たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(12ページ)全1,843件
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- 基本情報
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投稿日 2014年09月26日
総合評価:5.0
これほど厳かな雰囲気を着いた瞬間に感じた場所ははじめてです。資料館の屋根は飛行訓練に使われた飛行機赤とんぼをモチーフにしたデザインになっています。展示室一階は撮影可で、有名な仔犬を抱いた少年兵の写真、当時の軍服・飛行服、海中より引き揚げらた飛行機などが、二階(撮影不可)には隊員の方々の遺書や遺品等が並んでいます。また屋外にはよろずよにの碑や、基地を作る際に犠牲になられた方の慰霊碑があります。
知覧に比べると知名度は低いですが、それは遺族の方々や施設側の意向で大きく宣伝はせず、今のまま静かな感じであって欲しいということからそうなっています。
一日中いても十分な内容があります。平和のありがたみを染み染みと感じさせる場所です。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
- バリアフリー:
- 5.0
-
投稿日 2021年09月27日
総合評価:5.0
奈良時代末期にここ近江国で生まれたとされる霊仙(りょうせん)は、平安時代前期興福寺で学んだ後遣唐使として入唐した法相宗の僧であり、遣唐使の同期に空海や最澄といった著名な僧がいる。長安で学んでいる際、カシミールから来た般若三蔵が請来した〝大乗本生心地観経〟を翻訳する任に当たり、その功績から〝三蔵法師〟の称号を与えられた。
唐の時の皇帝憲宗の寵愛された霊仙であったが、仏教の秘伝が国外に持ち出されることを危惧した憲宗により、日本への帰国を禁じられる憂き目にあう。その後憲宗が反仏教徒に暗殺されると、自らも迫害を恐れて五台山に移っている。
日本からも彼の活動を応援したとされる伝承もあり、第53代淳和天皇は渤海の僧に託し資金を送っていたとされている。また返礼として仏舎利や経典を渤海の僧に託し日本に届けさせたと言われている。同時に日本に残してきた親族に対し、〝帰国できない事情〟を考慮した上で生活に困らないよう配慮を願い出たとも言われている。
遅咲きの高僧となった霊仙は、20年程唐にて修行をした後、日本の地を再び踏むことなく現地で没している。一説には彼の出世を妬んだ僧によって毒殺されたとも言われているようだ。その後苦労して唐に渡って来た第3代天台座主となる〝円仁〟が、霊仙の最後の様子を聞き、日本へと伝えている。また入唐八家と言われる円行・常暁が入唐の際には、霊仙の門人であった僧から手厚く遇され、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて、日本に持ち帰ったと伝わっている。
出生には諸説あるようだが、この醒井の地で霊仙は生まれた説を採る同地の松尾寺住職等により〝霊仙三蔵顕彰の会〟が発足し、霊仙三蔵記念堂が松尾寺内に設けられることとなる。また米原市出身の彫刻家森大造氏に依頼し〝霊仙三蔵立像〟が作られており、そのレプリカが生誕の地とされる〝霊仙山〟の方向を向いて醒ヶ井駅前に建立されて現在に至っている。
確かに伝承の域を超えてはいない逸話ではあるが、雨雲が立ち込めている今日のような景色だと満更史実とも思える厳か感を感じる場所でもある。天候が変わればまた違う印象を受けるのかもと感じ、再訪を願った私であった。- 旅行時期
- 2021年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR醒ヶ井駅前にある。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときには誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 像のまわりは舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 雲が立ち込めており、厳か感が半端ではない。
-
投稿日 2021年08月27日
総合評価:5.0
湖南市菩提寺の集落にある廃少菩提寺。栗東にある金勝寺の旧称が大菩提寺であることによって名付けられたものだと伝わる。開祖の良辨上人は聖武天皇勅願を受けて少菩提寺を作ったとされているが、我が街石山のランドマーク石山寺の建立に携わったことの方が有名である。
天台宗系の寺院として戦国時代末期には、武将の争いの巻き添えとなり、織田信長の近江攻めの際に敗れた近江守護大名の六角氏が退路を確保するために道中に火を放ち逃亡の時間稼ぎをしたとされている。その際火をかけられた少菩提寺も例に漏れず全ての遺構が消失している。それに加えて湖南エリアに強く影響していた石仏信仰にも翳りが見え始めていたと言われており、煤塵と化した少菩提寺は再興されることもなく廃寺となり現在に至っている。
現在では石塔や石仏地蔵等が接近して残っているために当時の規模を知る由もないが、少し山歩きをすれば他の石仏・石塔があり、阿弥陀堂跡地には菩提禅寺が建立されていることなどから、それなりの広さがあったことが理解できよう。
また比叡山と敵対した織田信長が火を放ったとするものも散見するが、甲賀・湖南エリアに限って言えば天台宗に属してはいても反信長の立場を貫き僧兵を抱えていた大寺院以外を攻めた記録が残っていない。特に少菩提寺が消失したと伝わる元亀元(1570)年には金ヶ崎の戦いに於いて朝倉義景に織田信長が敗れた報を受け挙兵するが、野洲河原の戦いに於いて柴田勝家率いる織田軍に敗北し、その際に追撃を受けないようにとの理由から、六角勢が街道沿いの集落や寺院に火をかけたという説が理に叶っている。その後も六角勢は反信長の立場を貫くも連戦連敗では仕方がない。その結果焼失した少菩提寺は再建されることもなく廃寺となったまま現在に至っている。
廃少菩提寺跡に残る遺物の制作年代がある程度決まった時期であれば、衰退した時期も特定できるのだが、三体の地蔵尊の奥に位置する閻魔像は江戸時代の作と言われる様に廃寺になった後に建立されたものもある。この辺りをどう解釈するかは人によりけりだと思うが、自分なりの歴史解釈をしながら巡ることも一興だと私には思える場所であった。- 旅行時期
- 2021年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 石部駅から車で10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れている者はいなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 舗装されていない軽登山道であった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 繁栄を極めた頃が想像できないため、違った魅力を感じる。
-
投稿日 2021年08月25日
総合評価:5.0
石山駅前のランドマークねひとつであった焼肉麗門。昨年春の緊急事態宣言を受け休業されていたが、近日閉店のお知らせが張り出されていたことを知った。
ご主人が亡くなられた後おばちゃんがひとりで切り盛りしていたが、80歳で引退を決めておられたらしく、休業中にその年齢を迎えたこともあり、再開することなく閉店することを決められたようだ。
比較的安価で美味い焼肉を食べられるお店として昭和・平成・令和に渡りお世話になったが、残念ながら今後は食すことはできなくなった。
あのごちゃごちゃした店内で食べる焼肉は格別であった。長きに渡りひとりで切り盛りしていたおばちゃんに心から〝お疲れ様〟と言いたいと思った私であった。- 旅行時期
- 2021年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 3,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 5.0
- JR琵琶湖線石山駅下車すぐ。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 高いとは思わない。
- サービス:
- 5.0
- 話が楽しい。
- 雰囲気:
- 5.0
- おばちゃんが良い雰囲気を醸し出している。
- 料理・味:
- 5.0
- 確かに美味しい。
- バリアフリー:
- 4.0
- 入口に段差がある。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 関西圏の観光客にはうってつけ。
-
投稿日 2021年08月05日
総合評価:5.0
井伊家の物だけでなく彦根が誇るすべての美術品・芸術品が納められている彦根城博物館。中でも一番インパクトを受けたのは二回の移設を経て元の場補に復元された能舞台であった。
博物館でありながら歴史的建造物のようにつくられているために歩くと庭園や個々の部屋の役割を楽しみながら拝観することができるようになっていた。
入園料が少しお高めかも知れないが、内容はかなり充実したものとなっており割高感というものは感じなかった。
ひこにゃんの登場時間のうち1回は必ず彦根城博物館冠木門前があるので、〝出待ち〟をするのに時間が余っていたら是非とも訪れて貰いたいと思う施設であった。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根城表門券売所前。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 収納品の素晴らしさを考えれば高くはない。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- ガラガラではなかったが、混雑してもいなかった。
- 展示内容:
- 5.0
- これは本当に素晴らしいものだった。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープあり。
-
投稿日 2021年08月05日
総合評価:5.0
外堀を渡った所に右側にある城郭のひとつに見える物が開国記念館である。日本を開国した大老井伊直弼が桜田門外の変で斃れてから100年を迎えた昭和35(1960)年に、大老開国百年祭記念事業として再建されたものである。
明治維新の後陸軍省管轄となった彦根城は建物の一部が解体されており、佐和口多門櫓その中のひとつであった。百年祭以降も継続的に井伊直弼を〝顕彰〟する催しが続けられた後、昭和59(1984)年には一部を改造して〝彦根市民ギャラリー〟として使用されたが、建物老朽化等の問題により平成14(2002)年には閉館となっている。
その後彦根城築城400年祭で〝井伊家14代物語〟の会場となった後、平成20(2008)年10月に新たな展示室としてリニューアルオープンし現在に至っている。
失われた建物を補うという意図で作られたことに理解はできる。しかし外堀より内側の彦根城内には市道も通っており、観光客向けに再建したとしても十分その役割を果たせなかったのではないかと思える節がある。現開国記念館を見れば一目瞭然だが、城内の施設と離れていることから〝休憩所〟にしか見えず、せっかくの展示品を見て楽しむものは僅かであり、あとは一息ついている方々の休憩所となっていた。
箱物作りの失敗作のように見えてしまうが、その集められる展示品の〝価値〟で以って観光客を集める記念館となってくれることを期待する。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から歩いて15分程で到着できる。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 無料である。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 休憩している数人がいたようだ。
- 展示内容:
- 5.0
- 展示品の価値は素人の私でも良くわかるものだった。
- バリアフリー:
- 5.0
- エレベーターも完備している。
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投稿日 2021年07月29日
総合評価:5.0
徳川四天王のひとりとされる井伊直政。徳川家康の腹心とも言える彼は家康同様今川家家臣の子供としてお互い複雑な幼少時代を送っている。家庭の事情めいたもので家康に仕えることとなり、その後の家康が出陣した戦いの先鋒として戦功を挙げて重臣となって行く。
井伊の赤備えと呼ばれるものは、長篠の戦に於いて武田方の武将山県昌景の朱色の軍装をまねたものとされているが、これは主君家康が武田氏の旧領である信濃と甲斐を治めるにあたり、武田家の旧臣たちを含めた軍勢を纏め、武田の兵法を引き継ぐという任務を直政に任せたことの一端でもある。徳川重臣の一翼を担う武将となった直政は、その後〝赤備え〟〝井伊の赤鬼〟という勇猛果敢な戦いぶりで戦功を挙げながら徳川家の中での立ち位置を上げて行くこととなった。
家康が上洛し豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価している。その証拠に天正16(1588)年4月行われた聚楽第行幸の際には、昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に直政のみが任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となっている。しかし秀吉に心底付こうという考えは直政にはなかったようで、豊臣姓が下賜されたにも関わらず名乗らなかった記録が残っている。秀吉亡き後に起こった政治抗争では積極的に豊臣方の武将との交渉を引き受け、盟約を結ぶまでとなった黒田如水・長政父子をはじめ、黒田家を通じて豊臣恩顧の武将達も家康方に引き入れることに成功している。
関ケ原の戦いでは東軍の軍監として本多忠勝共々家康本陣に随行している。加えて反石田三成の京極高次、関一政、相良頼房らを西軍から東軍に与するよう取り込んだ。開戦時には霧の中先陣を争ったという説もあるが、現在ではそれは視界の利かない中での偶発的遭遇だったとする説が濃厚となっている。戦い終盤には島津隊に襲い掛かり、大将である島津義久にあと一歩までという距離まで近づいたところを狙撃され、足に大けがを負い落馬する。東軍の圧勝となった関ケ原の戦いだったが戦後処理に直政は大けがを負ったまま奔走し、同時に江戸幕府の基礎固めに尽力している。その功により石田三成の旧領近江佐和山18万石と官位従四位下が与えられることとなった。
佐和山藩主となった直政ではあったが関ケ原で負った戦傷が癒えないまま42歳で他界する。家督を継いだ井伊直継が幼少であったがために、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談し、直政の遺志を継いで慶長8(1603)年に琵琶湖に面した金亀山に彦根城の築城を開始した。
その後幾多の変遷はあったものの彦根は城下町として明治維新まで繁栄した。廃藩置県でも壊されずに残った彦根城天守閣は、第二次世界大戦の戦火も受けず江戸時代に建立されたままの姿を今に伝えている。
実際のところ井伊直政が彦根に関わったのは2年に満たない短い期間であった。しかしその後に佐和山・彦根藩主となった直勝・直孝兄弟にその思いは継がれて行き、ライフラインの整備や諸産業の活性化に努め、彦根城完成後間もない間に現在の城下町の基礎が出来上がったとされている。
駅前の井伊直政公像は像の如く〝勇敢な戦いっぷり〟で認められ、彦根が拓ける基礎を作ったとする意見によるものだと聞いた。謂れはともかく彦根駅のランドマークとして〝井伊の赤鬼〟が建立されていることからも、民衆から慕われたお殿様だったことを確信するものであった- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅前。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 像目的の者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 周辺も舗装してあった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 井伊の赤鬼そのものだった。
-
投稿日 2021年07月28日
総合評価:5.0
彦根藩11代藩主井伊直中の十四男として生まれ、後に幕府大老となる井伊直弼は幼少の頃から行く末が全く分からない不遇の時期を過ごしていた場所である。埋木舎の名付けは直弼本人であり、大名家の屋敷であっても〝控え屋敷〟と呼ばれる質素なものであった。現埋木舎である尾末町御屋敷は井伊家の〝控え屋敷〟のひとつであり、直中死去後藩主となった兄直亮の下弟の直恭とともこの控え屋敷で暮らすようになった。300俵の捨扶持の部屋住みの身分だった二人だが、数年後他家への養子の話があり、兄弟そろって江戸へと向かうが、選ばれたのは弟の方であり、直弼は以前の生活へと帰るしかなかった。ただ結果として兄であり藩主であった直亮には実子がおらず、異母弟の直元を養嗣子にするが早世し唯一国元に残っていた直弼を養嗣子にする。直亮の死去を受けて彦根藩15代藩主となる。
その後の活躍は知られたものとなっているが、その下積みは15年間の〝控え屋敷〟での生活にあったと言っても過言ではない。埋木舎と屋敷を命名するにあたり、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例えて〝逆境に於ける安住の地〟とし、為すべきことが多々あるとしてこの屋敷に於いて文武両道の修練に励んでおり、苦悩と屈託の多い青春であったことが窺い知れる日記が残っている、
日米修好通商条約・安政の大獄・桜田門外の変等〝悪評〟の絶えない直弼ではあるが、一文化人としては驚くべき才能を持っていたことは周知の事実である。しかし苦労をし続けたことから〝功を急いだ〟感が強く、時代の流れに飲み込まれた人生であったようにも思う。尊王攘夷運動が活発になり始めた頃の大老職であったがためにそうなったのではと、この埋木舎と由来文を読んだ私にはそう思えたのであった。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から徒歩10分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときには誰もいなかった。
- バリアフリー:
- 2.5
- 旧家なので段差はある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 武家の屋敷には毛頭見えない…。
-
投稿日 2021年07月28日
総合評価:5.0
彦根城中濠沿いに植えられている松並木である。江戸時代に〝松の下〟と呼ばれたこの道は、藩主の参勤・着城で必ず通る場所である重要路とされており、この松を植えた二代藩主直孝公の治世には本数が47本だったことから、いろはの47文字に因んで〝いろは松〟と呼ばれるようになったと伝わっている。また人馬や車が通る場所であることから、その通行を妨げないように根が地上に張り出さない〝土佐松〟が選んで持ち込まれ植えられたとされている。
現在残る松並木は33本と言われており、樹齢は300年から30年物位のアカマツ。クロマツが植えられている。生活道路に面して植わっているために〝虫害や劣化〟に対する対策は慎重に取られており、数日後には防虫剤と防腐剤が散布される旨が記されていた。
歴史あるものは一時でできるものではないために、老木は現状維持、若木は育成と対策を考えなければならないことは大変だと思う。しかし300年後の世代が〝彦根城のいろは松〟を堪能できるようにして貰いたいとふと思わせる松並木であった。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から徒歩8分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間によりけりだった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 通路はアスファルト敷きになっている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 老木も若木もそれぞれの役割を担っているように見えた。
-
投稿日 2021年07月28日
総合評価:5.0
幕末の大老井伊直弼は安政の大獄で反対論者の粛清を行い、その反動で起こった桜田門外の変によって命を落とした。譜代大名でありながら微妙な立ち位置になった彦根藩主井伊氏の16代藩主直憲は、幕府の処分緩和に奔走するが、その甲斐なく減封処分となる。譜代大名の筆頭格であった井伊氏に対する処遇は到底受け入れられるものではなかったらしく、幕府との関係は悪化して行った。
幕命に従い尊王攘夷派の鎮圧に貢献したこともあったが、その後長州との戦いで敗れたことをきっかけに新政府軍に加わることとなり、戊辰戦争を戦うこととなる。
徳川慶喜の大政奉還によって明治を迎え、初代彦根藩知事となった井伊直憲は、戊辰戦争の彦根藩士の戦死者を祀るため〝招魂社〟造営に着手する。明治9年に前期工事が竣工、官祭彦根招魂社として7月に戊辰の役東征従軍戦死者青木貞兵衛頼実之命始め26柱の神霊を招魂鎮座することを以て創始とした。その後昭和14(1939)年に現社名である滋賀県護国神社となり、戊辰戦争以降の県内出身の戦没者の御霊を祀るものとなるも、敗戦により進駐軍の駐留により社号を〝沙々那美(さざなみ)神社〟と変更している。サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復した後は、再び滋賀県護国神社となり現在に至っている。
井伊氏所縁の建造物等も以前には置かれていたようだが、現在は保全を優先し能舞台は彦根城博物館に移設するなどされている。
滋賀県護国神社という名称がなぜ彦根にあり県庁所在地の大津にないのかということは普通に思うのであるが、どうやら明治維新の〝招魂社〟造営に着手できる者が大藩の藩主のレベルであったことから納得する。また第二次世界大戦の戦没者慰霊碑等も多く建立されており、県内戦没者追悼の中核となっていることがわかるものとなっている。
個々の慰霊碑には県内で編成された部隊の他、シベリア抑留による犠牲者慰霊にまで及んでいる。彦根城を楽しむ散歩も良いが、今の時代を楽しんで生きられることは多くの犠牲を払っての結果だということを考える場所ではないだろうか。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から徒歩5分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は誰もいなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足元は砂利敷きと石畳である。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 戦没者を祀っているだけに厳か感が違う。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
妙感禅寺から山手へと進み、防獣ネットを潜って暫く歩くと地蔵磨崖仏覆屋が見えて来る。鎌倉時代後期の作とされる磨崖地蔵菩薩像は両脇に2躰の脇侍が彫られているが、なにかはわからない。説明板に書かれたものによると〝地蔵経にいう掌善、掌悪の二童子であろうか〟とあり、特にこの形式を〝近江形式〟と呼ぶらしい。とのことであった。
彫られた由来については不明であるが、大き過ぎず小さ過ぎずの173cmの高さは〝特別な物〟というよりも〝親密感溢れるもの〟と表現した方が良いように感じる。
湖南エリアには磨崖仏がたくさん残っており、磨崖仏周辺にも巨石が無造作に置かれていることから、その巨石にも〝彫られた形跡〟を疑うものも少なくない。妙感寺磨崖地蔵菩薩像付近でも同じことが言えためる、確認しようと見てみたが、光が届かないのでわからなかった。
妙感寺から磨崖地蔵菩薩像を経て進むルートは三雲城址ハイキングコースでもあるようで、中世の城と一緒に散策することができるものとなっているようだ。
保存のためだが覆屋に覆われていることは、今までに訪れた磨崖仏と異なるものである。しかし風雨に当てない方が磨崖仏の劣化は防ぐことができるので、長きに渡る保存を考えると致し方ないかと思える地蔵様であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR草津線甲西駅から車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れている間誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 舗装はされていないので諦めるしかないだろう。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 保存状態は頗る良いようだった。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
甲賀市水口町北脇にある柏木神社。創建は不詳ながらも飛鳥時代と伝えられ、源頼朝が上洛の折に鶴岡八幡宮の御分霊を合祀し、若宮八幡宮と呼ばれるようになり柏木荘十六か村の鎮守のお社として栄えたことが記録に残っている。
天正年間には織田信長の軍勢が当地を攻めた際に楼門・銘木は持ち去られ、楼門は安土の見寺に据えられた。その他宝物・古文書・主要建物は焼失している。その後承応年間に日野町金剛定寺の旧寺門が据えられて現在に至っている。水口岡山城が破却された後水口城が幕府直轄地に築かれた際、幕府任命の城代が入城し守護神として当社を崇めていたと伝わっている。中でも常陸牛久藩二代藩主山口但馬守弘隆は崇敬の念篤く、幾多の寄進のあったことが古文書に記されている。その後加藤明友が2万石の知行を得て入城し、水口藩が成立するとその念は引き継がれこととなり、歴代藩主の祈願所として崇拝を受け続けた。
明治期に村社となり社号を柏木神社と改める。以降郷社を経て昭和20(1945)年に県社に加列されている。伊勢神宮の旧荘園であったことから、現在でも氏子の在住が広いエリアに散らばっており、境内に残る忠魂碑からも水口町界隈の氏神様としてのカラーが強く残っている神社である。
残念ながら今回は日暮れのために折角の建物が見られないことが残念ではあるが、これ無い距離ではないので、また改めて再訪したいと思う神社であった。
直接関係があるのかどうかはわからなかったが、歩いて3分位の場所に長束正家の正妻栄子姫の〝姫塚〟がある。前の通りは道幅が狭いため、柏木公園の駐車場を利用して下さいと書かれていた。駐車場は忠魂碑脇に広いものが用意されていた。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 新名神甲南・甲賀土山ICよりで車20分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夜だったので誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- 舗装されているところもあるが砂利敷きが多い。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 鳥居前を見るだけで立派なものとわかる。
-
投稿日 2021年07月06日
総合評価:5.0
湖南市立岩根小学校界隈を走行中、摩崖仏不動明王という案内板を見つけて立ち寄った。集落から林道を走ること数分で到着。入口には車数台が停められる駐車スペースとなっている。
山道を少し歩くと高さ6.2mという巨石に像高4.3mの不動明王像が彫られていた。絶壁の巨石に彫られているために渓谷を挟み少し距離を取った方が全体像はわかり易い。通称車谷不動と呼ばれる不動明王像は、江戸時代の作と言われており比較的新しいものではあるが、そのため摩耗が少なく〝誰が見てもわかる〟ものとなっている。
日暮れを過ぎていると自然石に彫られた摩崖仏はわかり辛いものとなることが多いが、この不動明王は〝彫り〟がしっかりしているためにすぐわかるものとなっていた。立派な憤怒像であり、立像の大きさからその威圧感が伝わって来る。修験者の信仰に関りがあるとも言われているが、江戸時代に建立で〝怒り〟と来るならば、近隣で起こった近江天保義民に関わるものかも知れないと想像が膨らみ、興味深い。
不動明王下には祠があり、花などが手向けられていることから地元の方からの信仰もあるように見えた。因みに明王様に会いに行く参道は落石のために〝通行禁止〟と書かれていたが、知らずに中へと入ってしまった。日暮れの眺望が利かない中でてっきり〝車止め〟として捉えてしまっていた。
足元まで行かなくとも大きな像であるがため、渓谷を挟んだ林道からでも祠共々見ることができる。そこまで車で行くとバックして戻ってこなければいけないために、〝磨崖不動明王入口〟の標識の場所に車を停めて歩くことをお勧めする。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR草津線甲西駅から車で10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときは誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 足元は舗装されていない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 大きさに圧倒される。
-
現在近くまで行くことができないが、対岸からでも迫力が伝わってくる。
投稿日 2021年07月06日
総合評価:5.0
花園集落から山手へと林道を走行すると岩根山中腹の巨岩に彫り込まれた不動明王像を確認することが出来る。まわりに像を隠す木々などがないため、像高4.3mという高さは思いの外目立つようだ。
江戸時代に彫られたものだそうだが、良い意味で雨風に晒された期間が短くはっきりとした輪郭も残っていた。一説によると修験道だったと言われているが、明らかに怒ったお顔をしているために近江天保一揆を背景にしているようにも思えてしまう。
本来ならば像の真下にある祠まで行くことができる参道があるのだが、落石があったという理由で通行が禁止されている。
車で来訪する者用に参道入口に車数台を止めることができるスペースが設けられている。対岸から像を望むには100m程進まないといけないが、途中Uターンできるようなスペースはないためにそのままバックする必要がある。そんなことから車の運転に自信がなければ、最初から車を駐車スペースに停めて歩くことをお勧めする。
カメラで像を撮る場合のことを考えると、明るいうちに行かなければならない。なぜならば肉眼では見えるが距離はあるため、カメラのストロボ程度では光が届かず真っ暗になる。かといってナイトモード搭載のデジカメを用いたとしても、像の周りには光源らしいものがなくこれもまたうまく撮れないのが現実であった。
画像として残す場合は三脚持参が望ましい。山の中であるために日没時刻迄に合わせても先ずまともな写真は撮れないだろうと思う。目に焼き付けるならば問題はないが、記録を残すのであれば、周到な準備が必要とされる場所であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR草津線甲西駅から車で10分程で到着する。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 日暮れどきだったためか誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- はっきり言って足場は良くない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- その大きさに先ずば圧倒される。
-
投稿日 2021年07月07日
総合評価:5.0
琵琶湖大橋に近い第一なぎさ公園。菜の花やヒマワリが咲き誇る場所として知られている。その他にもあまり知られていないらしいが、ハマヒルガオの群生地でもある。ヒルガオ科ヒルガオ属の多年草であり、典型的な海浜植物でもあるハマヒルガオが琵琶湖岸という淡水域に自生することが大変珍しいと言われることが理由である。
初春の菜の花、夏のヒマワリは畑のエリアに花が咲くが、ハマヒルガオは湖岸の砂浜に花が咲く。〝湖岸に咲くハマヒルガオを守る会〟が管理運営をしているが、結構徹底した保護をしているようだ。それ程繁殖力が高い訳でもないらしく、人が踏んでしまうことにより花が傷んでしまうため、散策用の道は石を連ねて作られている。加えて大々的に〝ハマヒルガオ群生地立入禁止〟と書かれていることから、まあ普通に考えれば見られる場所が限られているため保存は効果もあるのかとは思っていた。しかし数日前の新聞に載っていたような花が群生している様子も見えない。おまけに残っている花にカメラを向けると大抵のショットで〝足跡〟がついていることに気付く。時間によっては人が集まっているのかも知れないが非常に残念である。
確証はないのだが第1なぎさ公園の花の時期には〝畑〟の一部分が駐車場として開放されているが、ハマヒルガオの時期には駐車場を設けないという・設けるという二通りの記述がありどちらが正しいのかはわからない。ただ今シーズンに関しては、琵琶湖岸一帯の駐車場は〝密防止〟のためにGWから閉鎖が続いている。
マナーの悪さもあるのかも知れないが、琵琶湖が〝海〟であった名残のハマヒルガオの〝本当〟の群生している姿をいつか見てみたいと思う。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR湖西線堅田駅から琵琶湖大橋経由車で15分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れる時期と時間によりけりであろう。
- バリアフリー:
- 3.0
- 一本橋を歩く感覚なので無理であろう。
- 見ごたえ:
- 4.0
- 群生地とは…。
-
投稿日 2021年07月07日
総合評価:5.0
守山市杉江町にあるもりやま芦刈園、公益社団法人守山市シルバー人材センターが指定管理者となっている〝あじさい園〟である。通年開いている施設ではあるが、紫陽花の花咲く時期には有料となり、開園時間も延長される。
例年になく花が咲く時期が早まった今年、紫陽花も例外ではないようで5月半ば過ぎには開花が始まったと書かれていた。紫陽花園としては6月1日から末までとなり、例年よりも一ヶ月早く終了したようだ。7月1日以降は平常の営業となるため注意が必要である。
こちらの見どころはなんと言っても多種多様のアジサイが咲き誇ることである。和・西洋の100品種10,000本のアジサイはまさに圧巻であり、すべてのものを見て回るには3回は来ないといけないと地元の方から聞いた。
亡くなった母親がアジサイ好きだったこともあり、母の日に〝その年の新種〟のタイトルでアジサイを選んで贈っているため、見たことがない品種は少ないはずだが、ここにあるアジサイの〝新種〟の中には今後20年間特許の関係で手に入れられないものもあるという。それらが2haの敷地に数路や水路を除いた土の場所に自然な感じで植えられている株が咲かせる花は、多過ぎて感動を通り越しため息が出てきた程であった。
紫陽花の種類を楽しむのも一興であるが、園のロケーションを生かせて作られている水路や水際の菖蒲などもあり、200円の入園料で良いものか…と思えるような体験ができたように思う。
このアジサイの時期に於けるもりやま芦刈園を映像で語るには、いい方は悪いが〝植物図鑑〟にしかならない。カメラの映像に頼るのではなく、自分の五感で感じながら歩くことが一番であると感じた市営の植物園であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR琵琶湖線守山駅からバス15分。
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- 多くはないが少なくもなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 要所要所はスロープや舗装がされている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 多種多様なアジサイの数に圧倒された。
-
人のため 身は罪とがに 近江路と 別れて急ぐ 死出の旅立ち~土川平兵衛~
投稿日 2021年07月17日
総合評価:5.0
老中水野忠邦の下天保の改革が断行された天保年間。前半には飢饉が起こり多くの民衆が亡くなった。贅沢を禁じつつも幕府の財政は、農村部の米の育ちが思わしくなく悪化の一途をたどっていたと言われている。
大阪では飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた役人大塩平八郎の乱が起こるなど、一触即発の状況が続いていた。米どころのひとつとして知られた近江国、中でも湖南エリアは〝米の名産地〟としても知られている場所であった。天保12(1841)年には第12代将軍徳川家慶によって幕府財政の根幹である年貢増の抜本策として〝検地〟による幕府年貢収入増加を目指す命令が出て、幕府勘定方市野茂三郎が検地役として湖南の地にやって来た。
老中は〝贅沢〟を禁じ、将軍は正当な〝幕府年貢米の確保〟をそれぞれ検地の目的とした。しかし市野のやったことは〝賄賂集め〟と〝えこひいき〟であった。譜代藩や賄賂を贈った村は素通りし、まともに検地を受け入れた村々は、実際より短い長さの竿を用い石高を増やし続けた。データによると従来の石高が1.5倍となるような数値が当たり前のように〝検地帳〟につけられていったと言われている。それでなくとも農民達の食べる〝米〟すらない状況下では、増税が即ち〝死〟を意味した。
そのような役人の暴挙に各村の庄屋達が話し合いを開く。その結果が〝検地を止めさせる〟ためとした〝近江天保一揆〟となる。現甲賀市の矢合神社に集まった農民は約2万人。蜂起が目的ではないために武器は勿論代わりとなる鋤や鍬なども一切携行してはいない。道中水口藩領内に於いて血気に逸らないことを一揆主導者から求められていたにもかかわらず、検地に協力した庄屋宅への打ち壊しが行われている。それに対し水口藩は一揆勢を抑止説得するため、役人を派遣するものの多くの役人は多勢に無勢な上に一揆勢に同情的だった者も多く、素通りさせた上に城下に於ける〝炊き出し〟も行われている。野洲・栗太・甲賀各郡の一揆勢は三上村の河原で合流した後野洲河原へと結集し、見分役人の本陣を取り囲んだとされている。ことの発端となった市野茂三郎本人は、三上村農民の手助けを受けて三上山の洞窟に潜み、騒ぎが終わることを待っていたという。一揆勢には三上藩郡奉行平野八右衛門と地方役人大谷治之助らが対応し、群衆からの申し出であった〝請文さえ頂ければそれで良い〟とのことに対し捺印した請文を渡している。その後平野八右衛門の渡した請文の〝見分見合わせる〟との内容が曖昧だということと〝見分役人衆の署名捺印も願う〟との申し入れがあり、大谷治之助が対応した〝今度野洲川廻村々新開場見分之義ニ付願筋も之有候間十萬日之間日延之義相願候趣承届候事〟の請文を手渡し、周知徹底のため障子に〝今日から十万日の日延べ〟大書きして一揆勢に示すと〝有難き事候〟と了承し、三上陣屋に一礼をした後に引き上げて行った。
一揆勢に太刀打ちできなかった市野ら一行は、一揆勢が引いた後に陣屋に戻りすぐに大津を経て京都町奉行所に辿り着いた。そこで進退伺を立てた市野らは漸く江戸より帰府を命じられ帰途に着いたとされている。その際大津への退去時に栗太郡に駐屯していた膳所藩警備隊に大津代官所手代が助力を要請したと言われているが、幕府から叩かれ続けていた藩主本多家の意向により拒絶されている。
一揆は成功したがその後面子を潰された幕府は、驚愕すると同時に威信回復のため、一揆に加わった者たちの取り調べを開始し、それは峻烈を極めたものであったという。拷問などによって〝一揆指導者の名前〟を挙げさせようとするも、口を開かず拷問に耐え死んでいった者も多くいたという。入牢者に対する拷問の凄まじさは獄舎から聞こえる呻きや尋問だけで終わった召喚者の話から伝わったとされ、関係各村の神社では除災安全の祈願や捕縛者延命の祈りが捧げられ続けたと言われている。また一揆の〝開始の地〟でもある水口藩では、藩領関係者の除災を7日間に亘り天台宗美松山南照寺で祈祷が行われたことを記録している。また第120代仁孝天皇は自身も近江の湖東湖南域に領地を持つ宮門跡や公卿から一揆及びその後の状況を聞いていたとされており、凄惨な拷問の事情を憂慮し比叡山延暦寺に下命され安全祈祷の護摩修法を厳修させている。
大津代官所での拷問責めの結果11名が江戸送りとなった。一揆発頭人の〝罪名〟を付けられた土川平兵衛は石部宿に於いて唐丸籠内で手を縄で結ばれたまま家族と出会う。他の〝囚人〟と言われた者達と同様に、風呂も入れず過酷な拷問の結果辛うじて生きているだけであり、誰が誰なのかが判別できないほどだったと伝えられている。ここで土川平兵衛が親族に残した辞世の歌が〝人のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち〟であり、その歌は今なお近江天保義民を語るに欠かせない言葉として〝石碑〟に刻まれ、その偉業を伝えている。
三上山裏登山口入口部付近に保民祠(平兵衛神社)、や天保義民碑、天保の熱(ほとおり)という解説板や天保義民碑と保民祠の由来の解説板などが設置されている。また江戸送りとなった土川平兵衛が石部宿で親類に当てた辞世の句〝のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち〟が刻まれた碑が建つ一揆150年記念で埋納されたタイムカプセルもあり、こちらは一揆200年の2042年に開けられるものとなっている。江戸時代には〝人間に非ざる〟とされた義民達であったが、明治元(1868)年9月8の〝大赦〟によって一揆関係者の罪が許され、天保義民と称されるようになった。昼でも薄暗い場所にある天保義民碑他一揆関係の慰霊碑は、休憩や登山に車で訪れる者達の駐車場脇にある。普段は静かな場所なのであろうが、時代の流れに飲まれた偉人の御霊が安らかに眠れと言わんばかりの厳か感が漂う場所であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 野洲駅から車で10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 碑を訪れる者は少ないが、登山帰りの駐車場利用者はいた。
- バリアフリー:
- 5.0
- 天保義民碑周辺を除く。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 新しいもの古いものとも偉人の功績を伝えるものとなっている。
-
投稿日 2021年07月19日
総合評価:5.0
初春の菜の花、夏のヒマワリで知られている第1なぎさ公園であるが、ここはもうひとつの〝花〟の名所としても知られている。初夏に湖岸にさくハマヒルガオがその花である。小ぶりなアサガオと評するハマヒルガオは典型的な海浜植物であり、琵琶湖に咲く花は古には琵琶湖が海に繋がっていた名残りだと言われている。元々野生していたものが絶滅の危機に至り、その保全・育成を受けたもりやまシルバーセンターが中心となり〝湖岸に咲くハマヒルガオを守る会〟が設立され、その活動を現在に至るまで続けている。悪天候で琵琶湖の水位が上がり、土が混じり雑草が増えたり外来植物が寄生したりする度に除去を行うなど地道な努力が欠かせないものであるという。
時に種から育てたハマヒルガオを植えたりする活動は行われているが、その結果は運次第というところもあるようだ。
今回6月に訪れたが琵琶湖岸の駐車場は野外活動の密によるコロナ感染拡大を防ぐ意味で閉鎖されていた。そんなこともあり訪れていたものもいなかったが、てっきり〝ハマヒルガオの園〟と期待して行ったのは空振りに終わった。
時期が早かったのか、今年は育ちが悪いのかはわからないが淡いピンクの花ゆえに砂と同化したものとなっており、予想外の〝花探し〟をする羽目となった。
例年がどうなのかは初訪問なのでわからない部分はあるが、写真によっては一輪の花をぼやけたバックに映えるように撮られている物も多いことから、大きな群生地というのは私の勘違いだったのかも知れない。
小さな花にハート型の葉を持つハマヒルガオが、琵琶湖と比良山系をバックに咲き乱れる姿を見てみたいと思った今回の訪問であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 守山駅よりバス25分。
- 景観:
- 5.0
- 夕方に訪れたこともあるが、勢い良く咲いていた花は少なかった。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 散歩をしている方以外には訪問者は殆ど会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 通路は歩くことができる程度の幅の敷石である。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
旧国道1号線で元滋賀県道4号線から矢川橋を渡ったところにある〝天保義民メモリアルパーク〟。江戸期天保年間に各地で起こった一揆の中で、唯一成功したと言われる〝近江天保一揆〟がある。天保の改革の下で各地の農地を再検地することによって幕府財政を立て直そうと老中水野忠邦が始めたもののひとつである〝検地〟がことの発端となっている。
江戸幕府開府後2世紀を経て武家の争いもなくなった世の中で、幕府役人の不正や賄賂が蔓延っていた時代に於いて、強いものには関わらず弱いものから巻き上げるなどということは当たり前となっていたようだ。元々2世紀に渡り公儀による検地が行われていなかった場所として近江国、特に湖南地区がその槍玉に挙げられている。
しかし尾張藩・彦根藩・仙台藩の領地に関してはトラブると厄介だからのくスルーし、その他検地対象地でも賄賂を贈った庄屋の村は、検地をしなかったり少なく見積もったりするなど、幕府というよりもは検地〝役人〟による〝弱い者いじめ〟に過ぎない〝公儀命令〟と化していた。使われていた検地尺は一間(1,818mm)=6尺=60寸が5尺8寸(1,757mm)と実際よりも短いものを用いていた。以前の検地では6尺2寸(187.9mm)が用いられていたため、同じ広さで測ると114%土地面積が大きくなってしまう。それでなくとも飢饉続きで生活が逼迫しているご時世にこの不公平な検地を受け入れことはできないとして起こったものが天保一揆である。この中で近江天保一揆が他の天保一揆と違う扱いを受けているのは、武力衝突がなかったことが挙げられる。この辺りの住民で庄屋になっているものは大抵佐々木氏や六角氏、またはその家来筋の末裔だった。そのような者達だったが故に学もあり、話し合いに基づいて解決を行うことに徹し、それに賛同した多くの農民達も従ったことが、武力行使をせずに検地10万日の日延べというものを勝ち取ったこともこの地ならではのことだったからと思う。
しかし一揆の主導者として裁かれるのはこの時代の法。参加者の取り調べは勿論のこと、一揆の指導的立場に立った各村の庄屋達は徹底的な拷問を受け自白を迫られる。しかし個々自分達の責任であると言い張り、他の参加者を巻き込むようなことは一切していない。
結局出頭を命じられた大津代官所で裁きを受け、中には獄死する者もいたと言う。指導者であり生きていた11名の元庄屋達は唐丸籠に乗せられ江戸へと向かう。その道中で3名が衰弱死し、残りも1名を残して獄死した。地元では〝義民〟であっても、役人からすると罪人でしかない。そんな時代であったのだろう。25年後の明治元(1868)年の大赦によって一揆関係者の罪が許されることとなり、その功績を〝近江天保義民〟として後世に語り伝える手立てが講じられてきた。
一揆後150年を迎えた平成3(1991)年10月にこの矢川橋西詰の地に天保義民メモリアルパークが当時の甲南町によって作られた。天保義民碑と言われるものは〝慰霊碑〟であり、その様子を視覚的に見る者がなかったためにレリーフ等で紹介したものという理由からこの碑が建立されたと聞く。義民の功績は歴史に疎い私でもわかることだが、ネーミングの〝メモリアルパーク〟という呼称にはしっくりこないものを感じてならない。メモリアルパークは〝記念公園〟であって〝祈念公園〟ではない。そういう観点から見ると甲賀市が観光ガイドに記載している〝天保義民の碑〟の表記の方がしっくりくるように思えてならない。
江戸時代に於ける一揆や直訴は死罪になることは〝当たり前〟のことであった。それを知りつつ自らの命を懸けた〝義民〟が生活に窮する住民達を救うために立ち上がった史実は、綺麗事として語り継がれるものではないように思えてならない私であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 甲南駅・新名神甲南ICより車で5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- メモリアルパークを訪れる者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 4.0
- タワーのまわりには段差がある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- レリーフがビジュアル的に一揆を伝えている。
-
投稿日 2021年07月04日
総合評価:5.0
甲賀市甲賀町滝にある無住寺元龍寺。戦国時代の甲賀武士多喜氏の祖多喜家継の孫である来峰和尚が弘文8(1284)年に開基したと伝わる古刹である。現在は浄土宗の寺院としているが、本来は天台宗だったとされている。御本尊の木造観世音十一面菩薩立像は甲賀市指定文化財であり毎年8月10日にご開帳されている。現在は無住寺となっており、近所にある数件の檀家さん達が持ち回りで管理されている。
知名度は高くはないが、知る人ぞ知る紫陽花の隠れた名所として知られており、裏山に植えられた紫陽花はガクアジサイや和アジサイ等ありふれた種類ではあるが、手入れは行き届いており、持ち回りで管理をされている近隣の僅かな檀家さんの思いが伝わって来た。
本道から外れた集落内に建立されており、車で向かうにはかなり躊躇するような細い道を走らねばならないため注意が必要だ。
駐車場はないと表記されているものもあるようだが、元龍寺前に車数台が停められるスペースがある。ただ足元は土と砂利敷であるために、タイヤがスリップしてしまう時がある。あまり力任せにアクセルを踏んでいると勢いがついていきなり側溝にタイヤをはめてしまうことがあった。檀家さんの奥様が駆けつけてくれ無事脱出することはできたが迷惑をかけてしまった。
今年は例年になく紫陽花の開花が早く、既に見頃を過ぎていたことは残念だったが、あの手作り感満載の紫陽花苑には、満開で賑やかな時に再訪してみたいと思える場所であった。- 旅行時期
- 2021年06月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 新名神高速道土山インターから10分
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は私ひとりであった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 砂利敷きと土であり、足元はあまり良くはない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 見頃は過ぎてはいたが斜面に咲く紫陽花は素晴らしい景色を作っていた。







































































































































