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  • ドイツアルペンの最高峰ツークシュピッツェ(2962m)の氷河駅を出ると雪原が目の前にある。

    投稿日 2025年02月22日

    Zugspitz Platt ガルミッシュ・パルテンキルヘン

    総合評価:5.0

    【ドイツ バイエルン州;バイエルン王国の周遊】  
                      
    :アルペン街道・キーム湖・ドナウ、イザール、イン川を巡る:
    期間 : 2008年4月17日(木)~5月1日(木)15日間

    <Zugspitze ツークシュピッツェ2962m・ドイツアルペンの最高峰に登る>

    4.20(日) 大快晴 24.5℃、 109km

    朝食後、Bergのホテルをを8:35に出発。A95で80km先に向かった。9:25 Garmisch-Partenkirchenガルミッシュ・パルテンキリヒェン登山鉄道駅 ;9:45発・登山鉄道に乗車・Schneefernerhaus氷河駅(2645m)に11:00到着。氷河・教会・五月柱。氷河ロープウエイで頂上に向かう。11:30発。Zugspitze2962m・ドイツ最高峰に11:35着;展望・頂上はドイツ・オーストリアの国境になっている。

    ガルミッシュ・パルテンキリヒェン駅近くの駐車場に車を停めた。
    登山鉄道駅は出発点であり、終着点でもある。海抜720mの駅のプラットフォームからも、天気が良いので目的のZugspitze 2962mが右手に、Alpspitze2628mが左手に、二つの真っ白な頂を見ることができた。 (鉄道・ケーブル往復の一日乗車賃はEuro 69=11530円)

    ドイツ二度目の駐在では、初めての夏の休暇(1982年8月6日から16日の11日間)を、南ドイツからオーストリアのInnsbruck、リヒテンシュタイン公国まで足をのばした。総走行距離は2400kmだったが、38歳(私共の長女の今の年齢と同じだ!)と若かったので、疲れも感じず、楽しい休暇となった。あれから26年である。Garmisch-Partenkirchen (Hotel Zugspitz)には三泊し、Zugspitzeに8月11日に登りました。天気は晴れ、やや雲ありでした。面白いことにZugspitzeの高さは2966mと記録されています。あれから26年で4mも低くなった計算ですが---?!  そして電車賃も半額の5000円でした。

    9:45発・登山鉄道に乗車する。途中のGrainauグライナウまでは電車も普通の走りで、山裾を縫うように走る。右手に広々と平原が開け、所々に冬場の飼料小屋?が建っている。遠くに見える山はKramer山1982m。その裾野に小さな町々の赤い屋根の家並みが見える。Grainauでアプト式の電車に乗り換える。海抜973mにEibseeアイプ湖があり、そこの駅からさらにお客さんが乗ってきて、満席になってきた。

    Zugspitzeツークシュピッツェ周辺はいまだ冬のようで、乗り込む人たちもスキー客、スケートボード客であり、電車の外面にはスキーの杖を上手くはさんで運ぶ装置があり、さすがなもの。Eibseeアイプ湖から急斜面になり、もう雪景色の中を電車は登っていく。Grosser Waxenstein2278mの岩山を横目に見て、Riffelriss波上の起伏の裂け目1680mでトンネルに入る。山塊をくりぬいた長いトンネルで、途中の2050m付近で降りてきた電車とすれちがった。 Schneefernerhaus氷河駅(2645m)は終着点である。氷河駅には11:00に到着した。ちょうど75分をかけて登ってきたわけだ。

    さすがに寒い。氷河駅から外に出てみると真っ青な空があった。真っ白な氷河や雪原の先のスロープにはドイツで最も高い所に建っているチャペルがある。このチャペルはMaria Himmelfahrtマリア昇天という名前だそうだ。そこまではとても遠く、歩いて行けないが。雪原はスキーやスノーボートに興じる老若男女でにぎわい、26年前にはなかった、柱に白と青とで彩色したバイエルンの五月柱が雪原に高々と立っている。
    とてもいい感じだ!!レストラン前のテラスでは日光浴の人たちがのんびりしている。26年前にもこんな光景をみて、羨んだことを思い出した。

    さて、まだここは頂上ではない。まだ317mも上の頂がある。雪原より相当高い所にケーブルが張られて、高所恐怖症の私にはロープウエイは見るからにこわい。ここまで来て、帰るわけにもいかず、Gipfelseilbahn氷河ロープウエイで頂上に向かう。11:30発のゴンドラに乗りこむと、あっという間に人々でいっぱいになる。中にはシェパードの大型犬を連れた人もいた。Zugspitze2962m・ドイツ最高峰には11:35にあっという間に?!到着です。ずっと近づく展望台駅のみを見て、できるだけ下を見ないで乗っていたが---。

    電光表示板に外の温度が表示されていたが、ここはマイナス4℃だ。
    展望台に出てみると雪も積り、滑りやすい。雪を頂く四方の山々の眺めは絶景である。ここから160km先まで見えるという。
    頂上はドイツ・オーストリアの国境になっている。26年前は旅の記念にと、わざわざこの国境を、パスポートを提示して行き来したものだが。国境事務所には人影もなく、今は自由なのでしょう。
    面白いことにオーストリア国ではなく、Land Tirolチロル州の看板であり、かたやドイツ連邦ではなく、Freistaat Bayernバイエルン自由州であることだ。

    展望台からEibseeアイプ湖を真下にのぞくと、左右に広がった湖の色が神秘的な青さを見せていた。展望台から少しはずれた高台に金色の十字架が雪の中に立っている。ここが実際の2962m頂上だ。夏場にはここまで行けるのだろうが、今はまだ冬!なのだ。
    Eibseeseilbahnアイプ湖ロープウエイに乗ってこの展望台から、まっすぐ下のアイプ湖まで、降りることもできる。26年前は帰路にこれを利用した。2962mから973mまでを一気に下りていくのもなかなかのものだが、今回は遠慮?し、12:05 発の氷河ロープウエイを使って氷河駅に戻った。
    レストランで昼食を食べ、氷河駅を13:30発で下山する。終点の登山鉄道駅には14:45に到着した。

    まだ、日も高いので、冬季オリンピック開催地の町Garmisch-Partenkirchen(海抜708m、人口は28千人)を観光することとした。(15:00~50)

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    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    半日
    景観:
    5.0

  • バイロイト:当時、祝祭劇場前も殆ど人の姿を見なかった。

    投稿日 2025年02月20日

    バイロイト祝祭劇場 バイロイト

    総合評価:4.0

    【ドイツの団子(だんご)、”クネーデル”料理を食べましたか?】

    1977.06.18.~19.ニュルンベルク近郊の町Schwabachシュヴァーバッハの一地区、Schwanstetten‐Mittelhembaシュヴァンシュテッテン・ミッテルヘムバッハという小さな田舎を訪れたのだった。
    この時は前半の16日から17日フランケン地方のバンベルクや、バイロイトを巡り、18日ニュルンベルクなどを巡った。

    写真はフランケンの旅:左上から時計回りで、バイロイトの歌劇場前(祝祭劇場前も殆ど人の姿を見なかった)で、バイロイトの新宮殿前で、バンベルクの旧市庁舎をバックに、バイロイトのHofgarten、バイロイトの新宮殿の噴水。

    ・・・・・

    【ドイツ16年ぶりの旅】
    2001年5月9日(水)  快晴  264km

    午後1時マイセンを出発。次の目的地は古城街道の町々だ。B101・A4来た道を戻る感じで、Nossen・Cheminitzと走る。ここで給油(90DM)。更にA72に入り、Hofを目指して南下する。ホフ近郊でPotsdamポツダムから南下してくるA9に合流し、一気にBayreuthバイロイトの町に入った。16:30着。マイセンから264kmの行程である。

    <Bayreuthバイロイト>
    (16:30~17:10)

    市庁舎近くに駐車して、足早に城、新宮殿を見て回った。
    Bayreuthは人口7万人の小都市だが、ドイツ南東部・フランケン地方北部の中心都市になる。18世紀にいたるまでは地方の城下町でしかなかったが、ここの領主Brandenburg- Bayreuthブランデンブルグ・バイロイト辺境伯にプロイセン王フリードリヒ大王の姉・ヴィルヘルミーネが嫁いでくると、この宮廷はヨーロッパの文人・芸術家の集まるサロンとなり、ヨーロッパ文化の中心に変わったと云う。

    1876年にワーグナーが設計したRichard-Wagner-Festspielhaus祝典歌劇場は世界でも最高の劇場と言われ、夏の音楽シーズンにここでバイロイト祝祭音楽祭が開かれる。
    ワーグナー博物館もあり、ワーグナーファンの聖地と称される町である。

    近郊にあるホテルへの道を心配していたが、意外に分かり易く、草原の先にホテルの姿を見出した。
    古城ホテルHotel Jagtschloss Thiergartenには17:40に到着した。

    <(1泊)Hotel Jagtschloss Thiergarten古城ホテル(狩猟の館) ティーアガルテン>
    D-95448 Bayreuth 、Oberthiergartenstr. 36

    11号室・皇帝の間 、 325DM  全8室・4星 、

    バイロイトの近郊・南5kmの狩猟の森に、18世紀初頭、ブランデンブルグ・バイロイト辺境伯ゲオルグ・ヴィルヘルムにより築城された。彼の死後は様々な変遷をたどり、最後には農家の納屋や倉庫に落ちぶれたそうだ。
    大改装の後、1922年からホテル・レストランとして創業される。第二次大戦後は米軍により接収されたりしたが、1982年にはホテルが再開された。ワーグナーファンの聖地と称される、バイロイト祝祭音楽祭が開かれる夏の音楽シーズンには世界からこれを目当てに町を訪れるため、この時期のホテルは世界の名士の迎賓館となるのだという。 

    私共の部屋・恐れ多くも“Kaiserzimmer皇帝の間”と称する11号室は二階の中ほどにありました。中央にベッドが置かれ、上には真っ白な天蓋があり、寝る時には天蓋のカーテンを下ろし、カーテンに囲まれて就寝することになりました。
    初めての体験です。窓辺からはホテルのテラスレストランが見下ろすことができ、前に広がる庭園や大きな菩提樹などの木々を見ることができました。多分、ホテル1番の部屋でしょう。この小さな古城ホテルはレストラン”Petit Chateau小さな城” を含め、価値のあるホテルでした。


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    旅行時期
    2001年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • あきる野市:伊達の萩寺と称する大悲願寺で森田五水の天井絵(天女の絵)を楽しむ。

    投稿日 2025年02月17日

    大悲願寺 あきる野・秋川渓谷

    総合評価:5.0

    70歳になった時、母の遺品を調べる気になった。その中に一葉の写真があった。生前の父母からは全く聞き及んでいなかったので、どういった方か、生来の歴史好きもあって、興味を持ち調べてみたのでした。
    写真は父の大叔父にあたる井上宗助(森田家第16代秋之助の次男)という方で、旧制東京府立第八高女(現都立八潮高等学校)や東京府立第五中学校(現都立小石川高校)のいずれも第三代校長を務めた教育者(校歌の作詞家)であった。我が家は父方も母方も辿れば、祖父の代から教育者が多い。
    大叔父とそのご先祖森田将監祥昌(甲斐武田家の旧臣)、森田五水(森田家第14代、狩野派画家)を親族の語り部のいる間に調べようと、やってみると際限なく広がって行き、いろいろと興味深いものだった。
    70歳で一念発起したわけだが、纏めたものを中里介山(大菩薩峠:だいぼさつとうげの作者)の姪を母に持つ大学時代の友人が長く主宰してきた同人誌(年1回発行)に6年間(№27~32号)投稿させてもらった。

    【伊達の萩寺と称する大悲願寺で森田五水の天井絵(天女の絵)を楽しむ】

    あきる野市の大悲願寺は伊達政宗の白萩の謂れもあり、通称は「萩寺」とも呼ばれる。山門である仁王門に天井画(森田五水)の天女の絵が見られる。

    東京都あきる野市(旧西多摩郡五日市町)にある真言宗豊山派の大悲願寺は、山号は金色山、院号は吉祥院である。本尊は私共の守護仏である大日如来である。
    大悲願寺の通称は「萩寺」と云う。

    大悲願寺は建久2年(1191年)に源頼朝の命により、京都醍醐寺澄秀僧正を開山として、源平合戦で名を馳せた武将、平山季重(ヒラヤマスエシゲ)が建てたと云われています。
    大悲願寺は正平9年(1354年)には鎌倉公坊足利基氏、氏満より寺領二十石を賜り、最盛期は末寺三十二ヶ寺(常福寺は森田家の菩提寺で先祖の森田将監祥昌が建てた寺だが豊山派であり、大悲願寺の末寺になっていたと思われる)を有し、明治維新まで受け継がれた。大悲願寺は真言宗豊山派の有力な地域本寺で、「檀林(だんりん)」と言い、所謂僧侶たちの学校でもあった。

    大悲願寺の十五世秀雄は伊達政宗の舎弟と云われ、その縁で当山を訪れた政宗は境内一面に咲く白萩に心を引かれ、後日一株所望した書簡(都文化財)が現存している。現在も九月にはその白萩が境内一面花を咲かせている。

    1794年に観音堂を建立。1824年から27年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から42年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に追加したことがわかっている。
    1951年に観音堂を改修し、屋根を茅葺きから本瓦葺きに変更。
    1978年に本堂が東京都有形文化財、1995年に観音堂が五日市町の有形文化財指定を受ける。
    2005年から2007年にかけて観音堂を半解体修理。屋根を銅板葺きに変更している。

    阿弥陀如来像や仁王門天井絵(幕末期に狩野派画家として門弟数百人を擁したという森田五水の作)、伊達政宗からの白萩所望状など、優れた文化財を数多く所蔵しており、特に、木造の伝阿弥陀三尊像は、国の重要文化財に指定されている。

    <市指定有形文化財:仁王門 天井絵(てんじょうえ)>
    この仁王門は安政六年(1859年)再建されたが、天井絵の作成も同年である。
    中央通路の格天井(こうてんじょう)は大日如来の梵字(ぼんじ)を囲んで草木の花が描かれている。一隅に「狩野養信(おさのぶ)門人藤原善信(よしのぶ)」の銘があるが、彼は現五日市小庄の人、郷土の画家である。

    また仁王像の天井には右天女、左迦陵頻伽(かりょうびんが)(極樂の鳥)が描かれている。作者は現日の出町平井千石の人*森田五水(ごすい)。彼は幕末期狩野派画家として、多摩地域に盛名があった。
    北側袖天井の雲竜図も五水の手になり、見事な筆勢である。
     昭和59年11月25日指定
       あきる野市教育委員会

    *平井の常福寺(森田家の菩提寺)に並んで建つ春日神社(日の出町平井3690)に筆塚(顕彰碑)まで建てられた法眼(ほうげん)森田五水(1791年~1874年)は、幕末期に狩野派画家として門弟数百人を擁したという。
    幼名を民次郎、諱を守順といい、僊谷堂五水とも称した。

    尚、母の一番下の妹が伊奈村の世襲名主であった石川本家に嫁いでいるが、大悲願寺は石川家累代の菩提寺である。石川本家は大悲願寺の80軒くらいあった檀家の頭で、檀頭と呼ばれた。大悲願寺の檀頭は6人のみで、檀頭の纏め役が石川本家で、非常に名誉ある地位にいたと云う。寺の建築の事などで相談があれば檀頭にし、寺に対する村人からの文句などがある時は檀頭を通して行ったそうだ。

    正月には大悲願寺住職は行列を作って檀頭の家へ年賀に行き、一般の村人は路傍に立ってその行列を拝んだと云う。
    寺には両墓制といって、遺体の投げ込み墓と檀頭の墓と住職の墓しかなかったと云う。昔の寺は皆そんなもので、要するに寺は創建者のものなのです。
    大悲願寺の山際の一番高い場所に檀頭の墓があり、石川本家の墓所は大悲願寺の累代住職の墓石隣りにあった。

    昔の寺というものは、豪族が地域支配をする時の拠点であり、同時に自分の一族の墓所も設けている。戦国時代の永禄年間(1558~70年)に森田将監祥昌が開基したといわれる常福寺(森田家の菩提寺)も同様趣旨で創建されたのだろう。

    参考引用:
    『大悲願寺と五日市の中世』石井道郎(イシイ ミチオ)
    1921年生まれ~・九州大学経済学部卒。都立五日市高校教師を経て五日市町立郷土館勤務、郷土史研究家。

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    追記(最近、旅猫さんの「八王子千人同心」の旅行記にコメントしたことがあって、これに影響されて、以下を追記し、写真も投稿した):

    森田五水作の八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画と、幕末の新選組近藤勇で有名になった天然理心流だが、その天然理心流師範であった増田蔵六肖像画は平成21年12月6日付けで八王子市の指定文化財(歴史資料)になっている。


    <天然理心流師範増田蔵六肖像画>

    天明6年(1786年)、八王子千人同心の武州多摩郡戸吹村坂本右衛門信明の子として生まれる。
    はじめは専藏と称していた。文化2年(1805年)20歳のときに、天然理心流の二代目近藤三助方昌に入門した。三助の亡き後、初代近藤内蔵之助の高弟小幡万兵衛から三術(剣術、柔術、棒術)の指南免許を受け、多くの門弟を指南した。天然理心流の実質的な継承者である。
    その後、同村の三沢家の養子となって三沢藏六と改称した。文政8年(1825年)40歳で八王子千人同心増田磯蔵の養子となり、邸内に道場を設けた。
    八王子千人同心窪田組の組頭でもある。
    明治4年(1871年)11月19日、86歳の生涯を終えた。
       
    朱塗りの長机を背にして、羽織袴に小刀を差し、脇差を左側に置いて、斜め左向き正座する姿を描いたのである。机上には、筆立てに差した2本の筆と、硯、巻物が置かれ、手前には短冊と筆が置かれている。剣術家として知られる蔵六の文人としての教養も見ることができる。やや老齢の気品にあふれ、落ち着いた表情に、藏六の人柄を見事にとらえた作品といえよう。八王子の剣術に関する歴史資料として貴重である。

    落款に「七十四翁/法眼五水寫」とあり、森田五水74歳、すなわち慶応2年(1866年)の作であることがわかる。この年、増田蔵六81歳にあたることから、80歳の慶祝の寿像として製作されたものと考えられる。
    尚、肖像画は現在も増田家に残るものだと聞く。

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    <八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画>

    千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄肖像画は、森田五水が66歳、安政5年、西暦1858年の時に描いた作品で、すなわち愛之助栄攄44歳の肖像画である。

    八王子千人同心組頭三木家十一代愛之助栄攄は文化12年 (1815年) 3月20日、父茂尭の三男として誕生した。天保13年 (1842年)11月、若年寄見分の長柄調練、また弘化3年(1846年) 9月の将軍上覧のための長柄調練に参加し、いずれも手当銀を下賜されている。また、愛之助は医術の心得があり、戸吹の自宅で幕末から明治にかげて医師としても活躍した。
    慶応4年(1868年)2月に隠居し、明治35年 (1902年) 4月28日に87歳で没した。

    この肖像画は、千人同心組頭を代々務めてきた三木家に伝えられたもので、九代幸光、妻津弥、十代茂尭、妻屋與、十一代栄攄の三代5名のものである。
    5名もの肖像画が残されていることは他に例がなく、夫人像が2点も含まれていることは珍しい。幕末期の千人同心組頭クラスの生活の様子を知る上で
    貴重な歴史資料である。

    (八王子市文化財年報第4号  2011.01.19.八王子市教育委員会)

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    旅行時期
    2010年05月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)

  • ゴスラーのドーム フォアハレ(大聖堂入口の間の意味)は皇帝居城を守る門番の如く在る。

    投稿日 2025年02月14日

    ドーム フォアハレ ゴスラー

    総合評価:4.0

    Goslarゴスラーはハルツ山地の西端にあり、4万6千人の世界遺産の町です。
    私はこの町の中世の雰囲気が好きで、1976年の5月1日~2日(1泊)、1983年4月4日(ベルリンからの帰途、立ち寄り)の二回、Düsseldorfから凡そ片道350kmのゴスラーに遊びに来ました。
    その後2005年4月30日の魔女の祭にも訪れている。

    市庁舎横のHohe Wegホーエ通りをまず皇帝の居城Kaiserpfalzカイザーファルツに向かうと、Domvorhalleドーム フォアハレ(11世紀にハインリヒ三世によって建てられた大聖堂は1820年に老朽化のため取り壊され、北扉口の張出部分だけが残され保存されている。「大聖堂入口の間」という意味の建物)という小さなお堂が立っている。
    いまはドーム フォアハレは皇帝居城を守る門番の如く在る。


    皇帝居城は11世紀にハインリヒ三世によって建てられました。 
    しかし、現在の建物は1868年から1879年にかけて復元されたものです。

    カイザーファルツの前には、ドイツ人に最も人気の高い、Friedrich I Barbarossaフリードリヒ一世像・バルバロッサ赤髭王【12世紀】、Wilhelm der Grosseドイツ皇帝ヴィルヘルム一世【1871年帝国の成立】の二つの騎馬像が立って、ゴスラーの町を見下ろしている。

    ゴスラーの町の名前の基になったGoseゴーセ川の流れでLohmühle水車が廻り、川沿いの石畳の道や木組みの家々の家並み、それらが木々の緑と一体となって、1000年の古都ゴスラーの魅力となっている。
    ハルツにも、ようやく春が到来です。

    ・・・・・

    旅行時期
    1983年04月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • 中世以来の歴史あるフリッツラーはカッセルから25km南、木組み建築の家並みが美しい町である。

    投稿日 2025年02月13日

    観光案内所(フリッツラー) カッセル

    総合評価:5.0

    【中世以来の歴史あるFritzlarフリッツラーはカッセルから25km南、木組み建築の家並みが美しい町である。】

    2013年10月15日(火);218km 、曇り時々シャワー、10~12.5℃と寒い。

    フリッツラーは中世の神聖ローマ帝国(919年の帝国会議でハインリヒ1世がドイツ王に選出された)の起点となった聖堂と皇帝の町(人口14千人)である。
    元々は「平和の町」を意味する Friedeslarフリーデスラー に由来すると云う。

    旧市街は全長 2.5 km、高さ 7.5 m から 10 m、厚さ平均 3 m の市壁で囲まれていて、各所に塔が立っている。その中心にマルクト広場があり、中世の街作りの形が今でも良く分かるのだ。
    唯、18世紀以降その 2/3 が取り壊された。現存するのはフラウエン塔、グラウアー塔、グレーベン塔、ローゼン塔、ヨルダン塔、レーギル塔、アム・バート塔、ブライヒェン塔、カンツェル塔、ヴィンター塔の10塔である。  

    ローランドの泉とマルクト広場:
    マルクト広場は特に木組みの家並みが美しい。中でも中央にこの町一番と云われる木組み建築の家、切妻塔付きの“Alte Kaufhausアルテ・カウフハウス”が見事である。1480年に建てられたMichelミヒャエル兄弟会のギルドハウスである。

    大聖堂に向かう道にHochzeitshaus結婚式の家(郷土博物館)、1415年建築の町最古の家で傾いた“Spitzenhaeuschenとがった家”(観光局)などが見られる。

    また、聖ボニファティウスはドイツでのキリスト教の伝道にあたり、723年、Donareicheドナーアイヒェ(ゲルマン族の神木である樫の木)を切り倒し、キリスト教の神の優越性を示したと云う。

    最初の礼拝堂に始まり、現在のSt. Peter Dom聖ペーター教会(1085年頃から1118年)、ロマネスク・ゴシック様式の教区教会である大聖堂建設はこの町の歴史に極めて重要な役割を演じた。聖堂広場に彼の樫の木を切り倒す像が象徴的に立っている。

    ・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2013年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • デュッセルドルフ:プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム2世の治世と騎馬像

    投稿日 2019年06月23日

    ヨハン ヴィルヘルム2世(通称ヤン ヴェレム)の騎馬像 デュッセルドルフ

    総合評価:4.0

    <デュッセルドルフ:プファルツ選帝候ヨハン・ヴィルヘルム2世の治世と騎馬像>

    2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅
    2016年10月14日(金)~10月28日(金)15日間
    デュッセルドルフの旧市街を訪れると、飲み屋街近くにマルクト広場があり、ルネサンス様式のRathaus市庁舎(1570年)、7選帝侯の一人であったKurfuerst von der Pfalzプファルツ選帝候Johann WilhelmIIヨハン・ヴィルヘルム2世 (通称JanWellemヤン・ヴェレム)の騎馬像が絵になる形で立っている。

    デュッセルドルフ市民に大変人気のあるプファルツ選帝候Johann WilhelmIIヨハン・ヴィルヘルム2世(1658年~1716年)だが、彼の治世(1690年~1716年)のもと、デュッセルドルフの発展は目覚ましいものでした。
    とりわけ北イタリア・トスカーナ大公メディチ家・コジモ3世の娘Anna Maria Luisa de'Mediciアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチと結婚した影響で、個人的に集めた絵画や彫刻などのコレクションを始め、その美術品を収めるための巨大な美術館をデュッセルドルフ城内に建てた。
    (尚、今はMuseum Kunstpalastクンストパラスト美術館(D-40479 Duesseldorf 、Ehrenhof 4-5)に、このコレクションがあると云う)
    またオペラハウスの設立や街灯の設置、新聞の定期発行など、様々な発展に貢献し、その功績を称えてヨハン・ヴィルヘルム2世の騎馬像が建てられたと云う。

    デュッセルドルフとプファルツ選帝候の関係は、
    1609年にVereinigte Herzogtuemer Juelich-Kleve-Berg ユーリヒ・クレーフェ・ベルク公国(神聖ローマ帝国の北西部の諸邦・公爵領、伯爵領の連合体として成立した)の最後の公爵ヨハン・ヴィルヘルム(1562~1609年)が死去した事に始まる。
    この死去後にプファルツ継承戦争が続き、ユーリヒとベルクはヴィッテルスバッハ家のHerzog von Pfalz-Neuburg プファルツ・ノイブルク公に渡った。
    デュッセルドルフ城はその居城となり、1685年にはプファルツ・ノイブルク公Philipp Wilhelm フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位も獲得している。
    1690年、フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯位継承戦争(1688~1697年)のさなかに死去した為、その長子ヨハン・ヴィルヘルム2世がプファルツ選帝侯となる。

    さらに、1716年、子供がないままヨハン・ヴィルヘルム2世が死去すると、弟のKarl III. Philippカール3世フィリップが選帝侯位を継承した。
    カール3世はプファルツ選帝侯の宮廷を、13世紀から500年プファルツ選帝侯領の首都にしていたにHeidelbergハイデルベルクに戻したので、デュッセルドルフの繁栄は徐々にかげりを見せ始めることになった。
    カール3世フィリップの居城、ハイデルベルク城がフランス軍の攻撃で廃城となり、1720年、ハイデルベルクからMannheimマンハイムにその宮廷を移している。

    ・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間

  • イトシュタインはナッサウ家の宮廷都市で、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。

    投稿日 2025年02月12日

    イトシュタイン旧市街(Idsteiner Altstadt) ヘッセン州

    総合評価:4.5

    1983年7月9日(土)~10日(日)にIdsteinイトシュタインに1泊し、フランクフルト、ライン下りの小旅行をしました。

    イトシュタインは最初の文献記録(1102年に Etichensteinエチシェンシュタイン という表記で初めて文献に記録された)から1721年までGraf von Nassau-Idsteinナッサウ・イトシュタイン伯爵および他のナッサウ家の宮廷都市であったと云うから、小さな町とはいえ馬鹿に出来ない町なのだ。

    イトシュタインはSchloss城=イトシュタイン宮殿、旧市街の木組み建築の美しい町並み、König Adolf Platzケーニヒ・アドルフ・プラッツに面して白い(現在はオレンジ色のようだが)Rathaus庁舎、Killingerhausキリンガーハウス(1615年)、独特“傾いた家”のSchiefes Hausがシーフェス・ハウスがある。その他にHexenturm魔女の塔、Torbogenアーチ付きの楼門などが目立った。

    さて、特筆すべきはナチスの「T4(テーフィア)作戦」の話が残っていたことで、イトシュタインの町の歴史には「魔女狩りの犠牲者」の話以上に、恐ろしい話でした。

    T4作戦とは1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた毒ガスによる「強制的な安楽死」政策である。
    T4作戦で使われた障害者殺害の手法は、そのままユダヤ人の絶滅計画( die Endlösung der Judenfrageユダヤ人問題の最終的解決、1942年)にも応用されたので、事実上Holocaustホロコースト(大量虐殺)のモデルケースとなった。

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    旅行時期
    1983年07月
    利用した際の同行者
    家族旅行
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ドイツで最も美しいケーニヒス湖に、お椀をかぶせたような赤い屋根の聖バルトロメー僧院が彩を添えている。

    投稿日 2025年02月06日

    聖バルトロメー僧院 その他の都市

    総合評価:5.0

    ≪Königsseeケーニヒス湖(王の湖)巡り(2008年4月26日≫

    ドイツで最も美しいと称されるケーニヒス湖は太古に氷河が岩山を削り取り、その跡にできた湖である。あくまで青く、実に神秘的な湖で、周囲の山々の景観と共に大変美しい。湖の遊覧(船は電気式)はトランペットの吹奏があり、Watzmannヴァッツマン(2713m)東壁の景観美を楽しんで、40分で St. Bartholomä 聖バルトロメー僧院に至る。更に20分でOberseeオーバーゼー(上の湖)に行くこともできる。

    Jennerイエナー(1874m)とWatzmannヴァッツマン(2713m)に囲まれた峡谷・Fjordフィヨルドの長さは凡そ8km、幅1.25km。平均の深さ150m、最深200mと云う。海抜は620mに位置する。
    この湖はBerchtesgadenベルヒテスガーデン国立公園に属し、国立公園の面積は210平方kmに及ぶ。Kehlsteinケールシュタイン(1834m、ヒットラーの鷲の巣山荘・5月から10月の間、開業)や、Jennerイエナー(1874m)の山頂からの眺望は見事なものと云われる。

    ドイツ駐在(第一回目)の1979年8月29日夏の休暇旅行以来の訪問となる。

    <St. Bartholomä 聖バルトロメー僧院>
    9:50発のWatzmannヴァッツマン号に乗船して、聖バルトロメー僧院に向かう。往復料金はEuro 23.6だ。湖を就航する18隻すべての船は1909年から電気式で湖面を静かにゆるやかに走り、水を汚さない。
    ヴァッツマン東壁の景観美を楽しんでいると、お椀をかぶせたような赤い屋根の聖バルトロメー僧院が前方にはっきりと見えてきた。美しい王の湖に赤い屋根の聖バルトロメー僧院が彩を添えている。
    片道35分で聖バルトロメー僧院に着いた。教会でミサが執り行われていた。皆につられて入った教会の席に座って、しばし難しい説話を聞いた。(10:25~40)

    聖バルトロメー僧院は1134年に創立された。現在のバロック様式の教会や付属設備などは17世紀のもの。その後、バイエルン王が“狩猟の館”として使用したと云う。
    僧院からさらに先にも船は行く。奥まった所にはOberseeオーバーゼー(上の湖)があるが、通常の観光客は僧院までの往復を選ぶ。

    聖バルトロメー僧院の後背には文字通りと云える「Steinernes Meerシュタイネルネス メアー(石の海)」と称する2000m級の高い山並みが続き、ドイツ・オーストリアの国境線がある。
    湖畔の周辺を眺めながら、水辺を散策してみる。透明度の高い湖を小さな鴨が泳いでいた。ホテルの朝食時に残ったパンを持参していたので、二人でパンをちぎって与えた。

    11:50発のHochkarterホッホカルター号に乗船して、12:25に元の船着き場に戻った。

    ・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

  • 保養地バート・ライヘンハルには歴史的な、美しいザリーネ(製塩場)が残っている。

    投稿日 2025年02月05日

    Alte Saline その他の都市

    総合評価:5.0

    1979.07.30.&2008.04.25.ベルヒテスガーデン、保養地Bad Reichenhallバート・ライヘンハルを訪れた。 

    バート・ライヘンハルに塩水の泉が発見された後、1617年Maximilian I.マクシミリアン1世公により、後背地の森が豊かなTraunsteinトラウンシュタインに二番目のSalineザリーネ(製塩場)が建設され、町に繁栄をもたらした。
    このSalineザリーネ(製塩場)は1912年まで製造が続いたと云う。

    <2008.04.25.バート・ライヘンハル 市内観光>
    町をめぐる道路を一回りして、1979年7月以来の再訪となる市内に向かった。
    St.Johannes聖ヨハネス教会傍に駐車し、ポスト通りをマルクト広場を目指した。

    現在の町はザーラッハ川に沿って発展した保養地である。
    古来より、豊富な塩水に恵まれ、塩水を使用した呼吸器系統の病気療養地として広く知られている。
    古くはケルト人やローマ軍団の居住地であったが、中世から近年に至るまでSalineザリーネ(製塩場)の拠点として、世に知られた。

    1834年、町の3分の2を失う大火災が生じたが、その後復興し1890年にはライヘンハルからバート・ライヘンハルとなった。

    マルクト広場には新旧二つの市庁舎が建ち、壁面をフラスコ画が描かれていて、大変美しい広場だ。
    旧市庁舎は1849年建築、1924年にドイツ人に人気のカール大帝、赤髭王(Barbarossaバルバロッサ:神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の異名)、バイエルン王ルートヴィヒ1世などがフレスコ画で描かれている。

    すでに12時近くなっていて、広場を埋めた様々の店も手じまいしている。広場中央にはWittelsbacherbrunnenヴィッテルスバッハ(バイエルン王家)の泉(1905年)が高々と立っていた。

    旧市街はこの町の最も古い部分でFlorianiplatzフローリアン広場は独特の切妻壁を持ち、典型的なアルプス地方の家並みを残している。
    フローリアン広場の中央に他にあまり見かけない消防士の泉というものがあり、興味深いのは泉の中央に聖フロリアヌスの像(Florian von Lorch、304年頃没:ポーランド、リンツ、煙突掃除人と消防士、石鹸の釜炊き人などの守護聖人)が立っていた事だ。
    町の大部分を失った、1834年の大火災の記憶を留めているのだろう。
    周辺には13世紀、中世の城壁も一部残っていた。

    Alte Saline旧製塩場の中庭に入った。
    全景の写真を撮ったアルテ・ザリーネは1832年バイエルン王ルートヴィヒ1世が建設した、世界で最も美しいと言われるネオ・ロマネスク様式の製塩場である。
    塩の博物館を併設している。

    この町は保養地だけに落ち着いた、洒落た街並みが好ましいものだった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2008年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.5

  • デュッセルドルフ旧市街には歴史を語る二つの彫刻、ヴォリンゲンの戦いと勝利を祝った側転像がある。

    投稿日 2025年02月03日

    旧市街アルトシュタット デュッセルドルフ

    総合評価:5.0

    デュッセルドルフの旧市街にはその歴史を語る二つの彫刻を見ることができる。
    旧市街にお出かけの際は是非この作品を訪れて頂きたいものだ。

    A)Stadterhebungsmonumentシュタッダーヘーブングスモニュメント(デュッセルドルフが都市特権を得たことを記念するモニュメント)
    Müller-Schlösser-Gasse, 40213 Düsseldorf

    1288年に「Schlacht von Worringenヴォリンゲンの戦い」でデュッセルドルフが勝利し、都市特権を得たことを記念するブロンズ製の彫刻のことである。
    この彫刻は聖ランベルトゥス教会の近くにある。

    この彫刻は都市の設立(都市特権を得た)と、デュッセルドルフの住民とケルン大司教の間の歴史的な戦いを表しており、石と金属の作品は一種の「歴史の教訓」の表現である。
    この作品は1988年(ヴォリンゲンの戦いで勝利した700年周年記念)になって、旧市街の中に作られた。

    ・・・・

    B)Radschlägerbrunnenラートシュレーガーブルンネン(側転像と噴水)
    Burgpl. 13, 40213 Düsseldorf

    デュッセルドルフ旧市街のブルク広場の中心にあるラートシュレーガーブルンネン“側転”像と噴水はこの町の重要な歴史的シンボルでもある。
    Stadterhebungsmonumentシュタッダーヘーブングスモニュメントからライン川に向かって、18mほど離れたブルク広場にある。

    1288 年のヴェリンゲンの戦いで、デュッセルドルフの領主アドルフ フォン ベルク伯爵がケルン大司教に対して決定的な勝利を収めたことを記念するものです。
    この勝利はデュッセルドルフに都市特権を与え、市の歴史における政治的転換点となったため、非常に重要でした。


    この勝利を祝って、凱旋する兵を子供たちが“側転”をして出迎えたという故事に因んだもので、黄色くなったプラタナスの樹の下に“側転”像と噴水がある。

    ・・・・・

    旅行時期
    2016年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • ハンザ都市ロストックのラーツケラーで旬のシュパーゲル(白アスパラ)料理を楽しんだ。

    投稿日 2025年01月30日

    ノイアー マルクト広場 ロストック

    総合評価:5.0

    1982年から数えて 23年ぶりの北ドイツです。
    ドイツの誇る世界遺産の町々(ブレーメン、リューベック、ヴィスマール、ヒルデスハイム、更にクウェートリンブルグ、ゴスラー)や、ハンザ諸都市・エリカ街道(塩の道)・ハルツ山地(魔女伝説)・メルヘン街道を巡る、盛りだくさんの旅をした。

    <使用レンタカー>
    Renaut Espace R157-ディーゼル2200cc Automatic
    7人乗りのルノーのバンで、長さ4.86m、高さ1.74m、幅1.89mと、今までルノー車にも、こんな大きい車にも乗ったことが無く、どうなる事か?!!


    2005.04.24.北ドイツ周遊:一日でリューベック=>ヴィスマール=>ロストック=>シュヴェリーン=>リューベックを回遊した。

    4月24日はリューベックと1295年にハンザ同盟を結んだWismarヴィスマール、
    294km Rostockロストック、Stralsundシュトラールズントの北方三都市のうち、ヴィスマール、ロストックを訪ね、帰途7つの湖の町と称される古都Schwerinシュヴェリーンを経由して、リューベックに戻るというコースを計画した。

    この時期は、町々のマルクト広場の朝市や農家(道路際でも)の直売所で、朝一番の新鮮なSpargelシュパーゲルを買う事が出来る。
    ドイツでは"Volksgemueseフォルクスゲミューゼ(ドイツ人に最も好まれる野菜)" と呼ばれているほど、季節になると好んで食べる。
    レストランには“Die Spargelzeit ist da !!!(さー、春の旬、シュパーゲルがあるよ!!!)”といった看板が立つ。
    日本では白アスパラの缶詰めが多く、まだまだ、なじみのないものだ。また、緑のアスパラが主流で、明治の北海道開拓と共に生産が始まったと云われている。


    ・・・・・

    2005年4月24日11:30世界遺産ハンザ都市Wismarヴィスマールを発ち、B105で*ロストックに向かう。
    道路沿いには“アスパラ、卵 売ります!!”の看板が目に付く。

    12:30、Hansestadt Rostockハンザ都市ロストックに到着し、旧市街の入口となるSteintor城門のところで、左折し、旧城壁の跡を横にみて、市電の走るLange通りに駐車する。
    この世界遺産【2002年登録】のハンザ都市は800年にわたり、“北方の門”として、繁栄してきた。冷戦下においては、旧東独最大の港湾都市で、造船業が主力であったが、東西統一後は経済の不況にあえいでいるそうだ。
    日曜日の所為か、人口の割に歩いている人々も、車も少ないが、やはり不況の影響もあるのだろうか?!

    この町の過去の繁栄を象徴しているのは、ハンザ同盟圏で“北の光と讃えられた---バルト海沿岸で最古の大学(1419年創立)“のロストック大学---ヴィルヘルム・ピーク大学---があることだ。

    大学前には英雄ブルヒャー将軍の銅像がある。プロイセン軍人で、ナポレオンを破るワーテルローの戦いに功績があったという。その横のクレペリナー通りは町一番の通り、その通りを真直ぐ行くと、ノイアー・マルクト広場に至る。

    旧市街は東西1.5km、南北1kmの楕円形をしていて、その真中にノイアー・マルクトがあり、7つの小さな尖塔を持つピンク色の市庁舎を中心に、北ドイツ特有のレンガ造りの建物が立ち並び、その先に、聖マリエン教会が見える。1472年製の天文時計、1290年製の青銅洗礼盤が内部にあるそうだが、閉まっていて、残念ながら断念した。

    <昼食:Ratskeller-Arkadenラーツケラー・アーケード>
    0.3Lのビール、オレンジジュース込みで、Euro30と嬉しい安さだ。
    (13:00~14:00)

    此処では、店の前の案内板に“Die Spargelzeit ist da !!!(さー、春の旬、白アスパラがあるよ!!!)”とあるのが、目に付いた。この言葉に弱い私共は、これは食べねば、とラーツケラーに入ることにしたわけです。

    “Goldhenne(黄金のメンドリ)”---豊穣や多産を祈って、ドイツでは卵や鶏をシンボルとして飾る---という名を付けた席に座って、“小さくきざんだ鮭と白アスパラのクリームスープ、オランダ風ソースをかけ、パセリ・ジャガイモを添えた、200gのフレッシュなアスパラ(大きいのを選択すると400gと倍の量です)を食べる。いやー、なんとも美味しい春の恵みだ。


    ・・・・・   

    旅行時期
    2005年04月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    5.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0

  • ローテンブルク:ミシュラン1星Villa Mittermeier ヴィラ ミッテルマイヤー

    投稿日 2025年01月30日

    ヴィラ ミッターマイヤー ホテレリー & レストラン ローテンブルク

    総合評価:5.0

    ホテルはGarniで夕食用のレストランが無い所を選んだので、ミシュラン星付きレストランの夕食の機会を得た。

    夕食:Rothenburg :Villa Mittermeierミッテルマイアー  19:00?22:30

    D-91541 Rothenburg 、Vorm Wuerzburger Tor 9

    ミシュラン1星、Gault Millauゴー・ミヨは16点。全独140位(2010年)。
    メニュー;3品Euro39、 5品Euro88、8品Euro97、 
    ワイン;フランケンなど350種 、従業員10名、34席。 
    シェフ;Mathias Apelt   http://www.villamittermeier.de/

    【今夕はモダーンなミシュラン1星のフランス料理のレストラン。勿論、フランケン・ホーエンローエ地方の地元産の食材・香辛料をベースにしている。

    午後7時ではまだ早いようで、レストランには一番乗りとなった。窓際の予約席に座っていると、徐々にお客が入り、8割方、席が埋まったのには驚いた。
    最近特に感じるがドイツ人も味にうるさくなったようだ。今夜も十分に満足した夕食となった。

    料理はメニューから、家内が3品Euro39、私が4品Euro70を選んだ。

    飲み物:辛口のシェリーOloroso Secoと、ワインはFrankenフランケンの赤にトライしました。そしてお水0.75L ; Euro14+60+7=81。
    2005年Randersackerer Sonnenstuhl  Spaetburgunder “s” 
    ・Weingut Schmitt ‘s Kinder。  http://www.schmitts-kinder.de/

    (フランケン地方の町Randersackerは1200年を越えるワイン文化を持つ。その地で10世代凡そ300年、ワイン醸造を行ってきたWeingut Schmitt's Kinderは1712年に町の中心にバロック様式の館を建て、1984年、町の郊外に"Sonnenstuhl太陽の椅子"の葡萄畑にも近い場所に、モダーンな醸造所を作った。そこはマイン川と葡萄畑の美しい光景がある事で知られている。)
    ここでは感心した事に、ソムリエが日本製のラベル剥がしを利用し、ワインのラベルをきれいに処理してくれた。

    シェフのご挨拶:?マンゴのシャーベットと赤くコーティングした角切りのスイカ。
           ?ミディアムに焼いたマグロにビーツのソースの二品が出ました。

    前菜:私は鵞鳥のレバーロースト、2種類のタイ-マンゴ添え。
       家内は赤ニゴイのロースト、ルイユソース(ジャガイモ、にんにく、赤唐辛子、オリーブオイル)と、ヴァニラ・サフランソースで。

    メイン:私の魚料理はナマズでした!レッドチコリ、カボチャ、ビネグレットソース 。
        肉料理は鹿の背肉、香料入りパン、森の茸、パセリ、シナモン、ブラウンソース。
       
        家内はHof Mueritzミューリッツ(メクレンブルク湖水地方の中心部にあり、良品で知られている。)産の子羊のうなじ肉、干しプラム、パースニップ(セリ科) 添え、ブラウンソース。

    デザート:私が白のチョコレート、イチジク、砂糖を被せたオリーブ。木のまな板風に載って出てきた。これは最近の流行らしい。

        家内はヴァニラアイス、ミルク、ライスに葡萄、ピスタチオ入り飲み物。

        最後にもう一つ、チョコレート、アイス、飴状のもの。

    白一色のお皿、それも大きめな皿に料理の色彩も美しく盛られて、気持ちの良いアレンジに感心した。   夕食代合計はEuro195(26千円)となりました。 】 




     

    旅行時期
    2009年12月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    5.0
    サービス:
    5.0
    ロケーション:
    5.0

  • 横浜人形の家に我が家のゴスラーちゃん(ビスクドール)に似たものがあるかと訪れた。

    投稿日 2025年01月29日

    横浜人形の家 横浜

    総合評価:4.0

    【2002.01.12.~13.懐かしの横浜:定年を前にかつて短い間横浜に住んだ事を思い、横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家などを見て回った】

    懐かしの横浜:横浜港、山下公園、氷川丸、中華街、横浜人形の家など
    天気の良い日で、写真も良く撮れているのが嬉しい。  

    1泊(土・日)して歩いた横浜は、もう馴染みのない異国の町のように思えて、ちょっと戸惑った小旅行でしたが・・・。

    この日以外にも、会社の仲間や夫婦で中華街に出かけたし、長女の結婚式で横浜のホテルを利用したこともあるが、デジカメを持っていない頃で、また、カメラ持参で様々な被写体を撮る習慣も無かったから、アルバムに旅行などの写真が少ないのだ。

    さて、1983年4月1日~4日、当時東西Berlinベルリンに分かれ、“陸の孤島”と称されていたベルリン(Oster-Reiseオースターライゼ)に小旅行をした。

    その帰途、大好きなドイツの町の一つであるGoslarゴスラー (Land Niedersachsenニーダーザクセン州)を訪れて、ホテルで催されていた蚤の市(独語・Flohmarkt、英語・Flea market)でドイツ製のアンティーク・ドールを購入した。

    我が家のゴスラーちゃん(ビスクドール)は*アーモンド・マルセルの370のようだ(2008年12月3日撮影)。
    今も人形ゴスラーちゃんは我が家の居間に鎮座し、もう40年の付き合いになる。

    横浜人形の家にどんな人形があるかと訪れたのだが、ゴスラーで購入した人形によく似た人形もあって、興味深いものだった。

    <横浜人形の家>
    〒231-0023 横浜市中区山下町 18番地
    TEL:045-671-9361  
    開館時間 : 午前9時30分~午後5時
    (入館は午後4時30分まで)

    当時の館長が、かの有名な旅行家・作家の兼高かおるさん(2019年1月5日、90歳で逝去)だったのは、この写真で思い出した。

    <横浜 マンダリンホテル>
    神奈川県横浜市中区野毛4-170
    Tel:045-243-3131

    3星・全128室。
    日ノ出町駅から徒歩3分に位置し、野毛山公園に近い横浜マンダリンホテルに泊まったが、アルバムに貼られた冊子のみが残り、残念にも写真は全く無しで、これでは何の記憶も感慨も無い。


    ・・・・・  

    旅行時期
    2002年01月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • 茨城百景:関東最古の西蓮寺には見事な大銀杏2本がある。  

    投稿日 2025年01月28日

    西蓮寺の大イチョウ 鉾田・行方

    総合評価:4.5

    茨城百景(いばらきひゃっけい)という呼び名がある。茨城百景は茨城県観光審議会が選定した100の景勝地を指すのだと云う。
    因みに水戸の偕楽園(かいらくえん)、関東の松島と称される五浦海岸(いづらかいがん)、霞ヶ浦(かすみがうら)、鹿島神宮(かしまじんぐう)、水郷潮来(すいごういたこ)などが代表的な景勝地として指定されている。

    行方郡には、水郷潮来などと共に創建1200年、関東最古の西蓮寺(さいれんじ)が指定されている。
    行方市西蓮寺(なめがたしさいれんじ)で最も知られているのは 高さ25メートルと27メートルの大イチョウである。

    春の桜、秋の曼珠沙華(ヒガンバナ)の群生、晩秋の大銀杏が知られていて、これを楽しみに参詣する人も多い。

    【西連寺(さいれんじ)】
    〒311-3514 茨城県行方市西蓮寺504 
    Tel:080-8731-1772

    西蓮寺は茨城県行方市西蓮寺にある天台宗の寺院。山号は尸羅度山(しらとさん)。院号は曼珠院(まんじゅいん)。本尊は薬師如来(やくしにょらい)である。 
    俗に常陸の高野山(常陸高野西連寺)とも云われ、山門(仁王門)と相輪橖(そうりんとう)は国の重要文化財、木造薬師如来坐像は茨城県指定有形文化財である。
    また、境内の面積は1万6000平方メートルあり、県指定天然記念物である樹齢1000年以上といわれる2本の大イチョウのほか、サクラ・スギ・シイの巨木が茂っている。


    西連寺は関東最古の寺院と謳われているが、桓武天皇(第50代天皇・在位:天応元年・781年~延暦25年・806年)の勅願により、延暦元年(西暦782年)に伝教大師最澄の弟子最仙(さいせん)上人によって開創されました。 
    最仙上人は常陸国関城(現在の茨城県筑西市(ちくせいし)出身の高僧で、中国に渡り修行を重ねて帰郷し、常陸国で天台宗の布教に尽力した。

    ・・・・・

    旅行時期
    2024年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.5
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ローテンブルク:ミシュラン1星Villa Mittermeier ヴィラ ミッテルマイヤー

    投稿日 2014年06月12日

    ローテンブルク

    総合評価:5.0

    ホテルはGarniで夕食用のレストランが無い所を選んだので、ミシュラン星付きレストランの夕食の機会を得た。

    夕食:Rothenburg :Villa Mittermeierミッテルマイアー  19:00?22:30

    D-91541 Rothenburg 、Vorm Wuerzburger Tor 9

    ミシュラン1星、Gault Millauゴー・ミヨは16点。全独140位(2010年)。
    メニュー;3品Euro39、 5品Euro88、8品Euro97、 
    ワイン;フランケンなど350種 、従業員10名、34席。 
    シェフ;Mathias Apelt   http://www.villamittermeier.de/

    【今夕はモダーンなミシュラン1星のフランス料理のレストラン。勿論、フランケン・ホーエンローエ地方の地元産の食材・香辛料をベースにしている。

    午後7時ではまだ早いようで、レストランには一番乗りとなった。窓際の予約席に座っていると、徐々にお客が入り、8割方、席が埋まったのには驚いた。
    最近特に感じるがドイツ人も味にうるさくなったようだ。今夜も十分に満足した夕食となった。

    料理はメニューから、家内が3品Euro39、私が4品Euro70を選んだ。

    飲み物:辛口のシェリーOloroso Secoと、ワインはFrankenフランケンの赤にトライしました。そしてお水0.75L ; Euro14+60+7=81。
    2005年Randersackerer Sonnenstuhl  Spaetburgunder “s” 
    ・Weingut Schmitt ‘s Kinder。  http://www.schmitts-kinder.de/

    (フランケン地方の町Randersackerは1200年を越えるワイン文化を持つ。その地で10世代凡そ300年、ワイン醸造を行ってきたWeingut Schmitt's Kinderは1712年に町の中心にバロック様式の館を建て、1984年、町の郊外に"Sonnenstuhl太陽の椅子"の葡萄畑にも近い場所に、モダーンな醸造所を作った。そこはマイン川と葡萄畑の美しい光景がある事で知られている。)
    ここでは感心した事に、ソムリエが日本製のラベル剥がしを利用し、ワインのラベルをきれいに処理してくれた。

    シェフのご挨拶:?マンゴのシャーベットと赤くコーティングした角切りのスイカ。
           ?ミディアムに焼いたマグロにビーツのソースの二品が出ました。

    前菜:私は鵞鳥のレバーロースト、2種類のタイ-マンゴ添え。
       家内は赤ニゴイのロースト、ルイユソース(ジャガイモ、にんにく、赤唐辛子、オリーブオイル)と、ヴァニラ・サフランソースで。

    メイン:私の魚料理はナマズでした!レッドチコリ、カボチャ、ビネグレットソース 。
        肉料理は鹿の背肉、香料入りパン、森の茸、パセリ、シナモン、ブラウンソース。
       
        家内はHof Mueritzミューリッツ(メクレンブルク湖水地方の中心部にあり、良品で知られている。)産の子羊のうなじ肉、干しプラム、パースニップ(セリ科) 添え、ブラウンソース。

    デザート:私が白のチョコレート、イチジク、砂糖を被せたオリーブ。木のまな板風に載って出てきた。これは最近の流行らしい。

        家内はヴァニラアイス、ミルク、ライスに葡萄、ピスタチオ入り飲み物。

        最後にもう一つ、チョコレート、アイス、飴状のもの。

    白一色のお皿、それも大きめな皿に料理の色彩も美しく盛られて、気持ちの良いアレンジに感心した。   夕食代合計はEuro195(26千円)となりました。 】 




     

    旅行時期
    2009年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    10,000円以上
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    5.0
    町の外郭にあるホテルで町一番のレストラン
    コストパフォーマンス:
    4.5
    このクラスとしては一人13,000円は安いかもしれない。
    サービス:
    5.0
    十分納得のサービス
    雰囲気:
    4.5
    レストランはモダン
    料理・味:
    5.0
    モダーンなミシュラン1星のフランス料理のレストラン

  • ニュルンベルクでベストの評価を持つミシュラン2星レストラン エッシィッヒブレートラインは予約が電話かファックスと時代離れ!

    投稿日 2014年06月06日

    Essigbratlein ニュルンベルク

    総合評価:5.0

    2009年12月11日(金)
    Restaurant Essigbraetlein レストラン・エッシィッヒブレートラインにて;

    ミシュラン2星・・2008年より、Gault Millauゴー・ミヨは18点と評価も上昇中。
    全独82位(2010年)。  席数:30、従業員:9人 
      メニュー;?品Euro42、6品Euro79、7品Euro96  ワイン;150種
      シェフ;Andree Koethe 

    *ニュルンベルクでベストの評価を持つレストランは、町でも最も古い1550年からの歴史をもったもので、当時はワイン商人の集会所としての役割を担っていたと云う。Gewuerz(香料・薬味)Kraeuterkueche(薬草料理)、有機農産物を使用していて、ここの料理を食べる為に、この町を訪ねる価値があると言われている。

    二人のシェフ;Andree Koethe、Yves Ollechs Buch は “Die Kunst des Wuerzens香料の芸術” を表現していると云う。スパイスキッチンの巨匠との評価が高い。
    この店の得意料理はRochen mit Pfifferlingenスケート(エイ)あんず茸添えと、 Steinbutt auf Fenchelフェンネルにのったカレイ、 Reh mit Liebstoeckel und Essigkirschen鹿肉にラビッジ(セリ科)とサクランボ酢を利用したものだそうだ。

    【1550年から続いている、レストランEssigbraetleinで夕食を楽しむ。この店の創作料理は近年、世評も高く、店内の席数も限られている為、席を確保できたことは大変運が良いのだと云う。店内はさすがに満席です。

     この日のメニューは6品メニューのみです。量的には多すぎると思い、給仕に聞いてみるとこの中から適宜、選択しうると言う。そこで二人とも4品を選んでみた。
    4品のお値段と言っても、Euro79X2=178と、なかなかのもの・・・。

    飲み物:ハウスアペリティーフ(プラムのSektゼクト・・シャンパン)、お水、そしてワインは2004年Pinot Noir Reserveピノ・ノワール レゼルヴ
    ;醸造所Weingut Holger Kochはバーデンワイン街道の最も優良な産地Kaiserstuhl 皇帝の椅子の中心地にあたるVogtsburg-Bickensohlにある。
    http://www.weingut-holger-koch.de/weingut.php   

    飲み物合計はゼクトEuro27+水6.8+ワイン89 =122.8

    シェフのご挨拶:南瓜のクリーム煮、ライスペーパー巻き、シナモンかけ。
            肉の角切りに赤い甘みの香辛料かけ。
            鰻の甘酢ソースかけ。

    パン・バター:自家製パン、豆色のバター。
    前菜:湖のマスにトマトソースかけ、薄切のカリフラワー添え。

    メイン:(魚料理)カレイにクルミの甘酢ソースかけ、大根の千切り載せ。
        (肉料理)鹿肉にアカデミアンナッツ入り、イチジクのサラダ。
    イタリアンパセリ、ライスペーパー添え。

    デザート:暖かいマンゴ、ミルクチョコレートアイス、カラメルの飾り。
    コーヒー:5種類のチョコレート;ミルクチョコレートにラズベリー載せ、葡萄載せ、オレンジペースト載せ、白チョコレートなど。

    19:00~21:45  
    拘ってなんとか食事のチャンスが持てたが、内容に驚き、かつ、大変満足した料理とサービスでした。その代金はEuro320(43千円)でした。】

    尚、2009年当時、このレストランは珍しい事にメールがなく、予約は電話かファックスなので、ファックスで数度のやり取りをしました。
    12月11、12日の金土はさすがにもう一杯で、Wartelisteウェイティングリストに載せてもらったものの、出発まで決まりません。仕方なく、旅程に沿ったホテル名と電話・ファックス番号を送っておいた。
    結局、最初のホテルSchloss Steinburg(Wuerzburg)に電話があり、幸いこの夜の予約がOKとなった。

    久しぶりに時差を考えずに返事をしてくるので、夜中に起こされることもあり、時代離れと言うのか、手書きの返事でしたので、読むのも一苦労でした。
    ただ、対応は都度きちんと返事が来るのはさすがでしたが・・・。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    10,000円以上
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    5.0
    Nuernbergニュルンベルクの旧市街にある、聖ゼーバルト教会に近い。
    コストパフォーマンス:
    5.0
    二人とも4品を選んでみた。 4品のお値段と言っても、Euro79X2=178だが満足からすれば、十分に納得する。
    サービス:
    5.0
    大変満足したサービスでした。
    雰囲気:
    5.0
    外観も内装も素晴らしい。
    料理・味:
    5.0
    香料・薬味?Kraeuterkueche(薬草料理)、有機農産物を使用していて、ここの料理を食べる為に、この町を訪ねる価値がある言う。

  • 神崎神社:天下の副将軍・水戸光圀公ゆかりの「なんじゃもんじゃの木」を見る。

    投稿日 2025年01月27日

    神崎神社 香取・佐原

    総合評価:4.5

    2024年6月17日小旅行

    遠目に、「神崎森(こうざきもり)」と称する深い森が小高い丘の上に見えてきた。
    それで、この日は神崎神社のなんじゃもんじゃの木(大クスノキ)を見学に訪れることにした。

    【神崎森(こうざきもり)】

    千葉県教育委員会HPの説明を引用すると、

    *県指定天然記念物
    *指定日:昭和10年(1935年)8月23日

    *所在地(所有者):
    香取郡神崎町神崎本宿1944(神崎神社)

    *概要:
    神崎(こうざき)は、利根川南岸に位置する河岸の物資集積地として発達してきた町であるが、利根川の堤防から神崎の街を眺めると、そこにはうっそうと木々が茂った森がひときわ目立つ。この森が神崎森(こうざきもり)である。
    北総台地から離れて独立した台地にあり、神崎神社の社叢林(鎮守の森)として大切に守られてきた。

    神崎森(こうざきもり)は全体として常緑広葉樹林が優占する。スダジイやアカガシが主体となるスダジイ林が大部分を占めているが、一部タブノキ林の要素も見られる。スダジイ林の林床には、ホソバカナワラビ、リョウメンシダなどが多く、湿ったスダジイ林の特徴がよくあらわれている。

    タブノキ林はやや湿った斜面部で発達しており、高木層にはタブノキが優占し、シロダモが混在する。亜高木層では、スダジイ林にと共通するヒサカキ、スダジイなどが多く、低木層でもヤツデ、アオキとともにスダジイが多くみられる。また、北向き斜面では、巨大なムクノキ、ケヤキといった落葉広葉樹が多く見られ、北総台地の特徴をよくあらわしている。

    なお、「神崎森にある神崎神社社殿右側には国指定天然記念物の「神崎の大クス」が位置している」。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    この森に囲まれた神崎神社は、この地方によく聞く、天下の副将軍・水戸光圀公ゆかりの大クスノキがあるのだ。

    神崎町のシンボルでもある「大クスノキ」があって、<なんじゃもんじゃの木>と云う妙な別称でも知られている。

    「大クスノキ」は1926年(大正15年)10月2日に既に国指定天然記念物に指定されたもので、昔から、世に知られて存在であったようだ。

    私自身は各地にある巨木を好んでみる面があるが、利根川筋の小さな町にこれほどのものがあるとは、全く知らなかった。

    <神崎の大クスと植物学者の牧野富太郎>

    大正時代に植物学者の牧野富太郎によって、この木が植物学的にクスノキであることが確認され、1926年に国の天然記念物として指定された。
    主幹は根回りが約13m、目通幹囲8.5mだが、1907年12月に社殿を焼いた火災により一部焼失しており、現在は高さ7mのところで切断されている。
    一方で、その根元からは数本の支幹が主幹を中心として南北に並んで生育しており、そのうち5本は樹高20mを超えていて、高いものでは25mに達する。
    (参考:Wiki抜粋、編集・追記)

    ・・・・・

    XXXXX

    旅行時期
    2024年06月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    見ごたえ:
    4.5

  • イキスと読めなかった、東国三社に数えられる神栖の息栖神社に参詣した。

    投稿日 2023年02月01日

    息栖神社 波崎・神栖

    総合評価:4.5

    【小江戸・佐原から潮来、神栖を巡る。③神栖の息栖(いきす)神社、佐原の荘厳寺(しょうごんじ)の十一面観音とみしるし不動を訪ねた。】

    神栖の息栖(いきす)神社も佐原の荘厳寺(しょうごんじ)も最初は全く読めない字だった。息栖神社で出会った女子大生の2名にこの名は読めないと言ったら、ほんとにそうですねと、同意された。
    土地名や神社仏閣の名前は実に難しい。

    さて、神栖市の神栖(かみす)は神之池(ごうのいけ)の「神」と息栖神社の「栖」から神栖となったそうだ。

    かつては広大な面積をもった池・「神之池(ごうのいけ)」は、約1,400~1,200年前に海面が下降して周辺砂丘の造成や土砂の堆積によって独立して出来たものだと云う。古くは周囲2里余(約8km)、面積292町歩余(約289ha)のおむすび型に近い円形の広大な淡水池があったものだが、日本列島は何処も同じで、鹿島地区の開発のため、現在は一部を残して大部分が埋め立てられてしまった。

    【鹿島・香取とともに東国三社に数えられる息栖(いきす)神社に参詣した】
    〒314-0133 茨城県神栖市息栖2882
    Tel:0299-92-2300

    <祭神>
    主祭神は久那斗神 (くなどのかみ、岐神)
    社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。

    相殿神には
    天乃鳥船神 (あめのとりふねのかみ)
    『古事記』では、建御雷神(たけみかづちのかみ)の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。


    息栖神社は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに【東国三社(とうごくさんじゃ)】と呼ばれている。
    息栖神社の事を語る文章に、東国三社のうち他の二社に比べてより穏やかな趣がある神社が息栖神社だと云う。

    つまり、鹿島(建御雷神タケミカヅチ=武甕槌大神)と香取(経津主神フツヌシ)に祭られる二神が、武神(軍神)であり、その神剣であるのに対して、息栖神社(久那斗神クナドノカミと天乃鳥船神アメノトリフネノカミ)は、武神の乗り物であった「天鳥舟(アメノトリフネ)」という神が祭られているからだとか!?

    平安時代に「神宮(じんぐう)」の称号で呼ばれていたのは、『延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう:当時の官社の一覧表)』によると伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけだった。

    鹿島と香取の両神宮が、日本の国でも別格の位置にあった事に比較し、
    息栖神社は古くは「於岐都説神(おきつせのかみ」と記され、1321年の古文書では「おきすのやしろ」と記されたと云う。この「おきつせ・おきす => 沖洲」という古称から、香取海(かとりのうみ:古代の関東平野東部に広がっていた内海で、現在は霞ヶ浦や印旛沼などに名残を留めている)に浮かぶ沖洲(おきす)に祀られた神であると考えられている。

    息栖神社が東国三社(とうごくさんじゃ)の一つと呼ばれている事については、私は今まで全く知らずにいた。もちろん、東国三社の意味も。
    そして「東国三社巡り」の言葉があるが、江戸時代に「お伊勢参りの禊ぎ(みそぎ)の三社参り」と呼ばれ、信仰を集めた旅になっていた。
    とりわけ、関東以北の人は伊勢神宮に参宮(さんぐう)したのち、「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝したと云う。

    <息栖の津・渡船場跡>
    「息栖の津」は古い時代からあった。今から約七百年の昔、応安7年(1374年)記の香取神社文書「海夫注文」にその名が見える。当時、この流域の支配権を持つのは香取神社で、下総国側の24、常陸国側の50の津(港)を支配した。
    「息栖の津」も利根川を往来する舟船の船着場とし、また魚労の拠点としての網引・釣魚に大きな役割を果たしていたようだ。
    この時代には海水が入り、この辺りでもサケは勿論のこと、タイ・ヒラメ・ハマグリ等が獲れていたとの記録が残っている。

    江戸時代になると、江戸の文人墨客、庶民の、東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)を巡拝する旅が盛んになった。日本橋小網町を小船で出発し、途中徒歩もあるが、下総国木下河岸(千葉県印西市)より木下茶船に乗り、利根川を下って三社に向かった。
    記録には木下河岸を出る船数は、安永年間(1854年~)には年平均4400~4500隻にも達している。単純計算で1日12隻もの船が出航している。香取神社から鹿島神宮へ向かう途上、息栖神社へ立ち寄る慣例であった。
    利根川の支流の辺に立てられた大きな鳥居があり、その支柱の両側に井戸があって、小さな鳥居が立てられている。「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と言う名の井戸の中には魚が泳いでいる。

    この井戸は、汽水(きすい: 海水と淡水の混合による低塩分の水)の中に湧き出す非常に珍しいもので、 「忍潮井(忍塩井)=おしおい」と呼ばれ、伊勢の明星井、伏見の直井とともに日本三霊水に数えられている。
    海水をおしのけて清水が湧出していることからこの名前になったということです。

    初めて訪れた息栖神社はなかなか興味深く、その歴史や地勢、水運といった新しい知識を得た。

    ・・・・・

    旅行時期
    2022年11月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    見ごたえ:
    4.0

  • 思い立ったが吉日!とばかりに佐原のウナギ料理を食べに長谷川を訪れた。

    投稿日 2025年01月12日

    長谷川 香取・佐原

    総合評価:4.0

    佐原の鰻を食べる事、荘厳寺(しょうごんじ)の十一面観音に祈願する事、一度も足を向けたことが無い諏訪神社を訪れる事・・・本日の目的は三つである。

    2024年の12月21日(土)、思い立ったが吉日!とばかりに佐原に向かう。
    今日は久しぶりに「うなぎの長谷川」で食べる。
    それから初めての諏訪神社に参詣、
    さらに受験生の孫二人の為に佐原の荘厳寺(しょうごんじ)の十一面観音に御参りだ。

    長谷川は天保2年(1831年)の創業当時から鰻一筋の商いを続けている佐原の味処で、初代から連綿と受け継がれてきた自家製のタレが、店の何よりの自慢だ。
    <さわらグルメマップ>で紹介されるお店・和食のトップに名がある。
    アクセス:佐原駅[南口]徒歩6分

    ここ3年ばかりは長谷川に何時もフラれて、「うなぎ割烹 山田(昭和天皇も訪れたと云う」、その山田からも近い「やま川」に行くことが多かった。
    今日は幸い昼時を少しずれていた所為か、空いていた。
    私共はいつものように座敷は避けて、椅子席に座る。

    佐原は成田と共に鰻料理で知られているが、佐原では長谷川が地元の人に好まれているそうだ。
    だが、いつの間にか、隣にあった千葉銀行の佐原支店が市内の別の場に移転して空き地になっていた。良いお得意さん(固定客)が減ったのではないかと思った。
    うな重、肝吸い付きは4,500円也。毎年値段が上がる!!
    鹿児島産のウナギだと、表示されていた。

    この時間には私共を入れて3組のカップルが来客、私共が食事を終える頃に近所の女性親子が来店し、親し気に年輩のスタッフ(3人とも以前から務めている)と世間話をしながらうな重を楽しんでいた。

    うな重に満足して、長谷川を出る。

    ・・・・・

    旅行時期
    2024年12月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    一人当たり予算
    5,000円未満
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.0
    料理・味:
    4.0
    観光客向け度:
    3.0

  • ヴィリニュス旧市街(世界遺産)で、リトアニアの歴史を飾る王侯の像や伝説に満ちた聖カジミエルの画、奇跡のマリア像を見てまわった。

    投稿日 2024年11月03日

    リトアニア国立博物館 ビリニュス

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>


    「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
    (13:30~15:00)

    深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
    バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。
    旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。

    旧市街から少し離れた「リトアニアバロックの真珠!」と称されている聖ペテロ・パウロ教会を第一に見て、ゲディミナス城跡の丘とゲティミナス塔、聖アンナ教会を見ると、後はリトアニアの歴史を飾るMindaugasミンダウガス王像やケディミナス大公像であり、ヴィリニュス大聖堂の聖カジミエルの礼拝堂、夜明けの門の“奇跡のマリア”などの宗教施設を訪れる。

    1)リトアニア民族博物館前で、最初で最後のMindaugasミンダウガス王(当時のリトアニアはドイツ騎士団の侵攻に苦しめられていたが、ミンダウカスは諸部族をまとめてリトアニアを統一し、1246年に即位した。)の銅像を拝した。銅像下に書かれた文字は当時の象形文字だそうだ。

    2)“ヴィリニュス創設の伝説”の鉄の鎧を着けた狼を従え、剣を振りかぶったケディミナス大公像と乗馬像は、ヴィリニュス大聖堂の前のカテドゥロス広場に見る事が出来る。

    3)ヴィリニュスのシンボルである主教座教会であるヴィリニュス大聖堂:

    最初の教会は13世紀に騎士団の圧力から逃れるため、キリスト教を受け入れた、ミンダウガス王によって建設された。しかし王が暗殺されると、自然崇拝の聖地に戻ります。1387年にヨガイラ公により、再びキリスト教化され、教会は再建される。現在の建物は18世紀に大改装されて、ギリシャ神殿風の古典主義(クラシック)様式建造物となった。

    内部に入ると身廊があり、堂内は割りと明るく、側廊との間にある柱には12使徒の絵が飾られている。パイプオルガンや様々な礼拝室があり、特に大きく、素晴らしいのはリトアニアの守護聖人・聖カジミエルの礼拝堂だ。
    ここには聖人の石棺も安置され、黒の大理石が印象に残る。礼拝堂には2枚のフレスコ画があり、聖人の奇蹟・伝説を表している。左方の壁画は聖カジミエルの棺が120年経って、開けられたが、遺体が少しも腐敗していなかった。
    右方の壁画は聖人の棺のそばで少女スウラが、死から蘇るというものである。

    礼拝堂の聖カジミエルの聖画は銀を被せてある。その像は右手が二本あるように見える!絵師が絵を描いた時に、描いてもいない二本目が生じて、消しても消えないという、奇蹟!が起こったのだと云う。

    大聖堂の前のカテドゥロス広場には大聖堂の鐘楼が建つ。高さは53mで、基礎の部分は13世紀の城壁の塔が使われているとか。

    4)夜明けの門の“奇跡のマリア”:

    かつて、タタール人の侵攻を防ぐ為の城壁があり、元来9つあった城門の一つだけが残っている。上部のルネッサンス様式の装飾は16世紀のもの。
    リトアニアの紋章である白い騎馬像が描かれている。

    この門の反対側は礼拝堂であり、ここに有名な“奇跡のマリア”のイコンがある。
    写真を見ると、マリアは黒いマリア像で、顔や手は黒く、冠や後光、衣類は金色に塗られている。この門の下を通りながら、上を見上げて祈りを捧げる人が多い。窓が開け放されると、黒いマリア像を見ることが出来るのだが、今は閉まっていて、何も見えない。

    この黒い(健康である象徴)マリアに祈ると、あらゆる願い事が叶うという。病の治った人々がお礼に寄進した、手形、足形、頭部の形などが、像の周辺、像を修める厨子の柱や壁などに、貼られているそうだ。
    顕彰碑によると、1993年ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がここを訪れている。


    16:25カウナスに向かう。

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、ロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、結局2023年もドイツの旅を見送ってきました。2024年はどんな年になるのだろう。
(2023.11.28.変更)

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