旅好者さんのクチコミ(36ページ)全6,282件
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投稿日 2022年09月09日
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:5.0
水の子島海事資料館・渡り鳥館には、たくさんの鳥の剥製がありました。その数、62種、550羽だそうです。今は仕事としてはなくなった灯台守の方が、1963年(昭和38年)から1984年(昭和59年)の約20年間に、お務めされていた水の子島灯台の明かりに方向性を失って?衝突死した渡り鳥たちだそうです。これらの鳥のDNAにはまだ灯台というものが刷り込まれていないのでしょうね。それにしても種類の多さに驚かされます。しかも夜に移動をしている鳥の多さです。今は無人で運用されている灯台ですが、どのくらいの数の鳥が亡くなっているのでしょうか。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:5.0
現在は、灯台は無人コントロールされているそうですが、イメージとしては、灯台といえば灯台守が思い浮かびます。しかも、僻地にあるのが灯台だとも思います。その代表の様な灯台の1つが水ノ子島灯台だそうです。豊後水道の真ん中近く、九州本土より14.5kmも離れたところにある、海中の小さな孤島とのことです。普通は灯台の足下に造られる待息所と呼ばれる灯台守の住居ですが、水ノ子島には狭くて造れなかったので、本土のこの地に待息所が造られ、現地の最低限の施設とは2週間交代で守り通したのだそうです。その待息所がこの海事資料館の建屋で、1903年(明治36年)に建てられたものだそうです。灯台守の生活様子や資料などを展示されていました。思い返してみると、待息所の中や灯台守の生活の様子は、映画の中の世界で知っているつもりになっていましたが、実際のところが公開されていて、見学したのは初めてだった様に思いました。
余談ですが、水ノ子島海事資料館の横に、入口の上に1985と書かれた赤っぽい頑丈そうに見える、大きな建物がありました。但し、ガラスは汚れていて使用されていないのは明らかです。これの正式名は水の子島多目的集会施設といい、ここの集落・下梶寄の公民館なのだそうです。誰が建てたのかですが、水ノ子島灯台の無人化が1986年(昭和61年)です。これに伴い、90年間の官舎を閉るのに当たって、地元に感謝をして運輸省が建てたのではないかと推測します。なかなか粋なことをするなぁと思いますが、10軒もない小さな集落に公民館は要らなかったのです。如何にも小役人の浅知恵ですねぇ。しかし、このまま朽ちるのを待つのはもったいなさ過ぎます。追加予算を付けて、地元に寄与するものに転用しなければと思いました。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
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投稿日 2022年09月09日
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
丹賀砲台園地から県道604号線を進み、宮ノ浦港からは坂道を上がっていった先に、元の間海峡段々展望所がありました。何をデザインしたのか分りませんが石組みの展望台があり、目の下に元の間海峡があり、その先には大島がありました。鶴見半島の地蔵崎と大島の立花崎を隔てる元の間海峡の幅は約500mあるそうで、速い潮の流れが見えます。大潮の時は潮位の差が1mにもなって、見応えがあるそうですが、訪れた時はそこまではない様でした。また、近くの海岸線から見る分には、元の間海峡標は見えますが、潮流はほとんど分りませんでした。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
県道604号線の女郎崎トンネルの手前から入ったところに丹賀砲台園地の入口がありました。ここは豊予要塞の1つで、巡洋艦「伊吹」の後部主砲のカノン砲が転用して据えられたとのことです。開戦後、試射をして、射程10kmを4発、続いて、射程20kmを4発と続けたところ、最後の1発が砲身内で暴発してしまい、死者16名、負傷者23名の大事故になったのだそうですね。こんな歴史があったことはまったく知りませんでした。ドーム屋根を被せられた砲塔井は、直径10m、深さ12.8mで、今も暴発の傷が残ったままでした。丘上からは砲台を置くくらいですから見晴らしが良く、右から鶴見半島の先端近く、元の間海峡、大島と並んでいました。丘下の入口近くには、忠魂之碑と刻まれた事故の犠牲者の慰霊碑がありました。前には砲弾が据えられていますが、犠牲者は見たくもないのではないかと思いました。その横に平和の塔と刻まれた慰霊碑がありました。太平洋戦争で亡くなった旧鶴見町の方々465名の名前が刻まれているそうですが、その数の多さに驚かされますね。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
間越(はざこ)海岸は、鶴見半島北側の猿戸港のところから狭い半島を越えた南側にありました。目の前に拡がる湾は米水津(よのうづ)湾です。ちょっと沖に、アクセントの様に小さな白子島がありました。岸辺には小さな漁港があり、海水浴場もあります。また、枕詞に「渚の交番」が付く「はざこネイチャーセンター」がありました。ここの浜辺にはウミガメが産卵にやってくるそうで、そのウミガメの調査や保護を始めとする活動をしているとのことでした。また、宿泊をして漁村体験も出来るとのことです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 景観:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:3.5
鶴見半島北側の猿戸港のところから、狭い半島越えをしたところが米水津(よのうづ)湾でした。その奥まったところに間越(はざこ)海水浴場がありました。そこに近付いたところに龍神湖があり、間越海水浴場はその海側となります。龍神湖に流入する川はないので潟湖であり、間越海水浴場のあるところは太い砂州が形成されたのでしょう。ここは砂ではなく砂利の浜辺ですが、奥行きがあり、長さは1kmくらいありました。この浜ではウミガメの産卵が行なわれるとのことです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- アクティビティ:
- 3.0
- 景観:
- 3.5
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 水の透明度:
- 3.5
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投稿日 2022年09月09日
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投稿日 2022年09月09日
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投稿日 2022年09月09日
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:3.5
訪れる人影もない佐伯市平和祈念館やわらぎを訪れました。見学を終えると、何だか、戦争を肯定している様な印象も受けました。なるほど、名称は戦争の悲惨さをやわらげるいう意味なのかと穿った見方をしてしまいました。もっと、絶対に戦争を否定することに集中して欲しいと思いました。裏に廻ると、(旧)連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地碑がありました。歴史的にはそういう場所なのかと思いますが、何か、佐伯はそういう誇り高い地なのだと言っている様に感じてしまいました。(ちょっと神経がぴりぴりし過ぎだとは思いますが・・・)
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 2.5
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 3.5
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
善教寺は、本馬場通りから新丁通りに入ったところにありました。前身となるお寺の創建は1406年(応永13年)に現在の弥生の地とされています。毛利家の治世となると城下に遷って善教寺と号し、1607年(慶長12年)には東本願寺末寺となっています。これは初代藩主・毛利高政の生母が東本願寺の門徒だったからで、生母が1627年(寛永4年)に亡くなるとその菩提寺となっています。また、佐伯藩にはで、改易された元松本城主の石川康長(石川数正の長男)が預けられていました。後田の地に幽閉されていましたが、1643年(寛永19年)に亡くなると、真宗の熱心な信徒だったことから、善教寺を現在地に遷すとともに、遺骨と法名を安置しました。(墳墓は築かれていません)なお、山号は法輪山で、真宗大谷派のお寺さんです。
このお寺さんの東辺のところの道路はカギ型に曲がっていました。ほかのお寺さんでも同じ様なカギ型のところに山門を設けていましたが、この善教寺の山門は真っ直ぐな新丁通りにありました。どこかのタイミングで山門などの場所を変えているのかも知れません。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:3.5
佐伯藩は、1713年(正徳3年)に養賢寺の南の地域に調馬場を造ったそうです。養賢寺から南へ延びる道は本馬場通りというそうなので、その名残なのでしょう。1719年(享保4年)には、養賢寺前から現在の中川の畔にあった囚獄所まで長堤を築いて松を列植したそうです。これが本馬場通りにある堤と松並木だと思います。(松の木は当時のものではありませんが・・・)この長堤は防潮堤だともいわれているそうです。1707年(宝永4年)に起こった宝永地震では、城下は津波に襲われ、大手前では1.5m、場所によって2.7m~3mも浸かったそうです。津波被害から年数も経っているし、一部に堤を築いても効果はないですから、真偽の程は分りませんが・・・。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.5
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:3.0
歴史と文学のみちを進んできたら、大きなお寺さんがありました。佐伯藩主・毛利家の菩提寺である養賢寺です。1605年(慶長10年)に、初代藩主の毛利高政が創建したものです。表から見ると、本堂の大きな銅瓦葺きの屋根が見えます。1929年(昭和4年)の建立だそうです。この本堂の裏手の1段高いところが、歴代藩主の墓所があるそうですが、今のところ拝観は禁止となっていました。観光面から拝観できる様になると良いと思います。なお、山号は龍鼎(りゅうてい)山で、臨済宗妙心寺派のお寺さんです。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
山際史跡広場のちょっと北に、国木田独歩館がありました。国木田独歩に関する資料が展示されていました。細い通路の奥まったところにあると思ったのですが、お庭の横を通っていたのでした。ここは、鶴谷学館の教頭として赴任した独歩と弟さんが下宿した、鶴谷学館館長坂本永年宅だとのことです。といっても、1893年(明治26年)10月から1894年(明治27年)6月までですから、わずか8ヶ月間だけだったのですね。
この建物は、1839年(天保10年)に藩主・毛利家の別邸・御浜御殿として建てられたもので、佐伯藩の重臣だった坂本家が譲り受け、1875年(明治8年)に移築したものだそうです。坂本永年が館長をしていた鶴谷学館は1890年(明治23年)に、元藩主の毛利高範子爵が中等教育のために設立した私学で、場所はさいき城山桜ホールの150mくらい東方の辺りで、製紙工場を改造した2階建てだったそうですね。
文豪の好きな人、特に国木田独歩が好きな人にとっては堪らないところだと思いますが、個人的には毛利家の別邸・御浜御殿としての方に高い価値を感じてしまいます。上級武士の屋敷とはひと味も、ふた味も違う藩主の別邸なのですからね。2階建てといっても中2階の様な部屋は藩主はどんな風に使っていたのかなんて興味が尽きません。- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 3.5
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投稿日 2022年09月09日
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
佐伯市茶室汲心亭の入口の横に、安井(あんせい)がありました。8代藩主・毛利高標の頃の藩医であった今泉元甫が私財を投じて掘削した3つの井戸(三義井)の1つだとのことです。干潟を埋め立てた土地柄ですから、真水の不足は日常的な問題だったと思いますが、それまでの歴代藩主の150年以上の間に、なんの対策も講じていなかったのかなと、不思議に思いました。また、余計な詮索ですが、安井のある山際通りは、江戸時代は上級武士の住む屋敷街ですよね。反対側は防御策で田沼だったそうです。そうすると、上級武士は自前で井戸を掘ることができたでしょうし、近隣には一般庶民は住んでいないのですから、この義井は誰のためのものだったのかなぁ・・・と考えてしまいました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
お屋敷の土屋邸から北に100mくらい進んだところに佐伯市茶室汲心亭がありました。階段上に渋みが出てきた門があります。ここは御米蔵だったところだそうで、門の横に案内の石碑が建っていました。茶室・汲心亭の名は「お茶を汲むということはお客様に心を汲んで接待する」の意があるそうです。ということで、ここではお茶を頂くことが出来ます。中には本館となる「更深軒」と草庵の「五味庵」がありました。更深軒は路入桃源深更深(路は桃源に入りて深くして更に深し)との意味が込められていて、五味庵は人の心のありようによって、お茶が五味(甘い、辛い、すっぱい、苦い、塩辛い)に変化することを表わしているそうです。なお、訪れた時は、五味庵は扉が閉められていました。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2022年09月09日
総合評価:4.0
佐伯藩の藩医をつとめていたという、お屋敷の土屋邸の敷地の一部なのかなと思うところに、大きな屋敷門がありました。前に薬医門と刻まれた案内の石碑が建っていました。佐伯市歴史資料館の正門も薬医門で、元は藩のお役所の入口にあって「三府御門」と呼ばれていたそうですね。それと比べると、こちらの門の方が遥かに大きくて、屋根も反り上がっていて立派ですから、家老職の様な重役さんのお屋敷にあった門の様に思われます。但し、どなたの屋敷にあったものなのかを書いたものが見付かりませんでした。
- 旅行時期
- 2022年05月
- 利用した際の同行者
- 友人
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0












































