たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんのクチコミ(12ページ)全1,854件
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- 基本情報
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投稿日 2021年10月16日
総合評価:5.0
現在の浄厳院の地には室町中期に近江守護佐々木氏頼によって建立された天台宗寺院の慈恩寺威徳院があったが兵火により焼失している。その後天正年間に織田信長が金勝山の浄土宗の僧浄厳坊明感を安土に招き、慈恩寺跡地に明感を開山とした浄土宗寺院である浄厳院を建立したことにより歴史が始まった。
佐々木氏・六角氏・浅井氏と言った近江を治めていた大名を滅ぼし比叡山を焼き討ちした信長は、自らが手に掛けた寺院などから建物・仏像等を略奪してきたとされており、それらを浄厳院の建造物として用いたとされている。入手方法はともかく重要文化財や県・市指定の有形文化財として今日でも見ることができるものとなっている。
安土城が完成しその城下町を形成するにあたって作られたとされるここ浄厳院で、浄土宗と法華宗の僧による安土宗論が信長の裁定により行われることとなった。所謂宗教論争ではあるがこれには信長の強い政治的思考が大きく関っており、事を荒立てず内々に済ませたい信長の意向に従った浄土宗側に対し、争う意思を曲げなかった法華宗側を〝今後の成り行き〟を考えて裁いたとも言われている。宗論に負けた法華宗側では在家信者や宗論出席した僧が斬首されるという厳しい処分を受けた。加えて〝宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、この度宗論に負けた以上今後は他宗を誹謗しない〟との詫証文を欠かされたとされている。
これは信長が天下統一を果たした過程に於いて〝一揆〟と戦い続けて来た経験が影響しているようにも見えて来る。今後統治者として〝暴徒化する集団とどう向き合うか?〟という考えは勿論持ち合わせていたであろう。一歩間違えれば日本の中心となった安土の城下町を一揆で失うことを未然に防いだと考えられ、それなりの評価は受けている裁量だったと言われているようだ。
浄厳院の位置する慈恩寺という地名は、元々この地にあった旧慈恩寺に由来している。参拝者が私の他1人居たが、500年程の歴史の割には静かな境内に〝歴史資産〟とも言える文化財が所狭しと建立されていることに違和感すら感じる場所でもあった。城下町としての安土の歴史は10年もなかった話である。そんな安土に於いてはやはり歴史建造物に当たるのかとふと不思議に感じた私であった。- 旅行時期
- 2021年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 安土駅から徒歩10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際は1人の参拝客が居た。
- バリアフリー:
- 4.0
- メインは砂利敷きだが、石畳もひかれている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 歴史的価値のある建物が数多く建立されている。
-
投稿日 2021年10月06日
総合評価:5.0
大津市大江六丁目の住宅街の一角に鎮座する御霊神社。近隣には鳥居川と北大路にも御霊神社があるためにここでは御霊神社(大江)と便宜上呼ぶこととする。
第38代天智天皇が大津京に遷都し、それまで皇太子としていた大海人皇子に代わり自身の子供である大友皇子を皇太子に据え、次期天皇とすることを決めた。近江朝廷軍との戦いを回避すべく吉野に籠った大海人皇子ではあったが、朝廷軍が自らの命を狙っているとの報を重臣から受け挙兵することを決断する。最初こそ連戦連勝を続けていた近江朝廷軍ではあったが、不破関を大海人皇子の軍勢に抑えられたことから東国から近江へと向かっていた軍勢がそれ以上進めなくなり、結果として大海人皇子に付くこととなる。その後大海人皇子軍は連戦連勝を続け、遂に天武天皇元(672)年7月23日の瀬田川の戦いに於いて近江朝廷軍は大敗し、深手を負っていた大友皇子は近隣の山に入り自害をして果てた。
大友皇子が第39代弘文天皇として明治期に諡号されたことから現在でも大王に即位したかどうかはわかってはいないものの、その最期の地と伝わる場所は瀬田唐橋近隣に複数残っている。そのひとつが大江の御霊神社であるが、この神社は第9代開化天皇の第三皇子であった彦坐王の子孫と言われる治田連の子孫が大友皇子の神霊を祀ったことに創始すると伝えられている。以前は他の場所にあったが江戸時代初期に暴風雨に見舞われ倒壊し、江戸時代中期の明和年間に2回目の移遷時に現在地に鎮座し、今日に至っている。
住宅地の中にポツンとある御霊神社は、その一区画だけが浮いた感じを受けるものであった。しかし大友皇子を祭神とする神社としてではなく、正しく〝村の鎮守の神様〟の様相を呈していることには疑う余地はない。大友皇子を祀る三社の三者三様の違いを確認し、創始由来等からそれぞれの神社〝らしさ〟を感じることは古の様子が目の前に浮かんでくるような印象を受け、大変今日もい深いものであったと思う。- 旅行時期
- 2021年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 博愛保育園前バス停徒歩5分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れた際には誰もいなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段を登らなければならない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 厳か感はないものの生活に溶け込んでいる神社であった。
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投稿日 2016年10月07日
総合評価:5.0
知覧特攻平和会館隣に復元された三角兵舎があります。特別攻撃隊として翌朝には南の空への二度と戻ることのない片道切符の旅を控えた若き青少年が、目立たぬように半地下仕様に作られたこの三角兵舎で最後の夜を過ごしました。
その時の想いを伝えるべく隊員達が残して行った手紙や日記などが知覧特攻平和会館に残されています。
本音を語ることが許されなかったご時世に、その残されたものに込められた想いをどこまで彼らが語っているのかは、読めない部分があって当然だと思います。しかしその読めない部分を抜きにしても、来館者の気持ちを揺さぶるのは、決して自分達が犬死にするために終焉の地に向かうのではない『心算』があったに違いありません。
戦争を今に伝えるものを、それ即ち『戦争をすることが駄目だ』とあんちょこに結論付けるのは如何なものかと思います。確かに今更戦争の是非論を言うつもりはなきにしても、なぜ戦争というものが起こり、どのような気持ちを持った前途ある若者が、夢であった大空から敵艦船に向かって体当たりを敢行しなければならなかったのか?その過程論を知ることこそが必要な時期になっているように思います。
一度見たら満足というものではありません。何度も繰り返し訪れて毎回新たな発見をすることによって建設的な意見を構築し、今後未来に活かすべく対策を講じることの必要性を改めて感じました。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 知覧特攻平和会館隣にあります。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方は空いていました。
- バリアフリー:
- 3.0
- 段差はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 復元ですが、緊迫した状態を肌で感じられます。
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投稿日 2016年10月08日
総合評価:5.0
今を遡ること70余年前の昭和16(1941)年に福岡の陸軍大刀洗飛行学校知覧分教場が設けられました。大空を舞う夢を抱いた少飛・特操の青少年が厳しい試練に耐え、パイロットの夢をかなえます。しかし時代背景はそれを許さずこの知覧の飛行場は南方へ二度と帰ることのない特攻の前線基地と化しました。訓練期間も徐々に減り、腕前を磨くのではなく、数の量産化に重きを置く訓練になっていきました。
多くの若者が南を目指して、敵艦艇に体当たりを試みるものの、結果は明らかであり、戦果も得られず犠牲者ばかりが増えていきました。
今は公園として老若男女の憩いの場となってはいますが、大戦末期には正しく今生の別れの日々が続いた場所であることには違いありません。確かに観光地化されているところもありますが、そこは自分の思いでどう取るかだと思います。
そう建設的な意見を構築することこそが今後将来がどうなるのかにつながっているように思えてなりません。- 旅行時期
- 2016年09月
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投稿日 2016年10月07日
総合評価:5.0
知覧特攻平和会館の隣にある特攻平和観音は、先の大戦末期に沖縄戦に於いて陸軍の航空特攻を敢行し、若くして散った特攻隊員を祀っています。昭和30(1955)年9月28日に旧知覧飛行場跡地に建立された知覧特攻平和観音堂には、法隆寺の夢殿に奉安してある秘仏の『夢ちがい観音像』を特別な許可を得て謹鋳した一尺八寸(54cm)の金銅像が安置されており、観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した巻物が奉蔵されています。
この観音像を知覧特攻平和観音堂に持ち込んだのは、他ならぬ『元航空総軍司令官』と『元第6航空軍司令官』のお二人です。インパール作戦や特攻を指揮した両者が鎮魂のためという思いを本当に持っていたかどうかは定かではありませんし、今となっては知る由もありません。しかし謂れはともかく特攻隊員として『死ぬこと』を余儀なくされた若者を祀っていることには違いありません。
歴史を知らずして未来は語れず…その意味も込めてぜひとも訪れて頂きたい場所でもあります。- 旅行時期
- 2016年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 知覧特攻平和会館となり。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 夕方だったので誰もおられませんでした。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段はありました。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 厳粛な雰囲気が伝わってきます。
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投稿日 2014年10月11日
総合評価:5.0
時間の関係で先に知覧平和特攻会館を見学した後に回りました。敷地内には野球場もあり、数ある慰霊碑とマッチしており現在の平和のありがたみを無言で語りかけられているように思います。"とこしえに"の像、鳥濱トメ顕彰の石灯籠、三角兵舎等大戦末期の由来のものがある中で、この知覧をはじめとした陸軍の特攻を題材とした映画、"ホタル"と"俺は、君のためにこそ死ににいく"の撮影にまつわるものもあります。映画と現実を一緒にするのは失礼かも知れませんが、映画で関心を持って史跡を回ると、戦争の悲惨さを余計に感じることができます。またそういう風になってほしいからこそ、その映画の撮影記念碑があるように思いました。
- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 車であれば結構便利かと思います。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時間によると思いますが、会館閉館後はすいていました。
- バリアフリー:
- 4.0
- 護国神社と特攻平和観音は階段があります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 復元のものが多いですが、会館とはまた違うものを感じます。
-
投稿日 2014年09月24日
総合評価:4.0
伊集院方面から国道270号線を走り、万世特攻平和祈念館へ向かう際にナビが右折しろと言う場所のちょっと先にあります。黄金の稲穂たなびく神話の郷と銘打っているように施設内には木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の像があります。この地の大山津見神(おおやまつみのかみ)の娘の木花咲耶姫は、日向の高千穂の霊峰に 降臨されたニニギノミコトの妃になられた人です。日本の国を統一された神武天皇は木花咲耶姫の ひ孫になります。日本を創った母といわれる人で、墓(古墳)は西都原市にあります。また今回は行けませんでしたが、道の駅のすぐ後ろに隣接して”南さつま市歴史交流館金峰”があります。 薩摩半島西部の歴史と文化を紹介する施設で、館内は”時空のクロスロード””入り海とともに””よみがえる中世交易の世界” の3コーナーに分かれ、金峰地区で出土した石器や土器、阿多張りキセルや竹細工、阿多タンコなどの民具などを展示しています 。現実をしばし忘れて神話の世界に浸ってみるのも一興かなと思いました。
- 旅行時期
- 2014年09月
- バリアフリー:
- 5.0
- 段差は特にありません。
- トイレの快適度:
- 5.0
- 外と館内にありましたが、どちらも清掃が行き届いておりキレイです。
- お土産の品数:
- 4.0
- 地の物が多く、お土産として持ち帰れるかどうかは抜きにして食べたい!って思うものは多いです。
-
投稿日 2014年09月25日
総合評価:4.0
志布志を出て万世へ向かう途中に寄りました。桜島が見える場所ということは聞いていましたが、時間に追われていたのでトイレ・タバコ・飲み物だけでスルーしました。それほど広いという感じではありませんでしたが数台バスが入っていてもそれほど窮屈感はありませんでした。帰りも寄りましたがさすがに夜だったのでなにも見えませんでした。空港や宮崎方面からだと鹿児島方面最後、鹿児島からだと最初のサービスエリアなので利用頻度は高いと思います。
- 旅行時期
- 2014年09月
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープ等も完備です。
- トイレの快適度:
- 4.0
- お昼時でしたがちゃんと掃除がなされておりきれいでした。
- お土産の品数:
- 5.0
- 旅行の中日だったので買いはしませんでしたが、品揃いは豊富です。
-
人の世ハ 別れるものと知りながら 別れハなどて かくも悲しき・・・。
投稿日 2014年09月20日
総合評価:5.0
戦跡を巡る旅の目的地として来館しました。閉館間際だったので駆け足での見学になりましたが、すごく重みのあるすべての展示物に大変申し訳なく思いました。改めてゆっくり訪れたいと思います。
全館撮影禁止ですが写真でカットする必要も無いように思います。若き特攻隊員の方々の遺品等は現物を見てはじめて訴えかけるものを得られるのではないでしょうか。敷地内には特攻平和会館の他、ミュージアム知覧、三角兵舎(復元)、特攻兵士忠魂像(とこしえに)、特攻神社等関連のあるものが多数ありますのでじっくりと見ながら平和のありがたみを再認識してみてはいかがでしょうか。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 車がないとちょっと不便かも。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 払う価値以上のものが展示されています。
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- やはり知名度が高いため、平日にも関わらずたくさんの人が来られていました。
- 展示内容:
- 5.0
- 全ての展示物に重みを感じました。
- バリアフリー:
- 5.0
- ちゃんと考えられています。
-
投稿日 2014年09月20日
総合評価:5.0
ツアーに組込みの宿泊先として利用しました。宿泊日の無理な行程から到着が日をまたいでしまい大変ご迷惑をおかけしましたが、当直のスタッフの方にも邪険にせず対応して頂き、短時間の滞在でしたがゆっくりさせて頂き疲れを取ることができました。朝食はサービスとのことでしたが、出された和定食はそこらの数千円のバイキングより素晴らしいものでした。部屋も広くビジネスホテルのカテゴリーかもしれませんが、さすがウェディングができるだけの施設のように思いました。次回はゆっくり滞在したいと改めて思います。
- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用目的
- 観光
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 1人1泊予算
- 7,500円未満
- アクセス:
- 5.0
- 鹿屋市の中心部で市役所の近くにあります。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 安いですが妥協はありません。
- 客室:
- 5.0
- 広くて清掃も行き届いています。
- 接客対応:
- 5.0
- すごく感じのいい接客をして頂きました。
- 風呂:
- 5.0
- ユニットバスですが、清掃が行き届いており快適でした。
- 食事・ドリンク:
- 5.0
- 大満足です!
- バリアフリー:
- 5.0
- エレベーター完備です。ロビー入口も段差はありません。
-
投稿日 2014年09月18日
-
投稿日 2014年09月26日
総合評価:5.0
これほど厳かな雰囲気を着いた瞬間に感じた場所ははじめてです。資料館の屋根は飛行訓練に使われた飛行機赤とんぼをモチーフにしたデザインになっています。展示室一階は撮影可で、有名な仔犬を抱いた少年兵の写真、当時の軍服・飛行服、海中より引き揚げらた飛行機などが、二階(撮影不可)には隊員の方々の遺書や遺品等が並んでいます。また屋外にはよろずよにの碑や、基地を作る際に犠牲になられた方の慰霊碑があります。
知覧に比べると知名度は低いですが、それは遺族の方々や施設側の意向で大きく宣伝はせず、今のまま静かな感じであって欲しいということからそうなっています。
一日中いても十分な内容があります。平和のありがたみを染み染みと感じさせる場所です。- 旅行時期
- 2014年09月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
- バリアフリー:
- 5.0
-
投稿日 2021年09月27日
総合評価:5.0
奈良時代末期にここ近江国で生まれたとされる霊仙(りょうせん)は、平安時代前期興福寺で学んだ後遣唐使として入唐した法相宗の僧であり、遣唐使の同期に空海や最澄といった著名な僧がいる。長安で学んでいる際、カシミールから来た般若三蔵が請来した〝大乗本生心地観経〟を翻訳する任に当たり、その功績から〝三蔵法師〟の称号を与えられた。
唐の時の皇帝憲宗の寵愛された霊仙であったが、仏教の秘伝が国外に持ち出されることを危惧した憲宗により、日本への帰国を禁じられる憂き目にあう。その後憲宗が反仏教徒に暗殺されると、自らも迫害を恐れて五台山に移っている。
日本からも彼の活動を応援したとされる伝承もあり、第53代淳和天皇は渤海の僧に託し資金を送っていたとされている。また返礼として仏舎利や経典を渤海の僧に託し日本に届けさせたと言われている。同時に日本に残してきた親族に対し、〝帰国できない事情〟を考慮した上で生活に困らないよう配慮を願い出たとも言われている。
遅咲きの高僧となった霊仙は、20年程唐にて修行をした後、日本の地を再び踏むことなく現地で没している。一説には彼の出世を妬んだ僧によって毒殺されたとも言われているようだ。その後苦労して唐に渡って来た第3代天台座主となる〝円仁〟が、霊仙の最後の様子を聞き、日本へと伝えている。また入唐八家と言われる円行・常暁が入唐の際には、霊仙の門人であった僧から手厚く遇され、霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて、日本に持ち帰ったと伝わっている。
出生には諸説あるようだが、この醒井の地で霊仙は生まれた説を採る同地の松尾寺住職等により〝霊仙三蔵顕彰の会〟が発足し、霊仙三蔵記念堂が松尾寺内に設けられることとなる。また米原市出身の彫刻家森大造氏に依頼し〝霊仙三蔵立像〟が作られており、そのレプリカが生誕の地とされる〝霊仙山〟の方向を向いて醒ヶ井駅前に建立されて現在に至っている。
確かに伝承の域を超えてはいない逸話ではあるが、雨雲が立ち込めている今日のような景色だと満更史実とも思える厳か感を感じる場所でもある。天候が変わればまた違う印象を受けるのかもと感じ、再訪を願った私であった。- 旅行時期
- 2021年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- JR醒ヶ井駅前にある。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときには誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 像のまわりは舗装されている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 雲が立ち込めており、厳か感が半端ではない。
-
投稿日 2021年08月27日
総合評価:5.0
湖南市菩提寺の集落にある廃少菩提寺。栗東にある金勝寺の旧称が大菩提寺であることによって名付けられたものだと伝わる。開祖の良辨上人は聖武天皇勅願を受けて少菩提寺を作ったとされているが、我が街石山のランドマーク石山寺の建立に携わったことの方が有名である。
天台宗系の寺院として戦国時代末期には、武将の争いの巻き添えとなり、織田信長の近江攻めの際に敗れた近江守護大名の六角氏が退路を確保するために道中に火を放ち逃亡の時間稼ぎをしたとされている。その際火をかけられた少菩提寺も例に漏れず全ての遺構が消失している。それに加えて湖南エリアに強く影響していた石仏信仰にも翳りが見え始めていたと言われており、煤塵と化した少菩提寺は再興されることもなく廃寺となり現在に至っている。
現在では石塔や石仏地蔵等が接近して残っているために当時の規模を知る由もないが、少し山歩きをすれば他の石仏・石塔があり、阿弥陀堂跡地には菩提禅寺が建立されていることなどから、それなりの広さがあったことが理解できよう。
また比叡山と敵対した織田信長が火を放ったとするものも散見するが、甲賀・湖南エリアに限って言えば天台宗に属してはいても反信長の立場を貫き僧兵を抱えていた大寺院以外を攻めた記録が残っていない。特に少菩提寺が消失したと伝わる元亀元(1570)年には金ヶ崎の戦いに於いて朝倉義景に織田信長が敗れた報を受け挙兵するが、野洲河原の戦いに於いて柴田勝家率いる織田軍に敗北し、その際に追撃を受けないようにとの理由から、六角勢が街道沿いの集落や寺院に火をかけたという説が理に叶っている。その後も六角勢は反信長の立場を貫くも連戦連敗では仕方がない。その結果焼失した少菩提寺は再建されることもなく廃寺となったまま現在に至っている。
廃少菩提寺跡に残る遺物の制作年代がある程度決まった時期であれば、衰退した時期も特定できるのだが、三体の地蔵尊の奥に位置する閻魔像は江戸時代の作と言われる様に廃寺になった後に建立されたものもある。この辺りをどう解釈するかは人によりけりだと思うが、自分なりの歴史解釈をしながら巡ることも一興だと私には思える場所であった。- 旅行時期
- 2021年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 石部駅から車で10分程度。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れている者はいなかった。
- バリアフリー:
- 3.0
- 舗装されていない軽登山道であった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 繁栄を極めた頃が想像できないため、違った魅力を感じる。
-
投稿日 2021年08月25日
総合評価:5.0
石山駅前のランドマークねひとつであった焼肉麗門。昨年春の緊急事態宣言を受け休業されていたが、近日閉店のお知らせが張り出されていたことを知った。
ご主人が亡くなられた後おばちゃんがひとりで切り盛りしていたが、80歳で引退を決めておられたらしく、休業中にその年齢を迎えたこともあり、再開することなく閉店することを決められたようだ。
比較的安価で美味い焼肉を食べられるお店として昭和・平成・令和に渡りお世話になったが、残念ながら今後は食すことはできなくなった。
あのごちゃごちゃした店内で食べる焼肉は格別であった。長きに渡りひとりで切り盛りしていたおばちゃんに心から〝お疲れ様〟と言いたいと思った私であった。- 旅行時期
- 2021年08月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- 一人当たり予算
- 3,000円未満
- 利用形態
- その他
- アクセス:
- 5.0
- JR琵琶湖線石山駅下車すぐ。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 高いとは思わない。
- サービス:
- 5.0
- 話が楽しい。
- 雰囲気:
- 5.0
- おばちゃんが良い雰囲気を醸し出している。
- 料理・味:
- 5.0
- 確かに美味しい。
- バリアフリー:
- 4.0
- 入口に段差がある。
- 観光客向け度:
- 5.0
- 関西圏の観光客にはうってつけ。
-
投稿日 2021年08月05日
総合評価:5.0
井伊家の物だけでなく彦根が誇るすべての美術品・芸術品が納められている彦根城博物館。中でも一番インパクトを受けたのは二回の移設を経て元の場補に復元された能舞台であった。
博物館でありながら歴史的建造物のようにつくられているために歩くと庭園や個々の部屋の役割を楽しみながら拝観することができるようになっていた。
入園料が少しお高めかも知れないが、内容はかなり充実したものとなっており割高感というものは感じなかった。
ひこにゃんの登場時間のうち1回は必ず彦根城博物館冠木門前があるので、〝出待ち〟をするのに時間が余っていたら是非とも訪れて貰いたいと思う施設であった。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根城表門券売所前。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 収納品の素晴らしさを考えれば高くはない。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- ガラガラではなかったが、混雑してもいなかった。
- 展示内容:
- 5.0
- これは本当に素晴らしいものだった。
- バリアフリー:
- 5.0
- スロープあり。
-
投稿日 2021年08月05日
総合評価:5.0
外堀を渡った所に右側にある城郭のひとつに見える物が開国記念館である。日本を開国した大老井伊直弼が桜田門外の変で斃れてから100年を迎えた昭和35(1960)年に、大老開国百年祭記念事業として再建されたものである。
明治維新の後陸軍省管轄となった彦根城は建物の一部が解体されており、佐和口多門櫓その中のひとつであった。百年祭以降も継続的に井伊直弼を〝顕彰〟する催しが続けられた後、昭和59(1984)年には一部を改造して〝彦根市民ギャラリー〟として使用されたが、建物老朽化等の問題により平成14(2002)年には閉館となっている。
その後彦根城築城400年祭で〝井伊家14代物語〟の会場となった後、平成20(2008)年10月に新たな展示室としてリニューアルオープンし現在に至っている。
失われた建物を補うという意図で作られたことに理解はできる。しかし外堀より内側の彦根城内には市道も通っており、観光客向けに再建したとしても十分その役割を果たせなかったのではないかと思える節がある。現開国記念館を見れば一目瞭然だが、城内の施設と離れていることから〝休憩所〟にしか見えず、せっかくの展示品を見て楽しむものは僅かであり、あとは一息ついている方々の休憩所となっていた。
箱物作りの失敗作のように見えてしまうが、その集められる展示品の〝価値〟で以って観光客を集める記念館となってくれることを期待する。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から歩いて15分程で到着できる。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 無料である。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 休憩している数人がいたようだ。
- 展示内容:
- 5.0
- 展示品の価値は素人の私でも良くわかるものだった。
- バリアフリー:
- 5.0
- エレベーターも完備している。
-
投稿日 2021年07月29日
総合評価:5.0
徳川四天王のひとりとされる井伊直政。徳川家康の腹心とも言える彼は家康同様今川家家臣の子供としてお互い複雑な幼少時代を送っている。家庭の事情めいたもので家康に仕えることとなり、その後の家康が出陣した戦いの先鋒として戦功を挙げて重臣となって行く。
井伊の赤備えと呼ばれるものは、長篠の戦に於いて武田方の武将山県昌景の朱色の軍装をまねたものとされているが、これは主君家康が武田氏の旧領である信濃と甲斐を治めるにあたり、武田家の旧臣たちを含めた軍勢を纏め、武田の兵法を引き継ぐという任務を直政に任せたことの一端でもある。徳川重臣の一翼を担う武将となった直政は、その後〝赤備え〟〝井伊の赤鬼〟という勇猛果敢な戦いぶりで戦功を挙げながら徳川家の中での立ち位置を上げて行くこととなった。
家康が上洛し豊臣秀吉に臣従すると、直政の武勇・政治的手腕を秀吉は高く評価している。その証拠に天正16(1588)年4月行われた聚楽第行幸の際には、昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に直政のみが任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となっている。しかし秀吉に心底付こうという考えは直政にはなかったようで、豊臣姓が下賜されたにも関わらず名乗らなかった記録が残っている。秀吉亡き後に起こった政治抗争では積極的に豊臣方の武将との交渉を引き受け、盟約を結ぶまでとなった黒田如水・長政父子をはじめ、黒田家を通じて豊臣恩顧の武将達も家康方に引き入れることに成功している。
関ケ原の戦いでは東軍の軍監として本多忠勝共々家康本陣に随行している。加えて反石田三成の京極高次、関一政、相良頼房らを西軍から東軍に与するよう取り込んだ。開戦時には霧の中先陣を争ったという説もあるが、現在ではそれは視界の利かない中での偶発的遭遇だったとする説が濃厚となっている。戦い終盤には島津隊に襲い掛かり、大将である島津義久にあと一歩までという距離まで近づいたところを狙撃され、足に大けがを負い落馬する。東軍の圧勝となった関ケ原の戦いだったが戦後処理に直政は大けがを負ったまま奔走し、同時に江戸幕府の基礎固めに尽力している。その功により石田三成の旧領近江佐和山18万石と官位従四位下が与えられることとなった。
佐和山藩主となった直政ではあったが関ケ原で負った戦傷が癒えないまま42歳で他界する。家督を継いだ井伊直継が幼少であったがために、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談し、直政の遺志を継いで慶長8(1603)年に琵琶湖に面した金亀山に彦根城の築城を開始した。
その後幾多の変遷はあったものの彦根は城下町として明治維新まで繁栄した。廃藩置県でも壊されずに残った彦根城天守閣は、第二次世界大戦の戦火も受けず江戸時代に建立されたままの姿を今に伝えている。
実際のところ井伊直政が彦根に関わったのは2年に満たない短い期間であった。しかしその後に佐和山・彦根藩主となった直勝・直孝兄弟にその思いは継がれて行き、ライフラインの整備や諸産業の活性化に努め、彦根城完成後間もない間に現在の城下町の基礎が出来上がったとされている。
駅前の井伊直政公像は像の如く〝勇敢な戦いっぷり〟で認められ、彦根が拓ける基礎を作ったとする意見によるものだと聞いた。謂れはともかく彦根駅のランドマークとして〝井伊の赤鬼〟が建立されていることからも、民衆から慕われたお殿様だったことを確信するものであった- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅前。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 像目的の者には会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 周辺も舗装してあった。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 井伊の赤鬼そのものだった。
-
投稿日 2021年07月28日
総合評価:5.0
彦根藩11代藩主井伊直中の十四男として生まれ、後に幕府大老となる井伊直弼は幼少の頃から行く末が全く分からない不遇の時期を過ごしていた場所である。埋木舎の名付けは直弼本人であり、大名家の屋敷であっても〝控え屋敷〟と呼ばれる質素なものであった。現埋木舎である尾末町御屋敷は井伊家の〝控え屋敷〟のひとつであり、直中死去後藩主となった兄直亮の下弟の直恭とともこの控え屋敷で暮らすようになった。300俵の捨扶持の部屋住みの身分だった二人だが、数年後他家への養子の話があり、兄弟そろって江戸へと向かうが、選ばれたのは弟の方であり、直弼は以前の生活へと帰るしかなかった。ただ結果として兄であり藩主であった直亮には実子がおらず、異母弟の直元を養嗣子にするが早世し唯一国元に残っていた直弼を養嗣子にする。直亮の死去を受けて彦根藩15代藩主となる。
その後の活躍は知られたものとなっているが、その下積みは15年間の〝控え屋敷〟での生活にあったと言っても過言ではない。埋木舎と屋敷を命名するにあたり、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例えて〝逆境に於ける安住の地〟とし、為すべきことが多々あるとしてこの屋敷に於いて文武両道の修練に励んでおり、苦悩と屈託の多い青春であったことが窺い知れる日記が残っている、
日米修好通商条約・安政の大獄・桜田門外の変等〝悪評〟の絶えない直弼ではあるが、一文化人としては驚くべき才能を持っていたことは周知の事実である。しかし苦労をし続けたことから〝功を急いだ〟感が強く、時代の流れに飲み込まれた人生であったようにも思う。尊王攘夷運動が活発になり始めた頃の大老職であったがためにそうなったのではと、この埋木舎と由来文を読んだ私にはそう思えたのであった。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から徒歩10分程。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 訪れたときには誰もいなかった。
- バリアフリー:
- 2.5
- 旧家なので段差はある。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 武家の屋敷には毛頭見えない…。
-
投稿日 2021年07月28日
総合評価:5.0
彦根城中濠沿いに植えられている松並木である。江戸時代に〝松の下〟と呼ばれたこの道は、藩主の参勤・着城で必ず通る場所である重要路とされており、この松を植えた二代藩主直孝公の治世には本数が47本だったことから、いろはの47文字に因んで〝いろは松〟と呼ばれるようになったと伝わっている。また人馬や車が通る場所であることから、その通行を妨げないように根が地上に張り出さない〝土佐松〟が選んで持ち込まれ植えられたとされている。
現在残る松並木は33本と言われており、樹齢は300年から30年物位のアカマツ。クロマツが植えられている。生活道路に面して植わっているために〝虫害や劣化〟に対する対策は慎重に取られており、数日後には防虫剤と防腐剤が散布される旨が記されていた。
歴史あるものは一時でできるものではないために、老木は現状維持、若木は育成と対策を考えなければならないことは大変だと思う。しかし300年後の世代が〝彦根城のいろは松〟を堪能できるようにして貰いたいとふと思わせる松並木であった。- 旅行時期
- 2021年07月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 彦根駅から徒歩8分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 時期と時間によりけりだった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 通路はアスファルト敷きになっている。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 老木も若木もそれぞれの役割を担っているように見えた。









































































































