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姫塚

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施設情報

施設名
姫塚
住所
  • 甲賀市水口町北脇
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カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 名所・史跡

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

クチコミ(1件)

甲賀 観光 満足度ランキング 44位
3.22
アクセス:
5.00
柏木公園駐車場から徒歩3分。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
人混みの少なさ:
5.00
訪れる者はいなかった。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
バリアフリー:
4.00
階段がある。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
見ごたえ:
5.00
慰霊の気持ちが伝わって来るものであった。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
  • 満足度の高いクチコミ(1件)

    関ケ原敗戦の将長束正家の正妻栄子姫の供養塔である。

    5.0

    • 旅行時期:2021/06
    • 投稿日:2024/04/30

    甲賀市水口町北脇にある姫塚は、関ケ原の戦いに於いて西軍に属し自害をして果てた長束正家の正妻栄子姫の供養塔として明治期に一族...  続きを読むの末裔の手によって建立された〝墓〟である。関ケ原の戦いに於いて徳川家康本陣後方の南宮山に陣を置いた正家であったが、徳川方に内通して動かなかった吉川広家の軍勢に阻まれ、戦いに参加することなく居城へと戻るために戦場を離脱した。なんとか水口岡山城まであと少しという場所までたどり着いたが、既に追手が城下に近付いていた。一旦は家来である松田秀宣の奮戦によって城内に入るも、敵将池田長吉に所領安堵と城兵救助の条件を出された結果開城し投稿するが、元々そんな気のなかった長吉に捕縛されている。その後隙をついて城下を脱出するも追手が迫ることに観念した正家兄弟は、近江日野にて自害して果てている。 また城下では長吉の軍勢が城内だけでなく城下に於いても略奪行為を行い、それは阿鼻叫喚の地獄絵図だったことが記録されている。その際に栄子姫も城内から逃げたまでは良いが、長吉軍の兵により辱めを受けて放置されたという。栄子姫に気づいた正家旧臣の山本浅右衛門が密かに引き取って匿った。身重の栄子姫はその後男子を産んだのであるが、産後の肥立ちが悪かった上に城下で受けた乱暴狼藉による精神的ショックもあり、まもなく亡くなっている。栄子姫を不憫に思った浅右衛門は秘密裏にその遺体を葬り、一個の石を置いて標識としその墓を慰めたとされている。その後生まれた男子は浅右衛門の下で育てられ、仏門へと入り水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き父母の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し、栄照寺と号して長束家の菩提寺としている。 この姫塚は浅右衛門が目印に置いた〝石〟の場所とされており、伝承と手繰るとここに栄子姫が眠っていることになる。しかし由来書きには核心を突いた内容は書かれてはいない。池田長吉他配下の兵による狼藉はほぼほぼ史実とされており、本多忠勝の妹である栄子姫を手にかけたと知った池田輝政は真っ青になり、慌てて証拠隠滅に奔走したとされている。その際山本浅右衛門にも〝口止め料〟が支払われたとされ、本田忠勝が妹である栄子姫のことを知った時には、すべての証拠が消された後だったと言われており、何も言うことができなかったことが記録されている。 その過程はともかく悲劇の姫君となってしまった栄子姫ではあるが、その墓とされる場所は工場の隣にありフェンスで仕切られてはいるが、背面からの写真には必ず資材が写り込んでしまう場所である。碑を建立した明治期には田圃の真ん中だったのかも知れないが、今では到底静かな場所とは程遠い立地であった。碑に手を合わせつつ静かな眠りに就いて欲しいと思ってしまった私であった。  閉じる

    たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

    by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

    甲賀 クチコミ:14件

  • 甲賀市水口町北脇にある姫塚は、関ケ原の戦いに於いて西軍に属し自害をして果てた長束正家の正妻栄子姫の供養塔として明治期に一族...  続きを読むの末裔の手によって建立された〝墓〟である。関ケ原の戦いに於いて徳川家康本陣後方の南宮山に陣を置いた正家であったが、徳川方に内通して動かなかった吉川広家の軍勢に阻まれ、戦いに参加することなく居城へと戻るために戦場を離脱した。なんとか水口岡山城まであと少しという場所までたどり着いたが、既に追手が城下に近付いていた。一旦は家来である松田秀宣の奮戦によって城内に入るも、敵将池田長吉に所領安堵と城兵救助の条件を出された結果開城し投稿するが、元々そんな気のなかった長吉に捕縛されている。その後隙をついて城下を脱出するも追手が迫ることに観念した正家兄弟は、近江日野にて自害して果てている。

    また城下では長吉の軍勢が城内だけでなく城下に於いても略奪行為を行い、それは阿鼻叫喚の地獄絵図だったことが記録されている。その際に栄子姫も城内から逃げたまでは良いが、長吉軍の兵により辱めを受けて放置されたという。栄子姫に気づいた正家旧臣の山本浅右衛門が密かに引き取って匿った。身重の栄子姫はその後男子を産んだのであるが、産後の肥立ちが悪かった上に城下で受けた乱暴狼藉による精神的ショックもあり、まもなく亡くなっている。栄子姫を不憫に思った浅右衛門は秘密裏にその遺体を葬り、一個の石を置いて標識としその墓を慰めたとされている。その後生まれた男子は浅右衛門の下で育てられ、仏門へと入り水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き父母の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し、栄照寺と号して長束家の菩提寺としている。

    この姫塚は浅右衛門が目印に置いた〝石〟の場所とされており、伝承と手繰るとここに栄子姫が眠っていることになる。しかし由来書きには核心を突いた内容は書かれてはいない。池田長吉他配下の兵による狼藉はほぼほぼ史実とされており、本多忠勝の妹である栄子姫を手にかけたと知った池田輝政は真っ青になり、慌てて証拠隠滅に奔走したとされている。その際山本浅右衛門にも〝口止め料〟が支払われたとされ、本田忠勝が妹である栄子姫のことを知った時には、すべての証拠が消された後だったと言われており、何も言うことができなかったことが記録されている。

    その過程はともかく悲劇の姫君となってしまった栄子姫ではあるが、その墓とされる場所は工場の隣にありフェンスで仕切られてはいるが、背面からの写真には必ず資材が写り込んでしまう場所である。碑を建立した明治期には田圃の真ん中だったのかも知れないが、今では到底静かな場所とは程遠い立地であった。碑に手を合わせつつ静かな眠りに就いて欲しいと思ってしまった私であった。  閉じる

    投稿日:2021/07/04

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