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阿伎留神社 施設情報・クチコミに戻る

旧五日市町・武門の崇敬も篤かった古社・阿伎留神社境内には岸 忠左衛門翁の胸像と顕彰碑が立つ。

  • 4.5
  • 旅行時期:2022/04(約2年前)
jijidarumaさん

by jijidarumaさん(男性)

あきる野・秋川渓谷 クチコミ:7件

2022年4月23日(土)青梅の釜の淵公園を散策してから、あきる野市三内・小机邸「隠れ家」カフェ・安居(あんご)を訪ね、その後久しぶりに旧五日市の町を走った。
旧五日市町には母の実家がまだ残り、懐かしい街なのだ。

この町では、寺では古刹・広徳寺(こうとくじ)、神社は古社・阿伎留神社(あきるじんじゃ)が双璧である。
いずれも我が家には縁がある。

【阿伎留神社(あきるじんじゃ)】
あきる野市五日市1081

JR五日市駅から歩くと、上り坂を歩くのがキツイが、およそ15分ぐらいの距離だ。
秋川沿いの丘の一角に立っている。

(歴史)
平安時代初期の延喜式神名帳に、武蔵国多摩郡八座の筆頭にあげられる武蔵国内著名の古社である。正式には「阿伎留」と書くが、かつては「畦切」「秋留」などとも書かれた。
鎮座地から松原大明神と称し、江戸時代には春日大明神と称したこともあったという。

創建年代は不詳ながら、すでに元慶8年(884年)武蔵国正五位下勲六等畦切神を従四位下に叙するという記事が『三代実録』に見える。
武門の崇敬も篤く、藤原秀郷(平安時代の武将、別名俵(田原)藤太、百足(ムカデ)退治伝説が有名)は平将門の征討にあたり、戦勝祈願をしたという。
源頼朝、足利尊氏、後北条氏も社領を寄進している。天正19年(1591年)には徳川家康より朱印地10石を献じられた。

天保元年(1830年)五日市の大火により、社殿等一切を焼失した。明治6年郷社となる。幕末維新の混乱の中で社殿の再建は進まず、明治21年(1888年)に至り、ようやく現在の社殿が完成した。
現在三日間の神幸祭は近郷一の大祭として毎年行う。
天保年中に制作された六角神輿は屋根・胴すべて珍しい六角形で貴重なものだ。

尚、五日市郷土の偉人・第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞、日本赤十字病院看護婦監督を長く務め、『聖女』とか、『看護婦の鑑』、『日本赤十字社の明星』などと讃えられた萩原タケ女史(私の祖母の従姉にあたる)は、ここの境内で旧会津藩士に柔術を習っていたと云われる。・・・「聖女の道標」・夢酔 藤山著・・・

また、母の一番下の叔父が岸 儀一五日市町町長の一人娘と結婚し婿入りしたが、ここに登場する岸 忠左衛門翁(1869~1935年・昭和10年)は祖父にあたり、当地の有力者であった小机家と一緒に地域の大事業を為した。
阿伎留神社の境内、鳥居の右手にそれを顕彰した翁の胸像と顕彰碑が立っている。


【阿伎留神社境内に立つ岸 忠左衛門翁の胸像と顕彰碑】

岸 忠左衛門翁は、明治大正の両世代にわたり、西多摩郡会議員、五日市町長、東京府会議員を歴任、当地方発展のために生涯を捧げられました。
その間よく郷党の総意を結集し、豪毅果断な実行力をもって、各種の開発事業を興し、郷土の近代化に貢献されました。
わが秋川の郷に初めて電燈を灯し(大正5年)、汽車を走らせ(大正14年)、水道をひき、文化の恵沢をもたらしたのは、ひとえに翁の功績であります。

ここに翁の生誕百年に際し、われ等遺徳をしのぶ者、胸像を建設して、永く後世にその偉業を讃えるものであります。

昭和四十三年(1968年)九月二十八日 
  
岸 忠左衛門翁顕彰会 会長 小机 武   他 有志一同 


・・・・・・・・・・・・・・・・

施設の満足度

4.5

利用した際の同行者:
カップル・夫婦(シニア)
アクセス:
3.0
人混みの少なさ:
4.0
見ごたえ:
4.0

クチコミ投稿日:2022/09/06

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