L? ヴェルニッツ川沿いに南東に下る。
    Harburgハールブルク城は24km先にあり、レストランの関係で17時必着だったが、幸い16:15に到着できた。

    丘の上への道をたどり、城門前に至る。ここに車の進入を阻止する横木が下りている。
    家内が閂をあげて、横木を動かし、車を入れ、また横木を元に戻す。その作業をしてから、坂道を上り、昔ながらの落とし格子を恐々と頭上に見つつ、城門をくぐる。
    城門を過ぎると、この城砦の広い中庭になる。

    久しぶりのハールブルク城である。今日から2泊3日の予定だ。
    (尚、22日(火)の朝10時から1時間ガイド付きで城内見学をした)

    持参のトランクの重さは20kg・2個ですが、段々、自分達の手に負えなくなり、ホテルの従業員の方にお願いする。
    男手はシェフしかいなかった様子で、彼が二つ軽々と2階の部屋で運んでくれた。ここでもエレベーターがないから仕方がない。

    ≪難攻不落の名城Die Harburgディー・ハールブルク城≫ 
    Woernitzヴェルニッツ川を臨む丘の上、海抜480mに立つハールブルク城は難攻不落の城として知られる名城である。18世紀以来、Oettingen-Wallersteinエッティンゲン・ヴァラーシュタイン侯爵家の居城の一つになった。

    南ドイツにおける、最も大きく、古く、12世紀からの中世の城郭がよく保存されている。長さ220m、幅120mの平面上の台地に建てられたシュタウフェン朝の皇帝の王城で、ネッカーの古城街道沿いにあるPfalz von Wimpfenヴィンプフェンの王城を凌ぐものと云われている。ヴェルニッツ川畔からの古城の眺めは実に絵画的で、素晴しい。

    現在、城内は城内教会、天守閣、泉、城壁、祝典用広間等が見られる。博物館には宝物やリーメンシュナイダー作品などが展示されている。騎士文化の一端に触れることができる。博物館見学は日程の都合で、22日(火)の朝にした。
    http://www.burg-harburg.de/

    ハールブルク城博物館見学    10:00~11:00  入場料Euro8
    城内見学;火~日、10時~17時。ガイド60分。

    城の歴史;
    11世紀の半ばに最初の城が築城されたと云われている。1150年、この城の確かな記述、即ち、若きシュタウフェン王家のHeinrichハインリヒ(Konrads III コンラット3世の息子)が書いた手紙の中にハールブルク城について、“castrum nostrum”と称し、“unsere Burg”われらの城と書いている。ハールブルク城は帝國城の一つとして支配されていた事を物語るものである。

    スウェーデン王Gustav II Adolfグスタフ2世アドルフ(1594~1632年)は新教徒保護を名目にフランスと同盟し、ドイツに侵攻し、連戦連勝し、1632年にはハールブルク城に守備隊を置いている。ハールブルク城は30年戦争の間、しばしば包囲攻城で罹災した。

    1731年、Albrecht Ernst IIアルブレヒト・エルンスト2世の死去により、新教派のエッティンゲン家が消滅し、代わってハールブルク城は旧教派のエッティンゲン・ヴァラーシュタインのものとなった。
    1798年12月、イギリス、オーストリア、ロシアなどによって、ナポレオン戦争における第二次対仏大同盟が結成されると、2. Koalitionskrieg第二次対仏大同盟戦役(1799?1802年)が始まり、1800年にはオーストリア軍の守るハールブルク城は仏軍の猛攻を受ける。

    現在は毎年6月に城門前で催されるBockfestボックフェスト(町のお祭り)で、当時の包囲攻城の様子を見る事が出来る。
    2000年3月、エッティンゲン・ヴァラーシュタイン家はハールブルク城を“Gemeinnuetzige Fuerst zu Oettingen - Wallerstein Kulturstiftung”に譲渡した。

    XXX

    Hotel-Restaurant Fuerstliche Burgschenke Harburg古城ホテル ハールブルク城
    D-86655 Harburg  、Burgstrasse 1    
    3号室(2階)、Euro79x2=158
    Tel:+49 (0) 9080 1504 、Fax:1581
    http://www.burgschenke-harburg.de/index.htm

    全7室、DZ Nr.3・ Blick auf das Woernitztalヴェルニッツ川の眺めの部屋であったが、十分な眺めとはいえず。Euro79x2=158の宿泊料は今回の旅では一番安い。
    Burgschenkeブルクシェンケ(酒場)と呼ぶだけに、本来の古城に付属した建物で、城門に連なる施設の一つをホテル・レストラン棟にしたものである。
    部屋は十分に広く、まだこざっぱりした、新しい感じだった。テラスで咲くRotdorn西洋サンザシの花が目立った。

    注;日曜日のレストランは18時まで。月曜日は休み。
    Burghof城内中庭での駐車がOKだが、城門坂下には前述した横木がある。

    ・・・・・


    参考:
    ドイツ2012年・麗しの5月:難攻不落の名城Die Harburgディー・ハールブルク城に泊まる。
    https://4travel.jp/travelogue/11686811

    30年戦争にまつわる伝説:その3”ハールブルクに残る「悪魔と取引した羊飼い」のお話”
    https://4travel.jp/travelogue/10942268

    ドイツ2012年・麗しの5月:シシーの城を訪問する前に、難攻不落の名城ハールブルク城を見学する。
    https://4travel.jp/travelogue/11694162

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    2日以上
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • アウクスブルク:中世の趣を残すマクシミリアン通りは三度その名を変えた。

    投稿日 2021年06月06日

    マキシミリアン通り アウクスブルク

    総合評価:4.5

    Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅
    5月21日(月); 曇りのち晴、26℃、215km (ここまで850km;計画では824km)

    Augsburgアウクスブルク観光: 15:20~17:40
    Augsburgアウクスブルク は2000年以上前にローマ皇帝アウグストゥスにより建設された都市であり、モーゼルのTrierトリアー 、アルゴイのKemptenケンプテンと共に、ドイツでも最も古い3つの町に数えられる。現在のオーバーハウゼン地区にローマの軍団基地が設けられた紀元前15年が町の始まりとされている。
    15、6世紀にFuggerフッガー家とヴェルザー家が営んだ交易、銀行業務が富を生み、町は大きく発展した。この事から「フッガーシュタット」(フッガー都市)とも称された。
    アウクスブルクはミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン州第3の都市であるから、ロマンチック街道上、最大の都市と言える。といっても人口は26万人だ。

    観光の見所の一つでもある、トラムの走る広い通りでもあるMaximilianstrasseマクシミリアン通りはアウクスブルクを南北に貫く中心街であり、
    通りの左右にゴシック、ルネサンス、ロココ、バロック、ネオクラシック様式の建物が中世の趣を残している。
    ヘラクレスの噴水、マーキュリーの噴水、Fuggerhausフッガー家の邸宅(1512~15年に建設。戦争で罹災したが、再建された)、Schaezler Palaisシェッツラー宮殿(州立絵画館・ドイツバロック博物館:1770年、当地の銀行家Liebertリーベルト男爵アダムが建てた後期ロココ様式のもの。大きなFestsaal祝典の広間が有名)などが並ぶ。

    マクシミリアン通りはRathausplatz市庁舎広場と、St.Ulrich&Afra聖ウルリヒ&アラフ教会(1555年のアウクスブルクの宗教和議(ルター派の信仰を認めたもの)を記念して建てられた)傍のUlrichsplatzウルリヒ広場とを結ぶ通りだが、元来はローマ時代からの道であった。

    マクシミリアン通りは昔はWeinmarktワインマルクトと称していたが、
    19世紀に初代バイエルン王(選帝侯)Maximilian I.,マクシミリアン1世(1756~1825年)に敬意を示してマクシミリアン通りに名前を変えている。
    第二次大戦後、20世紀の1957年、Maximilian der Grosseマクシミリアン大帝Maximilian I.(1459~1519年)の名に最終的なものとして、変えている。

    ・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    景観:
    4.5
    人混みの少なさ:
    3.5

  • アウクスブルク市庁舎の「黄金の間」は見所!

    投稿日 2021年06月05日

    アグスブルク市庁舎 アウクスブルク

    総合評価:5.0

    《Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅》

    期間:2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅 

    5月21日(月); 曇りのち晴、26℃、215km (ここまで850km;計画では824km)

    この日の午後の行程はDonauwoerthドナウヴェルトを12:10に発ち、Dillingenディリンゲンを訪ね、最終地はAugsburgアウクスブルクで15:20到着した。

    久し振りのアウクスブルクは
    マクシミリアン通りを歩くこと、
    市庁舎の黄金の間(改装なったと聞く)を見る事、
    Fuggereiフッゲライを訪ねる事に絞った。

    <Rathaus市庁舎と黄金の間>
    15:50~16:15 入場券Euro4。


    市庁舎広場に立つ、アウクスブルクで最も重要な建築(1615~20年)。
    ドイツルネサンスの傑作と云われている。

    3階の黄金の広間は今日のハイライトだ。
    昔の市庁舎、職人の仕事の歴史などを天井や周囲の壁に描いて、それは見事なものだ。

    尚、市庁舎広場にアウグストゥスの噴水(1594年)、市庁舎の左手に隣接した塔Perlachturmペルラッハ塔(1182年完工。高さ70m)が見える。

    ・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    5.0

  • アウクスブルクでは、市庁舎の次に興味深いのはフッゲライ(世界で最も古い福祉施設)であろう。

    投稿日 2021年06月04日

    フッゲライ アウクスブルク

    総合評価:5.0

    Romantische Strasseロマンチック街道、Schwaebische Alb Strasseシュヴェービッシュ・アルプ街道、Burgenstrasse古城街道の旅

    期間 :2012年05月15日(火)~05月29日(火)15日間の旅 

    5月21日(月); 曇りのち晴、26℃、215km (ここまで850km;計画では824km)

    <Augsburgアウクスブルク観光>
    15:20~17:40
    Augsburgアウクスブルク は2000年以上前にローマ皇帝アウグストゥスにより建設された都市であり、モーゼルのTrierトリアー 、アルゴイのKemptenケンプテンと共に、ドイツでも最も古い3つの町に数えられる。現在のオーバーハウゼン地区にローマの軍団基地が設けられた紀元前15年が町の始まりとされている。
    Lechレヒ川とWertachヴェルタッハ川に面したアウクスブルクは4世紀から5世紀頃にはすでに司教座が設けられていた。15、6世紀にFuggerフッガー家とヴェルザー家が営んだ交易、銀行業務が富を生み、町は大きく発展した。この事から「フッガーシュタット」(フッガー都市)とも称された。

    Maximilianstrasseマクシミリアン通りにあるFuggerhausフッガー家の邸宅(1512~15年に建設。戦争で罹災したが、再建された)よりも、フッガー家の素晴らしさを教えてくれるFuggereiフッゲライが興味深い。

    <Fuggereiフッゲライ>(日本語のパンフレットにはフッガーライとあった)
    16:25~17:20 入場券Euro8。

    フッガー長屋とでもいうべきか、世界で最も古い2階建ての福祉施設が並ぶ地域。1519年、財閥フッガー兄弟により貧しいアウクスブルク市民の救済の為につくられたもので、当初250の家があった。家賃は昔のままで、Euro0.88という信じがたい家賃だそうである。但し、寄進者とフッガー一族の為に、一日3通りの祈りを捧げる事も家賃の一部とみなされていると云う。
    現在は67軒に区分された長屋には140のアパートがあり、150人が入居しているとパンフレットにある。

    市役所から歩くと、10分かかる。Jakoberstrasseヤコブ通りから、フッガー家長老会の館の門をくぐり、中に入ると、チケット売り場がある。売り場にはさすがに日本人観光客も多いようで、日本語のパンフレットがある。唯今日は市内でも、ここでも日本人を見ていない。フッゲライの中央をヘレン横丁がまっすぐ伸びている。
    なにかこの中に入ると、急に辺りと隔絶したように静かな佇まいになる。まだ実際に使用されて、住民もいるはずだが、静かなもので、観光客の歩く姿しか見る事が無い。

    かつて、この敷地を囲むように城壁があり、8つの通り、7つの門、教会、学校、病院まである小さな町を形成していたと云う。その教会横から、ヤコブ・フッガーの胸像(2007年)が立つ中庭に出た。その近くにかつての防空壕を利用して、新しい施設が2008年にできた。

    防空壕を下りて行くと下は広い資料室になっていて、“第二次大戦のフッゲライ破壊と再建”と題した展示が常設されている。展示された写真や映画・音声で、第二次大戦中に英国空軍の爆撃でフッゲライが壊滅したこと、死者も出た事も知った。大戦後のフッゲライや、アウクスブルクの再建の道などが分かるようになっている。

    中庭から出ると、Ochsengasse雄牛横丁がある。この通りの52番地の2階にドロテア・ブラウンという病棟で働く看護婦が住んでいました。彼女はアウクスブルク最初の魔女狩りの犠牲者になったそうです。11歳の娘に魔女として訴えられたそうで、痛ましい事です。
    1625年9月25日に有罪となり、即日処刑されて、遺体は焼かれたと云う。

    雄牛横丁から噴水を挟んだ反対側はMittlere Gasseミッテレレ横丁と言うが、その13・14番地にフッゲライ博物館がある。
    昔のままの住居を残していて、暖炉のある居間・台所・寝室などを見学する事が出来た。それは予想以上に広く、立派であった。
    博物館の入口は14番だが、ここに神童モーツアルトの曽祖父一家が1681年から1694年に死去するまで住んでいたそうだ。

    ・・・・・・・・・

    旅行時期
    2012年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    5.0

  • ゴスラー:皇帝居城で一番の目玉はドイツの歴史を描いた巨大な壁画52枚だ。

    投稿日 2014年12月20日

    皇帝居城 ゴスラー

    総合評価:4.5

    “北ドイツ周遊の旅”         
    期間 : 2005年4月21日(木)~5月5日(木)15日間
    1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。

    5/01 (日) 快晴、日差しの強い一日

    Goslarゴスラーはハルツ山地の西端にあり、4万6千人の世界遺産の町です。
    私はこの町の中世の雰囲気が好きで、1976年の5月1日~2日(1泊)、1983年4月4日(日帰り)の二回、Duesseldorfから凡そ片道350kmのゴスラーに遊びに来ました。

    Marktplatzマルクト広場では魔女の仮装をした女性達が中世風の屋台をやっていて、大勢の観光客や市民がビールを飲みながら、テューリンガー風ソーセージを美味そうに食べ、市庁舎前に作られたステージを見ている。
    パン屋、肉屋、矢場もあり、人物像を描く絵描さんが子供の顔を上手に画いている。金銀細工品、皮細工や手芸品も魔女が売っている。日本の縁日のように、いろいろと見て廻るのは楽しい。

    町の看板にあるポスターを見ると、なんと嬉しい事に28日から5月1日の4日間“Walpurgisヴァルプルギスの祭り”をやっているようだ。

    広場の人ごみを抜けて、市庁舎横のHohe Weg通りをまず皇帝の居城Kaiserpfalzに向かう。日差しも強くなり、汗をかきながら、Kaiserbleek通りに入ると、緑の斜面を前にして、威厳を見せて、皇帝の居城が立っている。ドイツに現存する宮殿様式の建物の中では最も大きな規模(19世紀に再建)だとのこと。

    カイザーファルツの前には、ドイツ人に最も人気の高い、Friedrich I Barbarossaバルバロッサ赤髭王【12世紀】、Wilhelm der Grosseドイツ皇帝ヴィルヘルム一世【1871年帝国の成立】の二つの騎馬像が立って、ゴスラーの町を見下ろしている。

    10時からのガイド付きの20名ほどのグループに入って、説明を受けながら、見て廻る。

    二階の“帝国の間”には、一番の見物と言えるドイツの歴史を描いた巨大な壁画52枚がある。フランク王国のカール大帝から、ドイツ統一の皇帝ヴィルヘルム一世までの歴史を描き、其のテーマは“ドイツの復活”だそうです。

    先日、ゲルマンの聖地エクステルシュタイネで、“イルミンの柱”
    (旅行記参照---『8世紀中頃、キリスト教を信仰するカール大帝に、超自然現象や大木を、土着の神として信仰するゲルマンの一部族のザクセン族が、キリスト教への改宗に反抗しました。長い抵抗の後、803年にザクセン族は大帝の治下に入りますが、この時、カール大帝はザクセン族の信仰のシンボルであるイルミンの柱を切り倒したと伝えられている。』)
    を見ましたが、この居城の巨大な壁画の一場面に、“柱の先端が、二本の角をもつ人間の顔をしたイルミンの柱”が描かれています。
    カール大帝が、そのイルミンの柱を切り倒した図になっている。
    まさに、古代神の滅亡です。

    100年の眠りから覚める“いばら姫”の絵もある。テーマがテーマだけに、ガイドさんも丁寧だが、力が入る説明をするはずです。

    XXX
    真っ青の空のもと、町の名前の基になったGoseゴーセ川の流れでLohmuehle水車が廻り、川沿いの石畳の道や木組みの家々の家並み、それらが木々の緑と一体となって、1000年の古都ゴスラーの魅力となっている。
    ハルツにも、ようやく春が到来です。


     

    旅行時期
    2005年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.5

  • セピア色の思い出:英雄ジャンヌ・ダルクが王太子シャルルの居城ロシュ城で謁見し、仏王即位を決意させたと云う。

    投稿日 2021年05月15日

    ロシュ城 ロワールの古城周辺

    総合評価:4.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でデュッセルドルフからフランスに小旅行をした。
    (総走行距離1,781km)

    ②1984年4月21日(土) 晴、678km
    ショーモンテル城を出発。=>(パリ)=>A10・ A11 132 km Chartresシャルトル=>N154 77 km (Orleansオルレアン)=>A10 104 km (Amboiseアンボワーズ城)=>D58・D943 41 km Lochesロシュ城=>D80 37 km Chenonceauシュノンソー城=>D764 52 km Bloisブロア=>(Orleansオルレアン)=>(パリ)=>A10 235 km古城ホテル ショーモンテル城

    シャルトルから凡そ220kmを走る。

    <Lochesロシュ城>
    ロシュ城は岩山のせり出した先端に築城された中世(12世紀)の城である。
    フランス的というか、優雅なロワールの古城群に比べ、無骨な印象を与える城であるが、中世を通じて常に戦略的に重要な地位を占めた。

    シャルル7世(フランス・ヴァロワ朝の第5代国王(在位:1422年~1461年)の即位前の居城であったことで知られている。

    1429年、オルレアンを解放したJeanne d'Arcジャンヌ・ダルクは王太子シャルルが居城としていたロシュ城に駆けつけ、王位継承を戸惑っていた王太子シャルルに即位を決意させたという有名な歴史上の出来事がある。
    この謁見の行われた間が今も城内に残っている。

    城のテラスや砦からの眺めはかなり良さそうだったが、今日はロシュ城に城門前に佇んだだけで、本日の目玉、シュノンソー城に向かった。

    尚、1977年4月8日~11日のイースター休みで、フランス・モンサンミッシェル(1000km)やロワールの古城群、パリのジャンヌ・ダルク像も訪れた記憶がある。

    また、1978年3月24日~27日にも.フランス・イースター旅行でパリや近郊を訪ねているから、2年続けてフランスを訪れたことになる。

    ・・・・・

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0

  • セピア色の思い出:シャルトル大聖堂のバラ窓など、「シャルトルの青」の美しさは何度も訪れる魅力がある。

    投稿日 2021年05月16日

    シャルトル大聖堂 シャルトル

    総合評価:5.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でデュッセルドルフからフランスに小旅行をした。(総走行距離1,781km)

    ②1984年4月21日(土) 晴、678km
    ショーモンテル城を出発。=>(パリ)=>A10・ A11 132 km Chartresシャルトル=>N154 77 km (Orleansオルレアン)=>A10 104 km (Amboiseアンボワーズ城)=>D58・D943 41 km Lochesロシュ城=>D80 37 km Chenonceauシュノンソー城=>D764 52 km Bloisブロア=>(Orleansオルレアン)=>(パリ)=>A10 235 km古城ホテル ショーモンテル城

    ショーモンテル城を出発し、この城に戻る行程だ。アウトバーン有料計116フラン。

    <シャルトル大聖堂の「シャルトルの青」>
    1979年、大聖堂はユネスコの世界遺産に登録されたから、ちょうど5年前になる。。

    ボース大平野の町ChartresシャルトルのCathedrale Notre Dame de Chartresシャルトル大聖堂(1220年完工)は左右の塔で建築様式が異なる。
    ファサードのバラ窓や、キリストの家系図を表した側廊のステンドグラス「エッサイの根」は、「シャルトルの青」といわれる青みのあるステンドグラスで、13世紀のステンドグラスの極みとして知られる。
    この旅の目的の一つはここの「シャルトルの青」を再見することだった。

    全長: 113m
    幅: 南北32m、東西46m
    身廊: 高さ37m、幅16.4m
    176ステンドグラス窓、十字架上のキリスト像: 41の場面・200像

    ・・・・・

    1984年4月の復活祭の旅で訪れたが、ざっとアルバムを見てみたら、
    以下の年にも訪れていた。

    1975.12.24.~28.クリスマス休暇でフランス旅行、

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    コストパフォーマンス:
    4.0

  • セピア色の思い出:フランスの「ロワール渓谷」に含まれる古城の中でも、特に人気が高いシュノンソー城は美しい。

    投稿日 2021年05月05日

    シュノンソー城 ロワールの古城周辺

    総合評価:5.0

    ≪セピア色の思い出:1984年の復活祭はフランスのパリ、ロワール渓谷に小旅行≫

    「ドイツ語ではOsternオースターン、英語で Easter(イースター)」は「復活祭」の事だ。

    デュッセルドルフに駐在していた頃は、「復活祭」の休みを利用して3泊4日の小旅行に出かけた。国内旅行もあったが、時には国外に車を走らせた。

    さて、1984年は復活祭の休みが4月20日(金)~23日(月)だったので、40歳の私共は、この3泊4日の予定でフランスに小旅行をした。
    (総走行距離1,781km)

    パリの北、約25kmの近距離にある、人口2300人と云う小さな村に古城ホテルがあり、以前から泊まってみたい気持ちがあった。古城ホテルは全20室と小規模なもので、4ヘクタールの広い、美しい庭園があった。
    【Chateau de Chaumontelショーモンテル城】
    1984年4月20日(金)~22日(日)2泊朝・夕食込み、
    (宿泊料などはFRF仏フラン1,435@2.88=DM498、凡そ5万円でした)
    ショーモンテル城(別名Herrenhaus von Preslayプレスレイの館とも呼ぶ)。
    城を囲む水堀や池、橋、ロマンチックな庭園に囲まれた古城は現在、ホテルとレストランとなっている。

    この古城ホテルを起点にして、パリ市内やロワールの古城巡りをした。

    ②1984年4月21日(土) 晴、678km
    ショーモンテル城を出発。=>(パリ)=>A10・ A11 132 km Chartresシャルトル=>N154 77 km (Orleansオルレアン)=>A10 104 km (Amboiseアンボワーズ城)=>D58・D943 41 km Lochesロッシュ城=>D80 37 km Chenonceauシュノンソー城=>D764 52 km Bloisブロア=>(Orleansオルレアン)=>(パリ)=>A10 235 kmショーモンテル城

    <シュノンソー城と美しい庭園>入場券48フラン、蝋人形館16フラン。

    今回の旅行の目玉はロワール渓谷にあるChateau de Chenonceauシュノンソー城である。
    長いニレの並木道が続き、アイスクリームを食べながら歩いて行くと、見覚えのある美しい城と庭園が見えてきた。白壁の汚れを目下改装中のようだ。

    Chateau de Chenonceauシュノンソー城の縄張り図から見ると、

    ①オランジェリー、
    ②管理棟(蝋人形館15体のみ)、
    ③16世紀に建てられた入り口の管財人の家、その下にディアーヌの庭、
    ④マルクの塔、左手にカトリーヌの庭、
    ⑤シュノンソー城:衛兵室、礼拝堂、ディアーヌ・ド・ポワチエの寝室、王妃の緑の書斎、王妃の図書室、
    ⑥ギャラリー:長さ60m、幅6m、採光窓18、床にはスレートと石灰岩タイルが張られ、天井は横梁が剥き出しになっている。演舞場、台所、
    その他、フランソワ1世の寝室、ルイ14世の居室、5人の王妃の寝室、カトリーヌ・ド・メディシスの寝室などがある。

    シュノンソー城はシェール川の古い製粉所跡に建てられたもので、歴史の文献に最初に登場したのは11世紀のことである。城館としては13世紀頃から記録がある。
    周辺の豊かな緑に囲まれ、美しい城は世界遺産「シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌ間のVal de Loireロワール渓谷」に含まれる古城の中でも特に人気が高い。

    シェール川が流れる川上に築城されたシュノンソー城はフランスの中でも独特の城館であり、また、付随したディアーヌの庭(Henri IIアンリ2世・ヴァロワ朝第10代のフランス王、在位:1547年~1559年)が愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエにシュノンソー城を贈った事に因む・・・ドイツのザクセンの強王が愛妾コーゼル伯爵夫人にドレスデンのタッシェンベルク宮殿やピルニッツ城を贈った事とも通ずるものだが・・・)と、

    カトリーヌの庭(アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスが、馬上槍試合の事故で王が死すと、愛妾ディアーヌを追い出して、自ら所有した事に因む)という二つのエピソード付きの異なる庭が見られる。

    愛妾のディアーヌはシュノンソーの地を好み、アーチ型の橋を作ってシェール川の対岸までを結んだと云われ、「ディアーヌの橋」として今でも人々を魅了している。
    この橋の上に1576年に建設されたものが、現在ギャラリーと呼ばれるもので、長さは60m、床は白と黒の独特の色使いが素晴らしい、演舞場にも利用されたと云う。

    ・・・・・

    尚、1977年4月8日~11日のイースター休みで、フランス・モンサンミッシェル(1000km)やロワールの古城群、パリのジャンヌ・ダルク像も訪れた記憶がある。

    旅行時期
    1984年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5
    コストパフォーマンス:
    4.5
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

jijidarumaさん

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33国・地域渡航

12都道府県訪問

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎ82歳になりましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

最近はアジアの香港・マカオ、台湾も時に昔を思い出しつつ、また、日本の小旅行と称した旅も
最近投稿しています。
(2026.02.11.)


プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、さらにロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、戦時体制の欧州の旅は見送り続けて、2026年を迎えている。

(2026.02.11.)

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