たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(13ページ)全1,854件
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- 基本情報
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投稿日 2021年07月28日
総合評価:5.0
幕末の大老井伊直弼は安政の大獄で反対論者の粛清を行い、その反動で起こった桜田門外の変によって命を落とした。譜代大名でありながら微妙な立ち位置になった彦根藩主井伊氏の16代藩主直憲は、幕府の処分緩和に奔走するが、その甲斐なく減封処分となる。譜代大名の筆頭格であった井伊氏に対する処遇は到底受け入れられるものではなかったらしく、幕府との関係は悪化して行った。
幕命に従い尊王攘夷派の鎮圧に貢献したこともあったが、その後長州との戦いで敗れたことをきっかけに新政府軍に加わることとなり、戊辰戦争を戦うこととなる。
徳川慶喜の大政奉還によって明治を迎え、初代彦根藩知事となった井伊直憲は、戊辰戦争の彦根藩士の戦死者を祀るため〝招魂社〟造営に着手する。明治9年に前期工事が竣工、官祭彦根招魂社として7月に戊辰の役東征従軍戦死者青木貞兵衛頼実之命始め26柱の神霊を招魂鎮座することを以て創始とした。その後昭和14(1939)年に現社名である滋賀県護国神社となり、戊辰戦争以降の県内出身の戦没者の御霊を祀るものとなるも、敗戦により進駐軍の駐留により社号を〝沙々那美(さざなみ)神社〟と変更している。サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復した後は、再び滋賀県護国神社となり現在に至っている。
井伊氏所縁の建造物等も以前には置かれていたようだが、現在は保全を優先し能舞台は彦根城博物館に移設するなどされている。
滋賀県護国神社という名称がなぜ彦根にあり県庁所在地の大津にないのかということは普通に思うのであるが、どうやら明治維新の〝招魂社〟造営に着手できる者が大藩の藩主のレベルであったことから納得する。また第二次世界大戦の戦没者慰霊碑等も多く建立されており、県内戦没者追悼の中核となっていることがわかるものとなっている。
個々の慰霊碑には県内で編成された部隊の他、シベリア抑留による犠牲者慰霊にまで及んでいる。彦根城を楽しむ散歩も良いが、今の時代を楽しんで生きられることは多くの犠牲を払っての結果だということを考える場所ではないだろうか。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から徒歩5分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は誰もいなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足元は砂利敷きと石畳である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 戦没者を祀っているだけに厳か感が違う。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
妙感禅寺から山手へと進み、防獣ネットを潜って暫く歩くと地蔵磨崖仏覆屋が見えて来る。鎌倉時代後期の作とされる磨崖地蔵菩薩像は両脇に2躰の脇侍が彫られているが、なにかはわからない。説明板に書かれたものによると〝地蔵経にいう掌善、掌悪の二童子であろうか〟とあり、特にこの形式を〝近江形式〟と呼ぶらしい。とのことであった。
彫られた由来については不明であるが、大き過ぎず小さ過ぎずの173cmの高さは〝特別な物〟というよりも〝親密感溢れるもの〟と表現した方が良いように感じる。
湖南エリアには磨崖仏がたくさん残っており、磨崖仏周辺にも巨石が無造作に置かれていることから、その巨石にも〝彫られた形跡〟を疑うものも少なくない。妙感寺磨崖地蔵菩薩像付近でも同じことが言えためる、確認しようと見てみたが、光が届かないのでわからなかった。
妙感寺から磨崖地蔵菩薩像を経て進むルートは三雲城址ハイキングコースでもあるようで、中世の城と一緒に散策することができるものとなっているようだ。
保存のためだが覆屋に覆われていることは、今までに訪れた磨崖仏と異なるものである。しかし風雨に当てない方が磨崖仏の劣化は防ぐことができるので、長きに渡る保存を考えると致し方ないかと思える地蔵様であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR草津線甲西駅から車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れている間誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 舗装はされていないので諦めるしかないだろう。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 保存状態は頗る良いようだった。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
甲賀市水口町北脇にある柏木神社。創建は不詳ながらも飛鳥時代と伝えられ、源頼朝が上洛の折に鶴岡八幡宮の御分霊を合祀し、若宮八幡宮と呼ばれるようになり柏木荘十六か村の鎮守のお社として栄えたことが記録に残っている。
天正年間には織田信長の軍勢が当地を攻めた際に楼門・銘木は持ち去られ、楼門は安土の見寺に据えられた。その他宝物・古文書・主要建物は焼失している。その後承応年間に日野町金剛定寺の旧寺門が据えられて現在に至っている。水口岡山城が破却された後水口城が幕府直轄地に築かれた際、幕府任命の城代が入城し守護神として当社を崇めていたと伝わっている。中でも常陸牛久藩二代藩主山口但馬守弘隆は崇敬の念篤く、幾多の寄進のあったことが古文書に記されている。その後加藤明友が2万石の知行を得て入城し、水口藩が成立するとその念は引き継がれこととなり、歴代藩主の祈願所として崇拝を受け続けた。
明治期に村社となり社号を柏木神社と改める。以降郷社を経て昭和20(1945)年に県社に加列されている。伊勢神宮の旧荘園であったことから、現在でも氏子の在住が広いエリアに散らばっており、境内に残る忠魂碑からも水口町界隈の氏神様としてのカラーが強く残っている神社である。
残念ながら今回は日暮れのために折角の建物が見られないことが残念ではあるが、これ無い距離ではないので、また改めて再訪したいと思う神社であった。
直接関係があるのかどうかはわからなかったが、歩いて3分位の場所に長束正家の正妻栄子姫の〝姫塚〟がある。前の通りは道幅が狭いため、柏木公園の駐車場を利用して下さいと書かれていた。駐車場は忠魂碑脇に広いものが用意されていた。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 新名神甲南・甲賀土山ICよりで車20分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夜だったので誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 舗装されているところもあるが砂利敷きが多い。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 鳥居前を見るだけで立派なものとわかる。
-
投稿日 2021年07月06日
総合評価:5.0
湖南市立岩根小学校界隈を走行中、摩崖仏不動明王という案内板を見つけて立ち寄った。集落から林道を走ること数分で到着。入口には車数台が停められる駐車スペースとなっている。
山道を少し歩くと高さ6.2mという巨石に像高4.3mの不動明王像が彫られていた。絶壁の巨石に彫られているために渓谷を挟み少し距離を取った方が全体像はわかり易い。通称車谷不動と呼ばれる不動明王像は、江戸時代の作と言われており比較的新しいものではあるが、そのため摩耗が少なく〝誰が見てもわかる〟ものとなっている。
日暮れを過ぎていると自然石に彫られた摩崖仏はわかり辛いものとなることが多いが、この不動明王は〝彫り〟がしっかりしているためにすぐわかるものとなっていた。立派な憤怒像であり、立像の大きさからその威圧感が伝わって来る。修験者の信仰に関りがあるとも言われているが、江戸時代に建立で〝怒り〟と来るならば、近隣で起こった近江天保義民に関わるものかも知れないと想像が膨らみ、興味深い。
不動明王下には祠があり、花などが手向けられていることから地元の方からの信仰もあるように見えた。因みに明王様に会いに行く参道は落石のために〝通行禁止〟と書かれていたが、知らずに中へと入ってしまった。日暮れの眺望が利かない中でてっきり〝車止め〟として捉えてしまっていた。
足元まで行かなくとも大きな像であるがため、渓谷を挟んだ林道からでも祠共々見ることができる。そこまで車で行くとバックして戻ってこなければいけないために、〝磨崖不動明王入口〟の標識の場所に車を停めて歩くことをお勧めする。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR草津線甲西駅から車で10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときは誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は舗装されていない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大きさに圧倒される。
-
現在近くまで行くことができないが、対岸からでも迫力が伝わってくる。
投稿日 2021年07月06日
総合評価:5.0
花園集落から山手へと林道を走行すると岩根山中腹の巨岩に彫り込まれた不動明王像を確認することが出来る。まわりに像を隠す木々などがないため、像高4.3mという高さは思いの外目立つようだ。
江戸時代に彫られたものだそうだが、良い意味で雨風に晒された期間が短くはっきりとした輪郭も残っていた。一説によると修験道だったと言われているが、明らかに怒ったお顔をしているために近江天保一揆を背景にしているようにも思えてしまう。
本来ならば像の真下にある祠まで行くことができる参道があるのだが、落石があったという理由で通行が禁止されている。
車で来訪する者用に参道入口に車数台を止めることができるスペースが設けられている。対岸から像を望むには100m程進まないといけないが、途中Uターンできるようなスペースはないためにそのままバックする必要がある。そんなことから車の運転に自信がなければ、最初から車を駐車スペースに停めて歩くことをお勧めする。
カメラで像を撮る場合のことを考えると、明るいうちに行かなければならない。なぜならば肉眼では見えるが距離はあるため、カメラのストロボ程度では光が届かず真っ暗になる。かといってナイトモード搭載のデジカメを用いたとしても、像の周りには光源らしいものがなくこれもまたうまく撮れないのが現実であった。
画像として残す場合は三脚持参が望ましい。山の中であるために日没時刻迄に合わせても先ずまともな写真は撮れないだろうと思う。目に焼き付けるならば問題はないが、記録を残すのであれば、周到な準備が必要とされる場所であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR草津線甲西駅から車で10分程で到着する。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 日暮れどきだったためか誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- はっきり言って足場は良くない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- その大きさに先ずば圧倒される。
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投稿日 2021年07月07日
総合評価:5.0
琵琶湖大橋に近い第一なぎさ公園。菜の花やヒマワリが咲き誇る場所として知られている。その他にもあまり知られていないらしいが、ハマヒルガオの群生地でもある。ヒルガオ科ヒルガオ属の多年草であり、典型的な海浜植物でもあるハマヒルガオが琵琶湖岸という淡水域に自生することが大変珍しいと言われることが理由である。
初春の菜の花、夏のヒマワリは畑のエリアに花が咲くが、ハマヒルガオは湖岸の砂浜に花が咲く。〝湖岸に咲くハマヒルガオを守る会〟が管理運営をしているが、結構徹底した保護をしているようだ。それ程繁殖力が高い訳でもないらしく、人が踏んでしまうことにより花が傷んでしまうため、散策用の道は石を連ねて作られている。加えて大々的に〝ハマヒルガオ群生地立入禁止〟と書かれていることから、まあ普通に考えれば見られる場所が限られているため保存は効果もあるのかとは思っていた。しかし数日前の新聞に載っていたような花が群生している様子も見えない。おまけに残っている花にカメラを向けると大抵のショットで〝足跡〟がついていることに気付く。時間によっては人が集まっているのかも知れないが非常に残念である。
確証はないのだが第1なぎさ公園の花の時期には〝畑〟の一部分が駐車場として開放されているが、ハマヒルガオの時期には駐車場を設けないという・設けるという二通りの記述がありどちらが正しいのかはわからない。ただ今シーズンに関しては、琵琶湖岸一帯の駐車場は〝密防止〟のためにGWから閉鎖が続いている。
マナーの悪さもあるのかも知れないが、琵琶湖が〝海〟であった名残のハマヒルガオの〝本当〟の群生している姿をいつか見てみたいと思う。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR湖西線堅田駅から琵琶湖大橋経由車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れる時期と時間によりけりであろう。
- バリアフリー:
- 3.0
- 一本橋を歩く感覚なので無理であろう。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 群生地とは…。
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投稿日 2021年07月07日
総合評価:5.0
守山市杉江町にあるもりやま芦刈園、公益社団法人守山市シルバー人材センターが指定管理者となっている〝あじさい園〟である。通年開いている施設ではあるが、紫陽花の花咲く時期には有料となり、開園時間も延長される。
例年になく花が咲く時期が早まった今年、紫陽花も例外ではないようで5月半ば過ぎには開花が始まったと書かれていた。紫陽花園としては6月1日から末までとなり、例年よりも一ヶ月早く終了したようだ。7月1日以降は平常の営業となるため注意が必要である。
こちらの見どころはなんと言っても多種多様のアジサイが咲き誇ることである。和・西洋の100品種10,000本のアジサイはまさに圧巻であり、すべてのものを見て回るには3回は来ないといけないと地元の方から聞いた。
亡くなった母親がアジサイ好きだったこともあり、母の日に〝その年の新種〟のタイトルでアジサイを選んで贈っているため、見たことがない品種は少ないはずだが、ここにあるアジサイの〝新種〟の中には今後20年間特許の関係で手に入れられないものもあるという。それらが2haの敷地に数路や水路を除いた土の場所に自然な感じで植えられている株が咲かせる花は、多過ぎて感動を通り越しため息が出てきた程であった。
紫陽花の種類を楽しむのも一興であるが、園のロケーションを生かせて作られている水路や水際の菖蒲などもあり、200円の入園料で良いものか…と思えるような体験ができたように思う。
このアジサイの時期に於けるもりやま芦刈園を映像で語るには、いい方は悪いが〝植物図鑑〟にしかならない。カメラの映像に頼るのではなく、自分の五感で感じながら歩くことが一番であると感じた市営の植物園であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR琵琶湖線守山駅からバス15分。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 多くはないが少なくもなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 要所要所はスロープや舗装がされている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 多種多様なアジサイの数に圧倒された。
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人のため 身は罪とがに 近江路と 別れて急ぐ 死出の旅立ち~土川平兵衛~
投稿日 2021年07月17日
総合評価:5.0
老中水野忠邦の下天保の改革が断行された天保年間。前半には飢饉が起こり多くの民衆が亡くなった。贅沢を禁じつつも幕府の財政は、農村部の米の育ちが思わしくなく悪化の一途をたどっていたと言われている。
大阪では飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた役人大塩平八郎の乱が起こるなど、一触即発の状況が続いていた。米どころのひとつとして知られた近江国、中でも湖南エリアは〝米の名産地〟としても知られている場所であった。天保12(1841)年には第12代将軍徳川家慶によって幕府財政の根幹である年貢増の抜本策として〝検地〟による幕府年貢収入増加を目指す命令が出て、幕府勘定方市野茂三郎が検地役として湖南の地にやって来た。
老中は〝贅沢〟を禁じ、将軍は正当な〝幕府年貢米の確保〟をそれぞれ検地の目的とした。しかし市野のやったことは〝賄賂集め〟と〝えこひいき〟であった。譜代藩や賄賂を贈った村は素通りし、まともに検地を受け入れた村々は、実際より短い長さの竿を用い石高を増やし続けた。データによると従来の石高が1.5倍となるような数値が当たり前のように〝検地帳〟につけられていったと言われている。それでなくとも農民達の食べる〝米〟すらない状況下では、増税が即ち〝死〟を意味した。
そのような役人の暴挙に各村の庄屋達が話し合いを開く。その結果が〝検地を止めさせる〟ためとした〝近江天保一揆〟となる。現甲賀市の矢合神社に集まった農民は約2万人。蜂起が目的ではないために武器は勿論代わりとなる鋤や鍬なども一切携行してはいない。道中水口藩領内に於いて血気に逸らないことを一揆主導者から求められていたにもかかわらず、検地に協力した庄屋宅への打ち壊しが行われている。それに対し水口藩は一揆勢を抑止説得するため、役人を派遣するものの多くの役人は多勢に無勢な上に一揆勢に同情的だった者も多く、素通りさせた上に城下に於ける〝炊き出し〟も行われている。野洲・栗太・甲賀各郡の一揆勢は三上村の河原で合流した後野洲河原へと結集し、見分役人の本陣を取り囲んだとされている。ことの発端となった市野茂三郎本人は、三上村農民の手助けを受けて三上山の洞窟に潜み、騒ぎが終わることを待っていたという。一揆勢には三上藩郡奉行平野八右衛門と地方役人大谷治之助らが対応し、群衆からの申し出であった〝請文さえ頂ければそれで良い〟とのことに対し捺印した請文を渡している。その後平野八右衛門の渡した請文の〝見分見合わせる〟との内容が曖昧だということと〝見分役人衆の署名捺印も願う〟との申し入れがあり、大谷治之助が対応した〝今度野洲川廻村々新開場見分之義ニ付願筋も之有候間十萬日之間日延之義相願候趣承届候事〟の請文を手渡し、周知徹底のため障子に〝今日から十万日の日延べ〟大書きして一揆勢に示すと〝有難き事候〟と了承し、三上陣屋に一礼をした後に引き上げて行った。
一揆勢に太刀打ちできなかった市野ら一行は、一揆勢が引いた後に陣屋に戻りすぐに大津を経て京都町奉行所に辿り着いた。そこで進退伺を立てた市野らは漸く江戸より帰府を命じられ帰途に着いたとされている。その際大津への退去時に栗太郡に駐屯していた膳所藩警備隊に大津代官所手代が助力を要請したと言われているが、幕府から叩かれ続けていた藩主本多家の意向により拒絶されている。
一揆は成功したがその後面子を潰された幕府は、驚愕すると同時に威信回復のため、一揆に加わった者たちの取り調べを開始し、それは峻烈を極めたものであったという。拷問などによって〝一揆指導者の名前〟を挙げさせようとするも、口を開かず拷問に耐え死んでいった者も多くいたという。入牢者に対する拷問の凄まじさは獄舎から聞こえる呻きや尋問だけで終わった召喚者の話から伝わったとされ、関係各村の神社では除災安全の祈願や捕縛者延命の祈りが捧げられ続けたと言われている。また一揆の〝開始の地〟でもある水口藩では、藩領関係者の除災を7日間に亘り天台宗美松山南照寺で祈祷が行われたことを記録している。また第120代仁孝天皇は自身も近江の湖東湖南域に領地を持つ宮門跡や公卿から一揆及びその後の状況を聞いていたとされており、凄惨な拷問の事情を憂慮し比叡山延暦寺に下命され安全祈祷の護摩修法を厳修させている。
大津代官所での拷問責めの結果11名が江戸送りとなった。一揆発頭人の〝罪名〟を付けられた土川平兵衛は石部宿に於いて唐丸籠内で手を縄で結ばれたまま家族と出会う。他の〝囚人〟と言われた者達と同様に、風呂も入れず過酷な拷問の結果辛うじて生きているだけであり、誰が誰なのかが判別できないほどだったと伝えられている。ここで土川平兵衛が親族に残した辞世の歌が〝人のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち〟であり、その歌は今なお近江天保義民を語るに欠かせない言葉として〝石碑〟に刻まれ、その偉業を伝えている。
三上山裏登山口入口部付近に保民祠(平兵衛神社)、や天保義民碑、天保の熱(ほとおり)という解説板や天保義民碑と保民祠の由来の解説板などが設置されている。また江戸送りとなった土川平兵衛が石部宿で親類に当てた辞世の句〝のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち〟が刻まれた碑が建つ一揆150年記念で埋納されたタイムカプセルもあり、こちらは一揆200年の2042年に開けられるものとなっている。江戸時代には〝人間に非ざる〟とされた義民達であったが、明治元(1868)年9月8の〝大赦〟によって一揆関係者の罪が許され、天保義民と称されるようになった。昼でも薄暗い場所にある天保義民碑他一揆関係の慰霊碑は、休憩や登山に車で訪れる者達の駐車場脇にある。普段は静かな場所なのであろうが、時代の流れに飲まれた偉人の御霊が安らかに眠れと言わんばかりの厳か感が漂う場所であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 野洲駅から車で10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 碑を訪れる者は少ないが、登山帰りの駐車場利用者はいた。
- バリアフリー:
- 5.0
- 天保義民碑周辺を除く。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 新しいもの古いものとも偉人の功績を伝えるものとなっている。
-
投稿日 2021年07月19日
総合評価:5.0
初春の菜の花、夏のヒマワリで知られている第1なぎさ公園であるが、ここはもうひとつの〝花〟の名所としても知られている。初夏に湖岸にさくハマヒルガオがその花である。小ぶりなアサガオと評するハマヒルガオは典型的な海浜植物であり、琵琶湖に咲く花は古には琵琶湖が海に繋がっていた名残りだと言われている。元々野生していたものが絶滅の危機に至り、その保全・育成を受けたもりやまシルバーセンターが中心となり〝湖岸に咲くハマヒルガオを守る会〟が設立され、その活動を現在に至るまで続けている。悪天候で琵琶湖の水位が上がり、土が混じり雑草が増えたり外来植物が寄生したりする度に除去を行うなど地道な努力が欠かせないものであるという。
時に種から育てたハマヒルガオを植えたりする活動は行われているが、その結果は運次第というところもあるようだ。
今回6月に訪れたが琵琶湖岸の駐車場は野外活動の密によるコロナ感染拡大を防ぐ意味で閉鎖されていた。そんなこともあり訪れていたものもいなかったが、てっきり〝ハマヒルガオの園〟と期待して行ったのは空振りに終わった。
時期が早かったのか、今年は育ちが悪いのかはわからないが淡いピンクの花ゆえに砂と同化したものとなっており、予想外の〝花探し〟をする羽目となった。
例年がどうなのかは初訪問なのでわからない部分はあるが、写真によっては一輪の花をぼやけたバックに映えるように撮られている物も多いことから、大きな群生地というのは私の勘違いだったのかも知れない。
小さな花にハート型の葉を持つハマヒルガオが、琵琶湖と比良山系をバックに咲き乱れる姿を見てみたいと思った今回の訪問であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅よりバス25分。
- 景観:
- 5.0
- 夕方に訪れたこともあるが、勢い良く咲いていた花は少なかった。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 散歩をしている方以外には訪問者は殆ど会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 通路は歩くことができる程度の幅の敷石である。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
旧国道1号線で元滋賀県道4号線から矢川橋を渡ったところにある〝天保義民メモリアルパーク〟。江戸期天保年間に各地で起こった一揆の中で、唯一成功したと言われる〝近江天保一揆〟がある。天保の改革の下で各地の農地を再検地することによって幕府財政を立て直そうと老中水野忠邦が始めたもののひとつである〝検地〟がことの発端となっている。
江戸幕府開府後2世紀を経て武家の争いもなくなった世の中で、幕府役人の不正や賄賂が蔓延っていた時代に於いて、強いものには関わらず弱いものから巻き上げるなどということは当たり前となっていたようだ。元々2世紀に渡り公儀による検地が行われていなかった場所として近江国、特に湖南地区がその槍玉に挙げられている。
しかし尾張藩・彦根藩・仙台藩の領地に関してはトラブると厄介だからのくスルーし、その他検地対象地でも賄賂を贈った庄屋の村は、検地をしなかったり少なく見積もったりするなど、幕府というよりもは検地〝役人〟による〝弱い者いじめ〟に過ぎない〝公儀命令〟と化していた。使われていた検地尺は一間(1,818mm)=6尺=60寸が5尺8寸(1,757mm)と実際よりも短いものを用いていた。以前の検地では6尺2寸(187.9mm)が用いられていたため、同じ広さで測ると114%土地面積が大きくなってしまう。それでなくとも飢饉続きで生活が逼迫しているご時世にこの不公平な検地を受け入れことはできないとして起こったものが天保一揆である。この中で近江天保一揆が他の天保一揆と違う扱いを受けているのは、武力衝突がなかったことが挙げられる。この辺りの住民で庄屋になっているものは大抵佐々木氏や六角氏、またはその家来筋の末裔だった。そのような者達だったが故に学もあり、話し合いに基づいて解決を行うことに徹し、それに賛同した多くの農民達も従ったことが、武力行使をせずに検地10万日の日延べというものを勝ち取ったこともこの地ならではのことだったからと思う。
しかし一揆の主導者として裁かれるのはこの時代の法。参加者の取り調べは勿論のこと、一揆の指導的立場に立った各村の庄屋達は徹底的な拷問を受け自白を迫られる。しかし個々自分達の責任であると言い張り、他の参加者を巻き込むようなことは一切していない。
結局出頭を命じられた大津代官所で裁きを受け、中には獄死する者もいたと言う。指導者であり生きていた11名の元庄屋達は唐丸籠に乗せられ江戸へと向かう。その道中で3名が衰弱死し、残りも1名を残して獄死した。地元では〝義民〟であっても、役人からすると罪人でしかない。そんな時代であったのだろう。25年後の明治元(1868)年の大赦によって一揆関係者の罪が許されることとなり、その功績を〝近江天保義民〟として後世に語り伝える手立てが講じられてきた。
一揆後150年を迎えた平成3(1991)年10月にこの矢川橋西詰の地に天保義民メモリアルパークが当時の甲南町によって作られた。天保義民碑と言われるものは〝慰霊碑〟であり、その様子を視覚的に見る者がなかったためにレリーフ等で紹介したものという理由からこの碑が建立されたと聞く。義民の功績は歴史に疎い私でもわかることだが、ネーミングの〝メモリアルパーク〟という呼称にはしっくりこないものを感じてならない。メモリアルパークは〝記念公園〟であって〝祈念公園〟ではない。そういう観点から見ると甲賀市が観光ガイドに記載している〝天保義民の碑〟の表記の方がしっくりくるように思えてならない。
江戸時代に於ける一揆や直訴は死罪になることは〝当たり前〟のことであった。それを知りつつ自らの命を懸けた〝義民〟が生活に窮する住民達を救うために立ち上がった史実は、綺麗事として語り継がれるものではないように思えてならない私であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 甲南駅・新名神甲南ICより車で5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- メモリアルパークを訪れる者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- タワーのまわりには段差がある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- レリーフがビジュアル的に一揆を伝えている。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
甲賀市甲賀町滝にある無住寺元龍寺。戦国時代の甲賀武士多喜氏の祖多喜家継の孫である来峰和尚が弘文8(1284)年に開基したと伝わる古刹である。現在は浄土宗の寺院としているが、本来は天台宗だったとされている。御本尊の木造観世音十一面菩薩立像は甲賀市指定文化財であり毎年8月10日にご開帳されている。現在は無住寺となっており、近所にある数件の檀家さん達が持ち回りで管理されている。
知名度は高くはないが、知る人ぞ知る紫陽花の隠れた名所として知られており、裏山に植えられた紫陽花はガクアジサイや和アジサイ等ありふれた種類ではあるが、手入れは行き届いており、持ち回りで管理をされている近隣の僅かな檀家さんの思いが伝わって来た。
本道から外れた集落内に建立されており、車で向かうにはかなり躊躇するような細い道を走らねばならないため注意が必要だ。
駐車場はないと表記されているものもあるようだが、元龍寺前に車数台が停められるスペースがある。ただ足元は土と砂利敷であるために、タイヤがスリップしてしまう時がある。あまり力任せにアクセルを踏んでいると勢いがついていきなり側溝にタイヤをはめてしまうことがあった。檀家さんの奥様が駆けつけてくれ無事脱出することはできたが迷惑をかけてしまった。
今年は例年になく紫陽花の開花が早く、既に見頃を過ぎていたことは残念だったが、あの手作り感満載の紫陽花苑には、満開で賑やかな時に再訪してみたいと思える場所であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 新名神高速道土山インターから10分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は私ひとりであった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 砂利敷きと土であり、足元はあまり良くはない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 見頃は過ぎてはいたが斜面に咲く紫陽花は素晴らしい景色を作っていた。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
甲賀市水口町北脇にある姫塚は、関ケ原の戦いに於いて西軍に属し自害をして果てた長束正家の正妻栄子姫の供養塔として明治期に一族の末裔の手によって建立された〝墓〟である。関ケ原の戦いに於いて徳川家康本陣後方の南宮山に陣を置いた正家であったが、徳川方に内通して動かなかった吉川広家の軍勢に阻まれ、戦いに参加することなく居城へと戻るために戦場を離脱した。なんとか水口岡山城まであと少しという場所までたどり着いたが、既に追手が城下に近付いていた。一旦は家来である松田秀宣の奮戦によって城内に入るも、敵将池田長吉に所領安堵と城兵救助の条件を出された結果開城し投稿するが、元々そんな気のなかった長吉に捕縛されている。その後隙をついて城下を脱出するも追手が迫ることに観念した正家兄弟は、近江日野にて自害して果てている。
また城下では長吉の軍勢が城内だけでなく城下に於いても略奪行為を行い、それは阿鼻叫喚の地獄絵図だったことが記録されている。その際に栄子姫も城内から逃げたまでは良いが、長吉軍の兵により辱めを受けて放置されたという。栄子姫に気づいた正家旧臣の山本浅右衛門が密かに引き取って匿った。身重の栄子姫はその後男子を産んだのであるが、産後の肥立ちが悪かった上に城下で受けた乱暴狼藉による精神的ショックもあり、まもなく亡くなっている。栄子姫を不憫に思った浅右衛門は秘密裏にその遺体を葬り、一個の石を置いて標識としその墓を慰めたとされている。その後生まれた男子は浅右衛門の下で育てられ、仏門へと入り水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き父母の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し、栄照寺と号して長束家の菩提寺としている。
この姫塚は浅右衛門が目印に置いた〝石〟の場所とされており、伝承と手繰るとここに栄子姫が眠っていることになる。しかし由来書きには核心を突いた内容は書かれてはいない。池田長吉他配下の兵による狼藉はほぼほぼ史実とされており、本多忠勝の妹である栄子姫を手にかけたと知った池田輝政は真っ青になり、慌てて証拠隠滅に奔走したとされている。その際山本浅右衛門にも〝口止め料〟が支払われたとされ、本田忠勝が妹である栄子姫のことを知った時には、すべての証拠が消された後だったと言われており、何も言うことができなかったことが記録されている。
その過程はともかく悲劇の姫君となってしまった栄子姫ではあるが、その墓とされる場所は工場の隣にありフェンスで仕切られてはいるが、背面からの写真には必ず資材が写り込んでしまう場所である。碑を建立した明治期には田圃の真ん中だったのかも知れないが、今では到底静かな場所とは程遠い立地であった。碑に手を合わせつつ静かな眠りに就いて欲しいと思ってしまった私であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 柏木公園駐車場から徒歩3分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れる者はいなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 階段がある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 慰霊の気持ちが伝わって来るものであった。
-
投稿日 2021年06月06日
総合評価:5.0
安土にある沙沙貴神社は、蝋梅やヒトツバタゴの名所と知られている以上に、宇多源氏・佐々木源氏の氏神様として日本全国の佐々木さんが集う神社である。日本に於ける〝姓〟の13位を占める佐々木姓なので、奉納された品々に日本全国の都道府県が刻まれていることからもわかることだ。
宇多天皇の孫にあたる雅信王が、朱雀朝の承平年間に臣籍降下して源朝臣の姓を賜い〝源雅信〟と称したことに始まった宇多源氏。その孫にあたる源成頼が佐々木成頼と称し、近江国佐々木庄に居住し佐々木氏の祖となったと言われている。そんな佐々木氏だったが源平の戦いに於いて、平治の乱で源義朝についたために近江を追われるが、その後源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵した際、目覚ましい功績を挙げ近江惣追捕使(のちの守護)に任ぜられたことで息を吹き返す。その後嫡流が六角氏・京極氏と分流し、近江守護職を担ってきたが、織田信長の近江侵攻によってその立場を追われることとなる。しかしその後も日本全国に領地を得て佐々木一族の血は全国に広がり、その末裔は今なお全国に散らばっているということである。
そんな歴史ある沙沙貴神社だが、近年は〝樹木と花〟をSNSで拡散し、時期になると私のように佐々木さん〝以外〟の観光客が集まる場所として有名になっている。春先の〝蝋梅〟は天気に恵まれず、ヒトツバタゴ〝満開〟というニュースを聞きつけて向かったのだが…すでに散っていた。5/20にはすべて散っていたとインスタに上がっていたため、いつの情報を見たのだろうか…と唖然となった。まあ一度来れば勝手はわかるので、そろそろ時期を迎える〝アジサイ〟でぜひリベンジしたいと思わせる魅力のある神社であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 安土駅から徒歩15分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 花の時季外れだったので観光客はほとんどいない。
- バリアフリー:
- 4.0
- 石畳は比較的歩きやすいが、砂利敷きの道が多い。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 建物は勿論、花の落ちた樹木も立派であった。
-
投稿日 2021年05月17日
総合評価:5.0
元亀元(1570)年6月28日早朝に始まった浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍の〝姉川の戦い〟。数に勝る織田徳川連合軍が有利と思われていたようだ。この姉川古戦場跡と言われる野村には浅井長政以下8,000名の浅井軍が陣を構え、織田信長以下23,000名と姉川を挟み対峙した。
また援軍として朝倉景健率いる朝倉軍10,000名は三田の地に於いて徳川家康率いる5,000名と対峙している。
戦いの火ぶたは朝倉勢が徳川勢に攻め込んだことで切られることとなる。朝倉景紀・前波新八郎等朝倉隊の一・二番隊が姉川を越え徳川方の酒井忠次・小笠原長忠に攻め込んだ。数に勝る朝倉軍は最初こそ優勢を保っており、酒井・小笠原隊を押し込むが、石川数正隊の援護によってじりじりと押し返す展開となって激戦となった。それを見ていた浅井勢も朝倉に遅れを取るなとばかりに奮い立ち、先鋒を務めた浅井四翼のひとり磯野丹波守員昌が織田軍に攻め込んで行った。猛将として知られる磯野員昌は、先鋒坂井政尚をあっという間に壊滅させ、その勢いのまま信長本隊まであと少しというところまで攻め込んだ。〝員昌の姉川十一段崩し〟という逸話が残る員昌であったが、後方に陣取っていた氏家直元・安藤守就らが押し返し、稲葉通朝がやはり側面を攻撃することによって浮足立ってしまい、重囲を突破して居城の佐和山城へと撤退することとなる。
先手を取った朝倉勢も家康本体にまで攻め込む勢いであったが、陣形が伸び切ったことを見た家康がやはり配下の榊原康政に側面攻撃をさせて形勢を逆転させ、朝倉勢を敗走させている。
浅井朝倉連合軍は、敗戦によって戦場から落ちて行くしかなかった。磯野員昌は居城佐和山城に逃げ帰った後、後に秀吉の情報戦によって織田方へと寝返り浅井家滅亡の遠因となっている。両軍合わせて数千もの戦死者を出した姉川の戦いであったが、その血が姉川の流れを赤く染め、今なお戦場近くの地名として〝血原〟〝血川〟という名が残り、現在に至っている。
敗走した浅井朝倉軍ではあったが、浅井氏の居城小谷城は山城の上に急峻な崖に囲まれている天然の要害でもあるため、5km程の距離までは追撃したが、自軍の兵力などを考えて直接攻めることはせず、支城のひとつであった横山城を取り囲みこれを開城させ、秀吉を城番として置き、3年後の小谷城攻めの基礎固めをするに留まった。
姉川の戦い後すぐに浅井氏が滅びた訳でもなく前哨戦という位置付けではないが、その後の戦では勝つことがあってもその度に味方を減らせて行くこととなる。結果小谷城攻めでまず朝倉氏が先に、次いで浅井氏が滅亡することとなる。
元々近江守護京極氏・六角氏の元国人領主として台頭し、下剋上で戦国大名に成り上がった浅井氏ではあったが、最後は朝倉氏との忠義を重んじ滅亡の道を歩んだと捉えられるであろう。長政・お市に浅井三姉妹の悲劇の場所として例えられる小谷城、生き残れる手段はなかったのかと思えてならない。桜が咲き新野村橋・北国往完道路が横切る姉川の畔に立ってふとそう感じたのは、往時の景色がdéjà vuとして広がったからだと私には思えてならなかった。- 旅行時期
- 2021年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 長浜駅からバス15分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 到着したときに一人すれ違った。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は地道である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 戦場となる要素が多々あることはすぐにわかる場所であった。
-
投稿日 2021年05月18日
総合評価:5.0
旧吉田条里二十六坪〝伊吹の里〟、現在の草津市志那町に鎮座する三大神社。創祀は不詳であるが社伝に天智天皇4(665)年と伝わる古社である。
本殿前の石灯籠は花崗岩でできており、笠まで六角形に作られた珍しいものである。正応4(1291)年と陰刻されており、鎌倉時代の石造美術を代表する貴重な物で国の重文指定を受けている。
滋賀県指定自然記念物、草津市指定文化財登録がされている境内にあるノダフジの古木がある。花穂が長さ2mにもなることから〝砂ずりの藤〟として呼ばれており、シーズンになると多くの観光客が訪れる場所となっている。
この藤の古木は近江朝廷の手によるものとする説がある。中大兄皇子と中臣鎌足が〝乙巳の変〟によって蘇我氏本宗家を滅亡に導いたことは有名であるが、よく誤解される〝大化の改新〟はあくまで半世紀にも渡る国政改革のことであり、内臣中臣鎌足の元皇極太上天皇主導の元中大兄と大海人の二人の皇子の協力によって推進された〝天皇主体〟ではない改革というのが史実である。
これにより豪族主体の政治から天皇主体の政治へと移り変わったと言われているが、この二人の皇子から見れば、鎌足無くしての改革は推し進められなかった訳であり、その功績による藤原氏であり藤原鎌足ならば、天智・天武天皇双方から慕われ、今後藤原氏の隆盛を祈念することも当然のことと考えることができる。天武天皇の勅により鎌足の葬られた談峯の藤花に因んでいるとの逸話が残る古藤は、まさにそんな歴史の誤解を解くカギになっているようにも思う。
三大神社の藤は現在の幹に於ける樹齢推定420年の古木であり、元亀2(1571)年に織田信長が比叡山を焼き討ちした際に兵火にかかり一旦は焼失したと思われていた。しかしその後株元から芽生えた小さな枝葉が繁茂して今日に至り、砂ずりの藤を見せてくれている。
今年はコロナの影響で恒例の〝藤まつり〟が中止となった。このあたりの話が誤った情報として伝えられており、駐車場がないとして近隣の道路に路駐して迷惑をかけていると書かれていた。実際には大っぴらにはなってはいないが、駐車場は台数は少ないながら設けられていた。
この藤の古木は〝藤古木保存会〟が手入れを行っており、花のシーズンは協力金として200円を集めている。気持ちの問題かもしれないが駐車場まで利用させて頂くことも考えると、納めないで通り過ぎる観光客の方が理解できなかった場所でもあった。- 旅行時期
- 2021年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 草津駅からバスで15分程。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 多くはないが観光客はいた。
- バリアフリー:
- 4.0
- 砂利敷きだが本殿の前以外は段差はない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 古藤の勢いには圧倒される。
-
投稿日 2021年05月01日
総合評価:5.0
桜の名所として知られる虎御前山。武家時代には大きなふたつの戦場となったことでも知られている。
南北朝時代室町幕府に於いて二頭政治を行っていた足利尊氏とその弟直義。南朝をバックにする尊氏と、北朝バックの直義。その二人の不和が原因となり観応2(1351)年夏に両者が争った八相山合戦が起こった。敗れた直義は敦賀へと逃亡し、翌年降伏するが直後に謎の死を遂げている。そして2世紀後姉川の戦いに敗れた浅井久政・長政父子は本拠地小谷城に籠城し織田信長を牽制した。信長包囲網とされる足利義昭や武田信玄、石山本願寺の動きも信長の動きに影響を与えており、すぐには合戦とはならなかったものの浅井氏、同盟を組んだ朝倉氏共々重臣の寝返りが相次ぎ、こちらも決め手に欠いていた。そんな中遂に自ら軍勢を率いて動いた朝倉義景ではあったが、こちらも戦意は低く負け戦を続けた結果一乗谷の戦いにて滅亡することとなる。後ろ盾を失った浅井氏にはもはや打つ術がなく、小谷城の戦いによって亮政に始まった浅井氏は3代で滅びることとなる。この際長政の正妻であった信長の妹〝お市の方〟と〝浅井三姉妹〟が城兵の手によって救い出されたことは有名なことである。
この小谷城包囲網の砦とした場所が虎御前山であり、特にこの南尾根を八相山と言う。織田信長・木下秀吉・堀秀政・柴田勝家・滝川一益と言った主力部隊は北尾根に、南尾根には丹羽長秀・蜂屋頼隆・多賀貞能が後詰めとして陣取っている。山頂から小谷城までは直線で2.5km程の距離しかなく、見晴らしの良い小谷城から信長の大軍を見た浅井久政・長政父子の恐怖や絶望感が今でも伝わって来るような場所となっている。
戦場となる前には長尾山と称するものだったらしく、その麓桃酢谷の井筒に住んでいた〝お虎〟という美女が住んでいたという。彼女が道に迷って難儀していたところを土地の水利に尽力した世々開(せせらぎ)という名の長者に助けられた。それが縁で二人は夫婦になり一緒に住むようになった。そして〝虎御前〟と言われ、ますます美しさを増して行ったのだが、やがて儲けた15人の子供が全て〝顔以外すべてウロコにおおわれた子蛇〟だった。そのことを嘆いた虎御前は悲しさのあまり女性ヶ淵(みせがふち)に身を投げて命を絶ってしまう。その後育った子供たちは成人する頃には人間と同じ容姿となり、近隣の村々を治めることとなった。子供達が善政を行った村々ではその母親であった虎御前を忘れぬよう、長尾山をいつしか虎御前山と呼ぶようになったという伝説が残っている。
現実でも伝説でもいずれにせよハッピーエンドとはならなかった虎御前山ではあるが、景色だけではなく山中の散策でも歴史を感じられる場所であった。- 旅行時期
- 2021年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 虎姫駅から徒歩15分。
- 景観:
- 5.0
- 高さはないが眺望は素晴らしい。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 数組の観光客とは出会ったが空いていた。
- バリアフリー:
- 4.0
- 途中までは車でも登れるようにはなっている。
-
投稿日 2021年05月18日
総合評価:5.0
虎御前山北東部の北陸自動車に面した場所にある。祭神は伊邪那美命であり、創始は不明ではあるが、紀伊熊野大社から分霊を八井山に奉斎し、熊野別所神宮と称したとの伝承がある。
元亀天正年間には小谷城攻めに繋がる織田信長軍の兵火に遭い、社殿古記録など一切を焼失している。江戸時代に入り村民たちの手によって現在地に社殿を再建され、熊野大権現と称えて信奉したことから現社の歴史は始まったと言われ、明治12(1879)年神社明細帳届出の際に鎮座地地名である虎御前山の以って社号とし現在に至っている。
神社としては社号標に参道と拝殿・本殿がある神社ではあるが、虎御前山にあるだけにサクラの時期には参道階段が桜並木と化す。近隣を北陸自動車が通っており静かな場所とは言えないが、あまり観光客が立ち寄らない穴場の名所であった。- 旅行時期
- 2021年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 虎墓前山公園駐車場から車で5分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 滞在時には誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 石段が続いている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 拝殿前からの桜並木はなかなかのものであった。
-
投稿日 2021年05月05日
総合評価:5.0
草津市志那仲町の住宅地の中にある。旧郷社格の惣社神社は特に観光のために訪れる者に対し駐車場などの便宜を図っている感じも受けず、正しく集落の神様が祀られているという古社である。
創建は不詳であるが、社伝を基に志那三郷の惣氏神として式内社の意布伎神社の論社のひとつとなっている。論証として江戸期に当所にあったとされる大般若寺を記録した〝大般若寺絵図〟が社宝として残されており、大般若寺境内の隅に鎮守社として意布伎社が描かれており、それが当社だと考えられるからとのこと。絵図には当社の境内玉垣の外にある石造宝塔跡が描かれており、大般若経の一部が残っていることからも間違いはないだろうと判断しているようだ。勿論社宝である以上一般公開されている訳でもないため、どこまで信憑性があるかはわからない。
意布伎神社の論社となっている三社のうち、唯一文化財指定をされているものがない神社でもある。意布伎神社の根拠としている石造宝塔と言うものも、場所が示されていない上に玉垣の外にあることから、事前に情報を仕入れていなかった参拝者の多数から〝気が付かなかった〟と評される残念なところがある。因みに私もその一人である。
由緒書きを読むに往古には科戸(しなと)明神とも呼ばれ、創建は不詳であるが天智天皇4(665)年に右大臣中臣金連勅により風神である志那都彦神を鎮祭し、意布伎神と尊崇したに創まると社伝には書かれている。中臣金連と言えば大津に都があった折に天智天皇の重臣として活躍した人物である。もっとも天智天皇亡き後は子の大友皇子に仕えていたが、壬申の乱で敗れ、大友皇子が自害した後に大海人皇子に捕えられ殺害されている。
神社の由来からは天智天皇や近江朝廷所縁のものかと思いきや、境内にある大藤に関しては天武帝の除病延命仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まるとされている。天智・天武両帝所縁の神社だとすれば筋道が通るにしても、史実と比較すると矛盾が生じてしまう。また現在境内に植わっている大藤は樹齢500年と伝わっているそうだが、1000年もの間の空白期間ができてしまうことに触れられているものは記されていなかった。
ここまで矛盾があると、主張される〝旧意布伎神社〟というものからは最も当てはまらないもののように思えてならない。
大藤も立派に咲いてはいるのだが、なんせ住宅と接している場所柄〝生活感〟が漂っているようにしか見えない。勿論それはそれで惣社神社の良さとして挙げれば良いと思うのだが、こじつけに歴史を付けていることが残念に思えた。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 草津駅からバスと歩いて20分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 貸し切り状態であった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 石畳の部分もあるがほとんどが砂利と土である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大藤は素晴らしい花を咲かせていた。
-
投稿日 2021年05月05日
総合評価:5.0
草津市志那町に鎮座する志那神社。旧村社格の神社は創祀年代不詳ではあるものの、社宝には貞観9(867)年の奉納である鏡や鈴が現存しているらしく、鏡には〝奉近江国伊富伎神〟鈴には〝貞観九年四月〟と銘があることが神社の歴史と近隣三社が名乗りを上げている〝旧伊富伎神社〟であることの根拠であるという。
重文指定の本殿は永仁6(1298)年再建の文字が棟木に残されており、それ以前に建立されたものとされている。重文指定の際に本殿下から見つかった〝加工された石〟を県で鑑定した結果平安期のものと推定され、その礎石横に〝所以〟が木札に書かれており今でも見ることができる。
参道は周濠に囲まれており、草津市の保護樹木指定されている樹齢50~70年のクロマツと灯篭が立ち並ぶという近隣では珍しい〝並木道〟を作り出している。そして拝殿横には小さな藤棚が置かれており、シーズンになると大きな藤の花房が垂れ下がることでも知られている。
新聞に載っていた藤の開花情報の中で、同じエリアの三大神社が見頃を迎えている記事を見て訪ねたのであるが、残念ながらまだ〝咲き始め〟の状態であった。志那三郷の藤として知られていることから、少しではあるが来訪者もいたものの、花が咲いていないことを確認するとそそくさと車へと戻って行った。
平安期のものと推定されたことから、延暦13(794)年から建久2(1191)年の間に建立されたことになると書かれていた。が、それは学校で習う平安時代のことであり、その間の創建とするには期間が長すぎるように思える。そういった解釈は大雑把なものであまり興味をそそるものではない。だが周濠と鎮守の森に囲まれた志那神社は確かに趣もあり、長きに渡り近隣住民から慕われて来たことには疑う余地はない。
南北朝期の石製宝塔は草津市指定の文化財指定を受けている〝市内唯一の完存する宝塔〟でありながら、境内に由緒書きを従えながらも飾り気なく置かれていた。特に説明を入れる必要もなく、歴史あるものとして静かに鎮座されている方が〝歴史の重み〟を醸し出しているように思えてならない。そういう意味ではちょっと残念なものなのかも知れない。- 旅行時期
- 2021年05月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 草津駅からバスで15分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- パラパラとは居たようだ。
- バリアフリー:
- 4.0
- 参道から本殿まで地道である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 藤は残念であったが歴史を感じる物は多々ある。
-
投稿日 2021年04月22日
総合評価:5.0
やまなみロード室生トンネル北入口付近にある高さ10m位の滝である。規模は大きくはないがトンネルに侵入する前に視界に入ってくるため良くわかる場所になっている。
その昔都祁にある白石興善寺の僧による滝行が行われていた他雨乞いの儀式も行われており、住民が滝壺を空にして木々を燃やして淵に入れ、神々を怒らせることによって雨を降らせるという特殊な趣旨の元行われていたようだ。
雨の後には結構迫力はあるようだが、訪れた日は晴天続きの日であり迫力は感じられなかった。水量が多いときにまた再訪してみたいと思う場所であった。
なお駐車スペースは設けられているが、このやまなみロードはたまに通る車がかなり飛ばしている場所であるため、道路横断時には十分な注意を要する場所である。- 旅行時期
- 2021年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 室生口大野駅から4.5km。
- 景観:
- 5.0
- 規模は小さいが新しい室生トンネルとの対比がまた趣がある。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れている者はいなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 川辺に下りるには足場は良くない。
































































































































































