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浅井の軍勢が陣取った場所である。

  • 5.0
  • 旅行時期:2021/03(約4年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

浅井・湖北・高月 クチコミ:3件

元亀元(1570)年6月28日早朝に始まった浅井朝倉連合軍と織田徳川連合軍の〝姉川の戦い〟。数に勝る織田徳川連合軍が有利と思われていたようだ。この姉川古戦場跡と言われる野村には浅井長政以下8,000名の浅井軍が陣を構え、織田信長以下23,000名と姉川を挟み対峙した。

また援軍として朝倉景健率いる朝倉軍10,000名は三田の地に於いて徳川家康率いる5,000名と対峙している。

戦いの火ぶたは朝倉勢が徳川勢に攻め込んだことで切られることとなる。朝倉景紀・前波新八郎等朝倉隊の一・二番隊が姉川を越え徳川方の酒井忠次・小笠原長忠に攻め込んだ。数に勝る朝倉軍は最初こそ優勢を保っており、酒井・小笠原隊を押し込むが、石川数正隊の援護によってじりじりと押し返す展開となって激戦となった。それを見ていた浅井勢も朝倉に遅れを取るなとばかりに奮い立ち、先鋒を務めた浅井四翼のひとり磯野丹波守員昌が織田軍に攻め込んで行った。猛将として知られる磯野員昌は、先鋒坂井政尚をあっという間に壊滅させ、その勢いのまま信長本隊まであと少しというところまで攻め込んだ。〝員昌の姉川十一段崩し〟という逸話が残る員昌であったが、後方に陣取っていた氏家直元・安藤守就らが押し返し、稲葉通朝がやはり側面を攻撃することによって浮足立ってしまい、重囲を突破して居城の佐和山城へと撤退することとなる。

先手を取った朝倉勢も家康本体にまで攻め込む勢いであったが、陣形が伸び切ったことを見た家康がやはり配下の榊原康政に側面攻撃をさせて形勢を逆転させ、朝倉勢を敗走させている。

浅井朝倉連合軍は、敗戦によって戦場から落ちて行くしかなかった。磯野員昌は居城佐和山城に逃げ帰った後、後に秀吉の情報戦によって織田方へと寝返り浅井家滅亡の遠因となっている。両軍合わせて数千もの戦死者を出した姉川の戦いであったが、その血が姉川の流れを赤く染め、今なお戦場近くの地名として〝血原〟〝血川〟という名が残り、現在に至っている。

敗走した浅井朝倉軍ではあったが、浅井氏の居城小谷城は山城の上に急峻な崖に囲まれている天然の要害でもあるため、5km程の距離までは追撃したが、自軍の兵力などを考えて直接攻めることはせず、支城のひとつであった横山城を取り囲みこれを開城させ、秀吉を城番として置き、3年後の小谷城攻めの基礎固めをするに留まった。

姉川の戦い後すぐに浅井氏が滅びた訳でもなく前哨戦という位置付けではないが、その後の戦では勝つことがあってもその度に味方を減らせて行くこととなる。結果小谷城攻めでまず朝倉氏が先に、次いで浅井氏が滅亡することとなる。

元々近江守護京極氏・六角氏の元国人領主として台頭し、下剋上で戦国大名に成り上がった浅井氏ではあったが、最後は朝倉氏との忠義を重んじ滅亡の道を歩んだと捉えられるであろう。長政・お市に浅井三姉妹の悲劇の場所として例えられる小谷城、生き残れる手段はなかったのかと思えてならない。桜が咲き新野村橋・北国往完道路が横切る姉川の畔に立ってふとそう感じたのは、往時の景色がdéjà vuとして広がったからだと私には思えてならなかった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
長浜駅からバス15分程。
人混みの少なさ:
5.0
到着したときに一人すれ違った。
バリアフリー:
3.0
足元は地道である。
見ごたえ:
5.0
戦場となる要素が多々あることはすぐにわかる場所であった。

クチコミ投稿日:2021/05/17

いいね!:12

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