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虎御前山 施設情報・クチコミに戻る

虎御前の悲話が由来となっている。

  • 5.0
  • 旅行時期:2021/03(約3年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

浅井・湖北・高月 クチコミ:3件

桜の名所として知られる虎御前山。武家時代には大きなふたつの戦場となったことでも知られている。

南北朝時代室町幕府に於いて二頭政治を行っていた足利尊氏とその弟直義。南朝をバックにする尊氏と、北朝バックの直義。その二人の不和が原因となり観応2(1351)年夏に両者が争った八相山合戦が起こった。敗れた直義は敦賀へと逃亡し、翌年降伏するが直後に謎の死を遂げている。そして2世紀後姉川の戦いに敗れた浅井久政・長政父子は本拠地小谷城に籠城し織田信長を牽制した。信長包囲網とされる足利義昭や武田信玄、石山本願寺の動きも信長の動きに影響を与えており、すぐには合戦とはならなかったものの浅井氏、同盟を組んだ朝倉氏共々重臣の寝返りが相次ぎ、こちらも決め手に欠いていた。そんな中遂に自ら軍勢を率いて動いた朝倉義景ではあったが、こちらも戦意は低く負け戦を続けた結果一乗谷の戦いにて滅亡することとなる。後ろ盾を失った浅井氏にはもはや打つ術がなく、小谷城の戦いによって亮政に始まった浅井氏は3代で滅びることとなる。この際長政の正妻であった信長の妹〝お市の方〟と〝浅井三姉妹〟が城兵の手によって救い出されたことは有名なことである。

この小谷城包囲網の砦とした場所が虎御前山であり、特にこの南尾根を八相山と言う。織田信長・木下秀吉・堀秀政・柴田勝家・滝川一益と言った主力部隊は北尾根に、南尾根には丹羽長秀・蜂屋頼隆・多賀貞能が後詰めとして陣取っている。山頂から小谷城までは直線で2.5km程の距離しかなく、見晴らしの良い小谷城から信長の大軍を見た浅井久政・長政父子の恐怖や絶望感が今でも伝わって来るような場所となっている。

戦場となる前には長尾山と称するものだったらしく、その麓桃酢谷の井筒に住んでいた〝お虎〟という美女が住んでいたという。彼女が道に迷って難儀していたところを土地の水利に尽力した世々開(せせらぎ)という名の長者に助けられた。それが縁で二人は夫婦になり一緒に住むようになった。そして〝虎御前〟と言われ、ますます美しさを増して行ったのだが、やがて儲けた15人の子供が全て〝顔以外すべてウロコにおおわれた子蛇〟だった。そのことを嘆いた虎御前は悲しさのあまり女性ヶ淵(みせがふち)に身を投げて命を絶ってしまう。その後育った子供たちは成人する頃には人間と同じ容姿となり、近隣の村々を治めることとなった。子供達が善政を行った村々ではその母親であった虎御前を忘れぬよう、長尾山をいつしか虎御前山と呼ぶようになったという伝説が残っている。

現実でも伝説でもいずれにせよハッピーエンドとはならなかった虎御前山ではあるが、景色だけではなく山中の散策でも歴史を感じられる場所であった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
虎姫駅から徒歩15分。
景観:
5.0
高さはないが眺望は素晴らしい。
人混みの少なさ:
5.0
数組の観光客とは出会ったが空いていた。
バリアフリー:
4.0
途中までは車でも登れるようにはなっている。

クチコミ投稿日:2021/05/01

いいね!:8

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