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天保義民碑

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人のため 身は罪とがに 近江路と 別れて急ぐ 死出の旅立ち~土川平兵衛~

  • 5.0
  • 旅行時期:2021/06(約5年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

野洲・竜王 クチコミ:13件

老中水野忠邦の下天保の改革が断行された天保年間。前半には飢饉が起こり多くの民衆が亡くなった。贅沢を禁じつつも幕府の財政は、農村部の米の育ちが思わしくなく悪化の一途をたどっていたと言われている。

大阪では飢饉による米不足の中更なる利を求め米買占めを行う商人や、民衆の窮状を省みない役人に反発し救民を訴えた役人大塩平八郎の乱が起こるなど、一触即発の状況が続いていた。米どころのひとつとして知られた近江国、中でも湖南エリアは〝米の名産地〟としても知られている場所であった。天保12(1841)年には第12代将軍徳川家慶によって幕府財政の根幹である年貢増の抜本策として〝検地〟による幕府年貢収入増加を目指す命令が出て、幕府勘定方市野茂三郎が検地役として湖南の地にやって来た。

老中は〝贅沢〟を禁じ、将軍は正当な〝幕府年貢米の確保〟をそれぞれ検地の目的とした。しかし市野のやったことは〝賄賂集め〟と〝えこひいき〟であった。譜代藩や賄賂を贈った村は素通りし、まともに検地を受け入れた村々は、実際より短い長さの竿を用い石高を増やし続けた。データによると従来の石高が1.5倍となるような数値が当たり前のように〝検地帳〟につけられていったと言われている。それでなくとも農民達の食べる〝米〟すらない状況下では、増税が即ち〝死〟を意味した。

そのような役人の暴挙に各村の庄屋達が話し合いを開く。その結果が〝検地を止めさせる〟ためとした〝近江天保一揆〟となる。現甲賀市の矢合神社に集まった農民は約2万人。蜂起が目的ではないために武器は勿論代わりとなる鋤や鍬なども一切携行してはいない。道中水口藩領内に於いて血気に逸らないことを一揆主導者から求められていたにもかかわらず、検地に協力した庄屋宅への打ち壊しが行われている。それに対し水口藩は一揆勢を抑止説得するため、役人を派遣するものの多くの役人は多勢に無勢な上に一揆勢に同情的だった者も多く、素通りさせた上に城下に於ける〝炊き出し〟も行われている。野洲・栗太・甲賀各郡の一揆勢は三上村の河原で合流した後野洲河原へと結集し、見分役人の本陣を取り囲んだとされている。ことの発端となった市野茂三郎本人は、三上村農民の手助けを受けて三上山の洞窟に潜み、騒ぎが終わることを待っていたという。一揆勢には三上藩郡奉行平野八右衛門と地方役人大谷治之助らが対応し、群衆からの申し出であった〝請文さえ頂ければそれで良い〟とのことに対し捺印した請文を渡している。その後平野八右衛門の渡した請文の〝見分見合わせる〟との内容が曖昧だということと〝見分役人衆の署名捺印も願う〟との申し入れがあり、大谷治之助が対応した〝今度野洲川廻村々新開場見分之義ニ付願筋も之有候間十萬日之間日延之義相願候趣承届候事〟の請文を手渡し、周知徹底のため障子に〝今日から十万日の日延べ〟大書きして一揆勢に示すと〝有難き事候〟と了承し、三上陣屋に一礼をした後に引き上げて行った。

一揆勢に太刀打ちできなかった市野ら一行は、一揆勢が引いた後に陣屋に戻りすぐに大津を経て京都町奉行所に辿り着いた。そこで進退伺を立てた市野らは漸く江戸より帰府を命じられ帰途に着いたとされている。その際大津への退去時に栗太郡に駐屯していた膳所藩警備隊に大津代官所手代が助力を要請したと言われているが、幕府から叩かれ続けていた藩主本多家の意向により拒絶されている。

一揆は成功したがその後面子を潰された幕府は、驚愕すると同時に威信回復のため、一揆に加わった者たちの取り調べを開始し、それは峻烈を極めたものであったという。拷問などによって〝一揆指導者の名前〟を挙げさせようとするも、口を開かず拷問に耐え死んでいった者も多くいたという。入牢者に対する拷問の凄まじさは獄舎から聞こえる呻きや尋問だけで終わった召喚者の話から伝わったとされ、関係各村の神社では除災安全の祈願や捕縛者延命の祈りが捧げられ続けたと言われている。また一揆の〝開始の地〟でもある水口藩では、藩領関係者の除災を7日間に亘り天台宗美松山南照寺で祈祷が行われたことを記録している。また第120代仁孝天皇は自身も近江の湖東湖南域に領地を持つ宮門跡や公卿から一揆及びその後の状況を聞いていたとされており、凄惨な拷問の事情を憂慮し比叡山延暦寺に下命され安全祈祷の護摩修法を厳修させている。

大津代官所での拷問責めの結果11名が江戸送りとなった。一揆発頭人の〝罪名〟を付けられた土川平兵衛は石部宿に於いて唐丸籠内で手を縄で結ばれたまま家族と出会う。他の〝囚人〟と言われた者達と同様に、風呂も入れず過酷な拷問の結果辛うじて生きているだけであり、誰が誰なのかが判別できないほどだったと伝えられている。ここで土川平兵衛が親族に残した辞世の歌が〝人のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち〟であり、その歌は今なお近江天保義民を語るに欠かせない言葉として〝石碑〟に刻まれ、その偉業を伝えている。

三上山裏登山口入口部付近に保民祠(平兵衛神社)、や天保義民碑、天保の熱(ほとおり)という解説板や天保義民碑と保民祠の由来の解説板などが設置されている。また江戸送りとなった土川平兵衛が石部宿で親類に当てた辞世の句〝のため 身は罪咎に 近江路を 別れて急ぐ 死での旅立ち〟が刻まれた碑が建つ一揆150年記念で埋納されたタイムカプセルもあり、こちらは一揆200年の2042年に開けられるものとなっている。江戸時代には〝人間に非ざる〟とされた義民達であったが、明治元(1868)年9月8の〝大赦〟によって一揆関係者の罪が許され、天保義民と称されるようになった。昼でも薄暗い場所にある天保義民碑他一揆関係の慰霊碑は、休憩や登山に車で訪れる者達の駐車場脇にある。普段は静かな場所なのであろうが、時代の流れに飲まれた偉人の御霊が安らかに眠れと言わんばかりの厳か感が漂う場所であった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
野洲駅から車で10分程度。
人混みの少なさ:
5.0
碑を訪れる者は少ないが、登山帰りの駐車場利用者はいた。
バリアフリー:
5.0
天保義民碑周辺を除く。
見ごたえ:
5.0
新しいもの古いものとも偉人の功績を伝えるものとなっている。

クチコミ投稿日:2021/07/17

いいね!:8

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