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  • ヴィリニュス旧市街(世界遺産)で、リトアニアの歴史を飾る王侯の像や伝説に満ちた聖カジミエルの画、奇跡のマリア像を見てまわった。

    投稿日 2024年11月03日

    リトアニア国立博物館 ビリニュス

    総合評価:4.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>


    「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
    (13:30~15:00)

    深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
    バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。
    旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。

    旧市街から少し離れた「リトアニアバロックの真珠!」と称されている聖ペテロ・パウロ教会を第一に見て、ゲディミナス城跡の丘とゲティミナス塔、聖アンナ教会を見ると、後はリトアニアの歴史を飾るMindaugasミンダウガス王像やケディミナス大公像であり、ヴィリニュス大聖堂の聖カジミエルの礼拝堂、夜明けの門の“奇跡のマリア”などの宗教施設を訪れる。

    1)リトアニア民族博物館前で、最初で最後のMindaugasミンダウガス王(当時のリトアニアはドイツ騎士団の侵攻に苦しめられていたが、ミンダウカスは諸部族をまとめてリトアニアを統一し、1246年に即位した。)の銅像を拝した。銅像下に書かれた文字は当時の象形文字だそうだ。

    2)“ヴィリニュス創設の伝説”の鉄の鎧を着けた狼を従え、剣を振りかぶったケディミナス大公像と乗馬像は、ヴィリニュス大聖堂の前のカテドゥロス広場に見る事が出来る。

    3)ヴィリニュスのシンボルである主教座教会であるヴィリニュス大聖堂:

    最初の教会は13世紀に騎士団の圧力から逃れるため、キリスト教を受け入れた、ミンダウガス王によって建設された。しかし王が暗殺されると、自然崇拝の聖地に戻ります。1387年にヨガイラ公により、再びキリスト教化され、教会は再建される。現在の建物は18世紀に大改装されて、ギリシャ神殿風の古典主義(クラシック)様式建造物となった。

    内部に入ると身廊があり、堂内は割りと明るく、側廊との間にある柱には12使徒の絵が飾られている。パイプオルガンや様々な礼拝室があり、特に大きく、素晴らしいのはリトアニアの守護聖人・聖カジミエルの礼拝堂だ。
    ここには聖人の石棺も安置され、黒の大理石が印象に残る。礼拝堂には2枚のフレスコ画があり、聖人の奇蹟・伝説を表している。左方の壁画は聖カジミエルの棺が120年経って、開けられたが、遺体が少しも腐敗していなかった。
    右方の壁画は聖人の棺のそばで少女スウラが、死から蘇るというものである。

    礼拝堂の聖カジミエルの聖画は銀を被せてある。その像は右手が二本あるように見える!絵師が絵を描いた時に、描いてもいない二本目が生じて、消しても消えないという、奇蹟!が起こったのだと云う。

    大聖堂の前のカテドゥロス広場には大聖堂の鐘楼が建つ。高さは53mで、基礎の部分は13世紀の城壁の塔が使われているとか。

    4)夜明けの門の“奇跡のマリア”:

    かつて、タタール人の侵攻を防ぐ為の城壁があり、元来9つあった城門の一つだけが残っている。上部のルネッサンス様式の装飾は16世紀のもの。
    リトアニアの紋章である白い騎馬像が描かれている。

    この門の反対側は礼拝堂であり、ここに有名な“奇跡のマリア”のイコンがある。
    写真を見ると、マリアは黒いマリア像で、顔や手は黒く、冠や後光、衣類は金色に塗られている。この門の下を通りながら、上を見上げて祈りを捧げる人が多い。窓が開け放されると、黒いマリア像を見ることが出来るのだが、今は閉まっていて、何も見えない。

    この黒い(健康である象徴)マリアに祈ると、あらゆる願い事が叶うという。病の治った人々がお礼に寄進した、手形、足形、頭部の形などが、像の周辺、像を修める厨子の柱や壁などに、貼られているそうだ。
    顕彰碑によると、1993年ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がここを訪れている。


    16:25カウナスに向かう。

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    4.0

  • 「リトアニアバロックの真珠!」と称され、教会美術に興味が無い人も魅了し、じっくりと見たい教会である。

    投稿日 2024年10月29日

    聖ペテロ & パウロ (ペトロ イル ポヴィロ)教会 ビリニュス

    総合評価:5.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン 

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
    (13:30~15:00)

    深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
    バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。

    旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。

    9:00、最初に向かったのは町の外れにある聖ペテロ&パウロ教会(1675年創立)である。

    聖ペテロ・パウロ教会は「リトアニアバロックの真珠!」と称されている。
    ロシアからの解放を記念して建てられた教会で、1668年から建設が始まり、外観に7年、内装にはさらに30年あまりの歳月が費やされたと云う。

    ヴィリニュス観光の中心地・旧市街からはちょっと方向違いのアンタカルニス地区にあり、やや離れているものの、教会美術に興味が無い人も魅了し、じっくりと見てまわりたい教会である。

    朝日を背景に二つの塔を持つ、赤い屋根とマッチした、ベージュ色の教会は実に神々しく見える。

    教会内は漆喰の白さで大変明るい印象を受けた。バロック調の華やかな彫刻が壁や天井を覆っており、それら約2000体の漆喰彫刻が素晴らしい。バロックの“氷れる音楽”と称されるのも、もっともだと思えた。

    入口の左右にはドイツ・ラインの守護聖人であるクリストファー聖人の彫刻(生)と、それと対になった大きな鎌を持つ骸骨像(死)がある。

    絵画が飾られていた祭壇、天井の絵画、ちょっと驚いたのは、宙吊りされた帆船(スウェーデンから贈られた、見事なシャンデリアは人を天国に運ぶのだと・・・)、そしてマグダリアのマリア像(ある貴族の奥さんをマリア像にかりて描いたと言われる)。

    ポーランド出身の、先のローマ法王パウロ2世の来訪記念肖像、パイプオルガンと漆喰彫刻、丸天井と、最初の観光名所は印象深いものでした。   

    ・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.0
    展示内容:
    5.0

  • メルヘン街道の目玉:ラプンツェル(髪長姫)の古城ホテル トレンデルブルク城

    投稿日 2020年06月24日

    ホテル ブルク トレンデルブルク カッセル

    総合評価:5.0

    <2019年ドイツの初秋:メルヘン街道と木組み建築街道の旅>
    期間:2019年9月18日(水)~10月03日 (木)
    (14泊+機中1泊=15泊16日間の旅)

    9月28日(土) 72km 、曇りのち晴れ、14℃~16℃

    *起床6:00、朝食7:50~8:20、Hannoversch Muendenハノーフェルシュ・ミュンデンの市内見物8:45~10:35、11:00出発 =>B3・ B80 17 km Veckerhagenフェッカーハーゲン11:15~12:00 =>K52 L3229 12 km Dornroeschenschloss Sababurg古城ホテル いばら姫のザバブルク城12:17~13:00=>K56・L763  13 km  Hotel Burg Trendelburgホテル ブルク トレンデルブルク 13:30~14:05 

    ザバブルク城を13時に出発した。村道を13 km走ると、人口6000人という小さな木組みの家の並ぶ村の中心に、Hotel Burg Trendelburg古城ホテル ブルク トレンデルブルクが見えて来る。  
    トレンデルブルク城もラインハルトの森の中にある。グリム童話の赤頭巾ちゃんの話が生まれたラインハルトの森は実に広大なのだ。
    丘陵地帯に茶色の高い塔が見えてくる。あれが名高い“ラプンツェルの塔”だ。

    <Trendelburgトレンデルブルク>
    13:30~14:05

    ザバブルク城と同じく、1977年5月のPfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の4日間の休みを利用した家族旅行(メルヘン街道)、1982年7月の日曜日に一日で700kmのドライブ旅行(カッセルからハーメルンまでのメルヘン街道)と二度、この古城ホテルを訪れているが、二度ともテラスレストランで、ティータイムを取っただけで、泊まりませんでしたが、漸く2005年の旅で1泊することができた。
    2013年10月16日(水)にも訪れた。2013年の時はヴァルデック城をスタートし、カッセルやハン・ミュンデンを経由し、フュルステンベルクを再訪、カールスハーフェンからトレンデルブルク、サバブルク、カルデンと巡り、ヴァルデック城に戻った。
    今回はフェッカーハーゲン、サバブルク、トレンデルブルクと行程が逆になる。
    今年も又再び訪れたが、ぐるりと回遊するだけだ。

    <Burghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルク城>
    D-34388 Trendelburg 、 Steinweg.1
    TEL:49(0)5675-9090、FAX:-9362
    http://www.burg-hotel-trendelburg.com/de/

    4星・全22室。この城は1303年コンラッド3世伯爵が建てたのが始まりと云われている。大火災や戦乱に巻き込まれ、城は2度も炎上したものの、その都度修復され、その後も幾多の変遷をへて、1948年この城主の末裔によって、6室のみのホテルが開業された。
    今は中世の雰囲気をもつ古城ホテルとして、メルヘン街道の目玉になっていて、世界中からやって来る観光客の人気も高い。

    古城前の駐車場に車をおき、60mぐらい歩くと、ラプンツェルの塔が目に入る。
    細い橋を渡って、狭い城門をくぐり、石畳の城内に入ると、カスターニアン(とちの木)の大木、見張り塔が目に入ってくる。

    高い塔にはラプンツェルの長い髪を模したロープが下がっていた。以前はここまでやっていなかった記憶だが、ディズニー映画の影響もあるのだろう。
    1907年発行のグリム童話では『魔女に閉じ込められたラプンツェルが塔から長い髪を垂れ下げ、王子に助けてもらった』という話が載っていて、トレンデルブルクの塔は其のモデルに使われたそうです。

    テラスから周辺のラインハルトの森を遠望する。以前は見なかった大きな建物が下に見える。宿泊施設や駐車場・広場といったものだが。こうして森も少しずつ少なくなっていくのだろう。
    塔には登る元気は無いので、古城ホテル トレンデルブルク城の内部を見せてもらう。城内に入ると、歴史の重みを感じさせる、武具、アンチーックな家具、調度が見事である。
    近年に改装した様子で、Burgrestaurantブルクレストランもきれいになっていた。
    ホテル内の装飾はいろいろと加えられて、古城の雰囲気も増していた。
    ラインハルトの森、赤いレンガ屋根の家々、緑の畑が一望でき、ロマンチックである。
    秋には鹿、猪、キジ、茸など、ラインハルトの森の恵みを受け、ホテル自慢の料理を提供するそうである。


    私共にとって特別のニュースはホーフガイスマルに向かう道で、ディーメル川の岸辺に立つ「Trendulaトレンドゥラの木像」を発見し、漸くその姿を撮った事だろう。

    Diemelディーメル川(ヴェーザー川の支流:全長110.5km)でいったん止まり、木像の写真を撮ってからトレンデルブルクを14:05に出発した。

    ・・・・・


    旅行時期
    2019年09月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)

  • メルヘン街道の目玉 古城ホテル トレンデルブルク城

    投稿日 2014年08月20日

    ホテル ブルク トレンデルブルク カッセル

    総合評価:4.0

    ≪Burghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルク城≫
    14:25?14:45

    D-34388 Trendelburg 、 Steinweg.1
    TEL:49(0)5675?9090、FAX:?9362
    http://www.burg-hotel-trendelburg.com/de/

    4星・全22室。
    この城は1303年コンラッド3世伯爵が建てたのが始まりと云われている。大火災や戦乱に巻き込まれ、城は2度も炎上したものの、その都度修復され、その後も幾多の変遷をへて、1948年この城主の末裔によって、6ベッドのみのホテルが開業された。
    今は中世の雰囲気をもつ古城ホテルとして、メルヘン街道の目玉になっていて、世界中からやって来る観光客の人気も高い。

    バート・カールスハーフェンでB80(ハン・ミュンデン方面)とB83(トレンデルブルク城・ザバブルク城方面)に分れる。
    ここでどちらにするか迷ったが、木組みの家並みより、B83のメルヘン街道の古城ホテルを選んだ。ラインハルトの森を通る道だが、ここには何度も来ている。

    森を抜けると、急に明るくなり、前方の丘陵地帯に茶色の高い塔が見えてくる。
    グリム童話に名高い“ラプンツェルの塔”だ。フュルステンベルク城から31kmでトレンデルブルク城に到着。
    カスターニアン(とちの木)の大木、見張り塔が目に入ってくる。
    城内に入ると、歴史の重みを感じさせる、武具、アンチーックな家具、調度が見事である。 白の天蓋つきの部屋:No.8(2005年・1泊朝食付きEuro130でした。)もレストランも皆、趣があり、これぞ!!古城ホテルと思う。

    1977年5月のPfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の4日間の休みを利用した家族旅行(メルヘン街道)、1982年7月の日曜日に一日で700kmのドライブ旅行(カッセルからハーメルンまでのメルヘン街道)と二度、この古城ホテルを訪れているが、二度ともテラスレストランで、ティータイムを取っただけで、泊まりませんでしたが、漸く2005年の旅で1泊することができた。

    今日はメルヘン街道を走ると云う事で、こちらを再訪問した。
    古城前の駐車場に車をおき、橋を渡る。左手にラプンツェルの塔が立ち、ラプンツェルの長い髪を模したロープが下がっていた。以前はここまでやっていなかった記憶だが、ディズニー映画の影響もあるのだろう。

    狭い城門をくぐり、中庭に入ると、秋真っ盛りの古城だった。やはり良いもので、しばし散策をする。塔には登る元気は無いので、古城ホテル トレンデルブルク城の内部を見せてもらう。
    近年に改装した様子で、Burgrestaurantブルクレストランもきれいになっていた。秋になると、鹿、猪、キジ、茸など、ラインハルトの森の恵みを受け、ホテル自慢の料理を提供するそうである。
    親切な奥さんが私共の写真をかつての古城の絵や甲冑の前で撮ってくれた。
    また、来てみたいなと、ツィ思ってしまう。

    XXX

    <グリム童話・“Rapunzelラプンツェル” (髪長姫)>

    あるところに夫婦がいた。長年子供がなかった2人だが、ある時やっと子供を授かる。
    妊娠した妻は隣に住むゴーテルという魔女の庭のラプンツェル(妊婦が食べるのによいとされる野菜)を食べたくてたまらなくなる。
    食が細ってやつれた妻に「ラプンツェルが食べられなければ死んでしまう。」と懇願された夫は、妻と生まれる子のために魔女の敷地に忍び込むとラプンツェルを摘み取りにかかるが、魔女に見つかってしまう。

    しかし夫から事情を聞いた魔女は、好きなだけラプンツェルを摘んでもいいが、子供が生まれたら自分に渡せと言う。
    やがて妻が生んだ女の子は、即座に魔女に連れて行かれる。ラプンツェルと名付けられた娘は、森の中に築かれた入り口のない高い塔に閉じ込められる。魔女はラプンツェルの見事な長い金髪をはしご代わりに、窓から出入りしていた。

    そんなある日、森の中を歩いていた王子が美しい歌声に引かれ、塔の中に閉じこめられたラプンツェルを発見し、魔女と同じ方法を使って塔に登る。魔女に隠れて夜ごと王子を部屋に招き入れて愛し合い、ラプンツェルは妊娠する。

    その事実を知って、激怒した魔女はラプンツェルの髪を切り落とし、荒野へと放逐してしまう。 一方、何も知らずラプンツェルを訪ねてきた王子は、待ち受けていた魔女から罵られる中で全ての顛末を知って絶望し、塔から身を投げて失明する。

    7年後、盲目のまま森をさまよっていた王子は、男女の双子と暮らしているラプンツェルとめぐり会う。
    うれし泣きするラプンツェルの涙が王子の目に落ち、王子は視力を回復する。王子はラプンツェルと子供たちを伴って国に帰り、皆で幸せに暮らしたそうだ。(Wik)

    XXX

    旅行時期
    2013年10月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    3.5
    ロケーション:
    3.5
    客室:
    4.0

  • ヴィリニュスのゲディミナス塔傍に最も特筆すべき標が有りました。 いわゆるバルト三国を繋いだ【人間の鎖】です。

    投稿日 2024年10月25日

    アルセナーロ通り ビリニュス

    総合評価:5.0

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    「ヴィリニュス旧市街観光(旧市街は1994年に世界遺産に登録)」
    (13:30~15:00)

    深い緑に囲まれた、リトアニアの首都・世界遺産ヴィリニュス旧市街の面積は3.6平方キロメートルと、北欧最大の旧市街には歴史的・文化的事物が多い。
    バルト二国の首都リガやタリンの旧市街と較べて、旧市街を囲む城壁がなく、更に旧市街には他で見られるドイツ騎士団・ハンザ同盟の影響もない。

    旧市街の建築物は約1,500あり、バロック様式・ゴシックやルネッサンス様式と様々なスタイルのものが見られる。特筆すべきは28のカトリック教会(この国はカトリック国ですから、当然ですが・・)に加えて、8のロシア正教会,モスク、シナゴークという宗教施設が多い事であろう。

    まず、丘の麓を通るアルセナーロ通り(Arsenalo gatvė)からゲディミナス城跡の丘にケーブルカーで登り、ゲディミナス塔より、ヴィリニュス旧市街の素晴らしいパノラマを楽
    しむこととする。

    ≪ゲディミナス城跡の丘とゲティミナス塔(13世紀・内部は小さな歴史博物館)≫

    この城には“ヴィリニュス創設の伝説”が残っている。
    『ある日、トラカイ城から、狩に出かけたゲディミナス大公は二つの川に挟まれた丘の近くに野営を張りました。その夜、大公は不思議な夢を見た。
    それは丘の上に立ち、大きく吠える鉄の鎧を着けた狼の夢でした。祭司のリジェイカがその夢を神の神託と判断しましたので、喜んだ大公はその丘に城を築くことにしたそうです。その丘がゲディミナス城跡の丘なのです。
    その伝説の鉄の鎧を着けた狼を従え、剣を振りかぶったケディミナス大公像と乗馬像は、大聖堂の前のカテドゥロス広場に見る事が出来る。

    ゲディミナス城跡の丘から、そして75段の階段を上がり、ゲディミナス塔より眺めた旧市街や3つの十字架の丘のパノラマは美しいものでした。
    やや陰ってきた秋の空でしたが、黄葉に染まった町の眺めや、ネリス川の先に見える近代建築の高層群は見厭きないものです。

    ・・・・・

    そしてここには最も特筆すべき標【人間の鎖】が有りました。

    いわゆるバルト三国を繋いだ【人間の鎖】です。他の口コミにはザックリ見た限り、書かれていないので、此処で書き残しておこうと思います。

    そのスタート時点はこの塔の下から始まったのです。別名【バルトの道】と称し、1989年8月23日、当時ソビエト連邦支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の独立運動の一環として行われたデモンストレーションを指します。

    およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600キロ以上の人間の鎖を形成したそうです。人間の鎖にどれだけの人が参加したかは報道によって異なる。
    翌日のロイター通信によれば、エストニア人70万人、ラトヴィア人50万人、リトアニア人100万人が参加したと報じている。(ソ連国家保安委員会KGBが人間の鎖を繋ぐ人々を詳細に撮影した為に、今その記録を見る事が出来るのだという)

    このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。
    1990年8月20日、三国はそろって再独立を果たした。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    5.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ヴィリニュス:聖アンナ教会は33種類の異なった形のレンガが使われ、当時のヨーロッパでは他に例がないと云う。

    投稿日 2024年10月22日

    聖アンナ (オノス)教会 ビリニュス

    総合評価:3.5

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    大聖堂のあるカテドゥロス広場を横切り、ヴィルナ川が蛇行している半島に建つ聖アンナ教会に向かう。ザンネンな事に教会は修復中で、傍のベルナルディン修道院(聖アンナ教会と同時期に建てられた。美しいフレスコ画がある)を遠くに見て帰る。 

    聖アンナ教会は写真で見ると、16世紀後半に建てられた見事なゴシック様式の教会だ。建設には33種類の異なった形のレンガが使われ、当時のヨーロッパでは他に例がない教会であるそうだ。

    この教会にはこんなエピソードが残る。
    *1812年ロシア攻め (Russlandfeldzug von 1812)のナポレオン皇帝が、この教会を見て『わが手に収めて、フランスに持ち帰りたい』と云ったとか・・・。

    *ロシア帝国が大陸封鎖令を守らないことを理由にフランス帝国のナポレオン1世がロシアに侵攻し、モスクワを占領するも結果的にロシアの冬に敗北し、退却した。ナポレオンのヨーロッパ制覇の野望及び彼の人生に対する決定的な大打撃(転換点)になった。
    尚、皇帝の行軍の道は地図で見ても、当時ロシア帝国の支配下にあったバルト三国だが、これらの国々を経由した様子がない。

    この後、Piliesピリエス通りをぶらぶらする。気にいったCaféを見つけた。

    お茶:Café Saskaitaカフェ サスカイタ  (15:20~55)
    ピリエス通り19のカフェSaskaita (現在はPilies Kepyklėlė)に入った。
    ココア4X2 =8Litasリタス 、アップルクーヘン7X1=7Litas 合計15 Litas=600円。 

    寒い日には暖かいココアが一番だ。
    美味なるリンゴのケーキにアイスがかかったものを二人で食べた。

    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    3.5

  • ヴィリニュス:3つの十字架の丘はゲディミナス塔より遠望するにとどめた。

    投稿日 2024年10月14日

    3つの十字架の丘 ビリニュス

    総合評価:3.0

    ≪ヴィリニュス:3つの十字架の丘はゲディミナス塔より遠望するにとどめた。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    ゲディミナス城跡の丘にケーブルカーで登り、ゲディミナス塔より街のすばらしいパノラマを楽しむ。

    ゲディミナス城跡の丘から、そして75段の階段を上がり、ゲディミナス塔より眺めた旧市街や3つの十字架の丘のパノラマは美しいものでした。

    3つの十字架の丘はゲディミナス城跡の丘の裏手に位置し、Kalnuカルヌ公園の山頂にあるのだが、少々行くには遠い様子だ。遠望するに留めて、その歴史を調べた。

    14世紀、キリスト教の布教にきたフランシスコ修道会7名の僧が、この地の異教徒に切り殺され、残りの人々は十字架に縛られヴィルニア川に流されたと云う(うち4人は川に流され、3人が磔にされたとも云うが・・・)。

    その死を悼む真っ白い追悼碑が、17世紀に3つの十字架としてこの山頂に建てられた。
    旧ソ連時代に破壊されたが、後に復元された。


    ・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    アクセス:
    3.0

  • 美しきリトアニア、ネリス川は≪父なる川≫ネムナス川に合流し、バルト海に注ぐ。

    投稿日 2024年10月08日

    ネリス川 ビリニュス

    総合評価:4.0

    ≪美しきリトアニア、ネリス川は≪父なる川≫ネムナス川に合流し、バルト海に注ぐ。≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)リトアニア・ヴィリニュスは快晴、マイナス0.3~10℃。>

    Holiday Inn ホリデイ イン:
    Seimyniskiu str.1 Vilnius、2600 Lithuania
    この旅最初のホテルはホリデイ イン、部屋は606号室(7F)
    2002年オープンの新しいホテルの1つ。Nerisネリス川の北岸にあり、旧市街からも近い。4星・全134室のCity Hotelである。

    *時差の関係でいつもながら、3時に目覚める。また、寝たが、結局5時に起床した。6時半にホテルの朝食がスタートするとのことで、その時刻に1Fのレストランに。やはり、バルト三国もドイツの様な豊かな朝食で嬉しい。

    朝食後、まだ時間もあったので寒々しい外気にあたって、Raduškevičius Palace(リトアニア大公が1897年に建てた)宮殿前をネリス川の北岸まで歩いてみた。緑の橋(Zaliasis Tiltas)と呼ぶ橋は、通勤時間でもあり、労働者が通勤で忙しそうに歩く、バスや車の数も多く、首都の顔を見せていた。あたり一面の霜景色に朝日が輝いて、川べりの景色は美しい。

    “リトアニアの国名の由来”は国の中央を流れるLietauka リェタウカ川(距離11kmと短い川でネリス川の支流)からきたとされている。天気が変わりやすく、雨が多いリトアニアは『雨の降る国』の意味が有るとか!
    尚、この旅で唯一、この日は快晴で、しかも素晴らしい景観に恵まれたのだ。

    リトアニアの首都・ヴィリニュスは地図で見ると地理的に偏った南東部にある。ちょうどドイツ語でDie Nerisネリス川とDie Vilniaヴィルナ川の合流地点にあり、首都ヴィリニュスという名は、このヴィルナ川に由来すると云われている。
    北のバルト海へは312kmの内陸部で、ベラルーシの国境にも近接するので、不思議な感じがするが、過去数世紀の間に国境の形が変わってしまったことに因るものだ。かつてリトアニア大公国の時代にヴィリニュスは国土の中央にあったのだが・・・。 1994年にヴィリニュス旧市街は世界文化遺産に登録された。

    リトアニア人口は 350万人(リトアニア人84%、ロシア人6%の比率はラトヴィア、エストニアと比して、自国民比率がたいへん高い。)とバルト三国では最大、国土面積も同様。ヴィリニュスの人口は550千人と大都市だ。
    ポーランドとの関係が強かった事もあって、ローマカトリック教徒が多い。

    ホテルからネリス川の北岸まで歩いたこともあって、リトアニアの河川について前述のように書いて見たが、
    更に言えば、「ネリス川」は白ロシア(現ベラルーシ)に源泉をもち、そこから白ロシアとリトアニアの大地を流れ、リトアニアの主たる都市Vilnius、Jonava、Kaunasを経由し、Kaunasで「メーメル川」に注ぐ。長さは510 km。
    ヴィルナ川はリトアニア国内を79 km流れるネリス川の支流。

    ドイツ的には気になる「Die Memelメーメル川」(リトアニア語でNemunas ネムナス)はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦 Kaliningradカリーニングラード(かつてのKönigsbergケーニヒスベルクと称したバルト海の港町)州を流れ、 Ostsee バルト海の一部であるKurisch クルシュ海に注いでいる。長さは937kmとヨーロッパで14番目に長い川である。
    リトアニア人はネムナス川(ドイツ語ではメーメル川)を≪父なる川≫とも呼ぶ。そして、リトアニア人であれば誰もが暗唱すると云う、ヨーナス・マイローニスの詩は次のような詩だ。

    『Scheschup(p)eシェシュペ川が走り、Nemunasネムナス川が流れる。我らが故郷、美しきリトアニア 』
    そして、詩と言えば、以前のドイツ国歌の1番の歌詞で歌われる地名には、上記のメーメル川が出てくる。 
    『Von der Maas bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt.
     マース川からメーメル川まで、エッチュ川からベルト海峡まで。』

    そのドイツ関連の歴史を辿ると、1252年、ドイツ騎士団はクルシュ海の出口近く、Klaipe’daクライペダに城砦を建設し、その拠点の都市をMemelburgメーメルブルク、ネムナス川をメーメル川と称した。

    しかし、領土問題はややこしく、ドイツにいまだ、こうした歌が残る。
    『Memellandメーメルラントの歌詞の一部:
    Deutsch ist das Memelland, Ist ewig, ewig, ewig deutsches Land!!
    メーメルの地はドイツ、未来永劫、永久に、永遠に ドイツの領邦! 』

    尚、ドイツ国歌;現在、ドイツ連邦共和国の正式な国歌は3番のみである。

    ・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0

  • 首都ヴィリニュスの旧市街・レストランAulaアウラでリトアニア名物の水餃子を食べた。

    投稿日 2024年10月06日

    Aula ビリニュス

    総合評価:4.0

    ≪首都ヴィリニュスの旧市街・レストランAulaアウラでリトアニア名物の水餃子を食べた≫

    【バルト三国紀行:美しき中世の街並み】
    2009年10月19日(月)~26日(月)

    訪問地;
    Lithuaniaリトアニア
    ・首都Vilniusヴィリニュス及び、かつての首都Kaunasカウナス
    Latviaラトヴィア
    ・首都Rigaリガ
    Estoniaエストニア
    ・大学都市Tartuタルトゥ及び、首都Tallinnタリン

    <2009年10月20日(火)快晴、マイナス0.3~10℃。>
    ヴィリニュス旧市街観光とトラカイ観光

    トラカイの比較的紅葉した森をバックに怖い顔のヴィタウタス大公の像を撮って、帰途に就く。ヴィリニュスまでは約25km、所要約40分とバスの旅。そろそろ昼食時間だ。


    【昼食:レストランAulaアウラ】
    12:15~13:15

    レストランは旧市街の中心にある、最も古い通りのPilies(城を意味)ピリエス通り11番地にあった。
    ミックスサラダ、リトアニア風水餃子(当地の名物、koldūnai/コルドゥナイ或いはコルドゥーナ)、木の実のケーキにイチゴジャム載せ。白ワインを飲む。
    メインの水餃子はひき肉やキノコ類、野菜などが具として中に入っている。ディルとサワークリームが添えられて、サワークリームを味付けて食べる。
    リトアニア風水餃子と称しているが、やはりかつて支配下にあったロシアやポーランド料理の影響があるのだろう。

    無愛想なご主人とちょこまか気遣う奥さんの席で、一緒に食事をする事になり、いささか、気疲れした一時間でした。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2009年10月
    利用した際の同行者
    カップル・夫婦(シニア)
    利用形態
    ランチ
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    サービス:
    3.5
    雰囲気:
    4.0
    料理・味:
    3.5

  • ウィーン:古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城でのキャンドルライト ディナーを楽しむ。

    投稿日 2024年09月27日

    オーストリア トレンド ホテル シュロス ヴィルヘルミネンベルグ ウィーン

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4月25日(日)晴、夕方より曇り 242km

    *朝食8:00、グラーツ9:15スタート、Eisenstadt 11:00 = 160km 、アイゼンシュタッド観光:Schloss Esterhazy 宮殿12:00-12:50、ハイドン博物館、昼食“Café Esterhazy“13:30-14:30、Wien15:30 = 50km、シェーンブルン宮殿見学:Imperial Tour・庭園 16:00-17:30、古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城に到着18:00、=32km

    2004年4/25(日) &4/26(月):2泊
    Hotel Schloss Wilhelminenberg古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城
    (4星) 119x2 Euro= 238 注:パッケ-ジ料金169―50=Euro 119     
    A-1160 Wien 、Savoyenstrasse 2 、   

    この古城ホテルは昨年の旅で頂いた“ウィーンのホテル案内”で見つけ、インタ-ネットでのやり取りで、予約した。
    歴史的にはこの古城ホテルは伯爵家の城として、1781年に建てられ、その後、何度かの改築があり、今の新帝国スタイルになったのは1904年です。
    現在は50もの会議等に使用される部屋と33の客室、4つのジュニア・スイ-トを持ち、ウィ-ンの西の高台にあって、30エ-カ-の広さの公園、ブドウ畑に囲まれ、ウィ-ン市を眺望できる絶好の位置にあります。

    アレンジメントのパッケ-ジ料金(Schloss Romantikシュロス ロマンティーク)で依頼した3階のジュニア・スイ-トは二つの部屋が一緒になった大きな部屋 でした。
    部屋にSektゼクト(シャンパン;“Goldeck Privat Brut”というウィーンの南、Badenバーデンの近く、Bad Vöslau バート・フェスラウのシャンパン)が一本、冷やされていて、果物籠が置かれ、さらには“びっくり箱”(石鹸や、シャンプ-、香水の類の入った)で歓迎されました。

    【ヴィルヘルミネンベルク城のキャンドルライト ディナー】
    アレンジメントのパッケ-ジの夕食は4品のキャンドルライト ディナーと称したものでした。レストランには我々の席が用意されていました。

    まず、アペリティーフは当ホテルの名が付いたSektゼクト(シャンパン)をグラスで頂き、赤ワインは給仕長に薦められた同じく当ホテル名のものを一本(Euro27.00)いただきました。

    4品料理:
    前菜として粒胡椒をかけた、鮭のスライス、
    スープはフランス風オニオンスープ、
    メインは肉料理か魚料理のどちらかを選択しました。
    写真を見ると、私が肉料理のMastochsen子牛のステーキを選び、魚料理は女性陣がPetersfischマトウダイ(的鯛)のニンニク油のソテーを選んだようです。
    デザートは柔らかく煮たりんごを磨り潰し、ビッターチョコレートのムースをかけたものでした。

    3時間(19~22)があっという間に過ぎ、さすがにウィーンは料理も美味しく、優雅なディナーを楽しめました。

    ワイン代を含め、パッケージの調整分を加え、4人分を合計するとEuro254(35千円)となり、たいへんリーズナブルなものでした。

    XXX

    部屋に戻って、またパッケージに含まれたSektゼクト(シャンパン)で乾杯ということになりました。良く冷えたシャンパンは泡立ちもきれいに上り、実に美味しいものでした。オーストリア、ニーダーエーステライヒ州を巡るワイン探訪コース494kmにでてくるBad Vöslau バート・フェスラウの産です。

    旅行時期
    2004年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    友人
    1人1泊予算
    10,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    5.0
    サービス:
    4.5
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    4.0
    客室:
    5.0

  • デュルンシュタインの小さな御土産屋でメルヘンチックな壁飾りを買った。

    投稿日 2024年09月21日

    ハウプト通り (デュルンシュタイン) デュルンシュタイン

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4/28(水) 快晴 230km

    朝食8:30、買物、古城ホテル デュルンシュタインを10:00スタート

    *王様の如く、眠った翌日は、朝食も進みます。朝食にはもったいないレストランで、多様なハム、果物類、卵、蜂蜜、ジャム、そして、新鮮なジュース等、こたえられない美味しい朝食です。日本ではまず無理な、パン、ハム、ジャム、蜂蜜の味です。

    ホテルをスタートする前、昨日同様に小さな町の中心街を散策する。石畳の通りを歩き、この地域は白ワインで有名と聞いていたので、ワインやジャムのお店を覗く。
    昨日、小さな御土産屋の閉まっていた窓越しにZinn(錫)のメルヘンチックな壁掛け等が見えました。明日は是非、訪ねて、中を見てみたいものと思っていたので、その店に行ってみた。
    気にいっていたZinn(錫)の壁飾り、特に良かったのはメルヘン話に登場する人物がお城ふう建物の各階に形作られたものです。
    値段はEURO136と高いものでしたが、思い切って購入しました。
    白雪姫、靴を履いた猫、ブレーメンの音楽隊、いばら姫、カエルの王様等が見られて、面白いものです。
    Iさんはボートに乗るサンタクロースといったものを見つけて購入していました。この形はその後の旅行中、一度も見たことが無く、お買い得品でした。 

    お店の女主人とも、会話が弾み、“オーストリアのEURO加入後のインフレ、経済の悪化、旅行者の減少といった事や、そして、日本人はどうしてそんなに肌がきれいで、若々しいのか?!私などはもう、40代なのに。えー!貴方達は60代、年金生活者なの?これは驚きだ!!“とか・・・。

    最後は”おまけ“にシシィのチョコレートを頂きました。


    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • グムンデンで最初に訪れたのは「グムンデン焼きの陶器」の工房だった。

    投稿日 2024年09月15日

    グムンデン陶器工場 グムンデン

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4/28(水) 快晴 230km

    朝食8:30、買物、デュルンシュタイン10:00スタート、BST33-Kremsクレムス、ドナウ川右岸:Schloss Schönbühelシェーンビュール城、―(Melkメルク)ATB A1/A7-Linzリンツ 13:00  = 140km 予定、昼食“Wienerwald”13:10-14:00、リンツ市内観光:リンツ城、市庁舎、州庁舎等、15:20スタート、ATB A7/A1―(Steyrermühl)-BST144-Gmunden 16:00、グムンデン陶器工場16:10-16:40、オルト城16:50-17:20、ホテル17:30= 70km 
    合計 210km予定。 

    *16時、Gmundenグムンデンに到着した。
    初めに、【Gmundner Keramik Manufakturグムンデン陶器製作所】を訪ねた。

    <グムンデン陶器工場>(16:10-16:40)
    グムンデンはオーストリアの人々にも愛用されている「グムンデン焼きの陶器」の生産地であり、早速、工場に行ってみる。
    工場見学は時間的に無理であったので、販売所に行き、土産物を探した。
    グムンデン焼きは独特の色合いだが、記念の土産にと“Teewärmerテーバーマー”(紅茶やコーヒーを温めておくもの)を一つ購入し、紙ナプキン数セットもついでに買った。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    以下はオーストリア観光局HPの説明に追記した。

    【Gmundner Keramik Manufakturグムンデン陶器製作所】
    A-4810 Gmunden 、Keramikstraße 24

    Gmundner Keramikグムンデン工房の代表的なデザインであり、熱狂的なファンに支持されているのが、「Grüngeflammtグリーンのゲフラムテ」です。
    この白地を背景に楽しげに渦を巻く太いグリーンの線は、17世紀以来、皿やカップ、花瓶、オーブンのタイルなどを、優雅に飾ってきました。

    このデザインによってグムンデン陶器工房は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇室全体の御用達陶器工房としての地位を獲得しました。それ以来、陶器工房は、オーバーエステライヒ州ザルツカンマーグート地方ののどかな湖畔の町、Gmunden amTraunグムンデン・アム・トラウンに確固たる会社として根付いています。

    オーストリアの家庭のほとんどが、グムンデン陶器の製品を持っています。そして、この中央ヨーロッパ最大の陶器製造会社の製品で、未だに最も人気が高いのが、古典的なデザインの「geflammtゲフラムテ」です。
    その次に人気があるのが、花々のデザインの「Streublumenシュトロイブルーメン」(可愛い小花)と、牡鹿の絵柄の「Hirschenヒルシェン」(牡鹿)です。この牡鹿デザインの色彩設計を、緑でも赤でもなく、エレガントなグレーに変えるだけで、皿に繊細に描かれた牡鹿の絵柄に、新たな活き活きとした命が吹き込まれ、その表情に変化を与えます。この色彩の陶器デザインは、モダンな都会生活にマッチします。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.5
    展示内容:
    4.0

  • グムンデン:トラウン湖上のSeeschloss Ortオルト城は大変古い可愛い城で、TV撮影でも人気だと云う。

    投稿日 2015年09月24日

    オルト城 グムンデン

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    4/28(水) 快晴 230km

    朝食8:30、買物、デュルンシュタイン10:00スタート、BST33-Kremsクレムス、ドナウ川右岸:Schloss Schönbühelシェーンビュール城、―(Melkメルク)ATB A1/A7-Linzリンツ 13:00  = 140km 予定、昼食“Wienerwald”13:10-14:00、リンツ市内観光:リンツ城、市庁舎、州庁舎等、15:20スタート、ATB A7/A1―(Steyrermühl)-BST144-Gmunden 16:00、グムンデン陶器工場16:10-16:40、オルト城16:50-17:20、ホテル17:30= 70km 合計 210km予定。 

    *16時、Gmundenに到着した。グムンデンはザルツカンマーグート地域で第二の湖であるTraunseeトラウン湖---南北12km、最深部は200m---の北端にあり、岩塩の交易で栄えたケルト人の町として、古い歴史に登場する。
    今はヨーゼフ皇帝の保養地としての方が有名である。先日、訪問したBad Ischlバート・イシュル は33kmの距離です。
    昔から、芸術家が訪れて、シューベルトは1825年から2年間、ブラームスは1890年から6年もこの地に暮らしたそうです。 


    今日で8日目、もう半分を過ぎてしまった!!!   

    町の南西にトラウン湖に突き出すように立っている“Seeschloss Ort・湖上の城オルト”は909年に史料に出てくるという、大変古い島上の可愛い城です。
    現在は一泊予定の古城ホテル ライトト城の経営となっていて、人気のカフェ・レストランが城内にある。
    又、素晴らしい景観をバック、この地を舞台にして、オーストリアのTV人気番組が撮影されているとのことだ。

    駐車場からの道は、自然保護地域になっていて、木々や芦が育って、鳥類等には、恵まれた場所である。

    橋を渡って、中庭に入る。城内は小さな狭い空間である。時間的に人も少なく、レストランにも人が見えない。

    橋の上から見た対岸には今夜の古城ホテル・フライジット・ライト城らしき建物も見え、周辺の緑の中、湖を囲むようにきれいな建物が並んでいる。

    青い湖には小さなボートや、ヨットが何隻か浮かんで、ゆったり、のんびりした保養地らしい眺めである。  
    この風景を見ると、イギリスやスイスの湖水地方に勝ると言われるのも納得です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    (更新:2024年9月14日)

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    3.5

  • グムンデン:トラウン湖の眺望を楽しめる古城ホテル フライジット ロイト

    投稿日 2015年09月24日

    シュロスホテル フレイシッツ ロイス グムンデン

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)


    4/28(水) 快晴 230km

    *ヴァッハウ渓谷を昨日とは逆に右岸を走り、ドナウ川を遡り、古城の跡を遠望しながら、メルクに至り、更にリンツ観光をして、17時半、Gmundenグムンデンに到着しました。先日、訪問したBad Ischlバート・イシュルは33kmの距離です。
    当地はザルツカンマーグート地域で第二の湖であるトラウン湖の北端に位置して、グムンデン陶器の産地で知られています。
    昔から、芸術家が訪れて、シューベルトは1825年から2年間、ブラームスは1890年から6年もこの地に暮らしたそうです。

    【Schlosshotel Freisitz Roith古城ホテル フライジット ロイト】
    (4星・全23室) Euro124    
    A-4810 Gmunden、Traunsteinerstr. 87             
    TEL:43(0)―7612―64905、FAX:43(0)―7612―64905―17  
    http://www.freisitzroith.at/
     

    古城ホテルは湖の東側の小高い丘の上にありました。
    昔からこの湖とその周辺を領する者の城として建てられ、16世紀の中頃に騎士の城となり、そして何回かの変遷の後、1964年、現在のようなホテルに模様替えし、1996年、現在の経営者によって、テラスレストランをふくむ、古城ホテルに生まれ変わったとのこと。19の部屋と4つのスィートをもつ、プチホテルといえます。
    部屋にも果物と共に歓迎のカードがあって、気遣いは良く感じられました。

    3階の部屋からの、トラウン湖の眺望が素晴らしく、落ち着いた色合いの部屋に大満足です。湖の周辺の高い山々はまだ一部に雪を残し、湖や湖畔の木々の青さとのコントラストは美しく、芸術家達がこの地に足を留めたのも、無理からぬものでしょう。

    丁度、窓から見る真正面に、先程まで見てきたSeeschloss Ort湖上のオルト城 ----町の南西、湖岸から湖に突き出たように立っていて、909年に史料に出てくるという、大変古い島上の城です。城までは橋が掛かっていて、現在はこの古城ホテルの経営となっていて、カフェ-レストランは人気があるようです。又、この地を舞台にオーストリアのTV人気番組が撮影されているとの事です----が見える。
    この風景を見ると、イギリスやスイスの湖水地方に勝ると言われるのも納得です。

    このホテルには“Wintergarten-Terrasseヴィンターガルテン-テラス mit seeblick湖への眺望の良いテラス付の温室の意”と称するメインレストランがあり、ARAL評価で13点。レストランは湖に向かって、ホテルの本館に併設されている。
    現代風のレストランだが、評判は良いようで、水曜日にも拘らず、19時の予約にネクタイ、背広姿で席についてみると、殆ど満席でした。
    町の会合と思われる団体客もあって、大変賑やかです。
    さすがに肌寒く、窓の外のテラス席には一組だけでしたが。              

    さて夕食は
    アペリティーフは女性陣三人がシャンパン、私がシェリーを注文。

    シェフの御挨拶が出て、次の前菜は三人がシュパーゲル(白アスパラ)のスープ、娘さん一人がジャガイモとマッシュルームのテリーヌ、カニのタルタルソース付きを。
    メインは家内はトラウン湖の川魚にベネチアン風野菜とパリ風のジャガイモ添えと、
    私は新鮮なシュパーゲルにオランダ風ソースをかけた、ジャガイモと子牛の肉を添えた料理です。これはIさん親子の二人も魚とシュパーゲルに分かれて注文した。
    デザートはアイスクリームとチーズの盛り合わせ。
    尚、食事に合わせたワイン(ヴァッハウ渓谷地域のものを中心に、メニュー参照)が用意されていて、こちらもまた十分楽しみました。

    私はアスパラずくめでしたが、全て美味しく頂きました。
    2時間半の夕食は皆さんも大変満足していました。

    19:00-21:35 Euro269.10(4人分) 

    XXX
    (更新:20240905)

    旅行時期
    2004年04月
    利用目的
    観光
    利用した際の同行者
    友人
    1人1泊予算
    15,000円 未満
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.0
    バスルーム:
    5.0
    ロケーション:
    5.0
    客室:
    5.0

  • グラーツ:ハウプト広場にある貴賤結婚したヨハン大公の像、近くの楽しいカラクリ時計は見ものだ。

    投稿日 2024年09月03日

    グラーツ市歴史地区 グラーツ

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇后 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    *旧市街にある武器博物館、州庁舎を見て、ハウプト広場にあるヨハン大公像や
    すこし離れたグロッケンシュピール広場の仕掛け時計を見る。

    <シュタイアーマルクのプリンス、Erzherzog Johannヨハン大公の像>

    ヨハン大公の像は旧市街の中心Hauptplatzハウプト広場の真ん中に立っている。
    銅像の南側には市庁舎があり、文字通りの中心地である。
    ヨハン大公が1859年に亡くなった後、1878年に銅像と噴水が一体となった形で造られた。ヨハン大公像が四人の女性を配した大きな噴水の中央にたてられている。

    Erzherzog Johann Baptist von Österreichヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ大公(1782~1859年)は、ハプスブルク家出身のオーストリア帝国の軍人、皇族であり、1848年革命期のReichsverweserドイツ帝国摂政であった。

    ヨハン大公として知られ、山登り好きで、スイスの山岳を愛したことから「アルプス王」と称され、グラーツの様々な改革をしたことで慕われ、民衆からも親しみをもって「Steiermarkシュタイアーマルクのプリンス」とも呼ばれた。
    驚くことに、平民の娘Anna Maria アンナ・プロッフル(1804~1885年:後に「ブラントホーフ男爵夫人」及び「メラン伯爵夫人」の称号を得る)と1829年2月、皇帝からの正式な許可が下り、社会的な身分差と22歳の年齢差を越えて「貴賤結婚」をした。

    尚、有名な「ヨハン大公のヨーデル」に歌われている。
    ヨハン大公のヨーデル(オーストリア民謡) Angela Wiedl - Erzherzog Johann Jodler
    https://youtu.be/YvGATm_CbMU

    <Glockenspielカラクリ時計とGlockenspielplatzグロッケンシュピール広場 >

    Glockenspielhaus: Abraham-a-Santa Clara-Gasse 4

    カラクリ時計を見るのは好きで、この町でもぜひ見たいとやって来た。
    からくり時計はグラーツの旧市街、大聖堂と市庁舎の中間くらいにある。
    このカラクリ時計は、1903年から1905年にかけて、メーカーのGottfried Simon Maurerゴットフリート・サイモン・マウラーから市への贈り物として作られた。すぐに町の人達の人気のアトラクションになり、1908年以来、その場所はグロッケンシュピール広場と呼ばれている。
    からくり時計が動くのは1日3回、午前11時、15時、18時ですが、私共は最後の機会である18時に仕掛け時計を見に来ました。

    定刻に時計のチャイムが鳴り、ドアが開き、民族衣装をつけた男女が24個の鐘の音に合わせて、踊りだす。くるくると回る単純な仕掛けですが、思っていた以上に長い15分間の踊りでした。曲目はシーズンによって変わるそうだが。
    ミュンヘン市庁舎ほどの大きな仕掛けではないものの、100年も前からきちんと動いているから、ビックリです。 

    ・・・・・

    (オーストリア観光局、およびWiki参考)


    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.0

  • ウィーン:グリンツィングのホイリゲ酒場、3時間半の飲み会を“Zum Martin Seppツム・マルティン・ゼップ“で

    投稿日 2015年08月25日

    ツム マーティン セップ ウィーン

    総合評価:4.5

    南ドイツとオーストリア周遊の旅       
    ( 2004年4月21日~5月4日 :2週間 )
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世  と 
     オーストリア皇后 エリザベート ----愛称 “シシィ” を 巡る旅* 

    4月26日(月)

    今夜はグリンツィングのホイリゲ酒場にご案内です。できたてのワインを飲ます酒場をホイリゲ---今年のという意---と呼んでいます。実際は毎年11月11日に解禁ですので、季節的には外れていますが、行って見ると、バスで来た観光客でそこらの酒場は一杯です。

    Grinzingグリンツィング---Heurigeホイリゲ“Zum Martin Sepp・ツム・マルティン・ゼップ“は以前にも来た店で、子供ずれでも、あまり違和感もありません。

    入ってみると庭には人がいっぱいで、楽人がシュランメルという19世紀にウィーンで広まった、大衆音楽をやって賑やかです。少し寒かったこともあって、我々は建物の中で食事を摂ることにしました。

    スピリッツのシュナップス、ビール、ワインをやりながら、居酒屋にぴったりのハム、ソーセージ等の料理やビュッフェカウンターでチーズ、豆、ポテト等の好みのものを取ってきて食べ、3時間半の飲み会は話も弾み、みなさんとてもご機嫌でした。
    店内を見るともう人が居なくなりつつある時刻でした。Euro100の宴も終り、それからが、又大変です。

    一方通行の道を出ざるをえなくなり、出たら道に迷い、丘の上の古城ホテル ヴィルヘルミネンベルク城に帰るのに苦労しました。私は酔った訳ではありませんが?!----最初のシュナップス、40度位の蒸留酒ですが---効いたようですね。 (18:30~22:00)

    ほんのちょっとの近さであったはずでしたのに?!!!  

    (更新:20240904)

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    一人当たり予算
    5,000円未満
    利用形態
    ディナー
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.5
    サービス:
    4.0
    雰囲気:
    4.5
    料理・味:
    4.0

  • グラーツのシュロスベルク(城山)=要塞はオスマントルコ軍の来襲に備えて築城され、難攻不落を誇った。

    投稿日 2024年08月30日

    シュロスベルク グラーツ

    総合評価:4.5

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    Grazグラーツは日本人観光客にはあまり知られていない町だが、22万人程(我が故郷青梅市と同じぐらい)の人口をもち、ウィーンに次ぐ、この国第二の都市なのです。
    手元の昭文社オーストリア・ハンガリー2003年版でもオーストリアはウィーン、ザルツブルク、インスブルックといった有名所に比して、リンツ共々グラーツは扱いも少ない、たった9頁の観光案内になっていた。 
    州都であり、大学都市とも言われ、俳優アーノルド・シュヴァルツェネッガーや指揮者のカール・ベームの出身地とのことで、なかなかの都市なのだ。

    茶色の屋根の波が続いている町並みは大変きれいなもので、町中を流れるMurムーア川(全長464km)で新・旧市街が分かれている。
    そのムーア川の中州に妙なドームのような建物があった。一見して、シュヴァルツェネッガーが“寄進”したものかと思った。
    「ムーア川に浮かぶ貝」という名のMurinselムーアインゼル(ムーア島)だ。2003年、この年の「欧州文化首都」にグラーツが選ばれたことを記念して建造されたそうだが、昨年の完工だけにまだ新しいが、奇妙な形がこの町にそぐわないようにも思えた。
    ムーアインゼル(ムーア島)は長さ約50m、幅約20mで、人工の中洲に2本の桟橋でもって、両岸とつながっている。建物の中にはカフェとシアターがあるそうだ。
    この時はただフーンと思って、写真に撮っただけだ。

    さて、旧市街にある古城ホテルSchlossberg Hotelにチェックインし、車もパークハウスに入れてもらい、早速、市内観光に出かける。ホテル近くの岩盤をくりぬいたリフトで、城山に上る。グラーツのシンボルである時計塔をみて、市内の眺望を楽しんだ。

    <Schlossbergシュロスベルク(城山)とUhrturm時計塔>
    シュロスベルク(城山)は旧市街の北部、海抜473mの高さにあり、かつて欧州を悩ませたオスマントルコ軍の来襲に備えて、皇帝Ferdinand Iフェルディナント1世(1503~1564年)によって築かれた城塞は、全時代を通じもっとも堅固な城塞とされている。
    19世紀初頭、皇帝ナポレオン1世(1769~1821年)でさえも、この城塞を陥落させることができなかった。1809年、ナポレオン軍がウィーンを占領したため、グラーツも降伏せざるを得なかったと云う。降伏時、要塞の施設は今に残る鐘楼と時計塔を除いて全て破壊された。
    28mの塔に掲げられた時計は、1712年来、正確に時刻を刻み続けていると云う。
    (オーストリア観光局の資料参考)

    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    景観:
    5.0
    人混みの少なさ:
    4.5

  • グラーツで見たかったのは州立武器庫、見事な彫り物がある銀製の甲冑が気に入った。

    投稿日 2024年08月28日

    武器博物館 グラーツ

    総合評価:4.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    <2004年4月24日(土)朝は小雨、曇り後晴、時々シャワー、246km>
    Graz 13:30、グラーツ午後市内観光:エレベーターで城山へ。時計塔、
    昼食“Aiola”14:40-15:40、武器博物館、州庁舎、市庁舎、ハウプト広場、
    ヨハン大公像、劇場、王宮、Cafe17:20-17:50、グロッケンシュピール
    (仕掛け時計)18:00。 

    *Grazグラーツに向かう。Radstadt を経由し、時折の雨シャワーの中、エンスタール渓谷をぬけ、山間の村々も目覚めだした春を感じさせて、快い運転が続く。途中、Groemingと言う小さな村落で、コーヒータイムを取る。渓谷中流の城、Trautenfelsトラウテンフェルス城を---ちょっと、寄り道をしたい城でしたが----横目に、ひたすらグラーツに向けて走る。国道から、さらに高速道路にのり、延々と続く、滑り台のような、下りの高速道路を一路、グラーツへ走る。凡そ250kmを走り、13時半、ホテルに到着する。

    Grazグラーツは22万人程の人口をもち、ウイーンに次ぐこの国第二の都市です。
    州都であり、大学都市とも言われ、俳優アーノルド・シュヴァルツェネッガーや指揮者のカール・ベームの出身地とのことだ。
    茶色の屋根の波が続いている町並みは大変きれいなもので、町中を流れるムーア川で新・旧市街が分かれています。

    旧市街にあるホテルにチェックインし、車もパークハウスに入れてもらい、早速、市内観光に出かける。ホテル近くの岩盤をくりぬいたリフトで、城山に上る。グラーツのシンボルである、時計塔をみて、市内の眺望を楽しむ。

    リフト傍のレストランで簡単な食事をすませ、町中の州立武器庫(武器博物館)をさがす。
    地図を見誤ったか?通り過ごしてしまった。

    【グラーツで見たかったのは州立武器庫(武器博物館)】

    15世紀オスマントルコへの東の砦として、グラーツは重要な位置を占めていた為、この5階建ての建物一杯に、世界最大(3万点以上の展示)と云われる武器が集められた。
    甲冑、槍、銃、刀が各階に一杯である。
    見事な彫り物がある銀製の甲冑など、私には大変興味深いものであったが、女性陣には面白みが無かったか?


    ・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    1-2時間
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    4.0
    展示内容:
    5.0

  • シュタルンベルク湖畔のBergベルクはルートヴィヒ2世の終焉の地である。

    投稿日 2024年08月26日

    ヴォティーフ礼拝堂と記念十字架 バイエルン州

    総合評価:5.0

    【シュタルンベルク湖畔のBergベルクはルートヴィヒ2世の終焉の地である】

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *バイエルン国王 ルートヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    (2004年4月21日-5月4日)

    5月02日 (日) 曇り、後晴 78km

    朝食8:30、ホテル・カイザリンエリザベートをスタート9:30、行程は昨日と同じ= 60km予定、ミュンヘン市内観光:アルテピナコテーク美術館・昼食“アルテピナコテーク・カフェ”・ノイエピナコテーク美術館、=>Bergベルク:ルートヴィヒ2世終焉の地、礼拝堂、Hotel Schloss Berg のカフェ16:10-16:40、ホテル・カイザリンエリザベート17:00。 

    *ミュンヘンには心残りもあるが、これを残してはいけないと、シュタルンベルクゼー・フェルダフィングの対岸にあるBergベルク・・・*Ludwig II.ルートヴィヒ2世の終焉の地・・・に車を走らせる。

    Hotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルクの駐車場に車をおき、徒歩で水辺にあるという最後の地に向かう。登り降りの村の道を通り、森の中の道を行くと、目の前にルートヴィヒ2世のVotivkapelle(奉納された)礼拝堂が出てきた。
    礼拝堂の正面玄関下の湖畔に、水際から数メートルの位置に、十字架が立っている。
    折から急に雨模様の暗い天気になり、水面は暗い。

    1886年6月12日、ルートヴィヒ2世は*精神的障害ありとして、40歳の王は逮捕され廃位されたのち、ベルク城に幽閉された。
    翌13日朝、ルートヴィヒ2世は医師のBernhard von Guddenベルンハルト・フォン・グッデンと共に散歩に出たまま帰らず、雨も激しく、暗い湖上に其の遺体が発見される。いまだに、二人の死は自殺か、他殺なのか、不明で、謎の死となっている。
    公式発表に従うところによると、1886年6月13日にベルク城から遠くないシュタルンベルク湖にて溺死したという。
    その後、亡骸が発見されたシュタルンベルク湖畔にはルートヴィヒ2世を偲ぶVotivkapelle(奉納された)礼拝堂が建てられ、岸に近い湖面に木製の十字架が建てられている。

    *Ludwig II.ルートヴィヒ2世(1845年8月25日 - 1886年6月13日)は、第4代バイエルン国王(在位:1864年 - 1886年)。戯曲・オペラに魅了され、長じては建築と音楽に破滅的浪費を繰り返した「狂王」の異名で知られる。ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場を残し、後者には文字通り世界中より音楽愛好家が集まっている。若い頃は美貌に恵まれ、多くの画家らによって描かれた。

    シュタルンベルク湖の観光船の船着場もある、*古城ホテル シュロス ベルクのテラスでコーヒー、カプチーノ、アイスコーヒーを飲み(EURO 20)、近くを気持ち良さそうに、ボートを漕ぐカップルを眺めて、ゆったりとした時間を過ごす。

    終焉地にいた時は暗い、ぽつぽつと雨が降り出した天気でしたが、不思議な事に、ここは青空に、明るい陽の光です。もうテラスは客でいっぱいです。

    *Hotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルク
    D-82335 Berg、Am Oelschlag 9、
    TEL:49(0)8151-9630

    4年後、2008年4月18日(金)~20日(日)に2泊した。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    * Luitpold von Bayernルイトポルト・フォン・バイエルン(1821~1912年)はノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)で知られるバイエルン王ルートヴィヒ2世の叔父にあたり、1886年6月10日、ルートヴィヒ2世は精神病であると宣言された際に、王国の摂政(Prinzregentプリンツレゲント)となった。国民に人気もあって、各地にその名を付けた場所も多い。
    但し、ルイトポルトは1912年に91歳で死去するまで摂政の地位にあった。摂政の地位は長男ルートヴィヒが嗣いだ。
    摂政ルートヴィヒは翌1913年にルートヴィヒ2世の弟でバイエルン王だったOtto Iオットー1世(1848~1916年)を廃位し、自らルートヴィヒ3世(第6代バイエルン王:在位は1913~1918年)として即位した。

    =>ルートヴィヒ2世の死は破滅的浪費を繰り返した「狂王」の一面も影響したのだろうが、叔父一族との闇に隠れた政治的争いがあったように思える。

    ・・・・・

    【Schloss Berg シュロス ベルク】
    Bergベルク、 Landkreis Starnbergラントクライスシュタルンベルク、Oberbayernオーバーバイエルン、 Bayernバイエルン、
    Wittelsbacherstraße 29ヴィッテルスバッハーシュトラーセ29、
    Nähe Parkwegネヘ パークヴェーク

    Schloss Bergベルク城は、南ドイツのバイエルン州にあるシュタルンベルク湖の東岸に建つ城である。
    (前述したHotel Schloss Berg 古城ホテル シュロス ベルクとは違っている)

    バイエルン選帝侯Ferdinand Maria von Bayernフェルディナント・マリアが1676年にFamilie Hörwartホルヴァルト家から土地を買い取り、城を建てたのが始まりである。豪華なパーティや狩猟大会などでこの城がもっとも栄華を極めたのはMaximilian II. Emanuel (Bayern)マクシミリアン2世エマヌエルと Kaiser Karl VII.神聖ローマ皇帝カール7世の時代であった。

    1849年から1851年にかけて、バイエルン王マクシミリアン2世は新たに土地を買い足し、王室建設官Eduard von Riedelリーデルによって大規模な増改築を行った。

    ルートヴィヒ2世はこの城を夏の離宮として利用した。毎年5月11日になると王は居城をベルク城に移し、ここから国政を取り仕切った。このため、ベルクとミュンヘン王宮のあいだには専用の電信回線まで引かれていた。
    1868年、ロシア皇后 Marija Alexandrownaマリア・アレクサンドロヴナ(Marie von Hessen-Darmstadtヘッセン・ダルムシュタット大公女の出)がルートヴィヒ2世の招待を受けてベルクを訪れた。ルートヴィヒ2世はロシア皇后マリアの滞在中、豪勢に準備させたこの城を居城として明け渡したが、その時以外、王自身の生活のためにはむしろ簡素にされていた。
    ルートヴィヒ2世の死後、ベルク城は博物館となった。王の死後よりまったく手を加えられておらず、歴史的価値が高いとして、1939年には記念館に認定された。
    第二次世界大戦直後の一時期、城はアメリカ軍に使用されていた。第二次世界大戦によって特に被害を受け、崩壊した各塔は、1949年から1951年にかけて取り除かれ、城の根本的な改装がなされることとなった。これによって城は塔を失ったが、礼拝堂は手付かずのまま残された。 (Wiki参考:抜粋)

    (2024年8月25日Wiki・HP参考、訳・編集追記)

    旅行時期
    2004年05月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    2.5
    コストパフォーマンス:
    5.0
    人混みの少なさ:
    3.0
    展示内容:
    3.0

  • ハイドンゆかりのアイゼンシュタットには美しいエステルハージ宮殿がある。

    投稿日 2024年08月22日

    エスターハージー宮殿 アイゼンシュタット

    総合評価:5.0

    ≪南ドイツとオーストリア周遊≫
    *ドイツ・バイエルン国王 ルードヴィヒ2世 と 
     オーストリア皇妃 エリザベート・・・・愛称 “シシィ”を 巡る旅*
    ( 2004年4月21日-5月4日)

    2004年4月25日(日)晴、夕方より曇り、242km

    朝食8:00、グラーツ9:15スタート、ATB A2-(Wr.Neustadt) S4-Eisenstadt 11:00 = 160km 、アイゼンシュタット観光:Schloss Esterhazyエステルハージ宮殿12:00-12:50、ハイドン博物館、昼食“Café Esterhazy“13:30-14:30、A3/A2―Wien15:30 = 50km、シェーンブルン宮殿見学:Imperial Tour・庭園 16:00-17:30、古城ホテルHotel Schloss Wilhelminenbergヴィルヘルミネンベルク(4星・2泊)18:00、

         
    *ハイドンゆかりのハンガリー風な町であるEisenstadtアイゼンシュタットはブルゲンラント州の州都です。といっても人口は13千人というもので、わが故郷青梅市よりもずっと少ない(人口比で十分の一)町です。
    オーストリア東部からハンガリーに広がるPannoniaパンノニア地方の平野の中に、この魅力的な町はあります。周辺にはブドウ畑が広がり、温暖な気候にも恵まれて、良質なワインが生産されるとの事です。
    あの Wolfgangseeヴォルフガングゼーにあるホテル白馬亭で飲んだ赤ワインも州は違いますが、大雑把には地域的にここに近いものと言えましょう。
    町には予定時刻に着きましたが、道を間違い、更に悪いことに市民マラソンの眞最中です。一方通行道路を待たされて、何とか宮殿の地下駐車場に車を入れる事になりました。

    【ハイドンゆかりのアイゼンシュタットには美しいエステルハージ宮殿がある。】

    エステルハージ宮殿は1672年にバロック方式で建てられたエステルハージ侯爵の城です。富を背景とした侯爵家のコレクションは見事なものでした。
    又、宮廷文化の担い手として、ハイドンはここの宮廷の楽長を務め、ハイドン廟、ハイドン博物館、ハイドン音楽祭と、今、この町はハイドン抜きでは語れません。

    宮殿内のハイドン広間では地元中学生のオーケストラが熱心に練習をやっていました。
    しばしの音楽鑑賞です。

    <エステルハージ家の歴史>
    Haus Esterházyエステルハージ家 は、中世から続くハンガリーの貴族である。いくつもの分家がある。
    17世紀からハプスブルク帝国、オーストリア・ハンガリー帝国末まで、ハンガリー王国最大の大地主であり、事業家であった
    元はハンガリー王国の北にあるガランタ(現在のスロヴァキア南西部にある一都市)にあるジェントリであった。一族は、エステルハージ・ニコラウス伯爵(1583–1645)と息子のエステルハージ・パール(1635–1713)侯爵の代で台頭する。
    ハンガリーでは姓名の順で名を表す慣習があるため、それに倣った。
    1626年にニコラウスは伯爵の地位を授けられ、1712年にエステルハージ本家は侯爵の地位を与えられた。エステルハージ家の成功は、着実な土地の蓄積と、カトリック教会とハプスブルク家への忠誠に起因する。

    <ハイドンの事>
    Franz Joseph Haydnフランツ・ヨーゼフ・ハイドン( 1732年~1809年)は交響曲の父と呼ばれる。ハイドンはエステルハージ家に楽長として仕えた。
    現在のオーストリア出身の音楽家であり、古典派を代表する作曲家で、数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。

    特筆すべきは弦楽四重奏曲第77番(第62番)の第2楽章にも用いられた皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』の旋律は、現在ドイツ国歌に用いられている。

    <エステルハージートルテの事>
    Eszterházy Torteエステルハージートルテはハンガリーのケーキの一種。
    オーストリア帝国の外交官であったPaul Anton、Fürst Esterházy de Galantha パウル・アントン・エステルハージ・ガランタに因んで名付けられた。
    19世紀後半にブダペストの菓子職人によって考案され、すぐにオーストリア・ハンガリー帝国で最も有名なケーキの一つとなった。


    見物後、宮殿前の“Café Esterhazyカフェ・エステルハージで昼食(EURO 42・・・13:30~14:30)し、その後は一気にウィーンに向かった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    旅行時期
    2004年04月
    利用した際の同行者
    友人
    観光の所要時間
    半日
    アクセス:
    4.0
    コストパフォーマンス:
    4.0
    人混みの少なさ:
    5.0
    展示内容:
    4.0

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jijidarumaさんにとって旅行とは

傘寿(80歳)を過ぎましたが、ドイツ旅行を回顧しながら、投稿を楽しんでいます。
かつての駐在時代より、古城巡りや古城ホテルに宿泊するのが大好きで、各地を巡りながら、そこに残る伝説・民話を見つけては、訳してきました。
ここではそうした伝説・民話を中心にご紹介しながら、古城巡りや古城ホテル、グルメ体験などについても、掲載してきました。
ご興味あれば、お立ち寄りください。

プロフィール写真は
シュパンゲンベルクのマルクト広場:相思相愛のクノーとエリゼの二人の像

Spangenbergシュパンゲンベルク:
http://www.spangenberg.de/cms/
ヘッセン州北部のシュヴァルム・エーダー郡に属す人口6千人の町シュパンゲンベルクは今年で都市権710年になる。カッセルの南東に、直線距離で35 km の距離にある。
この町に残る伝説はグリム童話にも掲載されているが、その事から2000年から公式に「Liebenbachstadtリーベンバッハシュタット」と称している。
木組みの家並みが続く旧市街は小さいながらもなかなか良いもので、その中心は庁舎ラートハウス、3階建ての石造りの建物だ。ラーツケラー(レストラン)もあり、マルクト広場を木組みの家が囲んでいた。
その一角に相思相愛のクノーとエリゼの二人の像・・・劇的なシーンを描いているLiebenbachdenkmalリーベンバッハ(恋人たちの小川の意味)記念碑と泉があった。像の裏手には、原野の土を二人が掘り、山の源泉から水を村まで引いた話を示すような鍬が二本、その伝説を語るように置かれていた。
傍には記念碑が建てられた頃の写真や、当時のラートハウスやマルクト広場周辺の家並みを写したものなど、その歴史を説明するように看板が立っていた。

<シュパンゲンベルグ:村に残るクノーとエリゼの相思相愛の伝説 番外編参照。>

https://4travel.jp/travelogue/11528725

(2022.11.16.)

自分を客観的にみた第一印象

大好きな場所

ドイツ

大好きな理由

定年後、かつての駐在を懐かしみ、毎年、ドイツ各地の古城を巡り、様々な古城ホテルの滞在を楽しみながら、レンタカーでドイツの田舎道を31,000km走ってきました。
春が11回、夏1回、秋が4回、クリスマスが1回と、定年後の旅はもう17回となります。
2020年に予定していた18回目は武漢ウイルスの為、延期のままとなり、ロシアのウクライナ侵略の勃発もあり、結局2023年もドイツの旅を見送ってきました。2024年はどんな年になるのだろう。
(2023.11.28.変更)

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