旧国道1号線で元滋賀県道4号線から矢川橋を渡ったところにある〝天保義民メモリアルパーク〟。江戸期天保年間に各地で起こった一...
続きを読む揆の中で、唯一成功したと言われる〝近江天保一揆〟がある。天保の改革の下で各地の農地を再検地することによって幕府財政を立て直そうと老中水野忠邦が始めたもののひとつである〝検地〟がことの発端となっている。
江戸幕府開府後2世紀を経て武家の争いもなくなった世の中で、幕府役人の不正や賄賂が蔓延っていた時代に於いて、強いものには関わらず弱いものから巻き上げるなどということは当たり前となっていたようだ。元々2世紀に渡り公儀による検地が行われていなかった場所として近江国、特に湖南地区がその槍玉に挙げられている。
しかし尾張藩・彦根藩・仙台藩の領地に関してはトラブると厄介だからのくスルーし、その他検地対象地でも賄賂を贈った庄屋の村は、検地をしなかったり少なく見積もったりするなど、幕府というよりもは検地〝役人〟による〝弱い者いじめ〟に過ぎない〝公儀命令〟と化していた。使われていた検地尺は一間(1,818mm)=6尺=60寸が5尺8寸(1,757mm)と実際よりも短いものを用いていた。以前の検地では6尺2寸(187.9mm)が用いられていたため、同じ広さで測ると114%土地面積が大きくなってしまう。それでなくとも飢饉続きで生活が逼迫しているご時世にこの不公平な検地を受け入れことはできないとして起こったものが天保一揆である。この中で近江天保一揆が他の天保一揆と違う扱いを受けているのは、武力衝突がなかったことが挙げられる。この辺りの住民で庄屋になっているものは大抵佐々木氏や六角氏、またはその家来筋の末裔だった。そのような者達だったが故に学もあり、話し合いに基づいて解決を行うことに徹し、それに賛同した多くの農民達も従ったことが、武力行使をせずに検地10万日の日延べというものを勝ち取ったこともこの地ならではのことだったからと思う。
しかし一揆の主導者として裁かれるのはこの時代の法。参加者の取り調べは勿論のこと、一揆の指導的立場に立った各村の庄屋達は徹底的な拷問を受け自白を迫られる。しかし個々自分達の責任であると言い張り、他の参加者を巻き込むようなことは一切していない。
結局出頭を命じられた大津代官所で裁きを受け、中には獄死する者もいたと言う。指導者であり生きていた11名の元庄屋達は唐丸籠に乗せられ江戸へと向かう。その道中で3名が衰弱死し、残りも1名を残して獄死した。地元では〝義民〟であっても、役人からすると罪人でしかない。そんな時代であったのだろう。25年後の明治元(1868)年の大赦によって一揆関係者の罪が許されることとなり、その功績を〝近江天保義民〟として後世に語り伝える手立てが講じられてきた。
一揆後150年を迎えた平成3(1991)年10月にこの矢川橋西詰の地に天保義民メモリアルパークが当時の甲南町によって作られた。天保義民碑と言われるものは〝慰霊碑〟であり、その様子を視覚的に見る者がなかったためにレリーフ等で紹介したものという理由からこの碑が建立されたと聞く。義民の功績は歴史に疎い私でもわかることだが、ネーミングの〝メモリアルパーク〟という呼称にはしっくりこないものを感じてならない。メモリアルパークは〝記念公園〟であって〝祈念公園〟ではない。そういう観点から見ると甲賀市が観光ガイドに記載している〝天保義民の碑〟の表記の方がしっくりくるように思えてならない。
江戸時代に於ける一揆や直訴は死罪になることは〝当たり前〟のことであった。それを知りつつ自らの命を懸けた〝義民〟が生活に窮する住民達を救うために立ち上がった史実は、綺麗事として語り継がれるものではないように思えてならない私であった。
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投稿日:2021/07/04